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はてなキーワード: 敬虔とは

2015-11-11

マカーにはカネの亡者もいる

林檎教にも宗派があるのですよ。

オシャレだから、使いやすから仕事上やむを得ず。

ユダヤ人みたいなものです。

ジョブズより取り巻きが有能だったと思っている""無神論者""もいれば、中道右派スタバドヤリング勢もいます

安上がりだからApple製品を選んでいる、不敬虔マカーもいますね。ええと、私です。

Macには保証書が付いていなくて、Appleが直接サポートします。だから新品なら、どこで買っても同じです。

で、ヤフオク価格.comで一番安いのを買うのです。

値段は同程度のWindowsマシンとさして変わりません。むしろ安い場合さえあります

AppleCare(3年保証)には入りません。

同じ型使っているユーザーが多いので、たいていのトラブル自己解決できます

eBayとかでパーツ(ロット多いから安い)買って、ラップトップの修理もできないわけではありません。修理手順を紹介する動画が、YouTubeやiFixitにアップされています

それに2年前後で買い替えた方がコスパいいので、3年も保証要りません。

ステッカーべたべた貼ったり、裸のままバックに放り込んで傷だらけにしなければ、2年後でも高く売れます。あと、化粧箱はとっておきましょう。

Windows, Android機に比べ、林檎製品は値崩れしにくいのです。中古iPhone相場を見れば、お分かりになるかと思います

MNPで安かったからなんとなくiPhone買った、みたいな層が林檎PCユーザーにもいるのです。

なので、スタバマックでドヤっているマカーは必ずしも中道右派ではなく、税制社会保障経済政策しか関心がない無党派層かもしれないのです。

すべてのユダヤ人が、イスラエル蛮行是認していると考えるのは間違っています

同じように、Appleでプルプルしていても、生暖かい視線を向けないでほしいものです。

2015-08-08

http://anond.hatelabo.jp/20150808104324

池に入るなんて本来タダのものを神とかご利益かい価値をつけて金を取る・・・みたいな発想をするんだよね。

その場でそう発言ちゃうのは空気が読めてないな、と思う。神事敬虔空気を楽しめばいいなと。

けど、彼女は騙されにくいと思うし良いと思うよ。少なくとも壺とか売りつけられることはない。

池の入泉料の話は、自分なら「神事で決まってるから300円」ではなく「大勢の人が池に入るから水質管理必要なんだよ、そのための費用で300円」と説明されると納得する。

2015-07-09

パンを踏まなかった娘

『パンをふんだ娘』ってあるじゃん? 水たまりを越えるための踏み台としてパンを投じて地獄に吸い込まれた話。

あれはたとえ敬虔にやっていても水たまりを飛び越えようとした瞬間にそのまま天に召されてバッドエンドだったと思うんだよね。

http://anond.hatelabo.jp/20150122011300

2015-06-26

おっさんニート改憲について語るよ

ゲーム提案


こんにちは自分は41歳の鬱病ニートです。一応まだ会社に籍はありますが、風前の灯です。年収は750万ですが、来月の給料は振り込まれないかもしれません。


さて、そんな自分が、有り余る暇と、借りてきた知識と、浅はかな理解を総動員して、以下、改憲について語ってみました。

しかし、しょせん居酒屋政治談義レベルです。あちこちに穴があろうかと思います。偉そうに語りながら自ら政治的活動を取ることは絶対にない、実行する立場で考えていない現実性のなさなど、大嫌いな民主党と同じです。立場の違いによって意見が異なる方も大勢いることでしょう。薬を飲んでいて集中力が持たないので、文章精緻とは言いがたい。

そこで諸賢にゲーム提案したい。

以下の駄文あなた立場で好きにブラッシュアップして、トラバにぶら下げてみてほしい。それぞれの記事ブコメの侃々諤々も楽しみたい。それで、改憲についての理解を深めさせてほしい。


憲法とは

(念のため:「憲法」=「日本国憲法」として書きます


国民基本的人権国際平和基準に、国体国家権力範囲規定したものだと捉えています


改憲憲法解釈について・あるいは護憲としての改憲


 集団的自衛権法整備について、”憲法解釈”で侃々諤々になっています自分も、今の進め方では法案違憲だと考えていますが、そもそもの問題は、憲法を不改常典のごとく扱うことだと思っています


 一般論として、人の作った物はなんであれどこかに不備があり、経年劣化も起こし、時代とともに実情に合わなくなっていきます一神教啓典の民のみなさんが、聖典と実情の辻褄合わせにいかに苦労しているかは、日々ニュースを見ていれば自明です(聖典を人の作った物とする点、信者ではない愚かな人間の考えですので敬虔信者の方々はご容赦ください)。”憲法解釈”もまた、穏健派イスラム法学者クルアーンほかと現代の実情の辻褄合わせに「解釈」を以て臨むことに似ています

 両者に相通ずるのは、「解釈」とは、変えられない記述に対して現状を容認(その程度は議論によってはかられるものの)することを先ず目的とし、換骨奪胎を試み、不都合記述実効性をなくす点です。そのあたりを原典に対する欺瞞(あるいは冒涜)だとして攻撃するのが、イスラムで例えればいわゆる原理主義であり、憲法では護憲派と言われる人たちの一部だと認識しています


 しか憲法は、一神教聖典とは異なります憲法は、自らが国民意思によって改められることを認めています。不改の聖典ではないことを条文の中で表明しています。古びて時代に合わなくなったところは、十分な議論の下で速やかに更新し、実情に合わせて憲法合理性を常に維持する。そのことで「解釈」の余地を減らし、国権制限するという憲法機能のもの実効性を維持する。そのような合理性をもともと憲法は備えています


憲法解釈”による憲法の死文化機能喪失を防ぎ、違憲状態国権発動を防ぐためにこそ、改憲提案とその議論は常に行われるべきです。それが本当の積極的護憲」だと考えますしかし、現在のような、翼賛体制でもない限り超えられないような鉄壁ハードルがあっては、投票国民一人一人の意思の反映)を前提とした議論は起こり得ず、従って適切な更新も為されません。そして現に今、変えられないなら憲法を死文化してしまえとばかりに、相当無理のある”憲法解釈”が強行されようとしています


護憲派のみなさんへ


 あなたがたが第一に「護」りたいのは、憲法機能のものなのか。特定の条文なのか。はじめにそこを整理してほしい。


 前者であるなら、上述の通り、改憲積極的に認めるべきです。繰り返しになりますが、改憲憲法の中で保障されている国民権利ひとつです。いかなる思想があろうとも、これを否定することは前者の意味での「護憲」と矛盾すると考えています

 後者であるのなら、その条文の是非を問う投票を通して、国民に白黒はっきりしろと突きつけるべきです。そのための議論の中で、あなたたちの考えを訴えるべきです。条文を護るために改憲手続きのもの否定し、国民投票をさせないというベクトルは、上述の通り自分の目から憲法意志に反すると映るし、主権者たる国民とその権利を軽視するものだと思っています


 さて、そこで提案です。

 “解釈”による憲法無効化を阻むためにも、いまここで、あなた方のサイドから憲法改正を訴えませんか?たとえば、現状の九条から解釈余地を削り、よりあなたがたの望みに沿う条文にするとか。そして、「改正可能にする」という一点で改憲派連携し、”解釈”と対峙しませんか?

 もちろん、改憲派から出させる対案の中には、あなたがたが受け入れることができないものもあるでしょう。しかし、選ぶのは国民です。憲法がそれを保障しています


 同じことの言い換えでしかありませんが、繰り返します。

 後生大事特定の条文だけを護っても、憲法のもの実効性が失われれば無意味です。


改憲派のみなさんへ


 護憲にもいろいろあるように、ひとくくりに「改憲派」といってもいろんな考えがあろうと思いますしかし、条文を改めてまで、なお憲法を維持しようとする一点では、護憲的とも言えます。そこについては、上述の通り、護憲派連携する余地があると思っています


 あなた改憲の後に実現すべきと考えている政策が、今の政権の”解釈”の末にあるものとたとえ一致したとしても、憲法の箍がはめられているか否かの違いは後の世に対して非常に大きなものがあります国権制限する憲法機能喪失している状態を容認してしまえば、いまの政権暴走しなかったとしても(あるいは今の政権なら暴走しても容認できる、とあなたが考えるにしても)、後のあらゆる政権にその選択を許すことになります

 数年前、日本国民民主党政権を選びました。同じように、後の世がどのような政権を選ぶかは分かりません。今のあなたにはとても支持できないような政権が生まれたとして、そこにも等しく暴走余地が残されます暴走する○○党政権(○○にお好みの政党を当ててください)。おそろしい。


 そんな事態を避けるためにも

 政策的に結果オーライではなく、その手続きが法を逸脱することについてはNOを突きつけませんか?数が必要なら、護憲派も引き入れて。


 民主主義とは、すなわち手続きでもあります国民付託を請けた行政のあらゆる意思決定手続きを通して公にされ、それを国民監視することが国民主権の根幹にあります。多少煩わしく、遠回りがあったとしても、それはいわゆる「民主主義コスト」です。この先も日本健全民主主義国家であり続け、国際社会の中で世界に誇れる国であるために必要なことだと思います

2015-06-09

http://anond.hatelabo.jp/20150609194256

敬虔クリスチャンなら、

「私が生かされたのは神の意志

「与えられた能力を活かし成すべきことがあるはず」

と考えるだろうね。

今のローマ教皇化学修士号取得者で医学科学を支持しているので

ローマ教皇質問してみるのもいいかもね。

それから頭の固い保守派でも医療反対者はまずいないよ。

揉めるのは中絶受精卵を使った再生医療周辺だね。ドリーとかES細胞とか。

とにかく生きててよかったね。よい人生でありますように。

2015-06-08

http://anond.hatelabo.jp/20150608152509

イエス最後の審判ときに「再臨」するよ。

そのとき敬虔キリスト教徒天国へ行けるよ。ISの奴らは地獄に落とされるよ。

でも同時にアッラー最後の審判を行って、敬虔イスラム教徒天国へ迎えてくれるんだよ。

まり、そこからイエスアッラーガチンコ勝負になるんだけど、実はアッラーの正体はヤハウェなんだよ。

アッラーが「I'm your father」と明かしたところは神話史に残る名シーン。

2015-06-04

http://anond.hatelabo.jp/20150604210058

そもそも、思想なんてものは、オタメゴカシにすぎないよ

「生きるのは辛い。でも死ぬのは怖い」というのを、何とか誤魔化す為につくった、防波堤のようなもの

もちろん、思想だけでは死の波を防ぐだけの由はないが、無いよりはあった方がマシである

それに、いくつあっても困るものでもないしね

世間はそれを「味のある人間」と呼ぶまである

「死にたけりゃ死ねばいい」なんてのは、ガキの理屈にすぎないですよ

大人と言うのは、もっと浅薄理屈を捏ねてでも生きるもの

人間けが自殺すると思ってはいけない、生物はみんな辛いです

ただ、悲しきかな、人間けが死ぬ事に拘るようになってしまった

動物は余計な事を考えられないので、死ぬこともないだけの話である

自己欺瞞、大いに結構

ホントの事なぞ、言わないでもよろしい

敬虔宗教者になり、心底まで人の編んだ理屈に浸れるなら、強いのである

生産であることなんて、お題目にすぎないよ

それも生きるための理屈にすぎませんよ

そもそも、生きている事に絶対肯定はないですよ

(そんな事を言っても詮無い事ではありますが)

宗教と言うのはそれを良く分かっているので、神とやらを作ったわけです

これは偉大なる発明でした、革命的です

実存主義よりはいくらかも潔癖です

実存主義なんて、いけない

彼らはよりよく生きるために、生き続けるというたったそれだけのために、人間を見ろという

それはいけないですよ、ナンセンスです

人間の素の姿、そんなところを探してもなぁんにも出てきやしないんです、砂漠です

藪を突いて蛇を出すなんてものじゃない

それは自殺に近いのです

そこにある不動のもの、あふれる光の強さに目が焼け、死ぬか、狂人になるに過ぎません

目を焼かれて、上手く狂人になれれば死ぬ由はありません

しかしそれは、焦げた肌がかさぶたになり、生きているという熱に強くなっただけの事です

生存と言うどうしようもなく、生々しいものを露呈し、それでも我に恥じなしとふんぞり返っているだけです

それは道化に過ぎませんよ

悲惨なのが、自分自身真実に近づいていると思いつつも、目が焼けているので却って常識的目線に欠けるているので自分の姿が見えていないところです

人間存在真実を見たと言いながら、いつまで経っても実存的で在れないところが悲劇である

一歩間違えるとそうなってしま

私は、上手く実存主義を完遂できた人間を知らない

そんなものはないと思うがね

ここまで書いて、私はもうやめることにした

そもそも、書いても書いても終わらないのだ、生きることについては

書くことで救われるなら、終われるなら、こんな楽な事はないし、宗教以上の発明であるだろう

しかし、書く事でしか救われないというのも、これもまた人の編んだ理屈にすぎないよ

このインチキのために私は欺瞞を見破られるわけである

私の否定の上に於いて、再び私の正当性は積み上げられる

砂上の楼閣である事が、人の作ったものの救済の証なのだから

不変なものは、人には作れないよ

人は永遠に救済を編み続けるが、救済は永遠に編みあがらない

編み続ける事によってしか救済は存在しない

そんなこと、12の子供の方が知っているかもしれないね

彼らは、ある意味実存主義を完遂しているのだから

もう、10時を回る頃です

ここらでそろそろ、私も私の救済を編み始めなければならない

ひとまずは、目の前にある仕事と言う名の救済を、ね

「一つ一つ、目の前の事を片づけなければならない」と誰かが言う

本当に正しい事とは、常識的で凡俗な言葉なのです

人が生きてきて、それでも残った言葉なのだから

残る者にこそ意味はあるのです

最後に立ってたものが強いのであって、強いからつのではないのですよ

私も、立ち続けなければならない

辛くても、私には私の夜明けがあるでしょうから

2015-05-22

デザインユーザー押し付けるべき

デザインに関する話題になると、

デザイナーによくわかる解説。 だが、その概念の常識をユーザーに押しつけてはいけない。 - tomono-blog のコメント / はてなブックマーク

みたいなこと言う奴が出てくるけど、これは間違っている。

どんどん押し付けていくべきだ。

想定外の使い方をするユーザーにどうして配慮せねばならんのか。

いやフールプルーフなんかとは別の話だよ。

デザイナーは唯一の正解を想定して設計しているんだから、それがいちばん使いやすいんだ。

唯一の正解をユーザー押し付けることで、デザイナーハッピーになれるし、ユーザーハッピーになるんだよ。

もちろん、現実にはデザインのもの根本的に失敗していて、どうしても使いづらいことはある。

ただそのときでも「間違った設計を別の使い方をすることで使いやすくする」なんて面倒なことをする必要はないし、

デザイナーの側もユーザーがそうしてくれることを当てにしてはいけない。

単純にデザイナー批判すれば事足りるだろう。

こういう話になると初代iMacマウスを思い出す。

ホッケーパックとか饅頭とか言われた、丸っこくて平べったい、小ぶりなマウスだ。

これは恐ろしく批判された。敬虔なるApple信者からもだ。

使いづらい。小さくて持ちにくい。コードが短い。手首が痛くなる。

だが俺はあのマウスが好きだった。

iMac以前のマウスは(おそらく現在でも何割かは)、手のひらで包みこむようにべったりと握って、手首を曲げて動かすものだった。

それに対して、iMacホッケーパックは、指でつまむように持って手首を固定し、指を曲げてマウスを動かすものだった。

後者方式なら、マウスの移動範囲は少なくて済むし、手首にかかる負担も軽くなる。

しかし、デザイナーが想定した使い方を、ユーザー無視した。

マウスをべったり握ろうとして、小さすぎると文句を言った。

手首を曲げて大きく移動させようとして、コードが短いと文句を言った。

正しい使い方をわざわざ拒否したくせに大々的に批判したのだ。

なんたる理不尽か。

デザイナーがそう使えと言うんだったらそうすればいいじゃないか?

どうしても別のやり方で使いたいというなら仕方ないが、それで製品批判する資格はないだろう?

というわけで、俺はなるべくデザイナーの言うとおりに使う。

ユーザーデザイナーに従うべきだ。

2015-03-31

http://anond.hatelabo.jp/20150330001506

増田が本当に欲しいのは多分愛とか夢とか家族とか、だよ。

確かに敬虔信徒になれば宗教はそれら全てを満たしてくれるかもしれない。

でも本当の望みはそうじゃないだろう。

それが本当の望みだったらいいのに、なんて思ってないだろう。

本当に欲しいものから手に入らない現実からあんまり目をそらすなよ。

2015-03-30

http://anond.hatelabo.jp/20150330162001

キリスト教徒だってガチ神学を学んだ人もいれば教会なんか行ったこともないという人もいるだろうに無宗教者だけ厳しく敬虔さを求められるのは何故か?

2015-01-27

http://anond.hatelabo.jp/20150127144457

斬首奴隷が野蛮なものとして扱われるようになったのは、たかだか100年200年以内のこと。

イスラム法は1500年前の法律なので捕虜奴隷にしたりするのは当たり前の話。

教義的には、イスラム法は神が定めたものであり、絶対に改変してはならないので、

現代に合わせていわば解釈改憲を繰り返しているのが大多数のムスリム

元どおりのイスラム法に従って生きようとしているのが原理主義者。

から敬虔信者であるほど危険になってしまうのがイスラム教なんだけど、

それが「危険」だと感じられるのは、

斬首奴隷を野蛮なものとする西洋道徳が広がっちゃったからではある。

2014-10-16

絶望した! Nexus 6, 9のスペック価格絶望した!

なんですかこのスペックプライス

以下、端末・パーツごとにブチ切れて逝きます

Nexus 6

CPU

スナドラ2.7GHz

Nexus 5のスナドラ2.26 GHzとさして変わらないじゃないですか

GPU

Adreno 420 500-600 (Boost) MHz

進歩ナシですか?

5はAdreno 450-578 (Boost) MHzです。体感処理速度ほぼ同じですよ!

ディスプレイ

1,440×2,560ピクセルディスプレイ(493ppi

5は1,920 x 1,080 ディスプレイ(445 ppi

これも(ry

価格

リーク情報( http://getnews.jp/archives/683180 )によると32GBが約4万円。

買いませんよ。叩き売りされている旧芋場の5か、ヤフオクで売られている新品同様の5買いますよ!

Nexus 9

CPU

Tegra K1 2.3 GHz

発熱Tegraとか、ARROWSカイロの再来じゃないですか!

どうしてスナドラにしなかったんですか!

価格

Wi-Fi 16GBが約4万。

高いです。

林檎じゃないんですから冗談やめてください。

ハイスペック低価格Nexusシリーズはいずこ?

ブチ切れポイントは以上です。

まぁ、私は敬虔Google信者ですので両方買いますけどね(餓死)

2014-09-23

CHAGE&ASKAの"PRIDE"

 チャゲアスといえば、ダブルミリオンを達成した「SAY YES」と「YAH YAH YAH」がやはり圧倒的に有名ですが、「PRIDE」はそのどちらと並べても決して劣ることのないどころか、全J-POP史上においても比類のない、赫奕たる地位を占める壮大なバラードです。そしてPRIDE幸運なことに録音に恵まれています1989年に発表されたその曲は、何度もライヴで歌われており、様々なバージョンを聞き比べることができるのです。ASKA年代によって声質や歌唱法がかなり異なっているので、それぞれ別のしかたで楽しめます。今回はややマニアックですが、PRIDEの様々なバージョンレビューしてみようと思います

①【CONCERT TOUR 1990-1991 SEE YA!】https://www.youtube.com/watch?v=-KfOdkNFrOk

評価=8

私の知るかぎり、最も早いPRIDELIVE音源です。

CD音源にかなり近いですね。他の音源に比べて特徴となっているところは、サビの「駆け抜けていく」(1:48-50)の歌唱ですね。とくに「く」の母音の処理です。「ウ」と「ア」の中間発声することで、単に「ウ」と発声するよりもパワフルに聞こえますASKA独特の母音の処理方法です。声も若さが満ち溢れていて爽快感を覚えます

②【 夢の番人 SPECIAL EVENT1993 GUYS 】https://www.youtube.com/watch?v=FnOnAXszb3k

評価=9

のものから二年後の音源です。

声のフットワークが軽くて、とくに高音となるサビのメロディーをなめらかにすべっていく様子はあたかサーカスの軽業師のようです。曲をより「自分のもの」にできている気がします。

ちょっとマニアックというかフェティッシュなことを言うと、「涙の跡」(3:33)という部分の「だ」の発声が他のものよりも情感豊かで、素晴らしいです。この録音はもっとエモーショナルものかもしれません。

③【CONCERT TOUR 史上最大の作戦 THE LONGEST TOUR 1993-1994】https://www.youtube.com/watch?v=FepyCkAE00U

評価=9

まり時間の間隔を置いていません。最高のパフォーマンスです。②ほどの情念はありませんが、全体の均整ということで言えば一番優れているものでしょう。

④【ASIAN TOUR IN TAIPEI】https://www.youtube.com/watch?v=iGmHpIn4R2s

評価=10

1995年台北でのLIVE音源です。

ややASKAの声が太くなっていますね。じつは私が一番好きな音源はこれです。

声質が太くなり重量感を覚えさせるけれどもパワフルに突き進むさまは、重戦車が高速移動をする様子さえ思い浮かべます

この録音では「駆け抜けてく」の「く」の音が、しっかりと「ウ」で発声されていますが、私はこちらのほうが好きです。かように苦悶の表情を浮かべた「ウ」はなかなか聞けません。

⑤【MTV UNPLUGGED LIVEhttps://www.youtube.com/watch?v=BsI973Gz0MQ

評価=7

イギリスMTVでのパフォーマンスです。1996年

アンプラグドさら欧米でのパフォーマンスということもあってか、アレンジがかなり変わっています

やや大人しめですね。テンポも少し早くなってあっさりとしています。お洒落な気分でPRIDEを聞きたいという時にはよいでしょう。

⑥【千年夜一ライブ福岡ドーム 僕らがホーム〜】https://www.youtube.com/watch?v=N84lgzkN9BA

評価=6

1999年から2000年にかけての年越しライヴです。

この頃からASKAの喉の調子に翳りが見えてきますポップス歌唱法にはご存じ「ミックス」というものがありますね。地声裏声を混ぜるってやつです。

艶のある地声成分で高音が出ないのか、裏声成分多めで叫ぶ手法オペラ歌唱に近い発声)が所々で見受けられます。後半になると多くなりますね。

⑦【CHAGE&ASKA LIVE IN KOREAhttps://www.youtube.com/watch?v=3X4W5lCMOGs

評価=6

コンサート途中に感極まって歌えなくなったことで有名な韓国ライブです(なおその映像はこちらhttps://www.youtube.com/watch?v=sFi5qExw_pM)。2000年

やはり前と同じで、高音が苦しそうですが、この曲ではその苦しげな姿すら一種のパフォーマンスに転化しうるものをもっており、胸を打つものがあると思います。②とはまた違ったおもむきで情感があります

⑧【COUNTDOWN LIVE 03 04 in SAPPORO DOME】https://www.youtube.com/watch?v=CIC71g9CvcE

評価=5

2003年から2004年にかけての年越しライヴです。⑥の3年後ですね。

この頃になると、90年代と声は明らかに違ってきます。目に見えて声が太くなってきます

喉の調子が治らず、どの歌唱法がいいのか模索している感じがします。

⑨【CHAGE and ASKA Concert tour 2007 DOUBLEhttps://www.youtube.com/watch?v=laGU2JOdj8o

評価=9

声はさらに太くなっていくのですが、そうした自分の声にあった歌唱法が見つけられたのがこのLIVEだと思います2007年

90年代ASKAを軽快なトランペットだとすると、これは炸裂するトロンボーンとでもいったところでしょうか。CHAGEの超高音はさら金属質なものとなって、硬質なハーモニーを聞くことができます

しかしこのLIVEで注目しなければいけないのはASKAよりもむしろCHAGEです。大サビCHAGEの超高音のハモリはこれまでのどの録音にもなかった凄みを与えてくれています

あと、またフェティッシュなことを言いますと、3:25あたりの「傷ついて知ること」の「と」の音は、大地の奥底からやってくるような雄渾な響きで痺れます

まとめ

やっぱり90年代は黄金期で、どれを聞いても圧倒的ですが、その中でも台北ライヴワーグナー「神々の黄昏」のような、崩壊しそうなまでに過剰な絢爛さがあって、私はそれを愛してやみません。

00年代になると喉の不調が目立ちますが、それでもDOUBLEライブは全盛期を取り戻すかのような圧倒的なパフォーマンスを見せてくれますしかしそれは90年代前半の軽業とは異なり、敬虔カトリック教徒の盤石堅固な信仰の凄みにも似たものを思わせます

2014-08-28

魂を削って書いている人は宗教必要なのかもしれない

自分ホッテントリにある色々なブログを見ながら、この人の文才はすごいな、こんな深い考察豊富な知識が透けて見えるような

スマート面白い文章は書けないなと毎日考えている。この人達に比べると自分は間違いなく文才のない凡人で、それを認めるのはとても怖い。

そんなモラトリアンが始めたのは、魂を削って書くことだ。魂を削って書くとは、自分の恥ずかしいところ、嫌なところと向き合って書き出す作業だ。

なぜそんな事を始めたかというと、文才のない自分でも、自分と似たような人から多少は反響のある文章が書けるのではないかと思ったからだ。

これは書いている最中とても辛い。

ロリコンかもしれない、尼や価格反響を調べないと買えない、ある程度出来たら満足する性格向上心が持続しないなど、

自分の恥ずかしいところ、嫌なところはたくさんある。こういうものと向き合って書く作業は苦行だ。

が、なぜかは知らないが、書き終わるととても楽になるし読み返して面白い

削られた魂を吸い取られたような気持ちになるが、そもそも嫌な部分なので増田に置いていけるのであればありがたい。

ただ、これでは形式が違う懺悔だ。

最近反響副産物になりつつある。

しかしたら、いまの自分必要なのは増田よりもキリスト教かもしれない。

キリスト教って懺悔だけでも入信しても良いのだろうか、、、増田よりも五感を駆使して懺悔するあたり、

楽な気持ちになる効果は多そうだ。敬虔増田信者自分にとって、適正はある気がするのだけど。

2014-07-19

信仰を持ってみることにした

宗教は大嫌いだけど、このたび信仰を持ってみる事にした。

理由は、まあ年を取ったという事なんだと思う。

別に今の生活に不満があるわけじゃない。

一人でアニメ見てゲームして趣味に没頭して美味しい物食べて、安定している人生だと思う。さほどストレスも受けていない。

でも何というか、虚しいというか。

ストレスが無いのは人付き合いを放棄したというか、他人と距離を置いているからなんだけど、

本当は皆と仲良くしたいのに、集団の中にいるとどうしても自分攻撃してくる人と遭遇してしまい、自分を応援してくれる人も特に居ないので孤立してる感が半端なく、攻撃に耐えられず離脱してしまったんだよね。

自分を悪く罵る人と仲良くしつつ、自分とも仲良くする人を信用できなかったというのもある。こいつにこやかに話しかけて来るけど裏で悪口言ってんだろう?的な。

あと、表面的な付き合いだけでちっとも仲良くなれなかった。一言でいうとコミュ力が無かった。面白みのない、つまらない人間なんだ。

でもその、相手の言動を深読みして、「それは拒絶なんだろう?」「本心ではこちらを嫌ってるんだろ?」「利用しようと近づいてるだけだろ?」

と考えてしま自分も、どうにも嫌でね。

こんなこと考えながら接する人が、仲良くしてもらえるわけ無いじゃん。

こうやって読むとそう思うでしょ、でも実際に自分が遭遇すると、相手のちょっとした仕草で「嫌われてる」「これは拒絶だ」と無条件で思い込んで勝手に傷ついてる人、多いと思うよ。

もちろん拒絶のサインに気付くのは大切だし気がつかないのはKYなだけ。

でも少なくとも自分必要以上にガードを硬くしてる臆病者で、断られないように、嫌われないようにと一生懸命だった。

多分自分を嫌っている人を許す勇気が無いからだ。嫌ってもいいよ。と言えないから

元々怒りっぽい性格でもあるし、嫌われたら「こちらを嫌うなんて嫌なやつ!嫌い」とすぐに心の中で応戦していた。

でも年のせいか、それも疲れてしまった。

若い頃はそれでも「いつか分かり合える人が」とかアホなこと考えてたけど、そんな人居ないだろう。というか自分絶対的な味方を手に入れて、その人に依存たかったのかもしれない。

色々考えると自分が未熟過ぎて、人生お先真っ暗すぎてなぁ…


で、信仰ですよ。

言っておくけど自分は今でもスピリチュアル的なものは嫌い。

神頼み、占い、おまじない宗教を信じていない人でもこれらを信じる人はかなり多いと思う。

何が嫌いかって、ただ神に祈るだけ、他人の言うことを聞くだけで何か叶うと思ってるところね。

人生選択肢他人に委ねて、委ねられたほうは従わなければ罰だ地獄だと脅しをかけて支配する。これもう最悪。

まあ今日ラッキーカラーを信じる程度はかわいいもんだけど。

本当は、いっそ正式に入信してみようかとも思った。

でも調べてみると色々問題があったり、どの神様も愛と平和を解いてるはずなのに内部抗争があったりとちょっと怖い。おまけに自分敬虔教徒になれる自信もない。なので家で勝手に学ぶ事にした。在宅信仰

やってることは名言bot毎日見てそれに感銘を受けることと何ら変わりないと思う。

ようするに自分の中の決めの問題なんだよね。

嫁の言葉萌え毎日元気を貰ってたらそれも立派な信仰なんじゃないかと思うの。

あと、結局他人で叶えられなかった事(=自分をわかってくれる人が欲しい)を別の何かに置き換えただけで、果たしてそれで良いのかという疑問は今でもあるわけなんだけど

実在他人に期待するより、架空の何かに期待したほうがマシかな。と思う事にしている。

とりあえず宗教本って、昔から人が苦しんで悟った事が色々書かれてて、最古かつ最大の自己啓発本だっていうのが今のところの感想かな。

2014-07-02

完全である事とは、死ぬである

人が生きるには堕ちる他に手立てはないし

逆にいえば、死にたければ完璧を目指せば良いだろう

人が極限まで抽象的に、理性的に生きる

そのような状態は、戦争の中にしか存在しない

>たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。

>私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。

>俺は生まれながらに嵐なら良かった 脅威ならば良かった 一つの炸薬ならば良かった

>心無く涙もない ただの恐ろしい暴風なら良かった

>これを突き刺す事で そうなれるなら そうしよう そうあれかし(アーメン)

人が綺麗に、劇画的に、ドラマチックに、高潔に、鉄血に、真剣に、敬虔に、倫理的に生きようとすれば、生きられなくなる

綺麗は汚い、汚いは綺麗 闇と汚泥の中を飛ぼう

2014-06-08

サークルの先輩たちと壁を感じた話

私の大学の人たちはこんなところを見ないと思うので油断して書きます

この春からとある大学に通い始めました。

受験ストレスから解放されたせいか世界の仕組みとか宗教に興味が出てきたので大学聖書研究会に入ってみました。

はいっても私はお正月には神社に詣で、夏にはお寺にお墓参りに行き、クリスマスにはケーキを食べるという典型的日本人

敬虔クリスチャンばかりのこのサークルに入ったばかりの時はとても緊張しました。

しかし先輩たちと話をする内に、思っていたほど厳しい人たちではなく、むしろゆったりとした人たちなのだと気が付いて、

「この人たちともっと仲良くなりたいな」と思うようになりました。

そんなある日の部会にて、進化論の話題になりました。

サークルで使っていたテキストには期待していたほど詳しく書いていなかったので、私なりに進化論についての意見を言ってみました。

神様が生き物たちを作った過程人間たちが科学的な視点で見ると進化論のように見えるのではないか」

人間神様の様に完全ではないから進化論の中に明らかになっていない部分があるのではないか」

そんなことを言ったら途端に漂い始めるビミョーな空気…。

聖書人間神様が土に息を吹き入れて作られたって書いてあったのを忘れていたのです。

取りあえずその場はテヘペロゴッツンって感じで乗り切りましたが、頭の中はモヤモヤ

信条が大きく違うとここまで壁を感じるのか…と思いました。

因みに、私は全く神様を信じていない訳ではありません。

地球という星が出来たこと、生き物が生まれたこと、そこから進化していって人間が生まれ、文明を築いたこと。

すべてとんでもない確率の中で起こった出来事で、どこかで神様が関わっていたとしても不思議じゃないな、と考えています

ただ、進化論を信じる私と、人間神様が作ったと信じる先輩たちの間には鉛でできた壁があるように思えました。

こんなに素敵な人たちなのに心から分かり合えることは一生ないのだろうと思うと、やるせない気持ちになります

大したオチはありませんが、誰かに知ってもらいたくて書きました。

匿名ダイアリーって良い所ですね。

2014-01-12

http://anond.hatelabo.jp/20140112135316

返答のレベルが落ちているようですが、何か心体に異常でも起きているのでしょうか。

あなたは論点をコロコロと変えて、他人を貶す行為を平気でする環境で育ったのですか?

あなたがご両親を尊敬する敬虔教徒であれば、ご両親の名誉のためにも誠実なご返答をお願いします(^^)

2013-09-29

http://anond.hatelabo.jp/20130929140225

PowerPC時代、「MacWindowsいれてみたwww」みたいなことをblogだかホームページだかに公開した奴が敬虔Apple教徒から罵詈雑言(中には殺害予告も!)を浴びせられたって話思い出した。

2013-08-14

努力 * 才能 = 成功 という大嘘をつくな!!!!!!!!!!!!

あのねえ成功方程式を正しく描けるか田舎それこそが成功への片道切符なのだ

だいたい努力 * 才能 = 成功 などというチンケな俗流成功哲学を信じているようでは駄目でありますww

なぜかならば、才能は生まれつきの不変であるから努力しかないことになってしまう。ところが努力では人と差がつかないんよ。

厳密には一つのことに継続は力なりで差はつくけどな。後述。じゃが全体量としてはヒトの体力で決まるんですわ。いくら室伏でも18時間毎日円盤投げできません。山口真由は19.5時間やってたけどさw

から大真面目に語るのもバカらしいことであるが、世直しのために我らは正しい方程式を広めねばならないのだ。わかるね?正しい方程式とはこうである

 努力 + 才能 + ノウハウ = 成功

 才能 + ノウハウ = 努力

 才能 + 努力 = ノウハウ

わかった?w ノウハウが追加されてるな? そして才能は生まれつきで不変であるから不定項、じゃあ変項は?変項は言わず喪がな、努力ノウハウなんです。よろしい。

では、よく努力の方向が間違ってるという言い方をするな?あの言い方は非常に有害危険なの。まるでベクトルのように方向と大きさで決まるかのように、そういうふうにできている?そんな単純な話じゃあない。

がむしゃらにやって良いのはエロ画像掲示板だけ。ソフトタッチしないと。アダムタッチじゃないけど!雑にガッシャアとやってしまうなよ。

いくらでも可能性が転がっているのに単純化してチャンスを逃すのはバカですよ。そのバカだと思える視点を是非とも今日身につけてほしい。

その優しい愛撫のやうな、微細な心で1つ1つ確かめながら組み立てていく。それは単純に努力の方向じゃないですよ。何をやるか、どれだけやるかの二分法よ、さらば!ちょっとそれはディジタル過ぎる。

例えば努力をするということはそこでひずみが生まれる。観測問題じゃないけど努力するという行為自体が努力隊商を変えてしまう、さらに言えば努力の主体たる私自身もまた変貌をとげる。

これを物の哀れの分かる人が「諸行無常諸法無我」と言ったであろう。その変わりゆく有様を確かめるようにソフトに愛撫するわけです。それがノウハウなんですね。

ノウハウというとマニュアルイメージするでしょうが全く違うんですね。それは努力と才能という二分法の古い考え方です。いまは努力と才能とノウハウです。努力でもなく才能でもないノウハウという

ものがあるのだと厳しくそれはそれは厳しく峻別している。このときノウハウはもはやマニュアルではないことを知ってください。確かめてください。何事も敬虔ですから

ノウハウを今ひとつの角度から見るとそれは無数のツマミスライダースイッチのある機器を考えてください。使わないツマミは忘れるんです。でもそれはじっちゅうはっく使わないのではなく使えない。使いこなせないわけ。

PS Vitaも使いこなせない機能はどんどん忘れていくのと一緒。使ってないとメンテナンスも疎かになって故障も早くなります。そうiphoneでもね。そうなると本当に必要ときもつかえなくなっちゃう。

必要に迫られマニュアル見て使おうとするも半分故障してるわ操作もぎこちないわでもういいやって投げ出してしまう。で、もっと乱暴な手段にでてしまう。優しい愛撫を放棄して荒々しい前戯になる。

それがノウハウということなんですよ。マニュアルが全てじゃない。マニュアルに書いてあるとおりやっても、故障してたり、うまく操作できなかったりする。そういう生身の現象を扱っているのですからよ。

柔らかく接していなければ全て無駄になるのが分かるでしょう。いくらマニュアルに繊細なこと書いてあっても、ユーザーが荒っぽい人だと草臥れ損の骨折り儲けですよ。、

逆に言うなら、柔らかければマニュアルに書いてないことも臨機応変に捌けるのです。これを頓知と言います今日覚えて帰ってください。頓に(とみに)知る(しる)これ。

これを試すために面接官は突拍子もない質問をぶつけるのです。盤根錯節に遇いて利器を知る(後漢書)です。面白いことに柔らかさもまた諸行無常で、時々刻々とめまぐるしく変化してますよ。

柔らかいときに頓知が利くなら柔らかいときに得た学びを硬いときにも活用できれば擬似的に常時やわらかな対処できますね?これが一休さんのしくみです。ノウハウ特化型です。

エジソンのようにコツコツ煮詰めるタイプとはまた違う俊英なのです。ただ、忘れてはいけません才能とノウハウだけでなく努力もあるんです方程式に。

エジソンのような努力型はなんといっても積み重ねが凄いんです。積み重ねは何が凄いか分かります継続は力なりと空念仏を唱えるだけでは全く何も分かっちゃいない。継続は何故力なのかメカニズムを理解してますか?

例えば、簡単のため受験生毎日10時間、時速4ページで学んでいるとします。毎日40pです。で全国平均が20pとしますわな。分散10p。そしたら40pやるだけで偏差値70なんです。分かります

これは学力偏差値ではなくあくまでその日の努力偏差値です。でな?これを続けるとどうなると思う?40pを10日間続けるとどうなる?偏差値70のままだと思うそこのお前は統計学を分かってない。

偏差値70よりずっと上がるんだよ阿呆陀羅。これが継続の魔力その1なんです。つまり偏差値70の努力をする日を何日も続けていくと全体では偏差値75にも80にも、いやもっとそれ以上にもなりうるのです。

しかもじゃ、時速4pが慣れとともにスピーダップして時速6pや8pにもなるかもしれない。俺の過去経験から言っても初日の2倍速なんて当たり前にありますねえ。その意味でも継続すれば努力偏差値は跳ね上がる。分かった?

ただこれは単純化した話。実際には努力にはバランス必要です。アンバランスだといつかしわ寄せが来ますバランスとりながらローテーション回していく計画性が必要です。

そこで先ほどのノウハウ型が不可欠なんですよ。努力しか眼中にないとここで頭打ちになる。伸びない原因は硬さにあった。チンポは硬くなると伸びるのにおかしいじゃないか。でもそれが現実

結局バランスバランス言うけどその系の拘束条件がどんどん変わっているわけですからマニュアル式に機械的にバランスをとろうなんざ甘いんです。ちゃんと直接指でソフトに触れないと駄目。

頭の硬い人ほど皮膚感覚をバカにするのはそういうわけ。努力とかそういうことは一切合切承知の助で忘れるくらいでないといけない。とにかくソフトに、ソフトに。休日などに数時間まったりするとよいです。

2013-04-05

小沢健二について 1

「終わらないで欲しいものが実はもう終わりつつあること」に気付きながらも、なおもダンスを踊ること。だがしかし、それがけっして希望未来に繋がりはしないこと、一方では完全に分かってしまってもいて、だからそこには明らかに一種のメランコリーが隠されているのだが、では「終わりつつある」が、遂に「終わってしまった」に変わり、そのことをもはや認めざるを得ないのだとしたら、一体どうしたらいいのだろうか?

「当時、彼の書く歌詞や曲の世界は、あまりにも楽観的で表層的だと揶揄されたりもしたが、そこに同時に苦悩と諦念と、それでもなおそれらに何とかして撃ち勝とうとする「強い気持ち」を見出せなければ、彼のことをわかったことにはならないだろう。阪神淡路大震災地下鉄サリン事件が起こった年に「さよならなんて云えないよ」と「痛快ウキウキ通り」を発表する人間の、何ともいえない複雑さに気付けなければ。」

以上は佐々木敦オザケン論の抜粋だ。

年末あたりから小沢健二を頻繁に聴いている。一言でいえばハマってしまったのだ。いや、というよりも心酔してしまった、といったほうが正確かもしれない。僕の生活を傍から誰かが覗いてみればおそらく気持ち悪がることだろう。とにかくここ最近毎日小沢健二漬けだ。自分生活が、人生が、小沢健二に溢れている。ここには些かの誇張も比喩もない……。

なぜ小沢健二なのか。無論彼の音楽が素晴らしいからで、それは後追いで彼の音楽を知った者としては「今現在聴いても」というような注がどうしても付随するが、事実彼の音楽全然古びていないし、それどころかむしろいまのほうが当時より一層重要性を帯びているとすら感じられるから、なのか……。そう断言したい気持ちもあるのだけど、自分でもよくわからないというのが率直なところだ。ここでいう当時とは彼の活動が全盛を極めた90年代半ばを指すが、その後彼はメディアから急速に姿を消し、CDリリースも絶え絶えになる。これは周知の事実。では小沢健二はいったい何者だったのか/なのか。もちろん彼を過去形で語るのは正しくないし、絶対に間違っているとすら思うけれど、とりあえず90年代の彼の音楽家としての活動とその意義などはひとまず暫定的に総括されて然るべき問題だろうと強く思う。小沢健二はそれぐらい大きな存在だと思うし、その大きに比べると彼は「まだまだ語りきられていない」と思われるのだ。

 

小沢健二音楽リアルタイムではじめて聴いたのは、たぶん「ラブリー」だったと思うし、それ以外はほとんど記憶がない。というのはその当時(94年頃)の僕はまだ小学生音楽のものにあまり興味もなかったし、もしあったとしても彼の曲の良さを感受することは出来なかっただろう、おそらくは。そして物心ついた時には彼はすでに音楽の場から遠のいていた。何れにせよ今まで聞き逃してきたわけだ。といっても今までに何度かニアミスはあった。物心ついてそれなりに音楽を嗜むようになり、そのなかには渋谷系と称される音楽もいくつかあり、とりわけ渋谷系と称されるジャンルにおいて小沢健二は中心的な存在だった(はずだ)。だけど、それでもなぜか意識して小沢健二を聴くことはなかった。なぜだろう、とふと考える。というのも、つい最近まで彼のことを意識して考えたことすらほとんどなかったので自分でもよくわからないのだけど、ひとつ思い当たるふしがあるとすれば、それはやはり当時耳にはさんだ「ラブリー」の印象が大きかったかなのだと思う。もちろん、「嫌い」といえるほど彼の音楽メディアでの振る舞いを見ていたわけではないけれど、それでもやっぱり「ラブリー」のあの底抜けに明るい(今でこそ違う表現ができるのだけど)感じをリアルタイムでは軽薄なものとして受け止めた気がするのだ(いまでも彼の音楽をそういうものとして受け止めている人たちが大勢いる)。だからなんとなく避けてきたというか、ちゃんと聴かなかったのだと思う。そんな僕が小沢健二意識し、興味を持ったのは、彼が所謂反グローバリズム運動に関わっている(らしい)と聞いたからだった。だからはじめは音楽とは関係ない。いやあんなポップな歌を歌っていた人がそんな活動をしてるんだ、という意外性によるものから関係はあるのだけど(そういえばセリーヌに興味を持ったのも彼がべらぼうな反ユダヤ主義者(らしい)と聞いたからだったのだ)。

そんなこんなである何気なくyoutubeで「ある光」を聴いた。そして一瞬にして胸を打ちぬかれた……。真摯、としか形容することができなかった。そこにあるのはなんの修辞もアイロニーもなく、ただひたすらに真摯敬虔な歌だったからだ(それゆえになかなか危険な曲だと思う)。そして続けざまに聴いた「ラブリー」で嗚咽した。この「ラブリー」という曲の持つヘビー級の重さに僕は小沢健二という存在が理解できたような気がした。一見とてもポップで底抜けに明るいこの曲のいったいどこがどう重いのか。彼の音楽は多くの人たちから多幸感溢れる音楽」云々と形容されてきたのだけど、それは正しくない。正確にはこうだ。小沢健二音楽は多幸症である……。多幸症。そう、これはある種の症状であり、とりわけ「ラブリー」に顕著に見られる明るさは明らかに病的である、と。「ラブリー」にはそういった趣を感じるのだ。小沢健二音楽を聴くことは、すなわち完全なる多幸症を生きることを含意するといってもいい。

2013-03-09

月並みな題名だけど、半生を書いていこうと思う

こういうテキストは得てして不幸自慢や感傷に浸りがちになってしまものが多いか

そうならないようにできるだけ書いていこうとおもう。もちろんこれを書く目的はそんなことのためではないし、

最後までかけるのであればこれはむしろポジティブな、読んだ人に何か得るようなものがあるものになってほしい。

幼少期~小学校

両親はとある新興宗教の出だった。二人はその教会教祖の祝福という名のいわゆる合同結婚の元、結ばれた。

自分はその5番目に生まれた三男末っ子だった。(長女は里子に出されたらしく、実質4人兄弟

物心がつく前から教会にも行かされていたが、一般的な保育園幼稚園にも行き

特に当時はうちが変わっているということも意識することはなかった。

小学校に上がる頃くらいから父が別居をし始めた。

それから母と子の4人の子供との生活が始まった。かろうじて離婚は母が嫌がったのでしていなかった。

一応、住んでいる地域も父に合わせ、父の住んでいる地域家族引っ越していた。

そのため月末にお小遣いをもらったり誕生日プレゼントなどでその頃まではまだ父と関わることができた。

ただ、住まいも違えば、両親が家族の前で顔を合わせている瞬間を見ることもそれからはなかった。

物心ついてから理由は分かったが、父が宗教を去った、いわゆる還俗によるものだった。

養育費などもないため、母は働くことになり、やがて子供たちが教会に連れて行かれることもなくなった。

教会では私達のような存在を二世と呼び、年頃になれば両親と同じように祝福とよばれる合同結婚をする。

その後、三世、四世、、、などと続いていくのだろうと思う。

小学校に入ると自分境遇が特殊であることになんとなく気づき始め、

学校友達とは一種違うこと、宗教という概念はどこかタブーなんだということも静かに悟った。

それから小学3年生になる頃、人生の岐路ともいえる出来事が起きた。

その頃になると家族内で信仰しているのはもはや母だけであった。私も教会のことは口にはしなかったもの小学校はとても充実していた。

その母が敬虔すぎたあまり、小3の夏に布教活動に出ると言い出した。

行き先は 家 族 で アメリカであった。

渡米編

当時はなんのことかも分からず、旅行気分で帰ってくるものだろうと、旅行など両親の不和から一度も行っていなかったので

私は脳天気なまでに楽しみにしていた。

そのまま父を日本に残し(もはや家族間の交流はなくなり見送りすらなかった)、私達一家は渡米した。

現地での生活はその教会の保有する宗教施設で、自分らと似たような一家が何家庭か集まり、共に暮らす特殊なものだった。

うちの家族は母以外は教会から離れていたので正直まわりの人々としばらく温度差があった。それでも幼かったので多くの他の大人や子供たちとの生活は新鮮で楽しかった。

学校は州の公立の学校に通った。いまでこそ帰国子女という肩書きではあるものの、

一般的な帰国子女というのは現地の学校と併せて、日本人学校に土日通ったりする。

しかし、それはもちろん私立であり、シングルマザーで、かつ他にも兄姉がいるうちのような家庭には

公立学校経済的にいっぱいいっぱいであった。(姉だけは女の子という理由で無理して通った)

母には話していないが、もちろん人種差別もあった。その分、優しい人々の思いやりにも触れることができた。

日本では禁句であった宗教の話は、無宗教であると伝えると逆に大きく驚かれたのが印象的だった。(これすべて小学校の段階での話である

住んでいた地域移民が多く、学校でもESOLの他にスペイン語なども必修科目に含まれていた。

アメリカ人白人というイメージをしてしまいがちだが、今でこそ言えるが、そんなことは決してなかった。

その地に4~5年暮らし中学校3年になる頃、宗教ビザが切れ帰国した。

帰国後編

今度の日本での引越し先は父のいた地域とは別で、母の教会でのコネによって貯金がなくとも引っ越すことだけはできた。

正直、日本人学校にも通っていなかった自分ゆとり教育云々依然に日本勉強に着いて行くのがやっとであった。(漢字理科など)

英語だけは生い立ちに恵まれたものの、自分だけ答えて授業を進行させてしまうと他の生徒が学べないことを悟り、あまり積極的に参加することも避けた。

一般的には苦手とされるものが、できてしまうとやはりいじめられた。さら帰国子女という肩書きも裕福な家庭を連想させていたらしい。

しかしそれは人種差別体感していた自分にとっては人間本能なのだと甘んじることができた。

間髪いれず続いてきたのが『受験』という壁であった。欧米では高校は義務教育とされており内申のみで入れるものだったのでこればかりはどうしていいのかすら分からなかった。

周りの友達がどうやら塾や予備校というものにいっていることを知った。あれは一種日本の文化といってもいい。

もちろんうちにはそんな金は無かった。もはや家の光熱費すらままならないといっても過言じゃなかった。(学校の友だちにはもちろんそんなことは言えない)

それからしばらくして、当時、担任であった先生からある話を持ちかけられた。それは『帰国子女制度』というものを使う方法であった。

現地での滞在年数や帰国してからの期間などいろいろと条件はあったものの見事にパスした。

その制度を利用すると、体裁としては一般受験をするものの、その制度枠を設けている高校に空きがあれば、ほぼ確実に学力関係なしに入れるという最強チートであった。(大学にもあり)

それのおかげで高校に入学することができた。


需要があれば高校~大学編も書かせていただきます

2013-03-07

トルコ人とイラン人のイメージ

http://himasoku.com/archives/51769232.html

この記事に寄せてちょっと書いてみる。

知り合いに対するインプレッションがかなり入っているので、あえて増田で。

トルコ

親日国と言われるが、日本人というだけで親切にされるというのは流石に嘘らしい。

トルコ人的には、ヨーロッパの仲間入りをしているつもりで、「イスラム」や「アラブ」という言葉でくくると嫌な顔をする。

政教分離してるし、そもそもアラブって「アラビア人の」って意味からトルコ関係ないし!」

と。

自分の国だけが近代化=西欧化に成功して、他国は現代でもなお宗教に縛られてる全時代的な国家、と思ってる節がある。

トルコ国民という意識は強いが、トルコ民族という意識は弱い感じがする。

しかし、オスマントルコプライドは持ってる不思議

その悪魔合体が、オスマン人もトルコ人も何人もかに人も、みんなトルコの旗の下に団結したんだからっていう理屈

単一民族単一国家なんか古いよ。トルコ国民として団結しよーぜ。クルド人、いい加減にしろ。」

イラン

反米国家として有名だが、国民感情として一人ひとりがアメリカを嫌ってるというわけでもないらしい。

そもそも親米すぎることに宗教学者軍部が先導してクーデターが起こして反米国家になったという経緯なので、好きと嫌いが入り混じった不思議な感じ。

公の場での宗教的な締め付けを厳しくしたゆえに、お楽しみはホームパーティーでっていうアメリカ的な文化

もちろん、敬虔ムスリムもいる。というか両極端。

国費留学生日本にくるような人たちは敬虔ムスリムで、国費以外でくる人たちはその真逆の、ほぼアメリカ人て感じの「コカ・コーラピザが大好きさ。ホームパテーティしてれば酒は当たり前だし」って感じの人。

なんで麻薬の売人として捕まるのはイラン人ばっかりなんだよ!って聞きたいけど、流石に面と向かっては聞けない。

イスラム以前のオリエント文化圏というのは、ほとんどペルシャ、つまり全部自分たちの功績!くらいに思ってる。

古代ギリシャすら、ペルシャの猿真似で、ヨーロッパアジアも、期限はペルシャ、くらいに思ってる。

(たしか世界史教科書ギリシャヨーロッパ文化的なオリジン扱いしすぎてると思う)

トルコ人?馬乗ってパラッカパラッカしてた野蛮人だろ?

アラビア人?砂漠テント暮らしてた行商人だろ?

一緒にしないでくれ。」

それからコーランは読めないらしい。

コーランって聖書とかと違って現地語に翻訳してなくて、当時のままなんだよね。1000年以上前の本で、しか外国語だもん。寺の和尚さんだってサンスクリット語すらすら読めるわけじゃねーだろ。あんなもん一般人が読めてたまるか」

2012-07-02

宗教葬式で「なんなんだ」って思った話

ある人の葬式に行ってきた。

自分も大好きだったその人は、某大型宗教敬虔信者だった。夫婦ともに。

2ちゃんねるでよく叩かれているその宗教は、まあ選挙前になるとちょっと電話わずらわしいけれども、直接の実害があるわけではないし、「自分にとってよくわからないもの」という不安はあるものの、取り立ててわざわざヘイトを表明する対象ではなかった。少なくとも俺にとっては。信じてる人に親切な人も多いし。

今回参加した葬式は、俺の知っている浄土宗だか浄土真宗だかの葬式はいくつかの点が違っていた。

まず、通夜坊主が来ない。

俺の知ってる通夜坊主が来て、読経があって、お布施だのお車代を渡してといった感じだったけどそうではなかった。親族でも友人でもない、喪主でもはっきり誰なのかわからないような人がたくさんやってきて、その中で一番偉いっぽい人がリーダーシップをとってお経を唱える。皆がそれについて一斉に読経するのだ。通夜が終わったら誰だかわからない人たちはあっという間に帰っていく。

そんで葬式

まず受付が違う。親族や友人、職場でお世話になった人用の受付と、その宗教の方々の受付が別に用意される。署名してお布施を受け取るんだけど、その宗教の方々専用の受付では署名しかしない。お布施を受け取らないか引き出物も渡さない。

会場は前後で半分に分けられる。前には親族や友人が。後ろにはその宗教の方々が。後ろ半分はあっという間に席が埋まる。座りきれずに立っている人もいる。どうやら故人は、県内でもわりと高いランクの人だったみたいだ。

葬式開始。

司会のおじさんがマイクで、県内でも偉いランクの誰々さんが来てくれている、みたいな説明をする。その人が棺の前に立つと会場後方のあちこちから数珠をこすり合わせるギョリギョリという音が聞こえる。俺が知ってるのと違う、長くて大きくてところどころ枝分かれしている数珠

棺の前には、戒名の代わりに、今回授与された「称号」が飾られてる。二階級特進みたいなものかもしれない。

会場いっぱいに広がる読経合唱リーダーシップをとる偉い人、マイクを持った司会、会場後方の信者の方々が一斉に、はっきりした声でお経を唱えている。初めは凄い音量だなと驚いていたがあっという間に眠たくなる。

でも会場に三色の旗が飾られているわけでもないし、会場前方の席の皆さんは普通だし、これはこれで、そんなに大した差異でもないのかな(許容範囲かな)とか思ったりしつつ、何しろ故人が惜しまれて仕方がないわけで、ご家族からのお別れの言葉で俺はめそめそ泣いてるばかりだった。

そしたら俺の涙が引っ込むようなことがあった。リーダーシップをとってる偉い人(普通葬式で言うところの坊主役)のありがたいお話のところだ。

故人のことも知っているらしく、思い出話をしつつ、故人が苦しまずに旅立たれたことがせめてもの救いだといった言葉もありつつ、人の命とは、残された我々はどうやって生きていくべきなのか、みたいなありがたいお話があった。内容はふつうに理解できる、何らかの方向に偏ったものではないように感じられた。

ただ、最後の言葉だけ違った。「~であるからして、皆さんもこれからも、この宗教を広めることをもっともっと頑張りましょう」という内容の言葉で締めたのだ。「広布」という単語を使っていたと思う。

葬式最後喪主挨拶だ。メモを見ながらも自分言葉で、故人が如何に家族や友人を愛し、愛されて過ごしてきたかを語る胸にしみる挨拶だった。俺はまためそめそ泣いた。ただ、ラストだけ違った。突然メモを読み上げるようにして、自分言葉じゃないお決まりの文句のように「これからも広布に励んでまいります」的な言葉で締めた。

正直なところ、なんなんだ、って思ったよ。

どんな宗教を信じたってかまわない。心底良いと感じているもの好きな人おすすめするのだって自然だ。俺はやらないけど、故人が夫婦で信じた宗教なんだから否定したくないし、故人の本望なのかもしれない。

でもなんで、最後最後で、会場にいる仲間に「これからも我らが宗教を広めるのを頑張ろうぜ」って言葉で締めくくらなきゃいけないんだ。親族にとっては、ご友人にとっては、故人を偲ぶ会で別れを惜しんでいる俺らにとってはそれは「求めてないプラスアルファだって感じた。なんで故人を偲んで終わりじゃダメなんだ。なんでなんだ。

俺は、俺の葬式では同じようにしてほしくないって感じたよ。例えば俺がものすごい極端なジャイアンツファンで、弔問客の9割がジャイアンツファンで坊主ジャイアンツファンだったとしても、最後最後で誰かに「だからジャイアンツ優勝を祈念しましょう、ファンを増やしましょう」とか言われたくない。俺がジャイアンツ狂いなのかもしれないけど、それじゃなんだか……バカみたいじゃないかジャイアンツファンの方、関係者の方、すみません。たとえ話です。他意はないです。俺、野球興味ないのにごめんなさい)。

葬式を終えた今。それまでその宗教は「自分にとって良くわからないもの」というステータスだったけど、今はなんとなく、「故人の葬式を利用しようとしている」という点で、ネガティブポイントが追加された状態です。なんなんだあれ。なんなんだ、って思ったよ。

2011-12-06

http://anond.hatelabo.jp/20111206151338

権威ある宗教共同体価値観への、敬虔帰依」がウケてるわけであって、

新興カルト以下の「宗教上の理由」じゃ、ネタにもならない

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