はてなキーワード: 定性分析とは
Vを社会福祉とすると、V(W_1,...,W_H)と表せる。
1,...,Hは社会のメンバーに割り当てられた番号であり、Wは満足度である。
また、それぞれのメンバーhに財貨やサービスの転換T_hを課す(e.g. 所得税)。
また、T=(T_1,...,T_H)とおく。
Tが与えられた時、実現可能ベクトルの組(G,I)の集合をK_Tと表す。
hの実現可能集合F_hはG,I, T_hによって定まるので、F_h(G,I,T_h,X_{-h})と記す。ただしX_hは消費ベクトルである。
W_hは消費ベクトルX_hからW_h(X_h)によって決まる。
社会均衡X^*に到達していることとその均衡が一つしかないことを仮定する。均衡X^*はG,I,Tの関数である。
政府はその均衡を予測し、V(W(X_1^*),...,W(X_H^*))の結果を最大化するようにG,I,Tを選択する。
ここで、A: ℝᵐ × ℝⁿ → ℝᵖ は線形写像、B: ℝᵏᴴ → ℝᵖ は凸関数
ここで、Cₕ: ℝˡ × ℝᵐ × ℝⁿ × ℝᵏ → ℝᵠ は凸関数、Dₕ: ℝˡ⁽ᴴ⁻¹⁾ → ℝᵠ は線形写像
均衡 X*: ℝᵐ × ℝⁿ × ℝᵏᴴ → ℝˡᴴ の存在を証明するために:
一意性の証明:
1. Wₕ の Xₕ に関する Hessian 行列が負定値であることを示す
max[G∈ℝᵐ, I∈ℝⁿ, T∈ℝᵏᴴ] V(W₁(X₁*(G, I, T), G, I, T₁), ..., Wᴴ(Xᴴ*(G, I, T), G, I, Tᴴ))
制約条件:A(G, I) ≤ B(T)
L(G, I, T, λ) = V(...) - λᵀ(A(G, I) - B(T))
KKT条件:
1. ∇ᴳL = ∇ᴵL = ∇ᵀL = 0
2. λ ≥ 0
3. λᵀ(A(G, I) - B(T)) = 0
4. A(G, I) ≤ B(T)
均衡 X* のパラメータ (G, I, T) に関する感度を分析するために:
1. 陰関数定理を適用:∂X*/∂(G, I, T) = -[∇ₓF]⁻¹ ∇₍ᴳ,ᴵ,ᵀ₎F
ここで、F は均衡条件を表す関数
時間を連続変数 t ∈ [0, ∞) として導入し、動的システムを以下のように定義:
dX/dt = f(X, G, I, T)
ここで、f: ℝˡᴴ × ℝᵐ × ℝⁿ × ℝᵏᴴ → ℝˡᴴ は Lipschitz 連続
確率空間 (Ω, ℱ, P) を導入し、確率変数 ξ: Ω → ℝʳ を用いて不確実性をモデル化:
max[G,I,T] 𝔼ξ[V(W₁(X₁*(G, I, T, ξ), G, I, T₁, ξ), ..., Wᴴ(Xᴴ*(G, I, T, ξ), G, I, Tᴴ, ξ))]
制約条件:P(A(G, I) ≤ B(T, ξ)) ≥ 1 - α
ここで、α ∈ (0, 1) は信頼水準
2. 確率的勾配降下法を用いて数値的に解を求める
日本では物事をメリットとデメリットの両面から考えることを子供の頃から教わらず、教科書などには公正さを期するため物事の良い点悪い点の両方が書かれていることがあるとはいえ、そうした両面的な考え方が身についている子供が多いとは言いがたい。受験勉強にしたって勉強内容の公正さに対して疑問を持つことなく丸暗記に近い勉強ばかりしている有様である。
これが社会に出ると丸覚えは機械的作業を行うだけの底辺労働者にしか通用せず、高い結果を出すには学習内容の公正さを疑う視点が求められてくる。ここに至ってメリットだけでなくデメリットも考えねばならないことをようやく教わるのである。曰く、おいしい話には裏がある。「これはいける!」という新しい策を導入する時にはちゃんと悪影響の可能性も考えましょう。物事の悪い部分ばかり見て手を拱いていてはいけませんぞ、などなど。
一方、欧米では子供の頃から学校でディベートやライティングをしっかり教わり公正な思考力を鍛えられるし、家庭でも社会の暗部を見せられさまざまな視点からライフプランを考えるように促されることが多いというのは、アメリカかぶれの評論家が口を揃える有名な話である。ディベートでは政策(やそれに類するもの)に対して賛成と否定の両派に分かれて激論が酌み交わされる、いや取り交わされる。本心は賛成派でも否定派のチームに入れられることやその逆のパターンも多い。こうして賛成にも否定にも回れるような柔軟で両面的な思考法が身につく。さらに1980年あたりから欧米では多民族国家であることや同性愛問題の表面化などを背景にdiversity(多様性)を尊重する思潮が強まり、民族や性や思想の多様性を学校でも明確に教わるようになった。最近Mozilla CEOが性差別的法案を支援して問題になった件で「Mozilla Statement on Diversity」という声明を出したのは記憶に新しい。このように物事の両面性・多面性を重視する風潮・思考法になっている。
ttps://blog.mozilla.org/press/2014/03/mozilla-statement-on-diversity/
日本人の多くは社会に出ると「国際社会だし欧米のように多面的思考をしないといけない」と耳が痛いほど聞かされ、その一環としてメリットデメリットを考えることが大切なんだなと学び成長していくわけである。そしてメリットデメリットさえ考えてれば多面的思考法が出来ていると勘違いしてあぐらをかいている人も多い。
1つには可変性である。例えば、自社の管理システムに新製品を導入する時には導入するメリットとデメリットを考えてメリットが大きいと判断されれば導入するという単純な思考プロセスで問題ない場合もあるが、新しい人材を取り込む時には必ず成長性を考える必要がある。ある分野が得意だからってさらに伸びるとは限らないし、ある分野が苦手だからって苦手克服できないとも限らない。人材ならまだ分かりやすいが、管理システムの場合はどうか?システムが時代とともに適応していけるような柔軟性を備えているか、また経験にしたがってブラッシュアップしていけるような成長性を備えているか。そうした可変性も加味しなければならない場合が多い。
子育てや学校教育においても、長所を伸ばすという聞こえのいい古い考え方が未だに蔓延しているが本当にもっと伸びるのかと言いたくなる。得意分野だと成功体験を積みやすい?いやいやそれは他人と比べるからで、比べなければ得意で伸びにくいものより苦手でも伸びやすいもののほうが伸びしろがあるため成功体験を積みやすいのは明らかだろう。大切なのは成長の楽しさが得られるかどうかであって、得意なものをやるよう押し付けることではない。そのためには得意でもどれが伸びてどれが伸びないのか、苦手でも伸びるものがあるのではないか、伸びるとしてどれくらい伸びるのか、といった一段階緻密な検討を経て合理的に判断をしないといけない。なんでもかんでも得意分野を持て囃すような風潮はもう終わりにしよう。
これまで見てきたように良い所と悪い所だけ見て両面的に考えてるぞとドヤ顔する風潮は打ち破られるべき悪しき因習と言える。逆に言えばこれからの熾烈を極める国際社会競争においてきちんと可変性を加味した多面思考ができる人間だけが生き残るとも言える。
メリットデメリット分析の2つ目の落とし穴はもっと根本的なもので、定性分析である点である。分析と名前がついているから数理的な分析だと勘違いしやすいがそうではない。多くの場合、メリットデメリット分析は定性的な分析、つまり物事の良し悪しに関わる性質を列挙しているに過ぎない。だからメリットとデメリットを量的に比較するのは難しく、比較できたとしてもそれはこじつけになりがちで、結局「メリットのほうが多い」「デメリットのほうが多い」といういい加減な形で分析結果を利用されてしまいやすい。たまたまメリットのほうが多く思いついただけかもしれないし、数え方の問題で多いだけかもしれないし、数が多いだけで重要度の低い項目だらけかもしれないのに。
実はこれは、賛成派(メリット)と否定派(デメリット)が戦う競技ディベートにおいてもしばしば問題となる点である。ディベートの勝敗はディベート経験のある審判が理屈をつけて決めているに過ぎない。論拠の数が多いから説得力があったとか、質問されて答えに窮したから説得力がなかったとか、おおよそ論理とは無関係な価値判断で決まることが多いのだ。
ディベートだけでなく2chの信者VSアンチの論争にも言えることである。それが偏った事実の寄せ集めであるかどうかにはお構いなくとにかく論拠の数を沢山用意しておき、次々と論拠を提示しては主張を繰り返して圧倒し、反論・質問された時にも用意した論拠で即レスするようにすれば、たいていスレの風潮を支配できるという、あの荒らしまがいのやり口を思い出してほしい。この手の荒らしが手強いのは殆どの場合において定量的に擁護または叩きを行うためのデータが存在しないか少ないからだ。そんな時は膨大な定性データを粘着的な調査力で収集して印象操作で圧倒するのが比較的容易である。