はてなキーワード: 深淵とは
また、彼らには以下のような特徴も見られる。
実例を挙げていこう。
https://www.pixiv.net/users/2036519
総投稿数は本日時点で6725枚で、ピカチュウだけでも850枚もの作品を投稿している。
またベルダンディーの18禁作品を大量に投稿しているため、検索妨害として恐れられている。
https://www.pixiv.net/users/3182410
https://www.youtube.com/channel/UCjcHsOKZb0zuAmKwCntvNTA
新卒入社の企業で外れを引き、大学の専攻と異なる部署に配置され数年。
転職サイトのエージェントからは経験を積むためにも技術者派遣が良い、と勧められた。
入社後はエンジニアとしての研修を受けながら派遣先とのマッチング機会を待っていたが、
一ヶ月を過ぎた当たりで不穏な話が聞こえてきた。
地方の工場へ、期間工の労働派遣。数十人単位で送られるらしい。
聞いたことはある。入社前や入社当日に「新卒入社の社員が外部研修として向かうもの」と説明された話だ。
「中途入社の社員は既に社会経験があるので、増田さんは行かなくて良いものだ」とも担当者から聞いていた。
その時は、今の時期になってやるんだ、くらいの感覚だった。
数日後、肩を叩かれて別室へ。
新型コロナウイルスの影響もあってか、どこも受け入れが厳しくなった矢先の話だとか。
数週間の後に荷物をまとめて、地方に引っ越し。最低半年は従事してもらう、だとか。
何かがおかしい。
そう感じて、転職サイトのエージェントに「入社前の説明と異なる命令を受けた」と連絡を入れた。
面接担当者との対話の機会を作ってもらい、話を聞く。担当の手違いで行かなくて良いものだと伝えていたという。
話が違う、と伝えた。
最初から行く可能性があるのなら、内定を受けるかも考えた事だろう。
エンジニアになるため入社したのであって、期間工になるため入社した訳ではない。
面接担当者、研修担当者、偉い人、様々な人と面談を行って、辞める話を伝えた。
「今は苦しい時期だが、リーマンショックの時も東日本大震災の時もうちはリストラをせずに持ちこたえてきた」
「今回の危機も会社一丸となって乗り切っていきたい」などなど、ありがたいお言葉を頂戴した。
つまり、今までもそういうことだったんだろうな、と合点が行った。
辞職の意志を示し続けた結果、「じゃ、今日付で辞める?」とさらっと言われて、月末付で退職した。
引き止めはしたけれど手慣れているな、と感じた。
今までの転職エージェントに連絡と苦情を入れる。「担当者が異動したので新しい担当を付ける」との事。
逃げられたな、と直感。転職エージェント会社も、そういう派遣を行うことは知らぬ存ぜぬの一点張り。
その後はハローワークや労基と揉めたりしつつ、なんとか失業保険を受けた。
もちろん、技術者派遣だけは避けた。一連の話をした所、「うちも苦しければ期間工に派遣を出す」とはっきり話してくれた。
「今は苦しい時期だが、リーマンショックの時も東日本大震災の時もうちはリストラをせずに持ちこたえてきた」
配置転換や派遣先変更もリストラだろうに、とは、言わないでおいた。
辞めずに送られた同期たちはどうなったのだろうか。
思ったけれど、連絡を取ることは辞めた。無理に深淵を覗きに行く必要もない。
いま、令和の蟹工船の中で、どんな怨嗟や怒号が飛び交っているのか。
それを知る必要は、どこにもない。
https://anond.hatelabo.jp/20210321141314
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/pencroft.hatenablog.com/entry/2021/03/13/115055
”ネタバレ回避がめんどくさいだけで観てきた 自分はヤマトから999からまどかからなんならドラえもんまで幻視したぞ 深淵を覗く者はなんちゃら恐ろしい(ネタバレなし)ハーロックエメラルダス意外と松本零士を感じた”
https://pencroft.hatenablog.com/entry/2021/03/13/115055
”幕末太陽伝”
ここ数日で、掲示板で腐の話が上がってしまった!大問題だ!これからは皆鍵にしよう!!って流れになっている。正直そこまでする必要があるか?と思う
nmmnでは「表に持ち出すな」って言葉をよく使われるけど、掲示板も「表で言えないからここで吐き出す」という文言が出る。掲示板も裏じゃん。そりゃあnmmn界隈の話題が公式ファンタグ付きでツイートされてたら問題だろうけど、今回は公式が自分から深淵を覗きにいかないと見れない場所での出来事で、気にする必要ないと思うんだよな………。
だいたい同ジャンルでも百合おじさんの掲示板での気持ち悪い発言はまとめサイトにしっかり取り上げられてるのに、なんで腐向けだけこんなに自治厨多いんだろうね。
関係ないけど、界隈の雰囲気として、百合と夢は(2次元、nmmn問わず)その辺ガバガバなイメージがある。そう感じたのはTwitterの作品名タグにR18百合作品が平気で載ってたり、お題サイトで男性アイドルのR-18夢女子向け文章生成スロットがいくつもあったりするからなんだけども。
※タイトルと表紙だけ見て判断したので悪しからず。モノによってはキーワードだけ
私を食い止めて
水ってなんじゃ
かんどうかんくろう
僕僕先生
ニャン氏の事件簿
独りでできるもん
描かれた歯痛
前野ひろみち
あやかし算法帳
空き家課
あるかしら書店
海の百階建ての家
アルデラミン
闇と暮らす
365まいにちペンギン
オラクルブック
マツリカ・マハリタ
フェイブルの海
時間整理術
近松よろず始末処
包丁部
静おばあちゃんにおまかせ
陰陽課
ぴんとこなーす
べてるな人々
三人にせ金作り
怪盗レッド
ピカソになりきった男
ヤクーバとライオン
愛しき駄文具
一日昔話
動くな、死ね、よみがえれ!
おばけのパン屋さん
やだ!!(絵本)
グレッグの駄目日記
ドバラダ門
まどかは神かもしれない
押し絵と旅する男
明和義人
うそうそ(畠中)
ガタスタ屋の矜持
小道モコ
精霊の王
特上添乗員
ウチら特権
ボクらの消えた学校
焼き上がり五分前
いみちぇん!
変形菌図鑑
あやかし課
陰陽課
どこいったん(絵本)
岡本順
毛深い闇
薬売りの独り言
猫とエトワレ
元気に�なるシカ!
地図に無い駅
%(このはなさくら)
悪ガキ7(セブン)
一日なぞの生き物
入れ子の水
サノマリナ
みやたけ外骨
かわなべきょうさい
キルリスト
コンピューターのふしぎ
唯識の読み方
怪盗レッド
チームガリレオ
雑草ルデラル
幻都廻楼
ドルポ
聖なる怠け者
ひだごはん
ヒラマツオ
投書狂
ゴリラのけいこく
ヘッテルとフェーテル
ピカソになりきった男
こしょう息子
つ村きく子
リンカーンとさまよえる亡霊
江戸奇品解題
ヘンテコノミクス
ぽよぽよザウルス
のら犬とりで
十才までに平家物語
1年1組(DVD)
南河物語
築地の門出
ちび竜と魔法の家
うみの100かいだてのいえ
かまどねこ
就活の神さま
空から森が降ってくる
ファミアンドリー※1
夢もまた青し
でしょ115%
マガーク探偵団
ウナノハテノガタ
手話で生きたい
南の島※2
チオベン※3
絵でわかる感染症
やさしくわかるアサーション
ふしぎな出前
宇宙に期待しない
早朝始発の殺風景
くどうなおこ 「いる」じゃん
夏のうた
オシャレ泥棒
言葉のぷれぜんと
なんでも見てやろう
三枚のカード
戦う姫、働く少女
鬼の跫音
~~~~~~~~~~~~~~~
※1詳細不明
※2島田紳助?
念の為断っておくが、当方は自己犠牲を礼賛する立場でもなければ、悪役に対しても性善説で接しよというつもりはさらさらない。
件のプリキュアにおけるメッセージはカギカッコ付きで「正しい」。
だからこそ大人として世界に向き合う責任と自覚を放棄した歪みがあると思う。
現在ツイッターでプリキュアおじさん(見る限りほぼ全員独身の高齢アニオタ男性)が
「もし本当に反省しているなら悪行をして笑ったりしない。
都合の良い時だけ私(主人公)を利用しないで!」
よく言ったこれでこそ令和だ正解だ画期的だ脚本ブラボーと褒めそやすツイートである。
この悪役が例えば映画版とTV版のキャラ違いを往復するジャイアンの如く、何度も何度も何度も何度も利用されて裏切られるを繰り返してきたならば、確かに悲しいけど仕方ないねと腑に落ちる。
自分のみならず世界人類全体に迷惑をかけていたなら、これも仕方ないけど自分ひとりで許すのも違うからわかる。
でも文脈上はそうではないらしい。(プリキュアの敵なので世界人類の敵であることは事実だが、伝えんとする意図は別にある)
命乞いから実際裏切られた、裏切られる可能性うんぬん以前に、丸1年間の放送でずっと主人公陣営を傷つけてきたボスに不快感を抱く事は間違っていないと全肯定する。
そして何より自分の心を守るために「お前が不快だから助けてやるもんかざまぁみろ」と堂々と拒否をする。
そういうある種の「人生n周目のループもの主人公が書き換えた正解の世界線」じみた、自分の繊細ハートが傷つく前に敵を殺れ!という心の防衛を至上とした完璧なる護身メッセージなのだ。
ヒーローだけど無理して全てを愛さなくていい。弱り目を承知で悪意をぶつけてやりたい憎い奴を憎んでもいい。そうやって自分の心を大事にしようと。
これに爽快感を覚えるのは基本的に自分を「つけこまれる側の被害者」と認識している人間と思われる。それでいてもろい自己を他者に守ってもらいたくて仕方のない人間だ。
おそらく自称つけこまれた被害者の彼らは思い思いに己の人生の闇をフラッシュバックさせて
勝手に「救われた」気分になっているんだろう。
散々陰キャの俺をいじめておいて、卒業間際あるいは問題化された時に、保身で都合よく和解を申し出てきた学生時代のイジメっ子。
イジメっ子が放つ軽々しい「ごめんね」の言葉に、事を荒立てなくない教師から許しを強要された思い出。
無能だと罵倒しながら、人手が欲しい時、辞めてもらいたくない時には急場しのぎでチヤホヤと引き止める嫌な上司。
もしかしたらアニメスタッフが現場のちょっとしたトラブルを思い出しながら書いていたのかも知れない。
そんな彼らを悪と断じられる程の信念や自己肯定感も持てず、うまく対処したくても出来ないフラストレーションを、「この叫びは陰キャの俺のものじゃない」「女児向け思想だから」と言い訳が出来る投影先のプリキュアに代弁してもらった、射精せんばかりの絶頂感。
そういう失敗陰キャおっさん達の泣きシコ汁に塗れたくっさいくっさいツイートだらけで鼻が曲がりそうだ。
でもな。
お前ら「人生あそこでやり直したかった」塗れのプレイ時間だけは長い低レベルプレイヤーには良心的な教えでも、まっさらな状態から人生ゲームをスタートする子供にはそれじゃダメなんだよ。
なぜか?
「自分を信じろ」「自分の心の声に従え」と言われても幼児~小学生位の子供には信じるべき自分が物理的に存在しない。まだ形成途中にある。まず目の前の世界と他者をありのまま認識する作業を経て、そこに存在する自分の姿を経て自我を形成するのだ。
児童本人の自主性なんてものはハッキリ言って幻想にすぎない(大人ですら固まってないのが山程いるのを考えればわかるだろうに)。
大人に出来るのは「子供が学びを楽しいと思ってくれる」「家族や友達を思いやってくれる」よう、監視の目を絶やさず巧みに線路を引いて神経質に誘導しながらも「君自身の意志で選択したんだよ」風を装ってそらっとぼけることだけである。
いわばチクタクバンバンの動く時計とマスをカチャカチャ動かすプレイヤーと同じ関係だ。
だから半ば幼児の情操教育が存在意義である幼児向けアニメは裏側にどれだけ深淵な設定を重ねようと、「メッセージ」だけはシンプルで単純で子供でも反射レベルで実行できる、主観を廃した絶対の指示性がなければいけないのだ。
(一部高齢オタクに幼児向けコンテンツマニアが居るのは、物語の綺麗事に対する絶対的信頼感と安心感、そこに含有される複雑怪奇な人間社会の闇を幼児にもわかるシンプルな言葉で解き明かす性質に魅了されているのだと思う)
なのに件のプリキュア見捨てエピソードは「悪人の都合の良い言葉で利用される正義ワイの心の痛み」とかいう、複雑かつ理解に経験則が必須で子供にとって一番アテにできない自我を拠り所に「相手から発せられた言葉の意味と反対の事をしろ」と言ってしまってる。
端的に言って複雑な無茶振りがすぎて処理落ちするレベルなのだ。
「先生やご両親の言う事を聞きましょう」という子供が生活するうえで必要な基本メッセージに唾を吐いて「いやいや、教師や親というだけで信じるのは危険だからやめろ。奴らの嘘集をあげるから悪い奴から身を守ってくれ」と言って
毒親やパワハラ教師の体験談を未就学児にプレゼントしてしまうが如き「余計なおせっかい」である。エルサゲートを見せて社会勉強になると言ってるようなもんである。
確かに現実はそうかも知れない。でも子供にいま一番必要なのは「世界をとりあえずそのまま受け入れて信じて自我を確立すること」なんだからお前らのしてる事は発育妨害でしかない。
まずありのまま信じさせてやれ。
大人が子供に出来るのは、子供に敢えて綺麗事を示して「安心して世界を信じろ」と断じる事だ。
自己護身のために「その時は悪い事を言っていない他者」を疑え警戒せよと煽る事じゃない。
わざわざ言葉の裏を疑えうんぬんと世界に不信感を持たせる事を言う位なら何のために勧善懲悪のキレイゴト物語のフォーマットを用いているのかわからない。
自我どころか言語認識すら途上で危うい子供には綺麗事を疑う事を前提としたメッセージ処理できないから、メッセージは「自分といったん敵対したからには悪は悪だからやつの口にする反省は嘘だ」になる。
小さなガキは四六時中間違いを起こすし、友達とは毎日ケンカと仲直りを繰り返すような生き物なんだけど、これ自分が悪役側になることだって充分あり得るのに、みんなが鵜呑みにしちゃったらどうなるんだろうね?
お母さんの無償の愛に甘えてイキって困らせてそうなオタクおじさん達は「プリキュア(俺)に我慢を強いる無償の愛を求める敵をよく倒してくれた」と言いながらウットリしてるけど、
悪役とされる側への寛容ってヒーローヒロインに犠牲を強いてる訳じゃなくて、自分がもし道を誤って悪役とされる側に堕ちた時の為の救いでもあったはずだ。
そういう可能性を僅かも考慮しない高齢オタクおじさん達は卑屈な陰キャのくせに、どうしてそんなにも頑なで自分は絶対に被害者のままで断じて加害者に回らないと言い切れるんだろう?
まさか自分が病んで追い詰められて道を外した時には潔く「僕は擁護のしようもないクズですううう」と叫びながら一切の救済を拒否して誰にも迷惑をかけずに腹でも切るのか?
なわけねーよなぁ?自分が僅かでも救済されるかも知れない余地があるなら見苦しく立場の一貫性もかなぐり捨てて縋りつくよな?正義のヒーローの犠牲なんか知ったこっちゃない、ヒーローなら俺をも救ってくれるはずだと。
そういう人間の業と弱さを認めて見放さずチャンスを与えることで、他者も自分自身も許せば楽になれるよというのがこの手のエピソードの肝だったはずだ。
「罪を憎んで人を憎まず」は無念を押し殺して涙を飲んで敵を許せという意味ではなく、人として自分も含めた人の業と折り合いをつける知恵だったはずだ。
他者への潔癖な非寛容は自分自身を縛って生きづらくするという事は、他ならぬポリコレ叩きのオタクおじさん達が嬉々として口にしている言葉だろうにな。
なんか、自分を大事にとか理不尽な犠牲の否定とかじゃなくてこういうものが生まれる根底に、陰キャキモおっさん目線の失敗を過剰に恐れる間違った完璧主義と「俺は被害者なので何があっても絶対に悪(加害者)に回ることはない」という勘違いと、
幼児向けアニメなのに高齢オタクである自分のためのものだと思って子供目線で想像しようともしない傲慢さ(女児向け云々はアリバイ工作の時に口にするうわべワード)が鼻につく。
そう言えば別の某アニメで「若い子供のうちは間違っても取り返しがつくことが特権なのだから、迷ったり悩んだりして動けなくなるくらいなら思い切ってどんどん間違えてみればいい」と中学生の子供にアドバイスした親がアニオタ達から結構叩かれていたのを思い出した。
これも連なる話なのかね。
Haskellと圏論を結びつける主張には前々からずっと疑問を感じている。
およそ、その主張の根拠は「圏論の概念であるモナドを借りてきたからだ」というのだが、その言葉の意味を突っ込んで追求した人はいないのだろうか。
数学科として、ある程度圏論を学んだ身として疑問に思ってしまうのが、
つまり、総合的に、「Haskellは圏論を用いることで副作用や参照透過性などのプログラミング言語の課題を解決したのだ」というよくある主張が、全然ピンと来ない。
この辺突っ込んでちゃんと解説している専門書はないのだろうか?
第一、第二、第三の疑問いずれに対しても、満足のいく回答は得られず、ただ「モナドは圏論由来の概念だ」というだけだ。
もしかして何か、圏論という一般にはよく理解されていない概念の言葉を良いように使って、なんだか深淵で素晴らしいもの聞こえるよう、同業者を適当にだまくらかしているんじゃないのか?とすら思えてしまう。
自分も増田と近い世代で、だんだん自粛がキツイなってなってきた人間。
都内で一人暮らし、業種的にも昨年2月からずっとリモート主体で働いていて、年末くらいにメンクリ通うようになった。弱い人間なので。
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ゲームだったり絵をかいたり動画見たりとインドアオタクな趣味も多いし、余裕やろ^^むしろ嬉しい^^と思ってた。半年くらいは。
それでも、ライブに行けないだとか、おいしいもの食べに出歩くとか美術館行くのをやめたりとか小さなストレスはためてた。
最初の4、5か月くらい、秋口にはちょっと収まるかなと楽観視しながらも、
家族友人には一切会わず、たまに必要に駆られて出社するのと生活必需品の買い出し以外での外出を大真面目にやめていた。
ちょっと辛いな…となってきたのが8月頃、感染者数的にはやや落ち着きも見えてた頃だったろうか。
給付金ガー!みたいなあれで各業界もそれぞれの立場でつらさを訴えていた。
結局のところ、どこもかしこも痛み分けで共倒れしかなくない?と思い始めた。
閉店する近所の定食屋を目の当たりにして、一人では喫茶店くらいは行くようになった。
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感染の拡大を防いで医療の危機を回避するという大義は頭では理解するものの、
そのために衣食住や生命にかかわること以外をほぼ制限して、命を守る、に 正直100%で価値を見出せるかと言ったらノーなんだわ。
それをやっていいと思えることがあるとすれば、その制限がちゃんと意味があって終わるのならという条件付き。
ズルズルいってる現状、もう歯止め効かなくなっちゃってるでしょ。
個人によって守りたい命はあると思うし、自分だって大事に思う人はいる。
でも、それを「守るため」と言って一切会えない生活を続けるの、あんま意味なくない?
いつまで続けるの?コロナ以外でも人は死ぬよ?コロナのリスクもわかるよ?どうしてこれを耐えれば報われるんだって信じられるの?
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そうはいっても自粛を結局やや優先しているんだけど、正直その理由は感染のリスクよりも他人との分断をさけるのが大きい。
出かけてもいいと思うよ、と言ってた知人が感染者に対して遊んでるから…と手のひら返してるの見て怖くなっちゃったもん。
医療関係の仕事の知人もいるけど、ラインで連絡取ろうとも思えない。なんとなくの申し訳なさで。
このメンタリティで生きてると、そりゃあ病むんですわ。楽しくねえもん。
非難されない状況でなら、いっそ感染してもあんま苦しみとしては変わらんて。
(こういうと、じゃあ後遺症で苦しめ^^って言われるんでしょ、知ってる)
この災禍で経済がつぶれるならそれまでだ、命があることだけが一番大事、なんて思えねえよ。
その命で何をするか、だろ。やりたいことが奪われて戻ってくるとも限らないなら、命や健康が戻ってこないのとさして変わらんよ。
生きててほしいと願う相手だって、ただ存在していてほしいだけじゃなくて楽しく生きていてほしいよ。
非難しあうのは、楽しくない。つらい。
エゴ爆発させて遊んじゃいたい。遊んでる人自体を非難はできない。
マスクして手指消毒こまめにして…自分で気を付けられることはいくらでもやるけど
他人にどうこうっていうのは無理だよなってことだけはわかる。
対策は理論と根拠に基づいて行うべきだとは思うが、人間はしょせん感情の生き物なのだ。
不条理があったとき、その感情の向け先がどこに行くかは一つの分かれ道だし、
そんなややこしい生き物が多数集まったこの社会をどう舵取りしていくのか、それが政治だったりするんじゃないかね。
難しいね、とりあえずつらい。
将棋は楽しいボードゲームで、基本的に殴り合いのオフェンスゲームです。仮にチェスがディフェンスのゲームで、お互いに防御の構えを組み換えながら敵側の綻びを見つけ出すゲームだとすれば、将棋は蟻の一穴をこじ開け落城させるオフェンスのゲームと言ってもいいでしょう。
チェスの競技人口が一説には5億人とも言われる中、将棋の競技人口は一千万人程度とガラパゴスの様相を呈していますが、明らかにゲームとしてのバランスではチェスに勝っています。チェスの公式戦においては先手勝率が40%程度、後手勝率が30%、引き分けが30%程度なのに対して、将棋の先手勝率は50%程度、後手勝率は48%、そして引き分け(千日手)の確率は2%前後であり、引き分けの可能性がチェスに対してずっと少なく、そして先手と後手の勝率が拮抗し合っているため将棋はボードゲームとして極めて高い完成度を誇るゲームと言えるのです。
更に付け加えると、ダメ筋(明らかにダメな手)を含めた、ありとあらゆる手の組み合わせ(ありとあらゆる進行の総数)を計算すると、チェスが10の120乗程度なのに対して、将棋は10の220乗程度ということですから、ゲームとしての奥深さも将棋はチェスを上回っています。因みに、宇宙に存在する原子の総数が10の70乗程度ということなので、如何に将棋というゲームが奥深いかは言うべくもありません。つまり、ある部分において将棋というゲームは宇宙それ自体より『深い』のです。
僕は腕前としてはアマチュア初段程度で、つまりアマチュアが目指すべき差し当たっての目標点にいます。やはりアマチュア二段以上を目指すとなるとかなり強烈な努力が必要になってくる印象です。アマチュア初段は将棋を普段嗜んでいる人間の中で、上位25%前後の層を指しているとお考え下さい。
将棋の道は極めて長いです。そして険しいです。詳しくはこの「将棋の名人とはどのくらい強いものなのか:https://ncode.syosetu.com/n5490eb/」という素晴らしい記事をご覧になって頂ければよいかと思います。(この記事の作者様と私は同一人物ではありません)
将棋のプロになるためには奨励会という育成機関を通過する必要があります。この奨励会は入会すると6級からスタートとなるのですが、これはアマチュアで言うところの四段以上の腕前に相当すると言われています。しかも、この奨励会に入会するのは小学生や中学生の少年少女です。つまり大の大人が血の滲むような努力をしてようやく到達できる地点に、ある程度の凝縮された努力によって遥かに短い時間で到達できる人々、つまりは天才たちだけがこのスタートラインに立つことができるということです。
さて、当然奨励会員になったところでプロになったわけではなく、プロになれるのは奨励会三段リーグを突破して四段の資格を得た者だけで、年間に四人しか輩出されない仕組みとなっています。更に、四段になった後もプロとしてのグラデーションが存在しており、そこには才能の差という影がいつまでも付き纏います。
才能のあるプロ、つまりそんな天才の中の天才は、将棋を指す際にどのように思考しているものなのでしょうか?
先に紹介させてもらった記事では、天才達の中でもグラデーションが存在しており、将棋のトップに立てるのは本当に一握りの人間であることが述べられていました。
つまりトッププロとは、仮に将棋人口が1000万人だとすれば上位0.0001%の人間のことです。すなわち、トップの十人、それが実質的な日本のトッププロ達です。
羽生善治、藤井聡太、渡辺明、豊島将之、永瀬拓矢らがそうです。将棋を指す者達は彼らのことを畏怖の目で見つめ、時折プロが招かれるイベントなどで間近に見る際には、化け物や、宇宙人。あるいはこの世の理を超越したものを意味する視線が、彼らには注がれることとなります。
つまりは才能とは一体何なのかという話になるのですが、脳内将棋盤というのがポイントになってきます。
人は、数理的思考能力、つまりIQが140を超えると立体的なイメージをあらゆる角度から検証できるようになるという話があります。人間のある種の知的能力と、立体的な像を脳裏に生み出す能力には深い繋がりがあるということなのです。つまり、才能のある将棋指しは脳の中に将棋盤を作り出すことができ、これによってどんな時でも(つまり実際の将棋盤がなくても)脳裏において将棋の情報を扱うことができるようになるほか、将棋に関する凝縮した思考を連綿と行うことができるようになるということなのです。勿論、プロもこの「脳内将棋盤」を持っており、彼らの脳内将棋盤にはそれぞれのバリエーションがあることも有名です。
以下コピペ。
羽生四冠
「4分割(5×5中央重複)の部分図が高速で行ったり来たり。盤全体は1度には浮かばない、負荷が大きい。盤面は白、線は黒。駒は外形が無く黒の一字彫り。アマ二、三段くらいになった10歳ごろからこんな風。」
森内九段
盤駒のみの思い浮かべる事はほとんど無く背景も付随。対局中は当時の対戦相手や対局場の雰囲気まで再生。普段は自室の背景に板盤。」
「盤は黄色で1一が右上に固定されている全体図で、線は無い。楷書の文字1字だけが駒として自動的に動く。」
渡辺二冠
「ダークグレーの空間に、字の書かれていない黒に近い灰色の駒が浮かんでいるだけだが、どちらのどの駒かは分かる。」
「黒くぼやけた盤面のどこか一部だけが見えている。駒はゴニョゴニョ、あるか無いか分からないまま何かある感じ。」
「盤も背景も黒く、線の無い盤全体に文字の無い黒っぽい駒がモニョモニョ。」
(出典:AERA No.38増大号'12.9.17『天才たちの「脳内パネル」』)
さてトッププロどころかアマチュア4~5段の人々にはこの脳内将棋盤が基本的に備わっていると言われています。つまり、この脳内将棋盤は確かに、ある程度将棋の強さ(棋力)の指標となるのです。しかし、トップの人々に関してその指標がピタリと当てはまるかというと、疑問だと言わざるを得ません。脳内将棋盤というものは将棋の猛者にとって当たり前のアイテムかつ大前提のアイテムであるため、最上位層の人々の能力を測る尺度としては些か信頼性に欠けるということなのです。というか、一応奨励会三段(アマチュアではなくプロ基準の三段)ともなれば、既に常人を超越して人間卒業レベルに至っているので、やはりその中にいる更なる化け物達を推し量るには、脳内将棋盤の有無のみならず別の尺度を用いる必要があります。
つまり、その二者。単なる化け物と、化け物の中の化け物を辨別する際に必要なのは、脳内将棋盤が「ない」ということなのです。
頭の中で将棋盤が無く、視覚的なイメージに頼ることなく思考できる人々が、化け物の中の化け物にはいるということなのです。
「最初の一手……まず、角の斜め前の歩を前に一つ進めるだろ。すると、後手の相手も同じように角の斜め前の歩を一つ進める。だとしたら俺は飛車先の歩を一つ前に突いて、相手も突き返して……横歩取りの筋に合流しそうだ」などなど。
つまり、常人は基本的に画像、目の前にある将棋盤の視覚的なイメージを用いて思考しており、そのイメージを介さずには将棋を指すことができないのです。ある意味では脳内将棋盤の存在も、視覚的な情報に基づいているという点においてはその思考の延長線上にあると言っていいでしょう。そう、人は基本的に将棋を考える際には視覚的なイメージを媒介とするしかないのです。
しかし、プロの一部にはそのような思考法は――視覚的なイメージを介した思考は――あくまで「補助的なものに過ぎない」と証言する者もいます。藤井聡太や増田康宏、羽生善治などがそれらの棋士です。
では彼らはどのように思考しているのでしょうか。
将棋の符号とは、数字と文字によって駒の動きを表したものです。いわば駒の「番地」とも言われるもので、次の記事が参考になると思います。
https://book.mynavi.jp/shogi/detail/id=77758
例えば、少し前に書いた横歩取りの定跡だと以下のような記述になります。76歩、34歩、26歩、84歩、25歩、85歩、78金、32金……。このような記述の仕方は江戸時代以降から共通であり、いわゆる将棋の対戦の記録である「棋譜」は古くは数百年前のものが記されています。古い文献において、盤面は視覚的に、絵図を用いて記述されることはなく、符号を使って記述されているのです。
いちいち絵図で盤面を描き残すよりも、文字で表した方がずっと労力は少ないですからね。
以下の記述はあくまで本人らの証言を参考に記しているものであり、彼らの思考を追体験したものでは当然ないのですが、つまり彼らの思考は以下のものになります。
先程書いた将棋の符号が、将棋に関する思考を始めた瞬間にズラズラズラ~~~っと文字列で浮かぶのです。
「ズラズラズラ~~~っ」って……、と自分の文章表現力の稚拙さに絶望しそうになるのですが、そう言い表すほかない。そう、真のトッププロにおいては、文字によって思考が行われるのです。そこに画像の介在する余地は、僅かにしかない。羽生善治曰く、「思考は基本的に符号で行って、その後、ある程度局面を読み終わった後に、自分の思考を確認するために思考を画像に起こす、という作業はありますが、基本的に画像で思考することはありません」とのことでした。
先に書いた通り、画像で物事を表すというのは、文字列で表すよりも遥かに手間が掛かります。つまり、脳の処理を要します。
となれば、より情報量の少ない符号によって思考するということが、より高速な思考法として適しているということなのです。
ある意味、それは楽譜における音符の存在と似ているでしょう。というか、そのものかもしれません。音楽というものは体系化され楽譜という共有形式を持つ以前は、完全に口伝であり、人々が歌い継ぐことによってしか継承を行うことができませんでした。しかしそれが数学的・音楽的に体系化され、楽譜の形を取ることになると、そのような継承の際に起こり得る障害はほぼ完全に撤廃されることとなります。そしてこれらの音符を読むことで、人々はそのメロディーを脳裏に想起することができるようになりました。将棋の棋士もまた、それと同じ知的処理を行っていると言ってもいいかもしれません。
つまり、ドミソ、の音符が並んでいるのを見て、タララ~、という和音が脳裏に浮かぶのと同じように、将棋のトッププロたちは符号によって将棋の盤面を把握することができるのです。これは、将棋のある程度の才能がある人々には必須の能力ですし、実際に高位のプロ棋士やトップアマチュアは、棋譜を一目見ただけで盤面の進行をまざまざと思い浮かべることができると言われています。
とは言え、そのことと「思考に符号を用いる」ことはやはり一線を画していると言ってもいいでしょう。
勿論、理屈としては分かるのです。我々が音楽を継承する際に楽譜を用いたように、あるいは将棋の対局を語り継ぐために符号によって棋譜を残したように、それらの音符や符号といった記号には意味を圧縮することができ、効率的な情報伝達を行うことができるのだと。
勿論、理屈としては分かります。とは言え、それらの記号を使って後世へと情報を伝達することと、それらの記号を用いた思考を正確に効率的に実践することとは、また別問題です。
というわけで、画像を媒介にした思考と文字列を媒介にした思考とでは、効率において文字列による思考に軍配が上がるということでした。プロ棋士らによる思考の抽象化が極限にまで達すると、本来立体的な駒やそれらの視覚的イメージを用いずして思考することが不可能であったはずのボードゲームも、文字列を介した思考によって再現されてしまう、ということなのでした。実に、これは驚くべき異常性であり、そして、個人的には文化として、そして娯楽として、このような常軌を逸した営みを次代へと継承していかなければならないと感じます。
さて、ところで常軌を逸していると言えば、藤井聡太二冠の名前はもはや語るべくもなく有名ですよね。彼のインタビュー記事は相当数発表されていますから、彼の語る様々な内容について把握している方も多いかも知れません。
その中でも異質のインタビューと言えば、2020年の夏に発表された、小説家白鳥士郎氏によるインタビューでしょう。https://originalnews.nico/139502
――棋士はどなたも『脳内将棋盤』を持っておられます。でも藤井先生は、あまり盤面を思い浮かべておられる感じではないと、以前、記事で拝見したのですが。
「はい」
――では、対局中はどんな感じで考えらおられるのですか? 棋譜で思考している?
「ん……それは、自分でもよくわからないというか。んー…………」
――盤は思い浮かべない?
「まあ、盤は(対局中は)目の前にあるわけですので」
「詰将棋は読みだけなので、盤面を思い浮かべるという感じでは……」
――えっ? ……私のような素人だと、詰将棋を解くときこそ将棋盤を思い浮かべるというか……むしろ手元に盤駒を置いていないと解けないくらいなんですけど……。
将棋のプロの世界は腹の探り合いであり、自らの能力の本質である「思考の方法」について簡単に詳らかにすることは、本来無いことと言ってもいいかもしれません。とは言え、これまで語ったようにそれらをはっきりと述べる棋士の人々がいらっしゃるのもまた事実です。そして、このインタビューにおいて行われた藤井二冠の発言もまた、棋士の思考の一環を覗くことのできる重要な機会であるように思われます。
さて、ここで述べられているのは、そもそも思考する際に「なにもない」ということです。
全くの虚無、というわけではないにせよ、少なくとも目の前に分かりやすい形で示すことのできる思考は、存在しないということなのです。
以下のインタビューで彼は次のように語っています。https://shuchi.php.co.jp/voice/detail/3394?p=1
彼は基本的にはこれまで述べたように、「符号」を使って思考するのですが。しかしある種の詰将棋などにおいてはそのような符号さえ必要にしないということでした。
このような、実際の目視確認→脳内将棋盤(符号による棋譜理解)→符号による思考→符号さえない思考という構図を単純なステップアップの過程として語ることはできないとは思うのですが、しかし、将棋というゲームについて思考する際に、その思考が極限まで達した人は何かしらの深淵へと、虚無への道を辿っているような、そんな感触を覚えてしまうのは僕だけなのでしょうか。
さて、というわけで、トップ棋士たちの、良い意味での思考の異常性について語りました。現在、12/6午後五時三十分ですが、僕がこの世の隅っこでこの文章を書いている間、世間の大舞台では羽生善治九段と豊島将之竜王二冠のタイトル戦第五局が、行われている最中です。