はてなキーワード: 脳科学とは
時代は今から10年後、iPS細胞がらみの技術が成熟して、再生医療が現実に応用されはじまった未来。
世間では歴史上の偉人や、著名な学者の墓が暴かれる事件が多発し、社会のモラルの低下が騒がれていた。
その大学にはアインシュタインの脳の一部がサンプルとして保存されている。
(アインシュタインの脳は研究のために解剖されて、サンプルが世界中にちらばっているらしい。
設定上、それを現存する唯一のサンプルということにする。)
実物を見たいが、まだぺーぺーの主人公は取り合ってもらえず、しかたなく研究室に忍び込むことにした。
守備よく忍び込み、実物を手に感動するも、人に見つかりそうになって思わずサンプルを持ったまま逃げ出してしまう。
しかし、それは大学の警備員ではなく、アインシュタインの脳を盗みに来た特殊部隊だった。
実は中東あたりの国が人クローン技術をほぼ完成させていて、その種に使うためにアインシュタインの脳を狙っていたのだ。
アインシュタインの脳を持っている主人公は、国家規模の陰謀に巻き込まれていく・・・
って話。
誰か完成させて俺に読ませてくれ。
「子どもに関する悪夢を見たが、それを保育園ママ友に話したら、自分も似たような夢を見た、と言われた」と書いていた
夢って、脳科学的、社会学的には、やはりその人の属性次第で、見る内容に傾向差が出るのか?
既婚者と未婚者では見る夢に傾向差がある?
子有りと子無しでも差があるのか?
・・・等々、脳科学的に面白いテーマだが、あまり脳科学は夢を扱わない気がする。
子持ちは子どもが登場する夢を「見るべき」なんだろうが、自分の見る夢では、子供は滅多に登場しない・・
子どもを世話しないネグレクト親は、やはり子どもの夢は見ないのか?
虐待親はどうなのか?
「戦前の家父長制の元の妻」の睡眠夢と、「戦後男女平等になった時代の妻の睡眠夢」は、内容がかなり違うんだろうなあ。
一方は虐げられる夢、それが徐々に主人と対等になっていく。
俺は仕事において、言われた事しかできない糞つまらない奴だった。俗に言う指示待ち人間。仕事に遣り甲斐を感じたい気持ちは充分にあった。だが、気持ちだけあっても仕事で結果をださなきゃ意味がない。俺には目標があった。目標があったのにも関わらず全て空振り。なぜなら、見切り発車で全ての作業を一遍でやろうとしたからだ。俺は自己を改め、基本中の基本だが以下の改善をしてきた。
①優先順位を決める。
重要度にランクをつけ、すべきことを1点に絞り込み集中する。目指す基準を高く設定することで常にチャレンジすることだ。
②計画を立てる。
まず、全体像を捉える必要がある。逆算思考で何が必要で何を行うべきか洗い出す為だ。そして「始まり」と「終わり」の時間を決めることだ。すぐに実行できる工夫をする準備が大切だ。
③実行する。
作業を効率的に行うためには、モレなくダブりない視点でみなくてはいけない。また、手順のムダやムラを無くすことだ。いかに効率かつ結果に有効か考慮しなくてはならない。
④評価する。
1日を振り返ると自ずと「続けること」「やめること」「始めること」がみえてくる。反省し、改善することで明日へと繋げる。また、自己評価だけではなく他人からのフィードバックを受け入れることも成長の機会でもある。
ちなみに俺は、ネガティブな奴だった。評価してもダメな自分しかみえてこない。こんな糞みたいな奴が仕事で結果を出せる訳がねぇ。仕事ができる人は皆ポジティブなんだよ。この違いは、性格上の問題かとばかりおもっていたけれども大きな間違いだったことに気付かされた。大事なのは言葉だった。
【脳科学】
「ああ疲れた」→「ああよくがんばった」
「私にはできない」→「ダメでもともと、とにかくやってみよう」
「○○ができない」→「今は○○ができない」
「何をやってもうまくいかない」→「今度こそきっとうまくいく」
「頑張ったけれど無駄だった」→「この努力はいつか報われる時がくる」
引用サイト:http://dalme.com/archives/34061562.html
口ぐせって怖いな。自分じゃ気付かないだろうけど、ネガティブな口ぐせによって自分で自分の首を絞めているからな。まして、周りの人にも感染するからな。今すぐ治そうぜ!!
最後に。これを読んで理解した。はい。おしまい。で終わらしてもなんの価値もねぇからな。理解した後の行動で価値がつく。動いて身に染みてこそ成長できる。小さな動きでもいいから着実に前進しろ!
“それが一番大事”by 大事MANブラザーズバンド
PS.ちなみに弟が薬剤師をやっている。俺は薬剤師のニュースを見る度に胸糞わりぃー!!http://yaku-st.com/
http://anond.hatelabo.jp/20131218192932
う~ん、具体的なイメージが思い浮かばないなぁ…なんというか、多分こちらが典型的な「~べき族」として今まで生きてきたからだと思うんだけどもね。
しかし、わかることもチラホラあったりするので個人的に思考をアウトプットしてみたり。
そして「やるべき」なんて考えるからますますマイナス部分にしか興味がなくなる。そのことに気付いても、「やらなきゃをやめなきゃ」とまたべき思考に陥る。
単純な話なんだけど注意点が1つある。「そうは言っても好きだけじゃ生きられない」。そういう型にはまった思考に陥るとすぐ振り出しに戻る。これには「好きなことに興味持たなきゃ」というべき思考ではなくて、次のような自己反論で対処しよう。
この"「やらなきゃをやめなきゃ」とまたべき思考に陥る""「好きなことに興味持たなきゃ」というべき思考"って部分は最近気づいたところ。結論から言うと"べき思考"では中々幸せになれない気がする。特にそれが「好きなことをやる"べき"」って思考になるとね。
これは実体験なんだけど、僕はネットでは賛否両論な人物茂木健一郎っていう脳科学者の言、「人間の脳は自分の興味あることをハードルを超えながらし続けることで快楽物質(ドーパミン)が生じ、更にそれをするようになる。だから好きなことをもっとして更に増やせば脳はどんどん活性化するしアウトプットのレベルが上がる。逆に、何かを強制されてやらされると脳は活性化しないしアウトプットもレベルが上がらない」っていうのを中学くらいで読んでずっと信仰してきたわけね。
好きなことをたくさんやる「べき」なんだと。勉強やスポーツを好きなことに含める「べき」なんだと。
しかし最近になって、「結局"~べき"思考になってるんだから強制されてるのと同じじゃないか」ということに気づいた。好きなことをするべきするべき…って呪文みたいに心のなかで8年くらいつぶやき続けて、たどり着いてしまった自己矛盾。この8年なんだったんや…という絶望感は半端無かったね。
もちろん、この8年脳がフル回転してドーパミンドパドパ出て充実したか、って言うと全くそんなことなく。むしろ「好きなこと」すらも積極的に取り組もうとしない自分に自己嫌悪しながら虚ろに過ごしてきたなぁ。
繰り返しになるけど、だから「好きなことをする"べき"」って思考は、昨今の「好きなことをして生きようよ、気楽に生きようよ」という風潮に沿っていこうとすると、結構陥りがちな幸せになりにくい系な考え方なきがする。
それに気づいた後、じゃあどうすりゃいいんだろッて思ってた所にこのダイアリーがきたので一つの参考になりそう。結局やるべきことを嫌々ながらもやらなきゃいけなくて、それが幸せへの遠回りに見える近道なのかな、って思ってたので。
3行でまとめると
人は無くて七癖何だからなんか好きなことはある
但し「好きを意識"すべき"」と思わないように注意
ってことなのかなぁと。
ここ数年テレビに出たり本を書きまくったりしてる脳科学者の人なんだけど、あの人は本当に科学者なの?
科学哲学ではポパーの反証可能性っていう考え方があって、「ある言論が実験などによって反証される可能性がある」事が科学的であることの定義の一つなんだけど、あの人は「脳科学的には」とか言って素人目に見ても怪しいことを言っている気がする。
昔なんかのテレビ番組で、「坂本龍馬には〜という脳内物質が出ていた」とか言ってたけど、これデータあるんですかね?
昔「ノーベル賞に最も近いと言われる日本人」とか言われながらテレビに出てきた記憶があるけど、実際全然取りそうな気配ないしなんの成果があるのかもよくわからない。
というわけでGoogle ScholarでKen Mogiでググってみた結果……
http://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0,5&q=ken+mogi
実験に参加してる論文でも最高の被引用数は57、しかも20年近くも前の論文。
主著論文にもなると最高で15。これもだいぶ昔。
(ちなみにiPS細胞の山中教授は被引用数最高8649。サイヤ人か何かですか?)
最近の論文がヒットしないんですが、今あの人は科学者としての活動してるんですか?
一般向けの本の執筆活動とかがメインなら、せめて科学者としての肩書を捨てるべきでは?あと科学を中立的に使わないのも腹立つ。
アハ体験で使われてた画像がちょっとずつ変わる画像あったじゃないですか。寡聞にして最近知ったんですけど、あれってもともと脳神経科学の研究では、変化盲っていう人間の知覚の危うさを検証する実験のものらしい。
で、またgoogle scholar教授に"aha experience"と聞いてみた。それらしき論文はいくつかヒットするけど、あの画像が使われている様子はない。あの画像のアハ体験どっから出てきたのか。効果は検証されているのか。
他にもアハ体験のバリエーションあった気がするけど、殆どが脳神経科学の違う分野のものを援用しているらしい…
これに関しては脳科学や心理学に関連しそうなので知恵袋で聞いたほうが的確な答えが返ってきそうだけど、
シミュラクラ現象といって、人は2つの目と口の位置に3つの点があるとそれだけで顔と認識してしまう習性がある。
つまり脳内では顔の形状をそのまま見ているわけではなく、ある程度簡略化して見ているわけ。
つまりあれは人間の認識にのっとったリアリティを追求した表現じゃないのかな、と思っている。
人間はコミュニケーション能力が他の動物に比べて異様に発達している生き物。
そして顔の表情というのはコミュニケーションに関する情報量が多いから、体の他の部分の認識と違って多くの情報を読み取ってしまう。
今まで生きてきて体験したこと、
自分自身が変わってきた時の手応え、
などを振り返ると
そして変わるためには一定の条件があると思う。
・今の自分ではダメであることを頭で理解し、どのような方向性に変えていくかイメージすること
・変わりたいという強い気持ち、情熱を持つこと
・今までの自己を否定する行動をとること(恐怖を乗り越え勇気を持って一歩踏み出す 往々にして今までやってきたことの逆をやる)
例えばどうしても人の意見を聞けない、反発してしまう、違う価値観を許せない、という人がいたとしたら
・まずは人の意見を聞かず、反発し、裁いていたことを悔い改め、人の話を寛容に受け入れ、プラスにしている自分をイメージする
・そのような自分になりたい、ならなくてはという強い気持ちを持つ
・実際に行動する 今まで反発していたので、それとは極端に逆の行動をまずは行う例えばどんな理不尽なことでも受け入れて、相手の価値観を認める徹底的に自己否定する 自分が自分でなくなってしまうような、恐怖が必ずついてくるけど克服する
ここまでやってやっと新しい自分がかすかに見えてくる。変わる端緒がつかめる。
考えることや分析も必要だけど、ある程度考えたら理屈ではなく気持ちで翔ぶことが必要。
大切なのは気持ちの部分なので考えてばかりの人は絶対に変われないようにできている。
理屈も必要だが、引き寄せの法則やナポレオン・ヒルの思考は現実化するという
理屈ではないので、これを知った所で
感情のパワーを引き出せるシチュエーションに身を置かないと人間は絶対に変わらない。
そして往々にして人の助けや助言厳しい否定といったものが重要なファクターになる。
ここまでの(こんな抽象的な)話でピンと来るなら
読んでいるあなたは変わったことがある人だろう。
そうでないなら変わったことがない人だろう。
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そもそも変わるということの意義と価値だが
変わらないのであれば、生まれ持った才能で生きるしか無い。
つまり変わらない人はポーカーに例えると配られたカードで勝負するしかない状態で考えて生きているようで、実はほとんどルーチンや
惰性で流されて生きてしまっている。
結果が決まってる、運命づけられている。
カードを変えないポーカなど非常につまらないもので最早ゲームとはいえない。
運良く最初から役ができていれば、それでも幸せにやっていけるかもしれないがそれはそれで寂しいし、ワンペアすらできていない
変わるというのは自分の手持ちのカードを上位のものや全く別のカードに切り替えるということで
そのことによってのみ新しい役が完成したり、役の得点が上がる。
簡単にまとめると
変わらないのであれば手持ちのカードで勝負しているだけで予定された運命通りのつまらない勝負を強いられる。
変わるのであれば新しい役が完成して、新しい運命が切り開かれる可能性がある。
これが自分の考える
変わるということの意義と価値。
多分変わるというのは脳科学的には大変なことが起こっているんだろうな…
変わるというのは自分の檻の中から一歩出るようなもので必ず恐怖がついてきてしまい、下手すると人格の崩壊が起こってしまう。
パソコンでいうとソフトウェアではなくミドルウェアやハードウェアをいじるような行為で効果は大きいが失敗した時のリスクも大きい。
だから脳は相当の分析、反省と強い感情がないと絶対にできないようにできていると思う
理屈を知っているとちょっと役に経つけど理屈では絶対に人間は変わらない往々にして人の助けが必要
まとめると
考えてばかりの人間は変われない
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その後、空っぽになった僕は地元に連れ戻され、予備校の寮に叩き込まれて今に至る。休憩時間にこつこつと書き続け、ようやく回想が終わった。
結局、どこで間違えたのか。学校を選び間違えたのだろうか。何かのイベントや団体を組織しなかったのがいけなかったのか。そもそも東京に行ったこと自体が間違いだったのか。
皮肉にも夢破れて地元に帰り、死人のように予備校で勉強しているうちに、今更ながらわかったことがある。
「何事も基礎が大事」ということだ。W塾の先生が言ってた「前提」がそれだ。
勉強も、基礎がわかっていないのに発展問題をやろうとしてもそれは無理があるのと同じで、一高校生の身分で大学生や社会人の真似事をやろうにも所詮限界というものがあるのだ。
ここまで読んでもまだ、「いや、コイツは残念に終わったけれどオレはビッグな高校生になれるはずだ!」とか、「何言ってんだ、マークザッカーバーグやスティーブジョブスを見ろ。彼らは皆学校を蹴って新しく起業したんだ」とかいまだに思い過ごしている学生がいるかもしれない。
断言する。お前には無理だ。
「何を言う!まだわからないだろう!」と、画面の向こうから叫びが聞こえてくるが、言い分としてはよく分かる。かつての僕も同じだったから。
だがな、じゃあ何でそんなに崇高な志を持っているのに呑気にPCしてこのダイアリー見てるんだ?
本当の意味で「突き抜けている」学生は、たいていの場合自分が突き抜けていることにさえ気がついていない天才肌なのだ。確かに、「これこれこうで、こうしたいから自分はこうする」と、自らの情熱を制御して結果的に周りから見て突き抜けている学生も、いるにはいる。片手で数えられるほどには。
それ以外は、「気がついたら自分は周りから持ち上げられていて、テレビや雑誌からも取材を受けて、なんか大学にも推薦で合格していた」ってタイプだ。
これは起業とかにもいえるだろうが、どちらにしろ、本気で高校生時代に才能を開花させ、抜きん出ることのできる学生はほんの一握りだということを肝に銘じておいたほうがいい。あくまで僕の予測だが、そんな人は興味を示し集まってきた中で一万、いや十万人に一人いるかいないかだろう。
それでも自己顕示欲、フロンティア・スピリットとやらを押さえつけられないのならば、それは仕方ない。どうぞ自己責任でご存分に持ち前の力を発揮してくださいとしか言いようが無い。
今更になるかもしれないが、僕はそのとてつもないエネルギー自体は否定していない。成功して世の中のためになることもあるからだ。だけど、たいていの場合よく分からない方向へ向けられて、結局エネルギー切れになって方向性もうやむやになり没落する、それをもう見ていられないのだ。そもそもそれは今やるべきことなのか。
W塾でのあの一件以来なんとなく考えていて、地元に帰ってくる羽目になってようやく気がついたことがある。
何事もやはり学力が大事・・・なことももちろんそうなのだが、どうやら僕がそれに気づかない「空気」の中に3年間ずっと浸り続けてきたのだ。
例えば、脳科学者の茂木健一郎氏が、自身のblog上でこんなことを言っている。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2013/03/post-cfd5.html
然るに、「偏差値という縛りから日本の大学は早く抜け出すべきだ」とでも言いたいのだろうか。
しかし、その茂木氏のWikipediaを見てみると何だ。出身校に日本の最難関大学の名前が出てきているじゃないか。
これはどういうことなのか。
もし茂木氏が偏差値30の大学を出て、「僕もこんな大学出たけれど、それなりにつつましく生きています。日本は偏差値教育をやめるべきだ。」というのなら、まだ話は分かる。
茂木氏のほかにも、日本のオピニオン・リーダーと言われてる言論人や政治家、経営者のほとんどが難関大に入っていた。例外としてとらえるべき人は、GMOグループの社長で、放送大学卒の熊谷氏ぐらいだろう。
そんな偏差値70もあるような人が、「偏差値教育は悪い」と言う。抜けているんだよ、「前提」が。そりゃ彼ら自身は一流校を出て、そしておそらくその後も努力して今のポストにいるんだから、それは注目されてしかるべきだろう。そこは当たり前だ。
だが、その言葉を真に受けて結果BF大にしか通らず、企業の学歴フィルターに引っかかって無職やブラック企業、フリーターにしかなれなかった人たちには、どう説明するつもりなのだろうか。
そして、この僕も数々の講演会で彼ら言論人の言うことを純粋に真に受けて今の身分にまで堕ちた人間だ。責任をとれとは言わない。勉強を全然して来なかったのは僕自身の怠慢だからだ。
でも、「学生よ、もっと海外に出ろ」とか、「いい大学に入って、いい会社に入って、それで終わるつもりか?」とか、「安定を求めるな」とか言う前に、「当たり前だけど、勉強は大事だよ」という「前提」ぐらいは、講演会や学生向けの集会なんかでも言って欲しかったな、と。
これでは、自分のポジションを守るためにわざと偏差値にとらわれるべきではないと吹聴していると感じとってしまう人がいても文句は言えないだろう。僕は騙されてしまったのかもしれない。彼等だけでなく、自分自身にも。勉強もすればよかったのだから。
僕も、偏差値は人間性とか社会性とかは含まれていないのだから、偏差値至上主義にはもちろん反対だ。けれど、高い偏差値というのはしっかりと努力して勉学に励んだ証拠でもあるということも、決して忘れてはいけないと思うのである。
同じ事は、読書にも言える。よく読書週間などで読書が世間でも勧められている。書店に行けば「もっと本を読もう!」とあるし、大抵の大人も読書を勧めてくる。
しかし本来は、「自分のやるべきこと(僕の場合は勉強)もした上で、本を読みましょう」と言うべきではないのか。
僕のように新書などを何十冊何百冊と自らの興味のあるままに書籍を読んだって、大学に入れなければ先はないのだ。恐らく、就活とやらにも同じことが言えるだろう。
こんな所にも「前提」が抜けているのである。
最も、「こんな本を脇目もふらず何千冊も読みました。でも勉強はできませんが入れさせてください」「はい合格」という大学や企業があれば話は別であろうが。今のところ、聞いたことはない。
本を否定はしないが、本に逃げたり本に溺れたりして他に何もしないのもいけないのだ。
結局、この約3年間の時間は何だったのだろうか。
それも綺麗事を言って。これが世間でもある程度は通用するからよほどたちが悪い。
こんなんだったら、授業中は寝ててもいいから毎日学校に行くべきだった。その分、今償わされているのだろう。
だが、3年という長い期間のハンデは、そう簡単に取り返せる代物ではない。それでも、地道にやるしか僕の前に道は残されていないのだ。
おまけに先週、風のうわさでかつて僕が通っていた高校、つまりこの地元の高校から同じ学年の生徒が自己推薦でとある大学に入学していた事実まで耳にした。いよいよ、僕のこの3年間にわたる行いの無意味さが証明されたのであった。
さて、長らくに渡った懺悔の文も以上で終了である。本当に、多くの方々に迷惑をかけた。
ここを読んでいる方には、間違っても僕のような判断ミスを犯してほしくはない。
そしてもし中学生や高校生がこのエントリーを見ていたら、直ぐにPCや携帯電話から離れて、一心不乱に勉強して貰いたい(最も僕が言える立場ではないかもしれないが)。
いやいや、本当にわからない人だね。社会構造の話を用いて、価値観を語るのはおかしいのだと言ってるのですが。
ホモソーシャルは社会学的な説明で、「◯◯観」は個人的なものの見方ですよ。社会学用語を持ちだして、男女の恋愛観を語るなんて矛盾してるんですよ。
言葉も取り違えているし、性的な話を持ってきて、都合の良いところだけジェンダーを持ってくる。ジェンダーとセクシャルの話がごっちゃになっているんです。
外からの説明を(間違った形で)都合よく用いて、内側からの話をしているんです。
海流に流されている魚を見て「あの魚はいい加減な品種だからフラフラしているんだ」と決めつけているようなものです。
これは生物学で散々言い尽くされてるじゃないですか。種の保存のためだと。
そして、女性がヤリチンに惹かれる理由も「より強い遺伝子を残すため」だと言われてるじゃないですか。
先ほど「恋愛は近代化の産物」だと書きましたが、性愛はあまりにも個人的で生物的な話になります。
脳科学でも、恋愛は生存のためにホルモンうんぬんの話をしていましたよ。
「同性愛的だから、女性に恋愛感情を抱かない」と言いたいのでしょうが、ホモという言葉に惑わされすぎです。
ホモソーシャルはジェンダー論で出てくる言葉なんです。ジェンダー論はそもそも、男女の性愛を語るものではありません。社会的・文化的な性の在り方を語るものです。
ホモソーシャルの概念は、女性に家事労働を担わせ、男性だけで社会を構成してきたことを説明しています。
社会的であることをホモフォビアで説明し、女性を社会の一員と見なさなかったことをミソジニーとしています。
「同性愛に走らないため」「だから女性を愛さない」ではありません。昨日の説明を何度も読み返してみてください。
ただし男性の「モテ」に関しては、ホモソーシャルを用いても説明できる。
ホモソーシャルでは男性どうしの評価を重要視しています。男性にとって、人望は権力になりうる外部評価です。
「男性は男性を意識する」と言うのは、ゲイ的な意味ではなく「男性の相互評価」を表しています。
ヤリチンを説明するとしても「支配構造の中で優位に立つために」「女性を付属品として見なす」という話になりますが、権化のためであり「同性愛回避」ではありません。
残っていますよ。男性支配構造はまだまだ残っています。日本の象徴がそうですし、政治家の大半も企業の上層部の大半もそうです。
「シングルマザーが増えている、働く女性が増えている」とおっしゃりたいのでしょうが、家父長制は、広い意味で「男性による支配構造」を言い表します。
よって「家父長制が昔ほど存在しない現在の社会でホモソーシャルが存在するのはなぜなのでしょうか?」というのは
「頭の頭痛が痛いのはなぜでしょうか?」と言っているようにしか聞こえない質問です。
もうイイ歳にもなってオカズを探している自分がたまたまたどり着いた記事が
この記事だった。自分は見る専門
(特に海外をメインとしてサーフィンをしている。FC2はもちろんプレミアム会員だがあまりの検索のしづらさに股間が我慢できない)だが
上記のサイトから感化されて私と同じようにに志した方々もいると思う。
あまりのラーメン好きにラーメン屋をやるという番組を見ながらそんなことがあるかと
両手に空気の入った美女を抱えながら見ていた私が恥ずかしい限りである。
それを構想したのが去年の4月。約1年。ちょっとHTMLができる程度の私が子孫放出時間を削り、地元のチェリーボーイズ達をかき集めてやっとこさ作ったので
普段文章を書かない私が、つたない日本語で申し訳ないがココに記しておきたい
今回サイト制作にあたってコンセプトとしたのは、下記の4つです。
私が精子放出先としてメインで使っているサイト(XVIDEO・tube8等)をまとめているサイトをでき調べてみた。
そこで感じた使用感はこの一言に尽きる
「画像クリック→なぜか再生されずに違うサイトへ飛ぶ→画像クリック→なぜか再生されずに違うサイトへ飛ぶ→画像クリック→∞」
ループから早く抜け出せればラッキーみたいな、何故か動画を見る前に幸福感を得るという謎の現象がおきた。
なぜこのようなことをしているのかを理解する必要があると思い、得意のサーフィンを駆使しなぜ他のサイトへ飛ばすような事をするのかを考えてみた。
どうやらサイト同士はつながりがあるらしく、「私もアクセス送るから、あなたもアクセスちょうだいね」というwin-winな関係があるらしい。
2chまとめサイトとかが顕著にそれが現れているが、例えば自分より有名なところにアクセスを送って、それで送り合う関係になったときに有名なサイトの方がアクセス量は多いので、
実はwin-winではなく自分の方が得をしている関係で、サイト内のアクセスを伸ばせるということらしい。
たしかにそう考えれば私もしたほうがいいのかという衝動に駆られたが大前提として「わかりやすい」を貫くためにも見やすさを崩さない最小限にすることにした。
他に気づいた点は、海外エロ動画サイトをまとめているサイトは人が着そうな動画だけを集めて検索しやすい感じではなかった。
カテゴリやタグで女優名やプレイ内容・女優のタイプ等がきちんと分けてつくっているサイトは更新数が少ないか、サイト内にある動画数が少ない。
それを両立できる方法を、ない頭で考えた。
「とりあえずプレイ内容・女優のタイプは動画を見ればわかるが女優名がネックなら一旦置いておこう」
もちろん女優名で検索できないサイトにはしたくないので、この問題については後にいい方法を思いつき今後の実装予定(楽しみにしててね!)となった。
サーフィン仲間の童貞チェリー達にもサイトを良くする案を考えてもらった結果
ということに決まった。
デザインセンスの欠片もないが、私なりにできる最大限を行うことにした。その際に参考にしたURLの一部(ちょっと古い記事だがデザインの根本的なものは変わらないので参考になると思う)
http://sanride.com/blog/webdesign/web.php【WEBデザインする上で最低限おさえておきたいたった5個の法則】
http://creators-manual.com/alignment/【新人デザイナーに教えたいWebデザインの基本原則【整列】
http://webdesignrecipes.com/4-factor-of-designing/【デザインを勉強したことがない人でもデザインできるようになるかもしれない4つの基本原則】
http://liginc.co.jp/web/design/other-design/15954【すべてのものに理由はある。脳科学に基づくデザインの法則】←最近のだけどいい記事なので
あとはもちろん動画サイトを抜きたい衝動を抑えながら見まくった。1つ気づいたのは動画サイトから動画をとってみたら意外と何もないくらいすっきりするということである。
サイトのスクリーンショットを撮りペイントソフトとかで動画の部分を塗りつぶして枠線だけにすれば、サイトの華やかさは動画イメージがあるからということがわかる。
実際のWEBデザイナーはどうやって作るのかはよくわからないが、私は家にあった横長のホワイトボードを縦にしてそこに納得行くまで書いてみた。
http://gyazo.com/2fc3a46bd4e108ce6ee47e53b064330a
http://gyazo.com/ja【Gyazoというスクリーンショットの瞬間共有サービス これは便利すぎて手放せない】
上記のURLの単純な設計デザインの事をWEBデザイナー達はワイヤーフレーム、モックアップ等と言うらしい。
後になって気づいたがワイヤーフレーム制作を便利にするツールもできあった。
https://cacoo.com/lang/ja/?ref=logo 【cacoo Web上で図の作成&リアルタイムコラボレーション】
http://www.hotgloo.com/【hotgloo】
http://www.lumzy.com/【lumzy】
https://moqups.com【moqups】
一番考えたのはロゴである。ダサいロゴにしてしまうと、それだけでサイトのイメージも下がってしまうのでかなり悩んだ。
ロゴデザインの木を学んだ人からすれば笑ってしまうようなデザインかもしれないが、笑われるのを覚悟でボツ案をはっておく
http://gyazo.com/acd94a061c4fa54c39dab35d04d81f70
一番最後まで残った案は赤枠で囲んだ「D」という文字を指と見立てて再生ボタンを押しているというイメージのロゴだったが、最終的にはシンプルなものになった。
今ではシンプルで良かったなと思っている。
女優名を引き換えに女優名以外の細かいタグをつけると決まれば、あとはタイトルとタグを付けてくれる人を探すだけである。
翻訳をかけてタイトルとかにすれば完全自動にできるがきちんと確認した上でタイトル・タグをつけたほうが正しい情報を記入することができる。
なのでここは完全手動にした。しかし量が量なだけに私一人でやるには荷が重すぎる。そんな時に空気嫁の次に大切なチェリーボーイズ達が私に隠れてサプライズを仕掛けてくれていた。
「おいハゲ(本当は私の名前を呼んでいる)!アデランス(本当は私の名前を呼んで(ry)の為に人員を用意したぜ!みんな温水(本当は私の名前(ry)の使いやすいサイト制作に賛同してくれて
普段はティッシュしか周りにいない私でも真剣にやるだけで賛同してくれる人もいるのかと、目から精液がでた。趣味サイトなので面倒になったらいつでもやめていいという事で
たまに飲みに連れて行くことを約束し、更新作業を手伝ってもらうことにした
この問題に対しては私はお手上げだった。再生する度に裏でどんどん広告がひらいていき、親が来たと思いサイトを閉じたら、裏で開いていた巨大広告のお姉さんが腰をフリフリなんてザラである。
だがこの問題に一人のチェリーが立ち上がった。彼は自称プログラマーという素晴らしい肩書きで、私ができない部分(PHPやJavaScript等動的な部分)を見事に解決してくれたのだが、この難題にも立ち向かってくれた。
結果は実際にサイトに来ていただければ彼の奮闘結果が見れるかもしれない。
圧倒的な技術不足というのを痛感したとともに、日頃何気なく利用しているサイトはものすごい技術の結晶だということを改めて感じた。
完成した時は思わず、紗倉まなのDVD4時間ぶっ通しでみて抱きまくった。
こんな私でもできるという充実感を味わえる。
あまりの嬉しさにこの日記を書きたくなったが、私が制作に携わったデザイン面でしかこの日記で書けないのが悔しいです。
メールフォーム等も実装してユーザーの意見を聞けるようにしていきたいと思っています。
最後に、私のわがままに付き合ってくれたチェリーボーイズ達に感謝!
俺達の戦いはこれからだ!
AKB48のことは、もともと別に好きでも嫌いでもなく、しかしそれなりに好奇の視線を向けてはいた。
ところがだんだん気持ち悪さを感じることが多くなってきた。
彼女らに対してというよりはそのシステムやファンの存り方や、そのファンの言動をいちいち取り上げてバカにする声に対して。
それでもまあ、そんなものは2ちゃんまとめブログを読まなくなったことでだいぶ避けることができるようになっていた。
しかしどうしてもスルーできない事件が起きてしまった。あの丸刈り事件だ。
その話題を聞いて、ネットにアップされた丸刈りの女性が泣いて謝る姿を見たとき、とにかく不快な気分や怒りを禁じえない状態に陥った。
ひととおり怒って気持ちが落ち着いてから、今後しばらくは極力AKBの話題をネットなどで見ないように、発言もしないように気をつけようと心に決めた。精神衛生上よくないから。
ところがそうは問屋がおろさないのが現実というもので、翌日には、丸刈り状態で仲間と微笑む彼女の画像とそれを見た誰かの「全然反省してないじゃんw」というコメントが目に飛び込んできて、やっぱりイライラしてしまった。
どうしても情報を避けきれないのだ。それくらい衝撃的な事件だった。
本当に嫌なら見なきゃいいし、ネットに接続しなければいいんだけども。結局私が自らの好奇心に負けてしまっているのだろう。
丸刈り事件のとき、何を不快に思い、何に対して怒りを感じたか説明しようと思ったけど、いろんな負の感情が押し寄せてきて頭が混乱するのでやめておく。
まあ、あの動画を見て楽しい気分になる人はあんまりいないだろう。いるとすれば特殊な性癖の持ち主とか?
さて、あの事件の前にも、AKBメンバーが恋愛禁止ルールをやぶったことで騒ぎになったケースはあった。
この頃すでに、恋愛禁止ルールってなんだよ気持ち悪い、くらいの気分は私の中に存在した。
それと、人間同士を競わせて戦わせ、それを見物して楽しむという構造は、古代ローマ帝国時代のコロッセウムを彷彿とさせる(さすがに殺し合いさせるのとはわけが違うけれど)。まったくもって気分が悪い。
こんなことを言うと、「彼女らは自ら望んでやっているんだ。だから奴隷とは違う」と反論されそうだし、確かにそうだなとも思う。
でもどうして、彼女らはあんな厳しい環境下で競い合う道を選んだのか。
以前テレビで有名な脳科学者だったか心理学者だったかが、「人間はもともと競争するのが好きなのだ」と言っていた。つまり本能的に競争したいから、と言うことはできそうだ。少々乱暴かもしれないが。
見渡せば、世の中競争だらけだ。受験、就職は言わずもがな。メシを食うためモテるため、人々は競争し続けている。
現在私は結婚し、専業主婦(というかほとんどニートに近い。子どもはいない)生活を送っているので、競争からはほとんど降りている。しかし競争から完全に切り離されているわけではない。
まず、夫は世に出て働いている。働くことと競争はほとんどイコールだ(競争とは無縁と思われがちなかつての私の職場でさえ、そうだった)。働いて疲れて帰ってくる夫を支える必要がある(現実にはほとんどそれができていないというのがヘタレな私の現状なのだけれど)。
私が日々享受しているエンターテイメント(マンガ、小説、アニメ、ゲームetc.)は大抵、競争の中で勝ち残ってから私の元へやってくる。
エンターテイメントに限らず、日々消費しているモノにはやはり何らかの競争が関わっている。「どこよりも安い」「売り上げNO.1」といったキャッチフレーズを添えられて。まあそういったキャッチフレーズがついてなくても、モノを売る人間の競争力が関わっていることは間違いない。
そういうわけで、生きている限り、競争とは無縁でいられない。
自給自足の生活でもできれば話は変わってくるけれど、脆弱な私にそんなハードな生活はできそうもない。ていうかできない。
1.iPad mini、それは美しい
おそらく多くの読者はご存知ないだろうが、
あなたの体内では、食欲も失せるようなグロテスクな物体が蠢いているのだ。
見た目が9割であるとする哲学書が大衆に支持されたことは記憶に新しい。
名は体を表すなら、"見た目はものの本質を表す"。(Dertar-lamae Chapter.8)
鏡の中はイケメンでも写真には異星人が写ることから証明されるように。
iPad miniと腎臓を撮影し検証する頃には、自ずと答えは出ているはずだ。
多数の経済リスクを抱える現代において、ローリスクハイリターンな選択であると、
また、多数の有名人がブログで絶賛するネオサイコメトリカル増田外科は、非常に安全な可能性が高い。
日本が世界有数の富裕層を保持する一方、ワーキングプアという問題は、
目の上のタンコブのように我々を悩ませている。
だからこそ、未来ある諸君はここで一肌脱ぎ、無謀な誠意を示すことが大事なのだ。
くだらない自分から素晴らしい他人へ、これこそが”価値を創る”真のイノベーションである。
新世代の奉仕を身をもって提示できるリーダーを、時代は求めている。
弘法筆を選ばず、という言葉の欺瞞には、賢い読者であればお気付きであろう。
才能ある者が力を発揮するには、一定水準のインフラが必要なのだ。
しかしインフラを手に入れた時、誰もが思うのは「こんなはずではなかった」・・・
同じ土俵に立ったことで、己の無力さに落胆し、モチベーションの再定義を迫れられる。
己の身体の一部が他人の一部として働くということは、
自我形成、自己認識と自己同一性と社会適応、現実認識に寄与し、上記のような”心のスキマ”にフィットするのだ。
人と同じ事をしていては、いつか乗り遅れ、烏合の衆の藻屑と消えてしまう。
かといって、無防備な雛が荒波に飛び出すのは、無知のなせる技であると
Mursder Saikoh氏の著名な論文で言及されたのは既知の通りだ。
「皆が使っている」・・・これ以上にどのような肯定があるだろう。
さあ、急げ、摘出。
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を高度に形式化して使える人がいるのは、正直こわいです。
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、みんなあきれ果てて38もレスしなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、みんなあきれ果てて38もレスしなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、みんなあきれ果てて38もレスしなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!