はてなキーワード: 不倶戴天とは
https://b.hatena.ne.jp/agricola/bookmark
「法律で禁止されていない」を振りかざして散々オラついてたんだから、自演も詐称もこういう理論展開で正当化するのはごく自然だよね。その割に女性が安全ピンを所持する合法的な行為はご不満らしいけど(嘲笑
日頃「法律で規制されていなければ自由なんですドヤァ」と言ってた連中が「最低限の信用すら失った」とか言い出す無様。それってあなたのお気持ちじゃないですか(嘲笑
回線切ってチーズバーガー食ってろよ。ところで、法律で禁止されていないなら何をしてもいいセクハラ萌え豚の皆さんまさかパパミルク太郎を批判なんてしてないよね?どの面下げて良識派ムーヴかましてるのさ? パパミルクさん チーズバーガー二個分
流石のツイッター日本も「臭いでわかる」みたいな露骨なヘイトスピーチのプラットフォームにはなりたくなかったということでしょうかね。他者の著作権を侵害するコンテンツを拡散したこともあったよな。 パパミルクさん チーズバーガー二個分
数年前に女性声優がCDアルバムのジャケット写真だったかを積み重ねたパレットに乗って撮影していたときは非難囂々だったと記憶していたが……やっぱり「ヌケる」表現にはズルチンよりも甘っちょろいのな(侮蔑
さすが産経上がりのカスは言うことが違うwどんだけ社会人経験が不足してるんだ?(嘲笑
「エロゲとコラボするのは公式の自由」「not for me」「表現の自由はみんなが不快感を我慢することで成り立つ」でしょ?お気持ちをぴぃぴぃ鳴き喚く豆腐メンタルに一発キツいのかまして来い(嘲笑
長年病気で苦しんできた患者が自分が担当してから死んだら病気のせいではなく自分が殺したんだと判断するんですね。 あほか
犯罪沙汰は増えていなくても「こいつマジでゲームのしすぎで脳細胞が破壊されたゲーム脳なんじゃねーか?」と疑いたくなるレベルで知的能力に問題を抱えた大人が量産されてますよね。今後加齢で脳がさらに衰えたら… 萌えは脳神経を壊す
「サイゼデートで喜ぶ彼女」に対応するのが「ショボスペPCで喜ぶ社畜」なんだよ。せっせと社畜ちゃんの萌える絵をばら撒け(嘲笑)
なぜこのツイートの前にあんなことをしたんだ……。セクハラ萌え豚は「他者を勝手な判断で性的だと判断し、性消費する行動や言葉を押し付け」るな、という声明がツイフェミを掣肘すると思ってるのか。やべぇ。 セクハラ萌え豚
おや?「こういう場合は"コメントを求めたが回答はなかった"と書いてはいけません」と法律で禁止されてましたっけ?禁止されていない以上は表現の自由、なんでしょ?(嘲笑
ヤマーダ無双じゃね?プレイヤブルキャラクターとして他にレドマツ、スンシャックなどオタク政治家界隈が結集!押し寄せる不倶戴天の敵「ポリコレ」「フェミ」をなぎ倒せ!!最後は夢オチで裁判沙汰回避!!!(嘲笑
石川優実のTwitter引用裁判原告敗訴に「倫理」を持ち出して不平を垂れていない者だけが石を投げなさい案件。キャンセルカルチャーも法律で規制されてないけど何に依って批判するのかな。倫理?(嘲笑
その調子で戦車の方向指示器もとっぱらってくれ(嘲笑)↓え、ムッソリーニとヒトラーって戦犯として訴追されて有罪判決を受けて処刑されたんだっけ?(正解はリンチと自殺)お前らホント歴史を知らんのな(侮蔑
をお気に入りに入れてるのが168人もいる。はてなブックマークはヘイトスピーカーばかり
ほぼ毎日こういうはてなブックマークをしているためまともな人間はこの人物をお気に入りに入れていない。
にもかかわらず以下の3名は毎日のようにはてなブックマークを使っていてこの人物のヘイトスピーチを日々見ているにもかかわらずお気に入りに入れ続けている。
https://b.hatena.ne.jp/agricola/follower
D_Amon
the_sun_also_rises
cinefuk
偶然入れてしまった可能性もあるが、なぜこの人物をお気に入りに入れているのか、これからも入れ続けるかについて弁明が必要だろう。
朝日新聞みたいな立ち位置の人間にとっては、安倍元総理ってのはこの国の(朝日新聞にとっては心地よい)価値観を木っ端みじんに破壊した「大悪党」なのよ
彼らに冬の時代を招いた不倶戴天の敵だから、たとえ総理を辞めようが議員を辞めようが死んでしまおうが絶対に許すことはできない、未来永劫呪い続けるべき邪悪、そんな存在なわけ
安倍元総理が最初に総理になったときに言ってた「戦後レジームからの脱却」を覚えてるでしょ?
2010年代半ばから米豪印をまとめて中国包囲網体制作ったりアメリカの議会で演説したりオバマ大統領を広島の原爆公園に招いたり集団的自衛権を法制化したり慰安婦問題を完全に潰したり、全部根っこは同じなんだよね
でも男女の賃金格差が縮んでも女が下方婚してないのは事実だし、
本文中に書いた通り。女が下方婚をしない? それの何が問題なんだ、男が若い女を好むのと同じだ。統計的に見ると男が年上というカップルの方が多いが、何も問題ない。個人の自由だからだ。給料が安いがゆえにモテないのは女の責任ではない。原因は薄給なことにあるんだから政府や企業を殴るべきなんだよ。
いきづらいと感じている男性がいる というのが弱者男性論の主題なんだが。
そこは否定できないだろ。
そこは否定しないが、だったら何? とも思う。俺の人生も発達のせいでたいがい生きづらいが、それは俺の問題だ。あるいは俺の家族や俺の主治医や俺の上司の問題にはなるかもしれないが、社会の問題じゃない。
本文中でほのめかしたが、伝わらなかっただろうか。「フェミが憎いのはわかる(俺も献血よく行くマンなのであいつらは大嫌いだ)」と書いたはずだが。キズナアイにイチャモンをつけ献血ルームのポスターを指さして暴れ高海千歌ちゃんの宣伝を撤去させるようなクソフェミどもは俺にとっても不倶戴天の敵だ。そいつらに立ち向かうというなら連帯する。
それはフェミニズムのスローガンだろう。俺は本文中でちゃんと「フェミが大嫌い」と書いたはずなのだが……
“女性が上昇婚するのはどう考えても個人の自由” こと女性に関しては「こういう〇〇が社会に影響を与えてルッキズムが〜女性のモノ化が〜性的消費が〜」って散々言ってる口で、これだから二枚舌だと言われるのよ
マジで日本語読めないんだ。すげーな。俺はああいうイチャモンフェミも嫌いだけどお前みたいな日本語読解力皆無のやつも嫌いだよ。
上昇婚については「自由」だとは思うけど、それを謳歌することのジェンダー性から目を背けてジェンダーフリーが実現できると思ってるなら正直「女性の足を引っ張ってる」というお話で、弱者男性関係ねぇよなと
俺はリベラリズムとは「個人に可能な限り多様な選択肢を与える」ことを目指すべきだと思っている。そのうえで言うと、ジェンダーフリーとは「選択肢に色をつけない」ことだと考える。
どういうことか。男の子のランドセルは黒、女の子は赤、これが「規定」として決められてしまっていたら、赤いランドセルを背負いたい男の子や、黒いランドセルが好きな女の子が自分の望む色を実現できない。だが、多くのカラバリの中から女の子が赤やピンクを選ぶぶんには自由ではないだろうか。結果として男の子が全員黒いランドセルを使って女の子が全員ピンクのランドセルを背負っていても、仮にそれが個々のご家庭の自由な選択の結果であるならば尊重し、肯定するべきだ。重要なのはそれを自分で選んだということであり、選ぶことができたということなのだから。
なので、女性の自由な行動の結果としてお金持ちの男性に養われる専業主婦が生まれたとしても、俺はそれを非難しようとは思わない。当人の自由だ。大事なのは、もしも彼女がなろうと思えば医者や銀行員や代議士になれたか? ということであって、実際に彼女がそうなるかどうかはあまり問題ではない。
勘違いをしているようだが、リベラリズムは自由の実現を重んじる主義であって弱者の救済は必要条件ではない。自由な競争の結果ある程度の格差が生まれることは容認する。弱者の救済を必要条件に掲げるのはソーシャリズムとかコミュニズムとかそういうやつだ。ここテストに出るので憶えておくように。
現代のリベラル派が弱者を救う福祉国家を支持するのは、まず物質的な基盤がなければそもそも自由を実現することができないからだ。職業選択の自由があっても、手元に紙とペンすらなければ最底辺の職しか選べない。そんなのは自由な選択とはいえない、というのが現代のリベラル派が弱者救済を訴える際の基盤となる論理構成である。弱者救済はあくまで自由の実現のための手段に過ぎない。
え? 知り合いのリベラル派が自由よりも弱者救済が大事なんだよって言ってた? そんな子はウチの子じゃありません! そんなにソーシャリズムが好きならソーシャリストになっちゃいなさい!(一応言っておくと、社会自由主義という立場はある。俺はどちらかというとこの立場。それでも軸足をどっちに置いているかといえば「自由」の方だからリベラル派って名乗ってるけど)
自由の拡大を支持しているから。具体的には、選択的夫婦別姓の導入、大麻と同性婚と安楽死の合法化、わいせつ物頒布罪・単純賭博罪・常習賭博罪の廃止、賭博開帳図利罪の改正(民営賭博の合法化)、公衆浴場での入れ墨の容認、動物愛護法の改正(虐待罪の廃止)あたり。これらは人間の自由を合理的理由なく制約している。不当に自由を脅かす制度はなくなるべきだ。
虐待罪の廃止と書いたんだから、普通に読めばわかるだろうと思うのだが……俺個人としては可愛い犬ちゃん猫ちゃんをいじめる奴らはサイテーだと思うが、しかし他人の動物ではなく自分で買ってきたりした自分の動物をいじめる分には個人の自由だ。彼らが道徳的非難を浴びるのは仕方ないとしても、他の人間の権利を何ら脅かしてはいないのだから刑罰を受けるべきではない(他人のペットを蹴り殺すような奴は他人の財産を脅かしているので動物愛護法がなくても処罰できる)。
お前が認めたくないことはわかったが、それは他人に刑罰を科す理由にはなりません、って話だよ。俺も個人的には動物をいじめるような連中はサイテーだと思うし、友達だったら縁を切ると思うけど、そいつらが刑務所に入れられたり罰金を取られたりすることには反対するよ。だって、そいつらがいったい他の人間にどんな危害を加えたというんだ?
動物愛護法が守ろうとしているものについてはこちらを。端的に言えば、「身近な動物が合理的な理由なく虐待されているのを知ると苦痛を感じる人が多いから」https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/arikata/h16_02/mat02.pdf
それ、言ってることが「普通の日本人は天皇陛下の写真が焼かれていると苦痛を感じるんです」っていうあいトリ批判派の連中とまるっきり一緒じゃん。虐待の場面を無理やり見せたとかならともかく、そんな不快感程度のものに基づいて人間の自由や財産を奪おうとするのは間違ってる。やっぱ人間の自由を奪う悪法だな。改正すべき。
以上のお話によって、郷田三郎と、明智小五郎との交渉、又は三郎の犯罪嗜好癖などについて、読者に呑み込んで頂いた上、さて、本題に戻って、東栄館という新築の下宿屋で、郷田三郎がどんな楽しみを発見したかという点に、お話を進めることに致しましょう。
三郎が東栄館の建築が出来上るのを待ち兼ねて、いの一番にそこへ引移ったのは、彼が明智と交際を結んだ時分から、一年以上もたっていました。随したがってあの「犯罪」の真似事にも、もう一向興味がなくなり、といって、外ほかにそれに代る様な事柄もなく、彼は毎日毎日の退屈な長々しい時間を、過し兼ねていました。東栄館に移った当座は、それでも、新しい友達が出来たりして、いくらか気がまぎれていましたけれど、人間というものは何と退屈極きわまる生物なのでしょう。どこへ行って見ても、同じ様な思想を同じ様な表情で、同じ様な言葉で、繰り返し繰り返し、発表し合っているに過ぎないのです。折角せっかく下宿屋を替えて、新しい人達に接して見ても、一週間たつかたたない内に、彼は又しても底知れぬ倦怠けんたいの中に沈み込んで了うのでした。
そうして、東栄館に移って十日ばかりたったある日のことです。退屈の余り、彼はふと妙な事を考えつきました。
彼の部屋には、――それは二階にあったのですが――安っぽい床とこの間まの傍に、一間の押入がついていて、その内部は、鴨居かもいと敷居との丁度中程に、押入れ一杯の巌丈がんじょうな棚があって、上下二段に分れているのです。彼はその下段の方に数個の行李こうりを納め、上段には蒲団をのせることにしていましたが、一々そこから蒲団を取出して、部屋の真中へ敷く代りに、始終棚の上に寝台ベッドの様に蒲団を重ねて置いて、眠くなったらそこへ上って寝ることにしたらどうだろう。彼はそんなことを考えたのです。これが今迄いままでの下宿屋であったら、仮令たとえ押入れの中に同じような棚があっても、壁がひどく汚れていたり、天井に蜘蛛くもの巣が張っていたりして、一寸その中へ寝る気にはならなかったのでしょうが、ここの押入れは、新築早々のことですから、非常に綺麗きれいで、天井も真白なれば、黄色く塗った滑かな壁にも、しみ一つ出来てはいませんし、そして全体の感じが、棚の作り方にもよるのでしょうが、何となく船の中の寝台に似ていて、妙に、一度そこへ寝て見たい様な誘惑を感じさえするのです。
そこで、彼は早速さっそくその晩から押入れの中へ寝ることを始めました。この下宿は、部屋毎に内部から戸締りの出来る様になっていて、女中などが無断で這入はいって来る様なこともなく、彼は安心してこの奇行を続けることが出来るのでした。さてそこへ寝て見ますと、予期以上に感じがいいのです。四枚の蒲団を積み重ね、その上にフワリと寝転んで、目の上二尺ばかりの所に迫っている天井を眺める心持は、一寸異様な味あじわいのあるものです。襖ふすまをピッシャリ締め切って、その隙間から洩れて来る糸の様な電気の光を見ていますと、何だかこう自分が探偵小説の中の人物にでもなった様な気がして、愉快ですし、又それを細目に開けて、そこから、自分自身の部屋を、泥棒が他人の部屋をでも覗く様な気持で、色々の激情的な場面を想像しながら、眺めるのも、興味がありました。時によると、彼は昼間から押入に這入り込んで、一間と三尺の長方形の箱の様な中で、大好物の煙草をプカリプカリとふかしながら、取りとめもない妄想に耽ることもありました。そんな時には、締切った襖の隙間から、押入れの中で火事でも始ったのではないかと思われる程、夥しい白煙が洩れているのでした。
ところが、この奇行を二三日続ける間に、彼は又しても、妙なことに気がついたのです。飽きっぽい彼は、三日目あたりになると、もう押入れの寝台ベッドには興味がなくなって、所在なさに、そこの壁や、寝ながら手の届く天井板に、落書きなどしていましたが、ふと気がつくと、丁度頭の上の一枚の天井板が、釘を打ち忘れたのか、なんだかフカフカと動く様なのです。どうしたのだろうと思って、手で突っぱって持上げて見ますと、なんなく上の方へ外はずれることは外れるのですが、妙なことには、その手を離すと、釘づけにした箇所は一つもないのに、まるでバネ仕掛けの様に、元々通りになって了います。どうやら、何者かが上から圧おさえつけている様な手ごたえなのです。
はてな、ひょっとしたら、丁度この天井板の上に、何か生物が、例えば大きな青大将あおだいしょうか何かがいるのではあるまいかと、三郎は俄にわかに気味が悪くなって来ましたが、そのまま逃げ出すのも残念なものですから、なおも手で押し試みて見ますと、ズッシリと、重い手ごたえを感じるばかりでなく、天井板を動かす度に、その上で何だかゴロゴロと鈍い音がするではありませんか。愈々いよいよ変です。そこで彼は思切って、力まかせにその天井板をはね除のけて見ますと、すると、その途端、ガラガラという音がして、上から何かが落ちて来ました。彼は咄嗟とっさの場合ハッと片傍かたわきへ飛びのいたからよかったものの、若もしそうでなかったら、その物体に打たれて大怪我おおけがをしている所でした。
「ナアンダ、つまらない」
ところが、その落ちて来た品物を見ますと、何か変ったものでもあればよいがと、少からず期待していた彼は、余りのことに呆あきれて了いました。それは、漬物石つけものいしを小さくした様な、ただの石塊いしころに過ぎないのでした。よく考えて見れば、別に不思議でも何でもありません。電燈工夫が天井裏へもぐる通路にと、天井板を一枚丈け態わざと外して、そこから鼠ねずみなどが押入れに這入はいらぬ様に石塊で重しがしてあったのです。
それは如何いかにも飛んだ喜劇でした。でも、その喜劇が機縁となって、郷田三郎は、あるすばらしい楽みを発見することになったのです。
彼は暫しばらくの間、自分の頭の上に開いている、洞穴ほらあなの入口とでも云った感じのする、その天井の穴を眺めていましたが、ふと、持前もちまえの好奇心から、一体天井裏というものはどんな風になっているのだろうと、恐る恐る、その穴に首を入れて、四方あたりを見廻しました。それは丁度朝の事で、屋根の上にはもう陽が照りつけていると見え、方々の隙間から沢山の細い光線が、まるで大小無数の探照燈を照してでもいる様に、屋根裏の空洞へさし込んでいて、そこは存外明るいのです。
先まず目につくのは、縦に、長々と横よこたえられた、太い、曲りくねった、大蛇の様な棟木むなぎです。明るいといっても屋根裏のことで、そう遠くまでは見通しが利かないのと、それに、細長い下宿屋の建物ですから、実際長い棟木でもあったのですが、それが向うの方は霞んで見える程、遠く遠く連つらなっている様に思われます。そして、その棟木と直角に、これは大蛇の肋骨あばらに当る沢山の梁はりが両側へ、屋根の傾斜に沿ってニョキニョキと突き出ています。それ丈けでも随分雄大な景色ですが、その上、天井を支える為に、梁から無数の細い棒が下っていて、それが、まるで鐘乳洞しょうにゅうどうの内部を見る様な感じを起させます。
「これは素敵だ」
一応屋根裏を見廻してから、三郎は思わずそう呟つぶやくのでした。病的な彼は、世間普通の興味にはひきつけられないで、常人には下らなく見える様な、こうした事物に、却かえって、云い知れぬ魅力を覚えるのです。
その日から、彼の「屋根裏の散歩」が始まりました。夜となく昼となく、暇さえあれば、彼は泥坊猫の様に跫音あしおとを盗んで、棟木や梁の上を伝い歩くのです。幸さいわいなことには、建てたばかりの家ですから、屋根裏につき物の蜘蛛の巣もなければ、煤すすや埃ほこりもまだ少しも溜っていず、鼠の汚したあとさえありません。それ故ゆえ着物や手足の汚くなる心配はないのです。彼はシャツ一枚になって、思うがままに屋根裏を跳梁ちょうりょうしました。時候も丁度春のことで、屋根裏だからといって、さして暑くも寒くもないのです。
三
東栄館の建物は、下宿屋などにはよくある、中央まんなかに庭を囲んで、そのまわりに、桝型ますがたに、部屋が並んでいる様な作り方でしたから、随って屋根裏も、ずっとその形に続いていて、行止ゆきどまりというものがありません。彼の部屋の天井裏から出発して、グルッと一廻りしますと、又元の彼の部屋の上まで帰って来る様になっています。
下の部屋部屋には、さも厳重に壁で仕切りが出来ていて、その出入口には締りをする為の金具まで取りつけているのに、一度天井裏に上って見ますと、これは又何という開放的な有様でしょう。誰の部屋の上を歩き廻ろうと、自由自在なのです。若し、その気があれば、三郎の部屋のと同じ様な、石塊の重しのしてある箇所が所々にあるのですから、そこから他人の部屋へ忍込んで、窃盗を働くことも出来ます。廊下を通って、それをするのは、今も云う様に、桝型の建物の各方面に人目があるばかりでなく、いつ何時なんどき他の止宿人ししゅくにんや女中などが通り合わさないとも限りませんから、非常に危険ですけれど、天井裏の通路からでは、絶対にその危険がありません。
それから又、ここでは、他人の秘密を隙見することも、勝手次第なのです。新築と云っても、下宿屋の安普請やすぶしんのことですから、天井には到る所に隙間があります。――部屋の中にいては気が附きませんけれど、暗い屋根裏から見ますと、その隙間が意外に大きいのに一驚いっきょうを喫きっします――稀には、節穴さえもあるのです。
この、屋根裏という屈指の舞台を発見しますと、郷田三郎の頭には、いつのまにか忘れて了っていた、あの犯罪嗜好癖が又ムラムラと湧き上って来るのでした。この舞台でならば、あの当時試みたそれよりも、もっともっと刺戟の強い、「犯罪の真似事」が出来るに相違ない。そう思うと、彼はもう嬉しくて耐たまらないのです。どうしてまあ、こんな手近な所に、こんな面白い興味があるのを、今日まで気附かないでいたのでしょう。魔物の様に暗闇の世界を歩き廻って、二十人に近い東栄館の二階中の止宿人の秘密を、次から次へと隙見して行く、そのこと丈けでも、三郎はもう十分愉快なのです。そして、久方振りで、生き甲斐を感じさえするのです。
彼は又、この「屋根裏の散歩」を、いやが上にも興深くするために、先ず、身支度からして、さも本物の犯罪人らしく装うことを忘れませんでした。ピッタリ身についた、濃い茶色の毛織のシャツ、同じズボン下――なろうことなら、昔活動写真で見た、女賊プロテアの様に、真黒なシャツを着たかったのですけれど、生憎あいにくそんなものは持合せていないので、まあ我慢することにして――足袋たびを穿はき、手袋をはめ――天井裏は、皆荒削あらけずりの木材ばかりで、指紋の残る心配などは殆どないのですが――そして手にはピストルが……欲しくても、それもないので、懐中電燈を持つことにしました。
夜更けなど、昼とは違って、洩れて来る光線の量が極く僅かなので、一寸先も見分けられぬ闇の中を、少しも物音を立てない様に注意しながら、その姿で、ソロリソロリと、棟木の上を伝っていますと、何かこう、自分が蛇にでもなって、太い木の幹を這い廻っている様な気持がして、我ながら妙に凄くなって来ます。でも、その凄さが、何の因果か、彼にはゾクゾクする程嬉しいのです。
こうして、数日、彼は有頂天になって、「屋根裏の散歩」を続けました。その間には、予期にたがわず、色々と彼を喜ばせる様な出来事があって、それを記しるす丈けでも、十分一篇の小説が出来上る程ですが、この物語の本題には直接関係のない事柄ですから、残念ながら、端折はしょって、ごく簡単に二三の例をお話するに止とどめましょう。
天井からの隙見というものが、どれ程異様な興味のあるものだかは、実際やって見た人でなければ、恐らく想像も出来ますまい。仮令、その下に別段事件が起っていなくても、誰も見ているものがないと信じて、その本性をさらけ出した人間というものを観察すること丈けで、十分面白いのです。よく注意して見ますと、ある人々は、その側に他人のいるときと、ひとりきりの時とでは、立居ふるまいは勿論もちろん、その顔の相好そうごうまでが、まるで変るものだということを発見して、彼は少なからず驚きました。それに、平常ふだん、横から同じ水平線で見るのと違って、真上から見下すのですから、この、目の角度の相違によって、あたり前の座敷が、随分異様な景色に感じられます。人間は頭のてっぺんや両肩が、本箱、机、箪笥たんす、火鉢などは、その上方の面丈けが、主として目に映ります。そして、壁というものは、殆ど見えないで、その代りに、凡ての品物のバックには、畳が一杯に拡っているのです。
何事がなくても、こうした興味がある上に、そこには、往々おうおうにして、滑稽こっけいな、悲惨な、或は物凄い光景が、展開されています。平常過激な反資本主義の議論を吐いている会社員が、誰も見ていない所では、貰もらったばかりの昇給の辞令を、折鞄おりかばんから出したり、しまったり、幾度も幾度も、飽かず打眺うちながめて喜んでいる光景、ゾロリとしたお召めしの着物を不断着ふだんぎにして、果敢はかない豪奢振ごうしゃぶりを示している、ある相場師が、いざ床とこにつく時には、その、昼間はさも無雑作むぞうさに着こなしていた着物を、女の様に、丁寧に畳んで、床の下へ敷くばかりか、しみでもついたのと見えて、それを丹念に口で嘗なめて――お召などの小さな汚れは、口で嘗めとるのが一番いいのだといいます――一種のクリーニングをやっている光景、何々大学の野球の選手だというニキビ面の青年が、運動家にも似合わない臆病さを以て、女中への附文つけぶみを、食べて了った夕飯のお膳の上へ、のせて見たり、思い返して、引込めて見たり、又のせて見たり、モジモジと同じことを繰返している光景、中には、大胆にも、淫売婦(?)を引入れて、茲ここに書くことを憚はばかる様な、すさまじい狂態を演じている光景さえも、誰憚らず、見たい丈け見ることが出来るのです。
三郎は又、止宿人と止宿人との、感情の葛藤かっとうを研究することに、興味を持ちました。同じ人間が、相手によって、様々に態度を換えて行く有様、今の先まで、笑顔で話し合っていた相手を、隣の部屋へ来ては、まるで不倶戴天ふぐたいてんの仇あだででもある様に罵ののしっている者もあれば、蝙蝠こうもりの様に、どちらへ行っても、都合のいいお座なりを云って、蔭でペロリと舌を出している者もあります。そして、それが女の止宿人――東栄館の二階には一人の女画学生がいたのです――になると一層興味があります。「恋の三角関係」どころではありません。五角六角と、複雑した関係が、手に取る様に見えるばかりか、競争者達の誰れも知らない、本人の真意が、局外者の「屋根裏の散歩者」に丈け、ハッキリと分るではありませんか。お伽噺とぎばなしに隠かくれ蓑みのというものがありますが、天井裏の三郎は、云わばその隠れ蓑を着ているも同然なのです。
若しその上、他人の部屋の天井板をはがして、そこへ忍び込み、色々ないたずらをやることが出来たら、一層面白かったでしょうが、三郎には、その勇気がありませんでした。そこには、三間に一箇所位の割合で、三郎の部屋のと同様に、石塊いしころで重しをした抜け道があるのですから、忍び込むのは造作もありませんけれど、いつ部屋の主が帰って来るか知れませんし、そうでなくとも、窓は皆、透明なガラス障子しょうじになっていますから、外から見つけられる危険もあり、それに、天井板をめくって押入れの中へ下り、襖をあけて部屋に這入り、又押入れの棚へよじ上って、元の屋根裏へ帰る、その間には、どうかして物音を立てないとは限りません。それを廊下や隣室から気附かれたら、もうおしまいなのです。
さて、ある夜更けのことでした。三郎は、一巡ひとまわり「散歩」を済ませて、自分の部屋へ帰る為に、梁から梁を伝っていましたが、彼の部屋とは、庭を隔てて、丁度向い側になっている棟の、一方の隅の天井に、ふと、これまで気のつかなかった、幽かすかな隙間を発見しました。径二寸ばかりの雲形をして、糸よりも細い光線が洩れているのです。なんだろうと思って、彼はソッと懐中電燈を点ともして、検しらべて見ますと、それは可也かなり大きな木の節で、半分以上まわりの板から離れているのですが、あとの半分で、やっとつながり、危く節穴になるのを免れたものでした。一寸爪の先でこじさえすれば、何なく離れて了い相なのです。そこで、三郎は外ほかの隙間から下を見て、部屋の主が已すでに寝ていることを確めた上、音のしない様に注意しながら、長い間かかって、とうとうそれをはがして了いました。都合のいいことには、はがした後の節穴が、杯さかずき形に下側が狭くなっていますので、その木の節を元々通りつめてさえ置けば、下へ落ちる様なことはなく、そこにこんな大きな覗き穴があるのを、誰にも気附かれずに済むのです。
これはうまい工合ぐあいだと思いながら、その節穴から下を覗いて見ますと、外の隙間の様に、縦には長くても、幅はせいぜい一分ぶ内外の不自由なのと違って、下側の狭い方でも直径一寸以上はあるのですから、部屋の全景が、楽々と見渡せます。そこで三郎は思わず道草を食って、その部屋を眺めたことですが、それは偶然にも、東栄館の止宿人の内で、三郎の一番虫の好かぬ、遠藤えんどうという歯科医学校卒業生で、目下はどっかの歯医者の助手を勤めている男の部屋でした。その遠藤が、いやにのっぺりした虫唾むしずの走る様な顔を、一層のっぺりさせて、すぐ目の下に寝ているのでした。馬鹿に几帳面きちょうめんな男と見えて、部屋の中は、他のどの止宿人のそれにもまして、キチンと整頓せいとんしています。机の上の文房具の位置、本箱の中の書物の並べ方、蒲団の敷き方、枕許まくらもとに置き並べた、舶来物でもあるのか、見なれぬ形の目醒めざまし時計、漆器しっきの巻煙草まきたばこ入れ、色硝子いろがらすの灰皿、何いずれを見ても、それらの品物の主人公が、世にも綺麗きれい好きな、重箱の隅を楊子ようじでほじくる様な神経家であることを証拠立てています。又遠藤自身の寝姿も、実に行儀がいいのです。ただ、それらの光景にそぐわぬのは、彼が大きな口を開あいて、雷の様に鼾いびきをかいていることでした。
三郎は、何か汚いものでも見る様に、眉をしかめて、遠藤の寝顔を眺めました。彼の顔は、綺麗といえば綺麗です。成程彼自身で吹聴ふいちょうする通り、女などには好かれる顔かも知れません。併し、何という間延びな、長々とした顔の造作でしょう。濃い頭髪、顔全体が長い割には、変に狭い富士額ふじびたい、短い眉、細い目、始終笑っている様な目尻の皺しわ、長い鼻、そして異様に大ぶりな口。三郎はこの口がどうにも気に入らないのでした。鼻の下の所から段を為なして、上顎うわあごと下顎とが、オンモリと前方へせり出し、その部分一杯に、青白い顔と妙な対照を示して、大きな紫色の唇が開いています。そして、肥厚性鼻炎ひこうせいびえんででもあるのか、始終鼻を詰つまらせ、その大きな口をポカンと開けて呼吸をしているのです。寝ていて、鼾をかくのも、やっぱり鼻の病気のせいなのでしょう。
三郎は、いつでもこの遠藤の顔を見さえすれば、何だかこう背中がムズムズして来て、彼ののっぺりした頬っぺたを、いきなり殴なぐりつけてやり度たい様な気持になるのでした。
四
そうして、遠藤の寝顔を見ている内に、三郎はふと妙なことを考えました。それは、その節穴から唾つばをはけば、丁度遠藤の大きく開いた口の中へ、うまく這入りはしないかということでした。なぜなら、彼の口は、まるで誂あつらえでもした様に、節穴の真下の所にあったからです。三郎は物好きにも、股引ももひきの下に穿いていた、猿股さるまたの紐を抜出して、それを節穴の上に垂直に垂らし、片目を紐にくっつけて、丁度銃の照準でも定める様に、試して見ますと、不思議な偶然です。紐と節穴と、遠藤の口とが、全く一点に見えるのです。つまり節穴から唾を吐けば、必ず彼の口へ落ちるに相違ないことが分ったのです。
併し、まさかほんとうに唾を吐きかける訳にも行きませんので、三郎は、節穴を元の通りに埋うずめて置いて、立去ろうとしましたが、其時そのとき、不意に、チラリとある恐しい考えが、彼の頭に閃きました。彼は思わず、屋根裏の暗闇の中で、真青になって、ブルブルと震えました。それは実に、何の恨うらみもない遠藤を殺害するという考えだったのです。
彼は遠藤に対して何の恨みもないばかりか、まだ知り合いになってから、半月もたってはいないのでした。それも、偶然二人の引越しが同じ日だったものですから、それを縁に、二三度部屋を訪ね合ったばかりで別に深い交渉がある訳ではないのです。では、何故なにゆえその遠藤を、殺そうなどと考えたかといいますと、今も云う様に、彼の容貌や言動が、殴りつけたい程虫が好かぬということも、多少は手伝っていましたけれど、三郎のこの考かんがえの主たる動機は、相手の人物にあるのではなくて、ただ殺人行為そのものの興味にあったのです。先からお話して来た通り、三郎の精神状態は非常に変態的で、犯罪嗜好癖ともいうべき病気を持ってい、その犯罪の中でも彼が最も魅力を感じたのは殺人罪なのですから、こうした考えの起るのも決して偶然ではないのです。ただ今までは、仮令屡々しばしば殺意を生ずることがあっても、罪の発覚を恐れて、一度も実行しようなどと思ったことがないばかりなのです。
ところが、今遠藤の場合は、全然疑うたがいを受けないで、発覚の憂うれいなしに、殺人が行われ相そうに思われます。我身に危険さえなければ、仮令相手が見ず知らずの人間であろうと、三郎はそんなことを顧慮こりょするのではありません。寧むしろ、その殺人行為が、残虐であればある程、彼の異常な慾望は、一層満足させられるのでした。それでは、何故遠藤に限って、殺人罪が発覚しない――少くとも三郎がそう信じていたか――といいますと、それには、次の様な事情があったのです。
東栄館へ引越して四五日たった時分でした。三郎は懇意こんいになったばかりの、ある同宿者と、近所のカフェへ出掛けたことがあります。その時同じカフェに遠藤も来ていて、三人が一つテーブルへ寄って酒を――尤もっとも酒の嫌いな三郎はコーヒーでしたけれど――飲んだりして、三人とも大分いい心持になって、連立つれだって下宿へ帰ったのですが、少しの酒に酔っぱらった遠藤は、「まあ僕の部屋へ来て下さい」と無理に二人を、彼の部屋へ引ぱり込みました。遠藤は独ひとりではしゃいで、夜が更けているのも構わず、女中を呼んでお茶を入れさせたりして、カフェから持越しの惚気話のろけばなしを繰返すのでした。――三郎が彼を嫌い出したのは、その晩からです――その時、遠藤は、真赤に充血した脣くちびるをペロペロと嘗め廻しながら
ケでも作ろうとしてるのか
それは諦めたほうがいい。自分のキッチンに最適化された料理を考えるしかない。
カレーでさえルーのパッケージに書いてある作り方では難しいだろう。例えば材料を切る毎に鍋に放り込み、ルーと水を鍋に入れて弱火でほっておく、みたいな作り方にアレンジした方がいいだろう。
あとは ありあわせの肉と野菜をオーブンレンジに放り込んでグリルを作るとか、野菜と魚をアルミホイルで包んだものをオーブントースターに突っ込んでホイル焼きを作るとか。
ご飯はもちろん冷凍しておき、食べる直前にレンジで温めるとか。備え付けの電熱器は汁物を作るぐらいにしておくとか。
とにかく手順や材料の多い料理はやめておいた方がいい。そういう意味では「自炊→カレー」みたいな思い込みさえ邪魔なだけだ。
唐揚げにキャベツの千切りとキュウリ・トマトを添えたものとか、お前らの不倶戴天の敵「ちゃんと自炊してます」民が得意げにSNSに写真をアップしているが、あんなものはやめておいたほうがいい。この手の料理は材料を揃えるのがまず大変だ。手間がかかる割には栄養的にはたかが知れてるし、美味しいキャベツの千切りを作るのは意外に技術と手順が大事であるし、いかにも素人くさいキャベツの千切りを頑張ってきれいに盛り付けましたみたいなものを見ると、涙を誘うものだ。
基本的に素人料理は 、手間を加わえれば加えるほど、調味量を入れれば入れるほど不味くなると考えるべきだ。先程述べたように、最低限の食材、最低限の包丁、最低限の火入れ、最低限の調味料で済むようなレシピをストックするべきだ。
批評・評論・研究と社会運動が悪魔合体した結果かなあ、と思ってる。
批評や評論、あるいは研究の領域では、「俺がジャッジだ」でいいんだよね。「この作品にはこれこれこういう問題がある」というのを、あくまで個人の批評や評論や研究として、審美的な基準から行う分にはなんの問題もない。
だからオタク同士の会話で「今となってはあの描写古いよねえ……」みたいにつぶやく分には、何も問題にされないんだよな。新聞の書評欄とか、あるいは「気鋭の学者によるラノベレビュー○○選!」みたいな場だったら、「ちょっと性差別的なのはどうかと思うんだけどー」みたいなこと言っても別に問題にならないでしょ。
レビューとか評論というのは多少厳しいことを書いてもなんならボロクソにこき下ろしたりしても問題ない、なぜならそれは個別の作者による個々の作品の批判であって特に実際の権力のあるものではなく、「文芸」とか「ラノベ」とか「オタク界」とか、とにかくそういうおおもとの土台となる文化とかジャンルとかを揺るがすものではないからだ。むしろその内部で行われるものだ。
社会運動は物事に変革を、場合によっては廃絶を要求する。社会運動は外部から内部を揺るがそうとする。社会運動は美しさよりも正しさを重視する。そして社会運動のジャッジには権力が伴う。評論やレビューによるジャッジと違って。
昨今の表現規制をめぐる問題で、表現に口を出す側が「自分もオタクである」「オタクだって嫌いなアニメをdisったりしてるのに、なんで私のdisが認められないんだ」と主張することがある。本人はおそらく大真面目にそう考えているんだろう。でも答えは自明だ。
そりゃ、あんたの主張が「社会運動」の文法やコードに則って発せられているからだ。
評論やレビューのコードなら、どれだけ作品をdisろうがよほどトンチンカンなdisでない限り別に文句は言われない。その作品を好きなやつとバトったりする羽目にはなるかもしれないが、それもしょせんはオタクコミュニティの内輪もめにしかならない。なぜなら評論やレビューは、ジャンルや文化の内部で、その存在を所与のものとして行われるものだからだ。
でも、社会運動のコードで作品をdisったら、それはその作品だけじゃなくジャンル全体への攻撃にもなりうる。社会運動は文化やジャンルの存続に関心がない。なんなら滅びても構わないとさえ思っているだろう。社会運動は正しさを最優先する。これ自体は別に悪いことじゃない。でも「正しくない」という理由で切り捨てられそうな側に身を置いてみれば、不倶戴天の敵としか思えない。
本当に社会運動をやっているという意識の人は、別にあんたらから不倶戴天の敵と思われても気にしませんと堂々としているだろう。宇崎ちゃんバッシングに火をつけた某弁護士なんかはそのへん潔いというか、自分がオタクコミュニティから敵視されてもいっこうに構わん、あいつらは私の敵だ、とでもいうような態度で、敵ながら天晴だった(いや、最終的には打倒すべき敵なんだけど)。
でも、社会運動のコードに則って物申しておきながら、ジャンル愛好者に敵視されると「自分もオタクですよ」と言い訳をしようとする人がいて、それは申し訳ないけど見苦しい敵にしか見えない。キズナアイバッシングの先頭に立った某社会学者なんかはその類だろう。お前さっきまで運動家の顔してたやんけ!
特にフェミニズム関係が燃えやすい理由もそこにあると思っていて、あのへん、評論と運動の境界があんまりないというかシームレスな界隈だという印象を受ける。つまりフェミニストと名乗る人たちには評論家として文学作品をジェンダー的視点から解釈しますという人から戦闘的にデモやら抗議行動やらを繰り広げて社会を変えていこうとする人まで幅広い人がいて、その人たちがフェミニズムという同じ旗の下に集っており同じ理念を奉じていて相互に行き来しているので、境目が曖昧になりやすい。
なので、評論のつもりで社会運動的な物言いをしちゃう人が出たり、評論を発しただけのつもりが社会運動に発展しちゃったりする。本人からすれば、自分は評論をしただけのつもりなのにどうして? と思っていることだろう。いや、だから、あなたやあなたの周囲が社会運動の人ばっかりだったら、あなたの評論も社会運動の一環にしか見えないんだよ!
オタク同士で「宇崎ちゃんの巨乳描写は好きじゃないんだよな」「銀英伝もっと女の提督がいてもよくない?」と語らうことと、社会運動として献血ルームに抗議のお電話したり「描写を改変すべきだ」と主張することは社会的には別の意味を持つのであり、そこの社会的な場のコードみたいなやつを読み解き理解することが必要だよなと思うのです。
知らねえんだよてめえらの住んでるところのローカル地名なんかよお
日本人なら全員山手線各駅の街についてザックリ知ってると思ってんのか?
知らねえよ
池袋は金玉袋の町で新宿は地面がジュクジュク、田園調布の田園、超深いw 渋谷名物シブイヤベース、八王子には王子が8人、くたばれ!
まず俺が東京のクソどうでもいい地名、粒度で言えば立江とか羽ノ浦とか土崎とか川尻とか、何?どこ?って感じの、市ですらねえようなのの名前を知っていること、知らざるを得なかったことがおかしいんだよ
気持ちわりいしゃべり方の東京人がテレビで延々クソどうでもいいローカル地名をさも当然のような顔で垂れ流しやがったせいで俺ははじめて東京に行ったときあたり中知ってる地名ばっかりでびっくりしたんだよ
つか東京だけじゃねえんだよな 関東の人間はとにかく傲慢、表情がキモい、口調が嫌、性格が悪い、センスが悪い 最悪
ニコタマ、川崎、横浜、あと何だ、知らねえけどとにかくいろんな地名を知ってて当たり前って態度で語ってくるその姿、許せん
そんでさあ鹿児島ってどんなとこなの?とか言ってくんだよな 殺すぞ・てめえの街には何があるんだ・俺は知らねえぞ・知っていてやらねえぞ
東京近郊に生まれておきながら弱者ヅラする人間もウザすぎる 都心まで2時間かかるよ〜wではない、俺は飛行機に乗らねえといけねえんだよ都心によ、つか人生で2回しか行ったことねえんだよ東京、嫌な街だ、滅んで欲しい
テレビつけてさあ、「皆さんにも是非おすすめのスイーツ」つってるその店の所在がまあ東京なんですわ ここは東京じゃねえの まあそりゃマドリードでもモンテビデオでもうまい店があるなら紹介はするんだろうけどさ、そういう紹介ってどこかリモートな感じというか、慎みがあるというか、世界にはこんなところもあるんです、行けたらいいですね、っていう、憧憬にも似た感情の篭ったものじゃない
東京の店の紹介は下品なんだよ、当たり前に週末いける、なんなら今から行っても間に合いますよ、ここで紹介しちゃったからには明日から行列かもね!そういう俗っぽさが滲み出てくんだよな しかもそれを全国ネットでやっちゃったりしてもう恥を知れ!!!!死ね!!!!!!
知らねえんだよ1000kmも離れた街のベーカリーのパンが美味いからなんなんだよ買えねえんだよ一生いかねえよそんなとこ女将の人柄がいいからなんなんだ嫌味かぶっ殺すぞ
全国ネットどころか全世界ネットのところでいち都市のローカルネタを知ってて当然の前提知識みたいな扱いにするな ホンマにゴミ
「どこにでもある」とか言って関東にはすげえ数あるけどこの辺には全然ないチェーン店の名前出されるとガチで叫びそうになる お前のどこでもドアは関東圏でしか使えなさそうですね 俺は謙虚さを知ってるから「どこでも」の意味も正しく理解できる
東京・神奈川・埼玉は俺にとって不倶戴天の敵でありそこ出身の奴がいたら本能的に嫌ってしまう
生まれついての貴族かつその自覚がないようなやつばっかりで最悪
トンキンなんて言葉があるが、ありゃペキンに失礼だぜ 東京なんかと一緒にされちゃあ可哀想だ 東京は東京って呼ぶしかないんだよ それ以下の存在はないんだからねえ
(追記)
テレビは持ってないぞ!
そして憎悪をかき立てられる
つかテレビだけじゃなくてネットもダメつってんだろ DPZとか好きだけど、東京ネタが出てくるたびにキレ気味になってんだ俺は