友人が死んだ。いや、正確に言えば死んでいない。
消えた。消えたのだ。行方不明になったという言い方もあるだろう。
ただ正確に言えば行方不明にもなっていない。死んだばかり、いや消えたばかりなのでなんとなくの居場所はわかる。
現在のなんとなくの居場所がわかるということは、本気を出せば後々も見つけられる。
この場合の本気を出せば、はやる気や気合いの類ではない。大人なのでお金とか時間とかそういうものである。今日日、自分の個人情報を自分以外に知られないことはほぼ不可能と言っても過言ではない。だから世の中にある「そういうサービス」を使えばきっと見つけられる。
私は今までの人生で二人、友人を死という形で失っている。
一人は病死。ある朝、起きてこないなと家族が見に行ったら死んでいたらしい。
今回死んだ友人は「連絡手段を絶つ」という方法で死んだ。なんとも新しい死に方だ。実に現代的だと思って感心した。
携帯電話の番号とメールアドレスを変え、LINEで友人をブロックし、Twitterのフォローを外したらしい。まあ十分だろうな、と感じた。友人はFacebookもやっていたようだからそのあたりもいじっているだろう。
完璧だ、と思わなかったのは一方通行だからである。本当に死んだ人は当たり前だがこちらからもあちらからも連絡が取れない。
今回の友人の場合、こちらからはほぼ連絡が取れない状態であるが、あちらからはどうにかすれば連絡を取ることができる。携帯電話やパソコンを介した通信は「履歴」が残るのでそれをたどればすぐに元通りになる。
Twitterだってこちらが閉ざさなければあちらから訪ねてくることはできる。なんとも曖昧な死に体である。
とはいえ友人は死んだ。「連絡手段を絶ち、情報を削除することで死んだということにします。」という宣言こそしていなかったが、まあそういう意図でやったことであろう。
友人は「遺書」を残していた。
Twitter上に自らの苦しみを吐露していた。出生や育ち、環境について悩んでいたらしいが、いまいちよく読んでいない。
長いな、とか、書きたかったのかな、とか、下書きはどこまでしていたのかな、と考えていた。具体的な内容については見たくもないし考えたくもない、というのが正直なところだっただろうか。
「遺書」を投稿している時点で、Twitterにおけるあらかたの知り合いのフォローは外していたらしい。
あらかたの、というのは数人はまだフォローしていたのを確認したからだ。私は性根がねちっこいのでそういうのはすぐ調べたり確認したりする。遺書を投稿している時点で「甘さ」が垣間見えたのでつい確認してしまった。
悩みは深くなればなるほど共感しにくくなる。だから「そんなことで悩んでるの?」を口火とした喧嘩が絶えないのである。
せっかく友人が投稿した遺書なので熟読はしないものの一通り目は通したが、やはり共感できない内容であった。「へぇ~」とか「ふーん」くらいの感想であった。
私はうんちくが好きでよくそういう情報を集めている。いわゆる「うんちく」は会話のネタになるが、この「自殺に関するうんちく」は会話のネタにはならない。
私は本当の死であれ今回のような死であれ、自殺をよく思っていない。それ死ぬ必要ある?と考えがちである。
死ぬ側からすると選択の過程はともかく、最終的な判断の元で死を選択しているのだから一定の尊厳性は保たれるべきであろうが、いまいち理解しきれない。
今回の友人の死に方については特に理解が追いついていない。友人は「死んだ」ので叶わないが「なんで本当の死を選ばなかったのか」と聞いてみたい。
とはいえ死にたい理由があって死んだんだろうという一定の理解は示さなければならない。理解のなさは争いを生むだけである。
とにもかくにも友人は「死んだ」。自ら死を選んだのである。だからこちらもそう思うしかない。「死んだのだ」と。
冒頭にも書いたが正確には死んでいない。
生きているが、死んでいる。ゾンビとかリビングデッドとか、いろいろ呼び名はあるであろうが、そういうことである。
友人がこれからどういう生き様、いや死に様を見せてくれるのか知らないし、知るすべもない。
もしかしたらもう何回か死ぬかもしれないし、次の死が本当の死かもしれない。
これ好き
なろうのウンコみたいな小説よりも遥かに面白いし読みやすいから投稿すればいいのにって思ったけど、ここまで文章書けるなら既に物書きで生計立ててるか
連絡手段を持たないわけではないけど、連絡する先を持ってないから死んでるも同じかな。 同じ電車に乗りたくさんの人と押し合いへし合いして同じスーパーで買い物し同じ地面の上に...
ゴミみたいな文章を自作自演で褒めて何が楽しいんだ?