はてなキーワード: プレッシャーとは
Facebookで次のようなやりとりがあったので、貼り付けます。皆さんの思考の一助となれば。
(補足:本題は、AとC、Eのやり取りです。B、Dのコメントは前振りです。また、イメージがわきにくいので、男女の別と肩書きを付しました)
AKB48メンバーの恋愛・丸刈り問題、フランスの新聞「リベラシオン」にも掲載されました。
タイトルは「日本のダンサー少女の丸刈りに衝撃」で、事実を淡々と伝えています。You Tubeの画像が24時間で300万回以上再生されたとか、日本で大騒ぎになってるとか。彼女は「自分で決めた」と強調しているとか。それで、「第二次大戦後ナチの将校と寝たフランス女性の懺悔を思い出させる」という反応とか、「これが先例になったら困る。青少年への影響を考えろ」というツイッター上の反応とか紹介してます。そのうえで、。「このように日本の懺悔の伝統に少女を追い込んだことについても、恋愛を禁止したことについても、このような有名人プレッシャーをそれを負うには若すぎる少女に課したことについても、誰も罰せられない」と皮肉っています!
私は、You Tubeは世界中から見られるので、日本の恥を世界にさらさないで!と危惧していましたが、恐れていた通りになりました。 http://next.liberation.fr/musique/2013/02/01/surprise-chez-un-danseur-une-chanteuse-japonaise-se-rase-la-tete_878485
どこかで、次回出すCDに、切った髪の毛を入れて発売するという記事を読みました。すべては商業的に仕組まれたことだったのではと思います。本当ならば、なんとしたたかなことか。
Bさん、私も作為的なものを感じます。でも、それが商業的に成功する国・社会であってはいけないし、フランスはAKBのような存在そのものが成り立たない成熟社会です。
商業的に成功するんでしょうか?さすがに切った髪の毛をCDに入れるのには、ファンも反対すると思うのですが。まあ、ファン以外の人がたくさん買うと思うので、売れることは売れるかもしれませんけど…。
AKBのような存在そのものが成り立たないことを「成熟」と捉えることには反対です。
Cさん、反対の理由は何ですか?確かに「成熟」にはいろいろな意味があるので、ちょっと良い表現ではないかもしれませんが。
Dさん、そうでしたか。うっかり、ひっかかりました。(^^ゞ
端的に、成熟(その裏返しとしての未熟)といえる根拠がないと思うからです。逆に、成熟と捉える理由はなんですか?
ところで、フランスでは、AKBは人気がないですが、モーニング娘。は結構ファンがいるようです。どういう差なんでしょうか…?
私の考える「成熟社会」とは、自由、平等、法の支配がより行きわたる社会です。子ども、女性、障がい者等、弱者の権利がより守られる社会です。
もちろん、この問題1つだけで日本が未熟でフランスが成熟しているという根拠には不十分かもしれませんが、たとえば日本の新聞で、上のように「誰も罰せられないのはなぜ?」と疑問をなげかける新聞があるでしょうか?フランスにももちろん闇の部分はたくさんあるので、100%良い国だなどといいう気は全くないのですが、女性差別とか児童・暴力ポルノ問題への批判に関しては、日本の数歩先を行っています。モーニング娘やコスプレが人気と言っても、あくまで「しゃれ」の範囲で、今回のような丸刈り事件には大多数が反対するのがフランス社会だと考えています。
Aさんのおっしゃるような社会を「成熟社会」と呼ぶことには違和感はありませんが、AKBのようなアイドルが存在しえないことは「自由、平等、法の支配がより行きわたっていること」と関係がないように思います。
児童ポルノ問題については、日本はアメリカやヨーロッパ諸国に比べると遅れていますね。性差別については、議論が盛り上がっているということ自体は先を行っていると言えますが、議論の進展状況については、フランスでのヒジャブ禁止問題を見る限り、単純にそう言えるか微妙なところもあります。
今回の丸刈り事件については、日本でも批判的な見解が大多数だと思います。例えば、朝日新聞の記事はかなり批判的です(http://www.asahi.com/national/update/0201/TKY201302010381.html)。この記事は、むしろ、上記のフランスの新聞よりも問題状況を理解していると言えます(この件について、坊主にされたフランス人女性の話と比較させるのは的外れです。もちろん、単に市民の反応を紹介しただけ、という言い訳はできるでしょうが)。
Cさん、朝日の記事は読みましたが、私には批判的とはあまり思えませんでした。特に、後半の危機管理のプロとかいう方の「謝罪は成功」とか、「アイドルは商品。ブランドコントロールは何よりも重要です」というコメントで締めくくる記事構成は、それを是認しているととられる可能性大です。「反省してるから許してあげて」と言いますが、反省する必要はないし、それを売りにしていること自体が明治時代以来の処女神話というか、女性の商品化(差別)の表れと思うと私には耐えがたいのです。フランス社会はそれに抵抗があるからAKBのような存在が(ごく一部のマニアックな層に人気が出たとしても)メジャーになることはないと思っています。
へジャブ禁止令もそもそもイスラムの女性差別に対する批判からでてきた話で、しかも禁止は学校内だけですから、問題ないと思っています。
察するに、今回の件に関してどのような理由から批判するのか、という点について、Aさんと朝日新聞とでは視点が異なるのだと思います。朝日新聞は、「アイドルの恋愛禁止」をやや批判的に描き、「反省の手段として丸刈りにする」ということを体罰あるいはパワハラに類するものだと批判し、また、マーケティング戦略として失敗したのではないかという角度からの意見を紹介しています。そこには、「女性差別」の話は登場しません。
今回の件を女性差別の問題と捉えることは、的を失していると思います。もちろん、女性の商品化→即差別と考える人がいるのはわかっていますが、自分はそうは思いませんし、そういう考え方が一般的だとも思いません(これに対し、男性女性問わず、性の商品化自体が心地良いものではないという意見は多いと思います。それは差別とは別の問題です)。
ヒジャブ禁止は、フランスの差別解消についての独善性が出たものと思っています。ムスリム女性自身の反対を押し切って、よく施行に踏み切ったなと思います。
それはともかく、AKBが存在しえないことが成熟社会である、という言明は、Aさんのコメント内容から推測すると、結局、「女性の商品化は差別である」→「AKBは女性を商品とするものである」→「AKBの存在は差別である」→「差別のある社会は成熟していない」→「AKBの存在は未熟を表す」という思考過程を経ているという理解でよいですか?
女性の商品化=即差別とは私も思いません。それこそ大人の男女が自らの魅力を演出してそれを売りにすること自体は、職業として成り立つのでしょう。でも、そこに「恋愛禁止」のルールなど入りこむすきはないですよね?その自由の否定とそれを受け入れる社会が未熟だという考えです。校則なども一種の自由の制限として私自身は反対です。
なので、上記の「女性の商品化は差別である」という命題からは出発しません。AKBのような未成年を商売道具として利用する大人に対する批判はあるので、AKBに限らず、「10代のアイドルは大人が子どもを商品とするものである」→「特に処女性を売り物にするアイドル(たとえばAKB)は女性差別である」→「子どもを商品としたり、女性に限らず、差別を許す社会は未熟である」という思考過程を経ているかな?と思います。
このAKBの構成員たる若い女子の丸刈りが、いかに多くの女性から嫌悪感を帯びて見られているか、秋元某はわかってないでしょうね。この嫌悪感は、まさしく「女性がオッサンから商品化」され、「搾取」されていると嗅ぎ取っていることからきます。また、「若いにーちゃんがこれを見て喜ぶだろう欲求」を充たしたと、商業ベースから判断されていることを嗅ぎ取っているからでしょうね。
法や人権に携わる者が、これらのことに鈍感であってはならないと強く感じます。そういう意味での「嗅覚」、とても大切ですよね。頭で理屈づけることなど、後から暇な人がすれば良いことです。これが社会的に、また若い女性、若い男性に与える悪影響から考えると、即刻このような「性の商品化」はやめるべしだと思います。また、森美術館の例の展示も、いま問題の体罰も、根っこに同じものを感じます。
Aさんの仰ること、私には大変よく理解できます。ロースクールも法学部も、真面目にジェンダー法に取り組むべきでしょうね。
そうそう思い出しました。キャリア教育などでも「自分を商品と思って売り出すなら、なんて売り出しますか?」というフレーズを使う講師に、それは不適切だと抗議したことがあります。人間は売り物ではありません!それを、いけしゃあしゃあとやっている大人たち、買う人間がいるから売るという発想の大人、これは本当に断罪しなければなりません。
謝罪って・・・誰に対して?写真集の犯罪については責任者=男性・権力者の落とし前は社会的にも不問で、労働者=女子は人権も人格も否定される不平等が搾取だし、キモい。日本はジェンダーバランスの点では著しく未熟な社会である。
AKBの女の子と同じくらいの年齢の娘がおりますので、この女の子の丸刈り姿を直視できません…。これがもし自分の娘だったら…と考えるだけで、死にそうなくらいイヤな気持ちになります。そんな集団に入ることを許してしまった、親としての自分のあり方を呪うと思います。
この画像に対する嫌悪感は、表現しがたいほどです。女性が「罰として丸刈りにする」という行為自体が、ナチスの収容所に入れられた女性や、大戦後、ナチスとの付き合いがあったことで丸刈りにされた女性たちを連想してしまうのです…。
こんなことがまかり通る「幼稚」な国であるということを、臆面もなく世界にさらしてしまったことは、本当に恥ずかしいと思いますね。
私も朝日新聞の記事を読みましたが、あれのどこが批判的なんでしょ?しかも、その記事の横に「板野友美引退」ですよ?スポーツ紙か?と突っ込みました。
テレビのニュースも然りです。この気持ち悪さ、不快感の本質をついてくれない。
Aさんのスレッドを読ませて頂き、やっと胸のつかえがおりました。
>Aさん
女性の商品化というよりは、子供の商品化が問題であり、また、それとは別に、処女性を売り物にすることが女性差別だということですね。処女神話はたしかに女性差別の意識の発現と言えるでしょうから、処女性を売り物にすることが女性差別意識を払拭することを妨げると言うことはできますよね。
ただ、たしかに「男はあの映像を見て喜ぶ」と演出サイドが思った可能性はありますが、実際にはそんなことはおそらくありませんので(喜ぶ人もいることはいるでしょうが)、演出サイドを責めるならともかく、今回の件に対する批判の声が多い現状に鑑みると、社会を未熟と言ってしまうのは、卑下しすぎではないかと思わないではないですね。
少数派の意見を正当化しなければならないときには「嗅覚」だけではどうにもならないので、理屈付けが必要です。もちろん、問題発見のプロセスでは、理屈付けの前に「嗅覚」が先に立つわけですが、正当化のプロセスにおける理屈付けがなければ、味方同士の馴れ合いで終わりです。
>Cさん
「嗅覚」が働かないような人は、学者にも司法関係者にも人権に携わる人にもはなれませんね。どこぞの弁護士みたいに人権が飯のタネ、なら別ですが。かしこぶっても、痛みをわからない人に理屈をつけられるよりは、まずは気持ち悪さを「共感」できる人でないと、自分はおろか他者の「権利」なんて守れませんからね。「正当化のプロセス」を他者がしたり顔ですることが、問題発生のすぐの時点でそんなに必要とは思えません。それを味方同士の馴れ合いなどと断言されるというのは、やはり第三者である自分を安全地帯において評論する、というところからですかね。
Cさん、大衆論理は常に正しいんですかね。女性のことに関して女性の意見を聞かない男性に何がわかるのでしょうか。古代脳である嗅覚すらないならもはや生物とも思えません。
フルタイムで働いていた職場を辞め、パート暮らしを始めてから1年弱経つ
特に結婚・出産等の決定的な理由があった訳ではなく、ただ辞めたいと以前から思っていたから辞めた
フルタイムでやっていた時は、自分が求められている仕事内容に対して能力不足である事が、いつもプレッシャーだった
能力不足を補うために勉強をしなければならないのに、それは億劫で出来ず、その根性のなさも何時誰に責められるかと怖かった
パートでも基本的には同じことだが、関わる仕事や人が少ない分だけプレッシャーは軽くなった
ところが今度は、心身に障害も無いのに片手間の働きしかせず、それで困りもせずに暮らしている事への罪悪感が出て来た
要するに、自分の精神は、どういう状況でも後ろめたさを感じるように出来ているらしい
この後ろめたさは恐らく半分くらいは根拠がないのだろうし、友人に弱音を吐けば色々と慰めてくれるだろう
だが根拠がないからこそ、振り払うのが難しい
いくら慰めてもらった所で自分は納得せず、同じ愚痴を延々と繰り返すのが容易に想像できる
そんな状態を続ければ相手も疲弊するだろう
だから友人にも、この後ろめたさについてはなるべく言わないことにしている
同じ後ろめたいなら、身体的に楽な今の方が良い
疲れると後ろ向き具合に拍車がかかる
当面は、今のままで独り静かに暮らそうと思う
毎朝、思うことなんだけど
なんでみんな、もう満員なのに電車に乗り込んで来るのかなって。。。
僕だけなのかな。。。なんで押すんだよ~って。。。。
ドアギリギリの所まで人で満たされているのに、
すいません、すいませんって乗ってくるのって”なし”なんじゃないか。
手で壁を押しながら入って来るのって完全にアウトなんじゃないか。
なぜ、みんな毎朝苦しい思いをして会社に行かなければならないのか。
なぜ、駅員さんが電車が来るたびに、ドアから飛び出ている鞄をねじ込まなければならないのかって。
毎日、思ふんだよね。。
で、よく考えたら
人は一人で歩いているときには、誰も押さない。
二つ目は、人は強い義務感の下では、罪を正当化するという事だ。
日本人はみんな時刻どおりに会社に出社しなければならないという、
強い義務感がかかっている。そのプレッシャーの元では、ちょっとぐらいの
悪いことだって、みんながやっているんだからって正当化してしまうのだ。
で、はたまた考えたんだけど。。
もう、諦めた方がいいんじゃないかってね。
人っていうもんは、そういうもんだって。。
そこにプレッシャーが加わると、平気で悪いことができてしまうんだって。
人ってそもそも悪いんだって。。
相田みつお風に言うと、”かなしいかな そういうもんだって 人間だもの”っていう感じかな。
"暴力反対!! 電車内で暴力行為を見かけたかたは、駅係員までご連絡ください"ってポスター貼っても
だから、そういう状況を作らないような仕組みを考えなければならない。
で、答えは簡単で
フレックスタイム制の会社をもっと増やせば、問題は解決すると思う。
入らなければいけないわけで、そもそもの電車の本数がその時間に足りていないって事だ。。
多分これ以上、本数を増やせないんだと思うんだよね。。
だって一本逃しても5分後には次のが来ているから。。。山の手線なんてもっと早いかも。。
大手企業とかでフレックスタイム制を一度は導入したものの、廃止にしてしまった
ところもあるんだけど、それってダメじゃないって思うんだよね。
人がバラバラに出社したからって、業務効率が落ちるような会社は
変えていこうよ。当たり前って考えている事をさ。。
オトナは子供達になんて言ったらいいのだろう。
すでに満員の電車に押し込んで入るオトナ達を前に、僕はなんて言えばいいんだろう。
”人の嫌がる事はしちゃダメ”って子どもたちに堂々といえるのだろうか。。って
ケツでねじ込んでる人達も、自分の子供には偉そうにそう言っているのだろうか。。って
この世の中で子供を作る事は、なんだか申し訳ないって気持ちが多分にある。。
世の中の悪い部分は暗黙の了解で気づいてねっていう雰囲気があるよね。。。
本当にくだらないんだけど。。
もっとマシな世の中だったら、考え方が違っていたかもしれない。
もちろん。。これは日常の一部を切り取ったにすぎないんだけど。。
まぁ、ウチも「スロースターター型」だし、田舎在住だからプレッシャーはある。
都会では「スロースターター型」が成立する。なぜなら仕事があるから。
そんならさっさと就職して身を固めて何とか妻子を養っていったほうがいいじゃん?って話になる。
ここ数十年の自由恋愛の進行とそれに伴う少子化(まあ経済的要因もあるけど)を見ていると、人間における社会性の獲得の度合いには、想像を絶する個人差があると感じさせられる。
大きく分けると早熟型とスロースタート型だ。
ちなみに早熟の対義語である晩成という単語を用いなかったのは、現時点で後者のクラスタは「晩『成』」と言えるほどの結果が出ていないどころか、「まだ始まってすらいない」ことだらけの人達に見えるからだったり。
このうち早熟型の極端な例は、早い人だと18歳くらいで所帯持ちになってしまうDQNのお兄さんお姉さんたち。
一方でスロースタート型の極北は、少子化問題でクローズアップされている高齢童貞処女の皆さん。
両極を並べてみたとはいえ、双方の違いの大きさに驚いてしまう。
それがつい最近まで、社会における成人にとっての最優先事項が子孫の育成だったことから、ほっといたら高齢童貞処女まっしぐらだった人達も、適齢期のうちに周囲がお見合いで相手を見繕ってやってまで「一人前」にさせられたわけだ。
そりゃ出産と育児という観点からすれば、基本若いほうがいいに決まっているのでそうなる。
それくらい大人になったら「養う機械」「産む機械」に徹することを求められていたとも言える。
今は時代が変わり、結果の是非はともかく、個人の自由がだいぶ尊重される時代になったけど、それでも昔の余波は大きい。
高齢独身への「一人前になれ」プレッシャーは半端ないというか、早熟型の人達にとっての「普通」基準あるいは成熟度モデル(?)を引き合いに「○○歳までに✕✕を経験していない人は半人前、△△歳になっても経験していない人はマジヤバイ」という価値観が未だに根強い。
「あるエピソードが10代なら笑い話で済むのに、20代なら眉を顰められ、30代以降だったら『この人一体何?』と思われる」あるいは「いい歳して何やってんだよバカじゃねえのきめえな」という声が絶えない。
これはつまるところ、スロースタート型の人のロールモデルが未だに確立されていないからであって、そっちのクラスタに入った人が、自身の手でこれから黙々と築き上げていくしかないのだろうか。
築いた所で受け入れられるかどうかも怪しいけど。
それにしても人間という種に、なぜここまで社会性に個体差が生まれてしまうのか疑問に感じる。
多様性ということなんだろうけど、それで種の保存に危機が及ぶとしたら本末転倒ではないか。
お見合いに限らず、古今東西で非コミュでもなんとか子供を遺せるマッチングシステムがあったらしいけど、それはあくまで前述のおかしな多様性に人間が適応しただけだろうし。
叫ばせてください。
「研究者」として生きていくのは、いい。自分の好きなことだからがんばれるし、ほぼ実力主義の世界だから男女差別もあまり感じることはない。いわゆるガラスの天井の問題も研究の世界では少なくなってきていると思う。でもそれは常に競争の中を生き残っていかなければならないということでもある。
ここで研究者の人生についてもう一度考えてみたい。高校卒業後、大学進学、研究室に入って学部卒。ここで22歳としよう。まだぺーぺーだ。修士課程の二年間で研究者としての資質を見極められ、認められた場合は博士課程へ。ここで24歳。そしてそれから短くて3年間、文系だと大体5~6年かけて博士号取得。ここには3年で博士号をとれる理系はポスドクで留学、文系は留学してから博士号、という違いがありそうだけれど、いずれにせよ博士号取得&留学で通算5~6年かかるという計算だ。つまりなんとかして研究者の「免許」をとったところで、だいたい三十路前後。
三十路にさしかかった研究者の卵はこれから数年間で、バイトなりポスドクなりしながら、研究の業績を積み、非常勤講師をしながら教育の実績を上げ、一年に一回あればラッキーなアカデミックポストの募集に応募を続けることになる。もちろんその募集には他の優秀な研究者たちが100人単位で応募してくるし選考の条件もさまざまなので、最終的には実力だけじゃなくて運だ。2、3年でアカデミックポストにつけた人は超ラッキー。5,6年以内に常勤の職を見つけられればいいな~というところ。そうすうると30代半ばになる。100人単位の応募者蹴落としてやっと大学の講師になれました。大学側も教員のポスト減らされて困っている時に待望の若手の登場です。雑用、教育、研究に八面六臂の活躍を期待されるわけね。
そうやって仕事がんばって数年がすぎたときふと気づけば、出産のリミットを超えてしまっている。
ものすごく頑張ればこの人生の中でも出産ってできると思う。でも、周りを見てると同年代か少し上で結婚・出産に至っている人は、博士課程かポスドクの時点でキャリアから降りてる。もっと上の世代になると「結婚すべし」「出産すべし」っていう価値観というか社会的プレッシャーがあったから、女性研究者でも子供をもっている人は多い。でもね、話を聞くと壮絶なのね。「女」ということで表立って差別はしないかわりに「母親」ということで差別する。出産したことそのものを隠し通した人もいたとか。
そうやって上の世代ががんばってきたから、我々の世代が男女間のギャップを感じないで研究に打ち込めるっていうのはわかっている。だから研究を口実に結婚出産をしないということに申し訳ない気持ちにもなる。ただ一方で言えることは、上の世代は今よりずっと就職しやすかったということだ。昔は博士号もとらないでよかったし、キャリアが若干出産で遅れても、十分アカデミックポストを見つけることができた。あるいは定職についてもまだ若かったから、仕事が落ち着いてから出産することも可能だった。でも今はそうじゃない。博士号とって研究業績の本数(質じゃなくて)を積み上げないと、スタートラインにすら立てない。言ってみれば「研究者の修業期間」が昔と比べ物にならないくらい長くなっている。それを普通にこなしているだけで、出産リミットはオーバーだ。
博士課程からポスドクにかけてはいろいろな意味で不安定だ。金銭的な面でもそうだし、明日どこで何をしているかもわからない。ポストがあればどこにでもいく、というスタンスでないと就職は難しい。僻地の、小さな大学の任期付講師の職にすら、応募者が殺到する時代だ。「定職ありません」「どこに住むことになるか分かりません」「いつ就職できるかもわかりません」この状態で結婚できるだろうか。いや、できまい。結婚どころか恋人をつくるのも難しい。ただでさえ高学歴(学校歴のほう)で敬遠されるのに。
それでも男性はいいなと思う。30歳代なかばから40歳代にかけてアカポスについたころに結婚して子供持っていいパパになれる。産休とる必要ないしね。出産の予定があるとか、小さな子供がいるということが採用の妨げになることもないし。
でも女性は? まず20歳代後半から30歳代前半にかけての「産みどき」にワープア状態になる。このときに結婚していまどきめずらしい専業主婦しながら研究続ける、といっても実際この激しい競争のなかでそういう人はふるい落とされて消えていく。じゃあアカデミックポストについたときに出産できるかっていったら、それも普通の心臓のひとには難しい。上にも書いたみたいに、待望の若手として研究室の期待と雑務を一身に背負っているのに、就職して1-2年で「じゃあ、産休、育休とりますんでよろしく♪」と言えるだろうか。(言える人もいるらしいよ。そしてそのせいで、その後のアカポス募集のときに女性応募者が敬遠されることに… 大学講師の採用面接で「出産の予定は?」と聞くとかアカハラも甚だしいんだけど、それだけ大学側も厳しい状況にあるということのあらわれでもある)
まとめ
1.「私、研究するから職に就くまで養ってね♡収入ないけど忙しいから、家事育児協力してね。遠距離別居婚になるかもだけど我慢してね」と夫に言える
2.アカポスについた時点ですぐに仕事投げ出して産休とって出産できる
このどちらかができるくらい心臓に毛が生えてないと、女性研究者が結婚というか出産するのは難しい。
なんとか出産に辿りつけたとしてもただでさえ忙しい仕事こなしながら子育てしていくのは難しそうだな~と思う。子供は大好きだし本当に欲しかったけど、自分はたぶん無理だ。それは研究がそれだけ大事だ、ということなので単に自分のわがままなんだと思う。私は研究を犠牲にしてまで子供を持つことはできないということだ。研究者仲間の男性がその両方をやすやすと手に入れていくのをみると、少し悔しいというか悲しい気持ちになるけど。
出産、育児して社会に貢献できなくてごめんなさい。そのかわり一生研究がんばります、教育もがんばります。そういう形で社会に貢献していこうと思うので、子供産めなくても許してください。一応の「研究者」になるまでにどれだけの支援を大学や国や諸々の機関から受けてきたかということを考えると、自分が研究を捨てて家庭を持つということはモラルとして許されない気もするのです……
以上、女性高学歴ワープアの苦悩をお伝えしました。そんなこと言ってないでとっとと論文書けよ、明日の飯もおぼつかないぞ、という悪魔だか天使だかの声が聞こえてきたのでここで筆を置かせていただきます。
そういう工夫とか、学ぼうとしてる?ドクターの学生に聞いてみたら?どうやったら速くなりますか?って
指導教員の「留年」連呼はこれだけみるとパワハラっぽいけど、本当にそうかはわからない。
君ならできる、と思ってプレッシャーをかけているのかもしれない。危機意識足りないよって言われてるんじゃないの?
指導する側は、相手の限界の少し上まで負荷をかけて、いまある能力の限界を越えた成長をさせるっていう教育方針をとることもある。
そうじゃなくてただ意地悪されてるだけなら、「意地悪してくる相手との交渉方法」を学ばなきゃいけない。これも社会に出て役に立つ技術だよね。
学生時代の昔語りをしてはいけないと言われているから、匿名で書く。
俺は小中学校通じていじめられっ子で、毎日他の生徒に引っ叩かれ、学ランには毎日スリッパの跡がつくような楽しい学校生活を送っていました。部活動は体育系に強制加入で、そこでもサンドバッグでした。首の神経がどうにかなる寸前だった時は、加害者の方が自宅にニヤニヤしながら謝罪に来てくれましたが。でも、すぐに元の状況に逆戻りでしたね。
体育会系の教師が生徒指導の役割を担って体罰を加えて統治することは、昔はけっこうザラにあったと思うんですよ。俺はエリートが集う運動部に加入していたわけじゃないけど、桜宮高校で行われていたことが「あるある感」とともに過去の記憶を蘇らせるくらいの実感があります。
◆
http://anond.hatelabo.jp/20130122033549
その支配の構造は上記の記事と、そのブクマにある「自主性=言われなくても俺の思う通りに動け」のとおりだと思うのです。剣道部出身の社会科の先生が担任だったけど、気に食わないことがあると授業を中断して職員室に帰っちゃうわけです。それが5回に1回はあるわけですよ。それをねー、いじめられっ子兼学級委員長の俺が「お願いですから帰ってきてください!」と三文芝居しなきゃいけないんですよ!俺を殴っている態度不良な生徒の不始末を抱えて、こんな幼稚な教師の筋書き通りにいい子を演じるのは耐えられないけど、そういうもんだと思ってやってました。「いい子」だったから。それが役割だもん。
大津のいじめ問題でも同様のことを感じたんだけど、「学校を治める」ことは「生徒を健全な状態に保つ」こととは全く別の問題なんですよね。あたりまえか。生徒に対してプレッシャーを掛けて正しい指導をしていると思っている人が、現実を解決してくれるわけではないのです。
◆
【体罰問題】大阪市立桜宮高校の生徒・OBの声 まとめ - Togetter
学校の中で発言力が高い生徒が何の疑いもなくこういうことを言ってしまう環境の中で、俺がいじめのターゲットにされていたら、マジでやばかったんじゃないかと。学校の教育方針とそれに同調する生徒が甘ったるい美学で包囲する世界じゃないですか。生徒同士の「指導」がひとつの機能として認められかねない環境ですから、体罰やいじめが運動部だけの問題に収まっていたとはとても思えないんですよね。
もし、俺が桜宮高校の中にいたら、あの過去よりもさらに深い絶望に陥っていただろう。もし、桜宮高校で「攻撃してもよい生徒」になったとしたら「俺をこの地獄から一刻も早く救ってくれ!」と祈ったよ。
◆
橋下の政治手法がどーだこーだと言う人がいます。学校に圧力を掛けているだの、入学まで止めなくても、過去に体罰を容認していただろとか、大人の責任を子供に押し付けているだの。そのとおりだと思います。普通科への看板の掛け替えをしただけ、とも言われます。根本原因を解決していない。全くそのとおり。仰せのとおりでございます。
だけど、俺が追い詰められて死ぬ生徒の立場なら、そーんな政治や中・長期的な視野なんて、ク・ソ・ど・う・で・も・い・い!!こんなアホだらけの学校に自浄作用や自主性を促されて、平和な環境がいつできるの?つーか、殴られ続けている最中にそんなことを周りから聞かされたら、さらに絶望してビルの屋上に足がススム君だわ。
殴られて絶望している生徒は、一般の生徒と同じ仲間じゃないんです。殴られて絶望している生徒は、一般の生徒と同じ仲間でいなければならないからこそ絶望するんです。ミソもクソも一緒にして、生徒の自主性だの、大人が子供を騙しただの、なんていうロジックで、自殺したキャプテンとTogetterに出てくるような糞餓鬼をひとつのカテゴリに入れている場合か?何よりも優先して救うべきなのは、今暴力に押しつぶされようとしている生徒だろ?
◆
この糞餓鬼共にキチンとした人権意識を持たせたり、学校に行動を改めさせるのは、乱暴に言うと今すぐじゃなくていいんです。まず、手を出せない環境を作ること、手を出したら損をするという状況を作ることです。優先順位を誤って対策をすれば、初動で効果的な対策が延び延びになるだけですよ。まず初動、そのあとで誤った教育を行わないシステムの改修をするべきです。初動対策が終わったら、視野を広げて考えればいいし、むしろそうしなければいけません。そこで初めて、生徒というカテゴリを前提とした一般論が必要になるのだと思います。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20130122131752
もともとお互い子どもが欲しいとは思ってなかったんだけど、嫁が32歳のときに突然
と言い出した。
俺は正直に子どもは欲しくないと伝えたし、おまえを子どもにとられるのは嫌だと言ったんだけど、
親戚からのプレッシャーとか、あとはやっぱり子どもを作るほうが夫婦の幸せの形としては自然という
風潮があって、子どもを作らないことで妻が不幸になるぐらいならと最終的には俺も納得する形で子作りした。
この辺は言い訳するつもりはない。
ただ、俺にはもともとの人生設計があって、嫁と2人で暮らせるだけの蓄えができたら違うことにチャレンジするつもりだった。
それについては妻も納得していたし、例え子どもが生まれてもそこは変えないと話していた。
もちろん子どものためにいくらかは貯蓄をまわすし、節約するという前提はあった。
子ども中心の生活になるのはもう諦めていたし、育児にも協力してる。
でもさ、遠まわしに「子どものために夢を諦めて」「子どものために我慢して働いて」って言われるのは違うんじゃねえの。
夢の話は何度も話し合ったじゃん。
10年ぐらいは家族3人で慎ましやかに暮らせるぐらいの貯蓄はできたじゃん。
それでもダメなの?
子作りする前にそういうのはできる範囲で、って話し合ったじゃねえか。
嫁は今の貯蓄を全部子どもにつぎこもうとしてる。
だから俺たちの老後に使う金は全然足りない、だから今の会社で働いて、リスクのあることしないで、ってのは納得いかないよ。
子どもを生みたいっていうあなたの夢は叶ったんだから、俺の夢だって応援してくれよ。
ってなると、ここで出てくるのは
それ卑怯じゃね?
子ども作ることには納得したし、子どもかわいいし、大切に育てたいって思ってる。
でも、子どもをたてにされているみたいで納得いかないとも思う。
俺の夢が失敗したら子どもに迷惑かけることになるかもしれない。
でもさー。
大阪市立桜宮高校の体罰事件が毎日伝えられている。生徒はキャプテンになってから毎日しかられ、体罰を受けて参っていたという。教師は体罰を辞めます、といった数日後の練習試合でまた生徒を殴り、キャプテンを辞めるならBチーム、やめないなら殴ってもええんやな、といったという。
ネットでは頭がおかしい、とか、クズだとかさんざん言われている。
でも、それは違うんじゃないか、という気が私にはする。あんまり整理できてなくてちょっとわかりづらいかもしれないけど、私の体験を書いてみる。参考になるかもしれないので。
*
私は中高6年間バレーボール部にいた。
今でも小さいがそのときも小さかったので中学ではずっと補欠だった。
最後の試合に出してもらったが、ミスをして交代となった。そのとき顧問の先生が何を思ったのか「出すのはおまえでなくてもよかったんだ」とつぶやいた。今でもどういう意味かわからないが、そんなこというなら高校でがっつりレギュラーになってやる、と高校でバレー部に入ることにした。
バレーはそこそこ好きだったが、そんなに上昇志向もなかった。体格も素質もなかったし、全国大会に行きたいとか、ましてやプロになりたいとかは全く思ってなかった。ただ中学の先生にいわれたことが悔しかったので見返したい。すごく単純な動機だった。
高校で入ったバレー部は体育大卒の若い先生が顧問で、熱心に指導していた。都立高校にしてはかなり厳しい練習をしていたし、実際わりといいとこまでいっていた。
都立は今でもそうだと思うけど、運動部の顧問は誰もがいやがった。ただでさえ大変な教職のほかの事務仕事をやらねばならず、その上に時間、体力、気力を使う運動部の顧問なんてみんなヤッテランナカッタのだった。
その先生は指導の最中にアキレス腱を切ったことがあるという。それも2回も。それを押してやってくれてるのだから感謝しないといけないよね、みたいな空気が生徒の中にはあった。
同時にそれはそこまでしてくれてるのだから、言うこと聞かないと悪いよね、期待に応えないと申し訳ないよね、みたいなものでもあった。
練習は厳しかったし、時々平手打ちもされた。
夜の7時、8時までやっていた。家に帰ると疲れて何もできない。食事をしながら寝てしまったこともある。
いやだったしきつかったのだが、「その辺のお遊びの運動部と私らはひと味ちがうのよフフフ」みたいな訳の分からないプライドみたいなものが部の中にはあって、苦しいのを耐えれば耐えるほど偉いのだ、みたいなところはあった。(でないとヤッテラレナイところはあった)
私には変な癖があったらしくて(自分ではわからない)、それを矯正するためにやらされたのだがなかなかうまくできなかった。
「手を下から出すように」
自分ではその通りやってるつもりだったが何回やっても違うといわれる。先輩後輩あわせチーム中が注目してるし、自分が練習を中断しているというプレッシャーもあった。違う違うといわれ続け、もうなんにもわからなくなってアンダーサーブをした。
「俺はおまえに手を下から出せとはいったがアンダーサーブをしろなんて言ってないぞ」
じゃあどうしろっつうんだよ、と思ったがさすがにそれは言えなかった。
厳しい練習はぜんぜん私の精神を鍛えることにはならなかった。先生に本音で質問することさえ出来なかったのだった。かといって自分で考えろ、というのは、その状態ではなおさら無理だった。それ以来、前から苦手だったサーブはまったく嫌いになった。
こう書くとがちがちの管理教育だったように見えるかもしれない。がしかし、先生としては自主性を持った選手になってほしかったようだった。
生徒がやる気がない態度を見せると、先生はたびたびボールを投げ出して帰っていくという振りをした。
「俺がやりたくてやってるわけじゃない。おまえたちがやりたいって言うからやってるんだ。おまえたちがやる気がないならやめる」というポーズだった。
それを追っていって、
「お願いします!」
と生徒全員で頭を下げるのがいつもの習慣だった。
「楽しくやりたいだけならそれでいいんだ。それならそういう風にやるから。でも本気でやりたいならそういう風にする」ともよく言われた。
生徒が望むなら、やりたいという気持ちがあるなら一緒にやりたい。そういう選手になってほしい、という気持ちの先生だった。
追っていったのは「先生がいなくなると困る」という気持ちだったし、見捨てられるのが怖い、とも思っていた。先生に見捨てられればその時点でダメダメなやる気のない私たち、という烙印を押されてしまうからだ。
そういう状態になりたくないという気持ちだけで「お願いします!」と毎日言いに言った。こうなるともはや意味のないお約束、儀式のようである。
そもそも、本当に自主性のある生徒であれば、先生が帰ってしまっても自分たちで練習すりゃよかったのである。でも自分たちで、これをやりたい!というものが私たちにはあんまりなかった。ただ日々の練習を修行のようにこなしていく。先のことは考えられなかった。ただ今の苦しさを耐え抜くことだけだった。ぶっちゃけ、自主性もへったくれもなかった。受け身で、受け身で、過ごしてきた。まじめでミスをしなければ、ボールが飛んでくることも、たたかれることもなかったから。
*
今回のことがあって、「私、バレーって好きだったかなあ」と思い返した。確かに好きではあった。レシーブがきれいにあがるとうれしい。難しいボールを拾えるとうれしい。トスをきれいに上げられればうれしい。アタックを気持ちよく打てるとうれしい。
で、ここまで考えてはたと気づいた。
全部個人技だったのだ。
バレーという団体競技をやってながら、私はチームプレイを楽しいと思った記憶がない。
団体競技をずっとやってきたのだから自分では協調性がある、他人と一緒にプレイするのが好きなのだと思いこんでいたがいやいや完全なヲタクじゃないか。自分で呆れて笑った。
でも。
コンビネーションプレイをうまくこなしたり相手と競う楽しさ、ゲームを運ぶ楽しさ、みたいなものは、たぶんバレーという競技にはあるのだと思う。
私にはそう感じる余裕はなかった。
日々の練習をこなすだけで精一杯だった。
日々の練習が修行のようになり、それをクリアすること自体が目的となってしまっていて、ほかのことは考えられなかった。もっとこういうことをしたいとか、こうなると楽しいとか、そんなことは全く頭になかった。
私に関して言えば、試合に勝つことさえどうでもよかった。試合は義務であり「ミスをしない」ことが第一目的であって、結果はあとでついてくるという感覚があった。
もったいなかったな、と自分でも思う。
*
が。もし私の先生であれば、たぶんこういう意味の発言だったかと思う。
「キャプテンを辞めるということは第一線で活動するのは無理です、ということなので、楽しくやりたいだけならBチームでやればいい。でももし、第一線で活動する意志があるなら厳しい指導もするし、体罰もある。自主性をもって立ち向かってほしい。覚悟がほしい」
先生はよく「意地を見せろ」と言っていた。
苦しくてもやりたいことならやりぬけ、ということだったのだと思う。
でも。
人間って、そんなに強くないのだ。
いくら好きであっても苦しい練習を続けさせられればそれ自体が目的となって、自分のスキルを伸ばすとか、何かに挑戦するとか言う余裕はなくなってくる。「好き」と言う気持ちはしぼむ。ただ「早く終わってくれればいい」になる。
まじめにやっていれば、受け身でもそれなりのスキルや体力は身に付くから、やる気がなくても勝ててしまう。
そういうのもありかもしれない。
でも、そういうのって、長く続かないのだ。
負荷が強くなっていけば、「義務」だけではきつくなる。「やらされてる」感が強くなり、「何で自分だけ」という気持ちが大きくなっていく。
ぱあんと破裂する。
悪いことに、「我慢」にたけた人間は限界点を越えても我慢するので、傷はより深くなる。
「我慢」はいらない。「やりたい」が一番。それがないと頑張れない。力が出ない。
試合で役に立ったことは皆無だった。もちろん「訓練」として体に染み着いてるので体は無意識のうちに動く。だから勝てる。でもそれがうれしいとはあんまり思えなかった。苦しいときにそれを思い出して頑張れる、ということもなかった。
うまくなってうれしい、自分の力を出し切った、というよりは、3年間耐え抜いた、という方が実感として正しい。
*
最後の試合、私は初めて結果を出した。苦手だったサーブでなぜか連続ポイントを上げたのだった。ストレートと、対角線上に打てばポイントをとりやすいというセオリーを単純に実行したら相手がミスってくれた。不思議なことに、そこに私の中学の先生が来賓として招かれていた。その場で結果を出せた。
それで気がすんでしまった。
まだ引退までには期間があったが、3年でもあったし、さっさと部をやめてしまった。
今思うと、「先生を見返したい」という意地だけでやっていたのだと思う。だからそれが達せられたらもういいのだった。
それはそれで初志貫徹といえるかもしれないけど、我ながら矮小な目的のために時間とエネルギーを使ってしまったなあ、と今は思う。
一応一つのことをやりきったのだし、「辞め癖」がつかなくてよかったんじゃないの、という人もいるかもしれない。でも、ポジティブな意味での達成感はなかった。やっと終われる!という解放感だけだった。
私は3年間を無駄にした。今思い返して、素直にそう思う。
*
今回の事件、生徒は義務とか責任感とか期待とかでぐるぐるになって「好き」という気持ち、自分がこうなりたい、という気持ちはもうぜんぜんなくなっていたのではないかと思う。
そういう状態になると人間は惨めだ。そういう身に暴力は堪える。
悪意とか、支配欲とか、そういうことは教師にはなかったとは思う。葬儀の席で親御さんに指摘されてすぐさま謝ったことを見ても悪人ではない。普通の人だ。
ほかの生徒も先生をかばっている。道を教えるのでも、ちゃんとついていってあげないとだめだぞ、と、普段の振る舞いを教えてくれた、と感謝する子供もいる。礼儀を教えてくれた、という子供もいる。かといって、べったり先生の側に立って、生徒の死を悼んでいないわけではない。校門に「キャプテンに捧ぐ」と幼い字で書かれたメモを添えた花束があった。
進路とか戦績とか、お互い保身はあったかもしれないが、生徒への愛情はあったと思う。でなければほとんど毎日、家庭まで巻き込んできつい指導はできない。
が。だからこそ逆らえない。情で縛られるところはある、と思う。
*
好きだった勉強を一生懸命できた。それについての専門書を読む時間もできた。その延長で大学に行って好きな研究もできた。早くやめてりゃよかったと今でも思う。
部活の影響は、今でも残っている。
負荷を耐えることは得意だ。が、ぎりぎりまで我慢するから限界を超えるとその負荷の影響を二倍三倍にも受けてしまう。
好きなことをしていてもなぜか途中からつらくなる。義務になる。理由はよくわからないが、たぶん何か「厳しくなくてはホンモノではない」という意識があって、「楽しむ」ということをどこかで軽蔑していたり、その結果思い切り楽しむことができなくなったりするんじゃないかと思う。あるいは自分のやることに自信が持ちきれなくて、先生のような絶対者の評価がほしくなったり、反対に他人の評価で自信を失ったり。
先生については、慕っていたかと言われれば、うーん、お世話になったので大変大変申し訳ないのだけど、ちょっと苦手だったような気がする。
先生はいつも「スポーツマンらしく」、礼儀正しくしろと言っていた。
「力」や「技術」に偏りがちなスポーツで、礼儀とか人のことを考えるとかは、重要なことだ。人としてたいせつなことを教えていただいたと思う。
が、それはなんというか、自主的にやる、と言うより、訓練のようなものだった。やらなければ怒られるし、手が飛んでくるような気がしていた。
私は先生の前でかなり礼儀正しく振舞っていたが、それはかなりの部分「演技」だったような気がする。「それが(先生に言われた)正しい振舞だから」やっていたのであって、「やりたいから」やっていたわけではない、と思う。
そういう「型」ではめられた振舞を厳しく求められたので、本音で接することはできなかった。本音で話せないので、自分の克服すべき問題を一緒に考えてもらうとかは考えられなかった。
いま先生について思うことは、「なんかうまくいかなかったね」「お互い失敗しちゃったね」という感じだ。
自分の意志で動く選手になってもらいたい、という先生の意図は分かっていたけど、少なくとも私に関してはもう疲れちゃっていた。自分の能力を伸ばすという気力はとうにつきていた。ただ自分の目的があったし、期待を裏切るのも悪いので3年間続けてしまった。
一回休んでいれば気力が回復することはあったのかな、と思うが、狭い学校生活の中で、一回レールをはずれるというのはなかなかできないことでもあった。
こういうの、「罪悪感を持たせて逆らえないようにする」「カルトだ」という人もいるかもしれないけど、それは日々の人間関係のすごく曖昧な線上にある。その渦中にいるとなかなかわからない。善意と、思いやりと、慕わしさと、依存心と、打算と、不満と、夢と、絶望と、責任感と、プレッシャーと、見栄と、もういろんなものがある。
単純じゃないし、それを理解せずに顧問をアクマ扱いしても問題は現場の教師にずっと残されると思う。
*
部活やその中での体罰を体験した人のことばがあんまりなかったので書いてみた。体罰がなされて、愛情ある指導がされて、生徒たちも先生を受容している環境で、それでもどうして体罰よくないかっていうのを、説明してみたかった。増田に書いたのは、何となく増田っぽかったので。
ひとつ。今顧問の先生をたたく人はすごく多いけど、今たたいても無駄だと思う。
葬儀の席で土下座したとあったけど、彼の頭の中はどうしよう、どうしよう、すみません、すみません、で、意味なく(そう、意味なく)ぐるぐるしてて、冷静に反省するどころじゃないと思うから。
責め殺したいならそれでもいいけど、たぶんそれじゃ自分のしたことが過不足なく理解されることはないと思う。そんな中じゃ何が問題かわからない。
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を高度に形式化して使える人がいるのは、正直こわいです。
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、みんなあきれ果てて38もレスしなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、みんなあきれ果てて38もレスしなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、みんなあきれ果てて38もレスしなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。
だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。
だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。
だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。
だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。
だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
高校のバスケットボール教師が生徒を30発、40発殴って、自殺に至らせた事件がありました。ただ、こういう乱暴な教師はいるのだろうな、とそれほど驚きはなかったのですが、それより驚いたのは、マスコミ、世間一般にも体罰を容認する声があるということです。正直、「え?本当に同じ文明人なの?」と愕然とした気持ちになりました。しまいには、子供やその親を「軟弱だ」とか「ケアが足りない」と攻める論調すら出てきています。
そこで、体罰容認論によくある擁護論にまとめて反論してみました。世間の人の言う「ある程度の体罰」でも「子供のためを思った体罰」でも、教育に体罰は認められません。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
「何を当たり前のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。でも、そんな「当たり前」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、体罰がダメだというのはわかると思います。しかし、「自分はやられてきたから正しい」という謎論理によって体罰を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、教師が殴ったのが30発ではなくて、3発だったら、子供の方を攻める論調が勝ちそうな気がします。
仮に体罰が正当化される場面があるとしたら、モヒカンの子供が火炎放射器を持って「汚物は消毒だぁぁ〜〜」と乗り込んで炎をまき散らしたときくらいで、火炎放射器を持ち込む子供がいない以上、普通の教師が体罰をふるうことは正当化されません。
市橋達也は親が医者であるのに自分は医者になれなかったという。
医者の親のほとんどが開業医・勤務医に関わらずに子供に医者になれと言う。
いくら子供がバカでも私立の医学部に行かせてもらえれば問題ないのだが、親たちの中には国立の医学部だけしか許さないという親もいる。
それは、父が医者で母がナースで経済的に私立は厳しいという理由や、親が変なプライドを持ち合わせて私立を許さない理由から。
俺の親もそういうやつだった。俺が通っていた医者の子が集まる予備校にもそういう親を持つはけっこういた。
みんなくたびれていた。
国立の医学部のレベルは東大並みで、最近では東大以上とも言われている。
当たり前だが、時間を費やしたからといって誰もが合格できるわけではない。
俺の周りのやつらを見ていると、多浪でもすれば大抵がセンター8割くらいは取れるようになる。
だが、そこから先が難しい。そこから先は誰もが行ける場所ではないようだ。
辛いことに、親が医者であると合格できないのは甘え、もしくは出来損ないというレッテルを張られてしまう。
どっちも認めるのはキツい。
そうやって、精神的に追い詰められてさらに学力が伸びずに、学力が伸びないからさらに精神的に追い詰められる。
浪人の途中で心を病んでしまってリタイアしたやつは何人もいた。
みんなくたびれて、とても辛そうだった。
俺も三浪目のときに強迫性障害、パニック障害を発症した。そして、うつ病になった。
俺は中高連続で皆勤賞を取っているほど健康的だったのだが、長い浪人生活のなかで随分と変わってしまった。
頭の悪さ、要領の悪さ、とにかく自分のダメさをひたすら呪いつづけた。
でも、周りからはこう言われる。
親が医者でいいなー、と羨ましそうに言われるのだ。
俺は複雑な気持ちになる。
確かに経済的には恵まれているのだろう。
私立の医学部に行けるほど裕福ではないが、毎晩の食卓にデザートが出るほどは裕福である。
超田舎という条件付きだがそこそこ大きな一軒家を継げることになっている。
だから、幸福か不幸かはよく分からないのだが、少なくともこれだけは言える。
そう思ったことは数え切れないほどあったし、今だってそう思い続けている。きっと死ぬまでそう思うだろう。
「好きなようにすればいいじゃん」と言うやつがいる。「医者にならなければいいじゃん」と。
それは無理なのだ。それだけは不可能だ。多くの場合は、きっとそう。
生まれたからずっと医者になるように刷り込まれたせいでそれ以外の選択肢はあり得ない。
父、母、祖父、祖母、親戚、従妹、教師、知り合い、近所のババアすべてが「医者になるんだよね」とプレッシャーをかけてくる。
そんな環境が十年以上も続くと、精神疾患で強制リタイアするか、自殺するか、それくらいでしか対抗できないほどに洗脳される。
このどうしようもなさだけは同じような経験をしたやつにしか分からない。絶対に。
考えようとしても考えられないのだ。どうしたっても、どうしようもない。
さらに俺の場合、は俺自身も医者になれると思っていたから、余計にどうしようもない。
自分の頭の悪さが分からないほどに頭が悪かったのは悲劇なのだろう。
市橋達也はそんな俺と似たような境遇でいろいろと共感してしまう。
そのなかでも医者になれない子供はさらに少ないから、市橋達也を含めて俺たちの存在は相当なマイノリティだ。
だから、市橋達也が殺した相手がもし親であれば、きっと彼は俺たちのヒーローとなった筈だ。
親が医者で羨ましいなんて言われることが少しは減ったかもしれない。
俺たちのような境遇のやつがどこにいっても少ないだけに、市橋達也が親を殺さなかったのは残念に思う。
いまだにそう思っている。
非常に残念。
いくら辛い境遇だからといっても、それは親を殺していい理由にしかならない。それ以外はダメだ。
親を殺していたならば、少なくとも俺は援護したのに。本当に残念。