はてなキーワード: 特待生とは
「なんで貧乏から抜け出したい子が実家が太くて真剣に金稼ぐこと考えなくてもいいボンボンがモラトリアムしにいく芸術系に行くんじゃアホ」
とブクマカからボコボコにされてるが、自分はこういう子あまり責める気になれないのよね。
「お前が親から配られた不利な手札でも勝利(人並みの経済状態・平凡で幸福な家庭)を手に入れられる最適戦略はこれだ!」
と正しい人生の戦略を教えてくれるまともな大人なんて誰もいなかったことが簡単に想像できるから。
思うに、親ガチャ外れの辛さって、
1. 引いた手札が外れだらけ
という一般的に言われる不利よりも、
という不利の方が大きいのではないかな?
この子が挑んで挫折した「芸術系ダンジョン」は「太い実家★4」と「親から受け継いだ文化資本★4」の持ち物検査を通れない人間にとっては報酬がゼロどころかマイナスになりかねない糞コンテンツだよ。
★1だらけの自分の手札の中では輝いて見えた「芸術センス★2」に人生を賭けたのだろうけど、経済力と文化資本の★4無しに芸術系で勝ちたいなら「芸術センス★4」以上と「幸運★4」以上を神から配られてないと無理。
必死に勉強して高校は特待生で大学は給付型奨学金というのは立派。この「勤勉さ★3」こそがこの子の最強の手札だ。
その手札を活かして貧困から抜け出したいなら挑戦すべきは「看護系ダンジョン」あたりではないかな?
勤勉さデッキで十分進める難易度で、報酬は女一人が生きていくには十分過ぎる収入、子供産んでも楽に復帰できる需要の高さと、コモンだがSR相当の性能の手札だ。
生涯年収の期待値を考えれば、「勤勉さ★4」と「実家の太さ★3」を持ってるからと下手に「文系大卒総合職ダンジョン」で戦うことを選んだ女よりも賢明であろう。総合職ダンジョンは女デッキで挑むとバッドステータス「子持ち」を食らった後の対策が極端に難しいクソゲーと化して生涯年収が激減するんだよね……
高校で「看護系の大学・専門学校に行け」と進路指導してくれる先生はいなかったのかな? いなかったのだろうね……
とりあえず、ブクマカみんなアドバイスしてるように、デッキに入れてるだけで毎ターンHPが減るバッドステータス毒になる親を切るところから人生の立て直しを始めるのが良いと思う。
頑張ってください。
「スーパーモンキーズ」初期メンバーが明かす“アムロの圧倒的才能”
「(安室)奈美恵は最初、友達の付き添いでアクターズスクールに来たんです。第一印象は、色が黒くて、すごく細くて、ごぼうのよう」
そう語るのは、ダウン症の子どもたちのためのエンタテインメントスクール「LOVE JUNX」の創設者・牧野アンナさん(46)。父は、あの安室奈美恵を見いだした沖縄アクターズスクール(以下・アクターズ)の創設者で校長のマキノ正幸さん(76)。アンナさん自身、スーパーモンキーズの結成メンバーとして、安室とともにデビューした元アイドルだ。
引退後も、アクターズのチーフ・インストラクターとして、MAXやSPEED、三浦大和、黒木メイサ、満島ひかりなどを育ててきた。現在は、AKB48やSKE48の振付指導も担当。SKE48のファンからは、その厳しい指導ぶりに「鬼軍曹」「クラッシャー・アンナ」などと呼ばれている。
安室がアクターズに現れた’87年当時をアンナさんが振り返る。
「どちらかというと暗い感じで。レッスン場でも隙間に隠れるようにしているし、発声練習のときも手で口元を隠すような女の子でした」(アンナさん・以下同)
ニコリともせず、事務所の隅でモジモジする10歳の安室に、誰もがスター性など感じなかった。ところが、正幸さんは違った。安室の歩き方だけで、輝くオーラを感じたのだ。一度、帰りかけた安室を呼び戻し、母親に電話を入れ、「特待生にします。授業料はいりません」と、その場でスカウトしてしまう。
そして、正幸さんはアンナさんやアクターズの生徒たちに、「俺は奈美恵を特別扱いする。おまえたちとは才能が違う。奈美恵は絶対、スターになる」と宣言した。当初、アンナさんは、半信半疑だった。
「後になって、奈美恵を後のMAXのミーナと一緒に『ちびっこのど自慢』に出したんです。ミーナは歌がうまいと評判で、私たちの間では断トツの優勝候補でした。ところが本番になったら……」
無口で、いつも隅っこにいた安室が、ステージの上で突然、スパークした。明るくはじけて、踊り、歌った。
「驚きました。その姿に、私も『イケる!』と思いました」
歌と踊りがとにかく好きで、無類の負けず嫌い。母子家庭だった安室が、往復260円のバス代を浮かすために、片道1時間半の道のりを歩いて通っていたという話は、アクターズの伝説になっている。
「難しい子ではありましたね。まず、言うことを聞かない」
練習をサボるのではない。練習をしすぎてしまうのだ。「練習しすぎで、喉の状態がおかしいから控えなさいね」とアンナさんが言った直後に、レッスン室から、安室の歌声が聴こえてくる。慌てて、注意をしにいくと、聞かないふりをして、まだ、続ける。
「人から指示されてするのは嫌だったんでしょう。嫌なことは、絶対に嫌。何時間、説得しても、横を向いてツーッと涙を流し始める。後年、本人が言っていました。『言いたいけど、うまく説明できないから』と。言われたことが理不尽だと感じていても、それをうまく伝えられなくて。葛藤の涙だったんでしょう」
やがて、20歳のアンナさんをリーダーに安室、後のMAXのナナとミーナ、そしてヒサコ(新垣寿子さん・振付師)の5人で、スーパーモンキーズが結成された。’92年1月、5人で上京。大田区の3DKのマンションで共同生活を始め、9月には、第1弾シングル『ミスターU.S.A.』がリリースされた。
だが、すぐに売れたわけではなかった。東京のスーパーマーケットのレジ前で、パフォーマンスをしたことも。
「私なんて、胸のうちで『サイアク』と思いながら踊っていたのに、奈美恵は『歌えて踊れて、楽しかった』って、ニコニコしながら言うんです。私とは違うなと思いました」
デビュー前は、アンナさんがセンターだったが、デビュー後は、安室に代わった。
「ステージで一緒にパフォーマンスをしていると、わかるんです。観客もスタッフも、みんなの視線が奈美恵に集中する。技術も大事だけど、もっと大事なのは、人を引きつける魅力。奈美恵にはそれがある。でも、私にはなかった」
圧倒的な才能の差を目の当たりにして、アンナさんは、父の言葉を思い出していた。
《スターになるのは、才能を持った人がさらに努力した結果だ。おまえは裏方。裏方として輝く道だってある》
’92年年末。アンナさんはスーパーモンキーズをやめて、沖縄に帰った。スターになる夢はきっぱり捨て、指導者として生きる道が定まった。
「奈美恵は、できる子なのに、チヤホヤされてもてんぐにならず、もっと努力できる。あ、でも、彼女のは、努力じゃないのかもしれません。道を歩いていても、奈美恵は自然に体が踊っちゃってる。私だったら、どんなに楽しくても、『さぁ、やんなきゃ』になる。でも、奈美恵は自然に踊っちゃって、歌っちゃってる。『やんなきゃ』じゃない。それこそが才能なのでしょう」
男女論争がしたいわけじゃないので性別は書かない
配偶者は普段は相手の学歴とか全く重視してないタイプだ。たとえば配偶者は京都大学だが自分は私文だし、ロザン宇治原の鉄板的な学歴ネタ(街で出会った素人に大学はどこか聞いて「まあまあやな」と言い、相方に「何てこと言うねん」と叩かれる)も嫌いである。
そんな配偶者だが異常な学歴厨ムーブして正直ドン引きした。新規で歯医者を探すことになったときのことである。歯学部は私立大学だと偏差値50切ることが多いのである。配偶者の主張では、偏差値50ない人間は医者として基本的な思考能力がかけており不適格なのだそうだ。これまで最悪な歯医者に当たってきて、それがみな私立の偏差値50未満の大学出身者であった。しかし大阪大学出身の歯医者に変えたら説明が論理的で作業にも無駄がなく最高だっが、妊娠産休でいなくなってしまった。代わりの先生は私立では駄目だと30件くらい虱潰しに国公立出身の歯医者を探していた
いや、ちょっとなあ。特待生制度使ってあえて優秀だけど私立行った人もいるだろうし、国公立の歯医者でも説明が上手で作業に無駄がないとは限らないしさ
東大行ってる友達でも、バイトも勉強もせずに女子大とのテニスサークルで東大ブランドで女侍らせてるどうしようもないやつもいた。一方、正直偏差値低くてどこ?みたいな大学でも、特待生になって奨学金で海外に行って、英語ペラペラになって国際的な活動して、アクティブな友達もいた。
わたしはまだ素直だったので、このときは人間は学歴じゃないって思った。大学じゃなくて、生き方で決まると。
でも実際就活になったら、大学時代の過ごし方なんて関係ない。学歴が高いやつからいい企業に決まる(何を持っていい企業かと論じ始めるとめんどいので、普通に給料がいい知名度のある入りづらい企業です)。
〜蛇足〜
指定校推薦は逃げで、早慶国公立の指定校を立った人は、直接は言われないけど逃げたやつって空気があった。
そういうところで過ごしてると学歴至上主義になるけど、それは間違ってるようでただしい。
いい企業に入ることが幸せではないことは間違いないが、いい企業に入れば名前だけですごいと言われ、守られ、人よりいい生活が送れる(一部のハラスメント事例は除く)
去年色々あって、28歳目前にしてやっと少し人生が落ち着いて、キリが良く、そういう気持ちになったので、死ぬわけでもないが、
なんとなくこれまでに出会った人への感謝を、文字として残しておこうと思って書く。伝えられるときには伝えた、つもりだけど。
金が無くて、半年だけ入塾みたいなわけわからない形でもちゃんと対応してくれて、しかも良く面倒を見てくれた。
校長とも知り合いで口利きもしてくれて(母親にはこういわれていたが、正直ないと思う)、ある私立中学に特待生として入学できた。
人生をすべて救ってくれた方。毎日のように個別に指導していただき、ほぼ数学だけで良い大学に入れた。
当時は数学が勉強だとは思わなかったが、これは先生も一緒に楽しんでくれていたからで、一緒に学ぶことは日々の楽しみで、救いだった。
勉強以外でも父親のように面倒を見ていただいたことがあり、本当に感謝している。
ただ、お墓参りに行きたいと思いながら数年が経ってしまった。ご実家の連絡先しか知らないのだけど押しかけていいものなのだろうか…
私立中高や大学には特待生があるし、国立大学も家庭環境次第にはなるが、学費を免除してくれる制度がある。
自分は中学から、博士課程まで15年、運が良かったのはもちろんありますが、学費は1円も払うことはありませんでした。
なんなら大学では学部から給付型奨学金でお金を貰えたので、努力して運があれば、弱者を救済してくれる日本の様々な制度に感謝。
そもそも自分が大学に進学させてもらえたのは祖父母や叔父たちが母に圧力をかけてくれたおかげではあった。
それ以外にも幼いころから父親がいない自分のために、見えないところで父であろうとしてくれたのだな、と思いあたることも多い。
本当に感謝。関係ないけど叔母が結構過激な陰謀論者みたいになってるのに離婚しないの本当にすごいと思う。
⑤母
母子家庭、毒親で、数年前までも感謝こそすれ、恨む気持ちや殺意の方が自分の中で強かったが、年々身体も気持ちもしぼんでいく母を
見ていると、祖父の介護が終わってしまうと一緒に亡くなってしまうのではないかと、昨年祖母が亡くなった瞬間に強く感じてしまった。
親を大事にしろ、みたいな記事や漫画が視界に入るたびに拒絶反応が出て、自分の中の感情がぐちゃぐちゃになっていたが、
そういうことの大切さも、少しだけわかってきた気がする。
いつも実家や地元に帰る時は、家には泊まらずにホテルを取っていたが、今年は家に泊まろうかな、と思う。
正直、自分の口も心も、実家周りのすべてに対して完全に閉ざしていたが、今なら言えるような気がする、本当に育ててくれてありがとう、と。
同和地区に生まれ育ち、多分『それなり以上の同和教育を受けた最後の世代』だと思っている私。
私は昭和の終わりかけに、関西の大都市に生まれた。自営業の父と専業主婦の母のあいだに生まれ、1歳児の頃から公立保育所に通った。
現在は幼児をもつ親でもあり、『保活』『保育園落ちた』などのワードをネットで見るにつけ、自分の育った地域や時代か現代のどちらがおかしいのかわからなくなるのだ。
まず、私の母は専業主婦だ。母方の祖父と同居だったが、その祖父が要介護だったとか、母自身が病気だとか何もなかった。1ミリも『家庭での保育に欠け』てなどいない私が、普通に公立保育所に通った。
母は私を幼稚園に入れたいと思ったそうだ。しかし、親族を含む周りの多くの人たちが、いつ保育所に預けるのか、保育所の申し込みをまだしてないのかとものすごくうるさかったらしい。『保育所が当たり前だった。同じ小学校に行く子は町内のどこかの保育所出身で、幼稚園に行く子なんていない』と言われたらしい。
母は心配しながらも私を保育所に入所させた。まず、町内に公立保育所がいくつもあった。1学年1クラス、私が通った保育所はその中でも人数が少ないところだったので、年長クラスで一緒に卒園したのは12人だった。最近の『保育所が足りない』どころか、どう考ても当時の子供の数を考えれば保育所が多すぎるくらいだった。
運動会や宿泊保育、遠足、卒園式などは合同で行われた。保育士さんはどうだったか忘れたが、市の公務員である給食調理員さんたちは、その町内の保育所のどれかにしか転勤しない。(当時給食調理員だった知人が近所にいたため、知っている)
今、雨の日でもお昼寝布団セットを自転車で運んでいる保育園パパママさんを見かけるが、私が通った保育所ではお昼寝布団の他、給食で使うスプーンや箸など、肌に触れるものや口に入るものも持参する必要はなかった。かばんに入れて持って行ったものは連絡帳以外思い出せない。
私は二人の子供を私立幼稚園に通わせた。ひとりは卒園し、ひとりは在園中。まあ、これでもかというほど指定用品を買わされ、毎日スライド式のカトラリーセットを始めあれこれ通園鞄いっぱいに持って行く。最初は自分の子供時代とのあまりの違いに驚いたが、『あ、こっちのほうが普通なんだ』と最近では思うようになった。
保育所時代はほぼ同和教育はなかったが、小学校に入ると一変した。
まず、入学時に必要なもののほぼ全てが無料支給だった。ランドセルまでタダだった。母と一緒に入学用品を近所の『会館』に取りに行ったことを覚えている。鉛筆や消しゴムまであった。筆箱は自分のものを使えたかな。それが最初の一回だけではなく、『とくしゅうひ』というものがあって、冊子が配られて必要な学用品に丸をつけて提出すると支給された。これはいつの間にかなくなった。高学年になる頃にはもうなかったかと思う。
私の実家は貧乏ではなかった。後に書くが、学用品を無料支給してもらわないと就学できないほど生活に困窮している同級生などいなかった。
ランドセルはデザインも何もかも皆同じ。ほとんどの学用品が全員同じだった。出どころが一緒だからそうなるんだろうけど、他の学校のことを知らないのでそれが普通だと思っていた。給食で使うお箸、食後に使う歯ブラシまで皆同じ。歯ブラシの色選びでじゃんけんをしたことも覚えている。
それから『子供会』というものがあった。放課後に行くところで、別に親が働いているからとか何もなく、ほとんどの同級生が在籍していた。行くか行かないかは自由だったが、小学校の下校時に集団になって歩いて行ったことを覚えている。おやつが出たり、遊んだり、土曜日は昼食も出た。学童保育のような感じだったが、違いは『(ほぼ)全額無料』で『まあまあゴリゴリの同和教育機関でもあった』こと。そこで働く人たちのことは、先生やさん付けではなく、『指導員』と呼んでいた。(例 田中指導員)
主に教えられたのは狭山事件のことで、歌まであった。私はその歌をなぜか今でも覚えている。小学校1年生のときから教えられる。それから、何の日だったかは忘れてしまったが、5月23日と10月31日が近づくと、狭山事件のことをいつもより色々聞かされた。
大人は集会もやっていた。たまに祖父について行ったことがあったが、集会の最後はシュプレヒコールがお決まりだった。後になって祖父はその集会になぜ参加していたのか母に聞くと、『お父ちゃん、その年確か町内会の役しとったからちゃうかな』そんな理由だった。
小学校の名札のところに『差別裁判をゆるさない』とかワッペンをつけて登校する期間があったりもした。『ワッペン登校』と呼ばれていたが、今考えるとすごい。小学生の制服に、別にその子の意思でもなくそういうワッペンをつけさせていたのだ。
学校の道徳の授業は、同和問題を始め、とにかく何かと差別を絡めた内容だった。在日コリアンの問題とか。私の子供が入学して教科書に名前を書いていたとき、道徳の教科書を何気なく見ると、『金の斧 銀の斧』の話が載っていたりして、自分のときとの違いにまた地味に驚いた。
小学校1年生に狭山事件のことを話してこれは差別だ!とか言われても正直よくわからなかったし、狭山がどこかもあまりよく知らなかった。『かなり昔、遠い関東で無実の人が逮捕されて、裁判が何か差別らしくて………』といった感じで記憶している。
他にも後で特殊だと気づいたことがある。天皇制の否定、国歌を教えない、卒業式の定番『仰げば尊し』はなぜそこがダメなのか忘れたが『我が師の恩』のところに文句がついていたっけ。
ある日の子供会の集会のとき、『天皇制はおかしい』という話を聞いたのをおぼろげながら覚えている。『天皇誕生日が祝日なのはおかしい』と力説されたが、子供心に『学校が休みになるんだし祝日にまで差別とか言うのか』と思った。
洗脳レベルの教育だったが、低学年頃にはなくなっていった(後述)こともあり、『差別に負けない大人になってほしい!!』だとか『(何にか忘れたが)誇りをもってほしい!!』と言われても全くピンとこなかった。
ワッペンをつけたり、子供向けの集会があったりというゴリゴリの同和教育は私が高学年になるより前くらいから一気になくなった。そのため、冒頭に『最後の世代』だと書いたのだ。
理由は、狭山事件の容疑者とされた人が仮出獄となったからだと思う。学用品がタダとかそういうのも、その頃からだんだんなくなっていった。
一世代上、私の母世代は、狭山事件が起こった頃に小学生くらいなので、大人になり、子育てをする頃までずっと続いたということになる。
母は私立高校を卒業しているが、『タダだった』らしい。無料だから私立高校を選んだわけではなく、公立高校に行く学力がなかったかららしい。高校の無償化なんてつい最近一部の地域で始まったことだが、これも『同和特権』のひとつだろうか。それよりも驚いたのが、自動車教習所の授業料も『タダだった』と言うのだ。私も運転免許をもっているが、確か教習所に入るときは30万円くらい払ったと思う。それもタダ?
それから、これは自分の家族にはいないが、市の公務員になれるルートみたいなものもあったそうだ。失礼な話だが、『この人、どうやって公務員になったんだろう?』と思うような人が、市の職員だったりした。
母も私と同じで、そういう環境で周りもそれが普通だったし、他のところのことを知らないので、疑問をもったことがなかったらしい。大人になってから、『あれは普通じゃなかったんだ』と思ったという。
江戸時代の身分制度の名残で同和問題や差別があるわけではないと、成長するにつれわかった。私が背負ったランドセルも、入学試験で特待生だったわけでもない母がタダで通った高校も、税金から…と考えたら、嫌われるようなこともしてるよなあ、知らなかったとはいえ…といつからか思うようになっていった。
その後、高校、大学と進むうち、部落差別っぽいものは時々あった。というより、特に悪気のない、同和地区に対するイメージを誰かが話しているのを聞くことがあったというくらい。
まず、『あのへんは治安が悪くて行くもんじゃない。どんなやつがいて何をされるかわからない。最寄駅で降りないほうがいい』と言っていたバイト先のおじさんとか。
確かにイメージとして、ガラ悪いとか治安が悪いとか思われがちだが、これが意外とそうでもない。麻痺してるのか慣れきってるのかとも思ったが、夜になると人通りはほぼなく、ガラの悪い人や治安を乱しそうな人もいない。夜の町は、『ここ?本当に関西の大都市?』と思うほど人通りもほぼなく静か。逆にそれが不思議だとか怖いだとかで動画サイトに載っていたりするが。
確かに治安がよくて人が住みたいイメージではないよなと長年思っていたが、最近では転入者も増えて、昔はボロボロの団地ばかりだったところに一戸建ての家が建ち並ぶようになった。相変わらず市営住宅が多く、整備されているものの見た目がほぼ同じ。スマホのマップが普及するより前は、宅配ピザの配達員さんが迷って電話をかけてくることもあるくらいだった。
そういう街はここだけではない。似たようなところをたまたま電車などから見ると、『あ、ここ…同和地区かも』とわかるようになった。
人生で、『あ、これが部落差別?』と思ったのは一度だけある。結婚のときだった。目の前でやりとりしたわけではなかったが、夫の両親は同和地区の嫁が来るのは嫌だと言っていた。私に直接言ったことはなかったが、義母から夫へのメールを見たら結構すごかった。
結局結婚したのだが、10年経っても『ほら、同和地区の人となんか結婚するから』みたいになったことはない。結婚を反対されたことを知った両親も、『まあ、そりゃ、どうぞどうぞ大歓迎ですってことはないよな』というような反応だった。従姉妹たちも同和地区出身でない人と結婚している。親である伯父と伯母は、娘の結婚相手の両親に出自を話したらしいが、それを理由に反対や差別はされなかったという。
私が昔受けた同和教育の題材にもよく結婚差別が出てきたり、同和の子は貧乏でいじめられて排除されて…みたいな内容が多かったが、思い出してみれば小学校の同級生には食べるのにも困るような生活をしている子は誰一人いなかった。それでも色々支給されたり…あれは何だったんだろう?と思う。
これもまた同和地区特有の話だと知ったのだが、とにかく近所の人達の情報を何でも知っている。私達世代はそうでもないが。今時隣の家の人のこともあまり知らないのが普通みたいな世の中だが、母より上くらいになると、『全くの他人のことを何でそこまで知ってるの?』と驚くほどだ。
私は聞いているだけのことが多いが、たまたま何となく会話にAさんという人が出てきたとする。たとえば私が『Aちゃんのお母さんが入院したんやって、Aちゃん大変そうで心配やなぁ』とか言ったとする。
すると母と伯母が、
『A?ああ、あの子な!うちの一学年下の子で旧姓増田やろ?増田のおっちゃんとこは立ち退きなる前は◯◯に住んでて、今団地入ってるやろ?おばちゃんは滋賀から来た人やったわ。Aは高校出て化粧品屋に勤めとって、学会の男の人連れてきて結婚して西宮のほう行ったけど、結局別れて娘二人連れて帰ってきてたなぁ。増田のおっちゃん怒ってたわ。あの子入院したんや、それは心配やな』
『増田のおっちゃん覚えてるわぁ、Aちゃんて姉ちゃんの一個下やったら、うちの二個先輩やろ?その子の弟がうちと同級生やねんけどな、中学の同級生のCと結婚して、夫婦で市に勤めとったから、お金持ってんで。団地出て関空とかあの辺りに家買うたらしいわ。増田のおばちゃん不倫しとったん覚えてる?近所同士でようやるわぁとかみんな言うとったなぁ』
こんな感じ。一体何の話だったかこちらが忘れそうになるが、私の友人の母親の実家事情を、同学年で仲が良かったわけでもない二人が知り尽くしている。
これは、同和地区出身者同士の結婚が多かったこともあるからかなと個人的に思っている。大人になってからは、では近所に住む誰かの会話に『私』が出てきたとすると、ここまで知られているのかとゾッとして、母に聞いたこともある。
『まあ、このへんやったらそうやろうな。でも、若い子らはそこまででもないと思うけど。うちの娘ていうことはみんな知ってるやろうし、行ってた学校ぐらいは知ってるやろな』
と、当たり前のことのように言われた。
同和地区も、私のように町並みでわかる人でなければあまり他の町と変わらないようになってきた。それに、顔を見たら同和地区出身者とわかるわけでも、戸籍を見たらわかるわけでもない。有名な同和地区が現住所や本籍であった場合はわかるかもしれないが。
解放会館も人権センターとか名前を変えた後、いつの間にかなくなった。『部落差別をなくそう!』『差別落書きを見つけたら云々』という文言が書かれた町内会のポスター掲示板もなくなった。私が少し通ったあの子供会もなくなった。
今でも、『住まないほうがいい町』とかググると私の地元が出てきて、理由に同和地区がどうのこうのと書かれているが、外から人はたくさん来ている。市営団地の入居者は全員知り合いだとか、市会議員や解放同盟のコネで団地に簡単に入れるという話も聞かなくなった。
実際、24年ほど住んだが、事件らしい事件のひとつも見たことがない。通り魔やひったくりに遭った人が近所にいようものなら3分で噂になるはずだが、これも聞いたことすらない。いや、別に『B地区とか犯罪がとかヤクザがどうの、治安悪いとか言われてるけど、全然怖くないですよ、町も綺麗で平和で、他のとことそんな変わりないですよ』とここで主張したいわけはない。
イメージしかない同和地区と、そこに生まれ育った私とでは、全く違うだろうなと思って書いたに過ぎない。
改めて、自分の生まれ育った場所を考えてみたとき、そこがたまたま特殊なところで、確かに差別されたり嫌われたりしても仕方のない面をもっていて、でも何だか『普通の生活の中で出さないほうがいい話題』のひとつであって…
何かそんなことを思って書いてみた駄文だ。
くどいほど多い
章とか節、ひとつひとつの終わりに必ずくどいぐらいの練習問題がある
あと、巻末とか別冊で大量の練習問題がある
原因が前者だけの人は単なる誤解や偏見なので損するわけだよ。
だって、受験勉強とか、スポーツで言うなら野球とかで特待生になるのと同じで、
社会に出て仕事で受験勉強や野球が役立たないとしても、社会的評価にはつながるわけで、
いわゆる学校の勉強、受験勉強も朝練があって、自主練があって、ひたすら身体にしみこむまで練習する、
練習すれば比例して勉強もスポーツも成績が上がり、社会的に評価されるんだから、
できない原因が後者の場合もあるけど、それはやってみないと分からないわけで、
逆に言えば、スポーツも勉強もできない、という人は理解できる気がする
それはどちらか一方が本質的に向いてないから、もう片方もできない
つまり、守破離の守の段階で、こんなことやって何になるの?と疑問を持ってしまう、投げ出してしまうとか、
あと、思い返すと、これが根本的に誤解を生む原因のひとつなんだと思うんだけど、
いわゆる「学校の教師」という人たちが、このことを理解できてない
というか、スポーツの方はスパルタというか、叩き込むべきだとは思ってる
しかし、学校の教師は、いわゆる学校の勉強、受験勉強も最初は叩き込むべきだと思ってない
お気遣いまで、ありがとうございます。
これは後出しでズルい話なのですが、高校受験ではそこそこの偏差値の学校の特待生をやっていました。
途中母が重度うつ病と肺炎を患い、その介護のため進学先は近場の専門学校にしたという経緯があります。
暴対法が出来てからは実家が貧しくなったのもあり夜はキャバクラで働いていました。
おっしゃる通りで、何かを器用にこなすことは昔から得意だったかもしれません。
「増田は他者に何かしら具体的なメリットをもたらさないと構ってもらう資格はないと考えてる」
これもおっしゃる通り、自分の精神にとって大きな問題だと思っています。
ひとりでいることはやはりさみしく、ついメリットをチラつかせてでも短期的に人を欲しがってしまう弱さがあります。
具体的なメリットをチラつかせる癖をまずは直してみようと思います。
細かい所で言うと、どんな相手にも食事代や贈り物にお金を使いすぎないことから始めてみます。
自信がありません。想像しただけですごく怖いです。
食事を奢らないで人と会うことなんて、私が連絡していいとは思えません。
なぜなら、幼少期から成人するまで私の衣食住はやくざものの父が違法行為や不法行為で作ったお金で賄われいたからです。
この体も心も頭も、社会や人々に還元しないと生きる資格なんてないと思ってしまいます。
怖いです。でも、普通の人に憧れます。普通になりたいです。そう思ってもいいものか自信はないです。
でも、一旦やってみようと思います。
ちなみに、第二志望は国公立の大学職員×2、第三志望は私立の大学職員だった。
私は地元の名門といわれる公立高校出身だが、高校の教員の大多数に嫌われたことが運の尽きで、学内の成績上位にも関わらず指定校推薦をもらえず、Fラン大学へと転がり込んだ。そのため、学歴コンプレックスは人一倍強いし、学歴フィルターが根強く残っていることも強く意識していたため、公務員試験に専念することにした。ちなみに、独学であった。
私は部屋の一番後ろの席に座っていて、前の人から適性検査の用紙が回ってきた。そして、私の分を含めて、3枚渡されたことに気がついた。すなわち、2枚多いのである。私は、「2枚余っています」と言って手を挙げ、試験官(自治体職員)に知らせた。すると、試験官は走ってきて、「どうして2枚持っているの!!!」と、私を怒鳴りつけ、二枚余った試験用紙を乱暴に抜き取った。私の席の周辺の人は、「?」という顔で私を見るし、私も「すみません・・・」と言うしかなかった。いかにも私が何か悪いことをしたかのような口調で言われてしまって、ただただ萎縮した。
ちなみに、他の学生のところでも紙が余ったことがあったが、怒鳴りつけられている様子はなかった。なぜ、私だけ・・・と思った。
「集団で行動した経験はありますか。エピソードを教えてください。」と言われた。
「はい。小中高、大学と色々と経験があるのですが、とりわけ印象的だったのは、中学での・・・・・・という経験です。」
「大学では無いのですか。」
「・・・無いです。でも、ゼミで数人で活動した経験ならお話しできます。」
「結構です。」
そう言って、試験官は私の面接評価シートに、私から見ても分かるくらいめちゃくちゃ大きく横線を引いた(評価「/」ということなのだろう)。
バッサリ切られてしまった。実は、私は、高校時代になかなか酷いレベルの嫌がらせを受けていたために人と関わるのが怖くなってしまい、大学時代にはサークルにも入らず、友達も作れずに、ずっと孤独でいた。そのため、「大学時代の集団行動経験」という質問への対策を入念に練った(就職支援課の方にもアドバイスを受けていた)。その結果としての、「たくさんあるけど~とりわけ~論法」であった。しかし、そんな論法は通用しなかった。とにかく焦った。焦りながらも、嘘をついたらその後を取り繕うのは無理だと思い、結局「無いです」と言ってしまった。「結構です」と言われたときには、体の芯から体温が奪われていくような感じがした。
話すら聴いてくれないし、なにより、大学での集団行動経験が無いがゆえに「評価マイナス」とは、なかなかの人格否定だなあと思った。
その女性の試験官に、「○○さんは、“大学では1人を好んで、というか、少人数で固まって”、コツコツ勉強するタイプなんですね」と言われたときには、私が言ってもない言葉を付け加えて、私の発言を悪いように変換してまとめたようだった。
私はただ、なんだかなぁと思うだけだったが、このことを親(公務員のきょうだいをもつため、公務員の実情を比較的よく知っている)に話したら、それは圧迫面接だし、公務員試験の面接なのに、民間の面接並に面接官が、面接官の主観で、学生が言ってもない言葉を付け加えてまで勝手に学生を悪く評価しているのか、と言った。
2回目の面接で、男性の面接官との冒頭のやりとりで怖くなった。
「このような面接は初めてですか。」
「はい。」
「先ほど1回目の面接がありましたので、これは2回目の面接になると思いますが、まだ緊張していますか。」
「あのね、緊張してるって言われるとこっちもやりにくいんだよね。」
「申し訳ございません、精一杯頑張りますので、どうかよろしくお願いします。」
就職試験の面接で、「緊張している」と言うと、相手から嫌みを言われるなんて想像もしていなかった。「緊張している」はNGワードなんだ、と不思議に思った。
そして、ガクチカ(学業)に関して、周りに指導者がいなかったこと、モチベーションを上げてくれる存在が居なかったから、自分で自分を鼓舞しながら頑張ったことを話した。
「つまり、もう一人の自分が自分を応援していたというか(失笑)、自分で自分をコーチングしていたということなんですね。」
と言われた。それはそうなんだけど、なんか二重人格者みたいな言われようだなぁ・・・とか、ここ笑うところなのか?とか色々思いながら、「仰るとおりです」と言った。
誘導尋問もなかなか多かった。
他者と接するときに気をつけていることを聞かれ、「相手の価値観を否定しない」とか、そんな感じで答えたら、
「では、○○さんがそう思うようになったきっかけというのは、あなたがそのようなことをされたことがあるからなんですか。」
と聞かれた。よく経験談とかエピソードとかを交えて答えるべきであると言われる。確かに、この場面でもエピソードを語る必要があるのだろう・・・たとえそれが"人に嫌なことをされた経験"であろうとも。
実際、先述の通り、高校では教員からも生徒からも完全なる人格否定を受けていて、普段から「キチガイ」「馬鹿」「アホ」呼ばわりされていたものだから、そのような意識(相手を否定しない)を持つようになった。結局、オブラートに包みながら、それとなく、そういうことがあったと述べた。
すると、その後の、"他者との関わり系質問"においては、「あなたがそういうことをされたから、逆にそうしないようにしようとしたということなんですよね?」と、まるで私がかつていじめに遭っていたことを見透かしていて、それを引き出そうとするかのような質問が続いた。さすがに面接官もやばいと思ったみたいで、
さらに別の男性の面接官から、「過去の辛い経験を深掘りして聞いてしまい、ごめんなさい。」と"謝られた"。"いじめられ経験を聞いている"という意識を持ったうえで、このような質問をしていたのだと悟った。確信犯だったのか。
細かく書くと長くなるので、トラウマになったポイントを簡単に挙げていく。
・ガクチカが学業で、特待生をとったという話を面接カードに書いたところ、「どれくらいの額をもらったんですか。学費の半分とか、全額とかありますよね。」と、野暮な質問をしてきた。
・マスクを外した上で本人確認をするのだが、顔写真と私の顔を"人差し指一本で指しながら"、目やら鼻やらを確認していたこと。
・面接で大学名を言ってはいけないと言われているところ、面接官は弊学に関して調べて知っているようだった(試験申込時には、大学名を入力している)。
・学業をガクチカにしたせいで、"優秀な学生であること"を鼻に掛けていると面接官に思われたようだった(女性の面接官「勉強がお得意なんですね~~」男性の面接官「特待生になることを狙ってたんでしょう?」と言われて、嫌みったらしいなと思ってしまった・・・)。
どこもESで落ちてしまい、第一志望の自治体での面接が人生初・本番面接だったからこそ、私は面接というものを甘く見ていたのだろう。自分が嫌だと思うことを聞かれたり、いわゆる「圧迫面接」が"常に"行われていたりするなんて、想像もしていなかった自分が馬鹿だった。それとも、自分が敏感すぎるのだろうか。これが「公務員試験の面接」なのかと、酷く落ち込んだ。
最初から話を聞いてくれなかったのは、論文で足きりされていたからなのだろうか。それとも、精神疾患か否かを検査する心理検査(試験官は、"あくまで参考にするだけです"と言いつつ、"嘘をつくと、皆さんに不利になります!"と脅してきた)で悪い結果が出て、不利に働いたからなのか。クレペリン検査で、少しがたつくくらいの、ほぼ直線を描いたからなのか。
身なりやマナーは、きちんと事前に学習したし、きちんと守った。これだけは、胸をはって言いたい。
このほかに、面接会場で、高校のときに私のことをいじめた首謀者グループの2人や、「キチガイ」呼ばわりしてくれた嫌なやつ1人(いずれも指定校推薦で名門大学入学)を見かけたことで、過去のトラウマがよみがえって、ますます嫌な気持ちになり、受験した「公務員試験」自体がトラウマとなった、ということも付け加えておきたい。ちなみに、いじめ首謀者グループのやつの目の前で、面接官にフルネームで名前を呼ばれたときには、四年間身を隠して生きてきた努力が水の泡になったと思い、辛くなった。どうか私の事なんて忘れていて欲しい。まぁ私のことをなめ回すように見てきたから、間違いなく覚えていたと覚えていたと思われる(他の受験生はジロジロ見てこないから)。
これから民間企業を探して就活しようかな、と思うけれど、日本で最も公平・公正に行われる、学歴フィルターもない公務員試験にすら落ちてしまうのだから、見込みなんてないだろうと思う。ESを出せば非通知のイタ電が増えて、それも嫌だから、躊躇する(実際に、選考期間だけ極端に非通知が多い)。内部進学での院進も躊躇する。どの先生も私のことを否定ばかりしてくる。
どこにいっても、私のことを少しでも肯定しようとしてくれる人は居ない。私に関して何も知らない人にも叩かれる。
そういえば、受験した自治体が、試験前に○庁イベントとして「座談会」を開いたので、それに参加した。
私は何もしていないのに、人事課のある方は、私のお礼の言葉を無視したり、私の質問を否定的に受け答えしたりした。ちなみに、私の質問はおかしなものではなかったと、大学の就職支援課の方は言っていた。後から同じ趣旨の質問をした、別の人には、丁寧にニコニコと受け答えをしていた。
この「座談会」のときから、第一志望の自治体の人から、嫌な思いをさせられていたくらいなのだから、よっぽどその自治体に縁が無いのだろう。
というか、その自治体の人になにか恨まれてるのかというくらい、トコトンヤられたな。
どうせ落ちるくらいなら、そしてトラウマになるくらいだったら、受けなきゃ良かった。
論文か適性検査(1日目)で足きりになっているのだったら、2日目の面接をする前から「落とす」と決まっているわけだから、2日目には呼ばないで欲しかった。
換気のない、カーテンの閉まった待合室に20人近く詰め込まれて、色んな人が少し長めにマスクを外したり(お茶を飲んですぐマスクをつけるのではない。マスクを外して、お茶を飲んで、お茶を鞄にしまって、一息ついて、しばらく外して休んで、ようやくマスクを着けて、という感じである。)鼻をすすったりする人がたくさんいるなかで、30分以上待たされて、コロナ感染が怖かった。
緊急事態宣言がでている中で、就活だから、と言って外出する罪悪感があった。
交通費、スーツのクリーニング代、その他もろもろの費用が、もったいなかった。
どうせなら、論文と適性検査を、筆記試験のときにまとめてやってくれた方が経済的だ。
被害者面をしたいわけじゃないが、さすがに今回の第一志望の自治体の公務員試験は、トラウマになった。この経験を通じて得たものといえば、絶望感、疲労感、過去の負の記憶の再燃による心的外傷くらいか。
母に姉ちゃんから話してみてくれーって言われたんだけど、何を言えばいいんだろう?普段そんな話さないし。
弟は頭がいいし、就活しなきゃいけないことくらい分かっているはず。
高校は私の行っていた所のワンランク上だったし、浪人して名の知れた大学に進学した。
進学後も学部?学科?の特待生に選ばれたり、国家資格を取ったりしていた(と聞いた)。
私は大学進学と同時に実家を出たから、よくて中学・高校までの弟のことしか知らない。が、学校や部活は休まず行っていたし、友達も普通に多かったと思う。彼女なんかも確か居たんじゃないかな。
最近だとキャンプとか釣りとかにハマっていたらしいし、そういう明るい方面の友達も居たってことだろう。私自身は普通の根暗ジャニオタだから、少し羨ましく思っていたところがある。
3月に実家に帰った時はリクスーを着て朝出かけていくのを見たから、その時は就活をやっていたっぽい。面接を受けたという話も少しだけした。
母が言うには「やりたいことが何もないから、何もできない」「働くことに意義を見出せない」ってなってるらしい。まあたしかに弟には少し無気力というか悪い意味で飄々としてる感じはあったかもしれない。ゼミの教授やらハローワークやら大学の就職支援課の所に行ってみたらしいが、「やりたいことをやれ」と言われるだけで何も意味はなかった、と弟は言っているらしい。私は就職課を頼りまくった経験があるから、そんなことはないと思うのだけれど。大学によって違うのかな?
そういえば、私が就職した時に「姉ちゃんは凄いよな〜」ってケーキ買ってくれたことを思い出した。そんなことねーよ…って思ってたけど、あれってもしかして自分が働きたくないから言っていたことなのかな。そうだとしたら、無理やり働かせるのも酷な話だとは思う。まあけど、弟がニートってのもなかなか辛い。別にいいんだけどね。
このままだと母と父が悲しむよ、と言うことが一番最初に浮かんだけれど、そんなことは弟も分かっているだろう。ていうか既に誰かに言われていると思う。国家資格を取得したならその職業に就けばいいとは思うが、きっと面接で駄目だったりしたんだろう。母からの情報が断片的すぎてよく分からないが、かと言って弟本人に聞くってわけにもいかない。単純にめんどい。
とはいえ弟のことは嫌いではないし、むしろ心の中では可愛がっているから、どうにかなるならどうにかしてあげたい。就活に起因する心の病気なのだとしたら受診を勧めたりすればいいんだろうが、実際の様子を見てないから何とも言えない。
どうすべきかな〜!うーん悩む……。
ーーーーーーーー追記ーーーーーーーー
お姉ちゃんいっちょやったりますよーって感じて弟に電話してみた。3回かけたら出た。声とかはやつれてる感じもなく普通だった。睡眠は怪しいがご飯はちゃんと食べているらしい。
で、就活は30社くらい受けて全て落ちたらしい。大手病ってわけでもなく地元の普通の中小も落ちたと。
どうやら普通の企業の求めてる人物像が自分からかけ離れすぎてて嫌になってるらしい。説明会や面接でキラキラしたことを言われると辟易してしまうらしい。そこは頑張って笑顔取り繕って合わせろよ、って言いかけたけどやめた。30社も受けてればそれくらいの対策は試みただろうから。
ゼミの教授や相談した人からは軽めな性格やら人格の否定と「そんなんじゃ働いていけないよ」「働かなくてもいいんじゃないか?」「あなたの哲学はどうでもいいから働きなさい」というお言葉を頂いたらしい。弟はそんなに酷い奴だとは思わないのだが。
夢とか目標は何もないんだって。大学も別に行く気はなくて進学校の周りに流されて行っただけで、やりたいことがあったわけでもない。たまたま今まで運が良かっただけで、自分は何も出来ない人間だと昔からずっと思っていた。周りの友達が就活を終えても特に焦ったりもしなく、「あぁやっぱり自分は駄目なんだ」と納得してしまうと。面接で落ちる度に逆に安心したのだと。今まで周りに合わせてばかりで自己表現を禁じてきたのに、今更自己表現をしろと言われても困ると。本心なんて分からないのだと。そういう風に考えることで甘えを誤魔化しているのは分かっているけど、とにかくもうやる気が湧かないのだと。親に申し訳ないし、このままってわけにもいかないのは分かっているけど…ということらしい。
自己肯定感やられてるっぽいよなぁ。弟の言っていることが正しいとすると、それも昔からってことだよなぁ。あなたはすごいすごーいって褒められても、何も感じないんだってさ。「他の周りの人に大したことないって言われるから」だってさ。そんな人間の言うこと信じるな〜って言っても、生返事だった。
弟はやっぱり真面目すぎるんだなぁ。いろいろと適当でいいのに。適当でも何となくやっていけるのに。
無駄に考えるのをやめさせたいとは思ったけれど、説得は無理だよなぁ。私にも気持ちはほんの少し分かるけど…まあとりあえず死なない程度には元気そうで良かった。私にはどうにも出来そうになかった。メンタルクリニック行ってみたら?って言ったら親に申し訳なくて行けないだってさ。
サークルに才能の塊みたいな先輩がいた。とにかく誰よりも耳がよくて、一度聞いた曲を再現できるような人。ピアノ以外にもギター、ベース、ドラムの他管楽器も演奏できたし、なにより先輩の音楽はとにかく感情にあふれていて、人柄もよく、誰よりも楽しそうに楽器を鳴らす姿は部員みんなの憧れだった。あまり家が裕福じゃなかったそうで、美大なんてもってのほか。仕方無しに家から近いこの大学に特待生として通っていたと後々聞いた。
先輩は大学を出たあと、大学のレベルでは考えられないくらいいい会社に就職した。先輩は頭も良くて努力家だったから、会社でも出世を見込まれたみたいで、入社して数年後には海外へ行ってしまった。忙しくて音楽に触れる時間なんてなかったようで、この前会ったときにはただのアラサーのサラリーマンになってた。何よりここ数年楽器に触れてないと聞いてショックを受けた。
先輩が大学を出たのと同じくらいのタイミングで、私の組んでたバンドが徐々にあちこちでライブできるようになった。ツアーだって経験したしそれなりの規模のフェスにも乗った。ただ、自分たちの音楽は先輩がちょろっと弾いた即興の曲に勝てる自信がない。実際に先輩は学生時代に映画やドラマの曲を幾つも手掛けてたし、部室で適当にセッションしたときのあのフィーリングは明らかに才能のある人のそれだった。社会に出ても音楽を続けていたら、絶対に私達より有名になったはずなのに。すごく悔しい。
もう親の立場になる年なんだけど、未だに自分の親がわからないし、信頼関係も回復しきれていない。
通っていた高校は、2年生で社会科選択科目で、3年生で文系理系でクラス分けをするカリキュラムになっていた。
とはいえ、3年の理系文系を見据えての2年の選択科目なので、2年のクラス分けで9割方進路が決まる。
履修希望は前の年度の年末くらいに出すので、1年生の秋には大体の方向性を決めなきゃいけない。
大学に行くなら浪人も下宿も不可といわれていたので、志望校も限られてしまう。
薬学部は、家から通える国立大学はまず無理。私立なら学力的には大丈夫だけど学費が高い。
法学部ならなんとか国立も視野に入るか・・・と悩んで親に相談したところ、「学費は大丈夫だから頑張りなさい」と言ってくれた。
毎年の三者面談でも進路の話をして、東京近郊の私立薬学部中心に国立も受験してみようということになっていた。
最終的には、国立C判定。私立ならいくつかA判定出てたから、大丈夫かな・・・と思っていた。
明日からセンター試験という夜に、軽い口調で親が言った。「国立しかダメ。私立は受けてもいいけど学費払えないからね」
本人大混乱。
呆然としつつもなんとか試験を終えて、話し合ってわかったこと。
私が難易度や学費やその他諸々の説明をしたのは、聞き流していた。学費はノープランだった。最初から。
出願後に学費を見たら、国立はともかく私立は払えない。だから諦めなさいと言った。
つまり、受験結果の如何にかかわらず、私立の薬学部への進学は無理。国立ならまだいいから頑張れと。
そりゃー信頼関係なくなりますよね。どうして土壇場でひっくり返すのか。今までの話し合いはなんだったのか。
結局、国立は落ちて私立はいくつか受かったけど、もちろん進学出来ない。
気持ちを立て直して、2月中旬から出願できて学費の比較的安い私立の工学部に出願、合格して進学。
工学部は第三希望ではあったので、進路変更ギリギリセーフというところか。
親御さんにお願いします。
子供に経済的な話はしにくいかもしれないけど、ちゃんと伝えてください。
方向転換は後になればなるほどつらいし、対処も大変になります。
あの目の前が真っ暗になるような大混乱は誰にも体験させたくない。
【追記】
・センター試験の前に私立に出願していて、お金払ったのに受験しないなんて!と親から詰られたため、受験はしました。
・その時点から出願できて費用・場所的に通える学校のうち、学ぶ内容に興味が持てたのが工学部のその学科だったのが選定理由です。
・薬剤師か弁護士になりたかったので、薬学部と法学部の2択でした。薬学部がダメなら医療系なら何でもいいとは考えもつきませんでした。
・学費は国立分と同額を親から、あとは親戚からの借金(入学時費用)と奨学金とバイト代でまかないました。借金は入学後にバイト代で、奨学金は卒業後分割で返済済み。
・薬学部の学費が高いのはわかっていたので、具体例を挙げて親に相談していたのです。厳しいなら特待生制度とか志望学部をを変えるとかも伝えての「大丈夫だから」でした。
下五が「りぶりぶり」だったら特待生もあり得たのに勿体ない