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2021-08-30

ワクチン打ってマスクもしていたのに感染した。


ワクチン打ってマスクもしていたのに感染した。

会社でどうしても対面で会議する必要があったのでひさびさに7人で集まった。マスクも着けていたし、警戒ゼロだった。

帰る段になって1人が「あ、家族発熱したらしい。牛乳とか買って帰らなきゃ。」といったのが始まりだった。

それを聞いた上司備蓄してある民間PCR検査キットをいくつか持たせてあげていた。

翌日、上司からの鬼電が来て「本人も無症状スーパースプレッダーだった、そしてさっき発熱したという報告を受けた」ということを教えてくれた。1mlの唾液に数千万匹のウイルスがいるCt20を切るデルタ株らしい。それと、こういうのは確率で起きることだから恨むなと強く言われた。このへんのことは前々からよくいわれてた。

デルタ株だからうつっていれば早くて明日からあなたウイルスをばらまき始めます。いますぐに、1週間引きこもる準備をしてください。うつっていたとしてもまだ感染性はないはずです。とはいえワクチン打っているから、発症しても入院まではしにくいとは思うけれども。あと、キットを送るのでできれば毎日検査してください。デルタ株にかかった場合、だいたい5日後までに陽性になるらしいので、5日過ぎたらおそらくうつってなかったってことでしょう。なので特に最後検査大事です。」

状況を聞くと、同居している人がいる人は慌てて空き家に移ったとか聞いた。

正直このときは大したことないと思っていた。

いわれたとおりに検体を提出していたら、会議から3日後、TMSクリニックというところの女医さんから電話がかかってきて陽性でしたよ、といわれた。その前日の検体では出ていなかったけれども、数十万匹のウイルスがいて十分な感染性のある状態で、ワクチン打ったのに、って思いました。保健所に連絡して対応もしてくれたけれども、保健所はいまの東京の状況だと自宅療養ということでした。

一番恐ろしかったのが、その翌日辺りから嗅覚がなくなってきて、食べ物の味がしなくなったこと。これ、このまま治らないんじゃないか、一生味がしなくなったらどうしよう。熱もその後出てきて、とてもきついインフルエンザみたいだった。めちゃくちゃ辛い。その後も自宅療養で、ときどき検査していたら、ずっと陽性で一番濃いときにはスーパースプレッダーと同じCt20くらいになって、ウイルス濃度が数千万匹/1mlと、とても濃い状態で、人にめちゃくちゃうつる状態だといわれました。デルタ株はとても濃いらしく、ワクチン打っていてもこうなるのね。

結局、その後1週間くらいで徐々に味覚は戻ってきて本当にうれしかった。いまは、まだPCR陽性だけど、もう感染性がない状態といわれていて後遺症らしき後遺症はないです。これでも運が良かったってことかなと思います

デルタ株の判別技術的にも手間的にも大変だから、するところはほとんどないみたいだけど、今回お願いしたところは、オプションなしで変異をいろいろ調べてくれて技術にこだわる職人ぽかった。デルタ株じゃないときは陽性になるのが遅い場合があるからさらにもう数日引きこもれと上司は言っていた。

それから、7人のうち4人はワクチン2回接種2週間経過済み、3人は未接種だったらしい。

接種していなかった3人は、全員発症、うち2人は自宅療養から重症化で入院救急車を呼んだけれどもそのまま帰っていったこともあったり、入院先がなかなか見つからず、相当悪化して意識朦朧酸素飽和度90でようやく入れたみたい。ウイルス濃度もずっと濃かったみたいだし、一時期は本当に悪くて本人に可能性の告知がされたが、なんとか回復傾向になってきたらしい。けれども、どれくらい元通りに戻れるかは不明。接種済みの残りの3人はPCRがずっと陰性で仕事復帰が早かった。ただ、この3人、1人は翌日発熱したけれどもすぐ下がっていたり、2人は感染すると上がる抗体定量検査の値がかすかに上がっていたりで、ウイルスをばらまきはしなかったみたいだけれども、ウイルスが体内に入り込んで戦ったのかもしれない。やっぱりワクチン大事だ。

正直、新型コロナウイルスなめてた。とくにデルタ株は、これ、もう別の病気といっていいくらやばいマスクワクチンも打ち破ってくるなんて。

2021-08-29

anond:20210828123651

今までインフルエンザでも人死んでたでしょ

多臓器不全になるインフルエンザでなんで医療崩壊起きなかったかって言えば

死ぬぎりぎりまで自宅療養が基本」だったか

例えば老人ホームインフルクラスターが出ても、意識朦朧とするまで病院に運ばなかったか

コロナは老人が死ぬだけだけど、インフル子供も殺す。特に乳幼児は脳症を起こして池沼になったりすることもあった

でも世間は騒がなかったよね。「自宅で様子を見ましょう」が基本だったのに

コロナになって老人だけ狙い撃ちってわかった瞬間「ちょっとヤバくても入院」が基本

結果的若い人が他の病気入院出来たり拒否される。これってどうなの?

2021-08-20

最後酸素

 静かな夜だった。

 幼い娘が電気を消して欲しいと言うからわたしは寝室の常夜灯を消して、ベッドに横たわる彼女の隣に寄り添った。

ママ、苦しくない?」

 娘はそう言うと、チューブ自分の鼻から外して差し出した。わたしはそれを受け取らず、代わりに小さな手を握り返した。

「お母さんは大丈夫、もう少し吸っていなさい」

 そう言うや否や、自分の肺の底から咳が込み上げてきた。身体を反転させ、娘に背を向けて咳き込んだ。

 同じ病気にかかっているから、こうすることにたいした意味はないのに。

 娘は小さな手で背中をさすってくれた。

 わたしは枕元のチェストに置いたティッシュペーパーをとって痰を吐き出した。

 薄闇の中で、それはどす黒い血のようにも見えたが、さすがに気のせいだろう。

 くずかごには丸めティッシュがうずたかく積まれていた。

 娘は健気にわたし背中をさすり続けた。その柔らかな皮膚と荒いスウェット生地が擦れる音は、世界で一番優しい音だと思った。


「もう、大丈夫だよ、ありがとう

 今度は娘が咳き込んだ。ケンケンケンケン

 幼な子の咳は軽やかで愛らしいけれど、自分が重たい咳を吐き出すときよりもよほど強くわたしの胸をしめつけた。

 ......あのとき帰省しなければこんなことにはなっていなかったかもしれない。ワクチンだってまだ打ってなかった。

 そのことを娘に詫びると、彼女はこう言ったのだ。

いなかの山、星、きれいだったね」

「そうだね、流れ星も見れたね」

 あの夜、星が天球の上を一筋に流れたとき、とっさに願ったのはこの子幸せだった。

「ねえ、ママ、お水が飲みたい」

「待ってて」と言って、わたし橙色ルームランプをつけ、スリッパを履き、ベッドから立ち上がった。


 足元には、フローリングを埋め尽くすほどたくさんの観葉植物が並べられていた。

 わたしたちの感染がクリニックの外来証明されて、だけれども入院できる施設がどこにもないと知ったとき、帰りに立ち寄ったドラッグストアで買ったものだ。

酸素在庫はありません。供給が追いついていないそうです」

 髪の薄い男性店員が、眉を八の字にして申し訳なさそうに宣告した。

 だったらどうしたらいいのよ! といつものわたしだったら食い下がっていた場面だろう。

 もうそんな元気がなかったのもあるし、何より社会全体が何かを諦めてしまたかのようなムードに包まれていたから、わたしは何も言えなかった。

 調剤室の前のベンチにはたくさんの人が座っていた。

 みんな、まるで負けることを知った試合を消化するチームメイトのように、うつむいて、冴えない顔つきをしていた。


 結局、わたしたちは酸素ボンベの代わりに、たくさんの鉢植えを買ってきた。

 植物光合成をしてくれたら、部屋の酸素濃度が上がるかもしれないという、浅はかな考えだった。

「ねぇ、フラワーパークビニールハウスみたいね

 ドラッグストアからの帰路、緑を満載した赤いコンパクトカーの後部座席で娘は咳き込みながら笑った。

「また行きたい、フラワーパーク

「うん、行こうね、必ず連れていくよ」

 返事はなかった。

 白いマスクと、冷えピタシートに挟まれ可愛い目を細めて、彼女はそのまま寝てしまったのだ。すーすーと穏やかな寝息を立てながら。

 わたしは安堵して、赤信号が青に変わったのにしばらく気がつかなかった。発進を急かすクラクションがやけに遠くから聞こえた。


 あれからまだ三日しか経っていない。いや、二日だったか? すでに、寝室とダイニングキッチンを往復するだけでも身体が重く、息苦しい。

 昔は、クロールだってバタフライだって延々と泳げたのに。

 洗っていないコップに水を注いで、一口飲む。

 水はもとより味がないから助かる。

 昼間に食べた卵がゆは、まるで湿地から採取した粘土のようだった。まだ喉の奥にひっかかっている気がする。

 味が濃いはずのものを口にして、その風味を感じられないことがあんなに不愉快なこととは知らなかった。

 シンクには、その食べ残しの茶碗が重ねて置かれていた。

 昼間に洗って水切りかごに伏せておいた子ども用のプラスチックのコップに水を注いで、寝室に戻った。

 ルームランプに照らされた黄色いコップには、アニメキャラクタープリントされていて、屈託のない笑顔永久に固定していた。

ありがとうママ

 娘はマットレスに手をついて起き上がると、壁にもたれかかって、コップの水をゆっくり飲んだ。

 彼女は、肩を大きく上下させて呼吸していた。

 枕元に転がっている酸素ボンベをちらりと見る。これが最後ボンベだった。

 フリマアプリで、とんでもない高額で取引されていたものだ(たぶん違法だ)。だから何本も買えなかった。


 配送を待っていられなかったから、車で片道二時間かけて取りに行った。古い戸建てに住む、中年男性だった。

 まいどあり、と言ったあの笑顔が、がたがたした歯が、家の臭いが、忘れられない。

 ......彼は一体どうやってあんなにたくさんのボンベを手に入れたのだろう……どうだっていい!

 帰りの高速では意識朦朧として、事故を起こしそうになったっけ。


 黒光りする筒の頭の部分におもちゃみたいなメーターが付けられていた。針は、かなり傾いていた。

 パルスオキシメーターで測定したわたしたちの酸素飽和度は、故郷の山の、空気の薄い山頂にいるくらい低い。

 どうりで頭がぼおっとするわけだ。

 N-95マスクをつけた医師に、少なくとも一分間に五リットル以上の酸素必要と言われたが、もったいないからもっと絞って使っている。

 酸素に味はないけれど、吸えば少し楽になるのがわかる。

「美味しかった」

 娘がコップを差し出した。まだ水は半分も残っていた。

 もういいの? うん、もういい。

 チェストにコップを置くと、ランプを消して二人で横になった。それから娘の体を抱きしめて、小さくて丸い頭を撫でた。

 髪の毛は柔らかく、少し湿っていて、甘い匂いがするような気がした。

ママ、それ、ほっとする」

 腕の中で彼女はそう言った。子守唄を歌ってあげたかったが、もう声を出すのもしんどくなっていた。

ママ寒いの?」

 確かにわたし身体は震えていた。でもそれは寒さから来るものではなかった。

大丈夫、咳を、こらえて、いる、だけ」

 声がなるべく震えないように、切れ切れに言って(あるいは本当に息が続かなかったのかもしれない)、わたしは頬を伝う一筋の涙が彼女に落ちないように頭を上の方に向けた。

 それにつられて、娘も顔を上げた。


 ベッドサイドのチェストの上に窓があった。正方形の小さな窓だ。

 すりガラスがはめ込まれていて、外の景色は見えない。

 ただ今が真っ暗な夜ということだけがわかる。

 娘が、ママ、とささやいた。

 どうしたの? と尋ねると、彼女は目をつむってこう答えた。

「星が、きれいだね」

 わたしは頷いて、

「ねえ、あのとき流れ星を見て、何をお願いした?」と聞いてみた。


 返事はなかった。



2021-08-18

保健所は頑張っちゃいない

例の567ウイルス1月に近親者を亡くした。

1月なのでまだ今ほどひどくは無い頃だ。

その頃、メディアは「保健所は逼迫している。頑張っている。」みたいな論調だった。

だが、亡くなったあとに色々話をきいているうちに、少なくとも管轄保健所はそんなのは微塵もなかった。

保健所の連中は、「本人が大丈夫と言っている限り、何もしません」と言い放ったそうだ。

要するに自分で元気だと頑張る年寄りには冷たく、弱音ばかり吐く年寄りには手厚くするらしい。

まあ、後者に対しても割と冷たかったそうではあるが、入院調整ぐらいは片手間レベルでやってくれたらしい。

最終的には意識朦朧とした頃に同居人救急隊を呼び、同居人必死に説得してやっと乗ることにしたそうだ。

結局、設備が整っていない広域病院に運ばれたが、数週間でこの世を去った。

本人は人一倍健康に気を使い、主治医にもまだまだ長生きすると自信を持って言われていたぐらいだ。

だが、逆にそれが本人自身過大評価につながり、このような結果になったのかもしれない。

ちなみにわざわざだったので最初に書かなかったが、民間病院の連中は他人事であり、一切の信用はおけなくなった。

発熱するだけで門前払いだったらしい。亡くなったことをつげたら、門前で「残念です」と言われたらしいが、

方便しかないだろう。

増田普段見ていないし、今の社会もっとひどい有様なので、いまさらすぎる内容だと思うし、別に共感批判もされることも期待していない。

ただ、もしこれを見ていて、まだ間に合う状況だけど同じような性格の人が居た人にだけ一言言いたかった。

保健所の連中は信用するな。」

いまさら?すまんないまさらで。

2021-08-17

野球が嫌い

久々に野球の延長のせいで見たい番組の録画に失敗するという経験をした。

アニメ自体は別の媒体でも見れるのでそこまでショックでもないが、問題はその後。

 

録画されていたのは高校野球

野球憎悪するレベルで嫌いな僕にとって最高の煽りだった。

 

なんでこんなに野球が嫌いなのか、改めて自分の中でまとめてみたくなったので匿名で書く。

 

プロ野球放送で見たい番組が潰れた、録画がズレたりそもそも録画されなかった、という安易理由も当然ある。

高校野球優遇っぷりや、野球に関わっている人たちの傲慢発言や態度が気に食わない、という個人的嫌悪感もある。

でもそれ以上のキッカケがあったな、と。

 

僕が小学校時代地区のこども会で強制で参加させられたソフトボールという競技である

30年以上たった今でも鮮明に覚えているあたり根が深い出来事だったな。

 

自分が住んでいた町では5月8月末まで、小学3年生~小学6年生の男子ソフトボール女子ドッジボール強制参加させられた。

各学区ごとの予選があり夏休み終盤には町大会が開催される。子供たちに拒否権は無い。

ちなみに僕は参加させられるまでソフトボール正式ルールなんて知らず、せいぜいピッチャーが投げたボールバッターが打つ、程度の認識だった。

 

僕の住んでいた学区は人数が多くA,B,Cチームに分けられ、僕はCチームにアサインされた。

均等に分けたという建前はあったがAチームには少年野球をやっている子が多く集められ、Bチームはサッカーなどのクラブチームに入っている子が多かった。

Cチームは別競技を習っている子が多少はいたが、どちらかといえばインドアの子が多かった。

また、A,Bチームは過去野球をやっていたという親御さんが監督/コーチとして指導していたが、Cチームはただ野球が好きなだけというPTA会長おっさん監督だったのも色々察せられる。

 

小学3年生になり参加した初日、いきなり守備審査が行われた。

まずはピッチャーを決めるらしく、全員がマウンドからキャッチャーに向かって投げろと言われたので上手投げしたらめちゃくちゃ怒られ、その時に初めて「ソフトボールは下手投げ」ということを知った。

まれて初めて自分意志で下手投げをしたが当然上手く行くはずもなく、狙いは定まらキャッチャーの頭上を大きく超えた。

「この下手糞がぁ!!」と怒鳴られ、当然ピッチャー候補からは外された。

 

キャッチャーファーストセカンドサードショート、レフト、センターライト審査が進んでいったがそもそも運動が苦手なのと、今まで感じたことのないスピードで飛んでくるボールビビッてエラーを連発、どの守備位置にするにも難しかったと思う。

そもそも子供の人数が多いため初日から補欠扱い、正式メンバーと交代でレフト、センターライト練習といった感じだった。

 

2日目、攻撃練習が始まったがそもそもルール説明されていない。

1打席目はとりあえず打って1塁に走ったがどうやら守備側がボールを先に塁に送るとアウトらしい。

いつまでも1塁に留まっていたら「何やってんだ!!さっさと戻れグズがぁ!!」と怒鳴られた。

2打席目は当たり所が良かったのか1塁に出れた。

次の打者が大きく上に打ち上げたので2塁に走ったが、守備側がそのボールを上手くキャッチし1塁に投げたのを見ていたらアウトだから戻れと言われた。

えっ・・・?なんで・・・?と思っていたら監督バットで小突かれ、「子供のくせに野球ルールも知らねえのか!お前の親は何を教えてきたんだ!!」と怒鳴られた。

こんなことで親をバカにされた悔しさと申し訳なさで初めて泣いたので記憶に残っている。

 

3日目からは友人に聞きながらルールを少しずつ覚えていったが、多少ルールを覚えたところで競技が上手くなるわけもなくエラー三振、凡ヒットなどを繰り返しながら練習だけは参加し続けた。

なおここまでもこれから監督からソフトボールという競技ルール説明は一切ない。

 

下手糞ながらも練習を続けていたある日、そろそろA,Bチームと練習試合をするということになった。

僕は正式に補欠ということになり誰かがケガでもしない限り出ることはないはずだったが、レフトの子がケガをしてしまったのと別の補欠の子休みだったため急遽レフトをやることになった。

地区で一番強いAチームは打力もあり、レフトが弱そうと知ると集中的に狙ってきた。

当然エラーを連発、そもそも球に追いつけない、捕球して返す球はヘロヘロといいとこなしでボロ負けしたのを覚えている。

練習試合後の反省会は誰が戦犯か吊るし上げるまでもなく、激怒している監督バットで僕の顔面に向かってスイングし乳歯が折れ流血沙汰になった。

僕の両親と監督指導に疑問を持つ一部の親が暴力事件として町と教育委員会に話を出したが、「本人にも聞き取りを行ったが、あくまでも指導の一環で本人のやる気のなさを自覚させるために仕方ない行為でケガをさせる気はなかった」と結論づけられ大事にはならず謝罪もなく、田舎PTA会長という肩書の強さを思い知った瞬間だった。

また、監督金魚のフンのおばちゃんには「こういうのは勝つためじゃなくて、チームでやるということの意味と本人のやる気が全員の力になるっていう事を教えるためにやってるの」って諭すように言われたのも記憶に残っている。

 

流血事件が起きてからも何とか練習には通っていたが、失敗すれば「下手糞!」と怒鳴られ、たまに成功すれば「たまたま上手く行っただけでお前の実力じゃない!調子に乗るんじゃない!」と怒鳴られ、挙句に「お前みたいなチームの足を引っ張るやつは来なくていい!」と言われのをキッカケに練習サボるようになった。

久々に17からアニメを見れたのがとても嬉しかったのを覚えている。

そして2日サボったところで監督が「お前みたいなグズが練習サボるとはどういうことだ!それを良しとしている親も親だ!!」と怒鳴り込んできて、また親へ申し訳ない気持ちになり、親には言い訳しつつ渋々練習に参加するようになった。

 

夏休みも中盤になり地区予選が始まる1週間前、補欠を含めた全員にユニフォームが渡されることになった。

最初スタメンから順に渡されていき、監督テンションが上がっているのか「頑張ってな」「他のチームは強いけど気合い入れていけよ」と声をかけていた。

交代要員あたりになると「交代時はお前が支えるんだ」「ピンチの時は頼むぞ」と声をかけていた。

そして僕を含む補欠メンバーになるとそもそも手渡しではなく、砂にまみれた地面にボフッと置かれ「これ」とだけ。

なかなか屈辱的な経験を早めにさせてくれてありがとうございましたとでも言うべきだったな。

 

なおこの年の地区予選では見事にCチームは破れ、Aチームが町大会へと進出していた。

監督スタメン以外のメンバーに切れ散らかしていたのが思い出深い。

 

小学4年生、小学5年生の間は下級生より下手糞な僕に監督から辛辣言葉が増えた程度で扱いも地区予選での敗退も変わらなかった。

 

そして小学6年生の夏、Cチームは地区予選を優勝して町大会へ行けることなった。

これが決まった直後になかなか衝撃的なことが起こった。

Cチームのメンバーでは町大会では勝てなさそう、ということでAチームとBチームから少年野球をやっている子を引っ張ってきて加入させていた。

さっきまでAチームピッチャーという花形を務め、敗退して泣いていたS君がCチームのピッチャーになった。

さっきまでBチームでホームランを2回打ち、ヒット率も高いT君がCチームの代打要員になった。

大会ルールでは他チームからトレードや引き抜きは禁止とあったのに、それを平然とやっていた。

今までチームメンバー表を提出しなかったのもこういう時のためらしかったし、大急ぎで書き換えているのを大人子供も何人もが見ていた。

「勝つためにやってるんじゃない」という発言の軽さと、こんな汚いことしても許されるのがスポーツなのか、と思った瞬間でもあった。

 

Cチームのスタメンの半分が入れ替わり、交代要員にされた元スタメンの不満を押さえつけ、元交代要員は準補欠という謎要員にされ、補欠組はいよいよ試合に出る機会はなくなった。

それでも町大会には応援するためだけに来いと言っていた。

両親は反発してたけど、行かないと今後こども会の行事への参加は禁止するって言ってたのが聞こえていたし、応援するだけで面倒事を避けられるならいいかと思って渋々行った。

 

大会は町の大きめの運動場で行われたが、そこまでの移動はスタメン、交代要員は地区で用意したバス、それ以下のメンツ自力で、とのことだった。

現地について試合会場に入ると思ったよりもベンチが小さく全員が入りきらないので試合絶対に出ない補欠組は地面に座るように言われた。

 

優勝決定までは3試合くらい必要らしく1日かける町大会だったが、この日は当時にしては日差しが強く気温も高かった。

運動中に水を飲むのは厳禁、という当時の思想があったり、Cチームとして大きなタンク氷水を準備して持ってきていたらしいが監督が「補欠組はこの水を飲むことは禁止だ!優先度というのがある!!」と宣言したので補欠組は水タンクに近づくことも許されなかった。

2試合目あたりで限界に達してぶっ倒れて意識朦朧となったが監督は「町大会まで来て迷惑かけるような軟弱なやつに構うな!」と言って放置されていて、観客席で気付いた母親があわてて救急車を呼んだことで監督とその囲いから散々嫌味を言われた。

 

僕は病院に運ばれたので伝聞でしか知らないけど、Cチームは町大会でも準優勝まで勝ち進んで監督はご満悦。

閉会式での監督インタビューで「野球というもの精神と頑張る力を成長させチームワークを芽生えさせる素晴らしいスポーツ、そのキッカケとなるこども会でのソフトボール大会は残すべき文化です」とか語ってたらしい。

 

メンバーを入れ替えたこと、倒れた子供放置していたことなどを町と教育委員会に話すも、「同区から複数同じ話を聞いているが全て終わった事だから今更蒸し返して結果を弄りたくない、それで反感買って住みづらくなりたくないでしょ?(要約)」的な返事がきてたのも子供心に「クソだな」と感じた。

 

 

まとめてみると野球というより野球好きのPTA会長のクソさが元凶だな?

 

スポーツ全般に対していい印象なんてないけど、それでも野球に対して特にそう感じるのはソフトボールという競技に関わってしまったために受けた嫌な気持ち野球という競技にやられた理不尽な行いで間違いないと思う。

野球は素晴らしい、野球というスポーツルールは全員知っていて当然、野球は他のスポーツひいては文化系より優遇されてもいいとかいう風潮が鼻につくのかな。

教育の一環といいつつ流血沙汰が肯定され、下手糞はゴミのように扱っても問題なし、勝つためにはルールを破ってもいい、それがスポーツ!という現場を見て、体験してしまたからかな。 

これが他のスポーツだったら、そのスポーツが嫌いになってたんだろうな。

 

野球好きな人は好きでいいと思うし、楽しんでる人に対してあーだこーだいう気もないからどうぞご自由にって感じ。

ただ、自分野球のせいで割を食うのが我慢ならないんだよな。

 

なんか上手くまとめられなかったのでこの辺で。

2021-08-04

風邪程度って言うけど風邪きついよね

毎回風邪引くと38-39くらいの熱出て意識朦朧として、まともに出歩くこともできなくなる

なんか世間一般イメージしてる風邪って引き始めの数日だけじゃない?

喉がー鼻水がーw

いやいや、熱で脳や体の節々がやられてまともに動くのキツいんだが

2021-07-31

anond:20210731203448

肥満はヒットする。

高脂血症のケがあって脳がアレする可能性が常人よりは高い。二親等以内に脳やって亡くなった身内がいるし。別の持病で薬飲んでてその副作用血圧常時高めだし。

何より、一人暮らしで高熱出して意識朦朧レベルまで行ったら素で衣食に困るし、最悪救急車も呼べなくなって死ぬだろ。

今だと呼んでも搬送先がないとか言って自宅に戻される可能性も高いが。

2021-07-28

ダイジェスト

入院してした病室の、または入院できずに自室のテレビで、高熱や咳にうなされながら見オリンピックの実況が、自分を通り越して室内を満たして。たまに朦朧とする意識の中で、あぁ、あのとき飲み会行かなきゃ良かったな、とか、警戒を怠りすぎたかな、とか沸き出る後悔と対面して。最悪の場合、このまま死んでしまうんだろうかという怖れ、このオリンピックダイジェストのように人生を振り返ることもなく、単純な意識消滅として訪れる自分の結末、それを何より怖れる気持ちが消せなくて。朝、浅い眠りから、蝉の耳障りな鳴き声で引き戻されたとき、あの虫たちのようにせめて鳴きわめきたい、自分の生きた証、最期の輝き、怒りや悲しみの放出それからドアの前に倒れ込みたいと。そう思っている人がいま、いるかもしれない、2021年の夏。

2021-07-23

コロナワクチンを接種して副作用から生還する方法

看病してくれる人がいないと衰弱死するリスクインフルエンザ程度には高そうなので対策を考える。

あくま個人意見です内容の正否はすべて自己責任判断してください。

## 問題

## 対策

2021-07-05

今はちょっとだけ大丈夫になったと思う

足の遅い小学生だった。

マラソン大会など苦痛で仕方がないものの極地で、練習で校庭を10周すべきところ何周走ったかなんて片手を過ぎないうちにもうわからなくなっていた。

酸欠で朦朧とし始めた頃、視界の端にゴールとそこに向かう同級生が見えて、苦しさから解放されたい一心でそちらにフラフラと吸い寄せられた。ゴールの向こうに座って並んでいるのは一人だけだった。足が人一倍遅い自分が二着の札を受けとっているのはどう考えてもおかしいのだが、一周足りなかったと気づくのにしばらくかかった。

学年で一番脚の早い一着の彼女に「すごいね!頑張ったね。」って言われて、数え間違ったことを言えなくなってしまった。それを言えなかった自分よりも、誰からも「一周足りなかったでしょwww」って言ってもらえないことを呪った。

授業が終わるまでの十数分が永遠のようだった。

2021-06-28

「ドカ食い下痢部」創設のお知らせ

ドカ食い気絶部の姉妹部として

「ドカ食い下痢部」を創設する事にしました。

活動内容

昼食にカップ焼きそばおよびクッキー5枚、またはそれと同等の脂質・糖質いただきます

6時間後、激しい嘔吐下痢が起き、意識朦朧します。それが3時間程度続きます

それを増田に報告します。



みなさん奮ってご参加ください。

以 上

2021-06-26

したたかに酔っ払って増田を書くのは面白い

朦朧としながら書いたようなので書いたことを結構忘れてる。

それでいて自分が書いたことだから機微や経緯が手にとるようにわかる。

自分言葉他人が書いたもののように読めるのは実に新鮮な体験だ。

金曜か土曜の夜でへべれけになったらまた今度もやってみたい。

2021-06-12

anond:20210611105750

深夜練習とかあるサークルだったから、カフェイン系の飲み物重要だったけど値が張るので

bodystrongのカフェイン200mgのでっかい錠剤買って、練習前に飲んでた。ただ「力が漲る」とかそういう感じじゃなくて

寝たいけど寝れない、疲れてるのに休めない感覚に近かったように思う。

なんでか理由調べてみたら、エナドリ本領ブドウ糖を一気に摂取することによる脳の覚醒+カフェイン

カフェインだけだと「覚醒」だけで力が出ない事が分かった。コーラとかといっしょに飲むといいかもしれない


今は酒飲む前に錠剤の3分の1を齧ったり(酔って意識朦朧とする事が少なくなる)時間が無いときに齧ってるが

コーヒー緑茶の方が自然覚醒する感じがあるし、エナドリの方がパワー出る感じがする

日用的に使ってるとなんかだるい日が続いたりするので、そういう時は一週間カフェイン抜きをしてる


おすすめかって言われると「用途によっては勧める」感じだが

慣れてないと心臓バクバクで「覚醒を強いられてるんだ!!」って感じになって苦しくなるので、徐々に慣らしていくのを勧める

心臓弱い人は飲まないほうが良い

2021-05-29

出産時、尻が爆発するかと思った

先程、第一子を出産してきた。自然分娩で誘発剤を使用してだった。体は思っていた以上にガクガクしており、胃が気持ち悪いのに寝付けない。そのためこの時間に書いている。

分娩施設を決定する際、自然分娩を選択したら周りの先輩ママさんから沢山「痛いよ!」とご忠告を受けた。鼻からスイカだのドラム缶だのとの例えをよく耳にしては、娩出時がさぞかし痛いんだろうと想像していた。産休に入ってからは、イメージトレーニングも兼ねてTwitter出産レポートを読み漁っていた。じわじわ陣痛が増強し、耐えられなくなっていくお母さんたちの描写を読んで覚悟を決めなくちゃなあ、と思う傍ら、目についたのが「いきみたいのに子宮口全開になるまでいきめないのが辛い」と言うレポートだった。いきみたいとはなんぞや、猛烈にうんこを踏ん張りたいけど踏ん張れないようなものか、と想像し、最大限に尻の穴を閉めればなんとかなるのでは、と思っていた。出産までは。

予定日超過しても陣痛が来ないことによる誘発分娩だったので、入院してからバルーン挿入やら促進剤の点滴を開始ししばらくするまでは余裕があった。重たい生理痛程度の痛みであれば、助産師さんと笑顔で話をしたり携帯を少しいじる程度には。しかし、尻のあたりに異変が起きてから余裕なんて急に吹き飛んだ。

はじめは「あれ、陣痛に合わせて屁が出そう」という感覚だった。陣痛消失すると共にそいつも消えるので、「屁に見せかけたいきみたさってやつかな、そいつには引っ掛からねえよ」と内心笑っていた。

しかし徐々に子ども子宮口に近づくにつれて、まず陣痛の痛みが尋常じゃないくらいに増した。それまでは深呼吸を4-5回すれば波は引いて行ったのに、深呼吸しているうちに痛みの波がピークに登っていく。そして、そこに突如尻が爆発しそうな衝撃が襲ってきた。屁なんて可愛いもんじゃない。うんこだかなんだかもうわからない。全部ぶちまけてしまえと言われてるような衝撃だった。もちろん尻の穴をリラックスさせたり閉じたりして、深呼吸にて乗り切ろうとする。3回、4回となんとかその波を乗り切った。しか陣痛はより強まり、尻の穴から何かを出そうとする感覚を抑えようとするうちに体中に力が入る。尻だけではなく体幹や太もももビクビク動き、その時だけは陸に揚げられた魚のような気分になった。

助産師さんからは「子宮口が全開になるまでは、いきみたい感覚が来てもいきまず頑張りましょうね。それまでにいきむとお股がズタズタに裂けちゃうから」と説明を受けた。尻が爆発しそうになった際の子宮口は9cm。あとわずかに子宮口が開くまでの時間が果てしなく長く感じた。

かつて何回かうんこを漏らしそうになったことはある。その時も脂汗が止まら死ぬかと思ったが、出産時のいきみたさはそれとは違った。痛い、苦しい、出したい、耐えられない、もう何もかも漏らしていい、でもいきんではいけない。そんな感覚が1分おきに襲ってくること約30分。頭がおかしくなるかと思った。波が来る都度呼吸に集中し、尻の穴あたりの力を抜くことに全力を尽くした。助産師さんに謝りつつ、何度も尻やら股周りを押したりさすったりしてもらった。助産師さんがいなければ、尻の圧力に負けて何度いきんでいただろうかと思うと頭が上がらない。

その後子宮口全開のため、分娩姿勢に入った。楽になったかと思いきや、尻が爆発しそうなタイミング自分が踏ん張るタイミングちょっとずれたりしてもどかしいのだ。しか陣痛と、今まで体に力が入っていた分の疲れが相まって娩出のために頑張りきれず、半ば朦朧としていた。最早頑張ろうなどと自分を奮い立たせることもできず、助産師さんの声かけに従うだけの状態になりながら踏ん張っていたら、子どもが産まれてくれた。

子ども可愛いものすごく可愛い。だが陣痛の痛みと尻の圧力解放されたこともどうしようもなく嬉しい。それほど初めてのお産はしんどかった。

次に子どもを授かることができれば、できれば無痛分娩がいいと今は考えている。「無痛分娩は楽をしている、出産は痛みを乗り越えてこそだ」と言う意見があるのも知っているし、無痛分娩リスクも知っている。しかし、もう一度あの猛烈な痛みと爆発しそうな尻の圧力体験しろと言われたら、私は無痛分娩選択したい。

今、産後ハイの状況だと自覚している。読みづらい文章を長々書いて申し訳ない。

最後に、サンシャイン池崎氏の呼吸法は本当に役立ちました。朦朧とした頭の中にサンシャイン池崎氏が全力で呼吸している姿が目に浮かんで頑張れました。この場をお借りして感謝気持ちを伝えられたらと思います

2021-05-18

自殺未遂前のことについて①

結局あのあと自殺未遂した。で、自殺未遂のあと結局どうなったかというと、今は学部時代以来に久々に止まっていた時間が動き出したかのようになった。

自殺未遂以前の状態は最悪だった。自殺未遂する以前の数年間は今思っても哀れ以外のなにものでもない。

通っていた病院先生治療方針は、身体的な問題に対するうつ状態へのアプローチだった。睡眠不足睡眠の質が原因、野菜を食べること、運動すること…

私は、謎の原因で毎日毎日つらかった。まず朝起きたくない。起きたら一日が始まってしまうから。さて、起きたらどんな一日が始まるか。自分の出来なさに対する懺悔今日こそは打破するという決心、しかし動かなくなってしまった身体。いや、正確には謎の夢から醒めるところから。夢の典型パターンとしては、謎の義務ルール存在していて、それを私が知らないうちに破ってしまうこと。そして、私には次の仕事があること。朝、目が覚めると、「私はまだあの仕事が終わっていない。起きてはいけない。戻らなきゃいけない‥でも夢なのか。あれは夢なのだから現実のやらなきゃいけないことをやらないと‥」と毎朝朦朧とした意識のなかで目が覚める。目が醒めてもベッドから起きない。かろうじてくだらないまとめサイトには指と脳が動く。そのうちに睡眠欲が私の頭を殴ってきていつの間にか寝てしまう。そしてまた夢を見る。これを3回くらい繰り返すと14時とか15時になっていて、流石に大学に足に運ぶ。日が少しずつ傾き始めている通学路を歩く。コンクリート匂いと鳥の声と木のざわめきがする坂を歩いていく。火照ったからだを冷やすため、あるいは冷えたからだをあたためるために売店飲み物を買う。そして、研究室に向かう。少しでも運動量を増やそうと思ってひんやりとした研究棟の階段を登る。けれど、なんだか貧血がしてくる。階段の踊り場で壁によりかかる。そしてまた、動く決心をして研究室の扉を開く。そして笑顔研究室の仲間に挨拶する。おどけて笑って、研究室の後輩にフランクに話しかけたり、留学生生活上の困ってることを相談されたら、そんなの私がかわりに電話してあげるよ、と言う。そして、まったく働かない頭をデスク前に置いて時間を過ごしていく。そんなイツモドオリの日々。

もう6、7年もこんな生活だ。もうさすがに破綻だろう。だから、1ヶ月まるまる実家でなにもせず過ごしてみたりした。医師の言うことをやってみせた。毎週2、3日は大学温水プールで泳ぐか、ランニングをした。緑黄色野菜も食べた。睡眠も不足にならないように8時間はかならずキープした。でもよくならない。

だれもいない更衣室、塩素匂い、誰かのシャワーの音。どこか遠い場所でのことみたいだった。100メートルも泳げなかった私は1キロメートル泳げるようになっていたころにもそれらの感覚は鈍いままだった。

ランニングするのは嫌いじゃなかったけれど、走っていると思考自分を責めていく。このままではいけない。けれど、そう焦っている事自体がだめだ。リラックスするべきだ。次の計画はどうしよう。まずは健康が先決だ。うつ状態の人はセロトニンが分泌されていないらしい…


学生の間ずっとお金がないので自炊は得意だった。かぼちゃほうれん草トマトキャベツブロッコリー牛肉豚肉鶏肉、鮭、納豆豆腐ヨーグルト。こういったものをよく食べた。家で作ったご飯大学に持っていって食べたりしていた。

でも、もうネットサーフィンくらいしかできないくらいになってしまった。研究はしていたけれど研究風のなにかであって、先生に、もはやタスクレベルに分解してもらって、それをようやくとりかかるもこなすことができない。

普段イツモドオリの私だけれど仲のいい先生たちには徐々に私のくらさを露呈していくようになる。

けれど先生たちはそんな私にも良くしてくれた。どこかイベントに誘ってくれたり、意味のない雑談を何時間もしてくれたり。けれど、良くしようと思ってくれればくれるほどただ苦しいだけだった。

暖かい日差しのもとで、木々木漏れ日が湖畔を彩っていた。そんな素晴らしい風景も、たしかきれいなのだけど、きれいなものを見ても心動かされない自分の状況の衰退が際立たせられているだけに思えた。

鈍っていく自分感覚自分感覚がどんどん信じられなくなっていく。

せめて苦しみを苦しみとして自分認識たかった。

リストカットなどをしたら痕が残ってしまう。だから、痕にならない針を腕にさして苦痛を感じた。「こんな私でも痛いときちんと思えるんだ」という安堵があった。

2021-05-16

ワンオペ育児無理難題から。(30歳男性

今年の1月に初めての子どもが産まれたので、出産に併せて育児休暇を取ることにした。

育児休暇を、取ることを決めたのは、共働きだし、家事も分担制なので、育児だけ妻にさせるのはフェアではないし

また職場育児休暇をとることを推奨していたからだ。

三か月なのは、最短で保育所に預けれるのがそれくらいだということだったからだ。

長期間育児休暇を取ることを、伝えると、多くの人に「奥さんが働くの?」と聞かれた。なるほどいっしょに休暇を取るという発想は、まだまだ浸透していないのだなと感じた。

育児が大変なのは、いろんな媒体で見たり聞いたりしていたが、正直子ども一人に対して、休んでいる大人が二人いれば、余裕だろうと思っていたが、初めての育児はそんなに甘くなかった。

最初の1、2か月は二人いてぎりぎりだった。

というのも産後の体力の低下により、妻が病気発症し、入院することになったからだ。両方の両親は高齢かつ遠方なので頼れなかった。

二人で行うはずの育児がいきなり、ワンオペ育児になってしまった。

わかったことは、ワンオペ育児心理的・肉体的負担が強い。

24時間気持ちの切り替えができない。

子どもが産まれた瞬間から、常に子ども存在が傍にある。子の傍から離れることはできない。自分が世話をしないと子は死ぬ。このプレッシャー毎日ずっと続く。

仕事は定時に始まって定時に終わるから切り替えができるが、育児にそれがない。

肉体的に辛いのは、寝れないことに尽きる。

新生児は2、3時間に一回授乳を求めて、泣き叫ぶ。おっぱいミルクをあげれば、またすぐに寝るわけでもない。

そこから抱っこして、あやして、寝たと思って、ベッドに置いたら、また泣き叫ぶ。そんなことを繰り返してようやく寝てくれる。

それが1時間2時間続くこともある、気づいたときには次の授乳が迫っている。

仕事をしているだけのほうが育児の何倍も楽だが、あえて仕事に当てはめるなら、早朝勤務があって、そのまま日中の勤務もありつつ、夜間深夜勤務もあり、翌日もそのまま早朝勤務というルーティン毎日続く。

休日などない。

寝ても覚めても仕事が続く。気持ちの切り替えなどできない、肉体的にも辛い。どんなブラック企業だ。

さらにだ、これに家事プラスされる。

自分ご飯など二の次、三の次だったがそれ以外にも、毎日出る洗濯物と、洗い物、ゴミ捨て、日用品の補充、買い出し。

新生児を抱えている以上、おいそれと出かけることは、心理的肉体的にもハードが高すぎる。

ここまでくると、いったい何の罰ゲームをさせられているのだと、混乱し、毎日がいっぱいいっぱいで、どうしようもなくなってくる。

食欲もなくなり、体重は減少した。

子どもはまったく可愛くなくなってくる。

何をしても、泣き止まない子供を、抱っこしていると逆に憎しみすら湧いてくるようになる。

睡眠不足朦朧した頭で、助けを求める気力すら湧いてこない。

新生児は泣いているとき以外は、天井を見つめて、バタバタと動くのみで、自宅にいると孤立感と孤独感が襲ってくる。

この世界自分子どもと、ふたりぼっちなんだと、何かあっても、どうすることもできないと恐怖すら感じ涙が出てくる。

今余裕が出て、こうして振り返ると、そんなことはない、多少離れても問題ないと思う。

当時は余裕がなさ過ぎて、産後うつに入りかけていたと思う。

育児をしてみるとわかる。新生児期は特にワンオペ育児をするべきではない。

女性特に産後一か月は体力が戻らない、実際うちの妻は産前ばりばりの運動家健康だった。結婚してから2年たつが、一度も体調を崩したことはなかった。

自分も休んでいたので、家事全般は全部自分がして、妻には授乳だけをしてもらうような体制を作っていた。

そんな妻でさえ、産後精神的に落ち込み、体力も低下したことにより病気になってしまった。

これから出産を控えている人に言いたいのは、ワンオペ育児をさせない方が良い。

少しでも休んでもらって、育児してもらうのはもちろんだが、気持ちの切り替えと、睡眠不足解消のため、協力してもらった方が良い。

基本的には妻が休んで育児するパータンが多いだろうから

夫は休めないのなら、産後一か月は体力の回復のため里帰りをしてもらうか、どちからの親を読んでサポートをしてもらう。

それも無理なら、産後ケア施設というものがある。母子で1か月ほど入所できる施設だ。費用はかかるが、補助をしている自治体もある。

うちは二人休んでれば余裕だと思って、どちらかが倒れた時の心の準備が足りていなかった。これはパートナーが休んでいようといないと起きうることだから

なんかネガティブなことをばかり書いたが、2か月が過ぎたくらいで、子ども笑顔が出るようになったり、夜寝るようになってから余裕ができて、子ども可愛いし、育児楽しいし、成長に感動する。

これからも大変だとは思うけど、頑張れる気がする。

2021-05-12

iPodがないと不安


20代女性です。私はipodがないと不安なんです。音楽をいつもボリゥムを最大にしてイャホンで聞ける状態でなければ電車に乗ることができません。出掛けに忘れたりする事があってとても不便な思いをします。その場合はたとえ約束があっても取りに戻ります。そうしないと音楽をイャホンで聴いていない状態で外出を長時間続けると背中やこめかみ足の裏掌に汗をかいてきます不安で顔を上げることができません。なるべく他人に見られないように脇をしめて肩幅を縮めて両肩のラインより後頭部を上に出さな心持ちで早足になっていきます。そうして早くこの状態から逃れるためにipodのところへ向かいます。この時が最も危険心臓の鼓動も早くなり耳鳴り頭痛で倒れそうになってしまます。光の粒が頭の周りを囲むようにたくさん浮遊しながらジグザグに降りてきます。その数が段々増えてくるとまた動きも早くなり、見てはいけないと思いながらもつい目で追ってしま眩暈を起こして転んだ事もあります。また出かけるときになってipodを用意していると充電が不十分ですぐに電池が切れてしまいそうな時があり、出かけるのを中止してしまう事もあるのです。出先で電池が切れてしまったら恐ろしくてどうしていいのかわかりません。ですから電池満タンの時でも常に充電するためのコードを持ち歩いていますコードカバンの底の進行方右手ポケットの中とカバンの外ポケットの中と肩掛けベルトの中に(縫い目をほどいておもて地と裏地の間にはさみ込んで軽く縫い合わせてあります。我ながらとてもうまく考えたものだと思います。)、それぞれ計3本を常に持ち歩いていて不測の事態に備えていますしかしご存知かもしれませんがipodは充電式なので電池が切れてしまった場合はたとえこうして充電コードを持っていてもコンセントがなければ意味がありません!そのことを考えるとまた掌が湿ってきて心臓も早くなり息を吸っても苦しくなって耳も聞こえなくなってきて頭が朦朧としてきてしまます。みんな他の人は平気なのでしょうか? 私だけがこんな風になっているのでしょうか。

最近よく思うのですが耳にイャホンやヘッドホンをつけてなくっても音が直接聞こえる新しいバージョンipodが出ていてみんなはそれを使っているので平気なのではないでしょうか? そしてその新しいバージョンは直接頭脳音楽が聞こえてくる仕組みでもちろん手術で頭の中に埋め込まなくてはいけないでしょう。高いのではないでしょうか。今の私には新しいバージョンで手術を受けるだけのお金が用意できないでしょう。でもとっくにみんな多くの人がその手術で新しいバージョンになっていてそうしたらどんなに楽しくて快適でいやなことがひとつもない暮らしなんだろうと羨ましくて悲しくなってきます相談できる友人にも聞いてみたのですがそんなことはないと私だけではないと言ってくれるのですが私はやっぱり信じられないのです。その友達がイャホンをしていないのに音楽が常に流れているように楽しそうに笑ったりしているのを見ると憎くて裏切られた気持ちになってきます。私だけが新しいバージョンの知らせを受けていないのでしょうか?ご存知かもしれませんがipodパソコンに繋げると時々新しいバージョンのお知らせが来たりします。ある時私は間違ってその時のお知らせをいいえでクリックしてしまったのです。その日からお知らせがくる回数が随分減ってしまっているようなのです。その友達パソコンを覗いたことがあるのですが私に来ているよりもたくさんのお知らせが来ているのです。もちろんそう言って見せてくれるように頼んだのですが友達は意地悪でそんなことはないと見せてくれなくなりました。どう考えてもその時を境にパソコンのガードが固くなったとしか考えられません。クリックでいいえをしてしまった(たとえ間違っていたとしても)場合はその人に絶対情報を教えてはいけないというようなお知らせも同時に送られているのかもしれません。私はしてしまったのでもうそのお知らせも見る事ができませんが。どうかいいえをクリックしないままでそのお知らせを見せてもらえないでしょうか。そしてあたらしい最新の直接聞こえてくるタイプバージョンipodの手術を受けさせてもらえないでしょうか。万一お金が高くて足りない場合もこれからちょっとずつ貯金をしていくのでその具体的な情報が知りたいのです。お願いします。

2021-05-06

くしゃみ

喉がイガイガする

頭が朦朧とする

ずっと寝ていたい

鼻水が出る

呼吸が苦しい

体温はあったかい感じがするが手先は冷たい


わりぃちょっとしんどい

2021-04-20

39歳男児二人持ちコロナ陽性者備忘録

背景

昨晩深夜にコロナ陽性ですと、電話がかかってきた。

え、このあとどうすれば、と思いながら電話が切れて、そういえば、増田に陽性判定から隔離されるまでのメモ書いてる人がいたような…と思ったけど探せなかったので、自分メモとして残す。

増田検索ってブクマしてなかったら見つからないよね…

前提

大阪市内在住

今は軽症

6歳3歳の男児持ち

初期症状が出た週の前半から保健所連絡くるまで(更新中)

4/13

2週間ぶりに出社

電車は座れたがそこそこ混んでた

症状無し

4/14-15

テレワーク

一歩も家から出ず

4/16

テレワーク

美容院

接骨院

4/17

雨のため子供と家のなかで遊ぶ

4/18

熱 37.5

寒気、倦怠感

  • 16:00

熱 38.5

頭痛、寝てるのもしんどい

少し遅かったかもしれないが隔離部屋作成

熱 39.2

辛い、しんどいをうめき続ける

ほとんど寝れず朝に

4/19
  • 9:00

熱 37.8

かかりつけ医発熱患者受け入れないし、紹介もしてくれなかった。咳は出てないし、匂いもあるし、感染経路思い当たる節がないけど、陰性確定しないことには奥さん仕事いけないし、子ども学校にいけない。

大阪PCR検査センターチャリ朦朧としながら向かう。40分以上、外で並ぶ。

唾液を試験管みたいなのに自分でいれるやつ。

  • 13:00

耳鼻科時間外に発熱外来やってるらしく、予約して通院。何か薬がほしい。

コロナインフルの抗原検査やってもらう。陰性。

ひとまず安心抗生物質カロナールと痛み止をもらう

熱 37.7

奥さんと上の子が喉が痛いといいだす。

熱 37.3

奥さん 熱 37.9

PCR陽性を告げる電話が入る

保健所からは2、3日後に連絡がくるらしい。

4/19

奥さん子供らのPCR検査の予約をとる。

濃厚接触者の検査プロセスは明確だ

奥さんの熱は平熱に下がる

今ここ

1年間飲み会も行ってないし、仕事テレワーク会社に行くのも月1、2やのに、罹患するとき罹患するんやなというお話

保健所から電話かかってくるまで何してたらいいんですか?奥さんがどんどん不機嫌になっていきます

2021-03-29

子持ちリベラルってどう整合性とってんの?

本当に謎

リベラルの鉄則のひとつに、合意を大切にするっていうのがあるじゃん

「仲が良くて『いい雰囲気』であろうと、酒で意識朦朧としている人と性行為を行ってはいけない」 これに反対するリベラル人はそういないだろう

子供を作るときって、子供同意とってなくねえ?

そもそも同意なんてとれないんだから無効」みたいな反論ダメだと思う 

その理屈だと、知的能力がなく、将来戻る可能性もない人、たとえば重度障害者にはなにをやってもいいことになる

同意をとれないんだったらやらない」、そうですよね?

セックスには絶対同意必要だけど、人生を始めさせる場合には不要、って価値観は謎すぎる

どうしてるんですか?

というか、まあゴリゴリリベラルの皆さんは子供持ってない印象はあるので、子持ちの人は似非リベラルで、自分気持ち良くなるためだけに動いてるってことなのかしら

ならしかし、人道派みたいな顔はやめてほしいもんだよなあ!

2021-03-05

幽霊の正体みたり

十代半ば、実家にアレコレが起こり、数年で家を失うことが確定していた。

実家はそれなりに商売成功しており、数年前に家は建て替えられ、わたしには念願の自室が与えられていた。

自室には天窓があり、屋上への出入り口があり、屋上からは外に降りる階段も設置されていたので、ここぞと自由謳歌していた矢先。

両親は怒声を上げながら責任押し付けあう喧嘩をし、子どもたちは仲裁をしながら泣いた。

この頃、わたしは眠れなくなった。明け方頃にやっと眠れたと思うと、一瞬で目覚ましベルが鳴った。授業中も意識朦朧とし、学業の成績は下がった。

眠れないと、夜の時間は長い。布団に入ったまま、天窓から何も見えない空を眺め続けた。

そうしていると、キシッ、ピシッ、と階段が軋むような音がする。

パキリ、カリッ、と窓に何かが当たるような音がする。

そうしてついには金縛りにあう。それまでに体験したことのない現象に、わたしは恐怖した。これはもしかして心霊現象怪奇現象、そういうものに襲われているのではないか、と。

自室を失ってしばらくすると、そうした現象は収まった。一家それぞれのベッドルームはなくなり、すぐ隣で家族の寝息が聞こえた。煩かったが、金縛りよりはだいぶマシだった。

2021-03-04

切なくて目が覚める

若い頃に片思いをしていた子と夢の中で会った。

会ったというか、なにかのイベントで偶然見かけて声をかけようと思ったが、

なかなかタイミングが合わずに切ない思いをしているうちに、

その切なさが高じて声をかける前に目が覚めてしまった。

夢の中まで自分へたれだった。

大昔に吹っ切れていたと思っていたのに、自分の中でまだ未練があったのかとすこし驚いた。

しかしたら死ぬ直前の意識朦朧とした中でもその子のことを思い出しているのかもしれないと思った。

夢の中でなく、もう一度会いたい。

いまどこでなにをしているのだろう。

中年になった彼女に会ってがっかりしてきれいに忘れてしまいたい。

2021-03-03

anond:20210303070050

残存体力と残存時間(の、自己測定と割り切り)は重要だよね

極端な話、日曜夜中11時に朦朧喀血しながら役所に這って行っても何もしてくれないわけですよ

2021-02-23

これから障害者雇用の門を叩く者の所感

皆の感想が欲しい。

コメントの辛さはお好みで。

「できない」に合わせて仕事を選ぶのは、一つの手段として大変意義のあることだと思う。「できない日」でもできることだからこそ、その仕事を長年続けていけるのである

 しかし、「できる日」と「できない日」の差が激しい場合、その間で板挟みになり、どちらも選べない状態になる事もある。今の私がそうだ。

 私は「できる日」は、大変人と話すことが好きである。色々なことに興味が湧くし、多様な意見を聞き、上手いタイミング質問することができるのだ。そんな日は、話すことでドーパミンが湯水の如く湧き出すのを感じる。

 しかし「できない日」は悲惨だ。頭が朦朧として、思考回路ショート寸前、今すぐ寝たいのである

また、頭が回らない故に会話の内容も入って来ず、生返事の繰り返しだ。そんなコミュニケーション自己嫌悪と嫌われる恐怖を覚える。

 このような場合仕事選びを「できない日」に合わせると「できる日」は仕事レベルが大変低く感じ、さやかのようにすぐにソウルジェムが濁り魔女になる。

 反対に「できる日」に合わせると、「できない日」に仕事をすることは目でピーナッツを噛むくらい困難であり、ドラえもんも裸足で逃げ出すのである

 「できない日」を「できる日」の近くまで引き上げるのが喫緊課題だが、それは明日自分に託して今日の私はルイズ抱き枕とともにハルキゲニアへ旅立つのであった。

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