はてなキーワード: 巧拙とは
近頃のTLの話題と、それから後述する自身に起きたできごとのために最近つくづく思うのは、「オタク界での生産者とnot生産者のへだたりって大きいよなァ」ということ。
私は女性で、女性の多いファン集団に身を置いており、そこから見える範囲のことしかわからないけど、とりあえず見える範囲では、何らかの描き手や書き手、工作、コスプレ、論文、その他いろんな手法はあるけど何かしら作っている人が本当に多い。「何かの作品、もしくは媒体のファンであること」にその人本人が何かを作っているかどうかというのは本来全然含まれてないはずなんだけれど、なんとなく含まれているような気がしてしまう。みんな何かしら作ってる。自分が何を生産しているかで自己紹介している。
と、いうのは私という一生産者からの世界の見え方。たぶん、というか間違いなく、ここの認識の時点でかなりバイアスがかかっている。ということに、長らく気づかないでいた気がする。
私はいわゆる二次創作と呼ばれるものは絵も字も書く。ただただ感想をしたためるのも好き。
二次創作、という存在を知って書き始めたのと同時期にTwitterを始めた。年月が経ちいろいろあったけど、現在は身内の鍵アカウントと、ジャンルの話をするアカウントで落ち着いている。身内というのは、顔と職を知っているレベルで、かついわゆるオタクのマイフレンドたち。現在のジャンルは全然被っていないけれど、「今季のアニメに間違いなくお前の好みの男がいたぞ」と言い合える、ハッピーなコミュニティである。
ジャンルの方は、かつての覇権ジャンルで、今では定住者たちがのんびりと生きている。カップリングはその中でもマイナーで、まだ未開拓のフロンティア。私は覇権後に唐突に沼った、皆様から見れば新参者だ。元来、とにかくいいねがほしい!という人間ではないけれど、まぁ何か作ったのならそりゃほめてもらえるに越したことはないよね、というぐらいで、主観的にも客観的(マイナーカプなのでそもそもの閲覧者が少ないし、作風というか性癖が少々特殊なので……などの条件から見てこんなところでしょうという分析)にも満足している。節度を守ったリプライのできる相互さんもいる。このソサエティで生きるあらゆるオタクの悩みなんかを読むと、私はまぁなんて幸福なオタクなんでしょう、と思う。
それはTLに流れてきた、解釈違いがどうこう、という誰かのツイートに対して私がした、「私もこれが自分の解釈だ!という気持ちで書いてるからなんか違ったらこれでどうだ!って作品で返してもらいたいよね」という何気ないツイートに対してだった。じゃあ何も書けない私は黙るしかないね、みたいな、おおざっぱに言うとそんな感じのリアクションが来た。
正直に言うと、一番最初に頭に浮かんだのは「え……?書けばいいのでは……?」だった。
そのときやっと、既に脳が「何かを読んだ!見た!こみあげてくるものがあった!」から「よし、それでは何か形にすっぞ!」までを流れ作業でやってしまうがために、万人もそうであると思い込んでいたところがあったということに、今更気づいた。
えっ?なんでだろう……いつからそれがオートで働くようになったんだ?私は元々、小さいころから絵やお話を書くのが好きで、二次創作という概念を知ったときは何それ!!この神漫画を読んだパッションのやり場としておらのスキルが生きるんだか?喜んでくれる人もおるん?こらたまげたなぁ!!という感じで飛びついたタイプのオタクだ。
誰が送ってきたんだよ……とふと振り返る。私はジャンルのアカウントでは基本的に、好きな二次創作をするオタクと、素性を明かして感想をくれるオタク(そしてこの両者はけっこう被る)しかフォローしていない。結果的に、相互の倍は一歩通行のフォロワーがいる。ありがたいと思いつつ、実はその人々のことはあんまり見えていなかったのでは?ということに気づく。
でもさぁ~~~許してほしいよという部分もある。コミュ障が生産者間コミュニケーションに慣れ親しみ、前提として持ってしまっていると、感想以外のフックで絡みに行くことは大変難しい。畑をやっている人同士なら、そちらのトマトは立派ですねとか、交換しましょうかとか、肥料は何をお使いですかとか、ご精が出ますねぐらいのことは他に情報が無くても言い合える。そうではない人にこちらから切り出す術って、あんまり思いつかない。連載中ならまだ、昨日の学校へ行こう見た?みたいなありし日の教室のノリで話しかけられるかもしれないけど、もう公式に動きなんてないし……ははは……
実を言うと、私はアカウントをもう一つ持っている。3次元のアイドルを推すためのアカウントだ。数年前、生まれて初めて3次元のアイドルにハマった私は、とにかく推しの素敵なところ、かわいいところをツイートにしたためた。ライブ円盤を見ては感想を書き、出演ドラマを見てはやたらと長文の感想を書いた。できる範囲で似顔絵も描いてみた。あんまりうまくいかなかったのでそれはやめた。
3次元である程度成功しているアイドルならば、ファン数は自カプ推しの人数などとは比べ物にならない。そして、そりゃ自然なことだけれどもドルオタは、基本的に公式の供給を咀嚼し終了するタイプのオタクの割合が圧倒的に高い。御託を生産するオタクが新天地でも変わらず生産を続けた結果どうなったか。気づけば見たことのない数字のフォロワー数が積みあがっていた。そのアカウントで人と絡んだことは、ほとんどない。ぶっちゃけてもいい?だってオタクがつまんないんだもん。
神だとか言われたって、結局はその神は原作者とかご本人とかの「神」をあがめているのであって、他はいわば信徒仲間だ。そしてその仲間が大量にいるとなれば、そりゃ話しやすい人と仲良くやろう、となるのは当たり前。その相手はきっと黙ってマシュマロを送ってくるタイプの人ではない。
たぶん、見える景色が全然違うんだろうなと思う。想像ができない。ぜ~~~んぜんわかんないや!!もう脳と手が直結してるんです。神(原作)を知ったこの感情は、この発見は、う~ん、よし!これは小説という形にしちゃお!みたいなのがオート。巧拙はこの際置いといたっていい。でもこれを読んだ誰かの胸の中に今の私とおんなじむちゃくちゃな感情を発生させられればなおうれしい~~~!!その着弾確認ができたらもっとうれしい~~~!!という流れを延々と回し続けている。そのときの視界って、すごく狭い。基本的には神と私だけ。それから尊敬する他の求道者たちもちらちら見える。他にあんまり期待してはいけない。
サイレントに私を認知してくれている人々のことは、本当にありがたいと思っているので、できればちゃんと感謝も示したい。何か良い方法はあるんだろうか。それからちょっぴり恐れているのは、これから先、私に何か不測の事態とか、家庭の事情とかになんらかの変化があって、何も作れなくなるときが来たらどうしよう、ということ。ときどき立ち止まって世の中にはいろいろなタイプのオタクがいることに思いを馳せないと、事故ったときにストレスで死ぬ気がする。今から入れる保険はあるだろうかと考えながら、今日も回し車を回すハムスターのように何かしら作っている。みんないつもありがとう。
■追記
夜になって見たらやたら読まれていた。ありがとうございます。既に断絶が見えまくってて超面白いな……
反応見てて一つだけ。「私と解釈違ったら作品で返して」の部分でなんかちょっと捉え方が違うかなってのが散見されたので追記。言葉が足りなくてすみません。
なんで作品で返してほしいかっていうところ。当たり前だけど二次創作は神(原作者)が「それちゃうで」って言ってこない限り基本的に正しいとか間違ってるとかないわけなので、そこにあるのは私と違うかどうかだけで。
そして私は二次創作の作品なんてあればあるだけ良いと思っているんですね。だから作品にしてもらえるとうれしいわけです。
どうしてあればあるだけ良いと思っているかというと、それはその人が神と向き合った結果だから。私は原作が好きなので、それを多くの人に愛してほしいわけです。愛した結果が見たいわけです。
その結果が私と違って、例えば私があんまり読みたくないようなものでもそれはそれで全然良いのです。この世に生まれることが大事。多様性のないコミュニティは短命だって歴史も証明してるし。
これは先日話題となった「同人女の感情漫画」に出てくる「おけパ中島さん」の話題を見て、おけパ中島さんと綾城さんが混在したような人物に触れたばかりである今の自分の感情とタイムリー過ぎて発狂しかけた、底辺字書きのしょうもない話である。
最初に言っておくが、自分はこのはてなブログを利用するのが初めてなので、色々と大目に見てほしい。
自分は、文字を書き始めてから五年の、たいして人気もない底辺字書きだ。底辺ながらに細々と支部などに投稿して、偶に反応がもらえればラッキーくらいに思う程度のものだった。それがおかしくなったのは、今ハマっている新規ジャンルに手を出し始めたころからである。
そのジャンルではそこそこメジャーなCPにハマり、母数がかなり多いおかげか、そこで投稿した小説はそこそこ見てもらえ、ツイッターにあげれば少しは反応がもらえるような状態だった。今までのジャンルではそんなことはなかったし、嬉しかった。
だからといってツイッターのフォロワーが増えるわけではなかったが、でもまあ字書きなんてそんなもんだろうと思っていた。一部のベテラン神字書き以外は、そんなものだと。
そう思いながらも、なまじ少し反応が貰えただけに、欲が出てきていた。知らない字書きが書いた自分よりブックマークが多い作品は見られなかったし、絵師さん方が「この小説おすすめ!」というように紹介していると、どうしても羨ましいと思ってしまう。
もちろんそれが悪いとかそういう話しでは全く無い。小説には見向きもされないようなジャンルにいたこともあるので、この界隈の風潮はとてもいいものだと思っている。
しかし、どうしても嫉妬を覚えてしまうのだ。なぜ自分は人気が出ないのか、なぜ見てもらえないのか。悶々とするその気持ちを、「そもそもこの界隈には人も多く、その分神字書きが多いからだ。自分と同じくらいの人間のほうが多い」と無理やり納得させていた。
自分が尊敬する神字書きさん(綾城さんのような存在)もこの界隈にはいて、その方はトップを走ってる。だからなんとなく、「しょうがない。勝てるわけがない」と思えていた。
それが崩されたのは、この界隈にある字書きが参入してきた時だった。
ここからは少しフェイクを入れて話すが、その字書きは元々あまり腐向けには興味があった人間ではなく、全く違う畑で創作していたタイプの字書きだった。
とはいえそちらもそれほど作品数があるわけでもない。この界隈に興味を最近持ったらしいが、ツイッターも字書き垢でもなく、このジャンルのためにつくったようなものだった。(恐らく)
それが、いきなり、躍り出てきたのである。
朝起きたら、自分が大好きな神絵師と神字書きがその作品のことをツイートしていた。両者ともにそこまで小説を紹介するようなアカウントではなかったので、すこし驚いて、いつも通り少し仄暗い感情を抱いた。最初は、見るつもりもなかった。嫉妬しながら見たところでその作品にも失礼であるし、自分の精神にも悪いからである。
しかし、その作品は何度もTLに流れてきた。小説がここまでいろんな人に取り上げられているのを見るのは、自分の大好きな神字書きさんの作品以来だった。仕事中だったので、それを見て見ぬふりをして過ごし、家に帰って覚悟を決めて支部を開いた。たった一日でその作品は、自分の十倍以上のブクマを獲得していた。読んだ。もう、読むしかないと思った。
特定を避けるために中身はぼかすが、最初は、語彙力に溢れているわけでもないし、確かにさらっと読めはするが、巧拙な文章ではないなと思いながら読んでいた。いったい何がそこまで、と。これだったら自分の方がとさえ思っていた。
しかし、最後まで読んだときに、気づいたら自分はボロボロと泣いてた。その話の内容と、「勝てない」という思いに打ちのめされて。悔しいが、自分には書けないような話だった。稚拙だと思っていた文章に、いつの間にか引き込まれていた。なぜあそこまで皆が勧めるかが分かった。本当に、面白いと思ったのだ。そのときはまだ嫉妬より素直な感心のほうが強かった。すごい人が入ってきた、と。
けれど、そこで支部の作品欄を見て、この界隈に来るまでそもそも腐向けを書いたことがないことを知った。正直「は?」と思った。見ないほうがいいとわかっていながらも、ツイッターにとんだ。そこで自分が見たのは、自分の大好きな神字書きと「フォローありがとうございます!」とおけパ中島のテンションで話してるその字書きの姿だった。
自分がいくら書いても見向きもされなかったのに、その新人字書きは神字書きにフォローをもらっていたのだ。しかも、(これは大変理不尽な言い草だとわかっているが)名前さえもおけパ中島に近いものを感じ取るようなものだった。
そして、その作品をきっかけに神絵師とも繋がっていた。「死ぬほど泣きました」などと、自分が貰ったことのない称賛を山ほど浴びていた。それを見た瞬間、反射的に、負の感情が沸いた。
分かっている。その字書きは何も悪くない。悪くはないのだが、自分が今まで「しょうがない」と目をそらしていたものを、一気に覆していく気がした。
神字書きや神絵師と話してるのを見て、「本当に作品ちゃんと見たのか!?」という、完全に七瀬の気持ちになっていた。そこで自分がしたのは、最低最悪の行為である「粗探し」だった。字書きというのは、傾向として高尚ツイをしがちであると個人的に思っている。しかし、その字書きのツイは、毒気を抜かれるようなものばかりだった。テンションがおけパ中島。本当に。これいくつだ?と思ってみていたら、おそらく想像していたよりかなり若いと思われるツイートがあった。それを見て、また死んだ。
そんな折に、「自分も字書きですが才能が有って凄いです。羨望します」みたいなマロ(自分ではない)が送られているのに対し「このマロだけでも日本語が綺麗なのが分かります!いつか作品見てみたいです……!」というような回答をその字書きがしているのを見た。TLでは自分のおすすめ小説を紹介するし、どんどん神字書きや神絵師と繋がっていく。人のことも良く褒める。
あ、なんか合わねえなと心から思った。
十割嫉妬だと分かってはいるが。しばらくすると、その字書きの小説の支部リンクのツイは三桁にいっていた。自分は二桁もいったことがないのに。自分は、面白いと思ったはずのそれをリツイートすることはできなかった。
その字書きは私にとって、綾城さんでもあり、おけパ中島でもある存在となった。
だからと言って、自分が七瀬や友川になれるのか?なりたいとは思うが、あれから自分の創作の手は止まってしまった。自分がいくら必死に書いても、ぽんと出てきた人間が、簡単に追い越していくという事実に打ちのめされてしまったのだ。ここまで見てもらった方は分かると思うが、自分は文章が下手なのである。なのに、書きたいものを書けばいい、そう分かっていてもどうしても評価を求めてしまう。
そして、自分はきっとあの字書きには勝てないし、神字書きに認識もしてもらえない。その字書きのことはフォローできていないが、神字書きや神絵師のTLに時々出てくる。そのテンションが腰の低いおけパ中島なのだ。それを見るたびに、嫉妬にかられる。フォローしてないのに、ついつい見に行ってしまう。
自分よりかなり若い子相手に何をしているんだと思うが、どうしようもないのである。定期的に見に行って、その作品名でツイッターを検索し、たくさんの人が紹介しているのを見てまた死ぬ。やらなきゃいいとわかっていても、ついやってしまうのだ。
このどうしようもない感情を持て余しているときに「同人女の感情漫画」で、おけパ中島の存在を知った。それに対するツイッターの流れを見て、現在進行形で身に覚えがありすぎて死にたくなった。そして、その字書きはおけパ中島の話題を明るい感じで出していたのを見て「だろうな」と思い、また落ち込んだ。
が、おけパ中島のような存在にどうしようもない感情を抱いてしまう人が一定数いるのだと知り、少しだけ気持ちが楽になった。
いつか、自分がその字書きのブクマ数を超えるか、その字書きが自分の小説を紹介したりするまで、きっとこの気持ちは晴れないのだろう。あの漫画を見て、七瀬や友川のようになりたいと思った。
そのためには、書くしかないのだ。書いて書いて、書くしかないのだろう。このはてなブログを書いたのは、だれにも言えない今の気持ちを吐き出し、再び書き始めるためである。
あるいは、なろう作家に限定したことではないかもしれませんが。
なろう小説を3桁ほど読ませてもらいましたが、話の巧拙に関わらず共通点が一つ。
それは女性描写の少なさ。あまりに少ないもので、ひとしきり笑ってしまいました。
確かに作中に女性キャラは登場しますが、決して彼女たちは「女性」として扱われていません。
最初のキャラクター紹介で雑な外見設定を付けられ、あとは大抵が主人公の妾になるだけ。
いくら女性とのお付き合いが日々の中でないからって、自分の理想を書いているからって、
そして書くことが苦手なので、どんどん女性の描写が減っていく。思考が単一化していく。
その様な本を若者たちに読ませたら、ああどうなることやら。考えたくもありません。
お色気・破廉恥さに拠らなくても彼女たちは描写できるはずです。思考内面を文に落とし込めるはずです。
巨乳で主人公にベタボレで優しくて才女で……ほとほと繰り返される安易な女性描写には辟易しました。
「女性」は自分で熟慮し、行動でき、なおかつ確固たる意見を発現できる、そういうものだと認識しています。
(もっとも、今あげたのは女性の一部要素であり、他にも長所はたくさんあるのですが!)
……頼みますから、もっと質感的な、深みのある「女性」を書いてください。
「女性」を書くことを忌避しているうちは、到底真の作家にはなれませんよ?
貴方達が変わり、成長できることを、そしていつかちゃんとした「女性」を書けることを、心から願っています。
おそらく「転生後女性になった主人公」を反論に挙げる方がいらっしゃると思うので、先手を打って。
彼女らは、いいえ、彼らの転生元のほとんどは男性であり、女性の皮を被ったまま男性観を振り回しているに過ぎません。
本当の女性は決して男性とイコールではないことを理解してください。もっと繊細で理知的な存在なのですから。
朝、目が覚めたら雪が降っている。けっこうな勢いで雪が降っている。
外に出るのはよせと、天が示しているのか。
天は沈黙の中で人に何ごとかを伝えようとするようだ。市場も同じだなと思った。市場は明確な言葉ではなく現象で以って人に語りかける。金利であったり特定の商品の価格であったりである。市場の伝えんとすることを正確に読み取れるかどうかでその人の市場との付き合い方の巧拙が変わってきて、上手に市場と対話できる人は自らの金融資産を増加させられる。市場との対話は神との対話を彷彿とさせる。
日本人の致死率が極端に低い。世界中の医者、感染症の専門家を戸惑わせているレベルである。
BCG接種が免疫を強化させているのではないかという仮説がある。オーストラリアはその効果について研究を始めたという。
日本における病床数の多さも人口あたりで見れば世界一だそうだ。
満員電車の状況が連日続いているはずなのに、東京都内での感染爆発が未だ起こっていないように見えることが不自然ではあった。
神の国…なのか?
武漢肺炎ウイルスの蔓延によって見えてきたものがある。いろいろなものがクリアになる。付き合っている人間のこれまで見えなかった本性ようなものが明らかになってくる。ウイルス騒ぎが人の本性を暴く。ある人は、私のことを駒としか考えていなかったのだ、人扱いされていなかったのだと知れた。
付き合うべきでない人が見えた。人の本性が見える場面が増えた。
世界的なキャッシュクランチが起こっているようだ。現金化を急いだ多数の投資主体が投げ売ったせいで、株価は極端な低下を見せた。どう考えても安いという会社が続出している。致死率はさほど低くない。特に日本においては。ペストを考えればとても低い。かつてヨーロッパが黒死病で壊滅的なダメージを被った頃に比べれば、医学は発達しているし適切な対応についての方法論もある程度確立されている。専門家たちが賢い対策を立ててくれていて、それをしっかりと守れば少なくとも自分自身の身の回りの人々の命を守ることもできるようだ。これもまた天啓と考えるべきか。

※ ネタバレはしていないつもりです。
※ BL要素はありません。
知り合いの女性(刀ミュオタク)から、「チケットが余ったのでよければ一度観に来ないか」と誘われた。秋ごろのことだった。
彼女(以下、Aとしよう)はひとつの公演でそりゃもう何会場も回る筋金入りで、推し俳優のリリースイベントやバースデーイベントなどにも足繁く通うほどの生粋のオタクだ(ほめてる)。都市圏ならば全国どこでも行くような人物であるが、もちろんこういうジャンルは得てしてチケットの争奪戦が厳しい。というわけで仲間たちと複数人で申し込んで当たった誰かのチケットに便乗して……というのが通例になっているのだが、なんでも我々の地元・愛知会場も同じように複数人で申し込んでいたところうまいこと全員当たってしまい、誘うアテがなかなか見つからなかったため試しに私に声をかけてくれたのだそうだ。(ちなみにA名義で4席あったため、共通の女友達B、Cにも声をかけていた。)
最初は断ろうと思った。まあほぼ間違いなく浮くだろうし、「本当に観たい人がいるはずなのに自分なんかが行ってもいいのか?マナー的に。あとでツイッターで怖い女性ファンたちに匿名で叩かれ、磔刑にかけられるんじゃなかろうか」などということを思ったからなのだが、実際少なからず興味はあったのと、まあお金は出すんだし着席する権利はあるだろうと自分に言い聞かせ、誘いに乗ることにした。
私はもともと、女性向けコンテンツに興味がないわけではなかった。そもそも男性声優のラジオ(DGSとか)を聴く程度にはオタクであったし、アニメはほとんど見ないものの、ハマってしまったFree!!のブルーレイは2期+劇場版までそろっているし(ちなみに推しは宗介)、最近はヒプノシスマイクの曲を聴いており、キャラごとのドラマパートまで聞くようになってしまったし。それに、件の刀剣乱舞もサービス開始から1年程度はプレイしていたこともある。比較的少年系の刀が好きだったので、蛍丸や獅子王を最後までメインの編成に入れていた。
しかし、2次元キャラでもなければ声優でもない、いわばゲーム原作が立ち上がった段階では関係のなかった、俳優たちによるゲーム原作のミュージカルに、果たして惹きつけられるような魅力はあるのか。一応演技のプロではあるが、歌のプロでもなく、ダンスのプロでもない。原作への愛はあるのかとか、クオリティはどうなのかとか、気になる部分はいくつもあったし、今思えば少し懐疑的に見ていたような気もする。その答え合わせのために行ったような側面もあったと思う。
今回の会場はセントレアすぐ横のスカイエキスポという場所。初めて行く所だったので、少し早めに名古屋駅から中部国際空港駅への電車に乗ったのだが、まずここで驚いた。乗客の9割が女性。「え?これは”やった”(女性専用車両に誤って乗ってしまうの意)か?」と思った。必死で背伸びし、血眼になって男性を探したところ、扉のすぐ前にスーツケースを持った初老の紳士を発見した。心から安堵した。私には彼が救世主(メシア)に見えた。違和感に気づいてから紳士を見つけるまで時間にしてわずか3秒ほどのことであったが、私にとってはひとつなぎの大秘宝をめぐる壮大な冒険の時間であった。ワンピースの正体が初老の紳士だったらウケるだろうな。
多くの女性たちはよく見るとなんかカバンとか髪とかに似たようなヒモみたいなやつをつけており、ああ、彼女たちが今日の公演の来場者か、とそれで察しがついた。
私は音楽が好きでライブやフェスにもよく行くのだが、そういったイベントに向かう来場者が一様に身に纏う”モード”みたいなものが好きだ。同じようなアイテムを身に着けた人々が、同じような期待感をもって同じ会場へ向かう。まったくの他人のはずなのに、全員で遠足に来ているような感覚に陥る。私は所有していた唯一の刀剣乱舞関連グッズ、蛍丸のラバーストラップをカバンにつけながら、そんなことを思った。
到着したのは開演の1時間ほど前だった。先に現地に来ていたAと合流し、遅れてくるB・Cを待ちながら辺りを見渡してみた。女性ばかりだ。チラホラ見かける男性も、その多くは隣で開催されているFGOの展示会に訪れたような風采で、見たことあるキャラの見たことないグッズを手に奥の施設へと歩いて行った。事前には聞いていたが、男子トイレはがらんどうで、広々としたスペースの中に3人いただけであった。普通にめちゃくちゃ刀剣男子の缶バッジつけてる方とかもいて驚いた。
B・Cとも合流し、我々は人波に流されるまま会場内へ吸い込まれた。会場内は予想していたより二回り以上大きくて、コンテンツの覇権っぷりを身に染みて感じた。
席は通路側から4席分だった。私のにわか知識でも通路側は人気だと知っていたため、さすがに通路に接する席はAに座ってもらい、私はその隣に座った。Aはなんとも用意周到で、私の分のペンライトやうちわまで用意してくれていた。刀ミュの専用ペンライトは優れもので、推しの色を先に登録しておけるらしい。私は操作の指南を受けながら、スタンダードな青色を初期配置として記憶させた。
またも話がさかのぼるが、私は以前からAに(オタク気質を見抜かれて)刀ミュ関連の画像や動画の視聴を勧められていた。男性が男性を推すというのは恐らくややイレギュラーなことなのだろうが、その中で私は2人の”推し”を見つけた。
1人は鳥越裕貴氏。役は大和守安定だ。刀剣男子自体の役どころとしては真面目で実直ながら、どことなく女性的で可愛らしいキャラクターだ。しかし、私はむしろ、役に入っていない状態の鳥越氏に非常に魅力を感じた。というのも彼は、ツッコミが上手い。
これは私の持論なのだが、いわゆるコント的な場の空気になったとき、「なんとなくボケる」ことは誰にでもできると思っている。もちろんその巧拙については個人差があるが、ボケは簡単なのだ(だからこそ才能の発揮される部分でもあるのだが……)。対してツッコミは、才能だけでは解決できない。その場の状況を整理し、その場に応じた言葉を、できるだけ早く用意する能力は、長年のトレーニングによってのみ形成される。そうして身につけた能力を、玉石混交のボケに対応して発揮してあげるのだ。その点で、ツッコミはサービスだ。だから、適切な、上手いツッコミができる人というのはボケの人数に対してかなり少ない。そして、鳥越氏のツッコミ能力は(少なくとも私が視聴したいくつかの動画でのトークで判断するならば)刀ミュ俳優の中では群を抜いている。おそらくこれは、彼が多様な人物と積極的にコミュニケーションを取り、相手を尊重しながら話すことを心掛けてきたからなのではないか。そんな背景が透けて見えたりするところに人間味と魅力を感じた。(あと筋トレの動画がシンプルに参考になった。)
もう1人の推しは、大平俊也氏。役は今剣。これは役のイメージと本人のイメージがぴったり合致する。中性的・少年的で、あどけなさが残るところが氏の魅力だと思う。普通に顔が可愛い。初めて写真を見たときは、そういう印象だった。
ただ実は、彼に関しては開演前、これ以上の印象がとくになかった。動画などを見ていても、ただ容姿や仕草が可愛らしい真面目な人という感じで、もう一歩魅力を感じる部分に欠けていた。強いて言うなら彼にはただ天真爛漫なだけではない、いわゆる「闇(この言葉が深い意味で使われることってほとんどないのであまり使いたくはないのだが)」を感じたような気がして、そこを興味深く考えたからなのかもしれない。(あとこれは完っっっ全に言いがかりなのだが、邦楽ロック界隈では見た目が中性的なバンドマンほど性欲が強くてファンと寝まくっているという根も葉もない(たぶん葉くらいはある)噂がまことしやかに囁かれており、同じく大平氏も男性的な部分を見せたりするんだろうかという謎の興味もあったのかもしれない。)
そういうわけで、私はひとまず、2人のうちとくに人間として魅力的だなあと思った鳥越氏(安定)を推しとして設定し、ペンライトの色を決めたというわけだ。
私の席から見渡した辺りはほんとうに女性ばかりで、電車内の女性が9割だったとしたらここはもう99割が女性だった。男性の存在についてAに訊いたところ、「まあほとんどが彼女に連れてこられてるだけの人だね」と言っていた。リア充爆発しろという一言でも言いたいところであったが、ここで爆発されたらイベントに影響あるし片付けとか面倒だろうな、と考えて口をつぐんだ。
照明が落ち、舞台が始まる。観劇自体がずいぶんと久しぶりだったので、なんだかいやに緊張した。隣に座るAは早速双眼鏡を取り出し、推しの額に光る汗を堪能しているようだった。(Aは同公演に何度も通っているため構成や内容を覚えてしまっており、推しが出てくる数秒前から出てくる位置にすでに双眼鏡を向けていたためさすがにすごすぎて笑ってしまった)
ドラマパートでは刀剣男子たちが次々に現れ、おのおののキャラクターらしい台詞で我々を楽しませてくれる。思っていたよりも総じて演技のレベルが高く、ちょくちょく挟まれる小ボケも普通に笑える。
そうこうするうち私が注目する安定が現れ、男子たちの会話の輪の中に飛び込んでいった。しかし、私はここで少し違和感を覚える。筋トレの動画を何度も見ていたせいか、あどけない口調の安定と兄貴肌の鳥越氏のイメージが重ならない。まあまあこれはこれでいいか、役なんだから、と納得させながら私は舞台のほうに居直った。
逆に、今剣は役と人物が寸分違わず重なった。大平氏の声・仕草は、本家のゲームで出てきた今剣のイメージとほとんど同じだった。鳥越氏の力不足とかそういうことでは断じてなく、これは純粋に大平氏の持つ魅力と、またそれを見越してあてがわれたキャスティングの妙だと思う。それほどまでに今剣の立ち回りは見事だった。
しばらくすると、おもむろに周囲の女性たちが起立し始めた。なんだなんだ、校歌でも斉唱するんかと思いながら付和雷同、私もペンライトを持って起立した。どうやらここからしばらくはライブパートらしい。ミュージカルと言いながらけっこう現代的な曲(EDMとかそっち寄り)なんだなあなどと思っていると、演者たちがステージで踊りだし、さらには客席中央のステージでもダンスが始まった。
先に言っておくが、歌もダンスも全員上手い。だがその中でも、大平氏のダンスは別格に感じた。なにって、踊っているのがはっきりと”今剣”なのだ。彼は背も高くない、体つきも華奢で、いわゆるダンサーとしての資質は他の刀剣男子に劣っているといえる。しかし、手足のフリが誰よりも大きい。大きいだけでなく、キレもある。そしてその懸命さが、彼のマイナスの資質をいっきにプラスへと逆転させていた。ステージ上で彼の弱点は、はっきりと長所だった。「おそらく今剣が踊ったらこんな風なんだろうな」という彼なりの答えが、あのダンスには込められていた。
踊る彼を見て、この人は無敵だ、と思った。
ダンスに魅入っているのも束の間、舞台はまたすぐにドラマパートに戻り、ライブパートと交互に展開しながら進んでいく。そしてついに山場、俳優たちが客席まで降りてくるフェーズが訪れた。通る刀剣男子から直接手を振ってもらえたり、ウィンクされたりすることを、ファンサービス(ファンサ)というらしい。私は自分の推しが通ったらなんとなくうれしいな、という程度で呑気に構えていた。(隣のAは推しの様子を見ながら奮起していた)
通りがかる刀剣男子たちをぼーっと見ていたときのこと、後ろ側からやってきた和泉守兼定が、私に向かって指をさし、はっきりと目線をくれた。一瞬、自分に向けられたものかどうかわからなかった。よくわからないが笑顔で応えたことだけは覚えている。こんなことを言うとタイトルの通り誤解されそうではあるのだが、私の知る限りあのときの感情に最も近いものは、恋だ。
理由は説明できない。できないのだが、「イケメンが選んでくれた」という感情は、きっと男であってもうれしいのだと思う。それほどまでに私が受けたファンサは衝撃的だった。そして、推しでもない人でこれなのだから、これを自分の推しから直接もらえるなどということがあれば、それはどれほどのクソデカ感情になるのか。想像すると、むしろ恐ろしくなるほどだった。
終演までのライブパート、私は自然と目で今剣を追っていた。彼の、あの衣装でのダンスをもっと見たい。いつまでも見たい。だんだんとそう思うようになっていた。
終演後、私はAに感想を伝えた。予想していたよりずっと面白かったと述べると、Aはしたり顔であった。彼女は物販に行くと(地元なのでここでお金を落としたいという敬虔なオタク然としたことを言っていた)私に伝え、人波に消えていった。
帰りの電車は行きよりも空いていた。今思えば、夜公演まで見ていく人たちがけっこうな数いるのかもしれない。私は大平俊也氏のツイッターアカウントを捜し、迷わずフォローした。
Fear, and Loathing in Las VegasというバンドのMinamiというメンバーがいる。彼はステージ上で、まさに狂人だ。髪を振り乱しながら叫び、かと思ったらわけわからんパラパラみたいなダンスを踊り、でも楽器はちゃんと弾く。そして、嘘くささが一切ない。
Soil&”PIMP”Sessionsというバンドの社長というメンバーがいる。紅白のとき、椎名林檎の後ろでヒマそうにしていたあの人だ。彼はジャズバンドの中にいながら、楽器を(ほとんど)弾かない。彼の担当は”アジテーター(煽動者)”。悪趣味なマフィアみたいな恰好で、ステージ上をふらつきながら、メンバーの演奏をのぞき込んだり、客席をメガホンで煽ったりする。ほんとうにこの役割を必要だと思っているのか。どこまでが演技で、どこまでが素なのか。まったく読めてこない。
私は彼らを見るたび、自分に成しえないことをしていると尊敬する。
私は、エンターテイナーが好きだ。それは、役を”憑依”できる人のことだ。舞台の上で演じる人たちは、素の自分のままではもちろんいられない。しかし、役を演じすぎると、それはそれで嘘くささが付きまとう。だから、役を演じていながら、まるでそれが役だと感じさせない立ち振る舞い。そういう”憑依”を楽しみに、私はミュージシャンのライブへ足を運んでいる。
大平俊也氏は、まさにこのエンターテイナーだと感じた。彼は舞台の上で、間違いなく今剣だった。仕草や声の可愛らしさと、ダンスの躍動感。(あと顔の良さとかもろもろ。)それらをひっくるめて、私はしてやられた。
鳥越氏はもちろん好きだ。しかし、実際に見た舞台では(少なくとも刀剣乱舞という題材では)、大平氏のエンターテイナー性のが私にとっては魅力的だった。それだけのことだ。間違いなく今後も、鳥越氏の動画は見続けると思う。
私は自宅に帰り、もらったペンライトを取り出した。推しの色をピンクに設定し、棚にしっかりとしまった。次は、ピンク色のヒモみたいなやつも手に入れたいところだ。
あるいは、なろう作家に限定したことではないかもしれませんが。
なろう小説を3桁ほど読ませてもらいましたが、話の巧拙に関わらず共通点が一つ。
それは女性描写の少なさ。あまりに少ないもので、ひとしきり笑ってしまいました。
確かに作中に女性キャラは登場しますが、決して彼女たちは「女性」として扱われていません。
最初のキャラクター紹介で雑な外見設定を付けられ、あとは大抵が主人公の妾になるだけ。
いくら女性とのお付き合いが日々の中でないからって、自分の理想を書いているからって、
そして書くことが苦手なので、どんどん女性の描写が減っていく。思考が単一化していく。
その様な本を若者たちに読ませたら、ああどうなることやら。考えたくもありません。
お色気・破廉恥さに拠らなくても彼女たちは描写できるはずです。思考内面を文に落とし込めるはずです。
巨乳で主人公にベタボレで優しくて才女で……ほとほと繰り返される安易な女性描写には辟易しました。
「女性」は自分で熟慮し、行動でき、なおかつ確固たる意見を発現できる、そういうものだと認識しています。
(もっとも、今あげたのは女性の一部要素であり、他にも長所はたくさんあるのですが!)
……頼みますから、もっと質感的な、深みのある「女性」を書いてください。
「女性」を書くことを忌避しているうちは、到底真の作家にはなれませんよ?
貴方達が変わり、成長できることを、そしていつかちゃんとした「女性」を書けることを、心から願っています。
おそらく「転生後女性になった主人公」を反論に挙げる方がいらっしゃると思うので、先手を打って。
彼女らは、いいえ、彼らの転生元のほとんどは男性であり、女性の皮を被ったまま男性観を振り回しているに過ぎません。
本当の女性は決して男性とイコールではないことを理解してください。もっと繊細で理知的な存在なのですから。
宇崎ちゃんポスターに対しての批判の中に、実在巨乳への批判を避けたいが為か「乳袋」に絞って問題視する声は度々見られたが、
この点にとても違和感があったので少し考えてみた。
「乳袋」的な誇張表現は90年代には確立、いや発祥を遡ると恐らく70年代頃にはあったと思うが、その体系的な解説は識者に任せるとして、
そもそも「乳袋」という言葉自体がネットミーム化したのは比較的最近のことであり、朧げな記憶だが恐らく2010年前後。
ニコニコ大百科の記事が10年6月に作成されていることから、大きくはズレていないだろう。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E4%B9%B3%E8%A2%8B
その記事内にも言及があるが、元々は巨乳イラストが現実に即していないという批判的な文脈から生まれており、
裏を返せば「乳袋」という言葉が出て来るまでは、オタク達は無意識無批判的にその表現を受け入れていたこととなる。
そう言うと批判側の「オタク達は(乳袋がエロではないと)麻痺している」との言説に一定の説得力があるように思えるが、自分としては実情が異なる印象だ。
乳袋の表現は、言ってしまえば、実在の巨乳に対する無理解から生まれるイラストの巧拙や、デフォルメ表現としての流行や表現の確立としての側面が強く、
類似例として、巨大すぎるリボンや、カラフル過ぎる髪の色も、(判子絵的な)キャラを区別する為に生まれた創作者側の都合によるものと考えられる。
つまり「乳袋」はオタク的には直接的なフェチ表現ではなく、イラスト表現の変遷で発生したものであり、副次的に受け入れてきたものだろうということ。
その証拠としてあげられるのが、pixivのタグ検索。「#乳袋」のタグがついたイラストは現時点で2578作品。フェチ的表現としてオタクに人気な気がする「#黒タイツ」の44025件に比べると寂しい数字だ。
タグがついていないだけで乳袋とされるイラストは膨大にあるから、フェチ表現ではなく、表現技法として根付いているように見える。
「根付いているのでは麻痺と一緒では?」と思った方もいるかもしれないが、ここで主張したいのは「乳袋」は巨乳を表現する技法の一種でしかないこと。エロに対して直情的だから蔓延した表現というのは誤認である。
批判するのであれば、「乳袋」ではなく、漫画アニメイラスト業界に蔓延する過度な巨乳女性を安易に描く風潮そのものでなければ、抜本的には解決しない。
(その風潮が生まれたのは、男性の性欲からという点は否定しない。男はだいたい女体が好きであり、それを空想として描くときに現実離れするのは不自然なことではない。安易であるが)
しかし巨乳女性イラストへの批判は直接的な表現規制になり得るし、実在巨乳女性へ飛び火する危険性や、国民的作品へのバッシングにも繋がる。それを分かってるから批判側もそこまでは言及せず分かりやすい記号である「乳袋」にターゲットを定めた心理があるのだろう。
だがそれはオタク文化への直接的な加害であり、オタクからすると「カラフルな髪の毛は現実に即していない!」と同レベルの文化侵略であるように感じられるし、また単なるオタクヘイトと区別がつかないのである。
余談的となるが、宇崎ちゃんの巨乳設定は、漫画を読む限り読者を扇情させる為の魅力というより、ウザい後輩キャラ的な属性をその大きなおっぱいが文字通りクッションとなって印象を和らげる為に機能としてあるようにも見える。漫画としてはエロよりずっとラブコメの色が強い。
あと、2巻3巻の表紙は確かに「乳袋」だが、1巻の表紙や漫画内ではいわゆる乳テントで描かれてる部分も多いので、「乳袋」は宇崎ちゃんにとって重要な構成要素ではないこともわかる。
(漫画の印象に関しては読む人によって意見が別れるだろう。ただ巨乳設定=扇情と限らないのはアニメ漫画を嗜む者には理解して貰えると思う)
作品表現とポスターとしての問題を直結する必要はないが、特にエロの権化でもない宇崎ちゃんが「乳袋」の絵だからといって性的搾取のシンボルとして掲げられるのは不憫としか言いようがない。
そんな感じで、一介のオタクとしては、「巨乳ではなく乳袋批判だ」という詭弁的な批判ではなく、男性の欲望と直結してしまってる創作界隈の巨乳文化をターゲットにして貰いたい。
その声が大きければ、自主規制による創作界隈のアップデートは十分起きうるだろう。巨乳がいなくなれば当然「乳袋」もなくなる。無論個人的には望まないが。
学校教育の合唱などの授業により、長らく音感障害者は差別されてきました。
音感障害者は音感需要や音感表現が人より劣っているだけで、知能に問題がある訳ではありません。
またその症状も、リズム感喪失・音程喪失・音量喪失などいくつかの分野に分かれ、症状もスペクトラムを描きます。
劣悪な学校での音楽の授業のせいで、いわれない音感障害者へのからかいやいじめが後を絶ちません。
2076年4月の「改正 音感に関する法律」の施行以降、音感障害者への配慮により学校教育の場では音楽の授業を個別化してきました。
すなわち、児童生徒は席で個別に声を出し、合唱の際には匿名性を担保するよう学校教育の改正がなされました。
こうした政策が進展する中で、音感障害者への差別意識は低減され、かつまた「音痴」(あるいはその表記変えの「音ち」)という差別用語もマスコミでの表現規制により用いる人が少なくなってきています。
こうした社会的動向があるなかで、一方では年配者を中心に音感障害者への根強い差別が残っています。
例えばカラオケボックスを利用する際に、マイクに内蔵された音程調節機能を装備せず、歌の巧拙をことさらに競う風潮は、年配者の中に多く残っています。
カラオケボックスに音程調節機能のポスター表示が義務付けられてから8年が経過し、また音感プライバシー法が制定されてから14年が経過しています。
理解のない、歌のうまさを競うような旧世代の人々により、差別は未だ消えません。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 63 | 19848 | 315.0 | 41 |
01 | 89 | 28696 | 322.4 | 85 |
02 | 56 | 14895 | 266.0 | 69.5 |
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04 | 29 | 19801 | 682.8 | 1128 |
05 | 24 | 9616 | 400.7 | 93 |
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11 | 53 | 4253 | 80.2 | 46 |
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13 | 100 | 10030 | 100.3 | 36 |
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1日 | 1537 | 259036 | 168.5 | 52 |
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6221456(2230)
http://lty.hatenablog.com/entry/2019/05/02/135439
一言で言えば創作物に対して現実の社会規範をもって批判していること。作品の巧拙にはまったく関係がないし、ポリコレ的にアウトだから「描いて、そのおかしさに気づいてほしかった」「描いて、修正すべき表現を見つけてほしかった」とか言い出すのは表現の自由の侵害につながる。
くだんのブログはよく創作物を批判しているが、そういった規範批評の対象になっているのは性的な要素を含んだ作品だけだ。世には犯罪者を主人公に据えたロマン・ノワールなど現実的には許されない行為を華々しく描くものが存在するものの、そういった作品は批判の対象になっていない。けっきょくのところブログ主が性嫌悪者であり、自分の気に入らないものを叩いて回っているのが実際のところだろう。
最も問題なのは、そういったいわばオナニーにすぎないものを「一人の大人として、社会をより良いものにしていきたい」とか「社会の構成員として子供が安心して安全に暮らせる社会を目指」すことに資すると考えている点にある。
(すでに消されているのでスクショ:https://i.gyazo.com/d67c7963d6021fb51b56279d0aba7b95.png)
この手の自分の嫌いなものをただ叩いているだけにも関わらずそれを正義と思い込んでいる人間がいちばん始末に負えない。
作品の是非を倫理や道徳で問うならブログ主の考える良い社会は他者にとっての地獄になりうる、というモラルぐらい持ってほしい。
なんか上記を「作品批判=表現の自由の侵害! という主張」と誤読してる(あるいはそういう主張をしてるようにしたい?)人がいるんだけどそんなことは一言も書いてないよ。
>ポリコレ的にアウトだから「描いて、そのおかしさに気づいてほしかった」「描いて、修正すべき表現を見つけてほしかった」とか言い出すのは表現の自由の侵害につながる。
って書いてるんだよね(誰かがとった魚拓:https://archive.is/af9dJ)。
元ブログには「ポリコレを目指すことで様々なコンテンツの面白さが損なわれていくとは思ってません」という文章もあって、ポリコレ的にアウトな作品は無くせという主張と地続きになってることを危惧してる。なんか言うなら最低限そこは理解してからにしてくれ。
あと、
書いた人です。好き嫌いの話じゃないんだなー。君は例えばクジラックスの作品がコロコロに載ってても問題ないと思う?抗日ドラマを流す国をどう思う?俺は創作物の「扱われ方」とその社会の在り方に関係があると思っ
http://b.hatena.ne.jp/entry/4668195090215590242/comment/lightly
いやいやいやいやゾーニングの話は全然してなかったよね!?!?!?
ポリコレ的にアウトだからそこ直せって主張だったよね!?!?!?
そこまったく違う話なんだけど自分で何いってるかわからんくなってんの?
ちなみに俺は抗日ドラマを流す国のことはなんとも思わない。フィクションだし。日本で流してもぜんぜんいいと思う。ただ俺は見ないだけ。
クジラックスの作品(ここでは『がいがぁかうんたぁ』を想定)がコロコロ(ここでは『月刊コロコロコミック』を想定)に載るのはまずいでしょ。18禁マークをつけて売り場をわけてる意味とそれによって守られているものはあるわけで、それは支持する派。
オタク達の投稿を読んでいて、私もどうしても書きたい話があったのでここに記します。
これからする話は自分の信条に反していて、だから本当にここだけの、名前も無い誰かの話。でも、どうしてもその人に感謝を伝えたかったからここに書くね。届きますように。
私、結構大きいジャンルで二次創作をしているのね。ざっくり言うけど、とにかく大きいし、いわゆる大手CPというやつで活動していると思う。
その中でも私はジャンル全盛期のときにめちゃくちゃ注目された作品がいくつかあって、それから今まで、結構同じ人達にお話を読んでもらえてたりするの。それは本当に有難い。私は全然、流行りっぽいパロディも、エッチな話も書けないから。それでも自分が大切に考えた、大好きなキャラのお話を読んでくれるのって嬉しい。
でもね、もう書くのやめようかなって思うことは何回かあった。支部のブックマークとかを見たらすごく読んでもらえているのはわかっているんだけど、感想もきっと人よりもらっている方だとは思うんだけど、でも、もう一人で、自分の中で消化すればそれでいいかなと思うことがあった。
なんだか解釈の主流と私は違う気がしていたし、人が盛り上がっている中、私は乗り切れないことも多かった(これは私がそのとき卑屈だっただけで、落ち着いた今はそうでもないなと思う)。
本当に推しキャラ達のことが好きで、物語はつくりたかったけれど、誰かに見せる必要なんてないよなあって思い始めていた。
だから、しばらくはな〜んにも作らなかった。ツイッターも変な話ばかり。その日見た夢とかね。だからフォロワーも減っていくの。でもそれで良かった。私は皆さんの期待には応えられないのよ……って。
で、いざやめるかって気持ちがかたまりつつあったとき、拍手に感想が届いたの。
とっても長い感想だった。そのときもらっていた中ではきっと一番長いくらいの。それで、その感想を書いてくれた話は何ヶ月も前に支部に上げた話だった。結構文字数があって、明るい話でも、エッチな話でも、すごくドラマチックなわけでもない。淡々とした話。でも、推しキャラ達のことを大切に大切に、原作へのリスペクトもたくさん込めて書いた、私にとって大切な話の一つだった。
そのお話自体には、上げた直後に結構感想をもらっていた。ブックマークは他の話に比べたらあまり伸びなかったけれど(それでもすごく読んでもらってはいる、これは本当です)私はそれで十分だって自分の中で終わらせていたつもりだったけれど、その人の感想を見て何故かすごくすごく嬉しかったんだ。
それってたぶん、私にとってすごくコンプレックスでもあった、「需要に合わない」話を書いていることを肯定してくれたことと、そしてもうやめようと思っていたときに、しばらく、それこそ何も上げなければ何も言葉がこない現実を見ていて、そうやって作り続けないといけないかもしれないということに疲れていたから、前に書いた話を今でも読んで、そしてそこで受けた気持ちを言葉にして送ろうとしてくれる人がいたからなんだよね。
本当は感想に優越とかつけるつもりはない。長さとか、言葉の巧拙とか関係なく、気持ちが嬉しい。
だから、こうやって特別だった、みたいに言い切ってしまうことは自分の信条には反するの。でも、特別だったんだよね。だってあまりにもタイミングがぴたりとハマっていて、神さまっているのかな?て思ったもん。いや、同人の神さまってなんやねんだけど。
本当に嬉しかったです。今でも人に自分の話を読んでもらいたい、自分の「好き」共有したいと思えるのはあなたのおかげです。今はもう、あなたは私のお話を読んでいないかもしれない。でも、あのときのあなたの言葉は今でも私の中にあります。
感想って、内容だけじゃない、タイミングもあるなって思った。私も多少前の話だろうが、好きだ!て思ったらそのときに感想を送りたいです。
その感想が特別になってもならなくてもいいし、それを最後に書くのをやめてもいい。感想が重荷になってほしくない。書いている人はやめたいときにやめていい。
ただ、あなたの話が好きな人もいることを、数字とかだけではなく言葉で輪郭を与えることって、理屈じゃないけど、大切というか、時として魔法みたいになるんだなと思う。ブックマークやいいねみたいな数字だけだと無機質で、その数が少なくなると怖くなっちゃうのかもしれない。自分の話、自分の「好き」は受け入れられていないのかもって。
なんてね。もちろん数字で応援も十分糧になっています。いつも見てくれてありがとね。
これは本当にここだけの話だよ。