はてなキーワード: 成功哲学とは
こういうのホント多い。
拝金主義を徹底的に批判した映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』をもとに、「ウルフ・オブ・ウォールストリートから学ぶ成功哲学!」という記事を書いてる人が居て、何とも言えない気持ちになった。
↓を読んで感じたこと。
【操作系が強化系の修行すんな】HUNTER×HUNTERの「念能力」から学ぶ人生戦略 ( http://sato-nezi.hatenablog.com/entry/2014/05/26/085112 )
似たような感じで、のび太くんと絡めて教育論を語っていたりとか、ドラゴンボールから成功哲学を学んじゃったり、ドラクエに人生感じちゃったりする記事があるじゃない。
俺はあれが大嫌い。ネットならスルーできるんだけど、ミーティングとか呑み語りで始められちゃうと、逃げられない。
でも、気が小さいから言えないんだ。だから、ここにぶちまけるよ。
まずは、下の下。
フィクションだから、作者とか編集者とか出版社のさじ加減で、結末なんてどうにでもなるんだよ!
(まして、のび太くんが将来ロボット工学の権威になるとかいうのは二次創作だし)
ゲームだって、殆どの人がそれなりに考えればちゃんと解けるようにバランス調整されているんだよ。
こういう話をする奴らが好きな「簡単な三段論法っていうやつだよ(笑)」でいうと、
「AならばB(1)、BならばC(2)、したがって AならばC(3) である」
頑張って(3) が正しいことを言いたいんだろうけど、(1)も(2)もフィクションですからぁーーー!残念っっ!!
(←これ、着物を着て日本刀で斬りつけるように言ったら、きっと流行るよね)
しかも(3)が突拍子もないことなんだよ。「怠け者ほど大成する」みたいな。
彼ら(物語の作り手)は、教育の専門家でもなければ、トップアスリートでもないのだよ。一回も人生全うしたことないしな。
三段論法になっていないんだよ。
中には「こんな時に坂本龍馬はさ…」っていうパターンもあってさ。
これもたいてい史実のエピソードではなく、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」の話なんだな。
それでも、遼太郎さんが歴史上の多くの人たちの人生を調べている、という前提があるから、(1)と(2)はまあ信ぴょう性があるほうだ。
だから、こういう話をする奴は、中の上だ。
でもウザいぜ。
特に、日本人なら全員が竜馬好きで、「竜馬がゆく」を読んでいると思っているあたりが。
俺か?俺は人様に誇れるような人生訓なんて持っていないから、何も話さないぜ。
例えを全部「ドラ」縛りにしようとしたけど、司馬遼太郎さんの著作を思いつかなくて断念するくらいの人間さ。
敢えて言うなら、「語らない」これが人生訓だね。
日本人はとかくファッションの一貫性に欠けると叫ばれる。確かに日本文化は和洋折衷、何でもありの文化であるな。例えば、仏教国の1つでありながら、年末になると突然「ジングルベ~ル」などとバカ騒ぎしだすwそしてどういうわけか年明けには神社で初詣。おめでてーな正月。
で、世界的に見れば一貫性がない、主義主張の曖昧なことは「ダサい」「気持ち悪い」とみなされることは知っておいて損はない。これは単なる主観ではなく明確な根拠がある。日本のような画一社会(個人単位では一貫性に欠けるくせに社会単位ではある意味一貫性がある)では想像つきにくいだろうが、欧米は基本的に多民族社会であって、国内の民族間対立や隣国との民族間対立が深刻な問題であるから、こと人間関係においても相手がどんな人間か知ることが差し迫った課題になるわけよ。だから、「はじめまして」の次には「あなたの宗教は何ですか?」などといった話題がポンポン出てくるのが常なわけ。日本じゃ「ご趣味は?」などと言えば「お見合いかよ」と思われる始末で、相手のことはある程度「お察し」するのがお約束になってゐるが、海外のほとんどの国ではまず初対面の人には最初に相手の思想区分を分類する作業がお約束なわけだね。そんなわけだから、日本人のようなスタイルのよく分からない謎タイプのキャラというのは、文字通り「えたいのしれない」人間として扱われるのよ。だから、もし貴方が日本人でこれから国際社会で活躍したいなら、まずスタイルを一貫させること、そこから始まると言って良い。ビジネスで信頼を勝ち得るには、もちろん人間性やコミュ力も大切だが、実はそれと同じくらい明確なスタイルを持っていることが大事なんだ。そもそも日本文化とは何なのか?自分はどんな人間なのか?そこから考えてみたらどうだろう?
それとは別に、一貫性を持つことは実を言えばとても気持ちの良い生き方だということも知っておきたい。一貫性がないとは裏を返せば裏表があるということで、表の時に裏が気になり裏の時に表が気になるという状態だ。遊んでる時に仕事が気になり、仕事の時に遊びが気になる。そんなんではダメだろう?いくら仕事ができてもダメ。遊びがいくら楽しくてもダメ。仕事も遊び、遊びも仕事と思えて初めて一貫し、そこで初めて心の平安が訪れる。断っておくが、ここまで来ると日本人だけの問題ではなく、全人類の存亡がかかった問題とさえ言えるものだ。この先人類が生き残るには、スタイルの一貫性いかんにかかっていると言っても過言ではない。というのも、今の情報社会において「気になる」ことが大きな文明衰退の原動力になっているからだ。最近スマホでソシャゲをやっている人をよく見かける。ソシャゲも一貫したスタイルの一部に組み込まれているなら良いが、多くの人はそうではない。「気になる」から続けてるのだ。古くは「mixi中毒」と言われた社会現象に始まる。本人は「遊び」「気分転換」でやってると主張するがその内実は全くことなる。「気になって仕方ない」のだ。GMailのinboxも気になって仕方ない。ケータイメールも気になって仕方ない。神経症は現代人共通の病と言っても過言ではなかろう。心の整理が我々人類の急務なのである。1つのことに落ち着いて集中できず絶えず気になることに囲まれた生活が本当に健全と言えるのか。それを今こそ問い直すべき時期に来ている。
問題を叫び立てるだけではあまり意味がない。ここに解決策を提案しよう。その前に一貫性の定義を確認しておこう。勘違いされがちなのだが、一貫性とは無駄なものを削って1つに絞ることではない。一貫性一貫性と繰り返していると、近視眼的なイメージを持つ人もいるようだから、このことは強調しておく。例えば、目標を1つ決めてそれに自分の全てを費やす人生はいかにもアメリカ的成功哲学で受け入れられないと拒絶反応を示す人がいるが、そういう話ではないんだな。それはむしろ最初から一貫性を諦めて、一貫性から外れた「気になる」ことがあっても気にすまいと頑張る行為だから、一貫性とはある意味真逆とさえいえる。「仕事一筋」「柔道一直線」と言えば聞えはいいが、それは微粒子レベルのシビアな見方をすれば一貫性とは言えない。なぜなら簡単なことで、厳密には仕事のことだけ、柔道のことだけ考えていては、生きていけないから。もう分かっただろう。そんなまがいものの一貫性を目指してはならない。一貫性というのは、既にあるものに「統合性」をもたせることでなくてはならない。
であるから、解決策もおのずと見えてくる。統合的な目的を持てばよいのだ。目標ではなく目的。低いレベルでは相容れないものどうしを高いレベルで統合させるにはそれしかない。ウメハラが著書において「目標はもたない」と書いている。目標をもたないのに何故彼のスタイルは一貫しているのか?それは高いレベルの目的があるからである。彼の場合、日々の成長がそれにあたる。とても簡単なことにみえる。だが、考えれば考えるほどやればやるほどこれが簡単ではないのが分かってくる。先ほど一貫性の定義を確認したのはそのためだ。ただ単に、成長のために全ての人生をなげうつ、持てるエネルギーの全てを投入するだけではダメ。それだけでも難しいじゃないかと思うかもしれないが、それだけ出来ても1%も出来たことにはならないという話である。無駄な努力乙というやつで、まるで方向性が違う。早い話、今日から成長という統合的な目的のために生きてウメハラになるぞと思った時点で、君は自分の多くの「無駄」を捨てるだろう。それは自分を削って見せかけの一貫性を作っているだけで、実際一貫性でもなんでもない。ハリボテのエレジーである。ハリボテだから必ずしわ寄せがくる。今日からソシャゲをやらないと決めた所で気になるものは気になるのである。ソシャゲ自体は気にならなくても形を変えて繰り返し噴出してくる。だから我々は「捨てずに」統合する必要がある。捨てて統合出来ましたと言ったってそんなの出来て当たり前であって統合でもなんでもない。
さらにもう一点、オレの目的は毎日の成長だといくら声高に主張したところで、中身が伴ってないと意味がない。我々のしないといけないのは広い目的のもとに自分という人間を「再整理」することであって、大風呂敷を広げることではない。何を整理するか?自分の全ての行動と状態である。それをパソコンのファイルを整理するように整理していく。ルートディレクトリにあたるのが先ほどの統合的な目的だ。そこに全部入れてそれでおしまいというわけにはいかない。それでは整理にならない。なぜ整理しないといけないかというと、殆どの人は自分の行動と状態を支離滅裂な判断でしか決めていないからである。人間完全に合理的な生き物ではないが、少しは整合性を持たせないとダメである。それが出来て初めてスタイルが一貫してくるのであって、単に「オレの人生は全てカネのためだHAHAHA」といったところでまるで一貫性は保証されないわけよ。だから、自分の(行動と状態の背後にある)考えを統合的な目的のもとに整理しなきゃ。そうして初めて、1つのことだけを考えれば良くて、他に何も気にしなくて良いタノシイ状態になれるのである。また、「君のこの行動はどんな意味あるんですか?」と聞かれた時につねに論理的に説明ができるので、「ああなんてスタイルの一貫した美しい生き方をした人なんだろう」という感動を呼ぶのである。これを少しゆる~く解釈すると、人生の限定的な場面において一部の価値観しか扱わずに済む時があって、そのときは一時的に1つのことだけを考えれば済むこともある。そういうときは、柔道一直線が真の意味で実現して、一見美しい生き方に見えることもある。ただしそれは一時的であって、まやかしの一貫性だということだな。これを永続化させるのが我々日本人の責務いや人類の責務と言えよう。
あのねえ成功の方程式を正しく描けるか田舎それこそが成功への片道切符なのだ。
だいたい努力 * 才能 = 成功 などというチンケな俗流成功哲学を信じているようでは駄目でありますww
なぜかならば、才能は生まれつきの不変であるから努力しかないことになってしまう。ところが努力では人と差がつかないんよ。
厳密には一つのことに継続は力なりで差はつくけどな。後述。じゃが全体量としてはヒトの体力で決まるんですわ。いくら室伏でも18時間毎日円盤投げできません。山口真由は19.5時間やってたけどさw
だから大真面目に語るのもバカらしいことであるが、世直しのために我らは正しい方程式を広めねばならないのだ。わかるね?正しい方程式とはこうである。
わかった?w ノウハウが追加されてるな? そして才能は生まれつきで不変であるから不定項、じゃあ変項は?変項は言わず喪がな、努力とノウハウなんです。よろしい。
では、よく努力の方向が間違ってるという言い方をするな?あの言い方は非常に有害危険なの。まるでベクトルのように方向と大きさで決まるかのように、そういうふうにできている?そんな単純な話じゃあない。
がむしゃらにやって良いのはエロ画像掲示板だけ。ソフトにタッチしないと。アダムタッチじゃないけど!雑にガッシャアとやってしまうなよ。
いくらでも可能性が転がっているのに単純化してチャンスを逃すのはバカですよ。そのバカだと思える視点を是非とも今日身につけてほしい。
その優しい愛撫のやうな、微細な心で1つ1つ確かめながら組み立てていく。それは単純に努力の方向じゃないですよ。何をやるか、どれだけやるかの二分法よ、さらば!ちょっとそれはディジタル過ぎる。
例えば努力をするということはそこでひずみが生まれる。観測問題じゃないけど努力するという行為自体が努力の隊商を変えてしまう、さらに言えば努力の主体たる私自身もまた変貌をとげる。
これを物の哀れの分かる人が「諸行無常、諸法無我」と言ったであろう。その変わりゆく有様を確かめるようにソフトに愛撫するわけです。それがノウハウなんですね。
ノウハウというとマニュアルをイメージするでしょうが全く違うんですね。それは努力と才能という二分法の古い考え方です。いまは努力と才能とノウハウです。努力でもなく才能でもないノウハウという
ものがあるのだと厳しくそれはそれは厳しく峻別している。このときノウハウはもはやマニュアルではないことを知ってください。確かめてください。何事も敬虔ですから。
ノウハウを今ひとつの角度から見るとそれは無数のツマミやスライダーやスイッチのある機器を考えてください。使わないツマミは忘れるんです。でもそれはじっちゅうはっく使わないのではなく使えない。使いこなせないわけ。
PS Vitaも使いこなせない機能はどんどん忘れていくのと一緒。使ってないとメンテナンスも疎かになって故障も早くなります。そうiphoneでもね。そうなると本当に必要なときもつかえなくなっちゃう。
必要に迫られマニュアル見て使おうとするも半分故障してるわ操作もぎこちないわでもういいやって投げ出してしまう。で、もっと乱暴な手段にでてしまう。優しい愛撫を放棄して荒々しい前戯になる。
それがノウハウということなんですよ。マニュアルが全てじゃない。マニュアルに書いてあるとおりやっても、故障してたり、うまく操作できなかったりする。そういう生身の現象を扱っているのですからよ。
柔らかく接していなければ全て無駄になるのが分かるでしょう。いくらマニュアルに繊細なこと書いてあっても、ユーザーが荒っぽい人だと草臥れ損の骨折り儲けですよ。、
逆に言うなら、柔らかければマニュアルに書いてないことも臨機応変に捌けるのです。これを頓知と言います。今日覚えて帰ってください。頓に(とみに)知る(しる)これ。
これを試すために面接官は突拍子もない質問をぶつけるのです。盤根錯節に遇いて利器を知る(後漢書)です。面白いことに柔らかさもまた諸行無常で、時々刻々とめまぐるしく変化してますよ。
柔らかいときに頓知が利くなら柔らかいときに得た学びを硬いときにも活用できれば擬似的に常時やわらかな対処できますね?これが一休さんのしくみです。ノウハウ特化型です。
エジソンのようにコツコツ煮詰めるタイプとはまた違う俊英なのです。ただ、忘れてはいけません才能とノウハウだけでなく努力もあるんです方程式に。
エジソンのような努力型はなんといっても積み重ねが凄いんです。積み重ねは何が凄いか分かります?継続は力なりと空念仏を唱えるだけでは全く何も分かっちゃいない。継続は何故力なのかメカニズムを理解してますか?
例えば、簡単のため受験生で毎日10時間、時速4ページで学んでいるとします。毎日40pです。で全国平均が20pとしますわな。分散が10p。そしたら40pやるだけで偏差値70なんです。分かります?
これは学力偏差値ではなくあくまでその日の努力偏差値です。でな?これを続けるとどうなると思う?40pを10日間続けるとどうなる?偏差値70のままだと思うそこのお前は統計学を分かってない。
偏差値70よりずっと上がるんだよ阿呆陀羅。これが継続の魔力その1なんです。つまり偏差値70の努力をする日を何日も続けていくと全体では偏差値75にも80にも、いやもっとそれ以上にもなりうるのです。
しかもじゃ、時速4pが慣れとともにスピーダップして時速6pや8pにもなるかもしれない。俺の過去の経験から言っても初日の2倍速なんて当たり前にありますねえ。その意味でも継続すれば努力偏差値は跳ね上がる。分かった?
ただこれは単純化した話。実際には努力にはバランスも必要です。アンバランスだといつかしわ寄せが来ます。バランスとりながらローテーション回していく計画性が必要です。
そこで先ほどのノウハウ型が不可欠なんですよ。努力しか眼中にないとここで頭打ちになる。伸びない原因は硬さにあった。チンポは硬くなると伸びるのにおかしいじゃないか。でもそれが現実。
結局バランスバランス言うけどその系の拘束条件がどんどん変わっているわけですから。マニュアル式に機械的にバランスをとろうなんざ甘いんです。ちゃんと直接指でソフトに触れないと駄目。
頭の硬い人ほど皮膚感覚をバカにするのはそういうわけ。努力とかそういうことは一切合切承知の助で忘れるくらいでないといけない。とにかくソフトに、ソフトに。休日などに数時間はまったりするとよいです。
今は大きくなった皆への、ノッポさんからのメッセージが話題になっている。
なぜだろうか?
それは、ノッポさんは工作すること、モノを作ること以上のことに言及していないからだ。
ノッポさん自身が大切なことを学んだモノづくり、それを皆も子どもたちとしてくれと、ただそう言っているからだ。
スポーツ選手でもそうだし、タレントや芸人、ブロガーに至るまで、何かで一定の結果を出した人たちはすぐにその成功を拡大解釈し、別領域に適用したがる。
成功哲学とか言って人生全体におけるアドバイスとかしちゃったり、いや、お前ホントにサッカーやってなくても人生成功できたのかよ、と。
そういうのは受け手が拡大解釈して別領域に当てはめて学ぶもんなのに、なに調子にのっちゃってんの?と思うわけだ。
ノッポさんは違った。
モノづくりを通じて、自分はたくさんの素晴らしいことを学んだ。
そうすれば色々素晴らしいことを学べるんだよ、と。
自分が経験してきた価値をそのまま、多くの人に伝えているだけだ。
そこには、これで書籍を出そうとか、テレビにたくさん出たい、とかいうあざとさは微塵もない。
これが本物のメッセージなんだ。
最初に、これは23歳の誕生日になる前に
自分の考えを言葉に表しておきたく、書いてみたことであり
誰かに考えを押し付けるものではありません。
一部矛盾したところもありますが、それを含めてお読みください。
(世の中どうにかしたいというより、ただの自己満足ですから。)
すべてのものには、デメリット、メリットがあるという前提で書かせてもらう。
その1つとして、言葉も例外ではない。
言葉のデメリットを言葉でしか説明できないのが、なんとも悲しいのだが
ある概念や目に見えないものがあったとき、それを言葉にすることはよくある。
これは、目に見えないものだ。
使うとそこで衝突することがある。
それが『神』と言う言葉だ。
西洋、イスラム文化では絶対的なものとして使っている、そして文化的には指しているものは違う。
東洋では、また別のものとして使われている。もっと一般的なものであり
万物のもの全般と言う感じがする。
ただ、個人的にはどれもいきつくところは同じような感じがするのである。
結局、人の人知を超えた何かのことを指している。
それを説明するために、たくさんの表現や教えや話があって
それを信じている人がいる。
もちろん、そこで話と言うのはたくさんあって、文化によって
内容も異なる。
でも、いきつくところは同じものを指しているのではないかと思う。
それが、今の自分がだした結論である。
クリスチャン家庭で生まれ育ち
同時にキリスト教のことも良く知っているという自負がある。
ただ、知っているのであって信じていることとは異なる。
教会の教えをすべて信じることはどうしてもできない。
でも、すべてのことを否定するつもりもない。
見えない何かの存在も否定するつもりもない。
どうしても疑問に思ってしまう。
言葉は違えど
つながるものがあるという確信はある。
ただ、どれもすべて表現や考えが異なる部分があって
それでどうしても衝突してしまうところがあるのが悲しい。
自分は相手にどうしろとか言えるような人物でもないので
どうしろとは言いたくない。
ただ、本人が望むものを選ぶことが正しいのではないかと思う。
そして異なる相手を否定するのではなく、受け入れてあげることが
みんなが幸せに生きることに必要なのではないかと思う。
読みにくい文章ではありますが、
最後までお読みいただきありがとうございました。
「ホームページを作る人のネタ帳」の例のエントリが嘘か嘘じゃないかでもめてるが、正直どうでも良いな。
ビジネスモデルなんか、公になったときには他人が真似してももう遅い。
同じ事やって儲かる保障なんてほぼゼロに近いし、ホントかどうかなんてどうでもいい。
成功哲学の系統の本なんか読んで、その通り実践する人なんていない。
あのエントリは読み物としてそこそこおもしろかったから、それだけでOKじゃいけないのか。
2ちゃんの自作自演は良くて、それ以外の物は全て事実に即したものじゃないといけない理屈も、正直言って基準がいまだによくわからん。
ネタ帳の人にしても、余計な反論が目に付く。
>でも、引きこもりですという方から山のようにメールが来ました。
商売気のありそうな紀伊国屋からはまだいいとして、引きこもりの人たちからメールが「山のように」というのは、批判してる人たちに絶好の口実を与えてるようなもんだ。
ひきこもりというのは今更説明する必要もないとおもうけど、現象面に便宜上の名称をつけているに過ぎない。最近はひきこもりの人たちも「自分を他人に説明するのにいちいち面倒くさい」という理由でひきこもりを自称するけど、それ以上の意味はない。心不全は病名じゃない。心不全に至る原因があるわけで、その原因も人により千差万別だ。あたりまえだけど。それと同様に、ひきこもりに至る原因も人により千差万別だ。
もしかすると、あのエントリ見て、ひきこもりの人たちからネタ帳の人にいくらかメールが届いたかもしれないし、もしかすると「外に出てみよう」という一部の人たちの動機づけにはなったかもしれないけど、全部にあてはまるわけじゃない。あのエントリに粘着した人たちが引っ掛かる原因はたぶんそこら辺りだろうとおもう。
あくまで私見だけど、ネタ帳さんのスタイルとして、管理人のプライベート風日記は馴染まない。もしそういうエントリが書きたければ、他のサイトを立ち上げればよい。気分転換に書いたつもりが炎上することになるのもつらいだろうから。
個人的には、はてなの京都移転に関する「ほとんど全部を想像で書いたような」エントリ群のほうがよほど悪質だとおもう。中には面白いエントリもあったけど(あくまで読み物として)。社会経験値の低い人たちがいかにも飛びつきそうな話題だしね。
「信用出来ない」と思ったら粘着せずに無視すりゃ良い。嫌なことがあった店には二度と飲み食いしにいかない。ダメージ与えたけりゃ、それが一番だ。リアルの生活では誰でもやってることだよ。