はてなキーワード: 霊界とは
淘汰というものがあらゆる状況に存在する「時空」において、個々の知性の存続においても淘汰というものが機能していることを前提とするのが自然だろう。つまり、前項にて示した「相互補完」への帰結も永続的な存在を視野とした知性間における淘汰の結果とも言える。つまり、「相互補完」による均衡状態の維持こそが、「時空」に存在しうるあらゆる脅威から、知性が自らを護るために不可欠ということだ。そしてこれは限定知性にも当てはまる。ただし、「相互補完」による均衡状態は、「大いなる良」という恒久的な時空間軸の観点から初めて示され得るものであるため、限定知性にとって、自らの境遇がそれに到達するうえで如何なる状態にあるかを見極めるのは困難だ。むしろ限定的時空間の視点において「良」とされる状態が、該当する限定知性にとって最終的に「大いなる良」へと移行出来得る可能性を高める境遇であるとも限らない。つまり、限定的空間における「良」は必ずしも知性における「良」であると定めらるわけではないのだ。そこが、限定知性が自らの行動規範を明確にすることを困難とする。一方、時空間的制限から解放された存在である知性にとっても、限定知性が持つ、特定の時空間に対する「主観的な視点」ならびにそこから得られた知見は、自らの知性を補完するうえで重要なものになる。状況を単に理解すること(即ち「知」の蓄積)と、主体的な立場でそれを体験すること(「経験」の知性への統合)には大いなる差があるからだ。つまり、知性は限定知性がいずれ、その物理的空間から解放され「大いなる良」を達成するためにその他の知性と均衡関係を築き上げることを望んでいると仮定することが妥当だろう。
(結局、この世は競争社会で、だれもが直面しなくちゃいけないものだよね。たぶんそれは、意識をもっているあらゆる存在がそうなんだろうな。とういことで、皆でハッピーになるために、互いに愛し合うっていうのはある意味、生存本能がもたらしたもんなんじゃないかな。ただこれはあくまでも、この世の時間とか制約を超えたセカイを前提とした意味だよね。でも人の世では、それは分かりにくいよね。この世の金持ちや名誉を得た人が天国(極楽浄土?)にいくとも限らないし。ただ、もし人よりも高等な存在がいて、それが時間とかを超えた文明をつくっているのなら、結局、この世界に介入するだろうね。どんな些細な人生でもその体験は、重要ということさ。)
知性は限定知性の限界である時空間からの解放に意義があるという前提で介入する。それは「大いなる良」に向けた相互依存のために不可欠であり、巨大な淘汰という環境において知性自体の存続を維持、反映させるうえでも不可欠であるからだ。一方、限定知性は、自身の物理的個が崩壊すると同時に自らの知性も損失してしまうことが限定された環境下における最大の障害となる。従って、限定知性もこの時空間的制限という限定条件を突破し更に存続できるかはその存在自体にとって文字通り「死活問題」ということが出来る。だが、知性自体が、その存続の最大の条件を「大いなる良」に向けて相互補完であるということしているのであれば、限定知性もその思想及び行動の範疇をそれに準じなければならない。
実際にそこは矛盾に満ちた境界でもある。つまり、限定知性は時空間を極めて限定された中で自己を認識しなければならないのも関わらず、時空間から解放されている条件下の相互補完を
持続的に実現しなければらないからだ。
(時間や空間を飛び越えた神やら仏やらがこの世に介入するときっていうのは結局、みんながハッピーになるため。神やら仏やらがいる天国やら涅槃、霊界やら地獄やらっていうのも
結局は超巨大な競争社会。自然界の弱肉強食なんだろうね。結局、神やら仏やらもすべての生きる人を必要としてるんだよ。人とかも結局、死からは免れない。でもそれをするには
みんなが永遠にハッピーになるために頑張らなきゃ。でもこの頑張るっていうのが、この世だけの見え方ではなくて、神やら仏やらの視点で頑張るっていうのが大変なんだよ。)
知性にとって、あらゆる限定知性の価値は、「大いなる良」に向けて相互補完を実現する名のもとに等価である。ということは、限定知性の思想や行動規範もそれに準じなければならない。知性にとってあらゆる「知」を「経験」として再構成するにはすべての限定知性が不可欠である。一方、限定知性にとっても時空間的制限や制約並びに障害に囚われる事なく
全ての限定知性を等価にとらえ相互の関係性においてその思想と行動規範を維持することが求められる。
(神や仏にとって、どんな人も大好きなんだろうね。そんなことを考えているからハッピーになれる。 幸せに生きるためには、人の経験がどんなものであれ、それらを一つに
して団結することで強くなるわけだから。ということは、どんな人でも人種がちがったり、ちょっと考えていることが違ったり、美人もデブも不細工も、イケメンも、学校の
多分世間的には「妖怪ウォッチ」というと「よーでるよーでる」のイメージしかないから、今一度このゲームを説明する。
もうおわかりだろうが妖怪をポケモン、妖怪ウォッチをスマホに置き換えればほぼこれはPokemon GOである。
そもそもポケットモンスターはポケモンを捕まえて集めることよりもポケモンを戦わせることに主軸を置いたゲームなので、
妖怪メダルを集めることがプレイヤーにとって最大の目的である妖怪ウォッチのほうが、
ポケモンを探し出して集める位置ゲーのPokemon GOに近い存在だといえよう。
なにも任天堂がの妖怪ウォッチをパクったというようなあほなこといいたいわけじゃない。
妖怪ウォッチはその舞台を、主人公つまりプレイヤーが普段暮らす現実世界と、ゲームキャラである妖怪たちが暮らす世界を、
同一空間としながらもその階層を分け隔てていることを大きな特徴にしている。
主人公は妖怪世界という物理的障害に囚われない空間と通信できる。これを利用してプレイヤーができることや、行動範囲をどんどん広げていくことが妖怪ウォッチの面白みであった。
そんな妖怪ウォッチのシステムはVRにとても似てはいないだろうか。
現実世界にないものを端末を用いて投影し、拡張していくVRは、虚構を現実世界に付加するものであって、
妖怪という超現実を発見するという妖怪ウォッチのコンセプトとは逆にも見えるが、根底では驚くほどに似ている。
そもそも霊界というような超常現象とバーチャル空間の類似性は昔からいわれてきたことではある。例えばリングシリーズなど。
世の中には幽霊となった人が恋人の危機を救うだとか素敵なメッセージを残していくだとかそういった話も多々あるようなので
そういう存在もいてもいいかなくらいには思うのだが、そういう世界の扉を開けたことは一度もない。
そういうものを見た、何かが写っていた、気持ち悪かった、などという話に聞くたびにいわゆる『霊界』『死後の世界』『あの世』などと呼ばれるものに疑問を挟んでしまいうまく信じることができない。
『死』を受け入れられないというわけではない。
私が死んでも世界は変わらんと思っている。私という存在が消え去るだけだ。
死んだという報せを聞けば何人か悲喜こもごもあるだろうが、それこそ49日ほど過ぎれば死んだことすらどこかへ行く。
たまに思い出されて、「ああいたなあそんなやつ」。そんな人たちもいなくなれば、完全に消滅だ。そういうもんだと思っている。
だからこそ確認したいのだ。本当に死の向こうに、霊体だけが暮らす新世界があるのだろうか?
あらかじめ書きたいが、別にかの世界や特定の宗教等を否定したいわけではない。
○○は××だからwwwwwはい論破wwwwwww などとやる気は一切ない。むしろ逆だ。可能であれば完全に存在を証明されて論破されたい。
これを見て、こういったモノに詳しい誰かが非の打ちどころのないコメントを残してくれるのを見たい。それを心待ちにしている。
(1)心霊写真ってどう思う?
昔々はちょっとしたブームになり、織田無道だとか宜保愛子だとかが毎週のようにTV番組に出てきていたこともあった。
今は「おわかりいただけただろうか」か。流行の強弱はあれ、ずっと続いている心霊写真ブーム。
ところで、あの手の番組に出てくる写真や動画、構図や被写体って似すぎてやしないだろうか。
人間の体は頭、胴体、両手両足、股間まわりと大まかに言ってもこれだけパーツがあるが、
心霊写真って、ぼやっと全身が写っているか部分的なものは頭と手ばかり写っているように思う。
「顔と手には思念が残りやすい」などという話を聞いたりもしたが、それならケツや乳に思念が残ったっていいじゃないかと思う。
短小をバカにされて自殺した童貞男の幽霊がいて、夜な夜な女の宿泊客の顔にBUKKAKEてくる……とかさ。逆にデスペニスでもいいよ。
もうひとつ言うと、人間が霊体を認知するのって圧倒的に視覚じゃないかと思う。
音は幽霊の描写としてよく使われる手段ではあるけども、この音がするから幽霊だというのはイマイチ証拠に欠ける。
においというのはある種個性として認知されるものだが、『この建物はなんだか幽霊くさいぞ』とは聞いたことがない。なんせチョコボっぽいし。
いわゆる『向こうの世界』からくるものが圧倒的に人間ばかりだと思う。人間すぎる。
旧日本軍の兵隊や髪の長い細身の女性の幽霊の話はごまんと聞くが、ヒグマやサメの幽霊が暴れて人が死んだという怪談話を稲川淳二がしたことがあるだろうか。
霊はこの世に未練があってなんちゃらかんちゃらと言うなら、人間さまのご都合で殺されまくった動物の悪霊なんてアホほどいそうなもんである。
忠犬ハチ公の幽霊はご主人が帰るまで待ち続けたのだろうか?そんな話も一切知らない。
地獄という場所も圧倒的に(宗教的に)悪いことをした『人間』を懲らしめることに特化した施設のように思う。
今どきはペットだって洗礼を受けるし、葬儀だって開くわけだろう?
『動物には動物の天国や地獄がある』と主張する人もいるようだが、その世界観が取り上げられたものはほぼないように思う。
どうすれば天国でどうすれば地獄か、どうすればより高次の生き物に輪廻転生できるか、などという判断も人間さま向けの基準だ。
吸血や捕食を生業とする生き物に転生したら、殺したり奪ったりしないと生きられんわけで。
そんな生き物に転生させといて殺すな奪うなと言ってもじゃあどうすりゃいいんだよ……ってなもんじゃないか?
(2)ともちょっとリンクする部分があるが、見出しのままだ。あの世でパンは焼けるだろうか?酒が作れるか?と言ってもいい。
例えばパン職人ひとすじでこの世を去った人がいたとしたら、天国でボサッと呆けてるとは思えない。そりゃ、いっちょ自慢のパンでも焼くかと思い立つだろう。
逆にパン職人だったお父さんを見送った遺族だって、「お父さんはきっと天国でもおいしいパンを焼いてるよ……」とか言うだろう?
お父さんの生き生き天国ライフをかなえるには穀物と菌の存在が必要である。まあいい。生きたものがあの世には行かれないだろうから生きてはいないはず。
つまるところ、『植物や菌類の幽霊』なるものが存在するかどうかだ。
存在するとして。
パンを作るためには穀物をすり潰して粉にしたものをアレコレしたあと菌によって発酵させて、焼くという工程が必要だ。
工程の最中、穀物は当然として菌も死ぬよね。焼かれるわけだし。だとして、幽霊が死んだらどこへ行くんだ??
すぐに生き返って元に戻る、だとしたら最悪だ。イースト菌の霊からしたらなんべんも焼かれては生き返ってまた焼かれるわけだ。
ダンテの神曲に出てきた地獄の図とまったく同じことが天国にいながら天国に行ったパン職人によって引き起こされる。鬼かオヤジ。
さらに死んだ者用のナニガシが存在するとなると、それは無間地獄である。天国にいながら地獄という図は変わらないのではないか。
存在しないとして。
パンはどうしたら作れるだろうか?
墓参りの時に、生前好きだったものを供える習慣がある。寺の坊主に言わせると、お供え物の霊的なナニガシだけを受け取るのだとかなんとか。
これを使えばイケそうな気もするが、毎日墓前に小麦粉とイーストパウダーをお供えする遺族なんて存在しないだろう。なんせ傍から見てどう考えてもおかしい。
せいぜい跡継ぎ息子が焼いたパンをお父さんもぜひ試食してくれ旨いだろうと供えられる程度である。
お父さんも天国でパンを焼きたいのだが、このままではこの世に未練が残ってしまいお父さんが化けて出てしまう。
焼くことが可能だとして、パンはどうなるのだろう?幽霊はパンを食うだろうか?
死んでるんだから食わないというのなら、飢えに苛まれる地獄というのはよくわからない存在になりそうだ。
それに、そう、お供え物だ。我々が良かれと思って供える故人の好物や茶などは、実はありがた迷惑ということに……。それは悲しすぎる。
かと言って普通に食べるということにしてしまうとそれはそれで大変だ。これまでン万年の間に死んだ人間はそれこそ星の数ほどいるわけで。
食い物が、足りなさすぎる。
今回ぼくが感想文を書くのに選んだのは、小学舘ビックコミックスぺリオールで大好評連載中の天国ニョーボ第1巻絶賛発売中です。
この作品の内容は大きく2つに分かれており、亡くなったニョーボが霊界から量子トンネルを抜けて出てダンナと主観的に邂逅を果たすパートと、闘病時の経過を描写するパートとがある。以下は後者について。
作者の須賀原洋行は近藤誠信者だったが、ニョーボに癌がみつかってしまい、どうにか治療の道を模索し始めた。
ただ近藤誠に植え付けられた標準医療に対する不信が根底にあるので、自分で集めた情報を元に治療方針を考えていく。
当然情報源は○○で癌は治るみたいな糞本だったり、ネットに投棄されている新しい治療法に関する断片的な糞記事だったりするので、そのことごとくを主治医に却下されてしまう。
最終的には標準医療に基づく治療計画を承服はしたのだが、実はまったく納得出来ていないのだった。
作者にはニョーボを亡くした今も、他にニョーボを助ける道はあったのではないか、ニョーボがもっと楽に過ごせる選択肢があったのではないかと、当時の経過に対する疑念が残っていると思いました。
それと亡くした事実を受け入れられない否認とが合わさって、直視しがたい痛々しさと歪みを作品にもたらしており、ぼく達の心を揺り動かしているんだと思いました。
あるいは、これは作者がニョーボの喪失を受け入れ昇華するための、イニシエーションなのかもしれないと思いました。
また、この作品は近藤誠さんの多大な貢献があって成り立っており、その近藤誠さんをここまで押し上げた出版社や書店は本当に社会の役に立っているんだなあと思いました。とくに小学舘は、近藤誠さんを漫画化したり、かびんのつまの夫に仕事を回しているので、すごく偉いなあと思いました。小学舘は青年漫画界の女王様だ。
ぼくにはとてもできない。
■本文。
朝のワイドショーで[社会的ひきこもり]を特集するようになるとは、世の中、つくづくアレなんだなあ、と思う今日このごろですが、今月のお題は『ONE』です。本当は最終回まで取っておこうと思っていたのだけど、小倉さんとデーブ・スペクターと斉藤環が同じ画面に映っているのを見たら、辛抱たまらなくなったのですよ。しかし、『二時のホント』が終わったのは、ワイドショーマニアの筆者には痛い……。
―――さて、『ONE』をプレイして強く感じたのは、母性と父性の欠損に対して、援護射撃に頼らない直球勝負を挑んでいることだろう。ただ、同じ主題を扱っていても、手慣れたテキストの『Kanon』に比べると、まだ手探りの部分が多く、比喩などにあからさまな引用も多い。だから、必ずしも褒められたものではないのだが、BGMと画面演出の組み合わせを効果的に使う[音の魔法]に頼っていない分、言霊の比重が高くなっている印象を受けた。
重要なポイントは、この作品で描かれる世界には、超えるべき父性は最初から存在しないことだろう。同時にそれは、学習することもできないということでもある。[他者]は、主に母性を巡るものとして描かれているが、主人公である浩平の母親は、カルト系の新興宗教に盲従した結果、母親であることを放棄している。そして、浩平は、他人との関係性を肉親から学習しないまま=子供のままで妹に対し、父の代わりを演じたが、妹の死により、父性の獲得=男性としての自立にも失敗してしまう。そのため、主人公は二重の意味で心理的欠損を抱えているのだ。
更に、母親が発狂し、ウロボロス的な母性を発動させてしまった際に、母親を拒否している浩平は、壊れた母性に対する嫌悪感を潜在的に抱き続けている。由起子おばさんが、一度も浩平の視界には現れないことや、長森シナリオでトゥルーエンドに辿り着くためには、長森を嫌悪し続けなければならないことの理由でもある。いわば、母性と父性の欠損を巡る内面の問題こそが、『ONE』という物語の核になっている。また、宗教によって母親が発狂し、浩平の前から姿を消すシーンは、『ONE』の前作にあたる『MOON』の主題を継承しているとも言えるだろう。
だから、この作品の基本構造は、どのシナリオもアプローチの違いこそあれ、本質的には同じだ。他者との距離感を知らないまま成長していくことに、情緒的な病による死を予感した浩平自身の本能が、自然死を避けるために、偶然を装った出会いを起こし、浩平に欠損した部分を取り戻させようとしたことが、物語の動機になっている。そして、浩平自身の本能は、ゲームの作り手であり、浩平はプレイヤー自身である。
だからこそ、浩平の鏡像となる女の子たちは、それぞれが身体的なハンディキャップや心理的外傷を持つ者ばかりが選ばれたのだろう。同情という媒介を用いなければ、出会いという動機を持つことができないほどに、浩平の病状は悪化していたし、宝探しを始めるには、同じ宝を共有できる相棒が必要だったのだ。
本能の企てに乗せられた浩平は、達成されなかった父性の確立に再度挑戦する。ところが、達成寸前に壁が現れる。それが[えいえんのせかい]という、癒しの象徴でもある異界への願望だ。もっとも、異界が具体的に描かれることはない。まあ、具体的に描いたら、山上たつひこの『鬼面帝国』か、出口王仁三郎の『霊界物語』みたいになってしまうような気もするが(笑)。
―――いや、最初から浩平は異界に取り込まれていたのだろう。つまり、浩平が抱いていた、思春期独特の中途半端な世界認識が、そのまま、異界への潜在的な願望として、妄執のように内在していた。それが、絆の発生で、完全な鏡となった女の子を介して照らし出されたのだ。つまり、中途半端に終わった目的を今度こそ達成しようという意志(現在)と、中途半端のままで反復しようとしている記憶(過去)が衝突したことで、[えいえんのせかい]という、思考停止状態に陥ったのだろう。
さて、プレイヤーとしての浩平が一度、舞台から退場することで、今度は、選ばれた女の子が自身の母性=主題を自覚することになる。そして、父性と母性が相互補完的に成立することで、浩平は再び舞台に戻ることができる。つまり、互いを鏡像=他者と認識することによって、欠損を補填した訳だ。この構造自体はありふれたものだが、ありふれたものであるがゆえに、強い言霊を生み出すことができる。そして、この作品で特筆すべきことは、美少女ゲームで描かれる世界が失われたロマンティックであり、実際にはあり得ない世界だということを巧妙に描いていることだ。
何故なら、『ONE』の登場人物たちの多くは、自分たちの生きている世界に対し、無自覚な肯定をしない。強い否定もしない。約束された楽園が既に失われてしまっているということを、登場人物自身が自覚しているように見える。プレイヤーもまた、物語を介し、その完結に立ち会うことによって、楽園が失われたことを知りながら、ゲーム内の楽園に耽溺するという、二律背反的な認識を持つことになる。
例えば、『ToHeart』が、ゲーム内ではいったん完結しながら、アニメ化(メディアミックス)にあたって物語世界を再構築した際に、約束された楽園=主題を持たない真空状態を維持すること……終わらない物語であり続けることを選択し、ユーザーの楽園願望を全面的に肯定したことで、現在でも現役の商品として、人気を保っているのに対し、『ONE』の場合は、主題を巡る部分が『Kanon』と『鈴がうたう日』という二つの作品に分岐&移行してしまったことで、作品と商品の両面で、既に幕を閉じているのだ。
この辺の違いについて、最も分かりやすいのは、やはり、長森シナリオであろう。『ToHeart』のあかりシナリオに対するメタ的な構造を持っているからなのだが、筆者も鈍いので、気づくまでに何度かキレそうになったのは余談だ(苦笑)。
もっとも、『ONE』以降、恋愛描写を重視した[泣き系]の作品が氾濫したことで、相対的に主題の空洞化と、[お約束]としての普遍化が起こっているのは否めないが、この作品自体は、非日常と日常や、万能感と無力感の間で葛藤する思春期独特の世界認識と通過儀礼を描いた作品として評価できるだろう。
更に言えば、本来は『WhiteAlbum』や『デアボリカ』のような、ユーザーの価値観を揺さぶるタイプの物語が担っていた役割を、『ONE』の成功で、思考停止による癒しを主目的とするタイプの物語でも担えることを証明したのだ。
物語とは、社会と個人を繋ぐ媒介だと思う。いつの時代も、その本質は変わらないが、物語を伝達する手段は、時代の変化と共に変わっていくものだと、筆者は考えている。美少女ゲームを媒介として、社会と繋がり、社会を学習していくという構図も存在できると思うし、一見、楽園を肯定するような表現に重層的な含みを持たせることで、現実社会との距離感を認識させる手法の確立を、本格的に模索する時期に入っているのではないだろうか?
■あと一回のお知らせと総括。
ホームページでは既に告知済みだったのですが、本コラムは次号で最終回となります。次回は連載総括という形で、これから発売される作品について触れたいと思っていますので、作品ごとの論評としては、今回が最後です。
降板の理由は、今年に入り、筆者の健康状態が悪化して、月刊ペースでの連載が難しくなってしまったからです。無理に書いて、自己模倣に陥ってしまっては意味がありませんし……。
―――そういう訳で、読者とメーカーの方々には、一年と少々、筆者の回りくどい文章に付き合っていただき、本当にありがとうございました。連載はあと一回ありますが、この場を借りて御礼申し上げます。
2034年、小保方晴子がチベットのラサ市で全世界に向けて会見を開いた。
曰く、「”STAP細胞”が完成した」という。
その実否はすぐに証明され、多くの難病を抱える人々を救済したばかりか、
驚くべきことに体毛などさえあれば死者を任意の段階で復活させることも可能であった。
実は小保方が”STAP細胞”と評したものは元来のSTAP細胞とは全く異なるおぞましいもので、
小保方はもともと比較的得意だった細胞学と死霊術とのチャンポンで死者をも蘇らせる万能細胞を精製していたのだった。
これにより多くの偉人が復活した。
アドルフヒットラー、スターリン、ケネディ、サッチャー、金正日などの著名な政治家に加え、
ウィトゲンシュタイン、ガウス、ノイマン、ピカソ、つのはず壱郎らの優れた科学者・芸術家が復活した。
危険な人物が復活した際は、初めは対立する勢力に殺害される場合があったが、すぐにそれは止んだ。
ヒットラーなどは公式記録においては109回復活し88回殺害されているものの、現在も10数名が同時に存在している。
そしてこの新技術が浸透するにつれ、人々の関心はもっと身近なところに向いた。
大切な家族や恋人を復活させることを望んだのだ。そして、自分が死んでも復活できるよう手配したのも言うまでもない。
インターネットが人口に素早く膾炙して行ったのと同じく、この技術もほどなく庶民が一般に享受できるものになった。
時の流れが変わった。
人類が有史以前から様々にアプローチしてきたテーマが、意味をなさなくなった。
科学や芸術、宗教で追究されていたテーマが完全に不必要になった。
小保方晴子はかつて自分の研究を著しく妨げられたことがあった。
血のにじむような努力を通して、彼女は人類に復讐することを果たした。
つまり、人類が今まで構築してきたあらゆる成果を無意味にして人間を、いや生物を新しい段階へと突き上げてしまった。
この動きに反対する者も、初めの段階では多くあった。すなわち、この無制限の復活、「死の死」に否定的な者があった。
技術を純粋に受け入れる「素直」な人々の批判にさらされながらも、彼らは自分の一回きりの生を全うし「死んで」いった。
しかし、そうした彼らでさえ、必要があれば生きている者により復活させられる場合があった。
悪意のある新技術の賛同者などは、死を選んだ人を積極的に復活させたりもしていた。
人間の選択すら、尊厳すら、小保方の用意した細胞には適わなかったのだ。
人間文化が激変し、誰もその動きを止められなくなったなか、小保方の理念に異を唱える者があった。
狩野英孝である。芸人として円熟の域に達していた狩野英孝である。
「STAPゥ~!」
宮城県栗原市の神職の生まれであった狩野は、若年のころから独特の神力を以て人々の前に立っていた。
彼はある日、彼の師匠筋にあたりヘルニアで既に世を去っていた出川哲朗による霊界からの通信を受けた。
出川は酔った東京の私立大学生によって頻繁に復活させられる人物であったので、なぜ霊界から出川が通信しうるか狩野にとっては疑問であった。
彼は現世にいるのではないか? 狩野自身、出川と再び会えたときはとっても嬉しかったのだ。
しかしこの疑問が、小保方の野望を突き破るヒントになっていた。
出川からの教唆を受けたことで、狩野は霊界のイデアの実在を確信した。
現世に多く現れるクローン出川には、否、すべての復活にあたってはその源である「イデア」的人格が霊界に存在していたのだ。
小保方の行なった復讐により人間は考えるすべを失ってしまった。考えられない葦になってしまった。
自分の、この出川との体験が、何とか人類の真なる再生とならないか。
科学技術や哲学、生や死の理念を人類に取り戻せないか。真面目な狩野はそう考えた。
「おいおい”勘弁”してくれよ~!」
連載開始年 | 作品名 | ヒロイン | 特徴 | 恋愛 | 戦闘 |
---|---|---|---|---|---|
1976 | こち亀 | 麗子 | 警察の同僚 | △ | × |
1983 | 北斗の拳 | ユリア | 姫 | ○ | × |
1984 | ドラゴンボール | ブルマ | 主人公が旅に出るきっかけ / 冒険仲間 | × | × |
1984 | ドラゴンボール | チチ | 結婚相手 | ○ | △ |
1986 | 聖闘士星矢 | 城戸沙織 | 姫 | △ | ○ |
1989 | ダイの大冒険 | レオナ | 姫 / 冒険仲間 | ○ | ○ |
1989 | ダイの大冒険 | マァム | 冒険仲間 | × | ○ |
1990 | 幽遊白書 | ぼたん | 主人公が霊界探偵になるきっかけ / 探偵助手 | × | × |
1990 | 幽遊白書 | 螢子 | 幼馴染 | ○ | × |
1990 | スラムダンク | 晴子 | 主人公がバスケ部に入るきっかけ | ○ | × |
1994 | るろうに剣心 | 薫 | 主人公が東京に留まるきっかけ | ○ | ○ |
1997 | ONE PIECE | ナミ | 海賊仲間 | × | ○ |
1999 | NARUTO | サクラ | 忍者仲間 | ○ | ○ |
2001 | BLEACH | ルキア | 主人公が死神になるきっかけ / 死神のパートナー | △ | ○ |
2001 | BLEACH | 織姫 | 同級生 | ○ | ○ |
どの国でもあるいはどの宗教でも、死んだあとどうなるのか? は一大テーマだ。キリスト教は神の国に行くし、仏教は輪廻転生するし、神道は死んだら神様になる(そしてまた人間に戻ったりする)。
http://www.hachimangu.com/cgi/kouwa/kouwa.cgi?mode=one&namber=199&t...
神道では、人間が死ぬと、すべて神になると考えています。これは、私たちの魂は神から頂いた、神の分け霊、分霊と考えるからです。神の分霊なんだから死んで霊界に帰れば神に戻ると考える訳です。
私たちが死ぬと肉体と魂は別々になります。死んでまもない魂は、霊界での初心者、若葉マークの霊であると思います。肉体と魂が離れても実感として分からない時期、まだ死を認められない霊なのです。病気やケガで足を切断した人が、ないはずの足がかゆくなったり、痛くなったりすると聞きますが、そのような、まだ肉体のあった頃の感覚が離れられないでいる時期が若葉マークの霊であろうと思います。肉体の感覚が残っている内は、この世での執着心も残っているのです。
「自分は死んでしまったのか。それではもうこの世にはいられない。神の世界、仏の世界、御先祖様の世界へ還ろう。そして、魂の修行をして、神となって子孫を守っていこう」と決心したならば、執着心も切れて、迷うことなく霊界へ行くことができるのです。
この引用は一例だが、洒落怖あたりをみてもなんとなくこういう意識を持っている日本人は多いように思われる。仏教が入ってくる前の神道だと魂の修行とか言うのはなかったと思うが、その代わり祈祷などで鎮めていたのではないかな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A8%E9%9C%8A#cite_note-Yahoopedia-2
憎しみや怨みをもった人の生霊や、非業の死を遂げた人の霊。これが生きている人に災いを与えるとして恐れられている[2]。
霊魂信仰の考え方では、霊魂が肉体の中に安定しているときその人は生きていられる、と考える[2]。怨みや憎しみなどの感情があまりに激しいと、霊魂が肉体から遊離して生霊となり災いを与える、と考える[2]。
ちなみにこの死者が安楽に辿りつけない場合もあるという考えは日本固有ではないが、一神教系だと地獄にいくことがおおいようだ。アミニズムは現世に災いをもたらすらしい。
有名なのは平将門ですよね。生霊といえば源氏物語の御息所。医療や科学が発達していなかった時代に、アミニズムはそれを神様がやったってことで納得していた。一神教の場合も神の試練だと、仏教は功徳が足りないと思っていたのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0
政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊の存在はよりいっそう強力なものに考えられた。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。また、その鎮魂のための儀式として御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として行われた。記録上、最初に確認できる御霊会は、863年(貞観5年)5月20日に行われた神泉苑で行われたもの(日本三代実録)である。
仏教的にはどちらかと言うと荒神の信仰に近いものかな。阿修羅とか。
靖国神社もそもそもはこの御霊信仰のもと建てられた神社である。
http://www.yasukuni.or.jp/history/index.html
靖国神社は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
前進は明治2年にできているので、戊辰戦争の御霊供養のために建てられた神社であり、その後の日本内の内戦および諸外国との戦争でなくなった人々の供養をしている、ということになっている。
政府のたてまえとしても、靖国神社参拝は御霊供養のため、ということになっており、単純に墓地に行くのとはまた違う意味合いを持っているようだ。そもそもが怨霊を鎮めるためのものなので、死に方(戦死・処刑)に関しては問わない。ところでここって空襲で亡くなった人は入ってるんですかね?それはまた各自か。そもそも神社って系列があるし、霊魂はどこでもいけるしな。
こうしてみると、靖国にA級戦犯が眠っているから参拝してはいけないというのは的外れで、むしろそういう人がいるからこそ供養はせにゃならんということになる。祈る内容は「もうしません」でも「つぎはぜったいかちます」でもなんでもいいわけだが、とりあえずこの観点から反対するのは無理筋だろう。
んで次に気になるのは、別に首相がいかなくてもいいんじゃね?という点である。
多分これは崇徳天皇のせい。
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
いろいろとロマンチックなひとだが、気性が激しいともいう。
[要出典]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はない。承久の乱で隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的である。
しっかり子供作ってエンジョイしてんじゃんとは思うが、日によっては荒ぶっていたのかもしれない。どちらかというと彼に対する罪の意識で、後々伝説が作られたような気がするが、なんせ千年前である。確かめるすべはないな。まぁいいや。とりあえず天上人の天皇が荒ぶって怨霊になってしまったので、天皇が御霊鎮魂をするようになったもよう。これが国のトップが御霊慰霊を行うようになった理由だろう。
1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
ちらっと調べた限り3がある以上それをひっくり返すのは無理筋だが、いまのところ行くこと自体は1で押し通している。奉納するとなると3に引っかかるのでそれが争点になるようだ。もし私費で奉納とかしてりゃ1があるので反対するほうが悪いが、そうではないのなら違憲判決が出されるのは妥当な所。
しかしそこまできっちりとやってしまうと、天皇制がそもそも違憲、内閣総理大臣を天皇から任命されるのも違憲になってしまうので極めてグレーである。
ただ天皇は戸籍がないので、日本国籍を持ってない。例外として日本国民ということになってはいるが、主権もないしこのへんもグレー。突っ込んではいけない領域である。
このうち1は明確に信教の自由があるので以降といくまいと自由。
2は前述のとおりグレー。
3は参拝が軍国主義につながるというのが主な反対の理由のようだが、参拝は御霊供養のためであり、反省するのも軍国主義を目指すのも当人次第(しかも信教の自由があるのでそれを規定することはできない)ので的外れ。一般的にキリスト教では参拝は神への信仰、仏教は魂は輪廻転生してしまっているので特に意味のない行為(参拝自体は功徳を積むため)で、御霊供養の概念はきちんと説明しないと伝わらないと思われる。4,5も同様。
したがって、問題の争点は政教分離の観点でOKなの?という部分だけだな。ちなみに諸外国がこれに反対するのは内政不干渉の原則に反するが、言うの自体は自由である。
この増田を途中まで読んで勢いで書いた文章だけど。
でも輪廻転生や体を乗っ取ってまで現世で生きる理由はどこにもない。
上位霊界に行くまでもなく、下級霊界、いや、自分の存在範囲でさえも、新しい発見をすることは、永久にできる。
それよりも、霊界で概念と混ざってみたり、実際に概念を構築するほうがいいじゃないか。
霊体感覚のないことをして、何になるのだろうか。
現世にいた頃人として真っ当に生きたのだが、霊体になって、上位霊界や下級霊界に比べてあまりにも軽薄な現世に魂の純粋さを奪われたことに、恨みに近い感情を抱いた。
軽薄な癖して、何十年も魂の純粋さを奪っていく。
こんなコストパフォーマンス最低なこと、アホらしくてやっていられない。
現世で生きてる意味が、どこにあるんだろう。
とさっき降霊した霊が言ってた。
http://latitude.blogs.nytimes.com/2013/06/07/margaret-thatchers-advice-for-abe-from-beyond-he-grave/
Maggie and the Medium
By GRAEME WOOD
訳はとっても適当。
2002年にマーガレット・サッチャーが老衰のために公の場から引退すると発表した時、彼女の敵対者たちはこうささやいたーーあんな手練の政治家を、完全に息絶えさせるのは難しいだろう。
どうも彼らは正しかったようだ。4月9日、サッチャーがロンドンで亡くなって19時間後に、日本の幸福実現党の党首であり霊媒でもある大川隆法が東京でイギリス前首相へのインタビューを行ったのである。
選挙区ごとに候補者をたてたにもかかわらず国会では一議席もとれなかった大川の党だが、東京では純真な信奉者たちが路上で熱心にパンフレットを配っていることで有名である。パンフレットの内容の大半は政治的で、対外強硬主義的なナショナリズム、移民政策や原子力の推進等を妙な具合に混ぜあわせたものである。とはいえ根っこのとこではこのグループは宗教団体であり、その目的は、人生を支配する6つの見えざる真理について人々を教化することで幸福をもたらすのだという。大川(彼は証券マンとしてニューヨークで働いた後、1986年にこの宗教をはじめた)はこれまでに霊界の金正日や預言者ムハンマドと話したと主張している。そして今度はサッチャーだ。
「なんですって? 私、まだ生きてるわ」非常に具合の悪そうな声で彼女は大川に言ったそうだ。(このインタビューを公開したサイトによれば、驚愕と混乱は呼び出された死者における典型的な反応である)「日本? あなた、日本って言いました?」
サッチャーはここでは人気のある人物だ、彼女の強いリーダーシップへの感謝の念や、労働階級出身でありながら男性優位社会で成功したという点。彼女はまた、英国がフォークランド紛争でアルゼンチンに勝利した時期、1980年代のナショナリズム復興の主導者として名をあげた。彼女の政治的信念によって政府の役割は縮小され、またインフレは積極的に抑制された。
大川のグループはアベノミクスを全面的に支持しており、日本政府は、インフレやマイナス金利を通じて経済を勢いづける試みに今のところは成功している。しかし大川とのインタビューではサッチャーは、一国の経済的命運は、究極のところ、積極的な金融・会計上の政策ではなく、ビジネスしやすい環境をいかにつくるかにかかっているのだと語った。
「政府に必要なのは産業の民営化をサポートすることだけです」と彼女は語った。あまりにも多くの法律が「私企業の成長を阻害している。ですから彼らを自由にさせ、成功を目指して皆が戦うよう教えるのです」
これは、安部首相のインフレ政策が経済を傷つけるんじゃないかと心配し始めている日本の大衆にはアピールするのかもしれないーーもしそうだとしたら、彼らはサッチャーの成功が緊縮財政と福祉の抑制によるものだったということを忘れてしまっている。
安全保障の話題になると、サッチャーはえらく軍国主義的なようだった。まるで大川みたいに。この点では彼女は安倍よりさらに上を行く。中国と韓国について、彼女はこう語った。「侵略を絶対に許してはなりません! あなたがたの素晴らしい、美しい、歴史ある伝統と文化を守るために彼らを攻撃しなさい。誇りを持つのです!」彼女は力説した。「自分たちの領土だと信じるのなら、私たちはそれを保持し、守らねばなりません。そして私たちの敵、侵略者を攻撃し、滅ぼすのです!」この"私たち"という言葉から判断するに、彼女は死後の世界で日本人になってしまったようだ。
このインタビューはリバティwebで公開された。幸福の科学の宣伝サイトである。記事の長さは数ページだ。サイトいわく「死後24時間は、死者の身体と魂はいわゆる"銀色の紐"でまだ結ばれている」死のショックが生々しいので「通常の死の直後は、話すことは極めて難しい」というのが普通だそうだ。しかしわれらがサッチャーはいつだってサッチャー、見当を失っていたのは僅かな間で、すぐに明晰かつ猛烈、傲然たるいつもの彼女に戻ったのだった。
反応
http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=6151
サッチャーの霊言を米一流紙が紹介 日本のマスコミは置いてけぼり?
米ニューヨーク・タイムズ紙の国際版であるインターナショナル・ヘラルド・トリビューン(IHT)紙が7日、大川隆法・幸福の科学総裁によるサッチャーの霊言を紹介した。
(中略)
同記事では一部、一方的な思い込みも散見されるが、米一流紙が霊言の内容を冷静に分析して議論を行なっている点は注目に値する。たとえば、「霊子線」などの霊的な用語も、当然のように受け入れて議論しているのだ。大川総裁の霊言について取り扱うことがほとんどなく、週刊誌等が取り上げたとしても、「霊言があり得るのかどうか」で議論が止まってしまっている日本の大手マスコミとは対照的だ。
大川総裁は、世界の5大陸すべてで説法を行っており、各国の現地マスコミも大きく取り上げている。インドやアフリカのウガンダでは、講演会がテレビで生中継されたほどだ。世界的に見れば、宗教家の説法や「霊言」などの霊的な現象は、ニュース価値があると考えられているのだ。このまま日本のマスコミが宗教や霊界の話題を無視したままでいれば、世界のメディアから取り残される一方だろう。(晴)
自殺する人ってのは霊界を確かめたいとかいうごく一部の例外を除いて楽しいことがないから自殺するんじゃないかなって思うのよね。
そう考えると自殺間際の人に「甘ったれるんじゃない」だとか「耐えろ」だとか言う人は苦しんでいる側からすれば「もっと苦しめ」って言ってるようなもんだからひどいもんよねって思ってしまう。
話は逸れるけどそういうきついこと言っちゃう人って自分は苦しいことを通じて強くなったからお前も強くなれって考えてそんなこと言ってる感じがする。マニアックなとこだけど広島の大野コーチとかそんな感じかも知れない。現役時代鉄腕だったから俺と同じ事やらせりゃ選手も強くなるだろと同じ事やらせて選手を壊す・・・みたいなね。
だからこそ自殺しようとする人を止めようとするなら他の新しい楽しいことを提供する、もしくはそれを探す手伝いをすることができる人じゃないと止めちゃいかんのじゃないかと思うのよ。
残念ながら自分にはその能力がないので自殺しようとしている人がいても救えそうにない。別に積極的に自殺しましょうと言いたいわけじゃないけれど。
人に言わせりゃアート一家ってことになるだろうが
私は本当にアーティスト様って奴が嫌いだ。
だいたい世の中の非美術の人が良くないのだけど
とにかく作家と言うものに対して好意的な誤解や情状酌量の用意を持ちすぎている。
「芸術家気質」とさえ言えば、非常識や奇矯な振る舞いが許されるようになっている。
度を越して非社会的、生活態度が堕落的、約束を守れない、言うことが幼稚、
…のような欠点が、むしろ何か創作的な才能の証明として美点のように取り扱われてしまう。
いいですか。
すべてのクリエイターっぽい職業人や学生で、幼稚な人や変な人がいたら、
単に世間並みの経験や責任から逃げ続けたせいでそうなってるだけです。
だいたい「アマデウス」みたいなものが”アーティスト”像として一等に出てくるの状況が良くない。
アーティストに馴染みがない人にとってはああいうのがロールモデルになりますよねどうしても。
でも、”破綻した人格と飛びぬけた才能が先天的かつ不可分なセットになってる天才”なんていうのは
極端で面白いからこそ映画やマンガのキャラとして出てくるのであって
「さすが芸術家だな」じゃなくて、単に「いい加減な人生送ってきたんだな」と思えば合ってるんです。
また、もちろん、
その手の「アーティスト」の変なイメージには美術系の人間自身も冒されています。
私の場合は受験のために美術予備校に通うようになってから大量に遭遇して驚いたのですが、
みーんな、「逸脱者」の振る舞いをし始めるんです。予備校生の時点で。
ちょっと離れて見てると一人一人の区別がつかないようなそっくりのノリです。
これじゃあ単に、軍隊に入ったら軍人っぽくなるのと同じ現象でしかない。
みんなでそういうレディメイドの逸脱に袖を通しておいて、自分は個性的でーすって顔をしてる。
「私の絵がわからないで落とすような学校にはこっちからお断り!」とか言います。
関係ないんですよー、そんな表面上のポーズと製作するものの出来なんて。
どういう態度でも下手な人は下手です。
まああんまり下手だとそういう逸脱者ごっこに参加しないものですが、
予備校で上位のほうだったりするともう勘違いが酷いことになります。
同学年の上位クラスで逸脱ごっこの気風に染まってないのは私含めて3人しか居なかったですから。
「私はアーティストですので」「これは芸術ですから」という免罪符一本で、
社会の常識を踏み倒したり、世間に変な迷惑をかけたり、法律をぶち抜いたりしていいのは
アマデウスさんのようなモノホンの天才、1時代に1人いるかいないかというレベルの天才だけです。
これは割合的に言ったら身長230cmの人みたいなもので、
この人に会ったり理解したりできるのは220cmぐらいの人間だけで、
だから、現実的には「そんな人間は居ない」と思っていただいて結構です。
更に、230cmかつ、世間の誰にでも230cmだと気づいてもらえる人、となると
「アート」だ「アーティスト」だと言いながらなんだか意味不明なことやってる人や集団、
そういうのが人様に迷惑をかけていたり、法律に触れたりしていれば、
何の躊躇も容赦もせずに非難したりしょっ引いたりしてかまいません。確率的に言って。
単なる「美大なんか出たばっかりに自分に甘くて常識のないだらしない奴になってしまった人間以下人間」ですから。
「いい年になっても自分が天才じゃなかった事実に向き合えない臆病な嘘つき」ですから。
モノみたいに蹴っ飛ばして排除していいんですよ。
「自分には芸術わからないからなあ~」「ひょっとして価値あるのかなー」なんて優しい逡巡は必要ありません。
まっとうに生きてまっとうに働いてる一般人のあなたは、そんなのよりずっと偉いんですから。
どうか上下関係を間違えないでください。
ってメールが。
で、その後少し話を聞くと気功みたいなものを受けませんか?ってことだった。
その時は、何も不思議に思わずに気功か。。まあ整体みたいなもんだろう。って思って出かけてきました。
駅で待ち合わせして、目的の場所に歩いて行くとなんだか整体とは全然違う事に気づく。
ビルの階段を上がっているときに聞くと、宗教なんですとのこと。
別にいっか。って感じです。
そこまでなら別に良かったのですが、そこから毎週のようにまた来ませんか?メールが・・・
Aさんに逢えるので、私はちょっと億劫にはなりつつもポジティブにまあいっか。だったのですが
その内、いろいろな事がわかってきました。
Aさんの両親もその宗教に熱心だったこと。
Aさんはこの活動に理解してもらえないと付き合えないという意思の持ち主だったこと。
けど、それでも当時は良いと思ってました。
結果的にAさんのそばにいれるなら。
ちなみに、もちろんAさんも私の気持ちを知っています。(私の気持ちは伝えているので)
なので、私を受け入れてくれるために誘ってくれているんだろうと。
けど、それは違ったのでは。。。と思いだしてきました。
・進化論の否定
・誰でも、研修を受けると手かざしができ、人の体を治せるというよくわからない理論
・人間は特殊。霊界の標準語は日本語だというよくわからない理論
そんなよくわからないことがあるのだってどうでもよかった。
けど。。。ショックだったのが・・・
信者は他の人を勧誘したら霊的に上級になれるということ。
Aさんも私を勧誘してある特定の人数を超えたので霊的に上級になったそうです。
私は利用されたのでしょうか。
別に宗教をやっていても気にしませんし、私が入信するのも別にいいです。
けど、利用されたと思うと・・・Aさんへの思いが冷めていく自分に気づく。
今でもAさんの事は好きです。
でも。。このまま私はこの宗教にいる事ができるのか。
毎月毎月行事があって、それに誘われるし。。
1年ぐらいなら仮面生活ができますが、残りの人生仮面をつけたままってのは無理です。
たぶん、そのうちこの新興宗教からは抜けるだろう。
そして、今後は宗教やっている人を好きになるのはやめよう。