はてなキーワード: 中庸とは
俺は小学生だった
俺は中高生だった
俺は大学生だった
情報学を学んだ
質素に過ごしながら
バイトで汗を流しながら
秩序が壊れて時代が苦しくなると
権威が俺たちを助けてくれることを期待した
「我らは中庸のために振り切れてるんだ」
俺は信念を持って怒り続けた
政治の拳のためではなく救いの手が欲しくて
俺達のは人間同士の信念
俺のは俺達が知っていた理想
技術者を呼び出せ
製図者を連れて来い
外れることの出来ない人生の道を作ってくれ
そうしたら俺も承認するよ
どんな政府でも
若者たちを見たら二度と右向かないように言うんだ
過ぎ去った日々から旗印を持ってくるんだ
善意の反骨
俺たちを見捨てるな
「いなくなった私へ」と「青の数学」を読んだ。どちらも軽快に読み進められたので満足でした。
まずは「いなくなった私へ」の感想。言葉は悪いけれど。凡庸な文章だなって思った。とても読みやすかったんだけど、はっと目を見張るような文章ではなかった。見方を変えればくどくどしさも嫌みなところもない中庸な文章だといえると思う。
登場人物の年齢や、現代が舞台の青春小説であることもあって、小説すばる新人賞に応募する作品に雰囲気が似てる気がした。高校生や大学生なんかにおすすめかもしれない。
この小説は生まれ変わりの物語なんだけど、読書中になんども異世界召喚ものの主人公について思いをはせてしまった。
ほとんど読んだことがないのにこういうことを書くのもあれだけど、異世界召喚物の作品って、体感したことがなかったり、知り合いが誰もいない世界に急に放り出されるのに、結構簡単に状況を受け入れちゃうのが多い気がする。
もちろん、帰れないことや変える方法に主題を置いた作品もあるんだろうけど、人生をやり直そうって思えるところや、やるしかないと腹をくくれるところがすごいなって読んでもないのに勝手に思ってしまった。
「いなくなった私へ」は、現実世界に生き返るんだけど、死んでしまった自分から生き返った自分が切り離されていて、誰からも同一人物と認識されない苦悩がじっくり描かれていたから、余計に異世界召喚物の主人公のことを思ってしまった。
内容でちょっと不思議に思ったのは、どうして樹まで転生してしまったのかってところ。梨乃の血を浴びたからなんだろうけど、梨乃の死体を検視した人も、場合によっては転生してしまうんじゃないのかな。
検死官は地に直接触れないから大丈夫なのかな。あるいは作中にあったように、理不尽な死に対してしか転生減少は発生しないのだろうか。ちょっと気になる。
悪人役以外どの登場人物もすがすがしい精神の持ち主だったので心安く読み進めることができた。三人の現状を考えるとビターな終わり方だけど、しんみりしながらもどこか爽快感もあるのが素敵。優しいミステリー小説になっていた思う。
次「青の数学」の感想。当たり前のように続き物だったのが悔しい。けど、数学を取り扱った小説はSF以外だと初めてだったので新鮮で面白かった。
この小説は文章がちょっと不親切だと思う。過去の回想への導入とか、誰目線の心象なのかとか、不明瞭でちょくちょく手が止まってしまった。
また登場人物がどういうわけかうすぼんやりと感じられて、地の文に名前が出てくるんだけど、誰だこいつってなることが多かった。特にキフユが誰のことを指しているのか、随分と進んでからじゃないと気がつかなかった。
ジャンクフードを食べるように読んでいるのも問題だとは思うんだけど、なんかわかりにくい文章だった。
また全体的に透明な文章になっていたと思う。タイトル通り。青く透き通ってるんだけど、情緒に訴えるところが弱い気がする。独特の読書感を与えてはくれるのだけれど。
内容としては、本当に続刊ありきの終わり方をしているので、中途半端だなあって思った。数学バトルの場面や、数学の先に見える風景など、見せ場はあるんだけど、しっかり着地してないのが残念。
ただ、高校までの数学に対する決められたルールの中でパズルを解くようなものだっていうのには強く首肯してしまった。感覚的にわかっていたことが言語化されると気持ちがいいのです。
よくない気がしたところばかり書いたけど、恋に挫折に挑戦にと、静謐な筆致ながらもこれからますます盛り上がりそうな展開なので、続刊に期待です。
いろいろ理由はあるけど、自分的には「中高生アニメ好きが増えたから」だと思う。
電車やバスの中で、劇場版アニメの話をしている中高生をよく見かける。
今は昔と違って、サブカル好きや中庸層が安パイとしてアニメ好きに位置しているから
(アニメは人気作は見る、湘南乃風やエグザイルのライブはたまに行くっていう層)
その人たちが気に入って、
最初はアニメ好きの人たちだけで、そのあと「よかったよー、行こうよ!」とイツメンで、
「え、まだ見てないの?よかったよ、行こうよ!」とクラスの見たことない子と一緒に
てな感じで増えてるように思う。
結局は作品のよさはあるけど、中高生の共通体験に使われているだけなんじゃないか。
今の友情は金かかって大変だよな…。
違うよ。端的にいうと先進世界の暮らしに定着した価値基準のままでは
もう男女は出会えないし子孫は残せないし育てられないし、
ようやく産んでも病は増えるし少子化とともに労働人口は急減するしで、
全体的に生きていかれないだろうとおもうっていう話。
なあ、
http://kabumatome.doorblog.jp/archives/65856412.html これよんだか。
今はまだ皿洗い出来て幸せです!!とか漁師がいい!!農業最高!!食えるなら兵士傭兵お手の物!!鉱山素敵!
っていう後進国がすこしだけのさばるけど
そっちも1ー2世代したら同じことだろーな。
マトリックスまでもたどり着けないと思う。
たぶんギリシャあたりが「完全に破綻ですありがとうございました」でプゲラされてるくせに
一番進んだ姿なのかな。
キリスト教どころか仏教でさえ女には解決を用意しようとしなかったしできなかったんだけど。
今から全員女になれ、育児してリッパな子を残す、親を見取るだけがお前の仕事だっていわれたらどうなるのかなーって。
女が多めに抱えてきた育児の苦しみ、子が苦しむのを見る苦しみ、親が豹変していくのを見守る苦しみ、
システムの奴隷になる苦しみって今までは単なる派生問題でしかなかったし、
まともにとりあってこなかったから、「しばらく耐えろ(そのうち楽に死ねる)」しか答えはなかったんだよね。
女の方が個性が殺せず、文化がないといきていけない存在だったんだが、
「女子供は文化なんておもちゃをほしがってしょうがねえな」って男からはあつかわれてた。
「男も文化なんておもちゃをほしがってしょうがねえな」ってコンピュータからあつかわれるようになる。
パチンコとかスマホのガチャ石、退会できないウェブサービスとかで何度も騒動が起こってるけどあれが全生活分野に広まる。
もうひとより少しでもよい生活のための努力なんていらないのに。
コンピューターになだめすかされたくないと思う人間はまた体力か生殖力しかいらなくなる。
もうコンピューターでマッチングしてもらわないと恋愛もできない。
おそらく先進国では同じ発達障害を持つモノ同士が婚姻をして分化を強めていくんだ。
中庸の人間なんて居なくなるのに精神科医は「発達障害を原因とした鬱病のためのSSRI」を売り続ける。
これからどうするのかね、
かしこい | 中庸 |左右に分かれて議論することの意味のなさを知っている | 「時々の情勢に応じて左右の考え方を活かすべき」 |ネット、特にSNSで政治議論するのはもうあきらめている | | ずるがしこい| 左翼を扇動 右翼を扇動 |ロングテールのニッチな購買層をターゲットとしたビジネスチャンス | 「それなりの購買層」 「炎上ウマい」 |『真実はネットにある!』 | | ふつう | 左翼的思考 ノンポリ 右翼的思考 |いろいろ思うところはあるがリアルでもネット上でも炎上が怖い | 「声を上げるとバカに噛みつかれるのが怖い」 |ちゃんと議論しようにも、準備や調査はめんどくさい | | あまり | ネサヨ ネトウヨ |基本的に何も考えておらず、何を言っているかもわからない かしこくない| 「ちんこあばばば」 「ばかばかまんこ」 |攻撃・罵倒できれば詭弁でもダブスタでもなんでもあり | | 動物 | 「にゃー」 「わん」 |かわいい
http://anond.hatelabo.jp/20151001133903
いうまでもなく意識高く起業したのではないから、就職した初年度に会社からくる初めて見る諸々の給与明細など、送られてくるたびにまた税金があるのかとビクビクしたものだ。
時には貯金について日夜考えすぎて、頭がハゲて、病院嫌いにもかかわらず皮膚科に行き、やる気のない態度の悪い医者にハゲ薬をもらい、治したことも今となっては微笑ましい思い出だ。
もともと自分自身には才能があるとは思わない。だが、就職をしてかつ継続するにあたり
大切だと思ったことを記念に書いておきたい。
■■信念
なぜかというと、クライアントの要望やプロジェクトメンバーの意見など常に相対的で、移ろいやすいからだ。
クライアントAがXがいいといっても、クライアントBはYがいい、クライアントCはZがいいという。
それで重要なのが信念だ。これは唯一己のうちにある絶対的なものだ。
この信念を強くもって、自分の足下に大きな杭として打ち込んでおくのだ。
そうすれば異なる考え・ニーズを前にしてもぶれずに前に進んでいける。
杭をしっかり打ち込んでいないと、進むべきベクトルはぐるぐるまわりで、メンタルがもたないだろう。
あと、この杭がないと困難の中、事業を継続していくことが難しい。
トライアンドエラーを繰り返し、うまくいくこともあれば、うまくいかないこともあり、
正直「もう辞めたい」と100回以上思ったことがあるが、その度に信念に基づいてその言葉を打ち消してきた。
■■人脈
人脈は大切だ。当初人脈を作りにビジネス交流会にも行ったが、結論として分かったのは、これは悪くは無いが、絶対にいく必要のあるものでもないと分かった。
そうすれば磁石のように素晴らしい人格・知性を持った人たちと出会える。
では、どのようにすれば己がよい人脈となれるか?
自分に投資をすることだ。投資といってもなにも高額なお金を投資というのではない。
時間と教養について投資をするのだ。一番ROI効率が高いのは、読書だろう。
とにかく自分の専門分野と隣接する領域について読みあさること。
自分の場合は、就職をして平日は月曜から金曜まで仕事をして、夜はなにもない家に帰って、ずっと読書をしていた。
特に就職をすると起業家と異なり、助けてくれる上司はいるが大半は無能だ。
自分で問題を解決しないといけないので、問題の現状分析・解決法は膨大な読書量による
知識によっていくつか得られるのだ。
このように知識・問題解決能力が身についたら、それを出会うビジネスマンたちにGiveしよう。
とにかく与えること。そこから人脈の輪が広がる。
■■付き合う人
逆に得体の知れない人もかなりやってくることがある。
いったいどのようなビジネスモデルで利益をあげているか、どのような収入で食べているのかよく分からない人。
後になって腑に落ちないそのビジネススキームを振り返ると、やっぱりあの人詐欺師だったんだと分かることもある。
得体の知れない人に出会った場合、その人を見る時、倫理観によって判定するのがよりよいと思う。
参考としては、ベンジャミンフランクリンの13の徳が役に立つだろう
節制、沈黙、規律、決断、節約、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、平静、純潔、謙譲
得体の知れない人の話しを聞いて彼の人となりが、13徳から非常に乖離している場合、
さっさと距離をあけるべきだろう。
実際に私も起業をして、危ないことがいくつかあった。
それは、業界的に非常に有名人でかつメディアにも露出している人がいた。
その人が、私に一緒に日本・東南アジアでビジネスをしないか?と持ちかけてきた。
だが、彼の話をよく聞くと、現地の人を馬鹿にしたり、自分は仕事をしないで稼ぐ、といっていた。
私はこれを聞いて、この人は危ない人だとすぐに分かった。
それよりフランクリンの13徳の方が優れているのだ。そしてこれに照らし合わせて、やばい人と思い、私は彼と距離をあけた。
数年後彼は逮捕された。
自分の判断基準をもち、素晴らしい人と付き合っていきたいものだ。
■■己の人格
なぜかというと、仕事は所詮生身の人間同士によって成り立っているからだ。
そして、この人と一緒に仕事をしたいと思われないと、仕事の継続性がたち消えてしまう。
人は好きな人、好意を持てる人と仕事がしたいのだ。嫌なやつと仕事をしたい人はいないだろう。
メカニズムとしては、人は、大脳辺縁系でその人が好きか嫌いかを判断し、それを大脳新皮質で論理的に意味づけをするのだ。
これはよく知っておいた方がよい。
いくら論理的に正しいことをいっていても、嫌なやつ、人格的に破綻しているやつであれば、他者の大脳辺縁系は嫌いな奴と判断し、
それにともない大脳新皮質で論理的に適当に言葉を組み立ててあなたの意見をリジェクトするだろう。
理想は、崇高な人格をもち、深い知性・教養をもてることだろう。
もちろん私はこの域には達しておらず、死ぬまで目指していきたいと思っている。
以上、就職をして大切だと思ったことをつらつらと書いてみた。
結局のところ、私は運良く、素晴らしい人に恵まれ、多くの人に助けてもらった。
私は、どちらかというと綿密に事業計画書を書いて起業をしたというより情熱に動かされて起業をした。
いうまでもなく緻密に計画を立てて起業をしたのではないから、起業した初年度に役所からくる初めて見る諸々の納付書など、送られてくるたびにまた支払いがあるのかとビクビクしたものだ。
時にはキャッシュフローについて日夜考えすぎて、頭がハゲて、病院嫌いにもかかわらず皮膚科に行き、やる気のない態度の悪い医者にハゲ薬をもらい、治したことも今となっては微笑ましい思い出だ。
もともと自分自身には才能があるとは思わない。だが、起業をしてかつ継続するにあたり
大切だと思ったことを記念に書いておきたい。
■■信念
なぜかというと、クライアントの要望やプロジェクトメンバーの意見など常に相対的で、移ろいやすいからだ。
クライアントAがXがいいといっても、クライアントBはYがいい、クライアントCはZがいいという。
それで重要なのが信念だ。これは唯一己のうちにある絶対的なものだ。
この信念を強くもって、自分の足下に大きな杭として打ち込んでおくのだ。
そうすれば異なる考え・ニーズを前にしてもぶれずに前に進んでいける。
杭をしっかり打ち込んでいないと、進むべきベクトルはぐるぐるまわりで、メンタルがもたないだろう。
あと、この杭がないと困難の中、事業を継続していくことが難しい。
トライアンドエラーを繰り返し、うまくいくこともあれば、うまくいかないこともあり、
正直「もう辞めたい」と100回以上思ったことがあるが、その度に信念に基づいてその言葉を打ち消してきた。
■■人脈
人脈は大切だ。当初人脈を作りにビジネス交流会にも行ったが、結論として分かったのは、これは悪くは無いが、絶対にいく必要のあるものでもないと分かった。
そうすれば磁石のように素晴らしい人格・知性を持った人たちと出会える。
では、どのようにすれば己がよい人脈となれるか?
自分に投資をすることだ。投資といってもなにも高額なお金を投資というのではない。
時間と教養について投資をするのだ。一番ROI効率が高いのは、読書だろう。
とにかく自分の専門分野と隣接する領域について読みあさること。
自分の場合は、起業をして平日は月曜から土曜まで仕事をして、夜はなにもない家に帰って、ずっと読書をしていた。
特に起業をするとサラリーマンと異なり、助けてくれる上司はいないのだ。
自分で問題を解決しないといけないので、問題の現状分析・解決法は膨大な読書量による
知識によっていくつか得られるのだ。
このように知識・問題解決能力が身についたら、それを出会うビジネスマンたちにGiveしよう。
とにかく与えること。そこから人脈の輪が広がる。
■■付き合う人
サラリーマンの時とはことなり、起業をするといろいろな人に出会える反面、
逆に得体の知れない人もかなりやってくることがある。
いったいどのようなビジネスモデルで利益をあげているか、どのような収入で食べているのかよく分からない人。
後になって腑に落ちないそのビジネススキームを振り返ると、やっぱりあの人詐欺師だったんだと分かることもある。
得体の知れない人に出会った場合、その人を見る時、倫理観によって判定するのがよりよいと思う。
参考としては、ベンジャミンフランクリンの13の徳が役に立つだろう
節制、沈黙、規律、決断、節約、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、平静、純潔、謙譲
得体の知れない人の話しを聞いて彼の人となりが、13徳から非常に乖離している場合、
さっさと距離をあけるべきだろう。
実際に私も起業をして、危ないことがいくつかあった。
それは、業界的に非常に有名人でかつメディアにも露出している人がいた。
その人が、私に一緒に日本・東南アジアでビジネスをしないか?と持ちかけてきた。
だが、彼の話をよく聞くと、現地の人を馬鹿にしたり、自分は仕事をしないで稼ぐ、といっていた。
私はこれを聞いて、この人は危ない人だとすぐに分かった。
それよりフランクリンの13徳の方が優れているのだ。そしてこれに照らし合わせて、やばい人と思い、私は彼と距離をあけた。
数年後彼は逮捕された。
自分の判断基準をもち、素晴らしい人と付き合っていきたいものだ。
■■己の人格
なぜかというと、仕事は所詮生身の人間同士によって成り立っているからだ。
そして、この人と一緒に仕事をしたいと思われないと、仕事の継続性がたち消えてしまう。
人は好きな人、好意を持てる人と仕事がしたいのだ。嫌なやつと仕事をしたい人はいないだろう。
メカニズムとしては、人は、大脳辺縁系でその人が好きか嫌いかを判断し、それを大脳新皮質で論理的に意味づけをするのだ。
これはよく知っておいた方がよい。
いくら論理的に正しいことをいっていても、嫌なやつ、人格的に破綻しているやつであれば、他者の大脳辺縁系は嫌いな奴と判断し、
それにともない大脳新皮質で論理的に適当に言葉を組み立ててあなたの意見をリジェクトするだろう。
理想は、崇高な人格をもち、深い知性・教養をもてることだろう。
もちろん私はこの域には達しておらず、死ぬまで目指していきたいと思っている。
以上、起業をして大切だと思ったことをつらつらと書いてみた。
結局のところ、私は運良く、素晴らしい人に恵まれ、多くの人に助けてもらった。
人類を統率するために何か追いかけるモノが必須という、経済至上主義の終焉かな。かといって、もっと良い社会統制システムは見当たらず。
こういう中庸な状態って、俺は好きだな。たまたま、自分が日本国で平均的生活を送れているという、世界的に見て良いポジションにいられているからだけど。
人類を統率するために何か追いかけるモノが必須という、経済至上主義の終焉かな。かといって、もっと良い社会統制システムは見当たらず。
こういう中庸な状態って、俺は好きだな。たまたま、自分が日本国で平均的生活を送れているという、世界的に見て良いポジションにいられているからだけど。
こちらの記事(http://anond.hatelabo.jp/20150928163536)を投稿させていただいたものです。
ちょっと苦しい思いを吐き出したいがためにこちらのダイアリーを使わせていただきました。
コメントを読んで、ぼんやりと言いたいことが浮かんできましたので、
お付き合いいただける方だけ、どうぞ。
徒然なるままにってやつです。
さて、前回の記事の前置きとして二つの事柄に触れておきたいと思います。
私をメンヘルとご指摘くださいましたが、その通りです。
もうひとつの記事でも触れましたように、私は精神病を患っています。
そのため、そういった病気に無縁の方とはかなり違った解釈をしている部分も多々あると思います。
なのでメンヘラと呼ばれても仕方のないことかもしれません。
なので、先ほどの記事で不快になった方は「メンヘラがまた何か言ってるよ」
くらいの気持ちでブラウザバックしていただいた方がいいと思います。
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確かに、この記事は異端と捉えることが出来ると私も自身も感じております。
元々、創作活動も盛んにしているので、創作というオブラートに包もうかとも考えました。
しかし残念なことに私が感じたことはひとつも創作ではありません。
それに創作というきちんと綺麗にお行儀よくラッピングされたものではなく、
創作になんてしたくなかった。
しかし、これを身バレのするところで呟いて、私と周りに迷惑をかけるのは避けたい。
取捨選択の出来ないコメントをぶつけられるのを相手にするのは、
ちょっと私の心の体力に自信がないので…
多数の前に少数は圧倒的に無力です。
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さて、以上の2点を述べさせていただいたので、
エゴと私個人の主観が多分に含まれるということを前提で話を続けさせていただきます。
私は確かに「この犯人の心境の一部に共感は出来ます」それは間違えようのない事実です。
しかし、「こんなに苦しんでいたんだから犯罪を犯していい」と、犯罪の容認をしたいわけじゃありません。
これからも申すつもりもありません。
私はこの犯人とは違いますし、多くの精神病で苦しむ人達もそうです。
精神病を患っていたとしてもこの考えに賛同できない人などかなりいると思います。
私は彼の気持ちを「共感」出来ます。それは「想像できる」ということです。
しかし、当たり前ですが、私は彼になれないのです。
どうか、その点だけは間違えないでいただきたいのです。
現実に起こしたことは消えません。まして、かけがえのない命を奪うことは大罪です。
誰もいなくなった人の代わりにはなれません。どんな理由も免罪符にはならないんです。
同じ人は二度と還ってきてはくれないのですから。
匿名で説得力に甚だ欠けるのは重々承知しておりますが私自身、警察にお世話になるようなことは、
でも、それって、たまたま運が良かっただけなんじゃないかとも思うんです。
犯罪や殺人に手を染めなかっとしても、自分で命を絶たずに、ここでポチポチと文章を打っていられるのも…
「取り返しの付かない過ちを犯してしまう前に誰も救いの手を述べなかった」
ということです。
今この時の、家族の、学校の、大げさに言えば社会のセーフティーネットが機能していない深刻さ。
それを改善していく必要があるんではないかと強く思ったがゆえに投稿した記事でした。
「ありのままの人格を認めることが大事」だと言えばいいでしょうか。
私がいいたいのは、「ここにいてもいい」という安心感、
「自分は自分のままで生きてもいい」という自信が大事だと言いたいのです。
このひりつくような渇望は一度体験したことがない人だと、
(それくらい普通の人は当たり前に持ち合わせている感覚らしいので…)
コメントで、『誰を憎めばいいですか→自分ですってのと同じロジックで
「そのままでいいんだよ」って誰が言うんですか→自分 とならないのがふしぎ。』
と言ってる方がいましたが、おっしゃる通りです。
でも、そんな当たり前のことが上手く出来なくて苦しんでる私のような人もいる。
どうか心の片隅でいいので、それを覚えていてくださったら嬉しいです。
そして、もしこんな風に苦しい人がいれば「こうやれば楽に生きられるかも」
と提案してあげてください。
ただし「やることをなんでも肯定する」
それはコメント欄でおっしゃられていた通りとんでもない間違いだと思います。
そんなこと容認してたら世の中は犯罪の横行する恐ろしい社会になってしまいます。
ここで中庸という言葉を引き合いに出させて話したいと思います。
過大と過小の両極端を悪徳とし、徳は正しい中間(中庸)を発見してこれを選ぶことにあるとされています。
簡単にいえば、勇気という徳が過剰であれば無謀、不足であれば臆病ということになります。
だからこそ、私は極端な答えである殺人という犯罪を否定しました。
さて、上記であげましたように私が言いたいことが
「人を肯定すること」は「なんでもかんでもゴーサインを出す」ことではない
ということがお分かりになられたでしょうか?
ここで私の実体験を話させてください。
私はとても自己肯定感が低いです。
殺人を犯した彼に似た「自分はダメな奴だ」という囁きと常に葛藤を続けてきました。
そうするといつまでも、何をやっても満足できません。
私が患ったのは、そんな目に見えない病気です。
死にたいと何度願っても、実行に移そうとした時も
いつだって描く手を止めることがありませんでした。
当たり前ですが、初めはお世辞にも上手くもなく、他人と比べてばかりいました。
それなにに、苦しくならずに、どうして続けられたのか。簡単なことです。
「私、あなたの絵好きだな」これだけです。
たったこれだけの言葉が私の胸に何年も残って私を支えてきてくれました。
死のうと思った夜を何度も越える勇気をくれて、私を自殺から守ってくれました。
私は、その言葉が私を支えてここまで生かしてくれたと、これだけは胸を張って言うことが出来ます。
この言葉をくれた人は私を救ってやろうなんて気構えは、ひとつもなかったと思います。
それに、そんな上からかけられた言葉で人の心は動くものでしょうか?
理屈じゃないんです。嵐のような強烈さで、私は実際に救われました。
ただ一言、「頑張ったね」「頑張ってきたね」それだけでいいんです。
結果なんかじゃない。その人の頑張りをただ認めてあげればいいんです
たったこれだけで、私は生き汚くても人生を歩んでこれました。
「その人の人生を引き受ける覚悟がないと肯定してはいけない」といったコメントを見かけました。
私は引き受けるなんて気負わなくていいと思います。
あなたは、あなた自身の「こう言った」という発言には責任を持つべきです。
こうすべきだった、言うべきだったと悩んだりするのは、あなたの自由です。
でも、その言葉を自分なりに受け止めて、選択し、変わっていくのは『自分自身』であるべきです。
人は変われます。でも一人で元気になるのは難しい。
そして、人は元気になれたら勝手に歩いて行けます。それこそどこまでだって。
だから、喉の渇いてたまらない人に水をあげるのを惜しまないであげてください。
この言葉を浴びせ続けられた私の心は、もっとちゃんと出来ないとと、
急き立てられるようにそればかり考えていました。
でも頭のなかはパニックを起こして安全な操作の仕方なんてポンと飛んでいる。
それだけ言ってあげてください。
一から十まであれこれ口出ししないで、補助するだけでいい。
心のブレーキを思い出させてあげればいいんです。
誰でも利きの良し悪しは違っても元々、持っているものですから。
信じてあげてください。
私は少なくとも「お前は駄目だ」という言葉で救われなかった。
悲しかった。苦しかった。まだ、頑張らないといけないのかと死にたくなった。
でも救うことも出来ます。
「私、あなたの絵好きだな」
たったこれだけで、私は馬鹿なことをしなくてすみました。
人生を投げ出さずにすみました。
--------------------------------------------------------------------------------
お恥ずかしながら、誤字脱字はどうぞ多めに見てやってください。
あー書いたらスッキリした!
この言葉でまた救われました。ありがとう。届くかは分からないけれど、あなたは私の人生の恩人の一人です。
他にも励ましてくれた方、ありがとうございます。個別に返信は出来ませんが許してね。
消えたいといったみなさん、消えたいという誘惑は強いです。
でも、それとどうにか折り合いをつけて生きていこうとしてる人がここにもいます。
まだヘコタレてしまうことも多いのですが…
酷い時と比べると、確実に変わっていることを実感する日々です。
私もあなたも無理せず元気な姿で、また会いましょう。
この手の話をはじめると、決まって「継父の虐待」とか「シングルマザーの境遇では進学させられず...」とかの
キャッチーで酷い話ばかりになる。しかし実態はもう少し中庸だ。
まず、いくら劇的な離婚劇があったとしても、近年結婚した夫婦と子供の大部分は劇的に貧しくはない。
世にでる離婚サンプルは目に余るものばかりだが、国やコミュニティの自負自尊心をくすぐる例しかメディアに載らず
売文できる離婚例以外は基本表には出てこない。
で、
①慰謝料養育費のやり取りが(満額とは程遠くても)5~10年ぐらい続き
③両親の離婚過程を、ある程度余裕をもって観察することのできた子供は多く実在するが、
別に法的責任も道義的責任も果たす両親を見ているし、戸籍上断絶した祖父母や親類との繋がりが残ることだってある。
外のコミュニティを代替物にしてふんばるぐらいのリソースはある。キャリアを積み、家庭も築く。
~ここまでがギリギリ物語やメッセージとして一般人に通じるライン~
ここからがツライ。
引き続き、子供が成人するまでに両親とはそれぞれ緩やかな関係が残るわけだが、
下限がしれたものなら上限だってしれた程度のものにしかならない。
ミクロで見れば努力や精神論の入り込む余地があって、父母を反面教師にした自立への美しい物語ができあがるが、
マクロで見れば自身のルーツや幼年期の愛着を否定されて摩滅するしかない期間である。
特に両親の愛着関係を客観視したとき、そこには幼稚さを気まぐれと醜い打算ばかりが残る。
種々の責任を果たした両親を前にして取り付く島もなく、自身も成長し”こじらせた”子供として振る舞うことができない。
喜怒哀楽の大きな起伏を呼び起こすような局面は特になく、いい大人が長い期間をかけてすり減るのである。
そこには貧しさも激しい葛藤もない。
とりたてて筋が通った話にもならず冗長だから、ひたすら消耗する。
モテないモテないと言いながら、モテたいという願望があるにはありながら、ついつい楽しくなってモテなそうな、世界の半分ぐらいを怒らせそうなネタをつぶやいて、世界の半分からクレームを言われまくってるアカウントが私です。…リア充になりたかったら、自分が言いたい毒は他人の毒をRTするべきか
眠れないから本を読んでるが、二村ヒトシさんの本ほど口が悪い本を読んだことない僕としてはあんなに口が悪い本をみんながみんな読んで、しかもほとんど批判がないと言う事実に一番驚いてる。内容自体は正しいけど、こうまでゲスい言い回しされてると自分に当てはまる部分以外でもカチンとは来る
あとはこの挿絵にイラッとする。やってることはサイバラ敵に「おばちゃんがゲスい感じに偉そうなこと言うよ」ではあるけど、なんでかなぁ…文の人と画の人が別になって、しかも絵の人の口の悪さを配慮せずに「この人が正しい、読んでる君は間違ってるからもっと怒られるべき」という態度だもんw
となんというかな…「中庸(バランスが取れること、バランスを踏まえた上で自分を見せられる人)」がモテます。と言う本で、これ自体のいうことは間違っちゃいないと思うんだが、これを言い出した途端に、中庸からどちらかにそれてる人を両方共範囲攻撃しちゃう本だからなぁ…。気分は良くないよね
僕がフェミ嫌いつうか、行き過ぎた女性尊重路線に疑問を感じるのは女の人のしてほしいこと、してほしくないこと、もしくは思考構造自体が相手次第であって、相手にかかわらず頭でっかちに、ゲームやルーチンや科学のように区別する事が難しいため。だから、過剰にルールを支配すると主観的になりすぎる
つまるところ、男性に責任を投げられても、それがこの本で言う「気持ち悪い男は嫌われる」というすげー主観的でかつ、本人だけでは対策が難しいような評価のされ方(どこができてないから改善しろという点数化がしにくい精神構造の問題で評価される)ところに「女性基準が行き過ぎると怖いよね」がある
個人の女の人を悪く言いたいんじゃなくて、もうちょっと生き物レベル、社会レベルの話として「客観視しにくい基準の存在の厄介さと、それらを当たり前に突破しないといけない現状」に対して「うお!生きづれー」「仕組み化される時にもっと説明されないと壁にぶち当たる人がいっぱい出る」と危惧してる
いや、「個人的な好き嫌い」と「仕組みとして、あるいは自分の生活や可能性を決める基準」は別だよ。僕がフェミとか女性的な評価をおっかないおっかないと言ってるのは後者。特に女性自身が主観的かつ独特の(数値化・仕組み化しづらい・あまり男性に理解されてない)に自覚のないまま踏み込みすぎる様
まぁ、機会が平等になる必要はあると思うし、選択できないこと自体があるとするなら選択できるようにどっちの性に対してもすべきだとは思うけど、それは評価やものの見方がどう違ってるかを理解した上でじゃないと成立しないんだよね…。まぁ、この話してるうちに眠くなってきたからここでおしまい
ちなみに、さっき女性的な「気持ち悪い人が嫌い」という主観的かつ本人にはどうしようもない評価が怖いといったけど、ホモソーシャルにはホモソーシャルなりの野蛮さがあるから結局はどっちの怖さも周知すべきだとは思います。まぁ、後者については男の割合が多い中小企業や大企業でも肉体系見れば明白
おいおい、この本すげーこと言い出したぞ!薄い本的な都合よくヘタレ男が女の子に持てちゃう展開を「恋のドラえもん幻想」というムダにかっこいい名前をつけて罵ってやがる!すげー!謎のハイセンス
モテない自分に耐えられなくなってに耐えられずネット上で憎しみや逆恨みをばらまいたり、犯罪行為に走るのは社会的にもとっても迷惑なわけで、だから彼らは自分のためではなく世間のためにも気持ち悪くない男になって、すこしモテるようになる義務がある。(二村ヒトシ)モテは義務って…おお怖い
いやさ、気持ち悪い云々の話の時から一貫して思ってるけど、世の中には本気でわからなくて悩んでいる人がいて(それを利用して儲けている作者のような人がいて)、それゆえに困ってる人にお前が悪いと罵り倒すだけでも違和感あったのに、今度は「モテは義務」だよ…どんだけ強気なんだよ…この本
これ、すごく悪意のある言い方させてもらうと「モテたい男は気持ち悪くない男になってモテる義務があります。モテる気がない人は二次元で都合のいい妄想に満足して生身の女の子にはさわらないでください。どちらでもないモテたいけど気持ち悪い男は犯罪者予備軍で像を垂れ流す有害な連中です」だとさ
全体的におっかないし世知辛い本だなぁ…。何度も言ってるけど、言ってる事自体はそこまで間違ってないし、どっちかといえば正しいんだけど、言い方がゲスいし、失礼で回りくどいし、範囲攻撃だし、全面的に男が悪いというスタンスで書かれてるから読んでてすごく「怖い」とは思う。
どこの誰ベエと話したかは言わないけど「ドボンさんはモテなそう(童貞だろう)」という意見を聞いた時に薄々同意はしたけど、この文章読んだ時にやっぱり童貞だろうなぁ…と思った。
人の育児に文句言うときは自分の良心が傷ついたとか、迷惑を被ったことをきっちり言わないとなんか嘘くさいんですよ。ドボン会長の書き方みたいに「いや僕がどうとかじゃなくて、こういうの良くないと思います」みたいなのは自分がないし、ほっとけだし、いちいち口に出すな…という感じなわけですよ…
僕が思う童貞臭さっていらんこと言う人なんですよ。それも人や他人に口を出したい欲望を素直に認めないで高飛車に「べき論」を装ってしゃべること。自分の意見であることさえ表明できないし、かと言って歯切れよく言ってる人を見つけてその人に代弁させる器用さも、我慢するだけの堪え性もない半端もの
ネットでいっぱい喋れる、言いたいことが言いたいだけ言える時代だからこそ「言わないこと」「言わせること」が大事なんだよね…。昨日、「はあちゅうさんは腹黒い話は基本人に言わせるか有料でも聞いてくれる人にしか言わない住み分けをしてる。振る舞いがリア充っぽい」という話したけど、逆がドボン
いや、僕はキャバクラとか風俗で説教する客の存在を各種下ネタ系の読み物でよく聞くんだけど、アレの気持ちがさっぱりわからんわけ。自分だってあんまり正しくない場所に来てる(というより、お前みたいなのがいるから商売が成り立ってる)から彼女はそこにいて接客してるのに、なんで説教できる?謎い
あ、僕が女子から気持ち悪がられる時の失敗は基本「舞い上がりすぎ」なんだよね…。オブラートに包んで言えば「楽しいことにのめり込みすぎる」ことで、悪く言えば「味をしめた結果、それまでのまともに努力してた時の段取りがすっ飛んでしまう」わけだ。ある程度親密になってから失敗するタイプですw
ゆえに僕はある程度運とか出会いとか人と継続に会うだけの最低限の予算があれば、そこそこうまくは行くんだよ。ただ、うまく行った瞬間に「承認された。努力が実った」と平常心が保てなくなる(舞い上がっておかしなことを言い始める)タイプです。だから、童貞ではないけど、うぶいし青いのが僕の位置
ガチの童貞ってそれ以前の「自分を持ちながら待つ」ということができないんだよ。恋愛テクニック以前にギラギラや生暖かさや自分がビビってることも言い出せない(ネタにして笑ってもらう器量もない)からすこっしもうまく行かないんだよ。僕から見たドボン会長なり童貞臭い人のイメージはそれ
逆にもうセックスに入るムードからして心地いい僕の場合はそれが強すぎて盲目になっちゃうんよなぁ…。なんかそのムードまで来るとそれまで待ち続けたり、恋愛モードになってた理性がダバ〜と吹っ飛んで、「セックスすげー恋愛すげー!おらワクワクしてきたぞ」みたいなキモさ全開になるんよなぁ…
(色んな人に言われてるから言うけど)何度目だよ!童貞じゃないって言ってるだろ!
ツイッターで読んでる本について語ったら著者にふぁぼられた。…あ、アレですよ。2章まではすげー失礼で、臆病な部分があたってると感じる僕でさえ「あたってるのにテメーに言われるとうぜー」とさえ思うけど、2章過ぎると口調によるイラつきは減るよ。だから2章までが踏ん張りどころだよ(謎の弁明
しかし、これは自分も含めてなんだけど、あの童貞を卒業した人が性を語る時の口調の「わかったような口ぶり」はなんなんだろうな。これ、女でもそうで性に関連する産業の経験とかネタを売りにしてる人の口ぶりってどことなーく偉そうなんよなぁ…。アレの正体が知りたい。
今回の本(すべてはモテるためである)はその典型例。他の専門家や達人でこんなに偉そうで心得のない人を罵り倒す本を読んだことがないから「人にカネ払ってもらって、本を読む労力までかけてもらっておいて、読者をキモい・モテない・バカ・臆病と罵り倒す本がこの世にあるのか」とカルチャーショック
本を出すことに対してもっと「色んな人にお世話になった」「発言の場を与えてもらった」感がないから、本読んでて違和感があるんだよなぁ…。内容自体は頷いていて、引用して使ってみたいこともいっぱい書いてあるんだけど、アレだけ言葉遣いや読者との関係性をふてぶてしく取る本を読んだことないから
0.まえがき
おそらく表現規制の最前線にいる人しか分かってないと思うので書く。
自主規制団体が必要とされる理由は大きく分けて3つ存在する。1つには、販売店を安心させるため。2つ目は、条例上あった方が有利だから。3つ目は、世論との妥協のためだ。
1.販売店にとっての意味
(太字強調は筆者による)
わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。
電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
[児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律 第7条第6項]
児童ポルノを不特定若しくは多数の者に提供し、又は公然と陳列した者は、五年以下の懲役若しくは五百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
電気通信回線を通じて第二条第三項各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写した情報を記録した電磁的記録その他の記録を不特定又は多数の者に提供した者も、同様とする。
つまり、わいせつな文書・図画や、児童ポルノに関する罪を問われるのは製造者や所持者だけではない。法律上は、販売した者も罪に問われる場合がある。
が、店員にとってみたら『わいせつっぽい物を販売したらある日突然逮捕されるかもしれない』は恐怖である。
そのような販売店の恐怖が『それっぽいものは全部売らない』になるのは商業的にも文化的にもマイナスなので、
ビデオ・映像関係の年齢表示や、成年向けコミックのマークはそのような販売店の声に対し、『自主規制団体が、刑法および児童ポルノ法に違反していないことを確認したと責任を負います』という意味がある。
だからこそ、数年に1度程度の割合で『AV女優が実は18歳未満だった』という事件があるが、そのAVを置いていたツタヤの店員が全て逮捕されるわけではないし、
以前薄消しが流行ってビデ倫の関係者が逮捕されたことがあるが、問題になったビデ倫の作品を扱っていた販売店の関係者は逮捕されていない。
逆に言うと、そういう団体を通していない、いわゆる裏ビデオを分かっていて売ったら店員が逮捕される可能性もあるはずだ。
上で書いたような『わいせつな文書・図画』や『児童ポルノ』は世間で広義で用いられるような意味ではなく、たとえ18歳以上にしか売っていないとしても、売った人は逮捕されるような物の話である。
では、一般的に「18歳未満には販売できません」で書店やアマゾンで売っている商品はどのような法的根拠で売っているか。それが条例上の理由だ。
第九条の二 図書類の発行を業とする者(以下「図書類発行業者」という。)は、図書類の発行、販売若しくは貸付けを業とする者により構成する団体で倫理綱領等により自主規制を行うもの(以下「自主規制団体」という。)又は自らが、次の各号に掲げる基準に照らし、それぞれ当該各号に定める内容に該当すると認める図書類に、青少年が閲覧し、又は観覧することが適当でない旨の表示をするように努めなければならない。
まどろっこしいが、要は『一定の倫理基準に該当する物は、青少年に閲覧・販売できないように努力せねばならない。(そして、成人に販売する分には問題ない)』ということである。
"18禁"などに関する(映像作品やゲームではR-15も一応は存在する)法令上のもっとも重要な(もしかしたら唯一の)根拠はこの条文だ。
この条文があるからリアルでもネットでも、18禁の作品を売る際には専用のゾーンを設けなければならない。その区分が雑だという話(特にネットにおいて)はノーコメント。
そもそもこのような自主規制団体が生まれたのは1950~60年代に『低俗な本・雑誌が溢れた』ことに対する世論の批判とそれを受けての条例(2で書いたのは東京都の条例だが、同様の条例は全ての都道府県に存在する)制定の動きに対してであり、
ビデオやゲームが出た後も法規制の動き(もしくは実際の逮捕事件)を受けてから出版の団体を参考にして自主規制団体が生まれている。
もっとも、出版と映像では少なからず差がある。最大の違いは、出版は成年マークのついていない書籍については一切の表示がないのに対し映像やゲームでは(ほぼ)全ての作品について「審査の結果、年齢区分はこうなりました」という表示があるということだ。
世の中において『私の考えるこれこれの思想・道徳に反する本は全て排除せよ』という日本国憲法ガン無視の全体主義者は少数だが、
「たとえ低俗な出版物であっても、他者の権利を侵害していないならば全て認められるべきだ」というガチの一元的内在制約説原理主義者もまた少数であり、
「低俗な本に対する一定の倫理的歯止めをする制度は必要だよね」という中庸な人がおそらく最大多数だ。
(酒鬼薔薇の本など典型例だ。私の倫理観はあの本が出ることを嫌悪するが、あのような本の出版をどうやって規制するのか、というと非常に難しいよなと思う部分はある)
そういう人たちに対して「いや、一定の倫理的歯止めはかけていますよ」というアピールをして、ひいては条例・法律上の規制をするような世論に持っていかせないという存在としても自主規制団体は役立っており、
民主主義の世の中においてそのような団体の存在意義は一概に否定するものでもない。
http://anond.hatelabo.jp/20150122024751
この手の話をはじめると、決まって「継父の虐待」とか「シングルマザーの境遇では進学させられず...」とかの
キャッチーで酷い話ばかりになる。しかし実態はもう少し中庸だ。
まず、いくら劇的な離婚劇があったとしても、近年結婚した夫婦と子供の大部分は劇的に貧しくはない。
世にでる離婚サンプルは目に余るものばかりだが、国やコミュニティの自負自尊心をくすぐる例しかメディアに載らず
売文できる離婚例以外は基本表には出てこない。
で、
①慰謝料養育費のやり取りが(満額とは程遠くても)5~10年ぐらい続き
③両親の離婚過程を、ある程度余裕をもって観察することのできた子供は多く実在するが、
別に法的責任も道義的責任も果たす両親を見ているし、戸籍上断絶した祖父母や親類との繋がりが残ることだってある。
外のコミュニティを代替物にしてふんばるぐらいのリソースはある。キャリアを積み、家庭も築く。
~ここまでがギリギリ物語やメッセージとして一般人に通じるライン~
ここからがツライ。
引き続き、子供が成人するまでに両親とはそれぞれ緩やかな関係が残るわけだが、
下限がしれたものなら上限だってしれた程度のものにしかならない。
ミクロで見れば努力や精神論の入り込む余地があって、父母を反面教師にした自立への美しい物語ができあがるが、
マクロで見れば自身のルーツや幼年期の愛着を否定されて摩滅するしかない期間である。
特に両親の愛着関係を客観視したとき、そこには幼稚さを気まぐれと醜い打算ばかりが残る。
種々の責任を果たした両親を前にして取り付く島もなく、自身も成長し”こじらせた”子供として振る舞うことができない。
喜怒哀楽の大きな起伏を呼び起こすような局面は特になく、いい大人が長い期間をかけてすり減るのである。
そこには貧しさも激しい葛藤もない。
とりたてて筋が通った話にもならず冗長だから、ひたすら消耗する。
[アンジェラ]
容姿は端麗だが、そのことに自信を持つ、
周囲を出し抜くことしか考えていない。
逆に言えば、ネトウヨが性的な願望ばかりを露出していることの象徴でもある。
[ディンゴ]
アンジェラと行動を共にする青年であり、ネトウヨをたしなめる知識ある常識人。
ネトウヨとの対比とするならば、彼は中庸の存在と言えるだろう。
自らが正しいと主張し続けるのである。
この物語における真の主人公であり、ネトウヨとは対極の存在である。
彼は非常にユニークで知性に富んでいて、
前述のディンゴが彼に興味を持つことも、さもありなん。
そんな、ネトウヨが嫌悪する彼が何の象徴であるかは、最早語るまでもあるまい。
彼らはそこにい留子とを許された、選ばれた存在だと思い込んでいた。
たまに外部の人間が現れ、
を投下していくのだ。
そんな"デマ"を貼ったアカウントを特定し、アク禁することだ。
曰く「現実世界に行って"荒らし"を直接指導してこい」とのこと。
ネトウヨとしての承認欲求の高い主人公は、すぐに部屋を飛び出していく。
ネトウヨが幾ら"世界の真実"を語ったところで、なんの関心も示さない。
しまいには、引きこもり続けていた身体が普通の生活にもついて行けず、
体調不良で倒れるほどだ。
だが、パートナーはネトウヨだからというだけで差別をすることもなく、
ちょろい。ちょろすぎる。
そんな中、ネット情報だけでなく、人間関係でもコミュ力のあるパートナーは、
ネトウヨでは絶対に導き出せなかった方法で、"荒らし"の居場所を突き止める。
ネトウヨは"荒らし"の排除を主張するが、彼は対話を選択する。
それは、偏った思想しか与えられていなかったネトウヨには想像もできなかった新しい視点で、
一方パートナーは中庸であるからその思想も受け入れる事ができ、
どころか、より人間味があるとして、"荒らし"と意気投合する。
それが気にくわないネトウヨ。いじける。めんどくさい奴だ。
"荒らし"は、どうやら夢があるらしい。
少なくとも、相手の意見に耳を傾けるだけの知性を持ったネトウヨだった。
彼のいうことにも一面の真理があることを、
だが、ネットにも精通していた"荒らし"はそんなネトウヨを救う。
ネットに精通した彼にとっては、ネトウヨ共が構築したシステムなどたやすく突破できるのだ。
この段になり、ようやくネトウヨは、自分の思想が偏っていたことに気がつく。
そして、そのことを恥じ、より歴史を知り、謝罪と賠償をするために、
ネトウヨは――元ネトウヨは、現実世界で生きていくことを決める。
"荒らし"は自らの夢を叶えるために。
そして、今の人間の更に一歩先を行くために、前へと進み出す。
パートナーは言う。
ネトウヨではなく、真実を告げてきた彼の姿こそ、より人間的であると。
ネトウヨからきちんとした人間として生きていくことを誓い、パートナーと行動を共にするのだった。
ネトウヨでも簡単に外部に毒される。もっと管理をしなければ。と結論づけ――
END
この手の話をはじめると、決まって「継父の虐待」とか「シングルマザーの境遇では進学させられず...」とかの
キャッチーで酷い話ばかりになる。しかし実態はもう少し中庸だ。
まず、いくら劇的な離婚劇があったとしても、日本の80~00年代で結婚した夫婦と子供の大部分は劇的に貧しくはない。
世にでる離婚サンプルは目に余るものばかりだが、国やコミュニティの自負自尊心をくすぐる例しかメディアに載らず
売文できる離婚例以外は基本表には出てこない。
で、
①慰謝料養育費のやり取りが(満額とは程遠くても)5~10年ぐらい続き
③両親の離婚過程を、ある程度余裕をもって観察することのできた子供は多く実在するが、
法的責任も道義的責任も果たす両親を見ているし、戸籍上断絶した祖父母や親類との繋がりが残ることだってある。
外のコミュニティを代替物にしてふんばるぐらいのリソースはある。キャリアを積み、家庭も築く。
~ここまでがギリギリ物語やメッセージとして一般人に通じるライン~
ここからがツライ。
引き続き、子供が成人するまでに両親とはそれぞれ緩やかな関係が残るわけだが、
下限がしれたものなら上限だってしれた程度のものにしかならない。
よほどの人徳者でもなければ、父母同士がその後直接連絡を取ることはない。
それに離婚したからといって枯れて生きるわけでもないので、職場での自己実現や再婚といった手段が視野に入ってくる。ありふれた話だ。
しかし、1対1でのコミュニケーションで繋ぎ止めていた関係性がにわかに崩れはじめるのである。
問題はそれが10年から20年といった長いスパンで起こることだ。
ミクロで見れば努力や精神論の入り込む余地があって、各々が自立する美しい物語ができあがるが、
マクロで見れば自身のルーツや幼年期の愛着を否定されて摩滅するしかない期間である。
種々の責任を果たした両親を前にして取り付く島もなく、自身も”こじらせた”子供として振る舞うことができない。
喜怒哀楽の大きな起伏を呼び起こすような局面は特になく、いい大人が長い期間をかけてすり減るのである。
こういった具合でゾンビ状態にある大人を多数相手にしてきたが、
日本人はこの手の長い時間をかけて消耗するような、自意識の強度を試す命題にとんと疎い。
なので、今日も彼ら彼女らは年一で会った親から全く知らない人間関係の話を滔々と聞くことになる。
そこには貧しさも激しい葛藤もない。
とりたてて筋が通った話にもならず冗長だから、ひたすら消耗する。