はてなキーワード: 尊厳とは
友人が死んだ。いや、正確に言えば死んでいない。
消えた。消えたのだ。行方不明になったという言い方もあるだろう。
ただ正確に言えば行方不明にもなっていない。死んだばかり、いや消えたばかりなのでなんとなくの居場所はわかる。
現在のなんとなくの居場所がわかるということは、本気を出せば後々も見つけられる。
この場合の本気を出せば、はやる気や気合いの類ではない。大人なのでお金とか時間とかそういうものである。今日日、自分の個人情報を自分以外に知られないことはほぼ不可能と言っても過言ではない。だから世の中にある「そういうサービス」を使えばきっと見つけられる。
私は今までの人生で二人、友人を死という形で失っている。
一人は病死。ある朝、起きてこないなと家族が見に行ったら死んでいたらしい。
今回死んだ友人は「連絡手段を絶つ」という方法で死んだ。なんとも新しい死に方だ。実に現代的だと思って感心した。
携帯電話の番号とメールアドレスを変え、LINEで友人をブロックし、Twitterのフォローを外したらしい。まあ十分だろうな、と感じた。友人はFacebookもやっていたようだからそのあたりもいじっているだろう。
完璧だ、と思わなかったのは一方通行だからである。本当に死んだ人は当たり前だがこちらからもあちらからも連絡が取れない。
今回の友人の場合、こちらからはほぼ連絡が取れない状態であるが、あちらからはどうにかすれば連絡を取ることができる。携帯電話やパソコンを介した通信は「履歴」が残るのでそれをたどればすぐに元通りになる。
Twitterだってこちらが閉ざさなければあちらから訪ねてくることはできる。なんとも曖昧な死に体である。
とはいえ友人は死んだ。「連絡手段を絶ち、情報を削除することで死んだということにします。」という宣言こそしていなかったが、まあそういう意図でやったことであろう。
友人は「遺書」を残していた。
Twitter上に自らの苦しみを吐露していた。出生や育ち、環境について悩んでいたらしいが、いまいちよく読んでいない。
長いな、とか、書きたかったのかな、とか、下書きはどこまでしていたのかな、と考えていた。具体的な内容については見たくもないし考えたくもない、というのが正直なところだっただろうか。
「遺書」を投稿している時点で、Twitterにおけるあらかたの知り合いのフォローは外していたらしい。
あらかたの、というのは数人はまだフォローしていたのを確認したからだ。私は性根がねちっこいのでそういうのはすぐ調べたり確認したりする。遺書を投稿している時点で「甘さ」が垣間見えたのでつい確認してしまった。
悩みは深くなればなるほど共感しにくくなる。だから「そんなことで悩んでるの?」を口火とした喧嘩が絶えないのである。
せっかく友人が投稿した遺書なので熟読はしないものの一通り目は通したが、やはり共感できない内容であった。「へぇ~」とか「ふーん」くらいの感想であった。
私はうんちくが好きでよくそういう情報を集めている。いわゆる「うんちく」は会話のネタになるが、この「自殺に関するうんちく」は会話のネタにはならない。
私は本当の死であれ今回のような死であれ、自殺をよく思っていない。それ死ぬ必要ある?と考えがちである。
死ぬ側からすると選択の過程はともかく、最終的な判断の元で死を選択しているのだから一定の尊厳性は保たれるべきであろうが、いまいち理解しきれない。
今回の友人の死に方については特に理解が追いついていない。友人は「死んだ」ので叶わないが「なんで本当の死を選ばなかったのか」と聞いてみたい。
とはいえ死にたい理由があって死んだんだろうという一定の理解は示さなければならない。理解のなさは争いを生むだけである。
とにもかくにも友人は「死んだ」。自ら死を選んだのである。だからこちらもそう思うしかない。「死んだのだ」と。
冒頭にも書いたが正確には死んでいない。
生きているが、死んでいる。ゾンビとかリビングデッドとか、いろいろ呼び名はあるであろうが、そういうことである。
友人がこれからどういう生き様、いや死に様を見せてくれるのか知らないし、知るすべもない。
もしかしたらもう何回か死ぬかもしれないし、次の死が本当の死かもしれない。
確かに、そろそろ夏用スーツ古くなってきたな、とは思っていた。
でも流石に穴が開いたボクサーパンツは貧乏すぎだ、と思うだろう。
だから、こないだの休日に洗濯物干してる途中で、洗ったばっかりのパンツをゴミ箱に突っ込んだんだよね。
あーしまったそうか。パンツ7枚のサイクル崩れてるんだった。うーん、洗濯籠でバスタオルの下でほんのり湿ってるパンツか、ノーパンかの2択か……。ま、ならノーパンでいいか。今の今まで寝てる最中はスウェットの下がノーパンだったんだしな。途中でどこか寄れたらパンツ買おう。
というわけで俺は今日はノーパンにスーツ着てるサラリーマンだった。
まあ言わなきゃばれない。ばれなきゃ問題ない。
股を開いて、胴体を膝の間に突っ込む形で手を伸ばしてさ。
そしたらこう……ビリッとね。
おいまじか。俺いま生ケツなんだぞ。
小学生のころにズボン裂けたことあったけど、そのときすらブリーフは履いてたわ。
……大丈夫だ。まだ大丈夫。言わなきゃバレない。バレなきゃ問題ない。
いや、言わなくても見られたらバレるが、立たなければ見られない。
何食わぬ顔で、引き出しから黒いダブルクリップを大量にポケットにインして、全員の視界を確認するんだ。トイレ前通路の主任がコピーを取りに立った。今しかない。今しかない。後ろを向け後輩。今だ!
というわけで俺は何事もなくトイレにたどり着き、ダブルクリップでズボンの裂け目をどうにか繋ぎ止めたのだった。
いや、何事もなかったと信じているだけだが、確認さえしなければ何ごともない状態は今も存在しているのだ。シュレディンガーの生ケツだ。今はシュレディンガーにダブルクリップを感じながら書類仕事のふりをしているのだった。いや、できるかよ。この状況で資料作成が。
結婚とは、自分の尊厳を脅かさない人とするもの。いついかなる場面で全世界が敵になっても、このひとだけは自分を見下したり、傷つけたりしないと確信できる人とするもの。それを「信頼」とか「安心感」という。
少なくともわたしは、そしてブックマークをした多くの人たちが、あなたの文書を読んで不快になった。あなたと友達になると、きっとこんな風に心の中で、あるいは面と向かって悪口を言われたりするのだろうと思った。言い換えれば、あなたはわたしを傷つける人間で、信用ができない。安心感がないということだよ。自分でも露悪的な書き方になったと自覚はあるのよね?結婚したいのならそれを改善しなくちゃ。
「ズボラでガサツでデブでブスだけど雰囲気は心地良い」を褒め言葉だと思っているのかもしれないけれど、世の中には言い方、婉曲表現ってものがある。独特の雰囲気があるとか、個性的な顔立ちとか、容姿についての言及は避ける、とかね。40代近くにもなってズボラとかガサツみたいな直接表現を使っていたら、世間ではそれを悪口と思われるし、きつくてこわくて性格が悪くて攻撃的な人だととらえるから覚えておいた方が良い。
担当さんが合わないのなら担当か相談所を変えればいい。お金を払っているのにわざわざ効果が期待できない事を続ける必要はないでしょう。自分とマッチしないおかしなプロフィールの男性は無視すれば良いだけのこと。それをわざわざ長文書き込んでネットに晒しているのは何故?本当に自己肯定感の高い人なら他人の意見なんて聞く前にすでに行動を変えているはず。それなのに「自分はこれが正しいと思うのに実際は違う。おかしくない?」って自分に同意を求めてんのは何故?世間よりも自分の意見の方が正しいと後ろ盾をもらいたがってるのはなんで?不安だからだろ。それを自信がないっていうんだよ。
トイレで下痢便をぶちまけた後日談ですが、祖母(二世帯)には便をおしっこに入れ替えて説明しました。
噴火とダム決壊の違いってある?被害的にはわからんけど尊厳的に格差ない気がするので。株、落ちちゃったな。わはは!どちらにせよ華の10代にトイレで漏らしたっていう事実は消えねえ〜
ちなトイレが詰まりそうで躊躇なく手突っ込んだのはいい思い出だし言うほど嫌悪感なかった。でもやっぱ自宅っていうのが大きいですね。公衆トイレとかでやらかしたら自殺する気がする。
数日たつと、頭が悪いのも働いてあれは本当に起こしてしまったことなのだろうか?私は悪夢を見ていたのではないか?と思うこともあるんだけど、はてなダイアリーに記録があるから、やっぱりあれは現実なんだなあ〜
コメント着いてて、大人でもやるんだ……と安心してしまいました。お互い気をつけましょう
もう夜も遅いので寝るよ
N国の立花氏と立ち話
“週刊現代の報道によれば、1997年8月27日、セントラル・テキサス・カレッジ在学中、当時交際していた同級生の日本人女性に、電話料金の支払いを断られたことから暴行を働き、鼻の形を変形させるなどの怪我を負わせ、同年9月5日にキリーン市警察に傷害罪で逮捕され、1998年5月29日、テキサス州ベル郡第2裁判所により罰金650ドル、12か月の保護観察処分が言い渡された。しかし、この判決が出る前の同年5月23日にも同女性に暴行し、「家族や同居人への傷害罪」すなわちドメスティックバイオレンスで2度目の逮捕。保証業者に立て替えさせ2,500ドルの保釈金を納め保釈されるも逃亡し、1999年6月25日に開かれた公判にも出廷せず、当日出された「仮判決文」では保釈金没収が宣言され、「被告の再逮捕の令状発行を求める」と記された[72][73]。テキサス州ベル郡当局は、米国での菅野の逮捕状について「アクティブ(有効)です」と断言。弁護士の島伸一は、テキサスの刑事訴訟法では州外に出れば時効は停止し、逮捕状が有効であれば逮捕される可能性があるとしている[74]。菅野本人は自ら運営するホームページで、報道された2件の暴行事件を事実と認め、自身が「国外逃亡中」の身であるとした上で「実母の死去や生活に追われ出頭することができないまま、司法機関や相手方からの強い要請もなく、裁判が収束に向かったと合点しておりました。」と説明し、認知行動療法などのプログラムを受けていると弁明した[75]。なお、菅野は週刊現代の記事が掲載された直後の8月1日、2017年10月4日から出演していたRKBラジオ櫻井浩二 インサイトのインサイトコラムを降板した。”
2012年7月9日、菅野が携わっていた政治運動に賛同した女性を「新聞に意見広告が載ることになった」「会って挨拶したい」などと都内マンションに誘い出し、切羽詰まった様子で「某国会議員が俺のことを公安経由でかぎまわってる」「今日一日、ずっと尾行されている」「すぐにパソコン作業をする必要があるから家に行っていいか」などと説明し、録音を条件に応じた女性(原告)が悲鳴を上げるのも構わずベッドに押し倒し「怖いねん、抱っこして」と性行為を要求し、キスを迫るなどの性的暴行を与えた。被害者は仕事を辞めて、精神的カウンセリングと治療のために病院に通い続ける事態になった。 これを受けて女性は2015年末に200万円の損害賠償を求めて菅野を提訴[76][77]。被害者から謝罪や損害賠償以外に「twitterアカウントを削除」「女性の権利問題に関する言論活動を今後しないこと」を求められたため示談交渉は決裂した[78]。菅野は「性的な行為を働いた」と認めて謝罪文を書き署名・捺印していたが裁判になると主張を180度変えた[79]。一審・東京地裁の判決後に菅野側は「(性的暴行の)回数が1回で短時間」「特に性的自由侵害の程度が高い部位には触れていない」「事件報道で社会的制裁を受けた」と主張して、「慰謝料は5万円を超えることはない」と慰謝料100万円の減額のために控訴した[80]。
2018年2月8日、同訴訟の控訴審判決が東京高裁でおこなわれた。阿部潤裁判長は女性側の主張をほぼ認めた一審・東京地裁判決を支持し、「慰謝料100万円は高額ではない」「不当な社会制裁ではない」「被害者の苦痛は慰労されていない」として菅野側の控訴を棄却した。被害女性は高裁による控訴棄却判決後、被害者は、「心からの反省の言葉が得られないことで、より傷つきます」と述べている[81][82][83][84]。その後菅野は最高裁判所への上告は行っていない[85]。
本事件を含め「自分の加害癖、ハラスメント癖」「自分の子供さえを含む自分の周りにいる「自分より弱い人」「自分より立場の悪い人」に対して、自分は極めて横暴に振る舞い、相手の尊厳や自己決定権を踏みにじる行為に及ぶことが往々にしてあることを、痛感した」ため、2018年7月現在も認知行動療法をはじめとする様々なプログラムを継続して受け続けているという[75]。
2019年5月、警視庁は菅野を強制わいせつ未遂容疑で書類送検した。容疑を大筋で認めているという[86][87]。その一方で自身のTwitterでは「それ(知人女性の自宅マンションで女性に性行為を迫り、ベッドに押し倒し、キスなどをしようとした)で強制わいせつになるのなら、是非とも、厳罰に処してくれ」とも発言している[88]。”
と。。。
・・・。
風俗店を利用する同級生あるいは同僚を、心の中で「俗物」と罵っていた。先輩社員の奢りでピンクサロンへと吸い込まれていく同期を、心の底から軽蔑していた。私は今日、その男根への承認という勲章を求めて風俗店を利用する許されざる「俗物」となった。最もなりたくなかった存在へと身を落としてしまった。それだけではない。下らない自尊心と間違った配慮、そして醜い自意識によって、正常に風俗店を利用する彼らよりも程度の低い存在へと成り下がったのだ。そして、自分の汚れた心の言い訳にこのような俗物的な文章を書き残すことが、さらに私自身を俗物へと貶めるのだ。
私は鬱病だった。毎日のように精神的発作を起こし、衝動的な自傷行為――主に私が許し難いと感じている非道徳的な行為を私自身が行うこと――に明け暮れ、一人孤独に単調な日々を過ごしていた。それでも、他者を私の精神的安定の材料として利用しない、という規範を自分に課していた。それが今日、あろうことか破られたのだ。気づいたときには風俗街にいた。私は自身が脳内で散々に罵倒していたあの「大学生」あるいは「社会人」達と同じ線の上に立っていた。ここ数ヶ月の見窄らしい自らの行いを、許されざる粗相の数々を精算するため、最も忌み嫌う場所へとこの脚が無意識に私の身体を運んだのだ。私は鞄から精神安定剤を取り出し、僅かに残っていた飲料水でそれを胃の中へと流し込んだ。
何度も嘔吐しそうになりながら、それまで未来永劫に自分とは関係のない場所だと思っていた欲望の通りを歩いていく。私はこれから、今まで見下してきたあの俗物達と同じ存在となる。価値のない私にはそれくらいの地位が相応しい。しかし、ああ、なんということだろう! 真面目に労働として性交を提供している女性が、そんな卑俗な目的のためにこれから私と交わるという悍ましき状況が発生しているのだ。なんと失礼なことだろう。なんと不誠実なことだろう。彼女らはその吐き気を催すような目的に協力するため労働時間とその身体を提供することに同意するだろうか? ――するはずがない! もしそうでないのであれば、同意しないことを強く勧める! 性産業に従事するということ自体が――その産業構造が現実的に女性への搾取を含まざるを得ないという事情こそあれど――世間一般で言われているような尊厳を切り売りする行為だとは思わない。しかし、私のこの悪意に満ちた目的を拒絶せず性交に応じることは人間の尊厳を切り売りする行為だと言っていいだろう。根源的な悪人である私は、黙ってその目的を達成しようとしているのだ。他者を利用してまで!
最も店舗の密集する地帯に入ってから入店まではそう時間を要さなかった。雨が降っていたこともあってか、休日の夜にしては人通りがかなり少なかった。私は「これ以上ここを歩くのは耐えられない」と感じた地点で歩みを止め、二、三歩戻って完全に初めての領域へと足を踏み入れた。目に映った中で一番美しいと感じた風俗嬢を選び、直後にはその行為が行われる部屋へと導かれていた。他者の外見を値踏みするようなことをしてしまった自分がいやになった。自分は最低の人間であるという自覚が床板を踏みしめる毎に強くなっていった。
部屋に入ると彼女は料金表を提示した。風俗を利用したことのない私には躊躇いの気持ちが生まれるような数字が並んでいた。しかし、高ストレスな仕事には高額な給与が支払われるべきであるから、私はちょっとした電化製品を買うくらいの紙幣を財布から取り出して嬢に渡した。報酬をどこかへと持って行った後に戻ってきた彼女は「じゃあ、脱ごうか」と言った。私は大袈裟に恥じらうような態度を見せ、服をすべて脱ぎ、私の小柄で貧相な身体を露出させた。嬢の身体は今までに見たこともないほど整った曲線を描いていた。乳房も乳首も、腰のくびれも、肌の質感も、すべてがお手本のように綺麗だった。陰毛が除去されているのも相まって、その造形は芸術的ですらあった(後から考えると、このことも私の陰茎の勃起を妨げる一因だったのかもしれない)。
彼女は私に寝転ぶよう促し、乳首を舐めた。あまり気持ち良いと感じなかったが、私は童貞のごとく過剰に喘ぎ声を捻り出した。ある程度ペニスの固さが保たれてきた頃に避妊具を装着し、口淫を施した。口淫にも少し物足りなさを感じたが、私は情けない声で喘ぎ続け、呼吸を速くした。嬢は私の童貞的な反応を楽しんでいるように見えた。不誠実な利用客である私ができるせめてもの償いは、彼女が仕事に伴い感じるであろうストレスを少しでも減らすことだった。私が彼女にリードしてもらう形で性交が行われた。仰向けになった私の九割ほどの固さになった陰茎の上に、彼女の女性器が乗った。騎乗位である。性交が始まってしまったのだ。私はだんだんと罪悪感に侵食されていった。実際、何度も中折れし、心配する嬢に謝罪を繰り返した。「なんだか、とても悪いことをしているような気がしてくるのです」と私は言った。嬢は相変わらず整った顔で、ふふっと笑った。嬢に導かれるがままに体位を変え、騎乗位、正常位、後背位、そしてまた正常位で必死に腰を動かした。彼女の顔は何年も前に別れた元恋人に少し似ていた。正確には、元恋人の加工に加工を重ねたセルフィに似ていた。嬢はそれほど美しかった。しかし、中折れは何度も繰り返された。そうこうしているうちに制限時間は迫り、残り時間が少ないことを告げるベルが鳴った。嬢は残り少ない時間でもう一度挿入をして射精させようとしてくれたが、陰茎の固さを保つために実施された手淫の間に射精してしまった。私は「すみません」と謝った。嬢は数十分間ずっと私の童貞的な反応を楽しみ、時間内に射精できるよう最大限協力してくれた。とても申し訳ない気持ちになった。
性交を終え、受付の中年女性との短い談笑を済ませ、来た道とは別の経路で自宅へと急ぎ気味に歩みを進めた。身体を人通りの多い道へと近づけながら、私は自分の心にあいた穴がまったく埋まっていないことに気がついた。自罰的行為と、それに伴う射精は私の心の問題を解決する方法ではなかったのだ。家に着いた頃には、嬢の顔も思い出せなくなるほど記憶が曖昧になっていた。ここまで書いた文章以上のこと、すなわち映像的な記憶は綺麗に脳内から消し去られていた。ただ、彼女の容姿が美しかったこと、私が情けない姿を他者に見せてしまったことだけが今日の出来事の象徴としてぼんやりと頭に浮かぶだけだった。私は本当に風俗店を利用したのだろうか? それすら疑問に思うほど、私の体験の密度は急速に小さくなっていった。確かなのは、財布の中身が随分と減っているということと、私が以前より私自身を嫌っているということだけだ。
西洋文明の風は東に進み、この文明が東に進んでくる勢いに抵抗して、これを防ぎきる覚悟であれば、それもよい。
しかし、いやしくも世界中の現状を観察し、事実上それが不可能なことを知る者は、世の移りにあわせ、共に文明の海に浮き沈み、文明の波に乗り、文明の苦楽をともにする以外にはないのである。利益と害悪がともない、常に利益の多い文明はなおさらである。
これを防がないばかりではなく、つとめてその普及を助け、国民を早くその気風に染ませることが知識人の課題である。
近代西洋文明がわが日本に入ったのは、嘉永の開国を発端とする。
進歩の道に横たわる老害の幕府というものがあり、さいわいに神聖なる皇室の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し、新政府を立てた。
政府も民間も区別なく、国中がいっさい万事、西洋近代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではない。アジア全域の中にあって、一つの新機軸を確立し、主義とするのはただ、脱亜の二字にあるのみである。
しかしここに不幸なのは、隣国があり、その一を支那といい、一を朝鮮という。
人種の由来が特別なのか、遺伝した教育に違うものがあるためか、日・支・韓の三国を並べれば、日本に比べれば支那・韓国はよほど似ているのである。その古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔とおなじである。
筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。今の支那朝鮮はわが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。間接にわが外交上の障害となっていることは実に少なくなく、わが日本国の一大不幸というべきである。
そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。
妻と結婚して6年が経ち子供もいる。付き合い始めのときは初々しくも「増田くんのこと増田って呼んでいいですか?」と恥ずかしそうに俯きながら言っていた時代から数えると10年近くの歳月は、結婚や出産を経て妻をタフにふてぶてしく変貌させた。
こう書くとなんか嫌な感じがするな。一応断っておくが俺は妻に対してなんの不満もない。安月給の俺に一生懸命尽くしてくれてさらには子供たちの母親としても素晴らしく俺の自慢の妻だ。
一緒に暮らしているんだからオナラもするしイビキかいてる所も知ってるし、高校のときに妻が書いた、伏線張りまくりすぎてわけわかんなくなってる壮大なファンタジー小説(もちろん未完である)を見せてもらったり、俺は俺で大学のときデブのくせにV系バンドやってたときの写真を見せたり、そんなお互いの黒歴史もカミングアウトし合ったこともある。さらに俺はとある疾患に苦しんでいたとき座薬まで入れてもらったことすらある。
要するに「大抵の恥ずかしいことは共有済み」であるはずだ。
しかし、妻は一つだけ俺に見られると死ぬほど恥ずかしく、「何でそんな所で見てんのよ!!」と逆キレすることが一つだけある。
たとえば冷蔵庫にから何かを出したりしまったりしている最中に、さりげなくたくあんを口にしたり、食事も終わり台所の片付けも終わりテレビを見ているときに、さりげなくソファから立ち上がり、すーっと台所に行き、夕食の残りのシュウマイを一つ口に入れたりする、まあよくある「つまみ食い」である。
妻はこれを俺に見られることが、本当に人間としての尊厳を踏みにじられるかのように屈辱的に感じるらしく、照れ笑いとかそんな余裕もなく「なに!なんでこっそり盗み見てるの?」と不機嫌になるのだ。解せない。まったく解せない。つまみ食いなんて俺だってするのに、俺のそれには特に何も言わないくせになぜか自分のそれだけは怒るのである。
今日一緒に買い物に行ってきたのだが、妻は先に荷物を持って家に入り、車をしまってから帰ってきた俺が玄関で靴を脱いでいたとき、車の中に忘れ物をしたらしい妻とすれ違った。
下記に署名した日本研究者は、日本の多くの勇気ある歴史家が、アジアでの第二次世界大戦に対する正確で公正な歴史を求めていることに対し、心からの賛意を表明するものであります。私たちの多くにとって、日本は研究の対象であるのみならず、第二の故郷でもあります。この声明は、日本と東アジアの歴史をいかに研究し、いかに記憶していくべきなのかについて、われわれが共有する関心から発せられたものです。
また、この声明は戦後七〇年という重要な記念の年にあたり、日本とその隣国のあいだに七〇年間守られてきた平和を祝うためのものでもあります。戦後日本が守ってきた民主主義、自衛隊への文民統制、警察権の節度ある運用と、政治的な寛容さは、日本が科学に貢献し他国に寛大な援助を行ってきたことと合わせ、全てが世界の祝福に値するものです。
しかし、これらの成果が世界から祝福を受けるにあたっては、障害となるものがあることを認めざるをえません。それは歴史解釈の問題であります。その中でも、争いごとの原因となっている最も深刻な問題のひとつに、いわゆる「慰安婦」制度の問題があります。この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。 そのために、政治家やジャーナリストのみならず、多くの研究者もまた、歴史学的な考察の究極の目的であるべき、人間と社会を支える基本的な条件を理解し、その向上にたえず努めるということを見失ってしまっているかのようです。
元「慰安婦」の被害者としての苦しみがその国の民族主義的な目的のために 利用されるとすれば、それは問題の国際的解決をより難しくするのみならず、 被害者自身の尊厳をさらに侮辱することにもなります。しかし、同時に、彼 女たちの身に起こったことを否定したり、過小なものとして無視したりする ことも、また受け入れることはできません。二〇世紀に繰り広げられた数々 の戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春のなかでも、「慰安婦」制度 はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点におい て、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾 取したという点において、特筆すべきものであります。
「正しい歴史」への簡単な道はありません。日本帝国の軍関係資料のかなり の部分は破棄されましたし、各地から女性を調達した業者の行動はそもそも 記録されていなかったかもしれません。しかし、女性の移送と「慰安所」の 管理に対する日本軍の関与を明らかにする資料は歴史家によって相当発掘さ れていますし、被害者の証言にも重要な証拠が含まれています。確かに彼女たちの証言はさまざまで、記憶もそれ自体は一貫性をもっていません。しかしその証言は全体として心に訴えるものであり、また元兵士その他の証言だけでなく、公的資料によっても裏付けられています。 「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、 永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。歴史家の中には、日本軍が直接関与していた度合いについて、女性が「強制的」に「慰安婦」になったのかどうかという問題について、異論を唱える方もいます。しかし、大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている通りです。特定の用語に焦点をあてて狭い法律的議論を重ねることや、被害者の証言に反論するためにきわめて限定された資料にこだわることは、被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、より広い文脈を無視することにほかなりません。
日本の研究者・同僚と同じように、私たちも過去のすべての痕跡を慎重に天秤に掛けて、歴史的文脈の中でそれに評価を下すことのみが、公正な歴史を生むと信じています。この種の作業は、民族やジェンダーによる偏見に染められてはならず、政府による操作や検閲、そして個人的脅迫からも自由でなければなりません。私たちは歴史研究の自由を守ります。そして、すべての国の政府がそれを尊重するよう呼びかけます。
多くの国にとって、過去の不正義を認めるのは、未だに難しいことです。第二次世界大戦中に抑留されたアメリカの日系人に対して、アメリカ合衆国政府が賠償を実行するまでに四〇年以上がかかりました。アフリカ系アメリカ人への平等が奴隷制廃止によって約束されたにもかかわらず、それが実際の法律に反映されるまでには、さらに一世紀を待たねばなりませんでした。人種差別の問題は今もアメリカ社会に深く巣くっています。米国、ヨーロッパ諸国、日本を含めた、十九・二〇世紀の帝国列強の中で、帝国にまつわる人種差別、植民地主義と戦争、そしてそれらが世界中の無数の市民に与えた苦しみに対して、十分に取り組んだといえる国は、まだどこにもありません。
今日の日本は、最も弱い立場の人を含め、あらゆる個人の命と権利を価値あるものとして認めています。今の日本政府にとって、海外であれ国内であれ、 第二次世界大戦中の「慰安所」のように、制度として女性を搾取するような ことは、許容されるはずがないでしょう。その当時においてさえ、政府の役 人の中には、倫理的な理由からこれに抗議した人がいたことも事t実です。し かし、戦時体制のもとにあって、個人は国のために絶対的な犠牲を捧げることが要求され、他のアジア諸国民のみならず日本人自身も多大な苦しみを被 りました。だれも二度とそのような状況を経験するべきではありません。
今年は、日本政府が言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会です。四月のアメリカ議会演説において、安倍首相は、人権という普遍的価値、人間の安全保障の重要性、そして他国に与えた苦しみを直視する必要性について話しました。私たちはこうした気持ちを賞賛し、その一つ一つに基づいて大胆に行動することを首相に期待してやみません。
過去の過ちを認めるプロセスは民主主義社会を強化し、国と国のあいだの協力関係を養います。「慰安婦」問題の中核には女性の権利と尊厳があり、その解決は日本、東アジア、そして世界における男女同権に向けた歴史的な一歩となることでしょう。
私たちの教室では、日本、韓国、中国他の国からの学生が、この難しい問題 について、互いに敬意を払いながら誠実に話し合っています。彼らの世代は、 私たちが残す過去の記録と歩むほかないよう運命づけられています。性暴力 と人身売買のない世界を彼らが築き上げるために、そしてアジアにおける平和と友好を進めるために、過去の過ちについて可能な限り全体的で、でき得 る限り偏見なき清算を、この時代の成果として共に残そうではありませんか。
「生まれつき」であることを理由とした不公正な取扱いは差別、なるほどそうかもしれない。まあそれ言えば切りが無いけどな。
ただ、この元増田のような界隈の人を救うためには、現代社会のデザインを大きく変更する必要があるだろな。ハッキリ言えば、そこには人権のコンフリクトがあって、誰か(ある異性)の人権を制限しなくては誰か(元増田)の人権は制限されたままとなる。あらかじめ人権に大きな偏りのある社会であればまだ救われる道もあるのだが(昨今のエロゲ・ラノベ界隈における奴隷ヒロイン現象にその一端が見られるだろう)、これほど人権がフラットになってきた社会で他者の人権を制限して誰かの人権を保護するというのはなかなか難しい。
だから、この元増田が救われる道って、ぶっちゃけ現代社会における合法的な不均衡性、つまり「金」を背景にして他者の尊厳を踏みにじる……簡単に言えばむちゃくちゃ稼いでその力で異性を獲得する、くらいしかないのだろう。その善し悪しはともかく、現実問題として。そのチャンスがあるだけ、現代社会はまだ以前ほど差別が許容された社会ではない、と言えるのかもしれない。
ちなみに「童貞をバカにするな」というのは、何も童貞を救うために言っているわけではなくて、単に「弱者を踏みつけて嘲笑う行為は醜悪だ」という批判に過ぎない。だから、あくまで「持てる」者同士の相互マウンティングに過ぎないと心得た方がよいと思う。貴族がもう一人の貴族に「乞食を蹴り飛ばして楽しむなんてやめたまえ」と言ったところで、彼が必ず貧民救済に熱心な善意の篤志家であるとは限らないだろう。
すべて根拠なし。
「風潮」ねぇ。証明してくれ。
「男性まで主語を広げるのがおかしい」と分かってるなら、女性専用車両の存在もおかしいとわかるはず。
また、差別という攻撃をしておいて何が「攻撃的言論」だ。笑わせんな。
クソ増田に反論できる能力が自分にあるなら他人のせいにはしたくないからなw
単なるレズのお気持ち開陳日記に「主語でけーよ」以上に痴漢はないとか食いついてまわるアホにはこれからも能力をつかって反論していくわ
そこに「論」はないね。
最終的には奇声をあげて振り払えるようになったが、
終点で降りるときに女性のポニテ髪に鼻つっこんで、階段のとこで気持ち悪いおっさんおるなって凝視してる俺に気づいてこっちふりむいてニチャアって笑う妖怪めいたクソジジイも見た
こっちの膝にスーツケースのせてささくれ+揺れでストッキング1枚やぶっといて明らかに気づいてるのに何も言わず逃げたやつもいた
フラフラたちあがって車両接続部に放尿する酔っぱらいもみた 臭えよバカ
空いてる車内で本読んでたら「北村薫なんて女の本より時代劇のほうがいいなんたって男尊女卑だ」とか話しかけてくる無知バカ
気分悪いやつには譲れそうならゆずった
座ってるハゲのヅラの頭上を見下ろしても表情にでないよう気をつかった
これやったの全部男だからね。
肘で通勤妊婦の腹めがけて軽くとはいえおしてくるのがいた程度だ
専用車両増田ならそれらは別に犯罪じゃないからええやんけ、マナー程度か事故だ事故、っていうんだろうけど
混雑のドサクサ紛れに女性をなにやっても怒らない優しさを搾取できる存在というあつかいをして尊厳を失わす風潮はあるよ。
乗客を適切に保護できない電鉄会社を責めるのが本道だとおもうけど
女性専用車両の存在を責めるのはお門違いだし攻撃的言論をされたら反論し返すよなやっぱ。
クソ増田に反論できる能力が自分にあるなら他人のせいにはしたくないからなw
単なるレズのお気持ち開陳日記に「主語でけーよ」以上に痴漢はないとか食いついてまわるアホにはこれからも能力をつかって反論していくわ
あっ
太田尚樹 on Twitter: "昨日女子校出身のお友達が言ってた「女子校ではみんな人間になる」というの、面白かったな。 男子校はみんなで男になろうとする。 男子が集まって生まれるのはジェンダーによる結束で、女子が集まって生まれるのはジェンダーからの解放なんだな。"
恐らくこの理論は正しいのだろう。
zyzy 女子大行ったけど本っ等にそうなんだよなぁ。リベラルでしんどさのない世界だったもんな。男子校は知らないけど、必死に「いんしつなはずぅどうぶつめぇ」してる人達を見てると、なるほど捕らわれまくってる、となる
こちらの方のように、実際に女子校に行くことで人間の尊厳を取り戻した人もたくさんいる。
とはいえ、現状でも全ての問題が解決されている訳ではないし、解決策を考える場合は一筋縄ではいかない。
女子が行く学校を全て女子校にしてしまえば女子をジェンダーから解放して人間にすることができる。
しかし、裏を返せば男子が行く学校が全て男子校となってしまい、男子はジェンダーの元に結束してホモソ化・ミソ化しかねない。
男子のジェンダー観を矯正するためには女子も含めた共学を作る必要があるが、共学に進んだ女子が人柱にされてしまう訳だ。
男女混合の職場がセクハラで溢れかえるのと同じで、共学の女子がジェンダーの抑圧を受け、人間でなくなってしまう。
つまり、男女別学にしようが、共学にしようが、必ず男子側のジェンダー観が暴走してしまい、なんらかのトラブルに発展してしまう。
これ、詰んでいるのでは?
もちろん、男児の出生自体を抑止することで防ぐことは可能だろう。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/ot_john/status/1155341308019347456