はてなキーワード: 茶の湯とは
https://anond.hatelabo.jp/20230214105828
私は女性だけど、デート代金は割り勘が普通だと思う。女性だって仕事をして稼いでいるし、男性に負担をかけるのは申し訳ない。準備に時間がかかるとか、男性がエスコートするとか、そんなのは個人の好みであって、デート代金に関係ないと思う。
デート代金を男が出すのがマナーだと言ってる人って、神社で「二礼二拍手一礼しないと神様に失礼」とか、茶道で「器を回さないと茶の湯の心がわからない」とか言ってるのと同じだと思う。
男女平等の時代に、そんな古いしきたりにこだわる必要はないと思う。相手を尊重する気持ちが大事なのはわかるけど、そのために合理的でない行動をするのは無駄だと思う。
視野が狭いと思う。
家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の結束は固く、微塵も互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。しかし、『樺山紹劔自記』では「弟・家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と人間くさい一面も紹介されている。
敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。
祖父・島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。
許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。
義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった[11]。
義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子を自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した[11]。また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている[13]。
三ツ山城を攻めたときに重創を負いその湯治場として吉田温泉(えびの市)を利用して以来、島津家の湯治場として度々利用していたが、自身のみならず家臣らにも利用させた。
九州平定後、義弘が秀吉から拝領した播磨国の領地を管理する際、現地で井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。そのお礼として、義弘は井上に島津姓と家紋を授けた。この井上が、島津製作所の創始者・初代・島津源蔵の祖先であると島津製作所の歴史に記されている[14]。
秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。
愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。
武勇と実直な人柄から、福島正則ら武闘派の武将たちに大いに尊敬されていたようである。その為、関ヶ原の撤退戦においても松平忠吉や井伊直政ら徳川譜代のみが追撃を行い直政自身が深手を負う結果に繋がった。
若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎討ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死の勇戦を見せたという。また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。
慶長4年(1599年)、剃髪・入道し惟新斎と号したがこれは祖父・忠良の号・日新斎にあやかったものである。
木崎原の戦いにおいて伊東祐信、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にのみ従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。姶良市に墓と墓碑が建てられている。
慶長の役の際、義弘は正確な時を知るために7匹の猫を戦場に連れて行ったという逸話がある。猫の目の明るい所では細くなり、暗い所では丸くなる特性から、時刻を読みとったとされ7匹のうち2匹が日本に生還した。この2匹を祀った神社が鹿児島の仙厳園にある「猫神神社」である[15]。
晩年は体の衰えが顕著になり、1人で立ち歩き、食事を摂ることも不可能になっていた。それを見かねた家臣が昼食を摂る際、「殿、戦でございます」と告げると城外で兵たちの鬨の声が聞こえてきた。それを聴いた義弘の目は大きく見開き、1人で普段からは考えられないほどの量の食事を平らげたという。
関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。しかし義弘は大坂で人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという(『惟新公関原御合戦記』)。
義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。後で家臣が「大丈夫でございますか?」と尋ねると「大丈夫だ。まったく小姓どもは悪さばかりして手を焼かせおる」と笑って返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという(『武功雑記』)。なお、同じ内容の逸話が加藤嘉明にも存在するため、島津家か加藤家のどちらかが模倣した可能性が高い。
戦陣医術に詳しく、『上井覚兼日記』によると天正12年(1584年)10月1日から7日までの一週間にかけて、島津忠長と上井覚兼に対して金瘡医術の伝授を行い、秘伝の医書を与えている。金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病を扱った医術のことである[16]。
茶の湯を千利休、古田織部に学んだ茶人でもあり、茶書『惟新様より利休え御尋之条書』や織部から薩摩焼の茶入の指導を受けた書状が残る。
0912 2回目予約日。ファイザー。片道20キロの市民会館集団接種会場。1500-1530、
1400 クルマで出発
1430 セブン とろろそば、ホットコーヒーR、ポカリ500。
1448 接種完了。ファイザー2回目。医師より1回目の副反応を問われる。接種部の痛みと肩、背中、首の凝りが数日、いずれも軽微と回答。
1503 待機時間終わり。1520まで読書。神津朝夫『茶の湯の歴史』
1520 帰路に。
1605 帰宅。
2000 接種部の痛みがあらわれる。
0913
こういうことしちゃいけないが在宅でリラックスしてARCHICADでゆっくりと。
未明 接種部の痛みは1回目よりも強い。
0800 就寝
1400 起床
2000 接種部の痛みはすこし引いている。頭痛がすこしある。発熱はなし。
2200 肩と背中、首の凝りがのこっている。持病のストレートネックと区別できない。接種部は痛いと言えば痛いかもしれないが気にならない。
これは結構「オタクとは何か?」という本質的な問題のひとつでな
(少なくとも1990年代中ごろ当時までは)
基本的にアニメやゲームや漫画ってのは「子供のための物」だった
で、一方、「大人が消費する物」といえば
既存の映画とかロックとか、あるいはゴルフや料亭やワインやクラブやディスコだった
その手の「大人が消費する物」てのは、一定以上の年齢になってから
そういう人たちに教えられて勧められて「社交」の一部として身につけるものだった
ところが
景気が悪くなって会社の経費で部下や取引先におごってやることがなくなり
旧来の大人文化(あるいはリア充文化)とされていた物の継承が断絶した
その結果、20代30代なっても、本来は「子供のための物」だった
要するに
これは確実に経済の影響もある
だって従来の大人の消費対象と見なされていた高級車とか高級ブランドとか
ゴルフや料亭やワインやクラブやディスコって、お金がかかるんだよ
↑
俺は「アニメやゲームや漫画=本来子供向けだからくだらない」とは一言も書いてない
逆に言うと
1990年代中ごろまで、高年齢層向けのアニメやゲームの市場はまだ小さかった
考えてみると、1990年代まで、今の新海誠作品とか細田守作品みたいな
「ふつうに非オタ観客が大量に見に来る青春物アニメ映画」なんてほぼなかった
(単発的に「耳をすませば」ぐらい/恒常化したのは2006年の細田版「時かけ」以降)
だから
前段で触れたような社会環境の変化と平行して
高度な高年齢層向けのアニメやゲームや漫画の普及が進んだ相乗効果だろうと思う
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はじめの論点に戻ると、現代社会においては「本来子供向け」のメディアジャンルが
たまたま「アニメやゲームや漫画」だからナードはそれらにハマるんだろうけど
近代以前だったら、たとえば「へうげもの」に出てくる茶の湯とか名物名品とかが
当時における、社交の道具にされる大人文化とかリア充教養に該当するもので
ナードに該当する層ってのは、そういう大人文化とかリア充教養に興味がなく
(あるいは接点を持つ機会がないなまま成長し)
1位『ゆりでなる??えすぽわーる』なおいまい
3位『ワンナイトフレンド』かやこ
9位『定時に上がれたら』犬井あゆ
19位『つきあってあげてもいいかな』たみふる
20位『突然なんとなく隣の同僚とセックスしたくなりました』三浦コズミ
28位『ささやくように恋を唄う』竹嶋えく
30位『あの鐘を鳴らすのは少なくともお前じゃない』アサダニッキ
32位『痩せたいさんと失恋ちゃん』原作:安田剛助 漫画:文尾文
35位『一端の子』深山はな
37位『百合と声と風纏い』蓮冥
38位『不揃いの連理』みかん氏
39位『レンタルショップでお姉さんをレンタルする話』もちオーレ
43位『月とすっぴん』アケガタユウ
44位『憎らしいほど愛してる』ユニ
※あくまで一個人の評価であり、作品の優劣を決めるものではありません。
※当ランキングは2019年1月1日から12月31日の間に紙媒体及び電子書籍で119ページ以上の単行本として発売された商業作品を対象にしており、同人作品などは対象外になっています。
※「◯◯が入ってないんだけど?」と思う方もいらっしゃると思いますが、多分読んだうえでランク外です。多分それ読んでます。膨大な数を読んでます(ドヤア
※優れた、かつ百合要素がある作品でも、作品の面白さの根幹が百合にないと筆者が判断した場合、ランク外になっている場合があります。
※例えば自分は2019年に新しく単行本が出た萌え4コマで一番よいものは『ぼっちざろっく!』だと思っていて、これは百合要素もあるんですけど、じゃあ百合としてよいもなのかというと正直そこまででもない(個人の感想です)。この漫画の面白さの核はぼっちちゃんのキャラであり百合ではない。とか書くと「バーカ!ぼっちちゃんがメンバーとの交流を通しての成長するのは百合以外の何物でもないだろ!」みたいに難癖をつけられるのがインターネットですが、いやでもそれ作品の魅力の一部分に過ぎないよね?百合があるのは認めるけれど全体の割合を考えた場合以下略戦争とかそんな感じなので百合ランキングに入れるとなると個人的に低いとこに置かざるをえません。ならばもういっそ入れない方がいいのでは?いう感じになるわけです。これは去年のmonoとかもそうてした。なので『ぼっちざろっく!』はランク外です。
※このタイプの作品は他に『白百合は朱に染まらない』『もういっぽん!』『赫のグリモア』などが挙げられます。
※あくまで一個人の評価であり、作品の優劣を決めるものではありません。いや本当に。
去年の個人的な大本命だった、でも結局単行本が出なかった須藤佑美先生の『夢の端々』が今年こそ出るはずです。これが多分マイ一位です。全宇宙の百合豚よ、読んで己の罪を数えろ!
今月はネットでやたらバズった『マイ・ブロークン・マリコ』と2010年代の百合史に残すべき傑作『アフターアワーズ』の西尾雄太の新作百合『水野と茶山』が出ます。『水野と茶山』は前作から一転、ダークな田舎百合です。マイブロはみんな読んでると思うので紹介は別にええな。切ないよね。
百合姫からは『欠けた月とドーナッツ』がたいへんよい大人百合です。これも今月発売。
萌え4コマ、日常系的なものでは荒井チェリー先生の新作『むすんで、つないで。』が最注目です。おねロリの最終兵器だ。
他、とっくに単行本一冊分のページ数溜まってるんだけど 全然出る気配がないんだけど?来年こそ出るといいなぁ……という枠で『かけおちガール』、『ケムリが目にしみる』、『彼女の沈清』などがあります。『かけおちガール』は本当なんとかせぇや講談社。
「僕の肛門もファーストブクマしたいんです><」って思って増田記事一覧に来たらラックラック言ってるbotが大量で
今のテレビ台が横に広すぎてテレビ台の後ろにトールボーイ型スピーカー置くしかない微妙な状態
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なんか高い…
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なんか自作しているのを出品している人がいる!
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ヤフオクで自作している業者さんのも微妙に高い…あと松の木材微妙じゃね?
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ハードメープルさん堅いし重いし明るいし神!
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1ヶ月ぐらいヤフオクと木材通販をウロウロ。作るのも面倒だよね…
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アレまてよ?今のテレビ台の横にあるデスクが180cmもあるし、もっと横幅が普通サイズのデスクに変えたら丁度良いんじゃね?
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最近のデスク、奥行き短いの多すぎ。あと黒とかダークウォールナットとか暗い色合いのは嫌です…
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今のマホガニーと昔のマホガニーは伐採地が違う。昔の奴の方が木目良さそうな感じ。
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多分1950年より前の時代のイギリスアンティークならキューバで採った奴か…?
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ふええ。。。競り負けちゃったよぅ。。。
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Go!プリンセスプリキュアのフィギュアを勢いで買ったけど置き場ない…
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取りあえずベッド脇に置いているサラウンドスピーカーの上に置いてみよう
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やばい…寝たらローアングラー状態でフローラのスカートの中を見てしまう状態になる…
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ちゃんとケースみたいなの買おう!
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フィギュア一杯な写真色々出てくるけどそんなに置く予定無い(最大で4体)
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作中に出てきたアイテムに近い代替品で固めれば世界観統一できるんじゃね?
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姫プリといえば紅茶!イギリスアンティークと言えばティーカップを飾る!
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https://www.wedgwood.jp/products/detail.php?product_id=896342
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紅茶の点て方と茶葉について入門書を読んだりティーカップのメーカーについて学ぶ
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茶の湯って良いよね…茶器って良いよね…
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ヤフ(ry
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レースが欲しい… ←今ココ
MAHOGANYは神。
姫プリはイギリスアンティークかフランスアンティークのどちらかで統一仕切ると
世界観が近づけることが出来てとても楽しくなると思う。
日本における飲酒習慣の源泉の一つである茶懐石は言うに及ばす茶の湯で供される空間、料理、器、お酒、お茶、そしてそれらを通じたコミュニケーションを楽しむ場でした
庶民で言うと蕎麦屋や居酒屋もそうです「酒の肴」という言葉がありますがこれは「あて」とも「さかな」とも読みますよね
これは「酒にあてがうもの」として魚が抜群に相性が良いことから生まれた言葉です、これも酒を食べ物がひきたて、食べ物を酒がひきたてるという感性がなくては生まれないのではないでしょうか
(庶民の飲酒習慣が広がった江戸時代の日本に食材のバリエーションが少なかったこともまた事実ですが)
先にも述べましたがあなたがおっしゃるようにそうした酒に対する感性が非常に希少なものになってしまったことをとても悲しく思います。が、近年は逆に豊かなお酒を楽しむ方も増えてきていると実感しています
日本には本物の酒造りを志向する杜氏や酒造会社が数多くありますしついには世界でその高品質が認められるに至りました
洋酒でも勝沼を世界レベルのワイン醸造地とする基礎を築いた高野正誠、土屋助次郎のような人がおり、大正時代に単身スコットランドに学び、世界で名を馳せるジャパニーズ・ウイスキーを生んだ竹鶴政孝のような人がいます
そうしてそれらの酒を豊かに楽しむ飲みてもまた数多くいることも事実なのです
蛇足ですが私の職場では取引先も含めて酒の無理強いもセクハラも見られません、決してスノッブな職場ではないのですが、幸運なのでしょうね
もちろんストレス発散の如く酩酊するものは居ますが皆酒の席だからとやさしく見守っています、決して好ましいことではないですね(笑)
東京と大阪では、建物とか、目に見えるところでの違いよりも、人々の間に流れる空気というか、目に見えないところでの違いが凄く大きいよ。というか、大阪の文化そのものが、歌舞伎・浄瑠璃・落語・漫才・茶の湯といった、形のない文化が多いんだよね。
でもまあ確かに、大阪は一見、古郡としての価値がなさそうに見えるよね。それは、大阪の人が、京都や奈良の人に比べて、あんまり自分達の文化を大事にしていないからのような気がする。本当は、京都や奈良に引けを取らないくらい歴史ある街なのに、大阪といえば、粉モンや新世界や大阪城や道頓堀ばっかり。
もし京都や奈良で橋下知事みたいな文化殺し政策を実行しようものなら、大規模な反対運動が起きて、支持率急落するんじゃないかな。
そんなことを思う一奈良県民でした。