はてなキーワード: 喀血とは
前にこれ書いた https://anond.hatelabo.jp/20210827202227
偽陰性じゃないのかという疑念を払拭しきれず、他増田の勧めもあり結局昨日またPCRしてきた。
(中略)
院長呼んでと言って診察室を出て行った。
ワイ、前回よりめちゃくちゃ咳き込む。出てくる痰が痰というかもう喀血になってきてる。
ああ。誤診で遅れさえしなければこんなことにはならんかったのに……、そう思いながら少し医療に憎しみを覚え、しかしそれは技術的な限度であり、お門違いだと思い直す。ワイ、寂しさの中、死期を悟る。
院長来る。
院長「やっぱただの風邪やね😊」
ワイ「風邪かー😆」
院長「心配なのはわかるけど、こんなに頻繁に来院するとかえってリスク高いよ。あと血を吐くくらいなら仕事休んで😡」
ワイ「す、すんません……😨」
え、それでこの喀血はなんなの?
外科でできる手術は終え、転移があるので抗がん剤治療を長く続けたが、結果進行を止める術はすでになくなり、抗がん剤を入れたところで副作用がつらいだけ、という状況に至った場合、抗がん剤をやめ痛みの緩和を主眼に置き、残された人生の質を向上させ静かに死んでいく選択肢を、現在すでに選ぶことが可能になっている。
そういった経緯で基本的にはできることがなくなり、自宅で介護の後に親を看取った。がんになったことがないので全身を襲う痛みの辛さは分からないが、痛みを緩和する医療麻薬入りの貼薬では効かなくなり、その場合座薬を使うが、これを入れるのも相当に痛がる。意識も(麻薬いれてるんだから当然だが)あやふやな感じになり、これでQOLマジで上がってんのかよとも思うが、家にいること、家族が側にいることはやはり大きく違うようだ。最終的には大きく喀血し、多臓器不全で亡くなった。
はたしてこれは安楽死とは違うのだろうか? 抗がん剤を入れ続ければ、おそらくあと数カ月の延命は可能だったろう。その分の命を奪う行為であることは違いないはずだ。その選択をした本人や家族や医師は、医療の不作為による殺人、あるいは嘱託殺人には当たらないのだろうか?
外科でできる手術は終え、転移があるので抗がん剤治療を長く続けたが、結果進行を止める術はすでになくなり、抗がん剤を入れたところで副作用がつらいだけ、という状況に至った場合、抗がん剤をやめ痛みの緩和を主眼に置き、残された人生の質を向上させ静かに死んでいく選択肢を、現在すでに選ぶことが可能になっている。
そういった経緯で基本的にはできることがなくなり、自宅で介護の後に親を看取った。がんになったことがないので全身を襲う痛みの辛さは分からないが、痛みを緩和する医療麻薬入りの貼薬では効かなくなり、その場合座薬を使うが、これを入れるのも相当に痛がる。意識も(麻薬いれてるんだから当然だが)あやふやな感じになり、これでQOLマジで上がってんのかよとも思うが、家にいること、家族が側にいることはやはり大きく違うようだ。最終的には大きく喀血し、多臓器不全で亡くなった。
はたしてこれは安楽死とは違うのだろうか? 抗がん剤を入れ続ければ、おそらくあと数カ月の延命は可能だったろう。その分の命を奪う行為であることは違いないはずだ。その選択をした本人や家族や医師は、医療の不作為による殺人、あるいは嘱託殺人には当たらないのだろうか?
たぶん、あの時のことを覚えているのはアラフォー以上の世代なのだろうが、
昭和天皇がなくなる前の数ヶ月間の雰囲気は、今思えば異様だった。
たしか、9月ごろに一旦かなり危ない状態になってから、数ヶ月持ちこたえられたせいもあって、
自粛によってさまざまな行事が中止になったり、テレビ番組が差し替えになったり、CMで「おげんきですか~?」と叫ぶ井上陽水の映像が口パクになったり、
実にいろんなことがあった。
「天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。」
という一説に、ピンと来ない人もいるようだが、
もし、昭和の最後と同じようなことが行われるとしたら、確実に影響はでる。
個人的によく覚えているのは、あの数ヶ月間、天皇のご病状と称して、
毎日、テレビで、体温、脈拍、血圧などの数値が報道されていたことだ。
しかも、吐血や下血があったとかなかったとか、その量がどうだったのか、なんてことも逐一報じられていた。
「下血」「喀血」「吐血」という言葉の正確な意味や使い分けをを知ったのは、あの時だった。
「毎日、ケツから血が出たのでないのって報道されるなんて、天皇ってほんと大変だな」と思ったものである。
なにしろ天皇陛下のご容態は全国民が固唾を飲んで見守っているという建前の下、そんなことが行われていたのだが、
今考えれば、死を迎えようとしている老人に対する、ずいぶんな人権侵害だったと思う。
もちろん、今回の「お気持ち」の内容は、象徴天皇のあり方とか、国民と皇室の関係とか、いろいろと考え抜かれた上でのものだと思うが、
やはり、あのときの記憶が、今上天皇のお気持ちの中にあったのではないかと、推察する。
いままでは誕生日を迎えても特に何か思うわけでもなく、単純に年齢が+1されただけだとか、これを口実にだれかに奢ってもらおうウェッヘッヘ!ぐらいにしか思ってなかったんだけど、この1年は今までとは違った。
辛いことがあったし、(おっさんが言うことではないとは思うが)大人になったのかなとも思う。
一番に辛かったことは、大好きだった母方の祖父が亡くなったこと。
※そして見返したら祖父のことしか書いてなかった…
胃を全部取ったとしても良くて余命1年程度だろうとの先生のほぼ予測通り、7月に亡くなった。
胃の上部に癌が見つかったため、胃の全摘が必要となった。(部位によっては半分摘出や、部分摘出が可能だったらしいが、上部の場合はほぼ全摘となるらしい。)
胃の全摘手術後しばらくしてから退院できた時期があって、お医者さんからも無理しない範囲で本人の好きなことをやらせてあげてくださいと言われていたので、温泉旅行に連れて行ったり、鰻料理屋でビール飲みながら鰻重を食べたりした。
また、当初は団地の4階に住んでいたのだが、日々弱っていっているような感じで、体力も落ちに落ちていて階段の上り下りが辛そうだったのもあり、母と相談していたところ運良く同じ棟の1階が空いたので引っ越しもした。
最終的には再入院し、そのままどんどん自分自身で日常生活を負えなくなっていった。
一番驚いたのは風呂だった。
本当に大好きだった風呂に自分で入れなくなり、しばらくは看護師さんに手伝ってもらって入浴していたけど、亡くなるまでの2
週間ぐらいはベッドから起き上がることすら辛かったようで、風呂に入りたがることすらなかった。(それでも体を拭いてあげるととても気持ちよさそうにしていたし、喜んでいた。)
亡くなる前々日、そろそろ危ないとお医者さんに言われので会社に休みのお願いをし、クソ忙しかったにも関わらず快く休ませてもらった。
そのような状況だったので、病院まで電車で30分ほどの母の家に泊まったが、夜中に喀血したと病院から連絡があり、すぐタクシーで向かった。
到着直後の祖父は、今にも死ぬんじゃないかという勢いで目を見開き、激しく肩で呼吸しているような状態で、酸素マスクをつけていた。
手助けもできず、見ているのが辛かった。
その晩は私、母、祖母、そして遠方から駆けつけた叔父の4人で病棟のフリースペースで過ごした。
翌日の昼頃には酸素マスクはつけていたものの、なんとなくレベルではあるが会話もでき、意志疎通がなんとか可能な状態だった。
祖母や母、叔父と「昨日は死ぬかもって思ったけど落ち着いたねーw」なんて話したのをよく覚えている。
そして祖父はその日、「眼鏡をかけたい」「入れ歯を入れたい」と要求したり、急にベッドの上で足を上げ下げし始め、リハビリのような運動をしようとし、その補助を私たちに要求していた。
(要求は主に発言しようとしているが、この時にはもうしっかり喋ることもできず、筆談しようにも祖父が上手く文字を書けない状態で、コミュニケーションも大変だったし、とても辛かった)
普段は絶対にしないような言動ばかりだった。
元々、子や孫に何かを要求したりしないし、迷惑をかけたがらない祖父だったので、そんな言動は珍しいな…としか思っていなかった。
今になれば分かる気がする。
そうして私の祖父は、家族が一旦帰った後に亡くなった。
やはり今でも、祖父の元気な時の写真や亡くなった直後の写真を見て悲しい気持ちになってしまう。
その一方で、もし祖父が健在であるならば、私が無事に年齢を重ねられることを当たり前だと思ってくれているだろうしそれを嬉しく思ってくれているんだろうな、そういう人だったな、と暖かい気持ちで祖父を思い出せる。
私が祖父が亡くなった時と同じ年齢になるまで、まだ50年近くあるから、それまでに祖父のように、子ども・孫・親戚だけでなく、老人会のみんなや地域のみんなに愛されるような、素敵なジジイになれるようになりたい。
http://anond.hatelabo.jp/20140825071636
こういう記事があったけどさ、本州の学校の夏休みの自由課題って「自由研究」固定なの?
あ、全部自分語りというかブコメの拡張なので無視してください。
いや、自分の通ってた学校は、自由研究も、工作や書なんかのアート作品でもよかったからさ。
小学生だったのもう14年も前だから、今の学校の状況はわからないんだけど。
「研究」もいいけど、ゼロから物を作る(これも研究?なのか)のもすてきだよ。
そういうのを楽しめる子なら、子どものパトスにまかせるのも良いと思うんだけどなあ。
自分は作ることが大好きだったので、とにかくめっちゃ楽しんでた。
宿題(ドリル)は全く無計画なのに自由課題はスケジュール立てて計画を練るくらい。
ちょっと覚えてる限り回想する。
①工作キットは使わない。
②コンセプトとアイデアと実際の作業は親に頼らない。やり方は教えてもらう。アドバイスももらう。
③おもちゃとして遊べる&普段使いできるものを作る(小6で見事に破った。理由は後述、というより読めばわかる的な)
水族館に行ったので、絵日記と連動して水族館のペーパークラフトを作った。
お菓子の空き箱の内側に色を塗り、背景の魚や海藻、サンゴを作って貼る。
厚紙に魚を書いて切り抜き、糸を貼り付けて箱内部に吊るす。
透明なセロファンの一部に、青色のマジックで波模様を描き、箱に貼ってふさぐ(水色のセロファンが売ってなかった)
親からはセロファンに霧吹きで水をかけてピンと張る方法を教えてもらいました。
仕上がりは水族館じゃなくて海じゃねーか、とつっこまれまし。
小2冬 おべんとう入れ
なかよしの懸賞でソーイングセットが当たったのではっちゃけて母親に縫い物を教えろと要求。
キルティングの布を買い、裁ちばさみを借りて、お弁当入れを作った。
型紙不要の巾着にマチをつけただけ、裏地もなし。
でもこれが結構丈夫で、いまでも買い物袋入れとして使っている。
小3夏 リコーダー入れ
小3でリコーダーを習ったのではっちゃけてリコーダー入れを作る。
冬のキルティングのあまりで、長い巾着&スナップボタンで止めるタイプの2種類を制作。
小3冬 マスコット
手芸にはまる時期。かがり縫いをマスターしたのでフェルトマスコットを作った。
猫とウサギ。綿が入ってるのは頭と胴体だけで、耳や手足はぺらぺらだった。
小4の秋くらいにウサギの首が取れておおいにへこむ。
小4夏 ドールハウス
小3の時に作ったマスコットであそぶための家。空き箱を悪魔合体して紙造、2階、延べ800㎠くらいの家を作る。
一階は広めで、そこに2つに区切った箱を立てれば1階の壁と2階のできあがりである。
展示から持ち帰った際に派手にぶっこわれる。
マスコットとドールハウスを失った私を哀れみ、サンタさんが、シルバニアファミリーの人形2体、「おとぎの国のおかしのおうち」をくれる
しかし、お菓子の家になぞ住んでられるか! と再度ドールハウスに挑戦。シルバニアスケールで作る。(親ごめん)
家具には一部木などを使用。かまぼこ板、割り箸、彫刻刀でベッドを作ろうとして指を削る。
人形あそびに飽き、従姉妹(今思えば同人便せんとか作ってたんだなあの人)の影響で元々趣味だった絵描きの技術(カラー彩色)を覚えた私は、全部イラストのトランプを作ろうと試みる。
大きめの厚紙製プライスカードを購入し、イラストを描く計画。しかし、デザイン段階で枚数の多さに挫折し、絵札のみ絵を記入。ほかはマークで済ました。
にもかかわらず、12回の自由研究で一番面倒臭かった気がする。
絵を描いただけじゃねえか、といわれそうだったので、トランプゲームを多少調べてノートに書いて添えた。
小5冬 着せ替え人形
もう絵なんか描くか!と思って手芸に戻る。ちょうど小5で本格的な裁縫セットも買ったし。
本体をフェルト、服は春夏秋冬それぞれの服を布で作った。ちなみに、瞳をカラーフェルト、まぶたやまつげのラインを刺繍で再現した、完全にアニメ調の顔である。たぶんゼノギアスにはまってたせいだと思う。
小6夏 なべしきになる鍋つかみ
正方形に切ったキルティングに、正方形の角を一つ切り落とした5角形を重ねて、ループを挟んで縫った。
いまでも実家で使用している。端の処理にバイアステープを使用しており、自分的には完全にロストテクノロジーである。
そして問題の小6冬。
どういうわけか自 作 小 説 を 提 出 。
いや、夢水清志郎シリーズとか、2、3年前に見ていたスレイヤーズの原作本に手を出したりとか、アルセーヌルパンにはまったりとか、シャーマンキングとか東京ミュウミュウにはまったりとかしたもので。
たしか美少女怪盗もの。プロットというか話しの運び方はコナンのキッド回とルパンスペシャル&一応本家ルパンから学んだ。
ミステリというより犯罪エンターテイメント。というよりラノベ。
主人公は洋菓子をひらがなにした名前(ミュウミュウの影響)。猫耳である。
猫 耳 で あ る。(付け耳)
原稿用紙にペン書きしたものを袋とじで製本。自作絵の表紙をつけた。吐血。
この前帰省した際に今読み返してみた(どういう訳か本文のコピーをとってある)ところ、まあひどかったが良い意味で今では書けない勢いがあった。
日本語もままならないまま文字を書く仕事に就いてしまった今となっては、家に帰って文字を打つだけでも苦痛だと言うに。
というわけで絵を描いたり黒歴史作ったり、黒歴史作ったり、して楽しいので、もっと創作系自由研究は増えるべきだと思うね!(苦笑い)
ちなみに中学時代は文化系が「文化部」しかなく、文化祭の時に展示することが主な活動だったので、中1の時は例の小説の続編を晒したよ!(喀血)