はてなキーワード: ハードディスクとは
恒例の「別に出なくてもいいんだよ? 飲み会」にて、いつも大人しくて可愛がられていた経理が遂に爆発した。
「経理ちゃんは美人で得してるねえ」そうですね「経理ちゃんは肩凝りひどそうだねえ」そうですね「妹さんもそうなのお」
バチコーンの音が三回続いた果てにチーフと副社長の「まあまあ」が飛び交い、さらに小一時間たった後、経理はこっちにやってきた。
いつになく顔が真っ赤で、酒臭い。これはアルコール限定解除したっぽいな。
これから話すのはこの経理に関する顛末だ。長くなるが大丈夫な人は聞いていってほしい。主に俺のために。
翌日マグカップに不審なポストイットが貼ってあった。「実はカタチから入るタイプなんで一緒についてきてもらってもいいですか」
謎の距離感に戸惑いつつも俺は、週末に”しまうら”に連行されることになった。
「RPGでも町についたらまず装備を揃えるタイプなんで」誰だってそうだが。
というか経理ってこんなやつだっけ。職場では昼休みとかに話す仲だが、基本無口でイワユルおっとりさんの印象があった。例の宣言が効いてきているのだろうか。
いままでは、タイトなジーンズ・カカトがあまり高くないパンプス。上半身フワリを下半身で締める。フェミニンな見た目だったが窮屈だ。まずはここらを改善していく。
”しまうら”は近年ではラインナップがかなり充実してきているみたいだった。petit price でも大人の全身が問題なく揃うのだ。
昔のユニクロのようにシャツだけはヤメトケみたいなのは無いし、縫製も下手な若者向けブランドよりはよほどシッカリしていて、何より値段が安い。
安すぎて不安が頭をもたげてくるくらいだ。
ねえ、いい大人がスリッポン・アンダー二千円で通勤は流石にどうかと思うし、せいぜい紐靴にしようよ、スニーカーはニューバランスが大正義だよ、革との混合もあるよ。などと申し上げた。
「徹頭徹尾ラクでいいじゃん。ベジータの戦闘服みたいでさ」旧型の肩のないアレか。
やがて試着室から出てきた経理を見て唸らざるを得なかった。なるほど。これはパーフェクトに過ごしやすそうな格好だ。カジュアルコーデに擬態したジャージみたいだ。
実際あまりにも楽チンだったらしく、経理は服のタグを切ってもらい、礼をくれたあと、そのまま着て帰った。
面白いので次の日は早めに出社して、経理の出社を観察することにした。
しまうら装備で全身を固めた経理はさらにサングラスを重ねてやってきた。頭部の強化もバッチリだね。
はたして、モーセが海を割るように、様子をうかがっていた有象無象は散っていった。先週の三連撃が効いているのか、マネージャー界隈も文句は言えないようだった。
ギョッとしたので忘れられないのだが、この朝の経理は仕事の手始めに机の上を、散らかし始めたのだ。書類の束をひっくり返していた。
後にこれについて、経理はまず原則論を説く。「片付いた机は美的見地からみると、良い」環境が美しく整っていれば、それは周りの人間の生産性を向上させる。へえ。
俺などは誰かに片付けろと言ったことも言われたこともないけれど、なんとなく散らかすのが気が引けて、備品の山からくすねてきたブックシェルフやらトレイやらで書類を整頓し、ティッシュボックスを磁石バーで机の天板の裏に貼り付けていた。部署内では割と褒められた。増田クンのとこもキレイだね。となりで仕事してて気持ちいいよ。エヘヘ。
しかし経理は原則を完全に無視した。「個人の効率性の観点からは結論は、全く異なる」いま必要な書類を最も手近な場所に文字通りぶち撒ける。好き放題スペースの許す限り広げる。物理的に距離が近いんだから、アクセス速度は最速になる。
俺の部署にはデジタル管理派も多いのだが、経理は紙の書類を愛した。いわく「紙は縦引きができないが、代わりに解像度が最高で、レスポンスも最速のデバイス」らしい。
不要になったらそのタイミングでガッとまとめる。付けやすく取り出しやすいクリップで留めて雑にボックスにブチ込む。経理はクリップの役目をプラスチックの洗濯バサミに負わせていた。
「もう手段は選ばないことにしましたから」全体が下がったぶんを突出した誰かが補えば、まあ帳尻は合う。
経理は化粧もそこそこに、ときには髪を振り乱して仕事と格闘していた。明確に差が出てきたのは三ヶ月後だった。
チーフを通して噂話として聞いたのだが、解き放たれた経理は旧版の実に二倍の速度で稼働しているだけでなく、こっちの部署からも進んで雑務を引き受けているということだ。俺はこれは咎める必要があると思った。
なあ、華を拒絶だの女を捨てるだの言ってたけどさ、もともとそんな役割みたいなのを経理が背負う理由はないんだし、だから捨てた分を仕事でカバーしなきゃ舐められるみたいなことは考えなくていいんだよ。
無理しなくていいんだよ。
このようなことを赤坂のバーにて弥勒菩薩の表情で述べショットグラスをあおったところ、直ちに喉にチョップを食らった。
ゴッ ゴホッゴホッ な、なにすんねん
「増田のそういうとこ、言うなれば気の抜けたコーラだと思われます。ワンペナね」ペナルティを食らってしまった。
フォローしてくれる気持ちは嬉しいけれども、と断った上で、いまの自分は仕事が純粋に楽しいからやっているのだと打ち明けてくれた。
もはや制限はない。邪魔は入らない。前よりはるかにペースが速い。成果が目に見えて現れる。能力の向上を実感する。成長している感覚が身に染みてわかる。
化粧の省略やら洗濯バサミの工夫やらハードディスクをSSDに変えた話やら完全栄養食の検討やら、エンボディチェア導入の話やら。エンボディチェア?
話には聞いたことのある椅子だ。経理いわく発売日はちょっと古いが、めちゃめちゃ背中にフィットして、時折ぶり返す腰痛のために良いだろうとのこと。
しかしその椅子、とにもかくにも値段が張るはず。ひょっとして十万超えるんじゃないの?
「近所の人同士で直接売り買いできるサイトがあるんですよ。そこで中古を買えば送料込みでもっと安くなる」
うーん、それって経費で落ちるの。っていうかそもそもそこまでやる?
真剣な目だった。
経理はただただ自分の為だけを考えてる。考えればそれは仕事人として当然のあり方である。そんな経理を上から目線で慰めんとした俺は、なるほど気の抜けたコーラである。しつこく粘り気のある苦さが残る(いや無理やりの解釈だこれ。真意不明ナリ)。
酔いでボンヤリとした脳が、まれな顧客との会合のために十万円のセミオーダースーツを注文していたのを思い出していた。もちろん言えなかった。
「増田もわたしも、一日の時間の大半を会社の椅子で過ごすじゃないですか。だったらそこにカネ掛けるのが最もコスパがいい」
気の抜けたコーラを脇目に、拘束具を脱ぎ捨てた経理はすでに周回差をつけつつあるようだ。
夜がふけて、経理は俺の背中にしがみついていた。類人猿ゲーム「Ancestors」で子供のお猿が親のお猿にしがみついてたみたいに。飲みすぎですよ経理さん。
タクシーまで担いでって運ちゃんにドン引きされたあと、マンションに辿り着いた。エレベーターまでが意外に長くて、経理の意識はすでに朦朧としていた。
経理いわく「アルコールが眠気に変換される体質・眠り上戸」らしい。そういうのがあるんだ。
「すみませんねえ…」
キミ体重重いよ。
「一理あるっすねえ… もってくれよぉ! お前のカラダぁ!!」
不意打ちを食らい、よろけてしまった。急に笑かすなや。
経理の部屋の内装は、むしろ男っぽかった。木製の棚板のアイアンのシェルフ。自然色をベースにしたモノトーンに寄せた家具。経理はもともとはこういう奴なのだ。
無印良品と思しき匿名的なベッドに経理を押し込んで、覚悟を決めた。終電は既に消え失せていた。
ある程度以上酔っていると、体質次第では急性アルコール中毒になりかねない。寝ているうちに吐瀉物が喉に詰まって呼吸ができなくなるケースを聞いたことがある。
今夜、この部屋を離れる訳にはいかない。
「ごめんなさいねえ… 増田、男性なのに」そっちにワンペナ、これでチャラな。
応答を聞かず寝入ってしまった経理を尻目に、タバコをくゆらせて一服し、冷蔵庫から引っこ抜いたコーラ缶(150ml増量)をカラにして灰皿とした。これくらいはいいだろうと思ったんだが、これが完全に裏目に出て翌朝こっぴどく叱られてしまう。息つく暇もない、情け容赦なきフルボッコだった。
長くなったが、以上が経理に関するレポートである。俺は考え直さなければならなかった。会社には経理以外も女性がいる。そして俺たち男性についてはどうだろう。
ここに断っておかなければならない。俺は、経理の女性を捨てる観念が必ずしも妥当なものだとは考えていない。相互作用的に周りを巻き込むのは良いが、そもそも捨てずに済むなら越したことはない。
経理なりのリミッター解除の方法が、ただそこにあったんだと思う。
先に述べた顛末のあと俺は海外に飛ばされた。連日ケチャップとマスタードの濃い味ファストフードを食みながら、自らを振り返った。結果、男性であることはむしろ自分自身をブーストする効果があるという結論に至った。
カフェインのような働き。
ギリギリに追い詰められた状況で「おれは男だ!」の考えが、必要なエネルギーを強制的に絞り出す。たちの悪いことには、深いレベルに刷り込まれた思考の習慣は常時起動型の特性なので、都合の良いときにだけ発揮させるのは、たぶん、難しい。
ならば捨てるか。あの人のように。
迷いを残したまま、つい先日、俺は再び日本に舞い戻ってきた。さてじゃあもう一度、元の職場で頑張りますかという矢先に、懐かしの経理から久々のラインが来たんだ。
皮を被り直したみたいに、経理ははじめ、煮え切らないスタンプでごにょごにょ言っていた。
そういうのいいから、さっさと用件を言ってくれと頼むと、
結婚が決まった、とのこと。
おめでとう。間髪をいれずにクラッカーを打ち鳴らすスタンプを出すことができた。職場の外では女性である。解っていたことだ。もちろん。
ここ三年で知り合いの女性の八割(八人)もが結婚した。良いことだろう。人生を前に進めた、という言い方はペナルティを食らうかもしれないが。
でも正直にぶちまけるとこのとき瞳は高速でサッカード運動を繰り広げていた。お・お・お・め・め・め・ででで
これからどうしよう。
何もかも押し殺して「割と仲の良い社員ふたり」の関係に落ち着く?
この世界で誰も彼もがやってきたように。自分の気持ちに蓋をして「男女の友情はあるんだ」学派に転向したフリをする。
生活を、やっていく。
みんながやっているように。それが男… いや人間の強さである。これこそが真の勇気である。
そんな振る舞いができるだろうか。
「できる」んだなあ。
どうしようもなく「可能」なんだよなあ。そういうのはさあ。
SFCの教員の著作権遵守意識の低さについて - Togetter
https://togetter.com/li/1414659
違法ダウンロード上等、著作権が世の中をつまらなくしているって意識だったもの。
Winnyを称揚してみんな違法ダウンロードしてたもの。ワレズを集めてハードディスクをパンパンにすることが楽しみだった人たちだもの。
著作権無視だからこそインターネットは面白い、とハマってた世代だもの。
今じゃ隔世の感。
数年前まででも漫画やアニメのキャプチャが横行してしていて、それに文句言うやつはつまらんやつ、ぐらいの感じだったけども、とうとうここまできたか。
著作権者が何も言ってこないんだからいいだろ! そもそも宣伝になってるんだから文句言うな! 文句言ってくる小学館も任天堂も頭硬いなぁ、ぐらいだったもの。
今じゃ隔世の感。
というのが持論だ。
ちなみに自分の趣味や興味のあるジャンルは、パソコン本体の増設やデジタル小道具類・ウェブサイトのデザイン、ウィキペディアの閲覧以外だと、
・ニュース報道ほかで発生する『意図しないバカ画像』の収集や、それを元にしたコラージュ画像の作成
そしてこれらは、どちらかというと著作権的にグレーだったり、社会風紀的によろしくない物が多い。
ゆえに、そういった分野に関する興味ほど、まさか表立って近隣の誰かに聞くようなわけにはいかないし、そもそも「近場にそういう事に詳しい他人が居ない」ものである。(ただし中には、会社内で部長辺りの役職者で、エロネタへのアクセス方法を失礼にも部下に依頼する例もあると聞くが、これはあくまで例外だろう)
自分もよく、家人のスマホでのトラブルや近所の店舗・役所の開業時間や行き方、航空機のチケット予約などをパソコンやスマホで検索・代行し、「どうやったら、○○ちゃんみたいにそんなに詳しくなれるの?」と聞かれる人なのだが、最初にも言ったように「ひとには聞けない情報をどうしても知りたいため、いろいろと試行錯誤しウェブで調べたりしていたら、いつの間にか『調べ方上手』になっていた」、というだけの事なんだよね。
だからそういうプロセスを辿っていた事を、どうやったら家人にうまく伝えられるかで、自分は悩む。
あと、そういったグレーな領域の情報を得たりする中での最大の問題として、ウイルスなどいわゆる「マルウェア」被害をどう避けるか、というのがある。怪しげなサイトをブラウザで覗いた結果、怪しげなソフトウェアを仕込まれたりする事で被害に遇う例は、2000年代辺りで社会的話題にもなった。
例として、パソコンを起動するとすぐにアダルトサイト広告が出てそれを消せない・ハードディスクが勝手に暗号化されて中のファイルにアクセスできない・自分のパソコンの中の重要なファイルを(使用しているP2Pソフトを通じて)勝手に送信され、勤務先をクビになった・etc.
ただしそういった「不特定多数が被害に遇う異常事態」に関しては、これまた多数の有志の方々による被害対策まとめがすぐ作られるため、各自において対処が可能な事が多い。
そういった数々の「ネット・パソコン修羅場」事例を、現在の40代近辺の世代は「パソコンの進化と共に年月を重ねてきた」事で、会得している人が多い。が、その他の世代にその苦労を伝えるのがいろいろと難しい立場な現実もあって、今日もそれらの被害を「ゼロにはできない」事に、当事者世代の一人としてはいささか歯がゆい思いがする。
カメラが届くのが楽しみすぎてデジタルカメラマガジン買っちゃった…
手に入れる前に撮影技法学んじゃうぞ〜
でもマクロレンズ欲しいから泣き言言わずに無心になって働くのみ
家にいても暇すぎたのでなんも用ないけど学校にいった
机ん中から先月くらいに先生に助言仰ぎにいったらボコボコにいろいろ言われ、トイレでしんどくなってた時にその時の気持ちを殴り書いたトイペが出てきた
なんか、若いってかわいそう
こんなどうでもいいことにこんなに辛くなっちゃってかわいそう
早く年取りたい、そして図太く人の気持ちを顧みない自己中で傲慢な人間になりたい
いっそその方が楽だ
あと最近ハードディスクを使うたびにスキャンして修復ってやつをやらされるんだけどこれはもう寿命なのか
その辺調べとかないとiTunesの曲が全部消えちゃうからちゃんと、調べとこ…
昨日も多分雨降ってて今日も雨
私が初めて遊んだTVゲームは『テレビゲーム15』なんだけど、当時ボールとバーというシンプルデザインで正直面白いかどうかというと微妙だった。
それから『ファミコン』を購入したのだが、これがとても面白かった。
何が面白いかったのかというととにかく『ポパイ』『ドンキーコング』が遊べた事だった。
シンプルで、当時はゲームグルメではないので舌が肥えておらず、単純でわかりやすいゲームとしてはキャラの魅力などから、『神ゲー』みたいな感じだったのだ。
その後、スーパーカセットビジョンなんかも遊んでみたが、ファミコンには勝てず『スーパーマリオブラザーズ』の登場でさらに加熱した。
そして『ドラゴンクエスト』と『ウィザードリィ』でファンタジー物語にハマっていった。
ディスクシステムなんかも買ってみたんだが面白かったのは『ゼルダの伝説』と『ファミコン探偵倶楽部』あれは名作だった。個人的には『ナゾラーランド』なんかも好きだった。
それからスーパーファミコンが発売されたが、私は購入せず、メガドライブとPCエンジンに夢中になった。
メガドライブはナムコ系のゲームが面白く、PCエンジンはハドソンが制作したゲームにハマっていた。
時代は変わってPSやSSが発売された中、私はPC-FXを購入した。のちに購入した事を激しく後悔したが、正直あれは売り方の問題が悪かった事とハードを活かしきれないメーカーに問題があると感じた。
ちなみに公開した後にPSとSSを購入した。PSはやるゲームがなかったのだがノリで購入し、SSはバーチャファイターのために購入した。10年早いんだよ!
そしてドリームキャストを購入する。ほぼPSO専用になる。何も語ることなくPSOサイコー。
PS2が発売された頃になると、もうゲーム自体にグルメになりすぎて一時期面白さを感じなくなる。グラフィックが良いなどと色々変わったが、純粋に楽しいと思っていたファミコンの頃と違って、どこかに難癖や粗探しをしてしまう自分が居た。
XBOXも買ってみたのだが、気がつけば音楽再生機だった。たしかハードディスクだかに記録できた気がする。ほとんど憶えてない。
ゲームキューブは購入して3日後に嫁がれていった。
PS3が販売されて、またゲームへの情熱が蘇る。蘇らせたのはデモンズソウルだった。発売日に購入して心を折りまくった。
こんなマゾゲー初めてだった。ファミコンの理不尽な難しさよりも繰り返すことで確実に上手くなりクリアという達成感も感じられる難しさの心地よいことよ。
DARK SOULSも当然発売日購入だった。マゾに目覚めたのだ。
1.
VeraCrypt(truecryptの後継)で、ハードディスクを暗号化します。
パスワードは、国歌の2行目や、憲法前文の3行目、特定のソースコードの100行目などの文字列を利用しましょう。
これら文字列+1234等の特定の文字とするともっと安全です。
パスワードを記憶せずに忘れて、そのパスワードの書かれている場所だけを覚えるのが一番安全な方法です。
2.
手動Mountして利用してください。
いちいち、手動でMountするのが面倒ならNASを作ってSambaから利用してください。
3.
もし、あなたが一人住まいの場合、あなたが死ねば電気料金不払いで自動的に電気が消えます。
電気が消えると、ログイン前に戻るため、パスワードがわからなければ、アンロック不可能です。
もし、家族と暮らしているか、膨大な預金残高を持っている場合は、もう少し工夫する必要があります。
それでも、cronを利用して、ちょっとしたプログラムを作ればいいだけです。
.bash_historyやlogなどの日付を見て、古すぎれば、rebootコマンドを発行するだけです。簡単ですね。
cronを利用すれば、もっと任意の短い時間でロックできるので、便利ですね。
データを削除するわけではないので、仮に間違って動作したとしても、再Mountするだけです。
VeraCryptを利用するため、現時点でいかなるバックドアも存在しないため、たとえ国家権力であったとしても、解読できないでしょう。
もし、心配ならもっとよいお好きなソフトウェアを利用してください。
基本的な考え方は同じです。
パソコンやってたらいきなり「ハードディスクに問題が検出されました」ってダイアログが出た!!!
よくある詐欺とかウイルスのじゃなくてwindowsのやつ!!!
もともとSSD128オンリーのディスク構成だったから、OS以外のファイルサイズなんてたかがしれたもんだったしね
完全にぶっ壊れる前に買い替えるべきなんだろうけど
3年と2ヶ月でこれかー
ソフマップのリファビッシュで35kだったから年間1万ってとこか
うーんそれにしてもSSDはHDDよりも壊れやすいってほんとだなあ
追記2
だった!
電源投入回数1647回
pc買い換えなきゃとばかり思ってたけど、ssd交換って手もあるのか
やったことないけど調べてみてるところ
ということでキリスト教思想史研究やってた人が研究不正で懲戒解雇された件について、報告書に目を通した上でちょっと書きます。
この「写し」というのはどういうことでしょうか? 資料そのものを調査委員会が求めなかったのはどういうわけでしょうか?
歴史学者にとっては常識なのですが、他の分野の人にとってはどうかわからないので、解説してみます。
これは人というか研究分野によるので、安易なことは言えません。文学と哲学と社会学と人類学と歴史学と言語学とでは使う資料がぜんぜん違います。
で、この被告発者の研究手法は、近現代を扱う歴史家の多くが採用している手法だと思います。近現代史を扱う人たちは、
を主に史料として使います(「史料」ってのは、歴史を記録したナマの資料のこと。「資料」と呼ぶと後世に書かれた二次文献なんかも含む)。あるいは、上に書いたようなものをまとめて出版した本とかを使います。
これらの史料の特色とは何か……それは、
ことです。
公文書館というのは、「お役所の書いた書類を保管しておく施設」のことです。これはどのくらいかというと半永久的にです。普通の文明国ならどんなに細かな書類でも公文書館に保管されていて、(民主国家の場合は)数十年して機密解除されたり(独裁国家の場合は)体制が崩壊して民主化したりすることによって「申し込めば誰でも読める」状態に置かれます。これによって我々はソ連時代の領収書なんかをロシアの公文書館で読むことができるわけです。ソ連ですら公文書を保管して後世の我々に見せてくれているというのに……いや、これは余談でした。
当たり前ですが、それらはその国(あるいは地方)の公的な記録であって、自分のものにして持ち帰ったりすることはできません。ではどうするか。多くの歴史学者は
などの手段で史料を入手して研究しています(ちなみに写真撮影もカネを取る公文書館は結構ありますね。日本だとどうなんでしょ)。
昔の人が書いたものも、本とかなら古本屋さんとかで流通しているのを買うことができるかもしれませんが、稀覯書でなかなか手に入らなかったり、古雑誌のバックナンバーとか揃えるの無理ゲーだったりするので、図書館に所蔵されているのを使うことが多いです。近場の図書館に置いてない? 相互貸借もさせてくれない? そういう場合は当たり前ですが所蔵している図書館がある街まで行きます。その図書館がある街というのが新幹線が必要な距離だったりパスポートと航空券がないと行けない距離だったりすることも稀によくある(歴史学者の研究費は旅費と本代に消えていく運命なのです……)。そして、辿り着いた図書館でカメラをパシャパシャやったりコピーを黙々と取ったりするわけです(最近はスキャナーが普及してくれてマジ嬉しい)。
なので、調査委員会は「一次資料の写し」を求めたわけですね。たとえ彼が清廉潔白な研究者であったとしても、一次史料の原本なんてふつうは手元にないわけですから。
しかし、本来、彼は「一次資料の写し」を提出する必要などありませんでした。自分の論文を黙って調査委員会に提出すればよかったのです。なぜでしょうか?
もちろん分野によります。心理学みたいに人を対象とした研究だとしっかり実験ノートつけるように言われるかもしれないし、考古学とかは発掘時の状況を克明に記録しておくことが重要だったりするかもしれない。でも、少なくとも近現代史みたいな分野では、実験ノートをつける、という習慣はありません。
私は一度も、理系で求められるような意味での実験ノートを書いたことはないし、書けと言われたこともないし、書いていないことを理由に責められたこともありません。もちろん史料をノートに筆写したりはしていますが、そのノートだって別に厳密なものではない。普通の研究においてノートは使いますが、それは高校までのノートと一緒で、鉛筆で書いてもいいし、好き勝手なやり方で書いていいし、なんなら途中で破ったりしてもいいごく普通のノートです。最近はノートじゃなくてパソコンとかを使って研究上のノートを取ってる人も多いんじゃないかな(手書き疲れるもんね……)。
なぜか? と言われれば、
です。
つまり、「もとになった資料」というのは、理系のように自分の実験室の試験管の中にしかないものではなく、別の誰かが保管してくれているものなのです。
理系の学問において標準化された改竄不可能な形で実験ノートをつけなければならないのは、自分の実験室の試験管の中にしかオリジナル資料がないからですよね? しかし文系の場合は、少なくともここまで説明した近現代史の場合は、オリジナル資料はどこかの政府が管理している公文書館とかどこかの大学の図書館とかに保管してあるわけで、そこに辿り着くまでの情報さえ明記してあればそれで十分なのです。これはドイツ連邦共和国のベルリン連邦文書館の何々というファイルに保管してある何というタイトルの史料だ、とわかれば、チェックのためにはそこに見に行けばよいし、これは19世紀に書かれたほにゃららという新聞に載っていた記事である、と書いてあれば、その新聞が所蔵されている図書館を探して読んでくればいいわけです。
なので、別にどんな方法でノートを取ろうが自由なわけですね。最終的に読者がその元になったデータを見つけられるようにしておけばいいわけだから。
ゆえに、歴史学の論文や著書には膨大な注がつけられます。引用した史料のそれぞれについて「どこに保管されている史料なのか」「なんという本の何ページに書いてあることなのか」ということを書かないといけません。
なかには、史料が自分の手元にある場合もあります。多くの場合それは「昔の人が出版した商業出版物」なので(たとえば、極端な例ですが『わが闘争』)、他の誰かも持っていることが多いです。もしそういう史料で捏造とかしちゃうと「俺もこの本持ってるんだけど、お前が引用してる箇所見つからなかったよ?」という怒られが発生します(なお、捏造ではないですが誤訳指摘は受けたことがあります。コワイ! でも覆面査読なのにこの文献の誤訳を指摘できるってことはあの人しかいないじゃん……ってわかっちゃう! 文系の世界、基本的に狭い!)。「むっちゃ少数しか発行されなかった自費出版の本」とかが典拠になっている場合もあります。こういう史料を典拠にするのも仕方ない場合があるんですよ……典型的には、そこまで有力ではなかった政治家とか在野の知識人とかを研究したい場合、彼らが出してる本は全部自費出版というのがありえます(あと、言語学とかだと、たとえば与那国島の方言を研究したい場合に一番の参考資料になるのは与那国島のお年寄りが自費出版した方言辞典だ、みたいな例がありまして……与那国町が進めてる辞書出版プロジェクトむっちゃ楽しみ)。ごくごく稀に、古本屋で歴史上の人物が書いた手紙の山をまるごと購入できた、みたいな奇跡があって、モノホンの一次史料が研究者個人の所蔵になっている場合があります。これはねえ……もう本当に個々の研究者の良心を信じるほかないよね……若手研究者だと色んな大学を移り歩くこともあるだろうから今所属してる大学の図書館に寄付しろとも言えないしね……原史料出せって言われたときにすぐに見せられるようにしておいてね、定年退職するときは勤務校の図書館に置いていってよ、とお願いするくらいしかできない感じはあるよな……
さて、長々と書いてきましたが、要するに、捏造を疑われた研究者がきちんと注で出典を書いていれば、彼は論文を調査委員会の人たちの前に突きつけて「ここに出典書いといたから、見に行って確かめてこい」と言えばそれで済んでいたのです(それが生データにあたるものなので。実際、今回の調査委員会はドイツに問い合わせたりしていますね)。もっと言えば、彼本人から話を聞く前に、調査委員たちはまず典拠との照合作業を行って、彼が誠実に引用したこと、つまり彼が研究不正に手を染めてはいないことを確認してくれていたでしょう――もしも彼が潔白であったならば。
しかし今回の件では、注に不備があったので調査委員たちは注から出典を辿ることができませんでした。そこで被告発者に「写し」を求めた結果、元となる史料がそもそも存在しない、捏造されたものであることが判明したわけです。
注をしっかりつけろよ! まことにごもっとも。特に今回のケースは注の多い学術書であり、注の不備は申し開きができません。しかし、しかしです、この背景には、日本の出版事情が絡んでいるのです。
今回の被告発者は、学術書のほかに新書も書いていました。多くの新書には、参考文献リストはありますが注はありません。そして日本には、「研究者が書いた真面目な学問に関する本だが、注がない」というのが一定数あります(一応言っておくと、ここではauthor-date方式みたいな「厳密な意味での注じゃないけど、ともかくも出典を示す機能を担っているもの」も含めて注と呼んでいます)。実はこれ、文系のあいだでも問題視されていることなのです。
文系の学者が書いた学問に関する著書には、明白に書誌情報として区分されているわけではないですが、いくつかの区分があります。第一にいわゆる狭義の「学術書」。むっちゃ小難しい語彙で書かれてて、先行研究とか新規性とかに逐一言及して、参考文献を何十ページも載せてたりするやつです。読者は同じ学者、あるいはその卵。これで注を省くのは論外です。第二に「教科書」。これは学生さんとか初学者向けに易しく書き、内容には特に新規性を求められておらず、包括的な参考文献はなくとも読書案内がついていればそれでよし、という感じでしょう。注は別になくたっていい。
そしてこの2つのあいだには、「一般向け」という広大なグレーゾーンが広がっています。
あなたが読書好きで、少々お硬い本にも興味があるのなら、中公新書とか講談社選書メチエとかそういったレーベルを聞いたことがあるでしょう。岩波書店や青弓社や社会評論社といった出版社の名前を聞いたことがあるでしょう。実はこの辺、色々な種類の本が入り交じるグレーゾーンなのです。
これらのレーベルで真面目な学術書を出版する人もいます。講談社選書メチエでも、末尾にビッチリ注がついてたり参考文献リストがあったりするやつあるでしょ? ああいうやつ。一方で、こういうレーベルを一般向けの概説書・入門書を書くことに使う人もいます。よく中公新書で、包括的なタイトルで薄めの本を見ることがあるでしょ? 今回の『プロテスタンティズム』もそれですね。そして、一般向けの解説を書きながら、さり気なくその中で新しい見方を提唱したりする人もいます。学術的な新規性のある内容を、一般受けしそうだという理由で限りなく一般向けの本の体裁で書く人もいます(最近のやつだと『姦通裁判』マジお勧め)。
さて、こういう本を出す上では、内容は著者の完全な自由にはなりません。編集者は、もちろん学術的に正しい内容を求めているのでしょうが、彼らにとって重要なのは「売れること」です。そのために「一般向けにもうちょっと柔らかい言葉遣いで書いてください」とか色々と内容に介入してくるわけです。文体くらいなら別に構わないかもしれませんが、彼らの中にはこんな要求をしてくる人もいます。「注なんてつけたら一般読者に嫌がられます、注は省きましょう」
こうして生まれるのが、「学術的に新規性が高く面白い内容を扱っているのだが、注がない」という一般書の群れです。
もちろんこういった本にも参考文献はあり、「注はないけど、典拠を探しながら読めば典拠がわかるような書き方になっている」本もそれなりにあります(たとえば、はてな太郎の説によれば、と本文中に書いてあれば、注がなくても参考文献リストではてな太郎が書いた『増田の研究』という本を探し出せる)。ただ、やっぱりそれは注がある文献の出典表示の厳密さに比べれば一段劣るわけです。
これに関しては、研究者も出版社もそれぞれに問題があります。研究者サイドは簡単に「注を省け」なんて要求に妥協すべきじゃないし、そもそも「著書を出版する」ことが、博士論文を見るためにはわざわざ学位を授与した大学か国会図書館に行くほかなく出版して書店で流通させることが最も良い研究成果の流通のさせ方だった時代であればともかく、各大学がリポジトリを持っていていくらでもディジタルに研究成果を公表できる時代にあって本当に重視されるべきか考え直す必要があるでしょう(でも、欧米の出版社でも学術出版は盛んなので、これは日本だけの問題じゃないんですよねぇ。今でもオックスフォードやケンブリッジやハーバードやコーネルといった有名どころのUniversity Pressは学術書を出版しまくってます。学術書が研究業績として重視されるのは人文系では割と世界標準なので……)。
一方で、出版社は注をもっと重視するべきです。というよりも、日本の出版社やジャーナリスト、ノンフィクション作家は注をつけなさすぎます。先日、ボブ・ウッドワードがトランプ大統領についてのルポルタージュを出版しましたが、体裁も内容もおおよそ学術的とは呼べない一般書そのものの本なのに、きちんと出典を示す注がついていました。出版社は、学者に注を削れと言うべきではなく、ノンフィクションを書く作家や記者たちに注をつけろと言うべきでしょう。
とはいえこれは一朝一夕にはいきません。そもそも知の折り詰めである「新書」という形態が割と日本独自のもので、そういう一般と学術を橋渡しするレーベルが広く一般読者に読まれていることの重要性というものを鑑みると、簡単になくせとか言えません。私も色々お世話になってるし。人口1億人ちょいの書籍市場ではどうしたって限界があり、色々な本を出すのではなく折衷的な本を1冊出すのが経済学的には最も合理的という考え方だってあるでしょう。ただ、やっぱり一般書にも(それこそ講談社ブルーバックスや岩波新書レベルにも)注を入れるようにする、というのは必要だと思うのですよね。
さてここまで「注がない本」問題について解説してきました。でも何が一番言いたいかというと、
これ。これに尽きます。注はちゃんとつけよう。もしもあなたが捏造者でなくとも、研究不正をしていなくとも、実験ノートをつけない我々の業界において潔白を証明してくれるのは注だけなのだから。注だけが資料の実在を証明してくれるのだから。本の売上よりも、あなたの保身のことを考えよう。あなたが、部屋が汚いとかハードディスクがお亡くなりになったとかパソコンの買い替え時に行方不明になったとかの色々な理由で、史料の「写し」を紛失する日はきっと訪れる。そのときに、これまでのあなたの研究の誠実性を証明できるのは、人文系の学問においては、注だけなのだ。
以上です。駄文に長々と付き合ってくださりありがとうございました。続きはanond:20190511125053で。