はてなキーワード: 跋扈とは
答えは三つある。
まず第一の答え。社会を良くするとか、優秀な個体を残すとか、そういう効果で言えば、優生思想は全くの悪手だっていうこと。落ちこぼれが存在するぐらいのほうがいい。
というのも、優秀さっていうのは常に相対的でしかなくて、常に環境に左右される。野武士が跋扈し和製マッドマックスを地でいくような感じだった戦国時代は、体力が強いことがすなわち優れた人間だった。それなりに平和になった江戸時代なら、職人的な器用さを持つ人間が優れていたかもしれない。パソコン仕事がメインの現代は、論理的な思考力があることが優秀さだとされる。未来は? それは誰にもわからない。
誰にも判らないのだから、どんな状況が来ても大丈夫なように備えていくのが望ましい。それがいわゆる「生物多様性」だ。今ある人間がマジ中のマジで落ちこぼれなら、確かに今の社会で浮上する確率は低いかもしれない。それでも低空飛行のままどうにか命をつないでいたら、時代が変わったら大逆転で天才扱いになるかもしれない。そういう天才をキープしておくことが、遺伝子的に優れている、ということだ。
だから劣ったやつを社会が恣意的に選んで殺すのは間違い。不幸せでもいいから生きてもらう。(多様性っていうのはそういう風に一部の不幸せを前提する残酷なところがある)
第二の答え。そいつが殺してほしいというのは、そもそも不幸せだからだ。そいつが優秀かどうかは関係なく、幸せにしてしまうのがよい。
つまりごく普通の福祉だよ。優性学なんて感情的に抵抗がある事をする必要は全くなくて、いまある福祉をさらに推し進めれば問題は解決する。
ただし、福祉がコストであることは純然たる事実で、われわれ人類はコストを負担できるぐらい豊かになる必要があって、そのためには福祉のコストは邪魔だったりするかもしれない。その辺の兼ね合いは確かに葛藤ではある。
ただ第一の答えで言ったようなこともあるんで、今しばらくは葛藤のなかでどうにかこうにか誤魔化し誤魔化しやっていくということだ。
第三の答えは1番目と2番目の併せ技。
優秀かどうかはおおむね個人の特性ではなく環境によって決まる。そいつが今の社会のどんな環境でも本当に幸福になれないほど無能なのかは疑わしい。だいたい本当に無能なら自分が無能かどうかなんて判断ができないのでは? 単純に職場を変わればうまくいくかもしれない。だからとりあえずそれを試してもらう。
アンチ安倍の主張とは裏腹に、安倍政権はビビリだから、新解釈の強行でも改竄でも、コトの本丸には手を付けない傾向にある。
原理的にはやりたい放題になる可能性はあるんだが、それを利用してめちゃくちゃやるのかというと、そうでもない。
森友の改竄も、読めば確かに文書の趣旨は変わっておらず、まあ政治家とか首相夫人の名前が消えてたんで一部の人らは発狂してたけど、
彼らの関与で土地の値段が下がったわけではないのは明らかだったんで、あれ、野党マスコミにビビりすぎたのが最大の失態なのよ。
要は安倍政権というのは、とりあえず政権が存続することが至上命題になっている感すらある。改憲ですら与党陣営へのポーズに見えてしまう。
安倍が巨額のカネを動かすとか、どこ見てもないでしょ。疑惑になるのは、政権周辺の、せせこましい案件ばかりだ。
それにしてもポスト安倍となると、与党にも野党にも、インパクトのある経済政策を語れるものが少ない。
ええ、安倍のやってることは緊縮ですよ。ただし安倍に信念はない。風向きが変われば、コロッと2回消費増税を延期したりもする。
信念がなければこそ、財政拡大派の学者をしれっとブレーンに据えたりもするし、またその下で金融緩和だけ続けつつ、財務省の言うがままインフレにならぬよういわゆるデフレスタビライザーで財政出動を抑え、財政健全化の実績を作っていたりする。
しかしこんな右往左往の安倍に対してですら、特にマクロの経済政策において、アベノミクスの問題点を個別に指摘し、うちの党は金融政策はこうやる、財政についてはこうだ、と語れる政治家もほとんど皆無だ。
アベノミクスは金持ち優遇!格差拡大!としか言えない奴ら、論外。「人への投資」しか言えないのも、論外。
さらにコロナ騒ぎで増税を正当化しようと躍起になっている連中が跋扈している。これに日本の国民が抵抗するのは、至難のわざだよ。
安倍みたいに汚れまくってる奴より、清廉な顔して、国民のために寝ずに働いてます、この身を犠牲にしてでも国民のために頑張ります、みたいな顔してる奴が、一番危険。
ここのところカツオがどーだ、安売り買ったらお前は搾取したこのブルジョワジーめと殴り合いが続いてますが皆さんお元気でしょうか。
で例のカツオの例えの記事を何個か見てて思ったんですけど、やっぱカツオと今回の嬢は似てませんよ。
片方が魚で、片方が人間だからと言いたいんだろって?そんなものじゃなく経済的に苦しんでるのは変わらないから一緒って?
そもそも、今スーパーにある安いカツオを買うのは、100%搾取なんでしょうか。
店は開けることができません。加工も無理。
スーパーが仕入れてこなきゃ、ゴミです。何も生まない。経費でマイナスです。赤です。
つまりスーパーが仕入れ我らが買うのは、応援でこそあれ搾取の汚名だけを貼られるものではないのでないでしょうか。
学校で使われず余って安売りになりそうな牛乳の消費を求めたあれですが、あれの近いものではないでしょうか。買って応援。
発言で示された風俗嬢を考えても、いろいろと違うんじゃないかと思えるところが出てきます。
新しく労働を始める人か、何かを辞めた、辞めざるを得なかった人たちですよね。
この機にやってみようと思ってた、ってんならどうぞご自由にしてください。
でも発言の風俗嬢は短期間で辞めるとなっている。やりたくて入った方は、3ヶ月だけで辞めるんでしょうか。
それは自由意志からしてやりたくなかったけど、その意志を飛び越えてやる必要があった人たちがメインではないのですか。
応援するという意味ではカツオと一緒じゃないかとなりそうですけど。
漁師さんは漁師業界の知識を活用して売り先を変え、漁師のアイデンティティを守ったうえで応援してもらえるのです。
個人事業主で事前知識を誰も教えてくれないまま、意思関係なく風俗嬢業界に飛び込まなきゃいけない所に応援って、本当に一緒なんですか。
詳述しないですけど、昔私は不況の只中で就職活動をやる羽目になりました。
希望の業界、やりたいこと、ちょこちょこ色々あったけど、全部パーです。
その時たまたま元気だった業界を選ばざるを得ませんでした。それがそう、IT業界です。
人は募集してたし活気があったのは間違いないですけど、その時代とうにIT業界の化けの皮は剥がれており、過酷な労働が跋扈しているとささやかれました。
体調不良に鬱なんてよくある事、業界を知ってる人からは平然と辞めた方がいいと言われてましたね。
でも私は選ばざるを得なかった、そんな糞上等の世界から、何の事前知識もなく正しい会社を選び取ってIT土方になるしかなかった。
これです。これこそ、あの発言で期待された風俗嬢なのではないですか。
若く、体力も多分あってハンデもないと思われる、そんな大量の学生が事前の希望一切関係なく、経歴に空白を生む致命傷だけは避けるため。
何だったら、3ヶ月。3ヶ月というキリのいい数字だけでも働いて転職時に話せる経歴にしておきたい。
勿論生活費も稼いでおきたい。
聡明な読者なら多分、どこからか違う部分を見つけ出して喝破してくれるかもしれません。
でも私には自分の意思で職業を選びきれなかった屈辱が今も心のどこかに残ってて、発言で指差された風俗嬢に、自分勝手な憐憫を感じざるを得んのです
3:神とかいて怪我しても回復魔法で治るし転生とかあるのに、死んだ人は主人公以外は生き返らない。(なろうファンタジーに限らずではあるけど)
4:冒険者は死ぬほど金銀財宝を獲得する可能性があるのに、ギルドの冒険者管理・ダンジョン管理がザル
5:冒険者は国軍より強くなる可能性があるのに、国の冒険者・ダンジョン管理がザル
6:人類より頭の良くて強い種族がいる設定なのに、人類国家が広い領土を統治している
7:町の外にはモンスターが跋扈しているのに流通は普通に成立している
8:ダンジョン内は広くて明るくて基本的に平坦だが階段もあって、壁と石畳のフロアも森も湖もあり、水も食料もワナも財宝も宝箱もある。(ダンジョンとは一体・・・)
そんな俺が当時なんでネトウヨになったのか自分なりに振り返ってみようと思う。
普段、夕食後にナイター中継見ながら「吉本隆明がどうたら」「西部邁がどうたら」そんなことばかり雑談してる父親と兄が、「ゴーマニズム宣言はあれヤベえよ……」と苦笑いしているのが耳に入ってその存在を知った。
なぜか興味を抱いた俺はそれがどんな本なのか訊いてみたら、二人ともしまったとでも言いたげな顔で言葉を濁し、「いや、お前が読んだら絶対に訳も分からずハマるから教えたくない」と逃げられた。
そんなふうに言われたらむしろ興味が強くなる。
早速、学校の帰りに大型書店に立ち寄った。残念ながらゴーマニズム宣言は置いてなくて(記憶が確かならとっくに絶版になってたからだったと思う)、仕方なく「戦争論」のほうを購入した。
一応、書いておくと俺はそこらへんのアホ高校に通う勉強なんてしたことないバカ学生だったから、歴史・公民ともに全く知識がなかった。
戦争論に書かれている刺激的な言論にやられて、人が変わったように昭和史の勉強を始めたとかいう事実も一切ない。
それにもかかわらず俺が戦争論にハマったのは、悪役として据えられてるキャラ(アメリカ?護憲論者?)を主人公(日本?小林よしのり?)がボッコボッコにやっつけて、徹底的にディスるのが気持ちよかったから。スカッとジャパン見て留飲下げてる人と全く同じ心理。
正直言って、本の内容は全然理解できてなかった。大人になった今ですら戦争論で何をどういう論点で掘り下げていたのか全く思い出せない。そして、今もう一回読んでも無学ゆえに理解できないだろう。
で、なんで当時の俺にそういうスカッとポルノ的物語が響いたのか?もうこれは俺が嫌われ者だったからとしか言えない。
見た目はオタクのくせに不良ぶりたがる、一周回った可愛げもなくとにかく協調性がなく、からかい半分に相手を挑発することをニヤニヤ言う。
そんな俺はまあとにかくクラス中から嫌われていた。男女問わず嫌われていた。
疎外されるのも自業自得なんだけど、そのくせ俺は周りに嫌われてる事実に傷つき、挙句、「人生初彼女ができない。童貞捨てられない」的悩みも同時に抱えてとにかくイライラしていた。
そんな人間がスカッとジャパンに出会ったらそりゃハマるよなあと今となっては思う。
逆恨み由来で膨れ上がったはち切れんばかりの攻撃性をあの本が代わりに解消してくれたような感じだ。
兄が俺をゴー宣に触れさせないよう慌てていたのは、俺の人間性に大問題があってなおかつクラスの嫌われ者であることを察していたからな気がする。
「(あの本にハマるのはまさにこういう奴だろう)」、そんな危機意識があったのではないかと。
俺は韓国、韓国人、在日朝鮮人、戦後民主主義、左翼を忌み嫌うようになった。
「お前そんなこと言っていいわけないだろう。理屈もなにもねえよ」というような蔑称やヘイトにキャッキャキャッキャと歓喜し、瀬戸弘幸や桜井誠を天才思想家として崇め奉った。
そして俺にとってスターといえばイチローでもダルビッシュでもなく、自民党のタカ派議員だった。
2chに差別書き込みをした回数は1000じゃまったくきかないと思う。
夕食後、父親と兄との雑談に俺が混ざるようになったのもちょうどこのころだった。
学校で起こった楽しい話なんてないもんだから、なんの脈略もなく「韓国がさあ~w」「中国がさあ~w」という調子で読んだばかりのヘイト本の内容を面白おかしくニヤニヤと披露する。
そのたびに父親は決まってウンザリしたような顔で「お前、そんな差別的な話を俺は家で聞きたくないよ。もっと楽しい話してくれよ」と露骨に眉をひそめ、軽蔑したような冷めた顔でそのやり取りを見守っていた兄が痺れを切らして「おめえいい加減にしろよ、黙れよ」と一喝する。
そんな流れが毎日だった。
それは「愛国心を盾にした差別はよくない」という至極まっとうな意見が世間の常識となることだった。
厳密に言うと、当時も今もそういう社会常識は当然みんなに共有されているということになっている。
学校や会社でネトウヨ的言論をかまそうものなら普通に窘められ、あいつは頭がおかしいということになるだろう。
ただ、当時はネトウヨもネトウヨ的言論もまだまだ隠れた存在で(ネトウヨというスラング自体は耳にしたことある人はもう多かったと思うが)、「変な人のことだとは思うけど、実際になにがどうなってんのかは知らない」程度にしか一般的に認知されていなかったと思う。だから、2chで俺を含む差別的な連中がどんだけ跋扈しようが見つからなかった。
世間には「差別は許されない」という当然の常識が共有されている一方で、ネットのアングラ部分ではネトウヨ的思想がすごい勢いで盛り上がるという対照的な状態が続いていた。
「もしもネットのネトウヨブームが世間の人に気付かれたら彼らの良心によって潰されるだろう。そしたら俺のフラストレーションの解消の場がなくなってしまう」
そんなふうに俺は恐れていた。
俺の嫌な予感は当たった。
やがて、ネトウヨ的存在が一般的に認知され始め、密教から顕教に変わっていった。
ただ、予想外だったこともある。
ネトウヨはやっぱり「あいつらとんでもねえ」とバッシングされはしたんだけど、それと同時に「あんなのはごく一部。差別者なんて実際はほぼいない。広まってもいないネトウヨ思想に危機感を抱くのは未熟者だから。はい、この話終わり」とでも言いたげな耳を塞ぐ態度を頑なに守り続ける勢力も相当いたことだった。
これに俺は凄く救われた。こういう逆張りというか、冷めたポーズを取ってくれる連中がいてくれれば俺の、俺たちネトウヨの居場所は守られる!と安堵した。
「ネトウヨ思想が広まりかねない。危険だ」という意見がネトウヨでもないネット民から「そんな奴みたことないんだけど?よっぽどレベルの低いコミュニティにいるんだね~」みたいなレトリックでよく小馬鹿にされていたのを覚えている。
ネトウヨ本が書店で平積みされ飛ぶように売れ、ヘイトスピーチなんてのが社会問題になって、身元隠してないTwitterアカウントで主婦や社会人がネトウヨ思想を全開にしている、そんな現在を考えると、ネトウヨ思想の流行という当時の懸念は正しく、そして、冷めた態度で小馬鹿にする勢力がネトウヨの追い風になったのは当たってたなあと思う。
ネトウヨ時代の俺も日本がここまでなるとは当時想像だにしなかったから。
政治とか右翼だとか左翼だとか韓国とかそういうの一切合切に俺が興味なくなったのは大学入学とほぼ同時だった。
大学合格後に兄に部屋まで呼び出され相当真剣に将来を案じることを言われ続けたからだ。
要約すると、「偏見を捨てろ。周りに親切にしろ。心を入れ替えろ。ていうか今の人間性のままだとお前人生終わるよ」、そんなことをマジのマジのマジのテンションでこんこんと聞かされた。
「親父もお袋も相当心配してるぞ。お前結局友達いなかったろ」、特にこれが半べそかくほど効いた。
自分が好かれるわけがない、擁護しようのない人間だという自覚は深いところで抱いていたので、大学では心を入れ替えて普通に友達作って楽しく過ごそうと思って大学生活をスタートさせた。
まもなく、普通に友達が何人かできて、一緒に遊ぶようになって、まるで憑き物が落ちたかのように俺のなかから世の中や人に対する攻撃性が萎んでいった。
気付いたら政治とかどうでもよくなっていた。ていうか在学中に在日の友達もできた。彼女はできなかった。
今は普通にのほほんと生きている。
COVID-19の疫病は特異な歴史的コンテクストに現れました。まず、グローバル資本主義と自由民主主義の折り合いをつけるには他に解決策(ソリューション)がないと30年間も信じてきた後で、人類は自らに課した昏睡状態からしだいに目覚めつつあります。状況が改善するかもしれないが、急激に悪化するかもしれないという考えにもはや誰も驚きません。
他方で、これまでの4年間、ブレグジット、トランプの大統領当選、ジェレミー・コービンの登場と失脚――じきにバーニー・サンダースも同じ運命をたどることになりました――といった出来事から、グローバル資本主義がかなりしぶといものだということが見えてきました。世界主義から排外主義へ、ネオリベラリズムから社会民主主義へ、イデオロギーがたんに変わるだけでは、社会的・経済的な諸関係は変わりませんでした。資本主義の完全な作り直しという課題に直面して、かつてはあれほどラディカルに見えたイデオロギーが無力で陳腐なものであることが明らかになりました。
現在の健康上の緊急事態をどう考えるべきでしょうか。COVID-19の引き起こした危機が世界を変えて開放する可能性に希望を抱く人は、すぐに失望することになるかもしれません。私たちの期待が過剰だというのではありません。ユニバーサルベーシックインカムやグリーンニューディール政策は妥当だし、まさに必要なものです。ですが、私たちは現行のシステムのしぶとさを過小評価し、また同時に、思想が堅固な技術的・経済的インフラなしで世界を変える能力を過大評価しています。そうしたインフラがあってはじめて思想を作動させることができるのに。
「ネオリベラリズム」のドグマは諸悪の根源とみなされることが多いですが、このドグマであらゆることの説明がつくわけではありません。知的には「ネオリベラリズム」には似ているものの、これとはまた別の悪について、10年ほど前から私は指摘しています。それは「ソリューション主義」といいます。
このイデオロギーは、ポスト・イデオロギー的であることを標榜しており、グローバル資本主義が生み出す問題や矛盾を解決しながらこれを動かし続けるために、いわゆる「実践的」な、個別の対応策をまとめたものを勧めます。そして驚くべきことに、こうした対応策には美味しい利益がついてくるのです。
ソリューション主義のもっとも有害な帰結は、スタートアップではなく私たちの政府がもたらします。ソリューション主義国家とは、その前の時代の監視国家が人間的になりつつもより巧妙化したもので、二重の使命を帯びています。イノベーションを引き起こす人々(デベロッパー、ハッカー、起業家)は御しがたい存在ですが、これらの人々がその能力と既存のリソースを〔現在のグローバル資本主義とは異なる〕他の社会組織を作る実験に用いないよう、ソリューション国家は気をつけていなくてはなりません。AIやクラウドコンピューティングの恩恵を十全に受けたいのなら、資金的に余裕のあるスタートアップを作らなくてはいけないようになっているのは、偶然ではありません。逆にそれは意図的な政治的努力の結果なのです。
その帰結。非商業的なしかたで社会を編成する制度を生み出す可能性があり、既存の体制を転覆するおそれのある試みは、頓挫する。そういったものは胚子の段階で殺されます。そういうわけで、ウィキペディアの流れをくむ団体はもう20年以上現れていません。とにかくデータが欲しい多国籍企業が世界を完全にデジタル化してゆく時代に、国家は自分の分け前を手に入れようと目論んでいます。監視が完全に行き渡ったことに加えて、企業が世界をデジタル化してきたことで、諸国の政府は市場を利するかたちでソリューション主義的な数々の介入を進めることができるようになりました。
ナッジ (nudge)の技術はソリューション主義の完全な実践例です。ナッジのおかげで、問題の原因は変えないまま、取り組みやすい作業の方に集中することができる。それは、個人の行動を不可変の現実(それいかに残酷な現実であっても)に「合わせる」という作業です。
ソリューション主義者のみなさん! COVID-19はソリューション主義国家にとって、9/11のテロが監視国家にとって持っていたのと同じ意味を持っています。しかし、ソリューション主義が民主主義的な政治文化に対して示す脅威は、〔監視国家よりも〕陰険とはいわないまでも、より微妙なものです。
COVID-19の危機にさいして中国、韓国、シンガポールがとった独裁主義的な戦略は評価されました。3国ともに、市民が何をしてよいか、してはいけないか決めるために、アプリ、ドローンやセンサーの展開をトップダウンで決定しました。西洋で民主主義的な資本主義の擁護者を標榜する人たちは予想通り、すぐさまこれらの国を批判しました。
エリートの臆見をもっとも雄弁にうたう詩人たるユヴァル・ノア・ハラリがファイナンシャル・タイムズのコラムで表明した代替案は、シリコンバレーのプロパガンダマニュアルからそのまま出てきたようなもので、知識によって市民を自律的にしよう! というものでした。
人道主義的なソリューション主義者はみんなに手を洗ってほしいと思っています。それがみんなにとって、社会にとってよいことだと知っているからです。中国政府が暖房や電気を切るぞと脅したように、みんなを力ずくで束縛するよりは、そのほうがよいと思っているのです。このような言説は、政治のアプリ化〔アプリで市民を監視し行動を制限する方向性〕にたどりつくだけです。手洗いの奨励をめざして作ったアプリがその人道的な見地によって報酬を受けたとしても、そうなるのです。
認知行動的な介入によって市民を自律的にしようというハラリの呼びかけは結局のところ、キャス・サンスティーンやリチャード・セイラーに代表されるようなナッジの擁護者が推奨するステップとたいして変わりません。こうして、過去数百年で最大の健康上の危機への政治的な対応は、石鹸や手洗い槽の自販機というかたちで「実践的な」言説に還元されてしまいます。これはサンスティーンとセイラーが〔共著の『ナッジ』で事例として紹介しているアムステルダム〕空港の小便器の形をめぐる思考〔小便器の底に蠅の絵を印刷するというナッジにより、男性利用者がトイレの床を小便で汚す率が大幅に減るというもの〕の系統にある発想です。
ソリューション主義者の想像の中では、あらゆる中間団体や制度は、歴史と同様、政治のシーンからほぼ消えてしまったので、他にできることはあまりないのです。ハラリやサンスティーンのような人たちにとっては、世界は本質的に、消費者としての市民、企業、政府で成り立っています。労働組合、アソシエーション、社会運動、そして感情と連帯で結びつけられたあらゆる共同的制度のことをこの人たちは忘れているのです。
「知識による自律化」というお題目は古典的なリベラリズムの根底にあるものですが、今日ではひとつのことを示しているだけです。もっとソリューション主義を、ということです。だから諸国の政府は、去年私が「生存のための技術」(survival tech)と名付けたもの(つまりスペクタクル(見せ物)としての資本主義が、その主要な問題を緩和しつつ続くようにするデジタル技術の総称)に大金を投資するものと予期しておかねばなりません。そうやってソリューション主義国家は自分が「中国の道」は採らないことを標榜しつつ、自己の正当性を強化することになります。
この危機から脱するためには「ポスト・ネオリベラリズム」の政治が必要なだけでなく、とくに「ポスト・ソリューション主義」の政治が必要です。まず、スタートアップか、中央集権的な計画経済か、といった人為的な二項対立はもうやめてもいいでしょう。この考え方は、私たちが今日、イノベーションや社会的な協力を考える仕方を規定しています。
新しい政治的議論の中心となる問題は、「社会民主主義とネオリベラリズムのどちらの勢力が市場で競合する力を制御できるか?」ではなく、「社会的な協力と連帯の新しいかたちを追求するうえで、デジタル技術がもたらす巨大な機会をどの勢力が活かすことができるか?」でしょう。
「ソリューション主義」とはだいたいのところ、「他に選択肢はない」(There is no alternative)というマーガレット・サッチャーの有名なスローガンを応用したものにすぎません。このようなロジックは残酷で実践できるものではないことを、左翼の思想家は過去40年間にわたって明らかにしてきました。とはいえ、〔このサッチャー的なロジックが〕破綻していても、政治的な権力を持つようになるうえで支障はなかったのです。結果的に、私たちの暮らす技術的な世界は、市場が支配する世界秩序を逸脱するような試みはぜったいに制度化されることがないようにできています。私たちの議論の輪郭〔つまり議論の組み立て方〕そのものが、そのような〔逸脱の〕可能性を排除してしまっています。
COVID-19への技術的な対応策を考えるさいに直面する困難は、ポスト・ソリューション主義的な政治の方向性が私たちにどれほど必要か示しています。イタリアのような国では――私はローマで外出制限の3週間目に入るところです――提案されるソリューションは酷いほどに野心を欠いたものです。私生活と公衆衛生のあいだで妥協点をめぐって議論が繰り返されており、さらには、これはハラリが示した方向性に従うことですが(「反抗または生存」を参照)、「生存のための技術」を使ってスタートアップがイノベーションを引き起こしやすいようにしなくてはいけないという議論になっています。
他の選択肢はどこに行ったのかという疑問が浮かぶのはもっともなことです。なぜ公衆衛生のために私生活を犠牲にしなくてはならないのでしょうか。テクノロジー企業や通信事業者が作った現在のデジタルインフラが、それを提供する会社のビジネスモデルにかなった利益をもたらすようにできているからなのでしょうか。
現在のデジタルインフラは、私たちを個別に消費者として識別し、ターゲティングを行うようにできています。集団の行動についてマクロなレベルで匿名の情報を提供するようなインフラを実装する努力があまりされてきませんでした。なぜでしょうか。そのような〔匿名のデータ〕分析をする必要について検討した政治的プロジェクトがなかったからです。非商業的なしかたで社会を編成する形態の中でも、とりわけ〔社会主義的な意味での大規模な〕計画はネオリベラリズムが用いる手法ではなかったからです。社会民主主義を信奉する人たちのなかでも、そのような手法を用いるべきだと主張する人はいませんでした。
現在のデジタルインフラは残念ながら個人が消費活動をするためのインフラであり、相互扶助や連帯のためのインフラではありません。デジタルプラットフォームと同様、現在のデジタルインフラは、アクティヴィズム、人の動員や協力といったさまざまな目的に使うことはできますが、そのような使い方は、たとえそう見えていなくても、高くつくことになります。
ネオリベラリズム的でもなくソリューション主義的でもない社会秩序の基盤としては、これはじつに脆いです(さらにこうした基盤には、消費者、スタートアップ、起業家とは違う働きをする人が必ずいなくてはなりません)。アマゾン、フェイスブック、あるいはあなたがお住まいの国の通信事業者が提供するデジタル基盤のうえにこの新しい秩序を建てる誘惑にもかられますが、そうしてもろくなことにならないでしょう。それは良くてソリューション主義者が跋扈する新しいフィールドになるか、悪くすれば、監視と抑圧に基づく全体主義的で押し付けがましい社会となるでしょう。
この危機的事態を権威主義的な体制よりも民主主義がうまく収拾できると熱く説く声が、左翼方面からさかんに聞こえてきます。このような呼びかけは無意味なものに終わる可能性があります。現在の民主主義は民主主義的でない私的な権力の行使にとても依存しているので、名ばかりの民主主義になっているからです。これぞ「民主主義」と考えるものをほめたたえることで、潰れかかっているスタートアップの見えない持ち分を意図せずほめたたえたり、スタートアップほどには無害でなくソリューション主義国家を構成するテクノクラートの持ち分をほめたたえたりすることになります。
もしこの生ぬるい民主主義がCOVID-19を生き延びることができるのなら、私企業の権力から完全に自由になるためにポスト・ソリューション主義の道をまず選ばなくてはならないでしょう。そうしなければ権威主義的な体勢への道へまた踏み出すことになります。それは「民主主義的価値」、「規制の機序」、「人権」について、以前にもまして偽善的なエリートの支配を許す道です。
Covid-19, le solutionnisme n’est pas la solution
*ナッジとは、「行動経済学や行動科学分野において、人々が強制によってではなく自発的に望ましい行動を選択するよう促す仕掛けや手法を示す用語」(株式会社日立総合計画研究所)
絶対売れない。
こんなアニメがあったら胃に穴が開く
https://satanix.hatenablog.com/entry/2020/03/19/135416
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/satanix.hatenablog.com/entry/2020/03/19/135416
被害者個人がここまで頑張らないといけない犯罪が日常生活の中にこんなに跋扈してるの、めちゃくちゃ腹立たしいし悲しいな。この人には本当に敬意を表したい
街中で暴力振るわれて、きちんと加害者を追い詰められる被害者がどれだけいると思ってんだ
一握りの理性を外したバカによる「被害」なんざそこら中に溢れてる
これで、痴漢問題だけが、ことさら特別な問題であるかの様に喧伝されるのは、被害者が女性に偏るというジェンダー問題だからだ
女が被害者で、男が加害者だから、数多ある被害者泣き寝入り案件の中で、痴漢だけが特別に酷い案件かのように話される
そんなわけ無いだろ?
(3/20追記:冤罪について 誤解されている方が多いようですが、冤罪=無罪なのに有罪となることで、≠この人痴漢です!と言われ被疑者になること。また、警察で嘘の自白を強要され有罪となることを心配している方を散見しますが、そこで折れなければ推定無罪の原則で無罪を勝ち取れるはずです。捜査体制に問題があるのは事実で、自分で自分の身を守っていただくしかないのが現状。被害者側も誤認逮捕を防ぐ努力は尽くしていますが申し訳ない)
と語るやつが、示談についてこう語る
自力救済は違法で、私刑は論外なのに、懲らしめる目的と公言して、「損害賠償」の金額を増やすのか?
すげぇ話しだな
これで、本人が痴漢された状態で、全く無関係な他人が手を掴まれても
こいつマジで言ってんのか?