はてなキーワード: 心音とは
まだ妊娠超初期だったので、まずは定期的に産婦人科に通い、出生届が出せる状態になるまで赤ちゃんの成長を見守ることになった。
ところが何週間たっても赤ちゃんの体が大きくならない。心音も確認できない。
着床して胎嚢はできたものの、それから赤ちゃんが育ちきれずそのまま亡くなってしまい、なきがらが体内に滞留している状態をそう呼ぶのだそうだ。
もともと子供を強く欲しがっていたのはわたしよりも旦那のほうだったが、でもわたしもやっぱり妊娠がわかったときは単純に嬉しかった。
旦那からは気が早いと笑われたが、名前を考えたり、どんな顔のどんな性格の子どもが生まれてくるのだろうと想像したりして、自分なりに妊娠生活のスタートを楽しんでいた。
生活も変えた。発泡酒の代わりにウィルキンソンの炭酸水と、それとカフェインレスのコーヒーを買い込んだ。
葉酸が多く含まれる食品を積極的に摂取し、ストレスがかからない範囲で嗜好品を控えるようにした。
そんな生活を2ヶ月ほど続けていたところに稽留流産を告げられた。
エコー検査では毎回爪の先ほどの小さな影が見えるだけでまだ人の体をなしていなかったこともあり、正直赤ちゃんがお腹の中にいるという実感はまだまだ乏しく、なので流産と言われても悲しかったがものすごくショックというほどではなかった。
残念だったね、でも次また頑張ろうねというふうな話を旦那とした。
妊娠超初期段階の流産とは、着床時の異常や遺伝子異常などでどのみち正常に発育することができない赤ちゃんに発生するものであり避けることができないものだと、母親の生活態度などで左右されるものではないと、かかりつけの薬剤師の先生からは聞かされた。だから自分を責めないでほしいと。
そういったサポートを受けられたこともあり精神的なショックはさほどでもなかった。
赤ちゃんが体内に残ったままでは色々と今後リスクがあるので、早いうちに赤ちゃんを体外に出してしまう手術をした方が良いと医師から勧められ、先日その手術をしてきた。
引き合いに出すのはおかしいかもしれないが中絶手術と同じようなやり方で、サジのようなもので赤ちゃんを体外に掻き出すのだそうだ。
土曜の朝から病院に行き、全身麻酔で意識がなくなっている間に手術は終わった。その日の夕方には家に帰れた。
ほどなくして2カ月間止まっていた生理が再開し、経血が排出されていくのと同時に妊娠判明以来ずっとあったお腹のもやもやとした異物感のようなものは解消されていった。
妊娠前の元気な体が戻ってきたのだ。
わたしの妊娠生活はかくして終わった。少なくとも妊娠できるということはわかったのだし、今後に向けて前向きに生活している。
昨夜、女友達数人で飲みに行った。流産のことは誰にも言っていないのだが、旦那がちょうど出張中で話し相手に飢えていたこともあり、いろいろな馬鹿話で笑い転げた。久しぶりのビールは本当においしかった。
少しの二日酔いでクラクラしながら今朝目が覚め、酔っ払って散らかし回した家の中を片付けていた。
キッチンカウンターに、使いかけのカフェインレスコーヒーが残っていた。
それを目にした瞬間、不意に虚しさが襲ってきた。
カフェインレスコーヒーは確かにコーヒーの風味はするのだけれど、やっぱりどこか味気なく、本物のコーヒーのほうがおいしいことに間違いはない。
でもそんな、柄にもないものを必死になって探して買い込んでいたついこないだまでの自分が、滑稽で、哀れで、愛おしくて。
手術が終わり、「増田さん、終わりましたよ」と麻酔科医から名前を呼ばれて手術台の上で目が覚めた瞬間、朦朧とした意識で最初に私が口にしたのが「出てきた赤ちゃんを見せてください」という言葉だった。
医師は一瞬迷った様子を見せた後で、小さなカプセルに入ったピンク色の塊を私に見せた。それは全くピンク色の肉塊でしかなく、赤ちゃんの体だと言われても素人には何が何だかわからない。
見せてもらってどうするつもりだったのか自分でもよくわからない。そんなことを頼む心積もりはなかった。ただとっさに、まだ半分寝ている状態でそんなことを私は言っていた。
自分を責めることはないと周りからは言ってもらえたが、でもやっぱり、ごめんねと思っている。
大きなショックは受けなかった。それは本当だ。でも何か、重しのような、ちょうど生まれたての赤ちゃんぐらいの、軽くて小さくて吹けば飛ぶような儚い、だけれど確かに重さを感じる、そんな重しのようなものが、わたしの心臓にぶら下がっているような、そんな気持ちがしている。
んー、なんかイマイチ何がどう好きだからってのがわかんなかったから、つらつら書きます。
いきなりたくさん買っても、合う合わないもあるだろうから、123のセットと大逆転12だけでいいんじゃないかな?
ただ、大逆転は何があってもまとめて買ってほしい。
大逆転1だけ買うってのは、小説の上巻だけ買うの以上に尻切れトンボなので。
本編の123456は、それぞれ割と独立しているので、まずは合う合わないを見極めるためにも、123のセットだけでいいかなあ。
123
さっきそれぞれ独立している、と書いたものの3の最終話は今までの全てが一点にまとまる展開なので、プレイするならぜひ一気にプレイしてほしい。
この123を神格化している人もいるけど、個人的にそこまで次のオドロキ三部作や大逆転二部作と違いがあるとは思わない。
(特に2は他と比べてむしろクオリティは低い方だと思う。僕は好きなキャラクタがいるという一点を持って好きなナンバリングだけど)
デタラメな登場人物、七転八倒する論理の議論、魅力的なBGMと逆転シリーズのらしさは当然全部詰まっていて、最初に触れるのは間違い無くこれであっていると思います。
4
逆転シリーズの鬼子、シリーズが色々あって停滞することになった原因の作品。
とは言うものの、問題としてあげられてた「ナルホド君がああなっちゃたこと」や「オドロキが主人公として弱い」は、次の5や6のための助走と思えば、そんなに悪い作品じゃなかったかもしれない。
僕は、リアルタイムにプレイしてたのでその辺イマイチまだ飲み込めてないけど、通してプレイするとまた違った面白さがあると思います。
ただ、そういったシリーズを通して登場するレギュラーキャラクタの扱い以上に、そもそもゲームとして面白くない、筋が通ってない、という問題に関しては……
まあ……
うん……
逆転裁判って…… そういうところ…… あるから…… うん……
いや、でも、その、そういうところをレギュラーキャラクタたちの魅力でラッピングしていたのも逆転裁判なので、そのレギュラーキャラクタたちが助走しているこの作品って、やっぽり…… その…… うん……
5
オドロキシリーズ二作目、のようで、ナルホド君復活もあったり、心音という三人目の主人公が参画したりと、色々あった作品。
第3話のしっちゃかめっちゃかさはよく話題にあがるし、僕も思い返しては「……意味がわからん」となるんだけど、
そこ以外は、そこまで悪くないし、さっきも書いたけど、逆転裁判ってある程度こういうしっちゃかめっちゃかさを楽しむ部分もあるから、うん!
そして、今作はそのしっちゃかめっちゃかなところを、ちゃんとレギュラーキャラクタたちの魅力で覆い隠せている部分もあると思うから、4でガッカリきたとしても、諦めずに遊んで欲しくもあるかも。
次の6を最大限に楽しむには、この5で「ナルホドの弟子としてのオドロキ」ってのを堪能しておいてほしいので、ナンバリングを全部プレイするつもりなら、飛ばす理由は特にないと思う。
6
オドロキシリーズ三作目にして、最終作、のようで、真宵ちゃん復活もあったり、心音編もあったり。
オドロキ君のエピソードが待っている最終話は、このためだけに45を耐える価値は十分あると思っている。
ただ、これはあくまで、リアルタイムで発売日のたびに攻略していたからで、一気にやるとさすがにしんどいのかも。
だけども、本当に6の最終話の、あのシーン(プレイすれば絶対ここだ! ってわかると思います)まで行けば、
4や5の回り道って言っちゃうとそれぞれのファンに失礼だけど、けど、あのオドロキ君の色々あったエピソードも、そこまで無駄じゃなかったのかなあ? と思える、本当にいいラストです。
大逆転裁判1と2
いやもう、これは何が何でも1と2をセットでプレイしてほしい。
ほんともう、これは1と2じゃなくて、上と下ぐらいに繋がってるというか、普通にただの続き物なので、1だけとか2だけは絶対にやめておいた方がいいです。
こちらも、大逆転2の最終話はきれいにばちっ! とおさまるところに全部綺麗におさまる美しいラストなので、是非とも1と2はセットで買ってほしい。
っていうか、逆転裁判シリーズってどれも平均点以上は確実に自分の中ではとってて、
なんていうか、東大と京大どっちが頭いい? ぐらいの高水準なゲームなんですよね。
書いてから思ったけど、僕的には3とか6とか大逆転2みたいな、それぞれのシリーズの完結編をとても高く評価していて、
その高い評価には、前振りの4と5とか、大1を「耐える」みたいな部分も、そこがこう反転して面白くなる的な評価しているみたいです。
耐えるって言うと言葉が悪いけど、どれも最終話に至るために必要な助走であって、それらをプレイしていた瞬間が面白いとか面白くないってのは、全部吹き飛んじゃうんですよね。
これって文字を読むことが主のADVだからこそのプレイ体験で、アクションゲームとかRPGはどんなにラストが素晴らしくても、道中のイライラの面白くなさが「反転」するのは、ADVだけだと思う。
なんかすごい長文書いちゃったけど、ごめんね。
パパえらいよパパ。
確かに抱っこしてる時間はママの方が長いから、馴染みのある抱き方、匂い、声じゃないと、コレジャナイ!って泣くんだろうけど、今はパパしかいないんだからパパで我慢しなさい!ということを赤ちゃんにも理解してもらうしかないよね。
赤ちゃんを泣き止ませるテクニックっていろいろある上に、ひとつうまくいったから次からもずっとうまくいくとは限らないから、地道にひとつひとつ試してみるしかないんだよね。
ビニールのガサガサや心音、ホワイトノイズを聞かせるとか、うちの子はなぜかパフュームが大好きだったんですが、そういうのはきっと試されてるかな。
あと3ヶ月だとあんまりまだ目が見えてないので効果があるかわからないけど、ちょっとふざけて予想外の動きを見せるとか、泣いてるところを動画に撮って本人に見せると、うちの子は泣き止んでキョトンとしてました。
あと何かあったかなあ…ツイッターとかでお母さんたちをフォローしてると、意外なノウハウが蓄積されて楽しいです。
そのうちママより詳しくなって驚かせちゃいましょー!
男性経験夫一人、年齢差も同じぐらいで親近感沸いたので私の経験を。
産後は、産まれたばかりの赤ちゃんを置いて何てことをしてるんだろうという罪悪感とか、最中に赤ちゃんが泣き出して中断されたりとか、しっかりとした母親にならなきゃいけないって必死だったりして、セックス楽しめなかった。
自分や、人間として自立してる夫より、自分が常に見てなきゃ死ぬかもしれない赤ちゃんのほうが最重要になってるから。
だから、そろそろ卒乳しても大丈夫、次の子供が出来ても大丈夫って状態になったら気持ちよくなったよ。
私は二年かかった。
生理が一年以上戻らなかったし、まず身体が無理だったんだと思う。それくらいまではよく寝てる子供の心音確認したりしてビクビクしてたしね。
まだ痛むとか、生理が再開してないとか安定してないとか、卒乳しても大丈夫なくらい成長してないとか、状態の違いはあるかも知れないけど、参考になれば幸いです。
元々は子供は要らなかった、つーか喪女で結婚も出来ないと思ってたしどうでもよかったが妹が子供を産み、その赤子が超絶可愛かった。
この子の為なら死ねると言ってたら妹から「そういうのは親がやるからおばさんが重い愛をそそがんといて自分の子供を作れ」と言われた。
それもそうだ子供が欲しいと思ったのでギリギリ二十代で結婚する事にし、幸い母親の新しい友達にお見合いおばさんがいたので紹介してもらい結婚、相手も高齢童貞だった。
毎晩頑張ったが痛そうな顔をすると夫が萎えて終了を半年ほど毎晩続けた。
子供はまだなの?若いから気楽に思ってるかもしれないけどそろそろ孫が見たい。と言われる度に処女懐胎は無理と思ったが高齢処女で旦那も高齢童貞なのでやり方が解らないのは人には言えない話題だった。
一人で行ったそうは手術の麻酔からさめたら、カーテン越しに妊婦さんが血液検査で明るく「血管には自信があるんです」と笑っている声が聞こえて辛かった。
最初は辛い程度だったのがぶどう子で異常に分泌されてた妊娠ホルモンが一気に消えた影響と流産のショックでその晩から不眠に苦しみ鬱のようになり、死ねお前のせいで子供が死んだと夜中に幻覚幻聴が聞こえ気絶するように眠り朝起きたら絶望を感じ地獄だった。
悪阻がきつくて妊娠してない体に戻りたいと思っていた事を思い出しては泣いた。
旦那の親に妊娠を伝えた直後の流産だったので旦那に流産を伝えるように頼むと「病気で流産した」と電話で話しており、その言い方だと性病と勘違いされるだろうが!!!と腹が立ったのを覚えている。
その後ガンになる危険があったので検査のために医者に子作りをしばらく止められ、やっと出来たがまた流産をしてと数年経った頃に旦那が睡眠時間も足りない程の超激務になりセックスが出来なくなった。
親は孫を見たそうだったが、セックスせずに子供は出来ないとは言えなかった。
その後運よく正月休みに体力回復してやったセックスで子供を授かったが、ある日夜中にトイレに行くと真っ赤な血が大量に出てきた。
旦那は過労死が心配になるレベルの睡眠時間だったので伝えてから家で寝かせて、母に電話をして泣きじゃくりながら病院に行きそのまま入院、看護婦さんがお腹を温めるカイロを持ってきて聴診器で赤ちゃんの心音を聞かせてくれた。
また長期の入院になり今度は退院したらそのまま私の実家で寝たきりになるように指示された。
薬は飲んだら冷や汗が出るくらい副作用が強い、横向きになったら腹がはるので上向きで姿勢が固定され、トイレ食事風呂以外ずっと寝てるので大きな腹に圧迫されて背中やお尻は真っ赤に腫れて痛かった。
ギリギリで子供が逆子になり帝王切開で出産、顔を見た瞬間に幸福ホルモンが脳に溢れて物凄い愛しさと幸福感に包まれ涙が出た。
一度流産したときにそうは手術を受けなければならなくなって、平日だったので休めないよね一人で大丈夫といったのだが、終わって意識が戻って来た辺りでカーテンの向こうから聞こえる妊婦の声などを聞いてたまらなく虚無になって力が入らなくなって、一人で歩いて帰りながらそばに旦那が居て欲しかったと物凄く落ち込んだ。
次に妊娠したときは、深夜にトイレにいくと真っ赤な尿が出て流産がよぎり病院に電話してすぐ来るように指示されて旦那を起こして説明して、あなたは翌日仕事があるから私一人で行くし寝ておいてと言ったが、玄関で旦那のイビキを聞くと腹が立ったし、病院で助産師さん達にカイロをもらったり赤ちゃんの心音を聞かされたりして慰められてる間、腹の中で赤ちゃんが死にかけているとパニック状態で怖くて涙が止まらず心細くて旦那に居て欲しいと思った。
先週金曜日、12wにして血液検査により稽留流産の診断がおりた。
先月初旬から、胎嚢が育ってない週もあり、宣告されたときは「ああ、やっぱり」と思った。
1ヶ月以上時間与えられたものだから、少し気持ちの整理が出来たからかもしれない。思ったより冷静に宣告を受けれた。
そして今日12/11、日帰りで子宮内除去手術(そうは手術)を受けてきたのでここに可能な限り情報と経過を記す。
手術を受けるその時まで、ずっとネットで同じ手術を受けた方の体験記を読んでだいぶ助かったところもあったので。
夫、私とともに20代後半。出産・中絶経験なしの今回が初めての妊娠。
10月下旬に妊娠検査薬で陽性が出て、病院でエコー検査により妊娠確定。
最終生理開始日を妊娠0日と換算すると、宣告時は12w。ただし生理周期が不定期なため、実際の排卵日(2wと計算される)は予測不可。
11月初旬から胎嚢の大きさは7~9wの間で変化。卵黄嚢は確認できるも胎児・心音ともに確認できず。子宮内で出血のようなものが見られ、2週間ほど止血剤を飲んだ。
2週間ほど前から繋留流産の疑いあり、基礎体温をつけた。36.3~36.6の間で高温期にはなっていない。つわりは継続中。
確定させるために先週月曜日と金曜日で血液検査を実施し、HCGホルモンの数値(安定期にまでは絶対に下がらないもの)を確認。この間ホルモンの値が下がり、診断。
1周間経過観察をして自然流産を待つものの、出血もなくこれ以上待っても母体へ影響がある場合を考え手術を決断した。
自然流産を推奨する医者もいるので、そこはどちらが自分にとって良いか、よく医者と相談するべきだと思う。納得出来ないときはセカンドオピニオンもおすすめする。
私は、自然流産でもかなり痛みは伴うし、いつ始まるかわからない上完全に排出しきらない場合もあり、そうなると結果手術は避けられないというデメリットが大きいと思ったので手術に踏み切った。
この時間から絶食。水とお茶に限ってはごくごく飲まなければ当日6時くらいまでならおk。
18:30頃に、その日来てくれていた実家の母が取ってくれた特上寿司を夫と2人で食べていたので、お腹は満腹。
ただ自由に飲めないという制約のせいか微妙に喉が乾く。ごまかすために歯を磨いたり口を濯いだりする。
手術したその日は入浴もシャワー浴もできないため、念入りに洗った。
手術への半端な知識のせいで、痛みへの恐怖が拭えずほぼ不眠。時折ウトウトする程度。この時間に布団から起き上がる。
夫が朝食を食べている横で、着替えを済ませ準備物の確認。()は個人的に用意して役に立ったもの。
・手術同意書
・サニタリーショーツ
(・袖がない綿入れ)
水筒がなかったので、ペットボトルを用意した。寝ながら飲むことになりそうと言われたので、ストローつきのキャップを事前に購入して装着。100均などで買える。
着いたと同時に、今日1日過ごす部屋に通される。隣は手術室。
セミダブルサイズのベッドで個室。待合室も兼ねているので、夫がくつろぐスペースもありありがたい。暖房がきいてとても暖かく快適だ。
入院着に着替えて診察室へ。
点滴(ラクテック)装着。血管が細すぎる上、つわりのせいで栄養状態が悪く、利き手じゃない方に4回入れて失敗。手の甲に失敗されるのはやっぱり痛いぞ。
以前入院していたときも同じことがあったので、利き腕の関節にある静脈に挿してもらう。針がずれないように腕を固定しないといけないから嫌がられるけれどしょーがない。
利き手が固定されてスマホいじりづらいなーって思っていたら、主治医の先生に呼ばれ内診へ。
経膣エコーで再度子宮内を確認、前回と胎嚢の大きさ変わらず7w程度しかない。卵黄嚢は見えても胎児や心音はやっぱり確認できず。
そのまま前処置開始。
麻酔なしで子宮口にラミセルをつっこむこの処置、とにかく痛い、激痛と評判で、これだけはしょうがないから頑張れと言われたもの。
ラミセルとは時間が経つと膨らんでいく性質のもので、子宮口を開くときに使うものである。同じ役割を果たすものとして海藻が成分のラミナリアがあり、後者のほうが一般的だ。
ラミセルを使い、普段赤ちゃんが出てくることのないよう固く閉じている子宮口をゆっくり開き、手術中に器具が入りやすい状態へ導く。男性は、体の中にある肛門(大便が漏れないよう固く閉じているイメージ)を器具を使って開くと考えるとわかりやすいのではないか。
先生が「今から入れるよー」と言った瞬間、なんとも言えない不快感。
痛い?ような?でもとにかく気持ち悪い。思わず「先生痛いよ~」って言ってしまう。
「◯◯さん不安そうな顔していたけど、この処置が怖かったでしょ~?色々調べていたみたいだからねえ。大丈夫もうすぐおわるよー」「がんばれがんばれー」と先生や看護師さんが話しかけてくれて気が紛れた。これはものすごくありがたかった。
数分と経たずに前処置終了。何本入れたかは敢えて聞かなかった。緊張が一気にほぐれて饒舌になる私。頑張ったねーとほめてくれる先生、いい方である。
待合室で待っていた夫が「一気に顔色良くなったね」と笑う。
ラミセル挿入後は、評判通り生理痛のようだ。私は生理痛がかなり重い方で、これなら普段より軽いくらいだな~と感じた。ずーんと重いけれど、寝転んでいれば耐えられそうな感じ。
病室へ戻りベッドへ寝かされる。鎮痛剤いる?と聞かれたけれど我慢できそうだったので断った。
今日は外来(個人病院で婦人科の他に内科もやっている)が多いので、そちらが少し落ち着いたら手術を始めますと言われた。なんとなくそうだろうなーと思ったので軽く了承。
うーん、我慢できるとは言え痛いなあと思いつつ、寝転がるより体を起こしている方が楽だと気づきそうしていると、途中点滴の様子を見に来た看護師さんにびっくりされた。
寝てていいんだよ!?って言われたけれど、体起こしている方が楽で…って言うと、背中が楽になるように枕をもう1つ持ってきてくれた。親切だな~。
その後は夫と2人でぽつぽつしゃべりつつスマホいじって時間を過ごす。暇な時間が多いと予測されたので、文庫本を持って行ったが正解だった。病室にテレビがなかったし。
待つ時間が結構長い。いつ呼ばれるかわからないので外出も出来ない。付き添う旦那がお腹空くのではないかと気の毒だったので、パンでも持ってくるんだったなーって思った。
午前中の外来が終わったようで、手術室へ呼ばれる。トイレを済ませ下着まで全部脱いで行く。
やぱり麻酔かけるとはいえ緊張してくる。手術台へ上がると、心電図をつけられ、両足を開いて固定したところで主治医の先生がいらした。
「静脈麻酔をかけるけど、前に言ったとおり血管痛があると思います。でもその後は大丈夫だから安心してね」
「はい」
「じゃ、入れます」
点滴に何やら先生が注入した(術後説明でソセゴンとセルシンと判明)
痛くなるよー、と言われたけれど感じられず。ここ数年注射は慣れっこだから鈍感になったのかな?と思ったところで上半身がカッ!と熱くなった。
以前肩こり解消のために処方された薬を飲んだ時のようだ。筋肉が弛緩しているのを感じる。
まったく眠くならない。むしろ意識がはっきりしている。あれ?いつ意識落ちるの?と思いつつも、そのうち落ちることに期待をしていた。
しかし。
「お腹ちょっと冷たいよ」と先生が言って少し経った後、子宮付近?とにかくお腹の中に激痛。さっきの前処置とは比べ物にならない。
と言うも止まってくれない。そうだよな…と冷静に思う自分はいるけれどとにかく痛い。ギリギリ我慢できないほどの疝痛。
「◯◯さんがんばって、ごめんね、もうすぐ終わる、綺麗に取れるよ」
「◯◯さんもうちょっとだよ~」
先生も看護師さんも励ましてくれている中、お腹の中で何か動いて吸い取っているのがわかった。かき回される感じもする。
ようやく終わった。
麻酔、効いてくれなかった…………
病室へストレッチャーで運ばれる。夫の心配そうな顔が見えたけれど何も言う気力がなく、手術が終わった後もお腹はズキンズキンと痛んで泣きそうになりながらベッドへ移される。子宮が収縮しているようだ。
「ちょっと麻酔がうまく効かなかったみたいで、もう少ししたらお腹の痛みも落ち着くと思いますが、耐えられなくなったらナースコール押してください」と夫か私かに説明する声が聞こえた。
大丈夫?と撫でられるが答えるのも嫌で首をふる。手を握って貰ってひたすら丸まって痛みに耐えた。
なんで麻酔効かなかったんだ、なんのための麻酔なんだよ、と悲しさが頭をぐるぐる回る。
しかし、しばらく目を閉じていたら、少しずつお腹の痛みを癒え、起きることができた。
1時間位して看護師さんが見回りに来た時は、喉が乾いているんで持参したお茶飲んでいいですか?と聞いてたくらいには元気に。
枕もなく寝転ぶのがきつくて、枕を使う許可求めたけれど両方ダメ。ぐぐると麻酔後はどっちも落ち着くまでは喉に何かをつまらせたり気管を圧迫する恐れがあるためダメらしい。
おまけに前日夜から絶食してることもあってお腹も空いてきた。帰ったらカツ丼かラーメンかカレー食べたいなと考える。
途中看護師さんがトイレの介助に来てくれたが、殆ど助けもいらずスタスタ歩けた。ふらつきもなし。
そのご先ほどと同じように元気になってから2時間くらいは、夫としゃべりつつ先生の診察を待つことに。
主治医の先生が病室へいらして、診察と手術後の説明に。膣に入れてたガーゼを抜いてくれるとき、申し訳ないとひたすら謝ってくれた。
「私不運でしたねえ」
「我慢してくれたおかげで、子宮内は綺麗に取ることができたよ」と、手術後のエコー写真(いつ撮ってたのかわからないが手術後すぐに撮ったっぽい)とカルテに記載してくれた図をもって詳しく説明してくれた。
「この後出血が続くけれど、正常だから。薬出しておくので1週間後にまた来てください」とのこと。
術前の説明だと4日後だったけれど延びたらしい。やったぜ。
薬の内容は、止血剤(トラネキサム酸・オダノン)と子宮伸縮薬(メテルギン)と抗生物質(セフジトレンピボキシル)。
「しかし、麻酔後にこんなしっかり受け答えできてふらふらしたり嘔吐したりしないのってすごい」と感心された。術後の具合悪さは覚悟していたのだが、まったくない。
まあ、痛みが取れなかったのと考えればプラマイ0かなあと考えることにした。
前回の診察後に総額2万弱だろうと言われていたが、実際は薬と合わせて1万程度だった。
主治医の先生は、初診の頃から雑談を交えて親しげに話してくれる方だった。
色々勉強してくる妊婦さんは好きだからと、質問をしたり、経過観察のときに症例を挙げて詳しく説明してくれたり、いい先生に巡り会えたと感じる。
ただ、今回の手術を説明する用紙にデカデカと"人工中絶手術"と書いてあって閉口した。今回私が受けた手術とやり方が同じということは事前に知っていたとはいえ。
慌てて看護師さんがその文言を消してくれたが、書式2つ用意しておいたほうが神経質な妊婦さんにはいいのではないかなと思ったり。
手術も蓋を開けてみれば、一番怯えていた前処置より子宮内除去のほうがよほど痛くてびっくりした。
麻酔かからず激痛だった方の体験談は読んでいたけれど、かなり稀なパターンと聞いたのでまさか自分に降りかかると思わなかった。
私自身アルコールはかなり弱いし、アルコール弱い人は麻酔にかかりやすいはずなのになあ。
耐えられたけれど、もう二度と経験したくない。
今これを書いている現在、じわじわと子どもを亡くした悲しみが襲ってきている。正直のところ今日までは手術の痛みの恐怖に怯え、悲しむ余裕がなかった。
初期流産の殆どの原因は染色体異常によるもので、母体がどうだったとしても防げないものだとは説明を受けた。
母も双方の祖母も、叔母も流産経験者で、おまけに義母もそうだった。知らないだけで経験してる方は多いのだなと思う。前もって知っていたので、何で私だけ!というショックは少し和らいだような気がする。
妊娠中、コウノドリという産婦人科医の漫画を読んだこともあって、子どもが無事に生まれてきてくれるというのは奇跡だなと身を持って知った。
初めて流産の疑いがあると言われ、怯えて過ごし次の週検査に訪れた時胎嚢が育っていて大喜びして泣いてしまったことがある。
そのとき先生が「産んだ子どもが成長していく過程で、やれあの子より成長が遅い、あの子より成績が悪いと嘆くことがあるだろうけれど、その時無事に育って生まれてきたときの喜びを思い出してみてね」と言ってくれた。
※すでに成熟期を迎えたラブライブ スクフェスと稼働したばかりのデレステを比較してる時点で頭悪い記事です。あと書いてる人はアニメでアイマスとデレマス知っててモゲマスやってるだけの人で初代アイマスやXBOX版などは知りません。
音ゲーが大好きです。セガもコナミもタイトーも分け隔てなく音ゲーはなんでもやります。あまりアイマスワールドに愛着がない音ゲーマーの意見として読んでください。
iphone版なのでちょっと出遅れていますが現在プロデューサーレベル43ですがここまでPレベルを上げてもプレイできる曲がなかなか増えません。
ジュークボックスから手に入る曲を合わせても20曲ちょっと。 これは恐ろしくストレスたまりますね。
で、やれダンスがどうとか、システム周りが洗練されてるとか、できること多いよねとかスクフェスより課金への導線が多いよねとかそういう話はまぁ置いといて肝心の音ゲー部分についていうと
あまりにもプレイできる曲が少なすぎるという点と、アイマスの曲は一部の曲をのぞいて、ラブライブの曲と比べてぶっちゃけ「イモくさい」という二点がちょっと不満。
ぶっちゃけあんまりキャラソンはキャラソンしてる曲は音ゲーとして何度もぷれいしたくない。 音ゲー向きじゃない曲は、何度もプレイするのが必須な作りにしないでください。
コナミが出している音ゲーでいわゆる「アイドル曲コーナー」がそうなっているように、やりたい人だけがやれるようにして、そうじゃない曲を充実させてください。
なんかね、アイマスの曲って、なんかラブライブとくらべて、キャラソン!って感じが圧倒的に強い。 イモくさい。
歌が上手い下手っていうより、歌詞からなにから、そのキャラのための歌ですって雰囲気が強く出てるのとキャラの作った声で歌いすぎ。 そのアイドルが好きじゃないと楽しめないというか。
おかげで、せっかくのダンスユニットを自由に編集できるシステムが逆効果に。 キャラソンを歌ってるアイドルがセンターじゃないとシュールなギャグみたいになってしまう。
「かわいいボク」こと輿水幸子をセンターにして、本田みおの持ち歌であるミツボシプレイすると笑ってしまってまともにプレイできないじゃないか。
前川みくの持ち歌を、「わかるわ」こと川島瑞樹さんをセンターにしてプレイするとなんだかとっても残念な気持ちになってしまうじゃないか。にゃお♪
城ヶ崎リカの曲なんて、琴浦さんのOP並に頭悪い感じ(ほめてる)なので、超寡黙な佐城雪美とかに踊らせてみるともはや哲学っ……! きのこ娘やら橘ありすに躍らせるとめっちゃ面白いけど!
もちろんラブライブにもそういう感じの、これはにこにー曲だな、とかわかるやつたくさんある。あるけど、そうじゃない曲のほうが多い。
もともとベースとして、ラブライブの場合はみんなで歌ってる上に、曲によっては音響とかつかってあんまりキャラの個性を出しすぎないようにしてる。キャラも大事だけれど、それ以上に曲を大事にしてるって感じする。 歌自体にキャラの色がそんなに強くない曲が多くて好き。だから何回でもプレイしてても飽きない。
そしてなにより、キャラっぽい曲は、あんまりなじまない人がいるのはよくわかっているせいか、必須プレイ曲になってない。プレイしたい人だけやればいいようになってる。他にプレイできる曲いっぱいあるから何度もプレイしなくても問題ないので気にならない。
つまりあれだよ。曲そのものの問題じゃなくて、曲の出し方の問題。
このあたりスターライトステージはだめだなあって思う。 その曲が悪いってわけじゃなく、音ゲーとして曲の使い方や出す順番がダメダメ。
デレステ作ってる人は、どんな曲でも喜んでプレイして貰えると思ってるのかもしれないけど違うから。あんまりキャラっぽい曲とかイモくさくて何度もプレイしてられないから。
キャラ特訓のアイテムを出すためにクールとかキュートとか特定の属性の曲を繰り返しプレイしなきゃいけないのに、曲が少なすぎて他の選択肢がない。
何度も何度も渋谷凛とだりーなの曲プレイさせられるの正直うっとうしい。
みくの歌とか渋谷凛の歌とか、何回か続けてやったら飽きるんだよね。 こういうのはもっと曲が沢山出揃った後の中盤以降に出すとか、日替わりで出すとか工夫してほしい。
もともとは好きでも嫌いでもないのに他に選択肢がなくてやらされてる感が出てくるとなんかもう嫌いになりそうになる。少なくとももう飽きてるのは間違いないよ。
運営に対応して欲しいのは、もっとプレイできる曲を増やしてほしいってことにつきる。飽きる。というか難易度が低い曲しか無いこともあって、すでに飽きがきてる。EXTRAレベルはよ。
今更曲の追加が難しいならせめてさっさと日替わり曲のラインナップを充実させてほしい。
スクフェスは日替わりでプレイできる曲は8~9曲ある。そのくらいあれば、本編がいくらだるくても文句言わない。
システム周りだとかシナリオだとかいろいろ頑張ってるみたいだけど、肝心音ゲ部分、いや、音楽部分について、ラブライブに完全に負けてる。
まだまだ始まったばかりなのはわかってるので、これからに期待してます。
セガのマイマイも最初は全然楽しいと思わなかったけど、音楽が充実するようになってからは一番多くプレイするようになったくらいなので、デレステもこの先プレイしてて楽しい曲が増えてくるときっと盛り上がってくると信じてます。
よろしくお願いします。
※無知ゆえにずれたタイトルをつけていましたが「なぜアイマスの曲はラブライブと比べてキャラソンの印象が強くなってしまうのか」→「なぜデレステの曲はラブライブと比べてキャラソンの印象が強くなってしまうのか」に変更しました。他にも直すべき点がたくさんあるんでしょうがキリがないのでご容赦ください。
自分達でタイミングとってみる半年→タイミング指導2ヶ月→人工授精1回→男性不妊の通院1ヶ月→人工授精2回挑戦失敗→顕微受精1回で妊娠し、現在妊娠4ヶ月です。
したこと、かかった費用、思ったこと、気付きなんかを書きました。
だらだら長いです。
その間も自然妊娠めざして排卵日にがんばってみたけど半年妊娠しなかったため、体外受精の功績がある病院へ転院!
以上です。
長々とわかりにくい説明ですみません。
私もちゃんとわかっていなくて語句が間違っている点もありそう。
費用もざっくりです。
とにかく個人的な目線のメモなので、気に障るようなことを書いていたらごめんなさい。
私は不妊治療をはじめた時、周りにしている人はいなかったし、何も知らないままスタートしました。
もしここに書いて、「不妊治療ってこんなことなんだな」って思ってもらえたらと思い書きました。
少しでも参考になったら嬉しいです。
フリースタイルラップはリズムに合わせて歌詞を即興で作るのだが、リズムに乗ると不思議と言葉が浮かんでくるそうだ。競技かるたもリズムをとってカルタを記憶するらしい。リズムにどんな意味があるのか?
その謎をとくカギは「グルーヴ」にある。ブラックミュージックの理解で日本人がまず躓くのが「グルーヴ」という概念。それはただ機械的なリズムに乗ることではなく、体感とのシンクロが要求される。
この理解困難な概念に対するわかりやすい喩えが心拍という名の音楽だ。ケージの4分33秒が音楽になるなら心臓だって音楽になる。君は心臓や呼吸に音楽を感じるかい?環境音楽的ワークってやつだ。
その先駆けは現代音楽家Pauline Oliverosだ。いまや小学校の音楽の教科書にもその種のワークが載っている。ゆとり世代以降の人間なら記憶にある人も多いはず。
心臓のリズムを感じるには目を閉じて心を静かにする必要がある。一種の瞑想だ。心拍が分かったら今度はそれに合わせて身体を揺らしてみよう。揺らすと心拍が変わる?そこが難しい所で、
心拍に干渉しないまま身体を揺らしていく。この感じがまさにグルーヴなわけ。がむしゃらに即興演奏すると必ず体感に干渉してしまい体感が迷子になる。ムードをぶち壊したらセックスは台無しである。
つまり機械的にリズムに乗るだけでなく、体感とシンクロすることで自然にリズムが生まれてくるわけである。身体がそんなふうにできている。それがグルーヴ。ジャズにおけるスイングも同様だ。
グルーヴあるリズムはリズムマシンの作る厳密に一定なリズムからは若干のズレがある。そこに生演奏の味わい深さがあると言われるが、正確に言えばズレかたに体感が反映されているから味わい深く感じる。
リズムの一定さやズレ自体には別段深い意味はない。あくまでもリズムの一定性やズレはグルーヴの副産物にすぎない。「世界はリズムに満ちている」とは某音楽家の言葉だが、正確にはそれはグルーヴなのである。
音楽以外にも思考や会話にもグルーヴというものがある。相手のテンポを崩すようにワンテンポ遅れた返事や食い気味の返事を返すとかみ合わない感じがするだろう。
だからテンポについて行けない人間どうしで深く仲良くなるのは極めて難しい。世の中の「親友」の多くはテンポがかみ合わないのに誤魔化し誤魔化し仲良くしているように見える。
トークのテンポというのはつまるところ、その人なりの言語的体感とのシンクロの仕方である。単なる会話の速度ではない。早口でも会話のテンポが遅い人はいくらでもいる。
また、熟練すれば無理に話題のテンポを速くできるが、結局は自分のテンポで話すのが一番快適なことには変わりないわけである。けだし会話のテンポはほとんど先天的である。
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一方、グルーヴには安定性という要素もある。ジャズでは「この人の演奏には安定したグルーヴがある」「安定したグルーヴにはノリやすい」「今回のセッションはグルーヴが安定しなかった」
などと言われる。グルーヴが安定しない現象は先ほどの心音が迷子になる現象と同じである。体感を見失って、形の上でしかリズムに乗れてない状態。それはどうしても演奏に現れ、バラバラでちぐはぐな印象を与えてしまう。
安定性はその人のメンタルを表している。気持ちが不安定ならグルーヴも不安定になる。熟練演奏者なら多少メンタルが不安定でも「いつもの体感」自体は出せる。
だけど、別の「普段にはない体感」が邪魔をしてきて、演奏に乱れが生じるわけだ。そんななか繊細な感覚をつかまえてグルーヴを表現するのは並大抵のことではない。
演奏家という仕事は一般人が考えるよりずっと鋼鉄のメンタルを要するのだ。
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強いメンタルになりたいと誰もが憧れるが、その秘密は形状記憶性にある。本当に強いメンタルとは、ガッチガチのオリハルコンメンタルなどではなく、柔軟に形を変えてはすぐ元に戻る形状記憶性にある。
「上善如水」を知ってるか?上善は水のごとしと訓読する。最高の善を説いた老子の言葉だが、これは最強の心を説いた言葉でもある。
宮本武蔵も五輪書で「水を本として、心を水になす也」と言った。水はどんな器にも合わせて形を変える。そんな心を養えという意味だ。
柔軟に適応しすぐ平常心に戻る。その様子はグルーヴから説明することもできる。ハメ撮りの帝王こと村西とおるは、黒木香にほら貝を吹かせた。脇毛で有名なAV女優といえば若い人にも分かるだろう。
村西氏はセックスの快楽を演奏の乱れで表現したわけだ。どんな演奏にもグルーヴはある。人間は体感のリズムに同期することでリズミカルな運動ができるのである。
ところが快楽があるとうまく体感と同期できなくなり、演奏が乱れてしまう。そこをなんとかうまく演奏しようとするところにエロティシズムがある。
現代的に言えば「ローターつけてお散歩」だ。pixivの「平然」タグもこれに関係する。くやビク(悔しいけどビクンビクン)はもう古い。大和撫子は奥ゆかしく「平然プレイ」だ。
そしてこの快楽ゲージがあがっても平静を装う平然プレイにこそ、形状記憶メンタルの秘密がある。それはフリースタイルラップにしても同じことだ。
なぜラッパーはあのような無駄に攻撃的ともとれるラップバトルをするか?それは戦いのなかでも終止安定したリリックを紡ぎ、安定したライム(韻)を生み出し、
安定したフロウ(歌い方)を展開することを競っているわけである。そんな「動中に静あり」の文化を理解することなくただただ攻撃的なディスり合戦をやったところで何の意味もないのである。
Yahoo知恵袋には、本吉病院長に対する地域の冷たい仕打ちがあったような記事が出てくる。
webには、そのようなものはなかなか出回らない。 とりあえず、ちょっとメモまで。
どうなのかな? 投稿者:一患者 投稿日:2007/02/20(Tue) 19:57 No.106
この頃、本吉病院に行くことに、ちょっと抵抗を感じるようになりました。誤診なのか知識不足なのか、適切な処置をされないで手遅れになるところだった人の話を聞きました。医者も生身の人間ですから、診誤ることもあるかもしれないけれども、私たち一般の人は医者を頼りに病院に行くわけですから、しっかり診察をしてほしいものです。
森町長がこの掲示板を見るかどうか分かりませんが、できたら、もっと医師に研修なり、勉強の機会を与えて、町民の命を預かるというのは、重責かもしれないけれども、でも、本吉町で唯一の病院ですので、高い機械を入れるばかりでなく、それを使いこなす人材や医師を育ててほしいと思います。赤字で大変でしょうが、一考お願いします。
直接、病院事務長や院長に話をすればいいのでしょうが……
あとは、勉強用に。
本吉町国民健康保険病院改革プラン(平成20年12月:本吉町国民健康保険病院)
本吉町国民健康保険病院は、昭和22年8月に旧津谷町国民健康保険組合の直営で一般病床24床の病院として開設された。
翌23年には、法改正により旧津谷町に移管され直営病院となった。
昭和30年3月の町村合併により本吉町国民健康保険病院となり、この年に新病棟が建設され、一般病床52床、伝染病病床12床を有する病院となった。
昭和34年当時の診療科目は、内科、外科、小児科、産婦人科を標榜しており、地域の中核的病院として住民の健康と福祉の増進に大きく貢献してきた。
しかし、その後人口減少などの理由により、病院は多額の累積赤字を抱えるようになったため、昭和47年に病院運営委員会を設置し累積赤字の解消に努めてきた。
その後も逐次規模の縮小が図られ、昭和61年には一般病床38床で、内科、小児科を標榜する現在の病院の規模となった。
昭和47年から取組んできた累積赤字の解消は、一般会計からの繰入金の増額等により平成6年に全て解消することが出来た。
その後は単年度の損失はあるものの繰越利益剰余金により累積赤字は発生していない。
本吉町内には、かつては数軒の医科医院が開業されていたが、医師の高齢化等により廃業し、平成15年以降は診療が行われておらず、本吉病院が町内唯一の一般病院として現在に至っている。
国の医療費抑制策による近年の診療報酬改定は、小規模な病院に与える影響が大きく本吉病院においても診療収入が減少している。
特に平成16年度の診療報酬改定により薬の長期投与が可能となり、患者の通院数が月2 回から月1 回になったため外来患者数が減少したことも診療収入減少の要因の一つとなっている。
現在本吉病院では、常勤医師2名により平日の診療に当たり、土日及び祝日等は東北大学病院より臨時医師を派遣いただき診療に当たっているが、患者数による必要医師数は常勤医師3名となっており、早急に常勤医師3名体制の確立を図る必要がある。・・・
本吉町国民健康保険病院は、一般病床が38床で、診療科目は内科、小児科を標榜しているが、現在は内科医師2名により、実質的には内科単科のみの医療提供を行っている。
外来患者数は、1日平均70~80名で年間約21,000人となっているが年々減少傾向にある。入院患者は1日平均35人で病床利用率は93%となっておりここ数年は横ばいとなっている。
外来、入院診療のほかに、件数は少ないが訪問診療や訪問看護・訪問リハビリ等も行っている。
本吉病院は、町内唯一の一般病院であることから、毎週日曜日は当番医として診療を行っているとともに、救急告示医療機関にはなっていないが、内科に係る初期救急については24時間受け入れを行っている。
また、町の健康福祉課が計画している乳幼児等の各種健診や予防接種のほか、町立の幼稚園・保育所、小学校、中学校の校医も受託している。
さらに、町内企業の産業医を受託しているとともに気仙沼地域産業センター主催の健康相談への協力も行っている。
以上のように、本吉病院が地域において果たしている役割は極めて大きく、本吉町の保健医療の推進を図る上で欠くことのできない重要な医療施設となっている。
本吉病院の正職員数は、医師2名、薬剤師1名、診療放射線技師1名、臨床検査技師1名、理学療法士2名、管理栄養士1名、看護師18名、事務職員5名の計31名、ほかに臨時職員が看護補助員9名を含めて21名で、合計52名となっている。
医師については、本吉病院の患者数による常勤医師必要数は3名で、1名不足となっていることから、当直等を含めた勤務時間が過剰になるなど医師の負担が重くなっており、早急に医師の確保を図る必要がある。
宮城県気仙沼市本吉町の市立本吉病院(38床)が苦境に立たされている。津波で1階が高さ1.7メートルまで浸水した被害に加え、2人の常勤医が辞職するなどして現場を離れたからだ。被災と「常勤医ゼロ」の異常事態が重なる医療現場で、看護師や派遣医師が「住民の身近な病院を守りたい」と奮闘を続けている。
押し寄せた津波に入院患者20人や職員は避難したが、1階の診療室やエックス線室、コンピューター断層撮影(CT)などの医療機器は水に漬かり、損壊した。
3月20日には院長(59)が辞表届けを提出。もう1人の常勤医の40代男性も体調を崩し、ともに現場を離れた。病院関係者は「停電、断水、薬不足の中、外来患者は普段の2~3倍に上り、昼夜働きづめだった。誰も責められない」と語る。
現在の医療活動は、徳洲会病院グループでつくる災害医療協力隊「TMAT」が担う。入院患者は岩手県立千厩病院(一関市)に移送し、24時間態勢で外来診療に当たる。
千葉県から5泊6日の日程でやってきた医師黒岩宙司さん(54)は「避難生活の長期化で風邪や不眠を訴える人が増えている。今こそ協力隊の力を発揮しなければならない」と力を込める。
病院職員は津波によって12人が自宅損壊、2人が家族を失った。自宅が津波で流された薬剤師長の遠藤博文さん(54)は「JR気仙沼線の復旧の見通しが立たず、遠距離通院はできない。ここを守るしかない」と、泊まり込みを続ける。
TMATの支援期間は1カ月程度の見通し。市は復興作業と医師確保という難題を背負った。
看護師長の佐々木美知子さん(44)は「人口1万1000の本吉地区住民にとって、病院はここしかない」と話す。
職務に追われ、2人の子どもと会えたのは震災1週間後だった。「住民の健康を守るため、病院存続のため、みんなで力を合わせたい」。言葉に強い覚悟がにじんだ。(高橋鉄男)
◎常勤医去り職員が結束/宮城県気仙沼市立本吉病院看護師長・佐々木美知子さん(44)
入院患者19人全員を岩手県の病院に移し、人心地ついた朝だった。
3月20日。気仙沼市立本吉病院。
男性院長(59)の姿が消えた。
震災から9日間、泊まり込みで診療を続けていた。部屋に辞職願があった。同じ日にもう1人の常勤医も体調を崩し、現場を離れた。
旧本吉町で唯一の病院は常勤医がいなくなった。
看護師ら31人の職員が残された。被災で派遣された外部の医療団の応援を受けている。4月上旬。
「おばあちゃん、眠れていますか」
2階の一室で外来の患者に話し掛ける。そばで派遣医師が心音を聴いている。
院長は地元が兵庫県で阪神大震災にも遭ったという。耐えられなくなったのだろう。
「責められないよね。私も逃げ出したいぐらいだもの」
津波で1階が水没した。医療機器が壊れ、カルテが流され、ガスと電気と水が止まった。
メモ用紙に「カルテ」と書き込み、急場しのぎの診療記録を作ることから始めた。
入院患者の足元で雑魚寝し、患者のタオルを借りて寒さをしのいだ。医薬品が足りない。患者によっては点滴を半分に減らさざるを得なかった。
病院は存続するのだろうか。常勤医の不在は職員を不安にさせた。
外来患者は1日200人前後。震災前の3倍に増えた。不眠や風邪を訴える。
「病院が地域の人に求められている。病院消滅の不安は消え、存続への使命感に変わった」
4月9、10の両日、地元の住民約100人がモップと雑巾を手にやって来た。自治会長(52)が常勤医不在を知り、「地域の力で病院を守ろう」と清掃を呼び掛けた。
1階の泥をぬぐい取る。職員も一緒に精を出す。
看護師長になって12年になる。2人いる管理職の1人として職員を束ねる。
「みんなと一緒に目の前の患者に向き合うことしかできない」
職員のうち、12人が家を流された。それでもほぼ休みなく働いてくれる。家族を失った看護師も現場復帰した。
家に帰ると、長男(8)と長女(5)に抱き付かれる。「うちはどうして休みがないの」と聞かれる。ほとんど一緒にいられない。夫(42)も市の水道職員で忙しい。
医療団はいずれ去る。
「それまでに常勤の医師を確保し、以前の運営に戻れるかどうか分からない。でも、職員と地域の人は命の拠点を残したいと頑張っている」
心の中でわが子に言い聞かす。
もう少し待って。いい未来を残すから。(高橋鉄男)
東日本大震災の津波で1階が水没した宮城県気仙沼市の市立本吉病院(38床)は、大半の医療機器が流されたうえ、院長ら2人いた常勤医が病院を去るなど苦難に直面した。だが、残った看護師や職員は県外から派遣された医師とともに「被災して苦しんでいる人をわれわれが見捨てるわけにはいかない」と奮闘を続けている。【村松洋、堀江拓哉】
3月11日、2階建ての病院は大きな揺れで停電した。非常用発電機でひと息ついたのもつかの間、約35分後には津波が襲った。1階が水没したが、入院患者19人と看護師長の佐々木美知子さん(44)ら看護師、職員約20人は2階に避難して無事だった。医薬品や布団、非常用食料は2階の一室に運び込んだ。
夜には自治会から発電機を借りて、心電図などの機器をモニターした。それでも院内は真っ暗で、懐中電灯で看護を続け、患者にはレトルト食品など非常食を食べてもらった。
来院者は増えた。不眠やストレスで息苦しさを訴える被災者が多く、通常の約4倍の270人が来院する日もあった。佐々木さんは10日間、自宅にも帰らずに看護を続けた。
17日には県外から3人の医師が応援に入り、19日には入院患者の転院を終えた。だが翌日、院長(59)の姿はなかった。机上に「一身上の都合」を理由にした辞職願があった。
院長は阪神大震災で被災し、東日本大震災では津波にのまれ、病院の燃料タンクにつかまって助かった。管理課長の鈴木幸志さん(59)は「2度も被災され、院長の家族も心配していた。去ったことをとがめるわけにはいかない」と話す。体調を崩したもう一人の常勤医も病院を去った。
残った看護師や職員たちも被災者で、計29人中12人が津波で家を流された。夫や親族を亡くした看護師もいるが、全員がほとんど休まずに勤務を続ける。
4月9、10日には地区の住民ら約100人が1階の汚泥の掃き出しなど掃除をしてくれた。地震から1カ月の11日、1階での診療を再開した。
応援の医師はいずれ県外に戻る。病院は今、市や医師会を通じ、新たな常勤医を求めている。佐々木さんは、常勤医不在で病院の将来を心配しながらもこう話す。「家を流され、私たちより困っている人が大勢いる。そんな人たちを診てあげられるのは私たちしかいない。今できることを毎日続けるだけです」
宮城県気仙沼市本吉地区で唯一の医療機関、市立本吉病院では、震災後に男性医師と院長が相次いで休職・辞職し、残された看護師たちが応援の医師と休まず働き続けている。
「大丈夫? 痛くないかな」。白衣の代わりに白いエプロンをまとう看護師長の佐々木美知子さん(44)が高齢の女性から採血し、優しく語りかけた。
1階天井近くまで達した津波は白衣も医療機器も流した。人口1万1千人の本吉地区から市中央部への道は断絶。佐々木さんらは、薬を求めたり体調不良を訴える市民の応対に追われた。院長(59)は1日に最大で270人の患者を診察した。
応援の医療チームが到着した14日から、50代の男性医師が休職。20日には院長が姿を消した。院長室の荷物にまぎれて辞表が見つかった。「院長がああいう辞め方をしたことを責められない」と佐々木さん。「看護師だけになってもやるしかないと覚悟した」
応援チームは小児科や外科の医師もいて、24時間体制で患者を診られる。皮肉にも、内科だけだった震災前より多くの市民を診察できるようになった。5月までは医師2人のチームが交代で来てくれる。ただ、地元の主治医と呼べる医者がいずれ必要となる。
「ここが地域の中心になって、福祉や介護、生活すべてを守りたい」。佐々木さんは同僚の看護師と肩を寄せ、笑いあう。「早く新しい先生に来てもらえるよう、私たちが頑張らなくちゃ」 (柚木まり)
どうでも良い話だし、誰にあてて書くでもない。
でも、自分一人しか知らないと悲しむ連中が居るので書いておく。
我が家は男ばかり3人兄弟だった。3人も男がいれば、近所でも学校でもそれなりに有名と言うか、
誰からでも「3人もいると将来楽しみですね」って言われる様な感じだった。
親父は自営業なので、「3人で跡を継ぐんだね」云々と言うのは、枕詞みたいなもんだった。
いつの頃からか登校拒否をするようになった。
何やら蛇の様にネチネチしつこい担任に目をつけられて、
毎日の様にいびられる様になったらしい。
教師からのいじめだな。
そこで登校拒否になるわけだが、そんなのは学校だけのせいじゃなくて、
家の責任でもあるので恨み言は書かない。
(まぁ今時の教師にどれだけ覚悟があるか分からないが、教師ってのは人の人生を変えるぐらいの影響力があるって、
どんだけど命かけて教壇に立っているのか、それぐらいは認識して欲しいと思うが。)
その後はお約束のように「不良」というレッテルが貼られお約束の展開になって行った。
俺が中学に行った時にはもう、あいつの弟、って事だけで教師からも
その手のグループからも目を付けられて、そりゃもう肩身の狭い思いをした。
高校中退後の兄貴は、勿論仕事にも就かず、暴走族からその日暮らしのバイト、
金がなくなれば無心、そしてシンナー、と、そんな生活を繰り返していた。
高校を出て東京の大学に入学した俺は、そんな積み木崩しな生活から少し離れられた気がして、
家の状況の事をあまり考えなくなっていた。
大学の間に、兄貴は更正したのか?親父の会社を手伝い始めていた。
それでもまぁ、暴走族時代のまんま、70年代のアメ車を買って来ては改造して乗り回していたらしく、
いわゆるDQN成分は変わっていない感じだったが。。。
俺が帰省すると、「就職なんてしないで一緒に親父の会社手伝えばいいやん」と口癖の様に言っていた。
俺はそんな気は全然なかったんだが。。。
俺はバブル崩壊直後の東京と言う凄まじい環境の中で就職活動をしていた。
携帯だネットだと情報が氾濫している今より氷河期度合いは凄かったと思う。
とにかく思う様に就職が決まらず、焦っていた。
当時発売されたばかりのスーファミのストII大会を夜通し学校でやってそのまま飲み会。
阿呆の様な気晴らし方で毎日をして過ごしていた。
そんで徹夜明けの始発でアパートに帰っていたその日、実家から留守電が入っていた。
「電話して」
母親はいきなり、ごめんね、ごめんねと言い出した。
俺は兄貴が死んだ事を告げられた。
?
意味が分からなかった。
死んだって?
調子に乗って乗り回していた70年代のアメ車。それが老朽化していて、排気ガスが漏れ、
一酸化炭素中毒で死んでしまった。。。そんなバカみたいな死に方だった。
夏休みですぐに飛行機も手配出来ず、翌々日、家に帰り着いたのは通夜の最中だった。
客間が、なんか真っ白な布で張り巡らされていて、見た事ない人たちが走り回っていて、
その部屋の奥の方に祭壇があり、兄貴が眠っていた。
その日はそのまま明け方までそこにいた。
途中、ウトウトした時に、兄貴に呼ばれた。そんな気がして目が覚めた時もあった。
そっから葬式までほとんど覚えていない。
嫌なくらいに暑かった事と、直前に控えていた第一志望の就職先の試験の事だけを考えて、
ここで崩れてたまるかと、唇を血が出る位に噛み締めていた記憶だけはある。
長男は何時までも号泣していた。俺も泣きたかったが、負けてたまるかと、そんな事ばかり考えていた。
ここで見事就職決まれば美談だが、そうはいかない。物語の主人公の様にはいかなかった。
結局、その年の就職には失敗し、就職留年をした俺は1年遅れで地元の小さな会社にようやく就職し働き始めた。
長男はフリーターだった。当時はそんな呼び方もなかったが、バブル景気の
その真っ只中にいながら就職出来ず、フラフラした生活を余儀なくされていた。
実は長男はてんかんを患っていた。クスリで抑えながら、発症しないように、そんな生活を送っていた。
何年間か、発作が起きなければ完治。もし起きてしまえば治療のやり直し。
高校受験大学受験に失敗した長男からすると、高校、大学と順調に進学し、
留年しながらも就職した俺に対してコンプレックスがあったようだ。
実のところ、あまり仲は良くなかった。
というか、俺もどこか毛嫌いしている節があった。
そんな長男が、てんかんの症状も出なくなって、働ける様な体調になった、
遅ればせながら就職をし、「社会人」となり、次男の死以降、それまで落ち着かなかった
俺の家も、なんとなく落ち着き始めていた。
だけど、次男の事故から3年後。
また7月。
ひきこもり状態になっていた長男に対し、情けない奴、とぐらいにしか思っていなかった俺。
親は心配していた。手首に、今でいうリスカのあとがあったらしい。
あいつにそんな度胸はないっしょ、程度に考えていた俺。
ある日の夕方、俺を呼ぶ叫び声の様な親父と母親の声。
慌てて駆け付けた俺が見たのは、首を吊って自殺を図った兄貴の姿だった。
救急車を呼び、意識不明の兄貴と一緒に乗り込み、親より先に病院へ向かう俺。
訳も分からず、スローモーションの様に救急車のカーテンの隙間から見える流れる外の景色を見ていた。
親が来るまで、どれぐらいだったんだろうか、何時間にも感じた。
どうすればよいか分からず、入院の準備の為に看護婦が質問する事にも、
1人だけ取り残された待ち時間の間に一度だけICUに通された。
その時はまだ、長男の顔は人間の顔をしていた。なにか寂しそうに、
半分開いた目が宙を見ていた。
その顔に、何とかなるんじゃないかと、と言うか死ぬとかなんだとか、
そんな事は考えてもいなかった俺。
こんな時は泣けばいいのかなぁとか、漠然と考えていた。
何時間か経った明け方、親父母親揃って、俺達はICUの中に呼ばれた。
その中で見た長男の顔は、さっき1人で見た時の、まだ人間の顔をしていた長男の顔ではなかった。
どす黒く変色して、もう人間の顔ではなかった。
それを見た瞬間に、俺は悟った。
あ、もうダメなんだ。。。
医者からこれ以上の延命をしても回復する見込みがない事を告げられた。
その顔の変貌振りに、悟ってしまった俺は両親に告げた。
もういいよ、もういいよね?
何がいいだろう?何がよかったのだろう?この自分で発した言葉は、
今でも俺を苦しめるときがある。
そこからはテレビドラマを見ている様に、心音?が途切れ途切れになり…
そしてピーーーと言う音。
その瞬間、母親が泣き崩れた。
残されたこの子(俺の事)が可哀想すぎる!
泣き崩れても最初に出た言葉は他の誰でもない、俺に対する言葉だった。
今なら何となく分かる。俺は両親から愛されてると言うことが。
だけど、当時の俺は、もう自分の事だけで精一杯だった。
警察が来て、事情を聴かれ、遺書を探し。。。結局原因は分からなかった。
で、2人の兄貴の死を経験し、これで何か目覚めれば美談なんだが、
さっきも書いたけど俺はもう自分の事だけで精一杯だった。
もうそんな事に頭の中を占領されていた。
2人から取り残された思いがして、その不安に押しつぶされそうになり・・・
いわゆる鬱状態だった。
自分の事しか考えられない俺は、また、実家を離れて東京に戻って職を探そうかとも思った。
とにかく、ここから逃げ出したかった。その事を、ふと母親の前でつぶやくと、母親はその場で泣き出した。
親父からは、今はそんな事を言うなと怒られた。
それからもう、13年。次男の死からは20年近く。
立ち直れたかどうかは分からないが、いつの間にか、普段どおりの生活になり、
普通に生活し・・・そんな日々を過ごし、俺は結婚して3人の子供にも恵まれた。
また、夏が来る。7月が。この季節は、毎年なんか鬱になる。
どうして俺だけが生き残ったのか、そればかりを考えてしまう。
救急車の音、嫌なくらい暑い日に汗が出てスーツやシャツが肌にまとわりつく感覚。
とにかく一瞬意識が飛びそうになる。
もしも兄貴たちが生きていて、そして結婚し子供を作っていたのなら、その家族に語り継いで行ったであろう
俺達兄弟の話は、残念ながら、俺しか知らない話になてしまった。
だから俺は良く子供達に言う。
「真ん中のお兄ちゃんは喧嘩がものすごく強かったんだぞ!」
「一番上のお兄ちゃんは、ピアノとギターが得意だったんだぞ!」
俺たち兄弟の話は、親が死んで俺が死んだらもうそれで終わりだ。
だから、少しでもあいつらがどんな人間だったかを残したいんだ。
で、何にも教訓めいた事もなく悟りを開いた訳でもなく、
今もフラフラ右に左に迷い、突っかかり引っかかりながら俺は生きてる。
決して順風満帆でもなく清く正しくも生きていない。
だけど、やっぱり人間は生きている事が一番の幸せだとだけは思うようになった。
当たり前の様に明日を迎える事ができるのが、最高の幸せだと思う。
そして、自分を幸せにできるのは、やっぱり自分しかいないんだと思う。
どんなに人から施されようが愛されようが、自分を幸せに出来るのは、
自分が幸せだと思える、自分自身の気持ち以外にないと思うんだ。
お前らの中に、もし今の自分の置かれた環境に憤りを感じ、絶望を感じているヤツがいるなら、
死ぬ幸せを選んだ長男の顔は、俺には悲しい顔にしか見えなかったんだ。
誰の為でもなく、自分の為に。
しかし、結婚する前から、高齢なので子供は期待しないで欲しいとは言っておいた。
相手はバツイチで自分の血を受け継いだ子供(元妻が親権を取り、相手も再婚もしているため子供との交渉はない)も一応いるし、夫の兄弟も結婚して子供がいるから、夫からも義理両親からもそういうプレッシャーはなく、そういう意味では大変ありがたかった。
自分の方の両親は、私自身がこの歳でしか結婚出来なかったんだから、子供が出来なくてもしょうがないよねと言ってくれていた。
妊娠チェッカーで陽性、産婦人科で一応子宮内に受精卵が着床しているのを確認。
つわりがまったくなく、実感はまったくわかなかったけど、これは胎児が成長してきて心音でも確認出来たらそれなりに実感がわいてくるだろうと別に気にしていなかった。
不要不急の予定を全部取りやめ、仕事は無理なく続けつつ、しかし放射線関係の業務からはずしてもらうため上司に知られる事となり、安定期まで内緒にしたかったなとか思っていた。
8週で稽留流産を宣告され、処置をしてきた。
実感がわかないまま、妊娠したという事実だけで終わってしまった。
微妙にショックだけど、受精卵のままで終わったのはある意味良かったのだろう。胎児になって実感がわいてからではショックは大きかったに違いない。
実感が伴わないまま微妙に行動が束縛され、これが数年以上続くのだろうな、なんとか慣れなければと思っていたらいきなり枷をはずされたような気分。
もう一つ、年齢的に軽く命がけ(高齢初産というだけでハイリスク出産だし)なので、もし万が一自分に何かあったらという覚悟をしないと、と思ってたのもなくなって、ちょっと気が抜けた。
これが最初で最後なのかもしれないけど、もし次に妊娠したらもうちょっと早く覚悟が出来るだろうと思う。
今回の件で初めて知った事。
・流産経験者はかなり多い。業務上仕方なく何人かの女性に伝える事となったが「大変ね、実は私も…」と言われることは結構多かった。
・夫はある意味当事者ではあるが、何も出来ないというジレンマがかなり大きいという事を実感。早め早めに一緒に事態の把握をしておいてもらうことが重要。
・イソゾールに鎮痛効果がない事を体で実感。ペンタジン1/2Aでもいいから併用して欲しかった…痛かったよ、マジで。(元麻酔医)
恋愛関係に持ち込む前に告白するな→おおむね賛成
これってデートに誘う前に告白するなって意味であってる?だったら賛成。そりゃそうだ。いい年してデートにも誘われず告白されたら驚く。
まさにこれのことを指しているんだと思うよ。
外堀を埋めずに大ジャンプを試みて、水を張ったお堀に落っこちる非モテさんの、なんと多いことか。
1回やった後に、「私のこと好き?」「付き合おうか?」
これは「そういうことさえ時々あるんだから」という例示なので、おまいさんの心配には及ばないんじゃないかねぇ。こういう人たちだって、事に及ぶ前には心音とか顔から発せられる遠赤外線とかで相互に通信しあっていると思うよ。
それに終わってから、ちゃんと「私のこと好き?」「付き合おうか?」と話しあっているし。セフレだとこの会話を互いに避けるんだよね。
妊娠2週目・・・?
受精した日を妊娠2週0日とするわけで、で妊娠2週目なんかでは妊娠検査薬もまだ反応しないはずで、子宮外妊娠じゃないと分かる(=胎のう確認)のが大体妊娠6週くらいで、「妊娠おめでとうございます。母子手帳貰ってきてください。」って言われる(=心音確認)のはもっと先で、・・・ってことを考えると、その友人の発言が謎すぎる。
妊娠の確認できてないじゃん。万が一妊娠検査薬が反応したのだとしても子宮外妊娠じゃないことも確認できる段階じゃないし。
http://anond.hatelabo.jp/20090927101522
いったい何に反論したいんだか、わからないんだけど。
子育てのやり方が違うってところまで踏み込みたい? 親から離すと泣くから負担って、どんだけお嬢さんなんだ。泣きわめくのを保育園に預けて働くのは鬼畜かい。とかって、反論待ってる?
元増田の状況でわかってるのは「彼女に子供が出来た」ってことだけなんだから、想像でああだこうだと深くまで踏み込んでも、あんまり意味ないと思うんだけど。
200909271338追記。
http://anond.hatelabo.jp/20090927103202
http://anond.hatelabo.jp/20090927104412
解説ありがとう。「子育てなめんな」にカッとした。確かにナメてたな。ごめん。元増田の幸せを願うよ。
200909281944追記。
http://anond.hatelabo.jp/20090927104412
そう言えば、なんで私は出産までは子供第一でと考えていたのか理由を思い出したので書いておくね。
実は自分が子供を産むとき、隣室の人は9カ月目に胎内で赤ん坊が死亡していた人だった。9カ月1週目までなんともなくて、2週目の検診にきたときはもう赤ん坊の心音が聞こえなかったのだそうだ。胎内でダメになるケースはたいがい遺伝的に生き延びられない要素があって自然死してしまうのだそうだけど、そんなこと言われたってお腹に子供を抱えている母親はそうそう簡単には受け入れられないよね。隣室の人は私が分娩した3日目に入院してきた。もう、そこまで大きくなっていると普通の分娩と同じように出したほうが母体の負担が軽いのだそうで死産とわかっているのに産んだわけだ。私が退院した4日後まで朝も昼も夜も母親の泣き声は絶えなかった。「何がいけなかったんだろう。ごめんね」って声も聞こえた。
というわけで、子供を産むまでは、子供のこと第一のほうがいいと思ったんだ。結婚式の準備をしてて死産したりしたら、きっと、結婚式がいけないんだって気持ちになっちゃうだろうから。
取引先からややセクハラみたいなのを受けてて、手をずーっと握られたり足なでられる程度
だったんだけど、この間上司に軽く相談したらもう関わらなくても良いようにしてくれた。
(そもそもどこから私の携帯のアドをしったのだ?)
「実は、私は若い女性の方の心臓の鼓動の音を聞くのがすきなのです。
心音というのは様々な違いによって一人ひとり変化しており
血管の弾力性や心筋の、しなやかさ、から、若い女性の心音が美しい音なんです。」
自分が、いかにそれが好きかいかにあなたのを聞きたかったか綴ってあった。
それが誤解を招くことに気づき、私に謝りたいらしい。
携帯メールなのにスクロールのいる超長い文面の最後にはこうあった。
「ただ、あなたには、若い女性は特に心音というのはきれいな音なんだよということを
理解しておいていただくだけで結構です。」
なぜに上から目線(゜Д゜)??
ただのセクハラ親父であって欲しかった。。。
心臓フェチだっただなんて。まぁ、ペドとかよりましなのかもしれないけど。
なんて返事送ろう…