2015-09-29

欲しいものがない/停滞した経済

 昨日の夜、ぼんやりと「欲しいものがないなあ」と感じた。

 そんな自分の考えは感覚的で厳密じゃないので、何を感じたのか分析してみたのだが、厳密に言えばほしいものがないわけじゃない。どうやら以下のようなことらしかった。

1)日常的な欲求はあるがそれは強い欲求ではない

 例えば普段食べてるランチが700円で、1000円のランチが食べたくないか? 食べた時嬉しくないのか? と問われればNoだ。たまには食べたい(そして実際食べる)。

 が、それって欲求としてさほど強くもない。「今月はランチずっと700円です!」と言われれば「そうですか」で済んむでしまうようだ。あるいは「自炊して300円で抑えてね」も同様、「そうか」と思う。面倒くささは感じるが、1000円のランチが食べたい! という欲求ではない。

 もちろん僕がランチ資金毎日200円でコンビニおにぎり一個と公園の水であれば、700円のランチに強い執着心を感じるかもしれないが、それは欲求かっていうと空腹であるような気がする。コンビニおにぎりがどうしてもいやかというとそんなに嫌いでもないし実際普段そこそこ食べているのだ。

 自分には、1000円、あるいはホテルの3000円のランチを目指すような強い衝動存在しない。

 同様に、毎週ライブにいきたいとか、毎日違う服を着たいとか、月に10枚は円盤を買いたいとか、そういう日常的な欲求も特にない。

2)遠い地点に望むものはあるのだが理性的制御できてしまっている

 うすらぼんやりと、どこか気候のよい地域ホテル暮らしたい欲求がある。というか、人生ずっとホテル(とか旅館?)で暮らしたい。これは僕の憧れの生活だ。でもそれって毎日3万円x365日x50年って考えると5億以上必要になるので、現実的ではない。

 現実的ではないんだが(絶対に)不可能かというとそれも違う。5億稼ぐ人は日本人に一人もいないかと言えば、それは居るだろう。この年齢からチャレンジする人も皆無だとは言えない。つまり「僕がチャレンジしない理由」にはならない。「そういう生活したいなら努力してみればいいじゃない」は正論だ。そもそも目標額(5億)稼げなかったとしても、より稼ぐ何らかのアクションを起こせば収入が上がる可能性そのものは高い。年収をたとえば+10万するとか、不可能だとは思わない。つまり努力無駄にはならないはずだ。

 しかし、食指が動かないというのが正直な気分だ。5億ゲットできるならかなり頑張れるのだが、+10万くらいなら別にいいや……という気分なのである。+10万というのは700円のランチが974円になる程度であって、項目1に連結する。つまり1000円のランチをそんなに頑張って食べなくてもいいや、と思う。

 厳密にいうのならば「5億の欲求はあるのだが、その実現可能性と労力を天秤にかけて、そこまでして頑張らなくてもいいと思っている」のだろう。それはつまり「そこまで欲求が強いわけではない」と言える。

 僕が憧れる強度は所詮その程度なのだ

3)つまりないのは中間的な目標

 1,2と考えてつまり欠けているのは中間的な目標なのではないか? というところにたどり着いた。もう少し厳密に言うと「日々のお小遣いで買うことはできず、可処分所得でも購入できず、貯金という行為必要になるのだが、その貯金のものは数年~二〇年間程度の中期計画で見通しが立つ程度の買い物」だ。

 該当する金額としては500万円~1億弱程度だろうか。

 そしてそういう射程に目標物がないのが自分問題なのだと思う。住処については持ち家を相続したし両親は他界して介護必要はなく、車には乗らないし。もしこれらに何らかの問題があった場合、金が必要だと思うことになると思うのだが、それは欲求ではなくて困窮だ。

4)ライフスタイルロールモデル

 結局、自分は今の自分ライフスタイルでそこそこ満足しているのだ。決して金持ちではないのだが、飢えてるわけでもないし、職がないわけでもなく、日常的なひもじさや寒さは感じていないし、たまに豪華ランチくらいは食べられる。タバコは吸わないし、お酒は飲めるがわざわざ一人で飲もうというほどではない。趣味もあるが莫大な金を必要とするものではなく、むしろ微妙黒字になる程度だ。

 そういう風に自己分析をしたのだが、これって珍しくない日本人なんじゃなかろうか?

 僕には「お金を使うロールモデル」がないが、日本全体にもいまそれが欠けているように思える。

 テレビ冷蔵庫洗濯機を買うために頑張ってた僕らの祖父祖母にあった「家電という豊かな生活をする私たち」というロールモデルがない。

 車やマイホームをもとめ郊外に一軒家を建てて妻子と共に暮らすという僕らの父母にあった「高度成長期の若夫婦」というロールモデルもない。

 それらはそこまで強く望むまでもなく手元にあるし(数万円で安いテレビは買えるし)、あるいは結婚マイホームというものが「手に入ればそれで幸福になれる保証チケット」ではないということも、周知されてしまった。

 若者ナンチャラ離れとか、消費が冷え込んでって、案外こういうことなんじゃないのか?

 もちろん僕らがこういう豊かな社会に住めているのは、祖父母や両親の世代のおかげなので深く感謝するし、スマホの無い時代のほうがよかったなんて口が裂けて言うつもりはない。生活のために仕事もしてるし、将来何かあったら困るから貯金もする。

 でも、1や2のような思考を経て「パーッとお金を使って幸せになってる自分」が想像できないのも確かなことなのだ。自分にはおそらく「お金を使って幸福になるロールモデル」が欠けている。そしてそれは、日本若者から中年にかけて、全員とは言わないが、心当たりがある欠如なんじゃないかと思う。

 考えてみれば、祖父母の(つまり昭和戦後復興の)「豊かな暮らしイメージモデル」は欧米からの借り物だった。高度成長期マイホーム幻想家族で団らんのイメージもそうだった。

 追いかける背中があった。そしてそれは参考書があるというのと同義だった。いま日本世界有数の先進国となって(少子化という意味では最先端国家だ)、道に迷っている感じがする。日本だけではなく先進国全てがすべて「追いかける背中」を喪失している。「憧れの生活」が見えづらい。

 貧しくないし不幸じゃないんだが、ふわふわしたやるせなさはある。

 そんなことを考えた月曜日だった。

  • こういうの読むと、「欲しいもの」、言い換えると、「お金や時間のかけがいがあるもの」を見つけるというのは、そこそこ幸せになるための有効手段なのかもしれないなぁと思う。 家...

  • 経済的な豊かさは獲得したものの、心の豊かさがなくなってしまっているって感じ。 子供が一番不幸になるように育てるには、欲しいと言う物全部、その子の手が届くところに与えてあ...

  • ほしいものが無い、んじゃなくて、「高嶺の花」と決めて、諦めているだけだと思うね。 文章中にも「...これは僕の憧れの生活だ。でもそれって毎日...」とあるものな。

  • 人類を統率するために何か追いかけるモノが必須という、経済至上主義の終焉かな。

  • 人類を統率するために何か追いかけるモノが必須という、経済至上主義の終焉かな。かといって、もっと良い社会統制システムは見当たらず。 こういう中庸な状態って、俺は好きだな。...

  • 人類を統率するために何か追いかけるモノが必須という、経済至上主義の終焉かな。かといって、もっと良い社会統制システムは見当たらず。 こういう中庸な状態って、俺は好きだな。...

  • http://anond.hatelabo.jp/20150929071933 いやこっちか http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20150228205028

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん