はてなキーワード: どんでん返しとは
『さんかれあ』という漫画がある。とても面白かった。面白い物を読んだら、その面白さについて語り合いたい。だけど俺にはそんな気の利いた友達は居ないから、いつもはネットで他の人の感想文を読んで満足することにしている。だけど、『さんかれあ』については、ちょっと検索した程度では語っている人が見つからない。だから俺が書くことにした。増田に。この感想文を読んで、一人でも多くの人が、この作品を手に取ってくれたらいいな。
では早速『さんかれあ』の魅力を語って行きたいのだが、ネタバレなしで語ることはできないので、そういうのが気になる人は先に『さんかれあ』を読み終わってから続きを読んで欲しい。
などと言うだけで本当に本が売れるなら苦労はないので、まずは立ち読み感覚でこの物語を紹介をしようと思う。
主人公はゾンビが大好きな男子高校生。死んだ飼い猫を生き返らせようと、廃墟で夜な夜な怪しい書物を元に蘇生薬を調合していた。その夜も薬の調合に精を出していると、同じく人に言えない秘密を抱えたヒロインと出くわす。ヒロインは良家のお嬢様なのだが、父親の偏狭的な愛から来る過度な束縛と、性的虐待ともとれる行為に打ちひしがれ、しかし誰にも相談できずに、ただ古井戸に向かって内心を叫ぶことで心のバランスを保っていた。彼女も主人公の作っている蘇生薬に惹かれ、二人は薬を作るため深夜に密会するようになる。それを知ったヒロインの父は二人の仲を引き裂こうとするが、逆に不慮の事故から彼女を死なせてしまう。だがなんと、主人公の作った蘇生薬を飲んでいたおかげで、彼女はゾンビとして生き返ったのだった。これは人の道を外れ、やがて腐り果てる体となりながらも、ゾンビとして刹那の人生を楽しもうとするヒロインと、その期望を叶えながらも、彼女を救う道を模索する主人公が織りなす、ボーイ・ミーツ・ガールな、ちょっとラブコメで、だいたい妖艶にエロくて、けどちょっと物悲しい、そんな青春物語──
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では、以降は『さんかれあ』を読み終わったことを前提にして語っていこうか。この物語は難病系の一種である。サナトリウム文学って奴である。俺は『世界の中心で、愛をさけぶ』とか『イリヤの空、UFOの夏』とかも好きだ。我ながら分かりやすい消費傾向である。パターン一緒じゃん。けど好きなのだから仕方がない。
しかしその二つと違って、『さんかれあ』は読んで号泣してしまうような物語ではなかった。端的な表現をするならば、読めば自然に目に涙が滲んで、でも流れない。そんな物語だった。思うに、これは登場人物に感情移入できないことが理由ではないか。だって俺はゾンビっ娘に萌えないし、好きな人を食いたくなって葛藤することもないし、千紘にも礼弥にも感情移入は難しい。だから、自分事ではなく他人事として物語を眺めることになるし、きっとどこか遠い世界でこんな美しい物語があったのだろうかと思うと、憧れや寂しさが複雑に混ざり合って、心臓の裏側と背骨の間にシンシンとした冷たい痛みを感じるのである。ああ、たまらない。
ひとまずは物語の全体の流れを振り返ってみることにする。『さんかれあ』は全11巻の物語で、展開はわりとはっきりしている。序盤はヒロインの家庭関係における悩みが原動力になって物語が進み、一応の決着を得る。中盤はいよいよ難病物の顔が現れてきて、主人公たちの奔走も虚しく終盤に悲劇が訪れる。
各巻ごとにもうちょっと詳しく展開を追うと、1巻目は起承転結の起で、千紘と礼弥の出会い、礼弥のゾンビ化という物語の中核を担う事件が起こり、暗に陽に物語の今後の方向性が示される。2巻目ではこの作品におけるゾンビの設定を読者に紹介しつつ、ヒロインの父親と対決し、勝利する。3巻目ではダリンからゾンビの運命が告知される。4巻目で礼弥に症状が発症し、5巻目で奇跡的な回復から小康状態を楽しみ、呑気にラブコメなんてやって、ずっとこのままでいられるかと思わせておきながら、6巻目ではばーぶを使って、千紘に生な体験としてゾンビの宿命と礼弥の未来の姿を見せつける。7巻目から8巻目でZoMAに出向いて謎の巨大な組織との戦いを経験しつつ、新たな希望を提示して、9巻目から10巻目で残っていた謎に説明を着け、その間にも礼弥の病状は深刻化し、ついに日常は崩壊し、11巻目でバッド・エンドかと思わせながら、どんでん返しでハッピー過ぎないハッピーエンド、となっている。
俺は何かと戦う姿を書いた物語が好きである。戦うとは、今の自分の境遇を少しでも良くしようともがき苦しむことである。結果として自分も人も傷つくかもしれない。だが止めるわけにはいかない。そういう、どうしようもない衝動の事である。
『さんかれあ』には主に二種類の戦いを描いた物語である。一つは自分を取り巻く周囲の人間関係との戦い、そしてもう一つは死別という生命にとって避けられない運命との戦いである。物語の始めから終わりまで、一貫して千紘は死別と戦っている。普通の難病物では、死にゆく人を死なせないために戦うのであるが、この物語では既に死んだ人を取り戻すために戦うのが、オリジナリティであり哀愁を誘う仕掛けである。一度死んだ者に仮初の生を与え、やがて失う事の決まっている仮初を、どうにか逃すまいともがくのである。生きる者は全て死ぬ。その絶対的な運命を一度回避してしまった代償に、二度目の死別はより悲劇的で凄惨な物として描かれている。
この戦いの周囲を彩るように登場人物の様々な戦いが描かれる。礼弥は父の強すぎる愛情と戦い、わんこは恋敵と戦い、ダリンは父の気を引くために戦い、じーちゃんはあらゆる死別と戦い、戦い、戦い疲れて引退している。
面白いのはこの物語に描かれたぞれぞれの戦いは、全部バラバラに並列に起こっている戦いであり、基本的に全員が自分の戦いは自分でケリを着けているところである。千紘は他の登場人物の戦いに巻き込まれはするものの、せいぜい手を貸すといった程度で、最終的な幕引きは必ず本人が行っている。例えば序盤に大きなウェイトを占める礼弥とその父との戦いだが、千紘は父側に拉致されたために巻き込まれる形になったが、本人が積極的に散華邸に乗り込むようなことは無かった上に、父の妄執を断ち切ったのは礼弥自身である。千紘が能動的に行動するのは、自分がゾンビにしてしまったばーぶや礼弥に関してのみである。これらの戦いがその時々で出たり引っ込んだりして、作品全体の緊張感を一定に保ちながら物語は進行する。
分析してみると、俺はこういう、死別と戦う話が好きなんだなぁと改めて思った。
さて、物語の骨格を分析してみたけれど、ちょっと理屈っぽくて退屈な感じになってしまったから、今度は物語の肉にあたる部分を見ていこう。いくらご大層なテーマがあっても、作品に魅力が無ければ読まれやしない。この物語を読者に読み進めさせる魅力は、やはりヒロイン、散華礼弥がとびっきりかわいいからだ。壮絶に色気を醸している。まじやべえ。
彼女は死のメタファーである。第1話の1ページ目からして腹から腸はみ出させている。まじやべえ。次の登校中の登場シーンではありきたりな、つまらない美少女キャラかな? と思うが、千紘が蘇生薬の調合なんつー怪しい作業をしている雰囲気の中で再び現れ、傘から死んだような顔をのぞかせて、何をするのかと思えば井戸に向かって大声で愚痴を叫びだす。この落差にくらくらする。静から動の変化。死から生への変化でもある。しかも、実の父親に裸の写真を撮られているらしい。アブノーマルで背徳的で、ひたすらエロい。エロいが見た目は清純キャラだ。というか彼女はエロくない、ただの被害者だ。同情すべきだ。だがしかし、劣情をかきたてられるのは、いたしかたない。
そんで、胸チラしながら千紘と一緒に蘇生薬を作りたいとか言い出す。死体をゾンビとして生き返らせる薬なんて、イケナイ物を作る作業を、一緒にやりたいとか言うわけだ。背徳的だ。こんなの絶対に二人だけの秘密だ。美少女と誰にも言えない秘密を共有? たまらんがな。優越感と自己肯定感をかきたてられる。羨ましいな!
そしてこの短いやり取りの中に「死んで別の人間に生まれ変わりたい」「実験台になってくれよ」「私がゾンビになったら」などと不穏なセリフが散りばめられている。第1話の最後のページも、可憐な笑顔と不吉なモノローグが対比して、どえらい色気なのである。なぜだろう。スイカに塩をかけると甘くなるのと似た原理かもしれない。うん、やっぱ影のある美少女っていいよね!
もーこれだけでもノックアウトなのに、第2話もエロかわいい姿を見せてくれる。特に千紘にゾンビとして生き返らせてくれと頼む時の表情はたまらない。何かを思いつめているわけだが、一度死んでゾンビとして生き返る、なんて眉唾であまり気分の良い話じゃないものを真剣に頼む様子に、やはり死のイメージを感じる。紫陽花で作った蘇生薬をばーぶに飲ませるが、生き返らなかった。そこには静かな、ただただ静かな死が表現されている。そして夜出歩いていたのを父に見つかり、自宅での軟禁生活が決まった彼女は、その夜、涙を流しながら紫陽花の毒で自殺を試みるのだ。なんともいじらしい。
そしてついに事は起こり、彼女は崖から転落死する。そのシーンがまた凄い。彼女は落下の途中に腹部を木の枝に引き裂かれ、血まみれになりながらも立ち上がり「責任取って…下さいね…」と来るのである。言うまでもなくこれはセックスを暗示する。しかも処女喪失である。暗示されているのはセックスなのに、しかし実際に描写されているのは腸のはみ出た死体である。ここで脳の認識野が多少の混乱をきたす。この混乱の結果生まれるのが、ゾクゾクするような壮絶な色気である。今まで丁寧に積み上げられてきた描写が、この血まみれの満面の笑みに集約して、散華礼弥というキャラクターを固定する。読者は完全に恋に落ち、もはや彼女から目が離せなくなる。
こうして『さんかれあ』という作品の最大の魅力が作られたというわけである。ゾンビになった彼女はむしろ生き生きとして、短くてもいいからささやかな幸せを楽しみたいと言う。いい娘すぎる。いじらしい。かわいい。それでいて、意識の混濁したゾンビとして、欲求に素直な妖艶な姿を見せたりする。たまらない。また、この表現は楽しい時間が限られている事を否応なく読者に思い知らせ、切なさを一層かきたてる。この思いは彼女の体に、癒えることのない傷が増えていくに従って強くなる。彼女は必ず失われるのだ。ああ、悲しい。切ない。彼女と一緒にいる、今この時が尊い。
もちろん魅力的なキャラクターは彼女だけではない。千紘の幼なじみにして姉さん女房役のわんこは、生のメタファーである。ゾンビとなった礼弥とは対称的な存在である。生きた生身の女なのだから当然である。それだけでなく彼女は千紘や礼弥が落ち込んでいたり、物語の分岐点で、彼らを引っ張り上げる役割をする。死の世界から救い出してくれるのである。
ダリンは患者に病状をつきつける医者の役割をする。甘い事を一切言わない恨まれ役でもある。だが間違った事も言わない筋の通った人間である。
じーちゃんもまた、いい味を出すキャラクターである。最初に蘇生丸を調合し、全ての物語の元凶となった人物。一番最初に礼弥を見た時、彼女を貞と呼び、「わしが悪かった」と謝っているが、後になってこのような細かな伏線がきちんと回収されるのが心地よい。普段はボケているのに時折見せる鋭い視線にも魅せられる。いくつもの死別を乗り越え、傷つかなくなっているのではなく、傷を飲み込み共に生きる事を覚えた成熟した男を思わせる。最期に元妻のゾンビと一緒に逝くシーンは思わず涙ぐむ。
書ききれないが他にも魅力的なキャラクターが満載である。このキャラクター達が魅力的な物語を作っているのである。
さて、長々と語ってかなり満足した。『さんかれあ』面白いからみんな読むといいよ! ああきっと、紫陽花を見る度にこの物語思い出すんだろうなぁ。
2015年版の演出家はあまり好きじゃないのだが、メインビジュアルが好みだったのと、バンドメンバーも好みの布陣だったので観劇。
初演再演は未見。当時のキャストとスタッフ、PVのみ確認しており、その他は前知識ゼロの状態。
初演制作会社の傾向から、厨二病な物語だろうと予測はしていたが、想定した以上に20世紀の厨二病が炸裂していた。
古き良き時代の文化だとは思うんだが、いかんせん若くてお綺麗過ぎるキャストが演じているから、ダサさが魅力的に見えず残念臭ばかり残った。
いろいろ無理がある…観ていてキツイな、と思うシーンのオンパレードであった。
役者の実力が無い訳ではなく、戯曲が絶望的につまらないのでもなく、演出家らによる適切な調整が行われなかったためではないかと、この不完全燃焼感を分析する。
例えば、主人公が小柄でヒロインとの身長差があまり無いのに、主人公の衣装が薄く細身のシルエットで、ヒロインの衣装が厚く重心も重そうで髪もロングヘアだと、パワーバランスが悪過ぎやしないか?
ショートカットのサバサバしたヒロインにするとか、主人公と双子のようなビジュアルにするとかすれば、主人公のヒロインへの執着にもまた違った色合いが出て面白いかと思うのだ。
兄貴分と主人公が並ぶと、仲間・親友という印象よりもそこそこ年の離れた兄弟に見えてしまい、ラストのどんでん返しが不憫でならなかった。ここもパワーバランスが悪過ぎると思った。
少しでも、2人が対等に見えるシーンであるとか、思い出語り以外の・現在進行形で絆が見えるシーンがあれば、まだどんでん返しに感じるところもあっただろうに。
何より、主人公が世界を救うという流れが、全然ピンとこないのが台無しだった。
それは設定説明がファンタジー過ぎて問題と解決方法に実感が湧かなかったこともあるし、キャラクター・各陣営の目的がとっ散らかっていたことが原因だと思う。
特に、バンドの野外ライブへかける想いが全然伝わってこなかった。
ダブルブッキングは不味いことだと思うが、野外ライブはバンドにとってただの日常の出来事ではないのか? 特別な意味や価値があったのか?
いや、特別な意味を持たせて、仲間や日常を選ぶか、惚れた女と世界を救うという甘美な響きを取るか、葛藤するシーンを解りやすく描くべきだったと思うんだ。
だって他のシーンがあんなに昭和の厨二病炸裂してるんだぜ? トンマナ揃えろよ!
細身で薄着の男性陣と、肉感的でボリュームのある衣装な女性陣、というアンバランスさも、問題はトンマナ揃ってないってことだ。
知らずにタブーを犯した男が、なんとか運命に抗おうと試行錯誤する。
土着の神の話。
おぼすな様と言われると、どうしてもひぐらしのオヤシロ様が思い出されるけど、一昔前、あるいは今でも田舎だとある話なのかなあ。
非科学的なことなんか信じない派の主人公が科学的手法でしきたりを暴く!的な話ではなく、あっさり不思議現象に身を任せちゃうのがなんとも。
まあ実際見た以上、下手にあがいても見苦しいだけだけど。
3巻使った割には終始ふわふわして浅く、特にどんでん返しもなく静かに終わってしまった。
面白くなかったわけじゃないけど、また読みたいかと言われるとNo。
「あの」土田世紀のマンガだと思って構えて読んで悪い意味で拍子抜けした。
まず現金を燃やす会ってのが全体を通したテーマになってると思ったから最初の2話くらいは???って感じだった。
途中でタイトルに現金を~ってのがあって、ああこれまでのは現金を~には関係ない短編だったのかと気づいた。
オチも弱い。
表題の現金を燃やす会も、現金を燃やすことというよりかは、一日をループする人間の集まりって方に主眼が置かれてる感じだったし、タイトル詐欺に近い。
終盤の少年の冒険やらの話もあっさりしすぎててまるで深みがない。
ケータイマンガだからライトな感じにしたのかもしれないけど、この人には向いてないと思った。
死んだ人間が天国地獄やらを振り分けられる前に行く場所が死役所。
オムニバス形式の中で、死役所のシステムも少しずつ明らかになる。
割と淡々とした描写が続き、作者のおこがましい主張を押し付けられるように感じなかったがゆえの感動があった。
改めて思い返してみればありがちな話ばっかだったのになーと思うくらいなのに不思議。
2巻以降も読みたくなった。
どうだろうね。
ブコメでも「企画していたならそういえば言いだけのこと」とお気楽に言ってる人がいたけれど、そうするとフェミニストたちがふり挙げたこぶしのやり場を失ってしまい、「女に恥をかかせたルミネ」みたいな構図になっちゃう。
なのでルミネとしては「実はこうでした」なんて言えなかったんじゃないかな。仮に「どんでん返し」が用意してあってもね。
どんでん返しなんて用意してなかったんでしょ。
ほとぼりが冷めた頃にその辺も色々明らかになればいいね。
セクハラされる女が悪いので、需要に応えるため、ルミネで買い物して、女が変わろう、というCMに
どんでん返しなんてでしょ。
おそらく、セクハラされる女が悪いので、需要に応えるという思考パターンを変えよう、という企画意図がどこかですれ違ったのだろうと予想するけどね。
セクハラされる女が悪いので、需要に応えるため、ルミネで買い物して、女が変わろう、というCMに
どんでん返しなんてでしょ。
おそらく、セクハラされる女が悪いので、需要に応えるという思考パターンを変えよう、という企画意図がどこかですれ違ったのだろうと予想するけどね。
セクハラされる女が悪いので、需要に応えるため、ルミネで買い物して、女が変わろう、というCMに
どんでん返しなんてでしょ。
おそらく、セクハラされる女が悪いので、需要に応えるという思考パターンを変えよう、という企画意図がどこかですれ違ったのだろうと予想するけどね。
ルミネの件。
昨日どや顔で炎上商法だろつってた増田だけど、謝罪文とか色々見てびっくりだよ。
つまり後でどんでん返し用意してた訳でもなく天然だったって事?
昭和でさえふざけんな氏ね扱いであろうあの内容を、まさか平成も27年になって公開までこぎつけられるという奇跡が起こるとは思わなかったよ。
つーかだったらメガネ男にあんな嫌悪感煽るような演技させたんだ。どう見てもあれじゃ悪役だろ。
わっかりやすーいテンプレ悪役が出て来たら最後に悪役が倒されるのがお約束だろ。主人公が悪役に屈して終わってどうする。
あれ作った人は何を考えて作ったのか、その意図が分からないのが気持ち悪い。メガネ男がイケメンだったらまだ意図が分かるんだけど。
ルミネのCMの件で拡散されていた記事を書いたpokonanがネトウヨそっくりのことを書いていた。
http://pokonan.hatenablog.com/entry/2015/03/20/234648
「あの動画制作に関しての現場状況についてのツイートもあったが、なかなか絶望満載である…」と書いていたツイートがこれ。
…………ルミネCM、製作側の関連企業勤めの人がぶち撒けてるのを見つけた………。「あのCMはオヤジたちお気に入りのキラキラ女子達の意見を元に作られたが舵取りはオヤジなのでああなった」んだそうな……。
https://twitter.com/hollyhockpetal/status/578776123581939712
ルミネCMの製作側の関連企業勤めの人からの暴露話、まだ恐ろしい続きがあって、「少なくとも当初はどんでん返しは予定されておらず『ちゃんと女子っぽくしたいけどできないこじらせ女子を応援☆』のつもりで作られてる」んだそうな…………。この絶望感凄すぎる…………。
https://twitter.com/hollyhockpetal/status/578777609389023232
その人曰く、「製作側にいたというキラキラ女子たちは実際にルミネに週3で通うヘビーユーザーの働く20代女性」だそうな……いるんだな現実にああいう人種……。「彼女たちからのヒアリングを元に作ったためアレが刺さる人は数少ないながら存在する」…「数が少ない」ことは認識できてないんだろな。
https://twitter.com/hollyhockpetal/status/578779426579554304
ただあのルミネCM、意見を出したというキラキラ女子たち自身もあのムービーが出来た過程には絡んでおらず、あくまで意見を聞かれてイメージを出しただけらしい。実物見て、少しずれてますね??くらいは話したらしく。……どこらへんが少しなのかね……。そしてその少しが結構キモなんだろな……。
https://twitter.com/hollyhockpetal/status/578780091729125376
このツイートで「まだまだ、顧客のニーズよりおっさんたちの理想が優先される世界なんだなぁ…」とpokonanは書いているが、このツイートのソースを一切確認してないで載せている。顧客のニーズよりおっさんの理想が優先と言っているが、ソースの確証なしに、おっさん叩きを優先するのがpokonanなんだなぁ。
ネトウヨがソースが曖昧で反日!とか言って韓国人叩きしているのと同レベルだな。ネットフェミを略してネトフェミと呼ばれていることがあるが、ネトフェミってネトウヨみたいにソースも確認せずに鬱憤晴らしで対象を叩くわけだろ。何の信憑性もないのに確固としたソースとして提出するというpokonanはネトフェミの鏡だなぁ。
pokonanはルミネの記事が拡散されて、さらにルミネにお詫びを求める記事を書いているわけだが、ソースの確認もせずに記事を書いていることをお詫びしないのか?と思ったら、pokonanってこのツイートを見えなくしているわけだよ。それで、「あの動画制作に関しての現場状況についてのツイートもあったが、なかなか絶望満載である…」「まだまだ、顧客のニーズよりおっさんたちの理想が優先される世界なんだなぁ…」と書いているが、ツイートがないと、pokonanの「ルミネのお詫びの下手くそさ」の記事は成り立たないわけだが。
ルミネのお詫びの下手くそさって、「pokonanの田舎で底辺暮らしブログのお詫びの下手くそさ」は?ネトフェミって、ネトウヨと同じようにソースの確認もせずに熱心に男叩きをしていることが多いが、ネトウヨメンタリティと同じだわな、ネトフェミのpokonanさん(笑)
ネトフェミもネトウヨ並にうざいわなぁ。ソースもなしに在日!とか言って、韓国人認定しているのと同じ自覚あるのか、ネトフェミは。
↑書いてから考えてみたけど、はてなってはてフェミと言われるネトフェミがいるし、はてブではネトフェミ案件が特に炎上しやすいので、はてブが「ネトフェミアフィブログ」の巣窟になる。ネトフェミ案件で、男叩きに便乗してはてブがどんどん付いていることが多いから>ソースが怪しい場合などであっても。pokonanの田舎で底辺暮らしもアフィリをペタペタ貼っているネトフェミアフィブログになってるし。はてブは、ネトフェミアフィブログにすんなり引っ掛かるその単純さはどうしたものか?
ネットがソーシャル時代になって、コンテンツやサービスの魅力に「共有」が加わった。
昔から流行りとしてある程度の力を持っていたこの要素だけど、SNSのせいで爆発的に地位が向上したと思う。
俺はそういうことが嫌でネットでのやり取りに逃げたのではなかっただろうか。
逃げた先は10年後にテレビよりもテレビらしくなってしまった。
流行りを作り出すために、共有されやすいツッコミどころを露骨に見せるようになった。
盛り上がりを可視化するようになった。
なぜお前らはテレビで満足しなかったんだ?
テレビは日がな一日やることの無いおばちゃんや、頭の軽い学生の受け皿として頑張っていたではないか。
おかげで俺もお前らの一員になってしまう。嫌だ。
http://anond.hatelabo.jp/20150114232029
3)パシフィックリム
4)新世紀エヴァンゲリオン(TV版)
5)LUPIN THE IIIRD 次元大介の墓標
6)以下追加予定
7)
「死んだと見せかけて実は生きていた」作品の方が多いのではないか
前の「死んだ人間が生き返る」展開が許されるリアリティラインの作品が少ないためと考えられる
前段の舌の根も乾かぬうちに恐縮だが、本作では文字通り「死んだのに生き返る」がラスト直前の展開である。
ラスト前、主人公トレジャーハンターJC(役名)がスカイダイビングで火山へ降下していく。息詰まる空中戦の結果、JC(役名)のパラシュートが無効化されてしまう。
まっさかさまに落ちていくJC。迫る地表!どうするJC(役名)!誰かから空中でパラシュートを奪い取るのか?どうなるJC(役名)?予備のパラシュートがあるのか?味方の飛行機がやってくるのか?JC(役名)が死んじゃう!
結局、溶岩が固まったと思しき堅そうな山の地面にそのままJC(役名)は激突してしまう。
と、めっちゃ痛そうな、ふらふらした様子でJC(役名)はなんとか立ち上がる。>ラストバトルへ突入
な ん だ そ れ
これは前回の特に理由のない奇跡(ナウシカ)に分類することも可能であろう。
だがむしろ理由が十分にあると考えることはできないだろうか。「ジャッキーチェンだから」という立派な理由が。
本作はかなりいびつな構造のシナリオである。面白い。だけどちょっとなぁ…と乗り切れなかった人もいるのではないだろうか。
理由の一つは香港戦で1回話が終わっているということである。ローリーベケットが落ちた穴から這い上がってしまう(兄を失った事件による問題が解消されてしまう)のだ。
まず香港戦を見てみよう。
香港戦のピンチはベケットとマコの乗るジプシーデンジャーがオオタチに成層圏まで連れて行かれてしまい、今まで使っていた武器プラズマキャノンが使えなくなることである。
ピンチは視聴者とローリーベケットが知らなかった武器、マコだけが知っていたチェーンソードで解決される。
ご都合主義的な面は否めない。
成層圏からの落下問題はなんとなく丈夫だったから、で解決される(ライジングドラゴンと同様)
時空の裂け目を超えて異世界に行って戦う。(○イ○ックスと同じ)
太平洋上、ポッドの中の主人公。心臓が動いているサインはない。悲しむヒロイン。
フレームアウトしたまま主人公が喋る。生き返った!(または死んでいなかった!)
王道なのにどこがまずいのか。
畳み込む展開、どんでん返し、予想とのギャップ、あっという驚き。
洋上シーンの前にイェーガー内から脱出ポッドが射出され裂け目から地球の太平洋にもどる場面が明示されている。
観客は、最大のピンチ(異世界から帰れない)が解決されているのがわかってしまっている。
「死んだと見せかける」シークエンスの
うまく行く王道展開と、うまくいかない王道展開はこんなところに差があるのではないか。
視聴者のハラハラ感をコントロールする技量・パワーは舌を巻くものがある。
その時まで(それ以後もだが)
「死んだと思ったが(特に理由もなく)生きていた」クライマックスとフィナーレを持つストーリーが繰り返し語られてきた。
先週死んだはずの綾波レイが今週も現れる。
視聴者は「おいおい」とつっこみながらも、「まあそういうこともあるかもね」と飲み込みながら視聴を継続する。
その後にやはり死んでいたことが明らかにされる。
”私はたぶんn人目だから”
「死んだと思ったが生きていた」と思ったが実は死んでいた。
このパターンは極めて珍しい。
ルパンや次元が本当に死ぬと思って観に行く人はほぼいないであろう(ドラえもん長編映画と同じ)
”次元大介の墓標” というフレーズ自体は凄腕の殺し屋が、ターゲットの墓を、暗殺実行の前に作るという外連であることが早々に明かされる。
1%の「本当の死かも?」というハラハラ感のためでもあるが、ただし、次元の死を偽装するという営為は放棄されない。
劇中ではメインゲストキャラクター(敵の殺し屋)に向けて死が偽装される。
一方、観客に向けてはHOW?どのようなアイディア/からくりで死を偽装したのかというサービスが提供される。
A:いかに巧妙に「死んだと見せかけるか」
B:いかに巧妙に「実は生きていた」理由付けを隠すか
http://anond.hatelabo.jp/20150114231342
1)風の谷のナウシカ
5)ベイマックス
7)ヒックとドラゴン(1)
10)以下、適宜追加予定
再生には特に理由(伏線)はない。ザ・松田である。いんだよ細けぇことは。
死の方を「明らかに死んだだろう」事態を間接的に描写するにとどめ、実は生きていたとした。
伏線は空飛ぶバットポッド(The Bat)の自動操縦できるできないのミスリーディング。
(ただし、「実は生きていた」シーンの方をアルフレッドの幻覚である、とする見方をする人もいた模様。)
成層圏で弾道ミサイルに体当たりして爆発四散という直接的描写。
クライマックスでグルート本体が死に、実は生きていた挿木から再生する。
切り株から再生するシーンが伏線となっている。そういう世界だからそちらはいいのだが、問題は、中盤に
スターロードもガモーラもドラックスも死んでもおかしくないダメージを受けた描写の後、実は生きていた、
というくだりがそれぞれある点。それにより最大のピンチの筈が弱まってしまっている。
ここまでくれば ベイマックスがラストバトルで壊れて、再生するというのは観る前に九分通り見通せてしまう。
「どうせロボットだから修理できるんでしょ」という視聴者の上を行く(裏をかく)「異次元宇宙に置き去り」
で「死」のかわりに「死」のもつ性質「永遠の別れ」をクライマックスの最大のピンチに置いた。
まず、実際の生命をやったりとったりする世界ではなく、ヒット作の前日譚であり、死ぬわけがない。
本作での死は大学を退学になることに相当し、「社会的生命」とでもいうべきものである。
モンスターズインクに入社できるかどうかという点も予め答えが与えられており、そのハンデを負いつつよく深いピンチを表現したものである。これは死んで生き返らない話パターンとみなすこともできる。
あわや死んだと思ったがに片足がちょん切れただけですんだ。
のび太やスネ夫が死ぬと思って映画を観る人はいないと思われ、生きるか死ぬかのサスペンスは
という二つの要素があることがわかる。
ブルースウェインが超再生遺伝子細胞パワーを持っていたので生き返った、では売れる映画も売れないだろう(観てみたくはあるが)
リアル寄りの世界では、死を直接描写した上で再生の奇跡を描くのは難しい。
再生の奇跡のカタルシスは、死なないとわかっている主人公では描けない。
再生(または死を避ける)能力・メカニズムの片鱗をクライマックスの勝負以前のどこかでさりげなく見せておく
ことが重要なのであろう。
についてもいつか書きたい
気持ちの整理をする意味がメインなので、読んでも意味はわからないです。あと読み返すと中2要素しゅごい。
いましめ
1 前もって注意すること。また、その言葉。訓戒。
2 過ちを犯さないようにこらしめること。
3 (縛め)しばること。また、その縄。
5 用心すること。警戒。
朝、それも恐らく寝起きに見たという事を考慮しても、
シンプルに、と前置きしてごく短く済ましている辺り、俺に対する気持ちはとても薄いものだ。
結局、全力の告白を経てもなお、俺は考えてすら貰えてなかった。既に付き合っている人が居る。そいつは俺に出来なかった、好きになってもらう為のアプローチを積み重ねている。成功させている。そのハンデをたった一度の告白で逆転させようと、俺に振り向いて貰おうと、無謀ながらも絶対に成功させてやるという決意と決断の上でぶつけたにも関わらず。ぶつからずに流されたのだ。
どうせあの電話も、早く終わらないかなーという程度しか思わずに適当に相づち打ってたのだろう。さぞ面倒くさかったろうな。
俺の扱いは、以前変わらず友人(知人)の一人。ただ、自分の事が好きである、という目立たないタグが付いただけだ。1番になるどころか、頭1つ抜ける事もなかった。
俺は、■■に告白しても考えてすら貰えていなかった。考えさせる事ができなかった。だから俺が本気で向かっても、どれだけ断腸の思いであの文章(お願い)を送っても、片手間で簡単に済ましてしまう。その程度の存在なのだ。
俺がどんなに本気になろうと、どんなに落ち込もうと、どんなに悩もうと、それらを■■に知られようと、これが原因で自殺する結果になろうと、■■の心にはたったの1%も俺の事を考えるスペースは無い。知人に対する最低限の配慮という共有スペースしか。俺は■■にとっての2番目になるどころか、以前と全く、俺の存在の大きさは変わらなかった。
大学4年間の中で2年と言うのは決して短くない。しかしこれから先、さらに時間と人間関係は積み重なっていく。その中で、きっと俺の事や俺と居た時間は、■■の中で今以上にどんどん薄くなっていく。例え■■が今の彼氏と別れた日がきたとしても、その次に俺は出てこない。
プライドが高くてデートにも誘えず、告白する勇気も中々出せない俺が、2年と3ヶ月の時間と体験が積み上げられたからこそ決断する事ができた告白は、とても簡単に受け流されてしまった。俺がデートに誘うといったアプローチや告白をためらっていた数ヶ月の差は、永遠に埋められない差になってしまった。この思いは、大学生の今だからこそ最高の密度でぶつける事ができたというのに。結局、ぶつかる事すら無かった。
この思いそのものも、これからの人生で薄まっていくのだろうか。早く、思い出す事すら無くなるような思い出になって欲しい。
ただ予感として感じているのは、やはり俺にとって■■という女性は、この2年と3ヶ月、●●部という繋がりがあったからこそ、ここまで好きになれたということだ。俺の嫌な性格を知られてもなお、活動を通じて会って、その人との時間を積み重ねられる環境だったからこそ告白する決断ができた。果たしてこれからそんな環境があるだろうか。社会に出て、そんな悠長な構えができるだろうか。社会に出て、自分の嫌な所を見せられるだろうか。大学生の今ほど、素の自分を出す事ができるだろうか。
俺が見た目以上に性格で好きになれて、その人に嫌な所があると分かった上で、それを含めて好きだと言えるようになれる程の思いを築くことができる環境が、時間が、この先あるだろうか。
好きな人は一人だ。恋愛は、好きになった瞬間から取った取られたの話になるのだ。これから先、こんなにもゆっくりと思いを重ねられる時間は無いだろう。だから、ここまで好きになれる人はこの先いないと予感するのだ。だからこんなにも後悔しているのだ。
まぁ結局、ゆっくりと重ねられる時間なんてそもそもなかったのだけど。
こんな事を書いてはいるが、本音では、何よりもこれを■■に否定してほしいと思っている。2番目では無いにせよ、他の友人たちよりは大きな存在だと。少なくとも数%位は、俺の事を考えてしまうと。
さあ確認しろ。もう、■■と付き合えるようなどんでん返しがあると気持ちの良い妄想をして現実逃避をする事が無いか。それに気づく度に現実を見直して心を痛めないか。あるはずの無い希望や期待を抱く事はないか。この文章を持って戒めるのだ。
と言っても、やはり好きな事には変わらない。心を奪えなかった事も変わらず悔しい。気づけば気持ちのいい妄想もしている。
でも、なぜか以前と比べてマシになった気がする。心が痛んでも、絶望と言う程のものでは無くなった気がする。開き直れている気がする。きっと、現実に対する見方や、現実に対する心の位置が変わったのだろう。現実は変わらないけど、現実の見え方が変わって、真実も変わったんだ。今なら受け止められる気がする。
ほとんどの場合、ラノベにヒロインは必要不可欠であると水島や飯田は主張する。反例はもちろんあるが、ヒロインを据えたラノベがそうでないラノベよりも圧倒的に多いことは事実である。
このヒロインについて、水島は「フラッグシップヒロイン」という独自の単語を用いて説明している。フラッグシップヒロインとは、その出会いによって、主人公は平凡な日常から非日常へと放り込まれる、という点で特徴を持つヒロインである。水島はこのフラッグシップヒロインは一人であるべきで、また傍若無人タイプが好ましいと言う。日常が非日常へと変わるのは多くの物語で最初の1度であり、従ってそういった存在は必然的に一人であらざるをえないと言えること、前述の人物間のギャップを想定する場合、ヒロインが傍若無人であるならば主人公は面倒見のいい親切な人物となり、このような人格は読者の倫理観を満足させやすく、ゆえに感情移入させやすい、という点で効率的である。ゆえにこの水島の指摘はこれまでの内容とも矛盾しない。
一部の例外を除いて、ヒロインは主人公に惚れなければならない。榎本はヒロインが主人公に惚れる理由はしっかりと、読者に分かる形で描写するべきだという。一目惚れの場合は「外見に惚れ、次に魂に惚れなおす」という形で段階を分けるべきだとする。
突如登場したこの「魂」についての説明は一切ないが、筆者が理解する限り、この「惚れる理由」や「魂」とは主人公の「行為」であり、精神的な何かではない。
クーンツは登場人物の個性とは「行為」によって示されるべきだと言う。これは例えばヒロインは優しい性格の持ち主だ、と説明することよりも、読者がヒロインを優しい性格だと感じる行為を描写することの方が好ましい、という指摘である。
作中の人物はテレパシー能力が無い限り他人の思考を読み取ることはできず、その人物設定の書かれた地の文を読むこともできない。ゆえにその行為によってのみ、どういう人物であるかを理解していくことになる。もちろんクーンツや榎本が指摘するように、それらの行為には動機が必要である。現実と異なり、なんとなくで登場人物が行動していくことは読者は作家の思考放棄であり、ご都合主義だとみなす。
従って主人公はヒロインが惚れるに足る行為をなさねばならず、それは作中で明示的に描写されなければならない。
さらに、この指摘は主人公がヒロインに惚れることについてもまったく同じである。美少女である、ツンデレであるといった属性があるから主人公が惚れるのではなく、当該人物の行為によって主人公は惚れる必要があるのであり、さらにその行為が読者にとっても惚れうるものであればこそ、魅力的なヒロインとして意識づけられるものだろう。
水島は登場人物にオリジナリティなど不要であり、パクればいいとする。一方で五代/榊はそれを「チグハグで安っぽいもの」と批判する。両者の主張は実のところ特に対立するものではない。
西谷は次のような指摘をしている。
ライトノベル作家を目指している人の原稿を読むと、大ヒットした小説に登場したキャラクターの名前だけを変えて自分の小説に登場させ、自分ではそれに気がついていないことが多いのです
五代/榊が批判しているのはまさにこうした模倣だと筆者は考えている。水島は意識的に模倣しており、さらにそれはバレないようにするべきだ、と言う。バレない模倣とは一体なにかについて水島は特に踏み込まないが、この点で大塚は既存のキャラクターを抽象化し、別の値で具体化することが正しい模倣だという。例えばオッドアイという属性を「左右で異なる目を持つ」と捉え、そこから「左右で見える世界が違う」と具体化する。
確かにこれは既製品の加工、変形に過ぎない。ゆえに大塚はオリジナリティとは「パターンの組み合わせ」「パターンの再発見」なのだとする。この2つは、クーンツの「われわれは古い物語の要素を新しく配列し直しているだけなのだ」という指摘、また榎本の「オリジナリティとは「全く新しいもの」ではなく「読者たちが知らないもの、見たことのないもの」の呼び名だ」という指摘を端的に表していると言えるだろう。
一方、様々な属性をランダムに組み合わせ、新たなパターンの組み合わせを発見しようというワナビは珍しいものではない。スクール水着と巫女の組み合わせはこれまでにない!オリジナリティだ!といったそれに対し、大塚は「設定の上だけで奇をてらった個性やオリジナリティを追求しても意味がない」と指摘する。
繰り返しになるが、大塚はそれが「主題」と深く結びついていることが必要不可欠であるとする。主題と関係性を持たせられず、物語上の必然性もない「オリジナルな属性」に価値は無いと言っていいだろう。
プロットについての学術的定義としては例えばフォースターが有名であるが、それらを踏まえてプロットの定義を明確化した文献はフィールドぐらいしか確認できなかった。
よって本稿においては各説の最大公約数的に機能する定義として、「世界」や「登場人物」の変化を「出来事」とした上で、プロットとは「出来事の配列」と定義することとした。
さてこの「プロット」について論じるにあたっては、当然ながらプロット不要論と向き合わねばならない。
プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。第二に、プロットを練るのと、ストーリーが自然と生まれ出るのは、相矛盾することだから。
このキングの著作を高く評価し、手本としても例に挙げているクーンツはプロットに関して次のように述べている。
作家にとって望ましいのは、ただひたすら登場人物たちの進んでいく方向に、ストーリーを方向づけていくことであるというのだ。どこやらあいまいなこの方法に従えば、より「自然」なプロットが得られるというのだ。ばかげた話である。
ただしクーンツもごく一部の天才であればプロットを練らずとも名作を書きうるだろうとしていることは事実である。よってキングをその例外であるとすれば上記の見解の相違は回避可能となる。
ところが同様にプロットなど考えたりしないという主張は、例えば宮部みゆきや五代によっても主張されている。彼女らがクーンツより文才溢れる天才であり、キングと同格なのだとすることはさすがに暴論であろう。
しかしここでもこれは単なる手順上の相違に過ぎないと筆者は考えている。
まずキングは「原稿を寝かせる」ことを非常に重視している。書き終えた原稿をキングは6週間寝かせるが、それは「プロットやキャラクターの穴がよく見えるようになる」からだという。こうしてプロットの欠陥を認識し、書き直し、そしてまた6週間寝かせる。キングは欠陥を認識しなくなるまでこれを繰り返す。
確かにキングはプロットを事前に練っていないが、これは推敲における徹底したプロットの練り直しに他ならない。もちろんキングが筆の赴くままに書いてもそれなりの内容を書くことができる、という前提はあるだろう。しかしキングもまたプロットを最終的に納得いくまで練り込んでいるという事実は、単純にプロットなど不要だとする主張とは明らかに一線を画している。
宮部もまた、書き終えた後での推敲段階で物語の全面改稿を含む大幅な変更がありうること、よって発表後の現行を改訂できない連載小説などは「よく失敗」すると自嘲し、従って自分のやり方は非効率であるから真似するべきではない、と述べている。
このように彼らの意見をまとめると、プロットを先に練って書くことは確かに必須ではないが、それはプロットを練らないことを意味するものではなく、推敲段階で徹底して練り直さねばならない、ということと理解できる。先にプロットを練ることの効果は後で練るより執筆量の少ない段階で修正できることにあり、効率が良いという点に集約できるだろう。
以上のように整理したところで、ではプロットを練ればそれだけで自動的に良いプロットになるのか、といえばそうではない。重要なのは魅力的なプロットを作り上げることで、練るという行為それ自体ではない。
練り方という点でラノベ作家陣は様々な「プロットの作り方」を提案している。その内容には「どのように作るか」という手順と「どのようなプロットであるべきか」という構造についての両方の側面があり、極端に言えば前者についてはどうでもよく、明確に意識するべきは後者であると筆者は考える。
従って手順について詳細に踏み込む必要は無いと考えているが、似て非なる様々な内容が提案されている点を簡単に紹介したい。
キング同様、西谷は「最初のシーンから順に次のシーンへと書いていく」というシンプルなプロット作成手順を提案しており、そのメリットはスケールの大きい物語ができること、デメリットは時間がかかることだとしている。
他方、西谷は「主題をもとにして最初のシーンを考え、次にクライマックスとなるシーンを考え、その両者をつなぐシーンを考えていく」という手順も提案している。こちらは前者より物語の構造を決めやすく、早く書き上げられる手順だという((この指摘はプロット不要に関する筆者の解釈とも合致するところである))。
水島の提案はこの西谷の後者の説に類似しているが、「ヒロインと出会う事で主人公の平凡な日常がどのように変化するのか」「クライマックスで何をするのか」「ラストはどのように終わるのか」を最初に決め、次にその間を繋ぐ出来事を作っていくとするものである。
榎本は「(人物)が(行動)をして、(結果)になる」を最小プロットとして位置づける。その上で登場人物たちの目的、遭遇する事件、葛藤、対立、成長といった要素を盛り込みつつ、まず200字で作成するという。200字で納得のいくものが作れたら次に400字、800字と同様に徐々に増やしていく。これによって効率的にプロットが作成できるとしている。
大塚は上記とは全く異なり、下記の項目それぞれについて、暗示的な意味を付したカード(オリジナルでもタロットのような既製品でも問題ない)をランダムに割り振ることでプロットが作成できるとする。
割り振られたカードの暗示から想像を膨らませることで具体化するという。また、これとは別にグレマスの行為者モデル(主体、援助者、敵対者、送り手、対象、受け手の6種の役割をもつ人や物によって物語は構造化できるとする説)によってもプロットは作れるとしている。
これ以外ではさらに物理的な手順への言及もあり、例えば榎本は単語帳やExcelで各アイディアをカード化してこれらを並べ替えながら考えるのだとしていたり、大塚も場面単位で時刻、場所、人物、行動をカードに書き、それを時間軸に沿って並べて考えるのだ、としている。最後に1972年初版であるクーンツの指摘を挙げて本項を終わる。
プロット・カードとかストーリー構成リストとかの奇妙な発明品は、どれもかつて、作家がアイディアを得るための手助けをすると称して売られたものであり、この手のものは現在もなお売られている。が、実際のところ、そんなものはまともな作家にとって、まったく無価値に等しい。
ラノベ作家陣によるプロットの構造に対する言及は曖昧なものが多く、またまとまった説明になっていないものが少なくない。
いくつか断片的にこの点について言及している部分を拾い上げると、例えば西谷は「キャラクターに新鮮みがあること」「魅力的なストーリーであること」「類似作品と差別化できていること」といった要件を上げており、「魅力的なストーリー」とは何かという点については「主人公に苦労させる」「強い悪役を出す」「魅力的な仲間を出す」「新しい場所を訪ねる」としている。作中でそれぞれの出来事の起こる順番への言及は特にない。
水島は順序について言及しているが、「タイトルも含めて最初に読者をツカむ」「ラストシーン一歩手前で盛り上がる」「ラストは短くだらだらせず、良い読後感を与える」「それ以外は読者が飽きないよう時々盛り上がるようにする」というもので、具体性に乏しいと言わざるを得ない。
あえて言えば「どんでん返し」と「天丼」への言及があり、「どんでん返し」はクライマックスの決着、直前、ラストシーンの最後のいずれかに位置することで効果的に機能するが、当たれば評価を大きく上げるが外れると大きく下げる点に注意が必要だとしている。「天丼」は意外性があり、重要なことを最初は大袈裟に、二回目は間を空けた上でぼそっということで効果的に機能するとしている。
確かにこれらの要素は盛り上げるための1つの技術ではあるだろうが、プロット構造における要素とは言い難い。
さて、榎本は次のような構造をプロットが持つことが望ましいとする。
クーンツもまた、古典的プロットの成功パターンとして以下のようなプロットの構造を推奨する。
念のため触れておくとクーンツはミステリにはまた注意すべきプロット上の必須要素があるとして、それを15項目に別にまとめている。つまり上記だけであらゆるジャンルのプロットの必要十分条件であるとしているわけではなく、様々なジャンルの必要十分条件の最大公約数として機能するのだ、という指摘であると筆者は解釈している。
大塚はプロットの構造については後述するヒックスのそれが参考になるとして作中で丸ごと引用している。しかし同時にプロットの本質的構造はアラン・ダンデスを参考に「主人公の欠落が明かされる」「主人公は欠落の回復を目的とする」「主人公は欠落を回復する」の三段階であるとしており、これは榎本やクーンツの主張をさらに抽象化したものだと言いうるだろう。
ところでクーンツの主張するプロットの構造は「三幕構成」と呼ばれるものである((三幕構成とは序破急であるという言説はラノベ作家の本でもよく見かけるのだが、あれは世阿弥の風姿花伝における序破急の概念を正確に理解した上でそう言っているのだろうか。まさか読んだこと無いけど字面的にたぶん同じだろといった糞みたいな思考で「教科書」と自称するものを書いているはずはないので、風姿花伝の解説書、待ってます))。榎本は「起承転結」を用いて説明するが、上記のように両者はそれほど乖離したものではない。この三幕構成はとりわけハリウッド映画脚本の原則として確立されており、その端緒ともいうべきフィールド、そして大塚や乙一などが参照するヒックスについて本稿では整理する。
フィールドはプロットの理想的な構造を三幕構成によって説明する。三幕構成とはあらゆる物語はAct1, Act2, Act3の3つに分割可能だとする考え方である(その意味でいえばクーンツもまた「クーンツの三幕構成」というべき独自の三幕構成を定義しているというべきである)。これはパラダイムであり、ゆえに三幕構成は史上最高傑作にもメアリー・スーにも等しく存在する。
フィールドはこの三幕構成を下敷きに、次のような役割を持つ出来事が順に配列されることが望ましいとしている。
PlotPoint1と2はそれぞれ各Actの最後に、次のActへの橋渡しとなる機能が求められている。またMidPointはConfrontationの真ん中で起こることが望ましいされている。さらにはそれぞれのActはいずれも小さな三幕構成で出来ており、すなわちフラクタル構造であることが望ましいという(フラクタル構造への言及は榎本なども指摘するところである)。
映画脚本における理論であることから、フィールドはMidPointが上映時間のちょうど中央で起きることが望ましい、としている。
クーンツがあげる「ついに最悪の事態に陥る」はMidPointのようにも思われるが、クライマックスのようにも思われ、それが作中の後ろにあるのか中央にあるのか言及がないため、判断しかねるところである。これに対してフィールドは明確にそれを作品中央で発生するべきだ、としている点で、クーンツのそれをもう一歩先に進めたものだと言いうるだろう。
なお、MidPointは必ずしも派手なものである必要は無い。例えば映画「マトリックス」におけるMidPointはネオが救世主ではないとオラクルに告げられる場面である。争いの無い静かな場面であり、生命の危機に直面しているわけではない。しかし物語をこれまで動かしてきた大前提が崩壊した瞬間である。MidPointはこのようにもはや後戻りができず、先の絶望的状況の回避方法が読者に容易に想像できない出来事であることが期待されているものであり、派手な出来事 Permalink | 記事への反応(1) | 20:47
とっても惜しい。
良い題材だと思うけど、書き方が悪かったな。
うまく書けば200は釣れたと思う。
次は頑張ってほしい。
主な問題点は4つ。
1.タイトルが釣る気なさすぎ。
2.設定が矛盾している。
3.はてなキーワードが入ってない。
4.全体的にダレている。
1.タイトルが惹かれない。
はてぶのカテゴリに乗ったとしても注目度が低くなる。
同じく書き出しもただのグチになってる。
この後でどんでん返しが待ってるとは、とても思えない。
タイトルと書き出しを見て読むかどうか決めるんだから、ここは超重要。
これじゃ、「あーバカが嘆いてるなー」ぐらいでクリックしようとは思えない。
これで読みに来る奴は、「バカを思う存分バカにしてやろう」って底意地の悪い奴だけだ。
そういう奴が読めば、確かに「思ってたのと違う」って釣られた状況になるのかもしれないが、世の中そんなに意地の悪い奴ばっかりじゃないぜ?
2.設定が矛盾している。
なんで天才なのに物覚え悪いんだよ。
せっかく小学1年で微積分、なんて衝撃的な設定作ったのに、ぜんぜん生きてない。
昔々の頃に俺のライバルだった人々は遥か遥か遠いところにいて
ここで言ってるライバルって誰だ?
大学時代の回想なのだから、高校時代の同期は「昔々の頃」のライバルではないはずだよな?
高校3年の夏の時点で上に30人しかいなかったのだから、全員ほぼ同じレベルなはずで、「遙か遥か遠いところ」にはいけっこないよな?
全体的な不信感につながる。
3.はてなキーワードが入ってない。
どんなクソみたいな文章でも、適切なタイミングで適切なはてなキーワードを突っ込めばそれだけで釣れる。
俺はそういうの卑怯だと思ってるからあんまり分析してないけど、例えば学歴と女と職歴の話は釣れる。
今回の場合は、受かった大学として偏差値60前後の国立大を、ちょっと考えれば特定出来る程度に匂わせるべきだった。
あと、大学で遊びまわった話にヤリサーに所属していた経験を匂わせたり、就職先も広告代理店とか、さりげなくエリート層に近かったって匂わせるべきだった。
その辺の話が軽すぎる。
「設定」じゃなくて、その人がしたはずの「体験」を書け。
もしくは取材だ。
4.全体的にダレている。
前半が細かく偏差値の話が続いてるのに、大学以降話が大雑把になりすぎている。
自殺未遂、大学中退、就職、女遊び、退職、まだ大学に入り直すって、どんだけ波瀾万丈な人生だよ。
その全部がさらーっとした文章で流れていて、血の通った文章になってない。
全然真に迫ってこないんだよ。
エピソードを削るか、全部をもっと肉付けして分量を3倍から4倍に増やすかのどちらかだ。
自殺未遂をなくして女遊びを大学時代に持ってきて、中退、就職、退職、大学の流れがいいんじゃないかな。
「仕事はできる」って評価をえたんじゃなくて、入って即辞めたことにした方がスムーズだろう。
で、ニートやりながら株でもやった話にしたらいいと思う。
たかが増田の釣りって言っても、短編小説でも書くような気持ちで書かなきゃいけない。
読み手にどういう感情を呼び起こしたいのか考えて書かないといけない。
読み手を感動させたいのか、いらだたせたいのか、劣等感を刺激したいのか、優越感に浸らせたいのか、どれなんだこの文章の狙いは?
感動させたいなら、こんなダメな俺でも小さな幸せを手に入れた、みたいな話でシメるし、いらだたせたいなら世の中に不平不満をぶつけまくってシメる。
どんな気持ちにさせようかってのか、それが弱いんだよ。
俺だったら、この人物の天才性をもっと表すエピソードを入れて、万能の天才、レオナルド・ダ・ビンチの再来みたいな言い方で読み手の劣等感を刺激しつつ、
それでも一つの事に集中できない俺は、所詮器用貧乏を超えられず、一つの事に熱中できる凡人がうらやましい、ってシメて優越感に浸らせるね。
そしたらブコメで「考えさせられた」とかなんとか、いかにも何にも考えてなさそうな奴らが大量に釣れる。