はてなキーワード: 物心とは
僕たちは生まれながらにして不幸だった。
物心がついた時には経済成長など実感できないほどなく、平和のみが幸運にも固定されていた。少子高齢化を無責任に押し付けられ、いつも年金の説明では僕たちが下で、いっぱいの先人が上に伸し掛かる絵を繰り返し見せられた。
小学生のころには阪神淡路大震災があり、生活は不条理に突然破壊されることを知った。
オウム真理教は天災だけでなく人災があることを教え、それを報道するテレビには頭のおかしい人をいじめることの楽しさと正しさを刷り込まれた。
学校ではいじめがあっても誰も救ってくれなかった。子どもも大人も誰も責任を取らずに済んだ。
どう大人を信じようと努めても、彼らの正しさの裏にある保身だけが形を濃くするだけだった。
いじめ、学力低下、キレる十四才、僕たちだけが責められている気がした。勝手に「ゆとり」を与えられ、数年後には「ゆとり」だとバカにされた。
ノストラダムスの大予言も二千年問題も世界を無くしてはくれなかった。変わらないんだ、という陰鬱な気分を虚構ごと生活に仕組まれた。
社会に参加するまでの過程で、どんどんと多様性という理想が叫ばれるようになっていった。でも現実はまだそう出来ていなかった。ゆとり教育でも、AO入試でも、新卒一括採用でも、実験の最前線で僕たちは消費された。
社会の正体に近づくほど、実験の甲斐なく何も変わらずに、大人たちは利権を固定させようと頑張っていることがわかった。かつて多くの若者たちの理想主義が現実主義に敗北し、僕たちの生活には既に革命の「か」の字すらなかった。
センスが良いとされる大人は肌触りの良い冷笑と諦観で、理想からも現実からも逃げているだけだった。
芸術に届くわけではないわずかな詩情の中に逃げ、丁寧な暮らしとやらで現実を隔離しただけだった。雑草も食えるらしいと、何も新しくない発見を雰囲気の良い雑誌で語った。
とにかく真っ当ではなかった。僕たちには老朽化した線路と駅が残された。
いつかみんな死ぬ、くらいしか希望はなかった。僕は、小学校四年、五年と苦労したあとに六年生になったときのような開放感を待っていた。
インターネットは唯一僕たちに与えられた現代的で民主的な革命だった。僕たちは最前線に立つことを初めて喜んだ。僕たちが社会を実験していた。大人の腕の中で揺らされるのではなく、自らが世界を開拓していた。
過去の日本では文学や学生闘争に向いたであろう若者の活力がインターネットで遊ぶことに費やされた。情報の波をサーフィンしていた。
けれどアナーキズムなど思想と呼べるほど突き詰められてはいなかった。脱法とジョーク、たくさんの知識。組織化しない雑多なカオスが世代や日陰者の雰囲気をベースとしてただ在った。
東日本大震災のとき、僕たちは初めて大きな波を感じた。世界ごと変えてしまおうというワクワクがあった。
ネットから始まる民主化が現実世界にも網目を伸ばし、キレイな情報を伝播させることを夢見ていた。
実際のところ我々には思想がなかった。正確には思想が育っていなかった。長い間の自己否定とカオスたちの団結は思想を形成させなかった。
論壇はインテリっぽい動きに酔っているままで、ほとんどの人間が責任を背負おうとしなかった。
大衆は十分なリテラシーを持っていなかった。目の前の文字が自分を騙そうとしているかだけを考えていた。
もちろん先行者と同様に誰も責任を取りたがらなかった。波は結果的に芸術の一部分だけに還元された。
僕たちの革命は、革命という皮すら被れずに失敗した。あの頃目立った人間たちのどれだけがまだ実際に社会に有効なことをしているのだろう。
僕たちは生まれてから今までずっと負け続けている。逃げ続けている。立ち向かう人間を冷たい視線で嘲笑っている。かつて"カッコイイ大人たち"がしていたように。
拗ねた子どものままで皮肉とセンチメンタルを捏ねくり回している。
最近は「多様性の尊重」がブームになっている。拡がり分化する人間の在り方を認めようとするのは正しいことだと思う。
だが、それは欺瞞だ。多様性は排外主義への攻撃だ。多様性を求める社会は多様性をもたらさないものを排除する。
最大限の寛容ではなく、この時代この社会における妥協点でしかない。
ただそれよりも深刻なのは、多様性未満の僕たちだ。多様性で救われるのは国籍、性指向、いくつかの快い思想である。いわば十分に形作られたアイデンティティーのうち、現代社会に適応するものだ。そして主張に成功したものだ。
僕たちの苦しみはアイデンティティーの未発達である。差別をされたり、大事に築き上げたものが喪失したわけではない。時代により幾度となく無意味化された結果、育たなかったのだ。
社会の複雑さへの想像力、ありのままの他者の受容、明確な善への地図が無かった。
今までのシステムは近いうちに崩壊すると言われつつも、なかなか崩壊しない。仮に崩壊したとしてもサバイバルを生き抜く知恵が無い。広大な大地に丸腰で放たれるのだ。
「ちゃんとしなきゃ死ぬ」とトリプルファイヤーの吉田靖直は歌った。「ちゃんとしなきゃ」という要請だけが社会にある。
なんとなく、どこか生きにくい僕たちの行き場はどこだろう。ちゃんとした職があればいいのか?ちゃんとした病名がつけばいいのか?ちゃんとした人になれればいいのか?ちゃんとした人ってなんだ?
今になってようやく哲学や文学などの人文学に解答を求めることができるだろうことに気づいた。それは人間として真っ当な足掻きに思えた。
まだ遅くはないと信じて、攻略サイトには無く、ビジネス書より直接的な、人間思索の旅に出ようと思う。良い哲学の書を教えてくれ。
新社会人だった頃の俺に言いたいことがある。
学校でもそうだが自信がないやつはプライドを守るために不要な戦いを仕掛けてくるから無視して欲しい。社会人になったいい大人がそんなことするのって思うだろうけど普通にいる。
でも無視するのはめっちゃ難しい。無視できるようになるまで6年くらいかかったし事あるごとにめっちゃムカついてた。
無視する方法は言い合いしないで相手の言うことを常に肯定すること。そのうち自分で墓穴を掘って勝手に大人しくなっていく。ただそれでも大人しくならない人もいる。でもそういう人はみんなに嫌われて孤立してるから安心しろ。自分は常に余裕を持ってニコニコしていれば周りから話しかけられて自然と話し相手に恵まれる。
そういった戦いを好む人は背が低い男性に多いと思う。だから俺は今でも背が低い男性は警戒する。距離が近くならないようにしている。
あとどうしても精神的に辛くなったら病む前に会社を辞めていい。会社なんて他にもいっぱいあるから大丈夫。もっと好きになれる仕事が世の中には転がっている。
物心つく前に両親は離婚していて、育ててもらった親とも仲が悪く社会人としての考え方を一切教わらなかったので新社会人の頃は苦労した。タイムマシンがあったら昔の自分に伝えたい。
その歴史を忘れたとは言わせないぞ。
テレビの深夜番組なんかで面白映像として流して、衒学を嗜むような芸能人がやれこれはこういう意味があるのだと言いながらニタニタ笑顔で紹介していたろう。
それを忘れたとは言わせないぞ。
インターネットの老人会がFLASH黄金時代なんだと笑顔で口にする話題に、北朝鮮を国民ごとからかうものが無かったとは言わせないぞ。
いくらでも出てくるではないか北朝鮮の「普通の庶民」を小馬鹿にするような動画のアレやコレや。
こんなことを繰り返しておいて、今になって口にするのか
なんてことをか?
信じられんね。
人によっては物心ついたと同時に北朝鮮の悲惨な暮らしをバラエティ番組の1コーナーぐらいに感じて今日まで暮らしてきたものだろうに。
今更になって相手が白人のロシア人だったら手のひらを返して「可愛そうにね」というのかね。
北朝鮮に済んでいるような、コリアンの薄汚い、アジアの、顎がとんがって、目のつり上がった連中なら「可愛そう」じゃないから笑えるのかい?
「あんなに目がつり上がってるなんてこれは自閉症の顔だよ生まれついてのキチガイのユーラシアの末端の田舎者なんだから魂が根本的に低俗なんだよだから馬鹿にしてもいいんだよ」
信じられんね。
それで大丈夫と思う神経がだよ。
子供が割れた花瓶の大きい破片を片手に一つずつ持って後ろ手に隠して、小さな破片をほったらかしなのにも気づかないで
「知らないよ。見てないよ」
と言い張るようなみっともなさだね。
ねえ君たちよ。
https://anond.hatelabo.jp/20220226125515
今現在、絶賛ロシアがウクライナ侵略中なので、上記ついでに、現状の憲法9条の考え方を書いておこう。
最初に言って置くが、私自身は共産党を支持してない。今に始まったことではなく、何でも反対で、現実を見ていない党に意味があると思ってない。
今の人は知らないかもしれないが、私が物心(?)ついた1990年ぐらいから、憲法9条改正の話はあったが実現してない。今まであまり盛り上がってるとは言えなかった。
それはなぜか。1990年は、冷戦終結の年と言っていい。なぜ冷戦が終結したかと言えば、ゴルバチョフ書記長がいたからだが、本質は、ソ連(ロシア)の軍事費が尽きたからだ。
つまり、相手から攻められない(==相手を蹂躙できるようになりたい)を軍事的に実現しようとするとソ連のように軍事費が尽きるのが現前に明らかなったのが、1990年だった。
なので下火になった。結局9条変えて、ソ連のように軍隊を持っても、体制が崩壊するだけで意味ないのが明らかになったからだ。
その下火状態から、とちくるった日本共産党が、集団的自衛権さえ放棄した主張をし始め、今に至ってる。誰も気にしないから、いままで無視されてた。
今もその論理は全く変わってない。憲法9条改正論者は、相手から攻められない意味の軍事能力を持つべきと思い込んでるかもしれないが、それが「相手を蹂躙できるようになりたい」に変貌しないとは、誰も何も証明できてない。
そもそも「相手から攻められない」ということ自体曖昧で、無意味だ。相手から攻められない確実な方法はこちらがそれ以上の軍事能力を持つ以外にない。だから「相手から攻められない」を完遂すれば、「相手を蹂躙できるようになりたい」に行きつかざる得ない。
むしろ今のロシアを見れば、強大な軍事力を持ったら暴走するのが明らかだ。少なくとも「暴走しない」とは誰も証明できてない。
そんなはずはない、と言いたいのかもしれないが、プーチンの「核攻撃」発言まで見てそれは言えないだろう。ついでに言えば、プーチンだって「自衛」と言い切ってる。ウクライナの「ナチ」から自衛するんだと言ってる。「相手から攻められない」ように自衛として侵略してるのだ。この状態で、「相手から攻められない」と「相手を蹂躙できるようになりたい」が無関係などとは言えるはずがない。
しかも、あの意味不明なロシアのプロパガンダを日本人でさえ大勢が信じている。政治家でさえも、だ。
そもそもアメリカでさえ、その絶対的な軍事力を真っ当に行使しているとは言えまい。ほとんどイジメのようにアフガン、イラクにも攻め入ってる。多少理由はあったとはいえ、そんなに褒められた理由じゃない。
それぐらい軍事力というのはとても魅力的な側面を持つ。なんせ武器を持ってるだけで相手がもみ手して近づいてくるのだ。日本の人たちがそれを本質的に理解しているとは到底思えない。
例えば、膨大な武器を手にした人たちが、軍事的圧力で選挙不正働きだしたらどうする?今だって止まらないのに止められると思うか?
平和ボケというよりは、軍隊ボケだ。もちろん日本だけではない。
その意味で憲法9条を改正出来るとまで言える理由はない。どのレベルで見ても、まだ全く議論が足りない。
だから、憲法9条の必要性は全く変わりない。むしろもっと必要になってる。
ロシアになって、軍事費に使い過ぎて、体制が崩壊しないように。
不要なのは、憲法9条の廃棄ではない。憲法9条を基にした、専守防御的集団的自衛権とも言うべき概念だ。今はそんな言葉はないが、他国の事情を考慮に入れられる、相手を攻撃しない、それでも日本国を真っ当に守ることが出来る、集団的自衛権が求められてると思う。
その議論で、9条2項は「軍事力」そのものの保持を禁じているではないか、だから改正が必要なんだ、という話はある。が、意味がないと考えてる。
もう既に憲法9条が集団的自衛権の行使には当たらないという憲法解釈をしてしまったのも事実だ。
そして、憲法とは国の形を決めるものであるはず。日本国はこれからも軍事力を持ちたいと思ってない。持つのは単に防御したいためで、将来は「軍事力は放棄する」のだ。それが日本国が目指すべき国の形であることは何も変わってない。
でも、防御が必要だから、法律でどのような軍事力が必要か、状況に応じて決めていくことになる。
その意味では、緊急事態といういい方もできる。だから自民党が言う意味の「緊急事態条項」ではなく、「軍隊を持たなければいけない」という意味の緊急事態として法を作ることも考えられる。
が、結局のところ、意味はあるまい。日本を侵略したい国は、日本に憲法9条があろうがなかろうが攻めてくるだけの話だ。もちろん法律がどうなってようが気にするとは思えない。
なので、その法律を作る意味さえないと考える。だから憲法9条改正に反対だ。
そんなことより考えるべきことはいっぱいある。中国が攻めてくるのに、持ってる武器が中国製なんてしゃれにもならない。
結局攻めてくる相手は、他国の憲法なんぞ見てない。そんなことよりは、なにをどう防御するかだろう。
幸い、最近は集団的自衛権を放棄しようという人は少なくなってる。
それに、まさか積極的に他国に攻めに行きたいわけでも、ロシアのように自滅したいわけでもあるまい。なので歯止めの方針として憲法9条は必要だ。将来は軍事力は放棄するのだ。今は単にちょっと回り道してるだけ。
私は「インターネット上で故人のブログが閲覧できる」ということを知り、廃墟サイトまとめを閲覧していた。
そもそも一体なぜ私が故人のブログに興味を持ったのかということについて述べたいと思う。中学生の頃、図書館で南条さんの本を借りた。当時私はリスカやアムカを常習的に行っていた。そのような自傷行為がきっかけで南条さんの本に辿り着いたと記憶している。
本には、南条さんという人物について、また彼女がインターネット上に残したものについて書かれていた。
「死んだらインターネットで公開したものが残り、さらには書籍化されるパターンもあるらしい」
衝撃だった。
南条さんは、生存した証をインターネット上に残して死んだ。いや、「生存した証がインターネット上に残ってしまった」と言い表した方が正しいのかもしれない。
さて話を戻すと、インターネット上で閲覧できる故人のブログというのが、二階堂さんの「八本脚の蝶」という日記サイトだった。利用されていたのは「@niftyホームページサービス」で、このサービス名から推測できるように、当時はまだ世の中に気軽に開設可能なブログサイトは広まっていなかったのかもしれない。
二階堂さんもまた、南条さんと同様にに生存した証をインターネット上に残して死んだ。特筆しておくべき点が、二階堂さんは南条さんと異なり「自らの意志で生存した証をインターネット上に残して自殺した」という点である。
私は、南条さんも二階堂さんもインターネット上でリアルタイムにて追うことができなかった。そのことについてなぜか「残念だ」と感じてしまうの自分自身の気持ちが不謹慎でたまらなかった。
インターネットではブログサービスの代りに増田が流行り始めた。私は主にメンタルヘルスについて発信している増田を好んで見ていた。そのうちそのクラスタ内のある増田について「どうやらあのアカウントの持ち主は自殺したようだ」と囁かれている場面に何度か遭遇するようになった。
このような場面を目撃し私は、非常にモラルの欠けた発言になるのだが「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と感じるようになっていた。
さて、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化され河出書房新社より発売された。文庫化されるという情報を得た時点で既に私は、自分の心の中で妙にひっかかるものを感じていた。故人の尊厳について考えた。
前置きは長くなったが、本編の日記を読んで感じたことを述べていこうと思う。
私はいつの間にか、2001年当時自分が何をしていたかということについて思いを馳せていた。2001年6月13日水曜日、私は小学6年生だった。私は6年生のゴールデンウィークに旅行先で体調を崩し、風邪をこじらせてしまい入院した。自宅で寝ていると熱がぐんぐん上がり、布団に包まっても寒くて寒くてたまらなかった。後になって改めて親とその話をしていると、どうやら熱性けいれんを起こしていたらしい。
ところで北海道の運動会は春に行われる。私は運動会当日までに退院することができた。当時の担任の先生が「持久走どうする?」と確認してきたので、私は「徒競走だけ出ます」と答えた。グラウンド5周の1キロなんて走りたくなかったのである。
私にとってそんな小学校最後の運動会が終わり、初夏なのか蝦夷梅雨(北海道にも一応梅雨のような時期が一瞬だけ存在する)なのかわからない曖昧な気候の中で、小学校生活を送っていた。おそらくそれが、私の2001年6月13日水曜日だったのではないかと思う。
2002年4月8日、月曜日。おそらくこの日に私は中学1年生になった。中学校に進学したといっても、私が通っていたのは小中併置校だった。わかりやすく説明すると、小学生の教室が校舎の2階にあって、中学生の教室が3階にあるということだ。つまり中学生になると階段を上る段数が増えるだけのことである。
私は新学期の校舎の何とも言えないにおいに敏感な子どもだったので覚えているが、小学生のフロアと中学生のフロアとでは、においが異なっていた。中学生の階の廊下や教室は、やはり中学生らしい大人っぽいとでも言ったらいいのか、とにかく少し変なにおいがしたのを覚えている。
4月も8日頃となると、多くの会社にとっては新年度の区切りを迎えてから数日経過したというところで、まだ新しい環境には慣れていないという時期ではないだろうか。
2002年4月8日の月曜日、二階堂さんにとってのこの日は、ある本に引用されていた詩を見つけることができた日ということになっている。どうしても読みたくて探していたのだという。彼女にとってのちょっとした記念日であるように感じられる。
2002年の3月末~4月初旬の彼女の日記を確認してみると、すっぽりと更新されていない空白の期間になっていることがわかった。年度末から年度初めは、やはり忙しかったのだろう。
彼女は文学部哲学科を卒業した後、編集者・レビュアーとして働いていたようだ。新年度が始まって早々しかも平日に、ずっと探していた本が見つかったという出来事を日記に書くほどに、彼女は本に対してかなり熱心な人物だったんだろうとぼんやり想像する。
2003年4月1日火曜日、この日は平日だ。
平日だが、二階堂さんの日記は「その一」「その二」「その三」「その四」「その五」「その六」「その七」、これに止まらず「その八」「その九」、さらに続き「その一〇」「その一一‐一」と綴られている。私はそのことに気付き、なんだか雲行きが怪しくなってきたと感じた。「その一一‐二」「その一二‐一」「その一二‐二」と日記は続くが、いくら新年度の決意表明にしても長編すぎやしないだろうかと思う。「その一二‐三」の日記の次に、彼女はやっと翌日の4月2日を迎えられたようだ。
しかしその4月2日水曜日の日記のタイトルは「その一」とある。この日は「その七」まで綴られているが、分割されている記事もあることを踏まえるとトータル9回更新されたということなのだと思う。おそらく当時はスマホなど普及していなかったはずなので、勝手な個人的な予想になるが、彼女は自宅で夜中になるまで複数回にわたってブログ記事を投稿したのではないかと考える。もしくは、職場のPCから小分けして投稿していたという可能性も考えられる。しかし、2002年4月8日月曜日の日記から判断する限り、彼女であれば絶対にそんなことはしないのではないかと思う。
一投稿あたりの文字数は、今でいうブログ(いわゆる収益化を目的としたブログ)と比較するとかなり少なく感じられる。
しかし彼女の複数回に及ぶブログ投稿を現代の増田で例えるなら、短文の増田をかなりの回数にわたって連投しているという状態に置き換えられるのではないかと思う。多くの人はそのような増田のことを、はてなーもしくはいわゆる「病み増田(メンタルヘルス系の内容を扱う増田の中でも特に思春期の中高生が該当するように思う)」に分類すると思う。事実私も、一晩にかけてそのように連投しているアカウントを見かけると、どうしてもメンタルヘルス系の悩みでも抱えているのだろうかと見なしてしまう。
さて連続して投稿された日記の内容はというと、私が生きてきた中でそのタイトルも作者も聞いたことがないような本からの引用である。また、彼女が数年前に受け取ったと思われる知人からの手紙を引用している投稿も見られる。
ふと私は、おそらく二階堂さんは思考の整理のためにブログを使うというやり方をとるタイプの人間ではないだろうかと感じた。というのも私も時たまTwitterをそのような用途に用いるからである。そしてどういうときにその思考の整理をするかというと、それは「ものすごく死にたいが、どう対処していいか方法が見当もつかないとき」である。これについては、もしかするとピンとくる方もいるかもしれない。そのようにしばしば私はTwitterで思考の整理を行う。なぜなら自分自身の脳内の回転及びそれによって生じる思考をインターネットに吐き出さなければ、到底処理しきれない状態に陥っているからだ。
そしてなぜあえてインターネットに吐露するのかというと、リアル社会には私の話を聞いてくれる人が存在しないからだ。私にとって、リアル社会で相手の様子を窺いつつ的確なタイミングでふさわしい言葉で相談を持ちかけるという動作は、極めて難しい。過去に何度も相談時のコミュニケーションに挫折する経験を重ねたことがきっかけで、そのような事態に辿り着いてしまったのではないかと疑っている。
彼女の本心は今となってはわからない。そのため私のような人間が、勝手に彼女と自身を重ね合わせ、どこかに類似点があるのではないかとあれこれ想像してしまう。
ふと、彼女の死とはこのような在り方でよかったのだろうかと思わず考えてしまう。死後に自分の作品が残るとは、そういうことなのだと思う。
2003年4月に私は中学2年生になり、無事に厨二病を発症した。インターネットに本格的に参入したのは、この時期だったかと記憶している。休み時間には、情報の担当教諭がヤフージオシティーズのアカウント取得を手伝ってくれた。
やはり、当時はまだブログがそこまで一般的なものではなかった。私はまずは無料レンタルスペース(現代でいうレンタルサーバーのようなもの)を契約し個人サイトを作っていた。そしてレンタル掲示板を設置し、同盟バナー(ハッシュタグで繋がる文化など当然存在しなかったため、共通の趣味で繋がる同盟という文化が主流であった)を貼り、繋がっていた。あの頃はそのような時代であった。
私は夜な夜な日記(これはノートに綴った日記であった。というのも夜はインターネットができない家庭環境にあったのだ)を書き、アムカをするようになっていた。田舎特有の地域性、そこで生じた問題、そして本来の私の性格と一体何が根本的な原因であるのかはわからないが、ちょうど家庭内でもそこそこ大きな出来事が発生し、私は混乱のさなかにあった。
やがて私は個人サイトの別館を作るようになった。それはおそらく現代でいうTwitterの複垢(サブアカウント)のような類に非常によく似ているのではないかと思う。私はやがて、いかにも「メンヘラポエム(笑)」と晒されそうな文章を拙いながらも公開するようになっていた。
私は日本におけるインターネット内でポエムが馬鹿にされる風潮にいまいち納得がいかないので補足するが、あの頃は「テキストサイト」とカテゴライズされる個人サイトが充実していた。現代詩ともエッセイともいえない、インターネットならではの文章をポートフォリオのようにまとめた個人サイトは、当時かなり多くみられたように思う。
このように、思春期も相まって私は何かと思いつめて過ごす時間が多かった。先に述べたアムカをするようになったのは、確か半袖を着なくなった秋頃だったかと記憶している。
二階堂さんの日記は2003年4月26日の土曜日で更新が途絶えている。4月26日というと私の誕生日の翌日なのだが、そんなことなど今はどうでもいい。4月26日の日記は、6回更新されている。「その一」「その二」「その三」、そして「お別れ その一」「お別れ その二」「お別れ その三」という題で投稿されている。
そしてその後に、おそらくこれは投稿時間を設定したことによる自動投稿なのではないかと思うのだが、「最後のお知らせ」が更新されている。その内容は、「2003年4月26日のまだ朝が来る前に自ら命を絶ちました」という旨を報告するものである。
人の死についてあれこれ憶測することが心苦しいが、おそらく夜中のまだ朝が来る前に、最期のまとめとお別れの言葉を、何人かの対象に向けてそれぞれ投稿したのではないかと思う。そして、2001年から更新が続いていた日記をありがとうございましたという言葉で締めくくり、パソコンをシャットダウンしたのかどうかはわからないがきっと彼女のことなら身支度を整えてどこか高い建物へ向かい、そして亡くなったということだと思う。
断っておくと、私は『八本脚の蝶』すべてを読破したわけではない。二階堂さんが好んだ幻想文学などの専門分野について私は詳しくないため全文の理解が困難であるという言い訳により、私は挫折した。しかし何とも言えないモヤモヤとした疑問が残った。
冒頭で私は「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と述べた。再度ここで明記するが、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化された。
もしかするとインターネットに生きた証を残して自殺するということは最悪な選択肢なのではないかと私は思った。というのも、自らの意志に構わず書籍化され、需要や編集者の熱意があれば数年後に改めて文庫化されるというパターンもあり得るということが今回わかったからである。
果たして彼女はそのようなことを望んでいたのだろうかと、厚かましくも疑問に感じてしまう。世に広まるということは、全く想定していないターゲット層にまで届いてしまうということだ。もしかすると「自殺なんて弱い人間が行うことだ。自殺をする人間は敗者だ」などと主張する層に触れ議論を呼ぶこともあり得るかもしれない。
事実、書籍化された『八本脚の蝶』は私のような読者にまで届いたし、加えて私は今こうしてこのような文章まで書いている。果たして私のこのような行為は許されるものであろうか。
文中で軽く触れたが、私にとって増田は思考の整理のためのツールとして役立っている。
私は物心ついた頃より、「この子はぼんやりと過ごしているねぇ」と周囲から見なされることが多かった。しかしその一方で、「あなたは随分と真面目だね」などと言われる場面もたびたびあった。その理由について私は、私の脳は必要以上に過剰な思考を行っているためではないかと考えている。
私にはストレスや言いたいことを溜め込む傾向がある。「我慢しちゃだめだよ」とかなりの数の人たちから言われた経験がある。しかし、言える相手に言える範囲で相談をし、さらに増田で大量に噴出しても追いつかないのが残念ながら現状なのだ。
私は、増田を含むインターネットとは「最後の砦」であると考えている。リアル社会で捨てきれない期待をインターネットに託している。もし私がインターネットに見捨てられたなら、どうにかして確実な方法で間違いなく命を絶つと思う。それほどまでに私はインターネットに縋り付いている。
果たしてインターネットは苦しみの最中に置かれた人間にとっての救いとなるのだろうか。
今となっては、様々な利用目的によりインターネットは利用されている。インターネットで事業を興し収入を得る個人も随分と多く見かけるようになった。しかしインターネット上に人が増えたわりに、一向に私はそこで救われることがないように感じる。
私はリアル社会の中で、絶望に絶望を重ねている。冷静に振り返ると自滅して傷ついている場面が多いようにも感じられるが、何らかの救いを求めてインターネットに入り浸っている。もしも私がインターネットに絶望しきってしまったのなら、それは完全に終了の合図だ。「死」以外に何もあり得ない。
インターネットを彷徨っていると、「死ぬ以外の選択肢が無いために死ぬという選択を取った」という人間が多数存在することに気付かされる。
二階堂さんが一体どうして「八本脚の蝶」というウェブサイトを立ち上げたのか私にはわからない。もしかすると彼女の日記のどこかで触れられているのかもしれない。
しかし、私にはそのことについて何時までもこだわっている時間は無い。正直に言うと、小康状態を保ちながら生きていく上では、他人のことを気にかける余裕など皆無なのだ。そして当然なことであるのかもしれないが、健康な人間にとっても同様に、いわゆる「生きづらい人」を気にかける余裕というものは本当に無いらしい。最悪の社会だと思う。
しかしその「最悪な社会」だからこそ、インターネットは救済希望者を受け入れて欲しい。私の意図することをより明確に言い表すなら、「すべての利用者がインターネットを通じて他者を救済する世界であって欲しい」。
相変わらず私はぐちぐちと思考の飛躍や感情の上下運動に振り回される様子を、増田のしかも匿名で披露している。どうかこのことに何らかの意味があって欲しい。
私は自分自身の人生について、「あまりにも辛く、ほとんどの時間を疲れ果てた状態で過ごし、さらに今にも死にたくなる瞬間がたびたび勃発してしまう」ものであるように感じている。それならば、私の不幸によって同じようにどこかで苦しい思いをしている誰かが救われて欲しい。
「自分自身とよく似たパーソナリティの人物の言動や思考を知ること」は、抱えている苦しみを解消することにかなり役立つのではないかと思う。そのような情報を医療機関で提供してもらう機会が少なく、私はインターネットに救いを求めている。そういうわけで私は毎日欠かさずインターネットを利用している。
私はインターネットヘビーユーザーのまま亡くなっていったすべての人たちを観測したわけではないが、目にした限り彼らは社会に対する憎しみを叫ぶことなどせずにこの世を去っていったように思う。彼らに共通することとしては、後世に何らかの表現方法でアドバイスを残し、そして希望を託して亡くなっていったように感じられる。
私は彼らから希望を託された側として生を続けたいと思う。そしてそれがいつまでの期間になるかはわからないが、インターネットに救いを求めつつも、積極的に自分自身の不幸を開示していこうと考えている。
おっぱい吸ってた記憶ないから、物心つく頃にはもう吸ってなかったんだろう。
でももしかすると本当はもっと飲みたかったのに無理やり卒業させられたのかも知れない。
今からでもその頃を取り戻すべきか
そういえば命日が今ぐらいだったかなと気づいたので書き起こしてみる
伯父は今で言うところの非モテを拗らせたマザコンDV男みたいな性質の人間だった
内弁慶で身内にしか強く出られないタイプだそうで、私が物心つく前に自分のDVで離婚していた
離婚の時は私の両親を含めた近い親族が手を尽くして良い弁護士を探し回ったそうだが、その事にお礼の言葉一つも無かったようで、親族からの評価は悪かった
唯一、彼の母親、つまり私の祖母だけは、そんな事があったにも関わらず、聞き分けの良い自慢の息子であると認識していたようだが
ちなみに、当時の事情をよくわかっていなかった私達(甥姪)には優しい…などということもなく、突如として自分を棚に上げて言いたい放題説教を始めるし、進路についても口を出してくるので当然嫌われていた
例えば、姪は私一人だったせいなのか、大した容姿ではないのに「お前はいい大学に行ってアナウンサーになれ」と進路の話題になる度に言われて気持ち悪かったのだが、髪を染め始めると一転して不良だあばずれだと罵られるようになった
その辺りで両親もこっち側の親族と極力関わらないようになっていったので、誰かの葬儀以外では顔を合わせることもなくなった
そんな伯父だが、神聖化していた祖母を介護の後に亡くし(老々介護とはいうが、DV遍歴のあるマザコンにまともな介護ができるはずもなく、実情は酷いものだったようだ)、10年近く独居老人をした後に亡くなった
火葬場でお経を読んでもらうだけの簡略な葬儀には、三親等ぐらいまでの親族が数名だけ来ている状態だったし、故人を惜しむような声は1つも無かった
なんなら同じ時間帯に火葬場に居た別のご遺族とご友人の方に同情してしまうぐらいだった、遺影の写真がかなり若い方のように見えたので
伯父は生前から周囲に嫌われる言動を取ってきたからこその最期だったと思うのだが、親族からも嫌われ、たった数名が無表情で事後処理に来る火葬もあれば、ご家族だけではなくご友人が大勢駆けつけ、すすり泣きがあちこちで聞こえる火葬もあるのだなと
同じ日、同じ時間帯の火葬だったけれど、あまりにも対照的で、現実感が無かったようにすら思う
ただ、伯父のような終わりはやっぱり嫌だなとぼんやり考えていたのは覚えていて、これからも時折思い出す記憶の一つになる気がする
長生きしたいとそもそも思ったことがない。物心ついたころから醜く老いてまで生きていたいと思ったこともなかった。
自分の周りにいた老人は年をとるにつれて同じことしかしゃべらなくなり、動かなくなり、病気がちになり、やがて多かれ少なかれ死んでいった。
認知症の身内もいた。面倒をみていた家族が尋常じゃなく、大変そうだった。
そんなんだったから家族を作るとか子どもを作るとか若いころには選択肢になかった。
20~30歳ぐらいまで鬱を発症していて希死念慮も強かった。自殺するには気力と体力が足りないけど、一度頑張ったときにオーバードーズの自殺未遂も起こした。
それでも20代の終わりぐらいから自分を愛してくれる伴侶を見つけて鬱も徐々に回復し、30代になってから結婚して、だいぶ迷ったが子どもも産んだ。
何かがよくなると思っていた。それは確かによくなった。
はたから見たらたぶん幸せで家庭円満な、これ以上ないくらいの、家族。
でも今でもやはり、ふとした瞬間にしにたいな、と思ってしまう。
長年強く強く思い続けた希死念慮はもう自分の生活習慣のようになっていて、そこらかしこで顔を出す。
車を運転していてふと出てくる。このままアクセルを踏み込んで、どこかに突っ込めば、この辛い人生を、終わらせることができるのに。
もうとっくの昔に、これ以上辛い思いをしたくなかったら死ぬしかないとわかっている。
いざとなったらスイスに行って、補助団体を頼ろうと思っている。
死期を自分で選べたらいいのにと思う。
自分がもっと年をとったときに、身体もぼろぼろになって、痛い思いをあちこちに抱えたまま、或いは経済的に不安定なまま、未来への不安を抱えて生きていたくない。
自分が自分でなくなるぐらいぼけてしまって、下の世話を他人に頼って・・・あるいは。
死は私にとっていつも身近で、いつもそこにあるもの。
死を自分で選べたらいいのにと思う。
最近初めて母が隠していた本音を聞いて涙が止まりませんでした。
1人で抱えるには重すぎるのでここで昇華させてください。
母
・アラ還
私は生後10ヶ月頃から実家の近所にいる父方の祖父母に預けられていました。その頃の記憶はありませんが、幼稚園〜小学校1年生くらいまでは帰りに祖父母の家に行って自由気ままに過ごして、夕方くらいに祖父に家まで送って貰うのがお決まりでした。
生後10ヶ月〜の話を聞いた時に、何でなんだろう?と思ってはいましたが、母が働きたかったのかな〜と呑気に思っていました。私自身祖父母の家の心地が良くて好きでしたし、そこまで深く考えたことがなかったです。
ある日母から、
「あんたが10ヶ月くらいの時に祖父母に預けたけど、ほんとは預けたくなかった」と話をされました。
詳しく聞くと、本当は2歳くらいまでは一緒に過ごす予定だったが、父方の祖母が毎日毎日家まで私を迎えに来て「仕事は?」「いつから戻るの?」
などと言っていたそう。
それを聞いて私は涙が止まらなくなりました。
大好きな父方の祖母がそんなことを母に言っていた事が悲しい。母がその言葉にどれだけ苦しい思いをしたのかと考えるとわたしも苦しい。私が祖父母の家で過ごしたことを楽しく話していたのをどんな気持ちで聞いていたのかと考えると心が痛い。
母の実家は今住んでる場所からは遠く、母方の祖父母も早くに亡くなっています。
知らない土地で友人などもいない中、こんなことをずっと1人で抱えていたのかと考えると胸が苦しくなります。
そして何より、父が母の味方をしなかった事にとてつもなく怒りを覚えました。
私は元々物心ついた頃から父のことを好きだと思ったことはありません。暴力を振るわれたり、暴言を吐かれたりされた訳ではありませんがひたすら好きではなかったです。
最近は差別発言が多かったり、ゲームに腹を立てて怒りだしたり、自分の思い通りにならないとキレたりなどがあり、好きではない から 嫌い になっています。
私が希望する大学に進学することが決まった時なんかは、合格したことを伝えたら「女は大学なんて行かなくていい」と母のいない時に言われたりしました。
私が進学することに何にも反応しなかったくせに、いざ合格したらこれ。本当にこんなのが父親なのかと思った瞬間でした。きっと一生許せません。
話はずれましたが、父は何も言いません。何も言わないということは、自分が不利になること以外には興味を持たず味方にさえなってくれないのです。
きっと父が母の味方をして、祖母に言い返していれば母はこんな思いをしなくて済んだのじゃないかとしか思えません。
母からの側面しか話を聞いていないので一遍的な考えになってしまっている気がしますが、最近の言動も相まって余計に父が嫌いになりました。
そして祖父母(特に祖母)も次からどんな顔をして会えばいいのかわからなくなりました。
母に対して腹が立つ時もありますが、いつも私の味方であってくれて最後には優しい母が私は1番好きなんです。
こうやってブログを書いてる今も、母のことを考えると涙が出ます。
話を聞いている時から終わったあとまで、私があまりにも泣くので、母はきっと大好きな祖母を悪く言われて泣いていると思って「もう言わないから、ごめんね」と言われ、否定したかったですが涙が止まらなすぎて何も言えませんでした。
もうあと2年もすれば私も仕事に就き、家を出るかもしれません。私が家を出て、母と父が2人で暮らす未来を考えると不安しかありません。母は現在進行形で父方の祖父母の介護もしています。父親は自分の親に対しても無関心なので何も言いません。
だからと言って私が実家にずっと居る気もありません。干渉されることや父親と同じ空間にいることが嫌なので早く家を出たいと思っています。
話がぐちゃぐちゃになってオチというオチもないのですが、インスタやTwitterにある義母嫌いの漫画や文章のような世界は案外身近にあるものなのだなと思いました。
私は母の味方であろうと思います。
「なんか現代日本社会、みんなうっすら子どもが嫌いだよな。」とか言われているのを見かけたけれど、
そもそも現代に限った話じゃなく、昔の日本人も子供は嫌いだったんだろうと思う。
https://pmazzarino.web.fc2.com/lesson24.html
「昔の日本人も、生活水準を落とすことを嫌ってこどもを持とうとしませんでした。」
「理想とするこどもの数と現実に産むこどもの数が一致した時代は、人類の歴史上一度たりともありません。」
まあここに書かれている事が何処まで本当かは分からんが、
貴女が現状から抜け出したいと考えているのなら、この方法を試してみてください。
即効性があります。
①今までの人生史を書く。
100均のノートでもコピー用紙でも構いません。物心がついた時から覚えていることを全て書き出してください。文章を読む限り文章力も記憶力ととても高いように感じました。
覚えている範囲で書いてみてください。
↓
②書いたものを読み返す。
辛ければ1回でいいです。もし平気なら2回読み直してみてください。
↓
③破って捨てる。
お父様に見つからないように破って捨ててください。
↓
④お父様や職場の人に嫌な事をされたり言われたらまたその出来事を書く。理不尽だと思ったことも全て吐き出すように書く。
他人に具体的になにを言われたのか、されたのか全て書きます。具体的に書けば書くほど現状がわかります。許せないなら尚のことです。貴女は悪くないのです。されたことを堂々とすべて書いてください。
↓
⑤破って捨てる
これだけです。
これを繰り返してみてください。
31歳の女。発達障害のため、人から嫌われ、見下されてしまう。
何をしても人より劣っているし、空気が読めず、相手が期待している言動が取れないからだ。
実家暮らしで、父と同居している。元々は父と母と一人っ子の私の3人家族だったが、8年ほど前に母は自殺した。
父は立派な会社を定年退職した後、よくYouTubeを見ている。ネトウヨで、反ワクチンで、一日中韓国人や中国人やユダヤ人の悪口を言っている。ユダヤ人は原爆を作ったから許せないんだそうだ。あとは、犬や猫を虐待したいそうだ。父の話に笑顔で頷かないと、父は不機嫌になるので、毎日とても疲れる。
母は、私が発達障害の出来損ないであるため、統合失調症を発症し、自殺してしまった。「あんたみたいな出来損ない、誰だって殺したくなる!」だそうだ。私は物心が付いてから母が死ぬまで、殴られずに済んだ日は1日もなかったと思う。「どうしてあんたはふつうになりたいと思わないの!」と言いながら、馬乗りで殴られていた。中学生の頃、私が殴り返してみたら、父が飛んできて私をボコボコにした。私が大学生になった頃、母は幻聴が聞こえるようになった。私は何度も精神科に付き添った。私は馬鹿なので大学を卒業しても就職できず、専門学校に進学したが、母の異常な言動に振り回されて、専門学校に通うことさえできなくなった。例えば、母の大量の唾液がなみなみに入った紙コップを持ってショッピングモールを歩き回らさせられるなど。
私が専門学校に通えなくなった時、母は「私の人生と子育ては失敗した」と言って、マンションのベランダから飛び下りてしまった。父はずっと単身赴任でいなかったので、遺体の確認や警察への対応は全部私が行った。
家族で車に乗っていた。父は運転席、母は助手席、私は後部座席。
「こいつって、一匹狼を気取っていて、本当にうざいよね」と父が。
「そうそう、狼になんかなれない、弱っちいリスのくせに」と母が。
「一匹リス、そりゃいいや。弱いんだから生意気言わずに、大人しくいじめられてろっての」と父が言って、両親はニヤニヤしながら私の顔を覗き込んだ。私が無表情でいると、
「ほらー、ここで泣かないから、あんたはうざいのよ」と母が笑った。
週に3回、通称B型作業所と呼ばれている、障害者の作業所に通っている。工賃は1時間あたり200円くらいだ。職員や他の障害者とは出勤時と退勤時の挨拶以外にはほとんど会話しない。昼休みもみんな静かだし、他の障害者との連絡先の交換などは禁止されている。
「おはようございます」「お疲れ様でした」「そうだね、お父さんの言う通りだよ」以外の発言は許されない環境で、ずっと生活している。
そろそろ気が狂いそうだ。
なんで自立しないのかと言えば、障害者なので一人暮らしはできず、グループホームに入るしかないのだが、
以前グループホームに入ろうとした時に、グループホーム入居希望の障害者に首を絞められて失神しかけた挙げ句、仲良しごっこをしようとしたお前が悪い、と職員に叱責されるなどのトラブルがあったからだ。
父に笑顔で頷き続けるか、他の障害者に暴力を振るわれるかの2択しかない。
どの道、誰かと人間関係を築くことはできず孤独に苛まれるだけなので、暴力を振るわれない方を選んだつもりだった。
環境を変えても、私がダメだからダメだと、ずっと思ってた。愛されるためには愛される能力が必要で、残念ながら私にはそれが決定的に欠けていると思えるから。
私は男性からもグループホームの人からも愛される能力がないから、ひどいことをされるんだと思っていた。
B型でしか働けないのは、引っ越しとそれに伴う転院による、大幅な減薬で体調が悪化したため。私は発達障害の二次障害で双極性障害になっているのだが、
今までの抗うつ薬を全部なくして、少しの気分安定薬だけにしたためだ。
作業所の職員は、今年の秋までには週5で働けるようになると思っているようだ。
父は、私の大学や専門学校の学費を出してくれた。父は、一応私を愛しているらしいので、困る。父は私に一生側にいて欲しいと再三言っているので、自立したいと言えばそれを裏切ることになる。
ずっと父を可哀想だと思っている。妻は自殺するし、娘は出来損ないだし。可哀想だから、私の人生を犠牲にしなければならないと思うが、今後の何十年を思うとぞっとする。何かがおかしいと思う。
寝て起きたら、デモデモダッテ思考が顔を出した。父と離れたいなんて、私のわがままじゃないかと疑っている。よく分からないから、今日、相談支援専門員さん(何回かソーシャルワーカーさんと書いてるけど、勘違いでした)に電話してみようかと思う。
最近七歳になったばかりの娘がいて、彼女の物心がついた頃、何となくでも過去の思い出を話せる頃、っていうと三歳の頃からになるので、そうか彼女にとって人生の半分はもうコロナ禍なのかと。
「with コロナ」っていうと一般的には、多少の感染は諦めましょう、自粛しすぎず経済回していきましょう、みたいな事を指していると思うのだけど、彼女にとっては今の自粛している状況がすでに with コロナになっているんだなって。
どういうことかと言うと、彼女の発言や行動を見る限り、現在の手指消毒励行・常時マスクな環境がすでに当たり前になっていて、なんら不便と思っていない。そもそもコロナ禍以前の彼女の世界はほとんどが家族と共にある時間で、そこには大きな変化がないから当たり前と言えば当たり前なんだけどもね。小学校の行事や授業の内容に関しても、自分たちからすればずいぶんと残念な状況で時に悲しくなったりもするのだけれども、彼女たちは違う。なぜなら現状が彼女たちにとってデフォルトだから。
だから親として心掛けているのは「あれが出来なくて残念だね」「こうだったら良かったね」と、そもそも彼女の人生に未だ存在していないものを嘆くののでは無く「コロナでもこれが出来て良かったね」「そんな工夫で上手くやってるんだね」というポジティブな言い換え。コロナ禍以前の人生を多く知る大人がどんなに残念に思っていても、彼女の人生の半分を残念なものと評価するような事は避けるべきだと思う。