はてなキーワード: 車輪とは
目的地に到着する頃にはお昼だろうなと思いながら
思い出したことがあった。
大抵、この時間帯に座席に座ってる人は
時折鼻をすする音が線路を噛む車輪の悲鳴に紛れて聞こえてくる。
そんな中、私の前に座っていた女性は珍しく生きていた。
私よりお姉さんだと察した。
気になるが、画面を盗み見するのは良心が痛む。
何とか意識の外に追いやろうと、嫁のはてぶを弄ってると
終着駅が近づいてきた。そして路線を切り替える大きなゆれ。
思わずよろけると、足元を小突く音がして、彼女に謝ると彼女も頭を下げた拍子に
LINEで知人と話してればよかったのか。
縦に拘ったと開発者が話してたのを思い出した。
そう声をかけられる接点もあったのだが。
如何せん思い出すのが遅すぎた。
仕事したくない。
自分が生まれる前に、大叔父さんが飛び込んだという踏切は自宅と国道を結んだ道の間にある。
昔は母から、遠回りの架線橋を渡るように口を酸っぱくして言われてきたけれども、
大学に入った頃から、いつしか守らなくなって長い時間が過ぎた。今日もまた、同じ踏切を通った。
小雨が降っていつもより闇が立ちこめた夜に、踏切はよく目立つ。
目を離せば田んぼにつっこみそうになる周りにはろくすっぽ街灯はないのに、
踏切はちょっとした窪地になっていて、ブレーキを掴んでいないと勝手に自転車が前に滑り出す。
自転車のサドルから雨粒を適当に払って腰掛けたお尻の冷たい感覚が今になって忍び寄ってきた。
じれったさを感じながらしばし待っていると、貨物列車の聞いただけでわかる重苦しい車輪音が近づいてきた。
手を伸ばせば届きそうな近さを猛スピードで貨物列車は駆け抜ける。
コンテナを積んだ客車と積んでない客車が交互に通り過ぎ、それだけで息苦しかった。
ふと、この右手のブレーキを緩めたらどうなるのか想像してみた。車輪は軽く遮断機を押し、そして客車に触れるだろう。
タイミングがうまく合えば、ちょうど客車と客車の隙間に挟まるかもしれない。
時かけだったら、綺麗に身体を投げ出されていただろうけど、この場合だったら、自転車ごと身体をどこまでも引きずられて、
半身が擂り身になるのかな。バイク事故で傷を負った知人の裸身を思い出した。
遮断機もなかった時代、大叔父さんはどんな飛び込み方をしたんだろうか。恐る恐る?思い切って?
どうにも実感が掴めなくて、戸惑うと、じゃあ試してみる?と自分じゃない自分が囁いた。
支える左足も掴む右手もおっくうだから全部離して、そのまま進んじゃえば?
...目の前が急に明るくなってはっとなって顔を上げるとトラックが反対側に止まったところだった。
踏切の警告音はいつのまにか止んでいた。自転車を降りて、自転車を道端に寄せてトラックをやり過ごした。
自転車にまたがる気持ちになれなくて、押して帰った。
月並みな言葉になるけれど、自分をどうにかできるのは自分だけってことなんだろうね。
これはたぶん投薬を受けても同じなんだろうな、と思ってる。
投薬を受けたところで神経伝達物質の取り込みが多少阻害されたり向上したりするだけなので、自分の考え方や悩みが消えてなくなるわけじゃないしね(元増田はバイオ系っぽいからたぶん詳しいだろう)
これまた月並みな言葉になる(そして私自身実践し切れていないところなんだけど)けれど、自分の不安や不満の中身を詳しく見ていって、自分に正直に生きることが全てだと思うよ。
それで具体的な行動にまで次の一歩を細分化していく。それで解決すれば万々歳だし、どうにもならないなら悩んでも仕方がない。
あと、これはあくまで私の場合が、っていう話だけど
私は趣味を大事にしたいからこそ、社会生活を頑張りたいと考えている。
金銭的にどうこうって言うより心理的なもので、現実の社会生活からの逃避で趣味に取り組んでも、いいものは作れないと思うから。
その両立の手のひとつが「趣味を仕事にする」ということだと思う。でも趣味以外に仕事を持つと、仕事がいやになったときは趣味が心の助けになるし、趣味がめんどうになったら仕事に打ち込める。
私は大学出て働いた後、大学院で言語学を勉強しているしがない学生で未婚の負け犬であるが
彼女は高卒で地元のヤンキー崩れの土木系職人と結婚し、今年幼稚園に入った娘がいる。
私には子持ちのママの世界はわからないので、彼女がいろいろとレクチャーしてくれる。
「私もダンナも英語しゃべれないからさ、娘には苦労させたくないと思って…
早くから始めると発音とか本物が身に付くっていうしさ、いま○○(某アニメ)の英語ビデオ毎日みてるよ!」と友人は熱く語る。
なんでも幼稚園の他に早期英語教育の通信教育(なんか毎月来るやつ)を頼んでいるとのこと。
英語が話せることの便利さやメリットはもちろんあるし、英語が多少でも話せてよかった!と思う機会は多い。
海外旅行に行けばなおさら。論文だって英語が出来ないと話にならない。
でも、それと早期英語教育って別もんだとおもうんだよねー。なんでわかんないのかな。
幼稚園の英語学習って言ってもインターじゃなく、地元の園が英会話講師を週に何回か呼ぶだけ。
しかも聞いてると初級の英語教育を専門としてるような人じゃなく、ネイティブだから英会話講師
みたいな某のばレベルの講師ぽい(推測でしかないが、絶対専門家ではない)
自宅でやってる通信教育?フラッシュカード?も聞くだけで発話ゼロ。
子どもが教材を模倣して'What's this?'とか言い始めても無言でニヤニヤなんだろうな。。。
でも、子どもにしてみれば発話してコミュニケーションが成立しなければ、それ言語習得に至らないよ。
聞く、模倣して話す、コミュニケーション、聞く、話す…っていうのが自転車の車輪のように回っていって
初めて話せる言語として習得出来るもんだと思うんだ。
会話もないのに聞くだけで話せるって手品かよ。
生活厳しいのにそういう早期教育にはお金をかけてるから(というかカネをドブに捨てている)
今後英語が出来る事に期待してるんだと推察する。
でも、そんなんで英語でコミュニケーションをすることは到底不可能だと思うんだ…
「あれだけお金使って英語を習わせたのに出来ないなんて!」ってブチ切れそうでこわい。
ちまたに溢れる早期英語教育ってよく通販にあるなんたらペンダントをしたらギャンブルで勝った!女に苦労しない!
とかそういうレベルだと思う。
仕事術って、「こう考えよう」とか「クリエイティブを意識しよう」とか、精神論というか抽象的な心構えみたいなのを語るものが多い気がします。
しかし、ビジネスっていうのは基本的に、具体的な成果をいかに効率よく出せるかが勝負です。「仕事を楽しもう」なんて生暖かいこと言うのもいいですが、子どもがいるような家庭では特にそんなこと言ってられないのが普通なんじゃないでしょうか。
実際、べつに特別なことでもなんでもありませんし、自己啓発書とかビジネス書に書いてあるようなことかもしれませんが、生産性上げるために私が意識してることを書きます。
「これができたら達成。できなかったら失敗」というように、具体的な達成条件を決めて仕事をしよう。勿論、そのためには具体的な目標も必要。
仕事の達成条件を決めるとき、成果を評価するのは誰なのかを考えよう。顧客なのか、取引先なのか、上司なのか、市場なのか。誰からも高い評価を得られるような仕事は素晴らしいけど、基本的にリーチを広げ過ぎると収集がつかなくなる。絞ったほうがいい。
せっかく時間と労力をかけて、達成条件を満たした仕事を仕上げても、駄目出しを食らってやり直さないといけなくなるときがある。予め駄目を出しそうな人を見つけて、簡単な大枠を伝えて確認をとるほうが、無駄な差し戻しがなくなってベター。
作業の進捗具合をチェックするのは重要。具体的な目標と、それに関する具体的な達成条件が決まっているなら、そこにたどり着くまでにあと、なにが、どれくらい足りないのか、埋めるためにはどうすればいいのかを把握するのは簡単だ。30分とか1時間ごとに、作業の進捗具合をチェックする癖をつけよう。
時間と労力をかけて車輪の再発明をするくらいなら、余所から車輪をパクってきたほうが速くて効果的なことのほうが多い。似たような先例を探すなり、過去に自分がやったもので流用できそうなものがないか調べよう。
ぜんぶを完璧にしようとすれば、キリがない。「まだ完成じゃない」「なんか違う気がする」と言い続けてると仕事が終わらない。時には「ここは捨てよう」という諦めも肝心。100点の答案を追求して提出期限が切れるより、75点の答案を期限内に提出するほうが絶対にいい。
難しい課題はなかなかやる気が起きない。軽い仕事をこなしてやる気が降りてくるのを待つくらいなら、「30秒だけ」と決めて少しでもいいから手をつけよう。30秒の間にちょっとでも仕事が進んじゃうと「中途半端だから最後までやっちゃおう」という気が起きるので、それを利用して一気に片付ける。
http://anond.hatelabo.jp/20120907151136
急に杏さやが来たので
常々思うんだが、生きる目的だとか、生まれてきた意味だとか、そんなものは自分の人生を縛る枷にしかならない。
その点、魔法少女まどか☆マギカに出てくる魔法少女はみんな自分に枷をはめたがる。
見滝原を守る愛と勇気の魔法少女になる、父親の教えを広めて人々を救う、正義の魔法少女として彼や人々を守る、絶望から救い出し守る、側に立ち力となる、救世を成す、全ての魔法少女を絶望から救う、だとか。
みんな願いに対応して自分自身を意味付けしてしまって、結果どんどん何も見えなくなって、ドツボにはまって・・・どうしようもない。
どいつもこいつも、どうしようもないバカタレだ。
頑固で、思い込みが激しくて、意地っ張りで、
だから、見返りなんていらないと言って、強がって、意固地になって、どうしようもなくなってしまった。
自分で自分を枷にはめて、それで身動きがとれなくなってしまった。
本当にバカで、でも真っ直ぐで、気高い。純真な子だった。
ならば、佐倉杏子はどうか。
あの子もどうしようもなくなったが、それを踏み越えて今を生きていた。
枷に縛られず、枷を外して、自分勝手に奔放に生きていた。
けれども実際はどうだろう。あの子は最初からさやかが気になって仕方がなかった。
かつての自分自身をあの子に見出して、自責や憧れがないまぜになっているように見えた。
結局、自分勝手な魔法少女っていう新しい枷を作っていただけで、元の気持ちは残っていたんじゃないだろうか。
俺は、生きる目的だとか、生まれてきた意味だとか、そういうものが大嫌いだ。
そんなものクソみてえな選民思想だ。どうしようもないクソッタレだ。
きっと、それで杏子に強く惹かれたんだ。でも、同時に歯がゆさも感じていた。
まいあがっちゃうような全能感を覚えている。だから、それに対する憧れも理解できてしまう。
それでも、それだけじゃダメだ。どっちかじゃなくて、どっちもなんだ。
二人で一つ、軸でつながれた車輪は前へと進んでいく。
それこそが杏さや、俺の輝ける星なんだ!
そこまでルサンチマン溜められるのなら、それはもう一つの才能だよ。
だから芸術活動するなり執筆するなり、何らかの形で創造力に変えていけばいいんでないでしょうか。
「似たような人いないかな」なんて言ってるうちは甘くないか?多分、あなたは何らかの形でマイノリティなんだよ。
自分の生き方を貫けよ。こないだ逝去したジョブズの名言にも「絵に描いたような明るく楽しい青春?間抜けのから騒ぎだ。」ってのがあるじゃない。
そのその無駄なプライドとルサンチマンを原動力に「普通のヤツらの上を行け」(ポール・グレアム)よ。
もっとも、車輪はずれて自爆するか、大成功するか、ギャンブルないばらの道かもしれないが。
文面からすると、あなたは女性かもしれない。だったら酷な話だろう。
でもじつは、あなたから恋人と多くは無い友人を除外したらそのまま僕なんだ。だから自分への鼓舞っていう意図もあるわけで、キツイ口調も許してほしい。
は、大げさだけど。
おれはポスドク崩れ無職童貞、頭も顔も、性格も悪い。増田にはときどき原発がらみの記事をポストしているが、いっぱいブックマークがついたことはない。その程度の人間。
つれづれなるままにtwitterで原発デマの流れをチラ見していたら、甥が通っている都内の小学校の放射線測定結果なるものを見つけてしまった。
野次馬的興味を持って眺めてみたが、測定値以前に有効数字がおかしい(空間線量率0.102μSv/hなんて書いてある)。そもそも、ガイガーカウンターで空間線量率はかって他と比較できるようなデータが取れるのか。
その他、車輪の再発見的なマイ定義や、考察の突っ込みどころが多すぎて全身が痒くなった。除洗(水ぶきしただけ)したらベータ線が増えたとかおかしいだろ。それ全部測定誤差だよ。
・1990年刊。直訳すれば「豊かさのてこ」だが、内容を勘案して邦訳するなら「技術革新の文明史」かな。日本にはあまり紹介されていないが、著者は経済史分野では世界的に著名な研究者。「THE LEVER OF RICHES」はその代表作で、世界経済史に対する独自の解釈と、包括的なサーベイとしてのまとまりのよさを両立させている名著だ。
・「なぜ近代の技術革新が西洋(特にイギリス)で起こって、他の国々ではなかったのか」がテーマ。この問題を解明するためにまずは過去2500年分の人類の文明史を振り返って検討する。次に、このテーマについて検討する。
・西洋世界の勃興に関しては、様々な人が様々な観点から評論しているが、本書では技術革新というファクターを重視する。なぜならば経済学の研究がしめすように、技術革新こそが経済成長の主たる要因であったからだ。イノベーションは、労働や資本などの具体的な資源制約とは無関係に人々の富を拡大させる「フリーランチ」なのである。
・古代(B.C.500~A.D.500)。ローマ、ギリシャ、ヘレニズム文化の時には革新的な発明はあった。たとえば紀元前に活躍したアレクサンドリアのヘロンは今でいう蒸気機関や自動ドア、自動販売機に近い装置を発明して、オーパーツとすら言われている。しかし、そうした発明の多くは未発達のままにとどまったか、破壊されたか、忘れられた。ローマ人は高度な文明をもっていたと言われるが、その技術はかなり未発達で、革新速度も遅かった。
・中世(A.D.500~1150)。農業面での革新は、農業効率を向上させる重すきと三圃制。エネルギー利用も多様化し、水車や風車も工具の研磨やビール醸造や皮のなめし用などいろんな分野で使われた。11世紀の南イギリスには、50世帯にだいたい1つは水車があったというから驚きだ。馬や船はそれまで戦争の道具としてつかわれていたが、商業目的にも利用されるようになった。そのため蹄などの馬具の改良や積載能力の向上が図られた。
・紙は西暦100年頃に中国で生み出され、イスラム社会には8世紀頃に到来し、西洋にはそのあとに伝わった。時計や冶金などの金属加工技術も、東洋→西洋への技術移転の流れだった。この頃は自らがあみ出した技術というよりも、ローマ期の技術の遺産か、東洋の技術を拝借したもも多かった。ヨーロッパ世界はそうして先進技術を異文明から柔軟に吸収し、それを自己流に応用していた。ヨーロッパの中世は停滞といわれるが、実はその後の技術発展に向けた種まきがされていた時代でもあった。
・近世(1500~1750)。ヨーロッパの技術レベルはだいたい1500年頃に中国など東洋文明圏に追いついた。その後、中国などとの差を徐々に広げていった。この時期のヨーロッパは、若干の航海術の発展と、トマトやポテトなど新たな作物の導入などぐらいで大きな技術革新はなかったが、人々の間で技術進歩の可能性を信じ始めた時代でもあった。(※言っておくとグーテンベルクの活版印刷(1450年)なんかは世界史的にみると革新的ではないから。紙への印刷(木版)は7世紀には中国で始まっていた)
・近世期は技術的ブレークスルーというよりも国民国家の発達が、その後の近代技術革新を準備したことの方が大きかったかもしれない。たとえば今でも有名なリヨンにおけるシルク産業の発展はもともと、ルイ11世がイタリアの専門職をそこに住まわせたことに端を発する。このように各国のトップは次々と、産業振興策を打ち出した。他国から有能な専門職人材を呼び寄せるだけでなく、新しい技術を奨励するため補助金を与えて開発を促し、寡占を奨励した。また特許権の制定もこのころなされた。たとえばイタリアのベニスでは16世紀には特許権がある程度は普及していたと言われる。もちろん、こんな”民間活力”をいかした技術進歩の奨励なんかは、イスラム社会や中国社会では到底考えられないことだった。
・近代(1750~1830)。そんな下敷きをすでにひいていたから、この頃、次々と新たな技術が実用化されたのは自然な流れだった。むしろ、この頃には、まったくのゼロから生まれた技術なんて何一つなかったと言っても言い過ぎではないかもしれない。たとえば、ワットが蒸気機関の発明にはたした役割はせいぜいコスト低減や耐久性向上などの実用的な貢献であって、蒸気機関の元アイデア自体は17世紀ヨーロッパにすでに存在していた。ただ、そうした数々の新技術の卵が社会全体に広まったことに大きな違いがあった。繊維産業で言えば、教科書でも取り上げられているような数々の綿加工技術の機械化による生産性向上はめざましく、イギリスにおける綿布の値段は1780~1850年の間になんと85%もダウンしたという。
・蒸気機関の発展・普及によってその後から熱力学が生まれたようにその頃の技術とは、科学的知見を基礎としたものではなくて、もっぱら経験的にもとづいて進められたものであった。1850年より前は、科学と技術は別の存在だったと言ってよい。1850年以降、科学や数学、物理学が技術分野に本格的に応用され始めた。
・技術革新自体はランダムとも言える現象で、特定の新技術がなぜ他でもない西欧でおこったかを具体的に説明するのは難しいが、どんな条件が西洋近代の飛躍的革新を可能にしたかを検討するのは意味のあることだろう。もちろん「必要は発明の母」なんて諺を持ち出す気はない。当然、革新的技術のニーズはいつでもどこでもあるのであって、要はそのニーズを発明によって掬い上げ、実用技術として広めるのに、何が効いていたのか、である。
・「化石燃料資源の豊富さや、地理的要因」に西欧世界の勃興を求める「環境決定論」はナンセンスだ。たとえば北ヨーロッパはよく雨がふるから水車の技術が発達したという意見がある。しかし、これではなぜ水車がイギリスでよく普及したのにアイルランドではまったく普及しなかったかを説明することはできない。同じようにイギリス国内にあった豊富な石炭資源が産業革命を可能にしたという意見がある。しかし、そもそも石炭資源を上手に利用出来るようになったこと自体が技術革新の果実ではなかったか。この説明は物事の原因と結果を取り違えている。木炭資源の枯渇による価格上昇がイギリスでの石炭利用の革新をもたらしたという議論もある。しかし、木炭から石炭への代替自体は16世紀からすでに模索されており、部分的に成功をおさめていた事実を無視している。第一、その頃の中国だって森林資源は枯渇していたのに石炭利用は19世紀になっても進まなかったではないか。
・「産業革命前の科学技術の発展」を求める意見もある。しかし、前もいった通り(真理や総合的把握を求める)サイエンスと(実用を求める)技術は1850年以前にはほとんど別々のものだった。たとえば製鉄法や食料保存法などの技術は人々がその仕組みを把握するずっと前から使用されていた。発明家に科学の知識はなく、科学者は実用の世界に降りてこなかった。両者の融合が始まったのは1850年ごろからだ。たとえばトマスエジソンは科学的知識がなかったため、自己のインスピレーションを補強するために数学者を雇った。
・むしろ重要なのは、新技術にたいする政治や社会の寛容さ。人々が技術進歩に向けて継続的に取り組めることを社会が担保できているかどうかにある。この意味において、専政的政治制度よりも多元主義的なものの方が好ましい。ダグラスノースの言う所有権の制定も、この意味では一面の真理がある。
・中国と西欧を比較した場合、その差は際立つ。それは、中世まで技術リーダーだった中国が近世になって急速に停滞した理由を説明する。中国はもともと”one-party state”で、技術進歩は漢の時代からほとんど”お上”主導で行われていた。宗の頃は農民の創意工夫活動を促すための金融インセンティブも行われていた。しかしこうした活動は近世頃から弱まっていき、清の時代になってからは中国政府は技術の進歩につながるような政策(度量衡の基準化、商業法、警察、道路)をとりやめてしまった。一方で社会的にも明(14c~17c)代からとくに中央集権的要素を強めていき、多様な民の活力はますます脇に追いやられた。このために中国の歴史には、新たな技術が十分に伝播しなかった例で溢れている。たとえば複数の車輪を搭載した紡ぎ車はカラムシ繊維産業では見られても、それが綿産業に伝播することはなかった。社会構造の上部に官僚があり続けたこともまずかった。成功して裕福になった実業家はだいたい子供を官僚機構に入れたがり、天才やエリートが(一般的にコンサバな立場を好む)官僚機構に吸い込まれていった。
・これに対して欧州はちがった。前述のとおりヨーロッパの技術開発は民間が主であって、政府は従であった。第一、(言語や宗教、生活様式や歴史などいろんな意味で共通点があるにも関わらず)複数の国家が乱立し中国のような中央集権ではなかった。それぞれの国が富を張り合っていたから、結果的に技術の世界でも競争が促された。人の移動も頻繁だった。だから技術の才ある人は、彼の国で抑圧的な政策が取られたら、別の国に移るだけでよく、西欧全体で見たら一つの技術は断絶せずに繋がりを維持することができた。こうした好条件にある社会は西欧を除いて他はなかった。まさしく、世界の技術リーダーになるべくしてなったと言えよう。
http://twitter.com/#!/zaway/status/66580272551968769
大学時代、研究室史上最高のプログラミング実力者と言われ、就職後も有能な技術者として褒めそやされるものだろうと考えていた。
しかし、現実はそう甘くなかった。私の職業技術者としての実力は、せいぜい同期のド素人よりはましといった程度だった。
何故こんなことになったのかというと、答えは簡単で、私は、私自身の作ったものか、私個人が気に入ったライブラリ、ルーチンしか使えないような人間だった。開発現場とは、何かを作る場所というよりは、組み立てる場所で、私にはその能力が致命的に欠けていた。
思い返せば、私は確かにライブラリを使ったことが少ない。ライブラリが出回っている分野でも、わざわざフルスクラッチで組み上げるなんてことをよくしていた。私は、多くの技術者が触れられない部分にまで触れられる自分の実力に多少の優越感を持ったものだったが、何のことはない、ただ他者の作った車輪を使いこなせず、同じ成果を得るために、二倍も三倍も時間をかけて、わざわざ不恰好な車輪から作り直していただけだった。
俺が前に書いた表題の床屋談義について(http://anond.hatelabo.jp/20100923234530)。
暇なはてな民の方々からそこそこ意見が寄せられてきたのでここらでみんなの意見を踏まえつつ再論する。人によってはSFという言葉に過剰反応したり、「SFロボットアニメ」の定義がわかんねえよとの声があったが、語義を巡る議論に深入りするのは主眼ではない。ここでは差し当たって「巨大なロボットとそれを指揮するキャラクターが物語の中心となる近未来アニメ」という意味として便宜的に使わせて頂くのを許して欲しい。近所のレンタルビデオ屋にある「SFロボ」のコーナーはこれで並んでおり、一般的な認識ともそう離れてないと思う。(これだとたとえば、「鉄腕アトム」や「攻殻機動隊」は近未来だけどOUTとなる、一方で「パトレーバー」はINとなる。)
で、上記のように定義づけると、「トランスフォーマー」のように「テレビくん」で販促しているようなキッズ向け作品に関しては好調なものはあるものの、従来の大きな柱であった「アニメージュ」で取り上げるようなティーンネイジャー以上をターゲットにしている部類では、陳腐化は間違いない。
たとえば最も有名なタイトルであるガンダムシリーズは、作品数の減少が顕著だ。90年代には「V」から「∀」まで5つのテレビシリーズ(加えて複数のOVA、映画)がリリースされた。しかし、00年代に入ると、テレビシリーズの新タイトルは「SEED」(続編含む)、「00」の2つだけだ。
ガンダム以外にも、90年代には「エヴァンゲリオン」「機動戦艦ナデシコ」など今も語り継がれる新タイトルのヒットがあった。今冷静になって振り返るとこれロボット出す必要あんのか、という作品までロボットが登場していた。具体的には、「神無月の巫女」や「エスカフローネ」、「サクラ大戦」(これはアニメというよりメディアミックス作品だが)などだ。00年前後までは「ロボット」は登場人物を引き立たせる定番の構成要素だったと言っていいかもしれない。
しかし00年代にはいって、男の存在を抹消した萌えアニメの隆盛と入れ違うようにしてSFロボットアニメのプレゼンスが消えていった。中でも象徴的な出来事は07年の「グレンラガン」だった。久しぶりにガイナックスが制作するSFロボットアニメで、内容的な出来も(個人的には)期待を裏切らないものだったが、その影響力は同時期に放送していた「らき☆すた」の方が完全に上回っていた。「エウレカセブン」や「創聖のアクエリオン」は、事前プロモーションやメディアミックスで力をいれていたものの、作品としてはことごとくコケた。この2作品が今でも人々の記憶に残っている理由は、アニメの成功ゆえではなくパチンコで行きを吹き返したおかげだ。
結局、世紀が変わった当たりからSFロボットアニメは定番タイトルの続編が少なく新タイトルもろくなヒットが出てこなかった、ということになる。
はてな民からのコメントに、「企業が興味を示さなくなったから」というのがあったが、これは結果と原因を取り違えている。企業側の主導で消費のトレンドを作るのは電気製品などではよくあるが、アニメのトレンドは消費者が主で企業が従、がこれまでの流れだった。重要なのはなぜ消費者が興味を示さなくなったかだ。
それは「21世紀の現代に適応できた新しいSFロボットアニメ像を提示できていないから」。繰り返しになるが、やはりこれが一番大きいと私は思う。「ロボが出てくる未来のおはなし」だけではもう飽きた、というわけだ。前回のエントリに対し、別のはてな民も『電脳コイル/ゼーガペイン見たときに思ったのが「これ、ロボアニメである意味あるか?」だったなぁ』と回顧している。SF的な未来世界の中に「巨大な人型ロボット」の存在は間違いなく時代遅れになりつつある。
実際、ストーリーはすでに出尽くされ感がある。たとえば、
14歳の少年・早瀬浩一は、ある日“事故”により、少女と出会い、巨大人型メカ「ラインバレル」を手に入れた。何も出来ず、正義に憧れているだけだった少年の周りは、彼が圧倒的な力を手に入れたことでめまぐるしく動き始める。新しい仲間と出会い、友人と別れ、守るものを背負い、自らを囲む世界と向き合い、やがて少年は成長してゆく。
これは2008年に放送された「鉄のラインバレル」のストーリー紹介だが、これにたいして海外の掲示板にすら「俺たちは同じようなアニメを幾つもみてきたんだよ!」って放送当初からキレていた人がいた。
設定や描写も現代では通用しなくなっている。空気のない宇宙でバキュンバキュンする銃撃戦は15年前までならOKだったが、今そんなことやったら恥ずかしくて目も当てられない。ネットでも炎上する。それと、お互いを「○○少尉」とか軍隊風の呼称で呼ぶことも、あのコクピット内の絵面(ごちゃごちゃした巨大なマッサージチェアみたいなところに腰かけて膝の横辺りにある操縦桿を握る)もそう。そもそも2足歩行があれだけ一般的な形式であり続ける工学的な理由は何?陸上を移動するならば足よりも車輪の方が機能的じゃね、と外人でなくてもそうツッコミたくなる。
もっと根本的に、少なくとも目の肥えた「大きなお友達」にとってはSFの持っていた神通力が衰退したことも大きい。前回のブクマコメントにあったように、SFはかつてテクノロジーの未来を提示する役割を果たしていたけど、今やSFにその力はなくなってしまった。小さな通信端末はもちろん、ファーストガンダムでアムロがいじくっていた電子書籍端末も今年Ipadが出てきた。20世紀にワクワクしていた未来技術の世界は、21世紀の今になって確実にワクワクできなくなっている。深刻なのはそれを21世紀の私たちがワクワクできるような形に上手くリニューアルできていないことだ。「SFロボットアニメがどうこうより科学の発展に大した希望をもたなくなった」という悲観的なコメントもあった。
だから結局、オーソドックスなSFロボットアニメが受入れられなくなってきたから、今はなんとかして新しいそれに代替するSFのあり方というか表現方法を模索してる、という段階なのだと思う。1つの流れとしては、『プラテネス』みたいな、自分と割と身近な人が宇宙に行って、みたいな話だ。ロボットなんてシロモノをあえて登場させず現実的な想像力で捉えられる範囲で、人間同士の関係を描写する。もう1つの流れは、SFロボットアニメの突飛さをあえて逆手にとり、腐女子的な暴走ノリを表す手段として借用する流れだ。ちょうど「コードギアス」がそれをやって大いに受けたし、近々放送される銀河美少年のやつもおそらくその形だと思う。「ガンダム00」?あれは本来やるべきワクワクするような未来世界を提示できずに単純な現代の延長でお茶を濁した失敗作であり、SFアニメの屈服だ。