はてなキーワード: 偲ぶ会とは
少し前に、私も知り合いだった人が亡くなった。
40代で、ひきこもりの業界で割と有名な人で、ひろゆきと議論する番組にも出ていた。
元々引きこもっていた人で、そのうちに支援もするようになった。
SNSの様子からは、亡くなったことは業界の人達にとても惜しまれているよう。
私は彼とうっすら知り合いだったけど、深くやりとりすることになったある時期は、3年前。
ひきこもりを経験したけどいよいよ親から離れて暮らしてみる事にした時に細かいことをサポートしてもらい始めた。
だけどそうして関わってみると「この人、色々とまずいのでは」と思う部分がたくさん見えてきた。
ジョークや冗談をよくいう彼だったが、その内容がしばしばドン引きするようなセクハラでしかないことが多かった。
ハローワークに一緒に行ってもらった時に担当の女性のかたに「次回以降〜さんを指名できますか?」とそういうお店かのような言い方でいって、女性はなんとも言えない苦笑いで「できないです」と言っていた。
私はゾッとした。
私とのやり取りで最初は丁寧に優しく接してくれる事もあったが、最後のほうはかなり粗雑に扱ってくるようになり、人前で「こいつ」呼ばわりしてくるようになり、パワーでおしてきてわたしにイエスを言わせる方法を取るなどもあっていよいよ信用できなくなってきた。
そういう事もあって私はその彼にサポートされていた形での親から離れる暮らしの話は白紙に戻し別の形を模索した。
彼と関わり続ける事で鬱をぶり返しそうだと思ったのが白紙に戻した大きな理由の一つ。
彼にはそうしたことをどこかで伝えるべきかなとうっすら思っていたら突然死してしまった。
ひきこもり業界は全体的に中高年男性のソーシャルなとこがあって、それが気味悪いので今はいっさい関わらないようにしているため葬儀も何も出ようもなかった。
有志による偲ぶ会なども今後は開かれるようだが彼への高評価や、酷い性格のところを笑える思い出として語るだろうやり取りの場に私は居たくない。
ひきこもり業界になぜあのような彼が姿勢や発言を問われずにいられたのだろうかと考えるけど、雑な説明になるが、ひきこもり業界は動けて発言できる経験者が強く大きく重宝され、上役につかせる構造もあるので、問題児だったとしても何か出来ることで見過ごされ見逃されるところが多分ほかのことよりも大きくあると思われる。
彼は発達障害などもあって実際その傾向もあるし、ひきこもり業界は「発達障害なら仕方ない」「個々の発達の特性を理解していくべき」という理解の持ち方や空気感も強く大きく、それに支えられていたのだろう。
納得できないまま、それでもみんな大人だから、彼の酷さを飲み込んでただけの人がいたのも、見えない事もなかったけども。
だけど今ここに彼によって傷つけられ踏まれた私自身がいるのも間違いないこと。
色々と酷いことを言ったりやったりしながらひきこもり業界の構造上見逃される形のまま死んで逃げ切って神格化されやがって……。
んー、気にしすぎならいいんだけど、親が本人やグループを好きっていうのと、偲ぶ会に行くってのは完全にリンクしないんだよね
好きだからこそ行きたくないって人もいるわけだから、偲ぶ会チケット取れたけど行く?的な直接確認するのがいいよ
確認済みだったりしたらすまんな
先月亡くなられたBUCK-TICKの櫻井敦司さんの偲ぶ会のチケット発売が数日前に開始された。
私は外出中だったが、開始前から待機し購入することができた。
ほっと安堵し、SNSを見ると買えた人や買えなかった人の呟きが流れてきたが、あるツイートが気になった。
「買えなかった。転売されてるし、両日買えた人は他のファンに譲って欲しい」
「両日行く奴、本当のファンじゃないだろ」
と転売を恨むツイートの中に両日行く人間を叩くツイートが多く目に入った。
私はたまたま両日1回ずつ取れたので、行くつもりだったが酷い言われようで落ち込んでいる。
15時に一般
非会員の同行者1名可、複数の時間に申し込み可の先着順であった。
普段は電子チケットの抽選だが、急に決定したことなので紙チケット先着での販売だった。
それを悪用した悪い人間が複数購入し、チケットサイトで1500円のチケットが2.3万に転売されていた。
フリマサイトでも、ライブが中止になった日から発売されたグッズの転売が酷いことで、ファンの怒りはチケット発売以前からあった。(通販はまだで、現在は会場販売のみ)
その怒りが、今回のチケットで爆破したという感じだ。
SNSでチケット転売してる人が名乗り出る訳ないので、自然に両日取れたツイートをするファンに怒りが向かう。自分は取れなかったのに、と。
個人的にあまりに売り切れが早く行けない人が続出したため、このような機会は時間はかかるかもしれないがまた設けてくれると私は思っている。
両日行く予定だったが二日目は家族か知り合いに譲ろうかと思う。両日行く奴はファンじゃない。このツイート見てから結構モヤモヤする。そして転売ヤー許さん。
最後に。
このような場を設けてくださったスタッフの方々には感謝しています。お忙しいのに、中止になった会場でグッズ販売やメッセージボードの設置、ツアートラックと共に全国を周っていただきファン想いのバンド、スタッフだと思います。無理しないよう、ご自愛ください。
国葬という誰の財布も傷まない形でやらないと(自民党、及び安倍に近かった人間の間で)遺恨を残すから。
内閣と自民党での合同葬でやるとなると貴重な政党助成金からの持ち出しが発生するわけ。それは避けたい。
岸田が国葬をいち早く決断したのは「なんで死んだ安倍のために党の金を使わなきゃいけないんだ」と考えたためだし、清和会からしても葬式を盛大にやったところで失われた権力は戻ってこないのに持ち出しで葬儀はやりたくない。っていうか合同葬だとショボいけど国葬だと清和会的には箔がつくので国葬の方がありがたい。
生前ゆかりのあった(民間を中心とした)人間が集まって偲ぶ会的にやればとかブコメで言われてたけど、これもお金が理由でアウト。
死者へ対して金を出して拝んだところでメリットなんて何も無い、なのに金を出さなきゃ出さないで「おやおや、生前お世話になっておいて死んだら放置ですか」と突っ込まれるし、良いこと無いんだよね。
死んだ人間に媚なんか売っても誰も得しないから仕方ないよね。安倍に子供がいたら「坊ちゃま」のために沢山の人が喜んで金出したかもしれないけど、御存知の通りお子様はいないので。
な? だから国葬って形で税金から拠出してやらないと何かしらの問題が発生しちゃうんだよ。国葬でやって税金で賄うのが一番平和なわけ。
ただ議会をすっ飛ばしてまぁまぁの金額の使用用途を決めてしまうのは問題なので、やるならきちんと国会の場で「国葬税」を定めて国民から香典代わりに一人5,000円徴税して、その上でやって欲しい。
そこまでやって初めて国葬と言えると思うし、そうではなく既に徴収済みの税金からチョロっと使うというのであれば、一言だけ言わせてもらいたい。
「財源は?」
ニッポン放送のラジオショッピング売上記録ホルダーの塚ちゃんこと、塚越孝アナ。
塚ちゃんが亡くなって10年が経ち、ラジオショッピングの売上がいまだに破られていない&いまだに偲ぶ会もできていないということで
様々な関係者に聞きいた話から、塚ちゃんのお台場人生を振り返ってみる。(時系列はあやふや)
先に申し上げておくが、塚ちゃんや関係者を貶めるわけではない。
関係者それぞれの考えもあるし、内で思うべきこともあるだろう。
ただ、まさしく人間ドラマとはこのことだと言いたい。自分だったら番組化したいくらい。
そして、この人間ドラマから、亡くなってしまった塚ちゃんに朝から大変バカヤローと叫びたい。
2012年当時のフジテレビは視聴率三冠を逃しているにもかかわらず、三冠の亡霊に憑りつかれた状況だった。
外部からは選択肢の2~3番手、にもかかわらず社内のプライドは1番手というギャップから
スポンサーや代理店、制作会社から出入り業者含めてギャップが顕在化し始めていた。
特に局内では右肩上がりはインターネット関連の部署(旧デジコン局、当時はクリエイティブ事業局)だけになっていた。
FOD売り上げ規模は小さくても、右肩上がりということで株主総会でもクリ事の話をするくらいの状況だった。
そんな塚ちゃんはアナウンス室にいた時から、デジコン局のポッドキャスト番組に出ていた。
塚ちゃんがナビる落語番組はappleから表彰されるくらいの規模で、若者向けデバイスでアクティブシニアにもリーチできるということで
パトロンという仮面をかぶった先進的なスポンサーには意外とウケが良かった。
(その時点でF1ターゲットのフジでは異質だったが、地上波とのカニバリを避けられたし、
逆にBSフジは親和性があって波を使わせてもらうこともあった)
塚ちゃんのデスクはいつも本が山積みで、アナウンス室の中でとても目立っていた。
本の壁でパーテーションをするかのごとく、本をデスクに積みあげ、
本に隠れていろいろコソコソやっていて、アナウンス室の中でも浮いていた(しょうがない。。。)
塚ちゃんがお台場に来たのは、ライブドア事件でニッポン放送がフジテレビの利益を使えなくなってしまってことに起因する。
ここらへんはライブドア事件をググってほしい。
ニッポン放送は本業以外の収益がなくなり、本社屋の建て替えもありバランスシートが破綻寸前だった。
持株会社制に移行したことを理由に、ニッポン放送で人件費の高い社員をまとめてフジに転籍させることとした。
そこでやってきたのが塚ちゃんだった。
実はニッポン放送は社屋の建て替え時に、スタジオをフジのデジコン局近く設けていたこともあり、
塚ちゃんはアナウンス室よりも、現場フロアのほうが安心している感じだった。
フジにきた塚ちゃんはニュースや情報番組の特集枠ナレをやったり、CSの自社枠紹介番組をやっていた。
ただ、ラジオノリなので、どうしてもテレビ周りの動きができなかった。
例えばラジオなら5秒無音で放送事故だけど、テレビは絵で訴えかけるシーンだったりする
でもそれがわからない、すべて説明し、相槌を入れ、常に話し続けないと気が済まない。
塚ちゃんだけではなく、ニッポン放送転入組の8割がテレビには合っていないと思われてた。
2割のプロデュース企画系の人は優秀だったけど、都市部から離れてアンテナが鈍ってきていた。
そんなこともあって、転入当初はニッポン放送での業務に近しい業務をしていた人たちも
3年目あたりから異動し始めた。そう、主に窓際への異動だ。会社の看板ではない
本人たちはいつかは有楽町(ニッポン放送)へ戻りたい/戻れるとよく言っていたそうだ。
塚ちゃんの思いは強く、日枝さんにも直談判していたそうな。
そんなところで、アナウンス室を出る内示が出たが、塚ちゃんは内示に反対し、
アナウンス室を出なければならないないら、少しでも出役が期待できるクリ事を希望し、
人事発表の時には異動先がクリ事に変わっていた。
2011年にクリ事に異動して、また塚ちゃんは悩んだんだと思う。
クリ事としてはもう招聘出演者ではないので、手厚いフォローはしないということ。
それこそ、右肩上がりだけど規模の小さな事業部だからメイクさんも使えない。
ロケ現場でも、ゲストにはメイクさん使えるけど、塚ちゃんには使える費用が捻出できないとか。
さらに、功を焦る中途入社の年下上司から塚ちゃんへの暴言の数々・・・。
口では一兵卒から頑張ります!と挨拶しても、内心では塚ちゃんのプライドはズタズタですよ。
1年クリ事にいて、自分の今の置かれた立場を認めなくなかったんだろうね。
その年も、日枝さんにも直談判していたそうな。それで今度こそニッポン放送に戻るんだと。
2012年6月25日(月)内示の直前まで周囲にそう話していたが、昼過ぎの内示では塚ちゃんの担務は何も変わらなかった。
内示の後の塚ちゃんの姿を見てる人/覚えている人はいなかった。
そして、内示の翌日2012年6月26日(火)に、デスクに塚ちゃんの荷物があることを、誰も気に留めなかった。
いつもだったら重役出勤のはずなのに、朝から荷物があることがおかしいと誰も気づかなかった。
編集明けの早朝スタッフですらそうだった。内示も終わったから気持ち引き締めて当日午後の収録ために朝から出社してくれたんだと勘違いしていた。
2012年6月26日(火)午後にポッドキャストの収録だったが、社内の収録現場に現れなかった。
今まで収録に連絡無しで来ないことはなかったので、いよいよザワザワしだした。
夜になり、荷物がそのままでありながらも携帯電話が通じないことで、不審に思ったスタッフが部長級に相談し動き始めた。
部長級は社内への相談、スタッフは塚ちゃんつながりの場所や関係者たちへの連絡や訪問。
そして、そのまま翌日2012年6月27日(水)になる。依然として行方知れずの中、午後になり、警備から発見の連絡となる。
年下上司は遺書の有無についてやたらと気にしていて、スタッフに何度も確認で詰め寄ったとか。
2012年6月26日(火)没となっているが、見つかったのは27日(水)
入退室ログの最終入構が25日(月)だったので、おそらくは25日(月)の夜にお亡くなりになっていたと思われる。
関係者それぞれの考えもあるし、内で思うべきこともあるだろう。
ただ、毎年この時期になると、塚ちゃんのハチャメチャな緩急つけた振り回し方が無性に恋しくなる。
もしかしたら、今の日本を元気つけられたのかもしれないなぁと思い出してしまう。
塚ちゃんよ、2002年にニッポン放送を退局したときに、政治家にでもなってりゃよかったんだ。
話すことを生業としたいのは分かるが、自分一人だけで孤独な闘いを続けなくてもよかったんじゃないのか。
それこそリスナーと塚ちゃんの逆人生相談室をスイングしてもよかったじゃないか。
残された人のことをどう思っているんだ?天国では横澤さんとどんな話をしているんだ?
ラジオのことはどう思っているんだ?今だったらyoutubeで話し放題できたんじゃないか?
合掌
2005.03.13 Sunday
2004年3月に死去したザ・ドリフターズのリーダーで俳優のいかりや長介さん(享年72)の一周忌法要「いかりや長介さんを偲ぶ会」が12日、都内のホテルで行われ、生前親交のあった芸能人、知人、親族ら約700人が出席。故人を偲(しの)んだ。
桜の花で飾られた祭壇の遺影は、葬儀の時と同じ99年のテレビCMでウッドベースを奏でる姿を撮ったもの。「1年って本当に早いと思います。でも、長さんが向こうに行ったことが信じられない」。発起人を代表した加藤茶のあいさつのように、ドリフターズのメンバーは一様に「まだ、どこかで生きている気がする」と口にした。
この日は4人のメンバーがそろって献花。「まだまだドリフターズは解散しません。4人でドリフターズのコントをずーっと続けていきたい。バカを貫いていきたい」(加藤)と“ドリフ続行”を、天国のリーダーに誓っていた。
もう5年近く経つ。
ネットで名前を検索したら、その人を偲ぶ会というコミュニティがmixiにあるのを見つけて、見たいような見たくないような気持ちでやっぱり見れなくて当時のことを色々と思いだしてる。
好き同士だったのかはわからないけど毎日メールしてたな。「好きだよ」とメールを送りあったりしたけど本当はどう思っていたんだろう。死んだら聞けないじゃん。
時間が経って自分は自分の生活を送って彼以外の人を好きになったりもしたけど、彼への思いだけがガラス玉の中に小さく閉じ込められている。私はそれを見つめることしかできない。割ることができない。忘れることができない。早く、早く時間が経ってくれたら、こんな思いも頭の片隅へと追いやられて縛られることなどなく過ごしていられるかもしれないのに。
ある人の葬式に行ってきた。
自分も大好きだったその人は、某大型宗教の敬虔な信者だった。夫婦ともに。
2ちゃんねるでよく叩かれているその宗教は、まあ選挙前になるとちょっと電話がわずらわしいけれども、直接の実害があるわけではないし、「自分にとってよくわからないもの」という不安はあるものの、取り立ててわざわざヘイトを表明する対象ではなかった。少なくとも俺にとっては。信じてる人に親切な人も多いし。
今回参加した葬式は、俺の知っている浄土宗だか浄土真宗だかの葬式とはいくつかの点が違っていた。
俺の知ってる通夜は坊主が来て、読経があって、お布施だのお車代を渡してといった感じだったけどそうではなかった。親族でも友人でもない、喪主でもはっきり誰なのかわからないような人がたくさんやってきて、その中で一番偉いっぽい人がリーダーシップをとってお経を唱える。皆がそれについて一斉に読経するのだ。通夜が終わったら誰だかわからない人たちはあっという間に帰っていく。
そんで葬式。
まず受付が違う。親族や友人、職場でお世話になった人用の受付と、その宗教の方々の受付が別に用意される。署名してお布施を受け取るんだけど、その宗教の方々専用の受付では署名しかしない。お布施を受け取らないから引き出物も渡さない。
会場は前後で半分に分けられる。前には親族や友人が。後ろにはその宗教の方々が。後ろ半分はあっという間に席が埋まる。座りきれずに立っている人もいる。どうやら故人は、県内でもわりと高いランクの人だったみたいだ。
葬式開始。
司会のおじさんがマイクで、県内でも偉いランクの誰々さんが来てくれている、みたいな説明をする。その人が棺の前に立つと会場後方のあちこちから数珠をこすり合わせるギョリギョリという音が聞こえる。俺が知ってるのと違う、長くて大きくてところどころ枝分かれしている数珠。
棺の前には、戒名の代わりに、今回授与された「称号」が飾られてる。二階級特進みたいなものかもしれない。
会場いっぱいに広がる読経の合唱。リーダーシップをとる偉い人、マイクを持った司会、会場後方の信者の方々が一斉に、はっきりした声でお経を唱えている。初めは凄い音量だなと驚いていたがあっという間に眠たくなる。
でも会場に三色の旗が飾られているわけでもないし、会場前方の席の皆さんは普通だし、これはこれで、そんなに大した差異でもないのかな(許容範囲かな)とか思ったりしつつ、何しろ故人が惜しまれて仕方がないわけで、ご家族からのお別れの言葉で俺はめそめそ泣いてるばかりだった。
そしたら俺の涙が引っ込むようなことがあった。リーダーシップをとってる偉い人(普通の葬式で言うところの坊主役)のありがたいお話のところだ。
故人のことも知っているらしく、思い出話をしつつ、故人が苦しまずに旅立たれたことがせめてもの救いだといった言葉もありつつ、人の命とは、残された我々はどうやって生きていくべきなのか、みたいなありがたいお話があった。内容はふつうに理解できる、何らかの方向に偏ったものではないように感じられた。
ただ、最後の言葉だけ違った。「~であるからして、皆さんもこれからも、この宗教を広めることをもっともっと頑張りましょう」という内容の言葉で締めたのだ。「広布」という単語を使っていたと思う。
葬式の最後は喪主の挨拶だ。メモを見ながらも自分の言葉で、故人が如何に家族や友人を愛し、愛されて過ごしてきたかを語る胸にしみる挨拶だった。俺はまためそめそ泣いた。ただ、ラストだけ違った。突然メモを読み上げるようにして、自分の言葉じゃないお決まりの文句のように「これからも広布に励んでまいります」的な言葉で締めた。
正直なところ、なんなんだ、って思ったよ。
どんな宗教を信じたってかまわない。心底良いと感じているものを好きな人におすすめするのだって自然だ。俺はやらないけど、故人が夫婦で信じた宗教なんだから否定したくないし、故人の本望なのかもしれない。
でもなんで、最後の最後で、会場にいる仲間に「これからも我らが宗教を広めるのを頑張ろうぜ」って言葉で締めくくらなきゃいけないんだ。親族にとっては、ご友人にとっては、故人を偲ぶ会で別れを惜しんでいる俺らにとってはそれは「求めてないプラスアルファ」だって感じた。なんで故人を偲んで終わりじゃダメなんだ。なんでなんだ。
俺は、俺の葬式では同じようにしてほしくないって感じたよ。例えば俺がものすごい極端なジャイアンツファンで、弔問客の9割がジャイアンツファンで坊主もジャイアンツファンだったとしても、最後の最後で誰かに「だからジャイアンツ優勝を祈念しましょう、ファンを増やしましょう」とか言われたくない。俺がジャイアンツ狂いなのかもしれないけど、それじゃなんだか……バカみたいじゃないか(ジャイアンツファンの方、関係者の方、すみません。たとえ話です。他意はないです。俺、野球興味ないのにごめんなさい)。
葬式を終えた今。それまでその宗教は「自分にとって良くわからないもの」というステータスだったけど、今はなんとなく、「故人の葬式を利用しようとしている」という点で、ネガティブポイントが追加された状態です。なんなんだあれ。なんなんだ、って思ったよ。
ここ5年ほどで、10人くらい知人をなくしている。
たぶん無宗教なのかだからと思うんだけど、葬式というのが理解出来ない。
結婚式はわかる。
死人のためにそんなに仰々しくいろんなことをしたってさ、なんて思う。
遺族のためなのかなと理解してる。
故人のために人が集まってくれる人が少ないよりは多いほうが嬉しいのではないのだろうかと。
とはいえ、参列者が多いことにより、単に負担が増えるだけなんじゃなかろうかとも思う。
口にださないだけで密かにみんなそう思ってたりするんじゃないかな。
葬儀は身内だけでひっそり、後で「~を偲ぶ会」みたいな集まりを開いたりするのが増えてる気がするし。
戒名の値段とか祭壇の値段とかもあんまり理解出来ないんだけど、キリスト教徒やイスラム教徒が寄付や喜捨やらチップやらでこまめに身銭をばら蒔いてるのを、日本人は結婚式と葬式で一括払いしてると思えばそんなもんかなと思う。
金は天下の回り物。