はてなキーワード: 特待生とは
原因はaKBあたりからだと思うよ(上手い人もいるけど、ゆきりんとか)
韓国上手いっていってるけど、口パクが殆どだよ。btsは生歌っぽいけどBLACKPINKは被せじゃないかな。たまに生歌披露して酷くて叩かれてるよ〜個人的にはあんな激しいダンスしながら顔もキメてるから歌下手でもしょうがないかな〜って思ってるよ。
今現在歌が上手いアイドルを求めるならベビメタが1番じゃないかなぁ〜スゥメタルちゃんはマジで上手いよ。さすがaksの特待生ってだけあるよ。
あとハロプロとかスタダは、上手いかどうか別として生歌だよ(上手いメンバーもいるよ、)下手だと酷評されて毎回可哀想だよ〜
地上波で有名なアイドル(NiziUとか)が生歌で酷かったりすると、後々めんどいんじゃないかなこのご時世。アンチとか、それ以外にもネットで自由に感想書く人いるし。
https://note.com/__carpediem___/n/nba61eb70085a
この記事を拝読して少し思うところがあったので初めて記事を書いてみる。
先に言っておくが、筆者を批判する意図もないし、世の中に何か伝えたいわけでもない。
ただ、自分の境遇を書き殴り、あわよくば共感してくれる人が現れることを期待しているだけだ。
ちょうど増田なら周囲のノイズ情報から人間性を邪推されることもないし、純粋なぼやきを書くのに最適だろう。
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筆者は田舎の一般家庭という途轍もないギャップを必死の努力とそれを土台とした更なる努力の積み重ねで乗り越えようとしている。このまま突き抜けて欲しい。
が、世の中にはそう上手くいく人ばかりではない。
たまたまちょっと頭が良かった田舎者が、分断された世界を乗り越えようとするも、中途半端な努力のツケが回ってきて手前の谷底に落ちて沈むこともあるのだ。
私も北関東の片田舎の公立中を卒業し、そこから紆余曲折あっていわゆる高学歴層である東京の大学に進学した。が、それは努力の放棄の結果でしかない。
「成功率1割未満の綱渡りを何度も繰り返して辿り着いた先には、そこが『スタート地点』の奴らがゴロゴロいた」なんて経験は彼女からすると慣れたものだろう。
だが、私はそれを高校進学で体験し、そこでまさしく「人生を賭けた」努力を放棄してしまった。スタートラインが高い奴に勝つには一点集中しかない。一点集中は苦手だ。
小中学校は地元の公立だった。この手の記事で紹介されている事実に相違ない。付け加えるとしたら同級生が暴行で少年院に入り、卒業生がバイクで学校に乗り込んでくるし、喫煙率は中学生の時点で1割ぐらいだったということぐらいだろうか。
そんな中学校だが、3年時の学年主任にまさに世界の分断を教えられ、県内でも都会の子供たちが通う私立高校への進学を勧めてくれた。(彼の息子さんがその高校の先輩で、今は東大を卒業して超大手メーカーで働いているらしい。息子さんは分断を乗り越えた。)
受けてみたら運良く特待生になれた。当時好きだった子が先に同じ高校へ進学を決めていたし、修学旅行が海外だったので親の許可をもらって進学を決めた。
(ちなみに中学の時一番勉強ができた奴は地元の公立高校から東大に進学し、今頃は公認会計士の試験に通っているだろう。彼も分断を乗り越えた。)
高校に進学していきなり衝撃を受けた。
まず、ブルーカラーの家庭が我が家しかない。みなホワイトカラーで高給取りの子供だ。余談だが私はそれを嫌だと思っていないしむしろ世の中の為になる仕事で稼いで育ててくれたことに感謝している。だが、どうしても育ちの違いはある。言葉で表現するのが難しいが、見た目・行動・趣味の全てに清潔感があり、上品さがある。
なるほど育ちの違いとはこういうことかと初めて身を以て理解した時だった。そして同時に思った。「こんなに育ちが良くてなおかつ才能もある人間に勝てるわけがない」
当時私はITエンジニアになりたいと思っていて、理系に進んで情報科で院進して…なんていう未来を思い浮かべていた。しかしおそらくこのまま理系に進んでも中の上ぐらいにはなれるが秀才・天才の類にはなれない。
そんなことを思って文系に進んだ。これが1つ目の努力の放棄だ。
文系でもSEとしてITの世界に入る道はあったから、最終的に同じような結果になる以上他の選択肢も広い方がいい。そう思って文系で高学歴を目指した。
といっても受験勉強はそれなりに頑張ったつもりだったし、結果的にはよいものだった。が、東大を受けなかったことはその後の努力を放棄することに繋がる。
東大に入ればもっと育ちの違い・地力の違いを認識させられる。しかも大学に入ってからも受験勉強のような厳しい勉強が待ち受けている。受験勉強で懲り懲りだ。そう思って東大以外の大学を受けた。
(ここでも自分が勝てなかった奴は東大に合格し、今頃は官僚になっているだろう。彼も片田舎から這い上がった。分断を乗り越えた。)
結果として受験は上手くいき、予想通り合格した。そして大学に進学した。まあ、そこも世間一般的には優秀とされている大学なのでありえんエグい育ちの違いを見せられるのですが…。
就職活動を通して思ったことだが、田舎から生産されるべきは理系の秀才であり、文系のエリートははっきり言って求められていない。というよりかは結局育ちの良さとコミュ力の高さとある程度の頭の良さと整った顔面が求められているので、そんな遺伝子ガチャを田舎で成功させることがまず無理に等しい。遺伝子ガチャに成功しても育ちの良さをカバーするための努力は尋常じゃない。冒頭の記事の筆者はそれを実現しそうなところまで来ている。本当に頭が上がらない。
https://anond.hatelabo.jp/20130809115823
そういえば高学歴の世界・低学歴の世界なんて言葉もあったな。どうも田舎の公立中を卒業して必死に努力して都会の旧帝大や早慶に何とか入った人間には、こうやってエリート層と底辺層との分断が実感を持ってのしかかるものらしい。
地元の公立中を出た人間が、初めて都会の人間と高校で交わり、そこで夢に向かって成り上がる努力を放棄した。次に大学進学でも妥協し、やはり頂点を目指す努力を放棄した。
周囲の「普通」を見ると出生ガチャの時点で勝ち目がなさすぎるし、一方で同じような境遇の人間は信念に裏付けられた本物の努力で分断を乗り越えている。
どちらもない自分はそんな分断を乗り越える人間のライバルとして花を添えることしかできなかった。
一方でたまたま周囲の人間には恵まれ、人生そのものはコスパよく楽しくやっている。結局はずっと興味があったITの世界に入れることになったので(結局のところ分断は乗り越えられず大手の子会社だ)、これからもトップを目指さずに成功とも失敗ともつかない谷底の人生を歩んで行こうと思う。
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最後に、「この割れ切った世界の片隅で」の筆者はまだ高校生らしい。これからも私には想像できない、耐えられないような苦労をたくさんするだろう。我々のような屑の屍には目もくれず頑張ってほしいです。最後の最後まで勝ち残った時にはきっとその境遇が誰にも負けない強さとなって味方してくれるはずだから。応援しています。
幼少期に家に本があり、勉学をする環境が整えられ、何より食べることに困らなかった人間が憎い。
私はとある部落に産まれ落ちた。教養も常識もない。最近になり人間は1歳ではなく0歳で産まれてくることを知ったほどだ。幼少期は食事にありつけないことも少なくなかった。
物心ついた頃には母親はおらず、父には毎日暴力を受けて育った。
就学前の教育は一切なく、小学生になってからも部落生まれと忌避された。給食費等は父が払ってくれなかったので教師からも疎まれていたように思う。とにかく周囲の人間はすべて敵だったように感じていた。
何も与えられなかったが、知能と運動能力は著しく高かったと思う。
程なくして才能を見出され、野球を始めた。能力は高かったので、私がいれば勝てるという理由で月会費をチーム内の父兄が負担してくれた。父が野球をしている私を見に来ることはなかった。
ただ、なんとか野球を続けることができたおかげで、中学時代は関東ではそこそこ知名度のある選手となり、県外の高校に特待生として進学することができた。父は中学を出たら働き手として収入源にするつもりだったようで猛反対していた。
やっと親元から離れることができた。高校では寮に入り野球漬けの日々を過ごしていたが、勉学にも懸命に励み、スポーツ馬鹿の偏差値の低い高校ではあったが、定期テストで学年1位を譲ったことはなかった。
野球の方でも一定の成功をしたので特待生で大学からのスカウトもあったが、将来を考えて一般入試でのいわゆる高学歴、難関大への受験をした。父はもちろん怒り狂っていた。
このあたりで母親と再開した。記憶の上では初めて会う母は、貧しいにもかかわらず私の大学受験を支援してくれた。
結果として受験はまずまずの結果で、当時偏差値70前後の私立大学に合格することができた。野球しかしてこなかった人間としては上々だろう。
もちろん私立大学の学費など身内の誰も払うことはできないので、私は700万円の借金を背負い大学進学をした。大学では飲み、賭け、遊ぶ、模範的な生活を送った。この頃から父の存在は頭から欠落している。
その後大学名から言えば当然程度の大手企業に就職し、働くようになった。
ここから社会に馴染めない私の人間性とそれを醸成した環境の劣悪さに気付き、同時に「マトモ」に育った人間への嫉妬と憎悪が芽生え始める。殴られないように父の機嫌を取っていた卑屈さが、幼少期に教育を受けられなかったせいで常識やマナーが欠如している点が、他者の反感を買い、実社会での孤立を招いている。
温かい家庭で育てばこんなことにはならなかった。努力できるレールが敷かれていればもっと良い企業に入っていた。環境が憎い。豊かに育った人間が憎い。愛されていたかった。愛とはなんなのか。お前ばかりなぜ愛されるのか。というように、環境から自分へ、自分から他者への憎悪へ、姿を変えて何かを恨み続ける人生を送り始めている。
見かけだけは普通の人間を演じている。怒りや憎しみを抱えながらも。
私はこのまま何かを憎み続けて生きていくのだろうか。
増田読んでると色んな人の生活とか人生観とか色んなものが見られてすごく面白いから自分もまとめてみた。
正直事務とかふつうの仕事は無理だろうなと高校のころからうすうす思っていた
注意欠陥までいかないと思う…けど、色々と普通のことが普通にできないからだ、銀行とか絶対無理なタイプ
ていうかコンビニバイトも無理だったしスーパーのレジ打ちもおぼつかなかったし後述するけど倫理観がちょっと常人とくらべてガタついてるところもある(あった)おまけにコミュ障すぎずコミュ強でもないが自分はセンスいいと思っている最悪な部類のやつだった
進学高でもなんでもない普通の学校で成績は中の下か下の上だったので受験ははなから選択肢になくなんとなく選んだ専門学校に行ってた。学費免除の特待生は受からなかった。
うだつの上がらないままコネで待遇もよく確認できないまま新卒入社したところは所謂技術職で入った、専門学校で勉強してたのとは全然関係ない仕事だった
初任給10万切ってたけどはじめてお給料もらえた時はめっちゃうれしかった。仕事ぶりはというと今振り返るとはっきり言ってかなり低能で、つかえねー部下だった
生意気な口ばっかりきくし特段仕事ができるわけでもない…人望もない…若いだけのクズ…デブ…ミス多い…でもその割に上司はふつうに接してくれたと思う
激務すぎてやめた、社内のやりたい仕事へのルートすら能力が足らなくて開けないし、かといって激務のなかでこじ開ける努力をするのは困難と感じたのもあった。あとなんか2年目くらいからストレスのせいかめちゃくちゃ太りはじめて怖かった
でも4、5年くらいいたかな…お世話になりました…まじで…10万ちょっとで月400時間くらい働いてたと思うけど…感謝…
こっから流浪の派遣生活が暫くつづく、この期間が暗黒、黒歴史、一番社会人としてやばかったと思う
度を越した長時間労働・低収入だったから派遣になったとたんもらえる賃金と自由に使える時間が爆上がりしやっと一人の人間になれた気がした
それはいいとして、そのうちの一社で業務中に別のことに夢中になってたのがバレて(犯罪行為ではない)即効契約終了になったりしたのも懐かしいが、っていうかほんと今考えるとありえなすぎる
でもこれやりたい!と思うと我慢できなくなっちゃってたんだよな、我ながら怖すぎるだろ
他の就業先でも契約満了になったの直接いわれてないけど業務中のネットサーフィンがどうしてもやめられなくて、あれが原因だったんだろうな
どうも破滅するってわかってるのにそれでもやめられないみたいなところがあり、本当に怖い。今は加齢して枯れたのか人間としてちょっとましになってきたのかここまでやばいことはなくなった
暗黒期はそれなりに長かったが色々あって収入は増えたはずなのに初期はとにかくめちゃくちゃ金がなかった、お金なくて100円の野菜買おうかどうか腕組みして棚の前で15分くらい考えるくらいには金ほんとになかったよ、よく生きてたな実家帰れよって今なら思う。
理不尽なのはそれくらい貧乏だったのにデブはそんなに変わらなかったこと
そっから一応技術的な成長とか将来性とかも考えて直雇用で転職したが…次はまあなんかヤンキー体育会系ベンチャーって感じだった。2年半くらいはいたかな
つるんでる会社もまあ数年前は話題になってたけど近年は資金繰り悪いとかそんなばっかで斜陽、パッとしない感じだった。だっさ…ていうか情弱かよ…?って正直思ったりしていた
なんか体質的に合わねーな、ハッスルハッスルしすぎだろ、ていうのが決め手になってやめた。あんまり自分のスキルアップも見込めなかったし
ベンチャーって社長のワンマンだけど「一緒に目標に向かって頑張りたい」と「なんでお前のキラキラストーリー達成のために自分の時間を搾取されなきゃいかんのだ」の差はどこに出てくるんだろうね
体育会系の方法論って小規模から成長するときには有効というのが傍でみててよくわかった、しかし理解と自分に合うかどうかは別
やめた後も薄目でみるかぎりスケールしてる(っぽい)のは素直に何よりです、みなさまとプロダクトのご多幸を影ながらお祈りしております
やめたあとは半年くらい充電休暇しつつ勉強しつつ転職活動だったがまあ引っかからなかった
今思えばお祈りあたりめーだろ、って感じの間違った自己アピールしてたな。その時採用試験受けて落ちてしまったけど感じのよかった企業は未だに好感度高い
ここで暇だから自宅で筋トレしてデブは脱却した。管理ハイになると体重って結構落ちるね、ほんとハイになりすぎて必要ないとこまで絞ってしまい風邪ひきやすくなったりコスパ悪くなったので計画的に太った。すぐ戻った。BMI31→19.5→23。いまはもうちょっと太ったかもしれない。わからん。体重計乗ってない
話がそれたが手元に残ったのは人材紹介から紹介されたまあ今までの経験は活かせるがガラパゴス業務、母体はでかそうだけど成長につながらなそう…って感じだったのでしかとしてたが、いよいよのっぴきならなくなってきたのでそこに行くことにした
試しに100万弱年収アップ交渉してここは割りたくないって言ったら満額じゃないがまあまあ通っておいおい~まじかよって衝撃だった。逆に元々どんだけもらってなかったんだよってこれまでの自分にちょっと引いた
そんなこんなで最初に配属された部署でいじめにあう、3年間くらいかな
配属されたてのころにここでそんなこと言うなよなってレベルの失言をうっかりしたことがきっかけでまあ詳細は割愛するけど地味なやりかたでいじめられたわけだが逆にここでメンタルは相当鍛えられた
いじめてくるやつの仕事ぶりを見て絶対自分のほうがうまくやれるって思ったし実際自己評価でしかないけど絶対自分のほうがいいものを作れてた
自分もいじめてくるやつも役職なんかついてないヒラで(いじめてくるやつのほうが年上で年次は上だったが)上司は公平でいてくれたのは助かった。技術職は仕事で自己満できるのが相当強いな
でもいじめは理不尽だしつらいし鬱一歩手前で家に帰ると何も手につかず風呂に入れなくなり汚く臭かったので上司面談されたりしてたが
これを念じてたら頑張れた。いじめのせいで仕事休んだことなかったし(休んだりやめたら負けだと思った)仕事をかなり前倒しして仕上げて自己肯定感爆上で帰路につくのが超幸せで、今までで一番万能感に溢れてたな。家につくころには次の日の朝がいやでまたつらさが襲ってきたが。いじめられてて汚いが退社するときはめちゃくちゃ自己肯定感はあるというねじれ構造だった
世間はこれをたぶん自己満て呼ぶんだろうしうるせーなその通りだよ、でもあの時の周りの人たち本当にごめんなさい。意味わからんときに涙だけ出てたりしたしカオスすぎた
ちなみにいじめてた奴はどっかにいるはずだがそれから社内でみることはあんまなかった。今は涙もでないし風呂も入れてる
そんな数年を過ごした後何回か移動もありつつ新しい仕事が降ってきた。自分で色々精査してるうち結構デカい案件に育ちそうだなーって思った。わりに普通の小規模案件として扱われててとくに注力しなそうな感じの雰囲気が漂ってた
適当にまわせばいいから、ってかんじでなんも社内資料とかなくて、まじかよってなりながら時間つかっていい許可もらってめちゃくちゃそのへんを整備した、例の一件で属人化には懲りてたから
(いじめてくるやつがそういうのに関心が低く年次が上のやつが口伝していくみたいなクソ状態だった、今思ったけど自分の地位をキープするためわざとか?!)
そしたらなんかそのへんが評価されたらしく、その案件がでかくなってきたのとまあいい歳だったのもあり管理職になった。なったが、仕事は増えてるのに一向に給料があがんねーーー!!!!バーカバーカ状態
なのでもらってる金以上の仕事はしないっていうのが確固たる信念になってきた
言いかえると会社には何も期待しないし程々手を抜いても回るように整えていくって感じ、逆に効率化重視の動きに割り切れて自分はやりやすくなった
(会社にはめちゃくちゃ自分の就労倫理に基づいてそこまで求めてないやろってくらい根詰めて働く人もいるし、いろんな働き方をする人がいるからいい塩梅で回ってるのかもなって思う事も多々。自分みたいなのばっかりでもダメだしオーバーワークばっかりもだめだろう)
でも管理職ってやってみると結構面白いなと思うようになり、色々好き勝手暴れまわってたら任される仕事が増えてきた。
このへんで給料がぽんと上がりはじめる、管理するようになっておお、って額が昇給してた。おお、は単に今まで塩だった反動ではあるがなんのかんので前のわっしょいベンチャー退職時より1.5倍くらい年収あがったから運がよかったとしかいいようがない
でまあ半年くらい前にもうちょっと上の役職にならんか、と言われた
評価されたのは管理の実績らしく、業務としてはそのへんの割合が増えてくるってかんじらしい。おちんぎんがどうなるかはブラックボックスだって言われた。なんでだよ、最早期待してないからあがるかどうかはどうでもいいがそういう無責任な不透明さが本当に嫌いだよって辟易通り越して悲しくなった
でもなーー、管理もおもろいけどもうちょっとプレイヤーでいたさもあったからスキルの棚卸のついでに転職活動してみようかな、と考え始めた
自社で使ってたBtoBサービスが使いやすくて、最初になんとなくその会社のサイトみてたら募集があって風通し良さそうだなと思ったから
気軽なかんじでオープンポジションで応募したら受かった。面談も自分にフィットしそうな内容で、やっぱ職ある状態の転職活動は御社が転職に値するかこっちも見極めますよ、って側面もあるから楽だった。不採用になっても受けてみてよかったなあと思っておでん食べてたら採用通知が来た。他のところは今回受けてないから転職しよっかなーから採用まで一か月くらいだった。働いてた会社は淡々と退職期間に入ったけど、社交辞令でも最終日に上司や同僚がつらかったら戻ってこいって言ってくれたのは嬉しかった
転職先は新しい領域もいちからはじめないとなのもあり提示された年収だと手取り若干減りそうだけど手当が色々あるらしいからとんとんくらいか、まあ減額でも前職より学習環境は良さそうなので全然メリットある。あとする気ないが今まで見なし含だった残業代が出る。まあ昇給機会が多いそうだから健全な会社ならなんとかなるんじゃね?でもコロナもあったし無理かな、まあいいや程々にやってくぞ、8月からまた1年生だ。
まあダメだったらウバーイーツの配達員とかも楽しそうじゃん。何個か仕事かけもちも良さそうだしご飯ほどほど食べれて雨風しのげればいいよ。
③職歴振り返るとその時周りにいた人に改めてお礼を言いたい気持ちになった
④失言が多いな、気を付ける
⑤文章を書くのは面白い。特に誰にも話せないことを書きちらすのは気持ちいい
⑥働くのは面白い
いい年のわりに未婚で恋人もおらずで友達3人くらいだが今のところそれで自己肯定がそんなに損なわれることはない
とくだん年収がめちゃくちゃいいわけでもなんでもないし子供のころからめちゃくちゃやりたかった仕事でもないしほどほどに会社というものが好きで嫌いだが
低収入だろうがハゲだろうが童貞だろうが処女だろうが空気読めなかろうがギャンブル好きだろうが非正規だろうが正規だろうが
ひとに迷惑かけず犯罪行為もしてなかったら自分がアガってる状態キープできてるなら別に何でもよくない?
そりゃ自己肯定のもとが人によって仕事だったり家庭もつことだったり子供だったり配偶者か自分の稼ぎだったり趣味だったり恋愛だったり、もっと別のことかもしれん。将来の不安する必要がないとか…?他にも色々あると思うけど。
まあでも自分は持ってるスペックにしてはよくやってるよな(他からの評価は知らん)ていうのが強い、結局自己肯定最強だなって振り返りになりました。全部前職でいじめてきたやつのおかげかもしれない。感謝なんか絶対しないが勉強にはなった。
日本社会は「あたまのいい子の育て方」がこんなにも下手になってしまったんだね
理由はわかってる
エリートの子弟への「これくらい普通にできるやろ」偏見にどっぷり頭まで漬けこまれたのがおまえだ
(金と名前をかける程度の学力があれば受かるし、なんなら進学校からなら特待生も鬱でもたいていとれる)
まわりにはどうしても「ウパニシャッド哲学」か「王の書完全翻訳」か「完顔阿骨打の生涯を探求」くらいの
素人には全くわからないものを選んで、どうしてもどうしても死んでもやりたいって口先三寸でまるめこめ
地方住みなら選択の余地がないから郊外の私立大学の教授の専攻みてえらべ
ゼミをもたなくなることがあるから若いけど覇気はないくらいのやつでいい
宗教にひっかかったようなもんだが大学の看板さえあればそれでいい
世の中はコロナ
昼間に起きられず登校もしなくても動画とレポートで卒業単位くれる大学が放送大学以外にもいっぱいあるぞ
あつまって酒のんで騒ぎたくてもできないのは他の元同級生もおなじはずだ
SNSで流れてくるのは虚勢だ
私は妹だ。できのいい妹だと言われてきた。
ずっと「お姉ちゃんは性格がいい、妹の○○(私)は頭がいい」と言われて育てられてきた。
お姉ちゃんは思いやりがある、お姉ちゃんは優しい、お姉ちゃんは芸術のセンスがある。私はワガママ、人を思いやれない、勉強はできる。
「勉強はできる」に縋りついていた。姉が何度学校をドロップアウトして、そのたびに親がせっせと違う学校に入学金を払おうが、私はずっと特待生だった。「勉強ができる」ことだけが支えだったから、学校のテストの朝はプレッシャーでいつも吐いてた。
就活をする歳になり、「もしここで良い会社に就職ができなければ、私の取り柄が消えてしまう」という不安でしにそう。本命の会社、ついに面接会場に向かう途中で、足が震えて立てなくなった。
道端にしゃがみこんで、お姉ちゃんに電話した。お姉ちゃんはお昼休憩中だった。
私は泣きながらもう立てない、歩けない、面接に行けない、といった。お姉ちゃんは、「大丈夫だよ、お話しながら行こう、もし行けなくても大丈夫、お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、どんな○○でも大好きだよ」といってくれた。
それでで、私は、なんとか面接会場にたどり着くことができた。
厳しい両親だったので塾には行かせてもらえなかった。学習塾には中3の秋からようやく通わせてもらえて、頑張った高校受験でたまたま偏差値の高い学校に進めたからか、もしくは父親は塾に頼らず大学に合格していたのも「受験に予備校は不要」と錯覚させた要因なのかもしれない。いずれにせよ、人生の方向性を大きく決めるであろう大学受験にはノーガードで挑む他無かった。
私の親戚は1人を除いて極めて優秀な大学を出ており、両親は当然私も自身のような大学に入るものだと思っていたらしい。両親が受験代を出してくれるのは二校(国立と私立のみ)だった。何校も受験している同期が本当に羨ましかった。
結果、両方とも落ちて浪人が決まった。出身校がそこそこ優秀だったから授業料は相当安くなったが両親は激怒し、自分で授業料を払えと行ってきた。この一年勉強するだけで人生は変わるのに、勘当されかねないので仕方なく予備校近くのうどん屋でバイトを始めた。毎朝6時過ぎに家を出て18時まで勉強し、22時まで働いて家に着くのは0時過ぎ。バイトは週5日。
死ぬほど頑張って働いた金は親は全て取り上げられ、昼飯はトップバリューブランドのカロリーメイトの偽物と冷水機の水のみ。必死で勉強し、夏休みの猛勉強のおかげで駿台の偏差値は58から65に伸びたが秋口にとうとう気持ちが切れた。3日ほど寝込んだか親は知らんぷりで、今月のバイト代はどうなるとばかり聞いてくるので半ば絶望しながらバイトへ向かった。
年も暮れつつある12月、私は親から大学の受験料は出さないとの通告を受けた。本気で死を考えたが亡くなった祖父の遺してくれた金を使って3校受験した。入試の2日前までバイトを入れて体力は限界に近かった。結果、滑り止め以外全落ちした。親は激怒した。何度も殴られて部屋はひっくり返され、散々な目にあった。
幸い大学は特待生だったので授業料はほぼゼロ。学生支援機構から金を借りて入学金を振り込み、本当に辛い浪人生活は終わりを迎えた。
いざ振り返ってみると、私以外の従兄弟たち4人は皆東大、東工大に進んだ。彼らは高校一年の頃から予備校に通っていた。本当に親が憎かった。なんで私がこんな目に合わなきゃいけないんだ。
きっと当たり前のように誰だって経験したことのある話なのだろうけど、後輩や周囲に対する感情の落ち着け方がわからなくて困っている。
人によっては嫌味に聞こえそうなので、誰にも相談ができず、同じような境遇の人がいたら聞いてもらいたい。
自分のことを、天才とは言わずとも、それに似たような人間だと思って生きてきた。
中学生の頃は、200人ほどいた学年でそこそこの勉強をすれば20-30位程度は取れたし、一言もやりたいと言った覚えはないのに気が付いたら部活動の主将やら、学年代表やらをやらされていたことがある。
また特待生で行った高校(大抵が滑り止めで受けるような学校だ)では、入試では学年1位、以後の定期テストも100人中10位くらいにはいたし、生徒会なんかもやっていた。友達も多くて、週末には遊びたい人が多すぎて困るとか考えていたくらいだ。
環境に恵まれていたし、自分を天才だと思い込むには最適な18年間だったように思う。
後悔が始まったのは、大学に進学して以降のことだ。
高校卒業後、親の勧めでアメリカの大学に留学することになった。海外に強い興味があったわけではなかったけど、留学とかかっこいいし、英語ペラペラとかかっこいいっていうミーハーが留学の理由だ。
しかしいざ留学して、何年たっても英語が上手くならないこと、そして勉強をしてもしてもついていけない現実に、絶望した。まあそりゃ母国語じゃないんだし、それを選んできたのは自分なんだし、甘えがあったのだろう。卒業単位を取るために寝ても覚めても勉強して、しかしそれじゃ足りなくて、せめてもと藁にもすがる思いで必死に教授に取り入ったりもした。
その頃から、大した努力もせずに簡単に点数を取れるクラスメイトの姿が目につくようになった。必死に教科書を隅から隅まで読んでも授業に追いつけないのに、適当に遊んでるはずのクラスメイトのが圧倒的にテストの点数が良い。見栄を張って良い大学行ったっていうのもこんなことになった原因のひとつだろう。
追いつけない自分が悲しくて、高校生までのリーダーシップみたいなやる気はどんどん失われて。2人しかいない友達と時々遊んで、勉強して、あとはひたすらネットしている4年間だった。
まあ変に頑固だったので、結局ちゃんと卒業したのは偉かったと思うけれど、あのとき感じた絶望感はいつまで経っても消えていない。
大学を卒業して、外資系コンサル企業の日本支部に入社した。そこには、例えば中途採用や日本の大学を卒業している新卒のような英語が得意ではないような人もいた。
しかし社員のほとんどがいわゆる英語がペラペラの人たちで、かつ、頭の回転が速く、自分じゃ見えないような未来を見据えている人たちばかりだった。
持ち前のコミュニケーション能力で最初の1年間はわりと成績は良かった。同僚にも恵まれていた。
一年後、後輩が入ってきて、自分の中に焦りが産まれるようになった。自分と同じ日本語という母国語の世界で生きる彼らの英語力は、発想力は、頭のキレは、1年も2年も前に入社している自分の数段も上だった。
自分のような大して頭が良くない、ちょっとコミュニケーション能力が高いだけの空っぽの人間じゃ、そりゃ人事評価なんてあっという間に彼らに抜かされてしまうだろう。未来を見据えることなんて自分にはできないし、人事からの評価は自分自身たしかによく理解できる結果だった。
だけど、だけどだ。
同僚が新卒向けの説明会に駆り出されることになった。今回で行くのは2回目とのことだったが、自分に声がかかったことは一度もない。
昇格をして、昇格者向けの研修が入ることになった。しかしその研修予定名簿の中に自分の名前はなかったし、代わりに後輩の名前が書かれていた。
周囲の才能には憧れているし、同僚に、後輩に勝てたことなんて一度もない。
だけど自分なりのプライドってものがあって、自分が無能なんだって、きっと信じたくはなかった。
中高生の頃のように、自分の実力より低い場所にいたら、もしかしたら今頃周りにちやほやしてもらえていたのかもしれない。
しかし大学生のあたりから、実力より高い場所でもうずっと背伸びをし続けている。
仕事を辞めるために転職活動を始めて、何がやりたいのかわからなくなった。しかし結局条件ばっかり見ていた自分は、転職先ですら背伸びしていることに気が付いてしまう。背伸びしないと生きられないはずなんかないのに、背伸びし続けることをやめられない。それはまあ、もう少し真面目に自分と向き合った転職活動をすれば良いだけの話なので、今回は置いておきたい。
つまり言いたかったのは、自分より優秀な後輩たちと、自分より優秀な同僚と、どんな気持ちで接すればいいのかわからないってことだ。
多分、変に負けず嫌いなところと、変にプライドが高いところが、彼らに負けたのだと理解することを拒んでいるのだと思う。(というか負けを認めれば済む話のようにも思う)
後輩のことを、同僚のことを、すごいな、敵わないな、と思うし、一方自分にもそんな頭があったらなと妬ましく思いもする。
また自分への人事評価を、妥当だ、悪い評価じゃないしって思う自分と、どうして後輩より劣っているのだろう、どうして自分には声がかからないのだろう、と考えている自分もいる。
たぶん全部ひどいわがままで、自分を客観的に見られていないだけなのだろう。
ただ、自分と同じような境遇の人たちは、後輩たちに軽々と抜かされた自分を、後輩や同僚への気持ちを、どうやって処理してるんだろうって、少し気になった。
同じような境遇だった人がいたら、教えてほしい。
出会って10年近くなる友人に友達がいを感じない。学生時代からベッタリの三人組だったがアラサーになっても未だにしょっちゅうあっている。あってるときは楽しいけど、帰ってきたときと雑談の電話を終えたときの徒労感がすごい。
うち一人は喪女仲間とはいえ明るくてさばけていていいやつだなと思う。はっきりいうけど、相手が傷つくことはこらえるし、困ってるときには力になってくれて頼もしい。
けどもうひとりとは今更になって恨む気持ちが沸いている。
大学生のころ、私が研究に打ち込んでいたのをいつも「社会人になったらもうあそべないんだよ」と責めて、「なんのために勉強するの?なんのために大学いってるの?教えてよ!」と苛立っていた。本人も大学に行っていたし(しかも特待生だった!すごい)、それなりに興味のあることだったはずだがとにかく不安な様子だったから就活中だから仕方ないと受け流していた。
正直、もちろん学生の研究なんて一銭にもならないし、今は関係ない事務職してるし、好きだからしてるんだよとしか言いようがなかった。というか行ってるなら自分で考えるか、意味がないと思うならやめるかしかないだろって思ったけど、そんなの突き放すみたいで言えなかった。こんなにナーバスな状態なんだし、って思った。私は普通の借り入れ型の奨学金で行ってたけど、行って良かった。いまも返してる……
本当になんでこんなにこいつは私を責めるんだと疑問だった。
特に驚いたのが、社会人なりたてのときに二人で出掛けたとき。私の会社は製造部門がある。結局事務職になったけど研修期間は製造に配属になったらそりゃ大変だから、不安もあるってポロッとこぼしてしまった。すると、「製造なんて底辺だ」とか「私はそうならないように就活したから」と一緒にショッピングモールを歩いているときに言われた。
正気か?と愕然とした。友達が不安を打ち明けたときに、そんなそこまでマウントとるようなこと言えるんだろうか、って本当に驚いた。もし、自分がこれからのこと悩んでる友達にそう言われたとして、そんなこと言えんのか?とかそもそも考えるのか?って思ったら、あまりの考え方の違いにゾッとした。これやってけんのか?って寒くなった。そのころすでに出会って5年目くらいだったから気づかないもんだなと思う。
それからもいろいろそうことがあって無理かなぁって思っている。私はオタクで腐女子なので絵なんかも書いたりする。書いた絵はツイッターにのせて、すこしばかりハートをいただいて毎日の糧にしているが、それもお互いみせあっていた。私はかなりのマイナー嗜好で、友達二人と分かち合えないこともあつた。寂しいけど萌えがないとめんどい絵なんてかけないので諦めている。しかし友達は自分もオタクなのにとにかく口出ししてきて「理解できないことはやめろ」とか「気持ち悪い」とか、そんなんばっかで私は耐えきれず絵を消した。実は布教もしたけど、そのこは全く受け入れてくれず暴言じみたこともいい、私はへとへとになってしまった。もう一人は読むだけ読んでくれた。これが普通だとおもう。理解できなくても友人が大好きなものなんだから見てみるか、見てあげようかって思うものだと思う。
自分の考える大事な相手の扱い方とあまりにも異なるので、私のことが嫌いなのかと思うとそれもちがうっぽい。
はっきりいって、嫉妬とか妬みとかそういうことなんだと思う。私が優れてなくても、前向きにやってるとかかんばってるつていうのですらイラついてるみたいだ。それはさすがに性格なので勘弁してくれと思うけど気持ちが制御できない様子だ。
でも頑張ってツイッターのアカウントを私たちと切り離した。めにつかないようにしようとしたらしい。でも結局見ていたみたいで、私が仕事に悩んでいるツイートをしたらかなり過剰に刺さってしまったらしくかなりきつく、じゃあもう誘わない今までも不快だったんだろう忙しいのにごめん、さよならみたいなことを言い出した。
なんとなく、私も文面そのものが言いたいわけでなく、負担になってしまったんだろうかとかやっぱり心配してくれたのが独特に翻訳されたんだろうとわかった。
でも、そりゃないだろって思った。私もそういわれて泣けたし、無理かもと思った。結局私のツイッターも見てるし。お互い気にしないようにしよう!見てもいいしてか見てると思ったよって話して落ち着いたけど、正直今はつまらないことでも私のこと知ってほしくない。顔も見たくない。軽蔑するようなこと言われたジャンルは降りてしまった。いまのジャンルも彼女が見てると思うと身動きがとれず、せっかく交流が持てた人たちがいない鍵つきアカウントで呟いている。大したこと話してないからと言ってるが、正直本拠地になりそう。いずれつまんなくなるだろうとおもう。また、ジャンルから去ることになるかも。恨んでしまう。
上の件の仲直りの電話も、最初は申し訳なさそうにしてたけど最後は私に対する嫉妬や妬みをストレートに言っていた。半分冗談で、自分はそういう人間だって卑下半分本気半分これからも付き合うなら覚悟してって内容だった。あとは最近の雑談。私がもういいよっていったから、全部忘れたって感じだった。気が緩んで、笑って許したけど、そっちは言ってスッキリしたかもしれないけど、電話のあと私はがっくりきた。
ちなみにもう一人の友達は私の鬱ツイートには反応せず、でも簡単でも心配してるよと声をかけてくれた。
無理かも、無理かもとダマシダマシやって来たけどまた無理かもと思ってしまった。頑張って少し離れようと思う。大事な友人にしておくためにも本気のつもり。
私には、大学の頃から仲良く…だが、どこかやりきれぬ思いを胸にしている封じられし獣どもがいる。共通のアビリティがあり、同い年で、お互いにアラームピアスを使わないため、愚かなる人間共に変貌を遂げてからも月一くらいで飲みに行っていやがる。帝国との戦争が終わり10年の旧知の仲で現在はお互い付き合ってる人はいない。
伝説に語られる汚れなき世界の唯一神が、最近“神”の威光を畏れるかの如くアクアリウムに誘-いざな-ってくるよ。恋愛エクスペリエンスの気休めにもならねェ他の人間から見れば害悪にしか過ぎない自分にとって水族館は、カップルで行く場所というイメージがあったから初めて誘われたクロノスは、「こっ、この者ぅ〜ッ…一体どこまで腐ってやがる……!!お前は男が如きで気を使わなくていいわ〜とか言ってたくせに、実は“神”を喰らい、最強になったはずのこの私のこと…その全てを捧ぐ…それで何もかも終わった、はずだったわけ!?」って驚いた。
されど真実には程遠い氣がしてきた。
なぜなら東京伯爵領の咎を背負いし数々の水文明のこの星における前線基地を双獣で制覇してきた――預言書にはそうあるからだ。もしかしたら人間界で言う今日(いま)死の間際の告白されちゃうかもと思って指先がチリチリしたのも黎明だけで、刹那となっては、帝国魔導学園では特待生である彼が真実という名の幻想に水族館に行きたいだけな気がしてならい。
ウミウシで至福に身を震わせてそうに世界を闇へと誘う封印されし彼奴、
リヴァイアサンに骨騰肉飛成し遂げる彼奴、
張り出されてるアプカルのプロフィールを神の威光を授かりし剣に詠む彼奴、
思い返せば、普通に水文明のこの星における前線基地が前世より繋がりし、我が恋心なだけな気がしてならない。アニムスの恋愛心理を解説するwebサイトでは「アクアリウムに誘-いざな-うのはアナタを好きだから★」的なことかいてあったのに神の声が聞こえぬな?(´;ω;`…噂には聞いていたが、これ程とはな……)
兄に、我が影の話としてそれとなく聞いたら「ヴァルキュリアスが預言書を信じるほど、グルガン族の男は思考《かんが》えてねーよ。ただ水文明のこの星における前線基地に行って連中を足止めしたかったのだが、最後に立っていたのはただ一人じゃ格好つかんから誘-いざな-っただけなんだろ」って言われた。
わかるようで、わかりたくない事はない。
壱拾年なにしてたんであろううなぁと少し重力の影響を強く受ける。
顔がイケメンなのかっていうと、よくわからないけど、少なくともブサイクではないと思う。
特に長距離ではすごくて、小学校のマラソン大会では毎年一桁台だった。
親も陸上関係でメシ食ってる両親で、俺の才能っていうよりかは、親の影響が大きかった気がする。
親父のジョギングに、保育園の頃からついていって走っていて、いつの間にか俺も走るのが好きになってた。
俺にしてみれば、一位という結果は本当にたまたまだった。
周りが喜んでいるのを見て、俺も「自分がすごいことをしたんだ」と嬉しくなった。
まあそれは、そんなもんだ。
周りが全然俺よりはやい。
俺が全力で走ってるのに、周りがどんどん俺を離していく感覚を、生まれてはじめて味わった。
不甲斐ない成績だった。
でもその頃から、たぶん俺の心の中で、走ることに対して、迷いが生まれたんだと思う。
この挫折をきっかけに、もっと速くなる奴が、きっとプロになったり、駅伝ランナーになったりするんだろう。
でも俺はたぶん違う。
14歳や15歳のガキでも、自分に対してそのぐらいのことはわかる。
俺は単に周りに褒められたくて、長い距離を走ってただけなんだ。
特に県大会に出て、ホンモノたちに会ってしまうと、俺がいかにダサい存在かはよくわかった。
その親と5歳から近所のコースジョギングしてました、とか、関係なくて。
ホンモノは違うんだよ。
なんていうか、オーラでわかる。
正直スタートライン立った時点で、もうホンモノとニセモノははっきりわかった。
ニセモノだったのは俺だけじゃない。
ほとんどはニセモノ。
俺はそっち側だった。
でも、もう、マジで感覚的に全然違うのがわかったから、どうしようもなかった。
努力? 才能? なんなの? 何が違うんだ?
仮に俺が途中でぶっ倒れてもいいから、全力ダッシュしたとしたら、
何人かは抜かせただろうけど、それでも抜かせない選手っていうのが、結構な数いた。
ああいう奴はなんなの?
意味がわかんなかった。
いや、今もわかんないけど。
実際その場で一緒に走んないとわかんねーよ。そういう奴らと走る感覚って。
まあその話はいいや。
普通に受験したら、俺の頭では間違っても入れないような私立高校。
そこの陸上部入ったら、まあ、周りは全然大したことなくて、すぐエースになった。
俺みたいに陸上のスポーツ推薦だった奴いたけど、長距離は3人しかいなくて、俺以外の2人は全然ショボかった。
てか、このレベルで推薦とれるのか、って失望するレベルだった。
エース扱いで、相当チヤホヤされてたと思うけど、心の中ではどんどん冷めていった。
俺は県大で、自分のショボさを思い知って、自分の限界を感じたのに、周りの奴らは俺を神かなにかみたいに崇めてるわけ。
なにこれ?
は?
お前らはバカ?
偏差値xxあって何を見てるの?
とか思ってた。
当時俺みたいな中途半端な奴って学校に結構いて、自然とそういう連中とつるむようになった。
特待生で学校入ってきたけど、周りのレベル低すぎてうんざりしてる優等生とか、
すげーサッカー上手かったのに部活の顧問とか先輩とかと合わなくて帰宅部になった奴とか、そんな連中。
高二になってからは、そいつらといるのがとにかく楽しくて、練習サボって遊ぶくらいになった。
「マラソンってくだらなくね?」
とか俺に向かって言っちゃうような奴らだった。
はじめて聞いたとき、本当に新鮮だった。
だって、家族や友達で、陸上を否定する人間なんて、それまでの人生で会ったことがなかった。
いろいろ悩みながら陸上部を続けてきた俺だったが、遂に決意する。
「ごめん。陸上部辞めさせて」
家に帰って、俺は親に言った。
親が買ってくれた、1万円以上するランニングシューズをエナメルバッグに入れたまま。
けど俺の決意は固かった。
たくさん説教された。
俺の陸上の才能を認めてくれて、もったいないって言ってくれる人もいた。
それが一番心が痛かった。
でも俺はもう決めていた。
本当の自分で生きたい、って思っていた。
陸上は、俺が本当にやりたいことじゃないんだよ、親父、お母さん、先生。
そんなことを何回も言った。
陸上の成績でスポーツ推薦を決めた奴が、陸上辞めるなんて前代未聞だろうな、と思っていたが、それはそうじゃなかった。
心が折れなくても、ケガでそのスポーツ続けられなくなる奴も多い。
だから、俺の陸上辞めるという選択で、退学になるようなことはなかった。
俺はそこから、本当にやりたかったことにうちこむようになった。
それは音楽だった。
あるとき、いつもつるんでる友達から、「バンドやりたくね?」と言われた。
最初は冗談みたいだったが、いつの間にか皆楽器を買っていて、本気でやることになった。
俺はボーカル。
休みの日に、皆で県で一番賑わってる駅のスタジオに行って、死ぬほど練習した。
スタジオの人がいい人で、ホントは2時間料金なんだけど、何時間でも練習させてくれた。
これが本気で楽しかった。
あ、これだ、って思えた。
陸上がつまんない、っていうことはない。
でも、心のそこから楽しんでるか? と言われたとき、即答はできなかった。
親の影響でやってるんじゃないのか? 自分が脚速くなかったら続けてたのか?
長距離走について、そんな質問をされたら、俺は答えれないと思う。
音楽は違う。
親は音楽なんて聞かなかった。
俺は特に歌がすごく上手いわけじゃない。
それでもめちゃくちゃ楽しい。
何時間でもやっていたい。
どんどん上手くなりたい。
俺の他にもっと上手い歌手がいても、そいつよりも上手くなりたい。
どうして県大会のとき、こんな感覚になれなかったのかは、今でもわかないけれど。
たぶん、陸上をやってる俺は、本当の自分じゃなかったんだと思う。
親が望む、自慢の子供を演じていた。
けど、俺が本当に嬉しいことじゃなかった。
俺は親の喜ぶ顔で喜んでただけだ。
音楽は、俺に直接喜びをくれた。
けど、その三人が生み出すグルーヴの上に、俺の歌を乗せる。
それで曲が完成する。
時間にしてみれば、ほんの数分。
それまで長距離を走破してきた俺にしてみれば、ほんの一瞬だ。
で、忘れもしない文化祭。
俺の高校の文化祭は、応募制の野外ライブというのが何年か前からあった。
軽音楽部とかフォークソング部とかのバンドが演奏するステージだったが、
他にも教師が組んだバンドとか、有志で組んだバンドとかが応募して、出演していた。
俺たちもそこに出ることにした。
はじめてのステージだった。
その頃になると、もう俺たちの演奏レベルもかなりのものだった。
実際その後、ドラム叩いてた奴は音楽関係に進んで、今は有名ミュージシャンのバッグで叩いて飯を食ってる。
結局そいつが一番すごかったのかも。
野外ライブで、俺らの番が来た。
バンド名はさすがに恥ずかしいので秘密だが、司会が俺らのバンド名を呼んだとき、ちょっと肌が粟立ったのを覚えてる。
ここから将来ミュージックステーション出たり、紅白出たりしたらめちゃくちゃカッコいいな、と一瞬思った。
観客は結構集まってた。
ボーカルを俺がやっていたので、陸上のときの同級生・後輩が結構いた。
ギターもサッカー部の人気者だったので、それ目当ての女子が結構な数いるのが見えた。
自信があった。
後輩も、もしお前らが俺を尊敬してるとしたら、単に足が速いから尊敬してるだけだろ、
でも、これからは音楽を通じて、尊敬してくれ、と本気で思っていた。
それまで偽りの自分で評価を得ていた人間が、本当の自分で戦うのは、本当に気持ちいいものだった。
MCで何を喋ったかもよく覚えてるが、これはマジでイタいことを言ったので、敢えて記載はしない。
俺が想像していた観客の表情ではない。
なんか笑いをこらえているというか、笑ってる奴もいる。
当時はビジュアル系全盛期で、俺たちが選んだ曲は、L'Arc~en~Cielの『花葬』だった。
俺はHydeに全力で心酔していた。
ていうかHydeよりカッコいい人間は今でもこの世にいないと思っている。
けど俺はHydeじゃなかった。
俺はそれまで自分のことを正直カッコいい部類だと思っていたが、Hydeではなかった。
それから俺は、高校を卒業して、親のコネがあった地銀に就職した。
今年はじめて箱根駅伝を見た。
それで内心「うわああああああああああ」となったが、嫁に気取られることはなかった。
俺が人生で学んだ人生訓は、「本当の自分とか言ってねーで、人から褒められることをひたすらやっとけ」だった。
でも、そんなこと子供に言う訳はない。
願わくば俺の子供が、ホンモノの才能を持っているか、ニセモノの自分に何の疑問も抱かないウスノロのどちらかでありますように。
同じく地方出身者はなんとなくわかると思うんだが、高校は「地元では自慢できる」レベルのとこに通っていた。
県下一、というわけでもないけど、地元で一目置かれるようなそんなところ。東大進学者を毎年1名出したり出さなかったりするような。
自分はというと文化系と運動系の狭間みたいな部活にがっつりのめり込みつつ、子供の頃から親の影響で続けていたとある楽器と寺社仏閣が好きな、自他ともに認める「変わった子」であった。学力でいえば中学までは特に勉強しなくてもまあまあいい成績が取れる、中途半端に器用な子だった。
親は勉強については大してうるさくなかったが(むしろ楽器の練習をしない方が厳しく怒られたし、数学で10/100点をマークしようが音楽の成績が満点じゃない方が嫌な顔をされた)、お金には厳しく、「大学は国公立しか許さない」と宣言されており、真に受けた私は私立のすべり止めも一切受けなかった。だが高校3年間を部活に捧げた、数学のテストで毎回赤点叩き出すような人間にそのルートは厳しかった。見事に滑りおち、進学先を失った。進学校に通っておきながらこの体たらく。
これから1年浪人するしかない、と思ってふさぎ込んでいたが、そこで偶然にも某専門学校の「大学編入コース」なるものを知る。専門に2年通った後、大学へ3年次編入するというコースだ。ははぁ、よくできてるなあ、と思いながらも学校の担任と両親に相談し、その専門学校へ進むこととなった。
正直入試はあってないようなものなので割愛する。学力レベルからペーパーテストは免除され、英語面接だけだった。まあまあ緊張したが絶対うかると半ば解っていたので強気でいった。ちなみに高校時代苦手にしていた教科は数学と英語だ。瞬間的な暗記力となんとなくで世界史及び国語で高得点を叩き出す完全なる文系である。妙にコアな知識を植え付けてくれたラノベや推理小説たちとヘタリアには今も感謝してる。日本史は文化史だけ異様にできた。
身バレが怖いので色々伏せるが、駅チカでこぎれいなビルがキャンパスだった。キャンパスと言っていいのか?
専門学校内での大きな学科のくくりとしては「英語学科」に属することになり、その中で「英語を使った仕事に就きたい人のコース(翻訳・通訳など)」と「海外の大学に行きたい人のコース」、あと「大学編入したい人のコース」に分かれる。
なんで大学編入が英語学科に属するかというと、ほとんどの大学の編入試験の科目が「英語」「小論文」「面接」のみだからである。(学科によっては専門科目の試験がある場合もある)
授業は9割は英語の授業だった。ネイティブ講師も日本人講師もいたが、とにかく英語。リーディング・リスニング・ライティング・スピーキングの授業がそれぞれあり、それ以外に大学編入のための英語試験対策授業がある。少人数にこだわってて、基本の4つの授業はそれぞれTOEICや学内試験の結果から5段階にレベル分けされていた。私は入学時のペーパーテスト免除、しかも学費も一部免除の特待生扱いで入学したので、「は~やっぱこの程度か専門」とか思っていたが、最初のTOEICテストで300点台叩き出して5レベルあるクラスの下から2番目に入れられる。「出身校」の学力が高かっただけで「私」の学力はクソだった。ただ真面目に授業を受けていればクラスはすぐに上にあがり、最後は一番上のクラスに所属していた。この基本の4つの授業は大学編入以外のコースの人もいた。
残りの1割は資格の授業(英検、ワー検、秘書検、漢検など好きなものを選択できる)の他、第二外国語、小論文対策、PC(というかOffice)など……まあ大学1年生の一般教養と似たような感じだろうか。選択で教養の授業もあったが種類は2,3種類しかない。しかも大して面白くない。
大学1年生と違うのは、自分で授業を選ぶ幅がとても狭いところ。というのも学年によってどの授業を受けるか、カリキュラムが既に綿密に組まれており、「朝ゆっくりしたいから1コマなくそ~」というのは全くできない。選択授業も「とってもとらなくてもいいよ」ではなく「この中からどれか選べ」という選択。なので学期はじめにコースの人間全員集められてHRみたいなことをして、時間割を配られたりしていた。
【学生】
上記の通り様々なコースの人間が入り混じって授業を受けていたので、通っている人は本当にいろんな人がいた。アンタこんなしょぼい専門いていいの!?っていうような頭のいい人から、クソほど簡単なテストを「難しくてヤバかった~」という人まで、本当に様々。Lv.2→Lv.5まで駆け上がるといろんな人と話した。超絶パリピ野郎もいたし、内気で根暗で今にも引きこもりになりそうな人もいた。
同じ大学編入を目指すコースの中だと、まあまあ頭いいけど大学入試では一歩及ばなかった、みたいな人がほとんど。大体がプライド高くてそれを一度へし折られてしまった人、という印象。(私もだけどさ)すべり止めの私大に受かってたけど行きたくなくてこっちを選んだ、という人もいるにはいた。あとは行ってた大学が嫌になってやめて再チャレンジしたいとか……。比較的頭のいい人は多かったけど、それでもやっぱ学力でいうと「まあまあできる」か「いまいちできない」のどちらかだった気がする。コース内で一緒に行動していた友達は国公立に受かっていった人から最後の最後どうにか推薦で滑り込めた人までいた。
コースの人間の数は結構多かった。高校の一クラスくらい……?もっと少ないと思って入学したので意外だった。やっぱり学力レベルでつるむグループが分かれる。男女比は男子の方が圧倒的に多かった。3分の2くらい。でも学年全体で見ると女子の方が多かった気がする。
あと意外といろんな地方から集まってた。やっぱり学校周辺の人が多いのだけど、隣県や新幹線で帰省するくらい離れている土地から来る人もいた。私はかろうじて同じ県ではあるが学校までは通学に2時間かけていて、隣県出身で学校近くに一人暮らししている友達がうらやましかった。
【学費】
高い。私大に2年行くとのかわらん。でも高校時代まあまあ成績取れてたら学費免除は簡単に取れる。(模試の点数とかセンターの点数を基準に学費免除とかしてくれる学校もあると聞く)
本来国公立にしか行かせてくれなかったはずの両親があっさり行かせてくれたので、絶対に学費を無駄にすまいと2年間は真面目に必死に授業や資格取得に打ち込んだ。その後まあまあ就活に有利そうな資格とかちょいちょい取れたので、短大とか他の私大行って仮面浪人するよかよかったなあ、と思った。けどその辺って結局当人の努力次第なので、学校の授業の時間を使って資格取得や受験対策に打ち込める環境にお金払ったと思っている。払ってくれたのは親だが。でも無利子の奨学金も2年次から勝ち取って少し貢献できた。と思いたい。今返済しんどいけど。
1年間みっちり英語を叩き込まれたあと、2年生からいよいよ編入試験が始まる。
3年次編入試験は多くの大学がやっているが、大学によって受けられる条件は様々。私が行きたかった大学は他の4大からの受入のみで、専門卒は受け付けていなかったので諦めた。(でもそういう学校の方が少ない印象)
編入試験の日程は学校によってかなりばらつきがある。早いところだと6月くらいで、遅いところだと2月くらい?私は全部で3つ受けたが、ひとつは8月で、残りのふたつは12月だった。やっぱ秋~冬にかけてが多い。
面接の練習なども授業でしながら、それぞれの試験日に向けて準備を重ねていく。8月に試験を受けたところが第一志望にして最難関の大学だったが、ものの見事に落ちてしまい、泣きながらそのあと友人らとカラオケに行った思い出がある。編入試験は受験科目が少ない分やりやすいと言われるが、その門はかなり狭く、私が受けたところも倍率は5~10倍くらい(だったと思う、もう記憶があいまい)最終的に編入浪人の道を選ぶ人もいる。専門→大学編入のいいところは浪人などの1年のロスを出さずに大学を卒業できる所だが、結局編入試験の壁が高くて編入浪人したりレベルを落としてD~Fラン大学に入ったりと、メリットが活きないことも多い。でも努力してそれが実ればいい大学に入れるのも事実なので、そこは編入にチャレンジする人次第なのかな……とも思う。専門入って遊んでしまった人たちは上位クラスの人でも結局ランクの低い私大に行った人が多く、しっかり努力し続けていた人は国公立や偏差値高い私大に進んでいった。英検1級取得したり、TOEICでマックススコア出した人もいる。
あとTOEICのスコアで試験免除がある学校とかあって、TOEICマジもっと気合入れてやればよかったな、と思った。試験免除にならなくても入学後の単位に換算してもらえたりした。
英語はもうとにかく授業をガンガンうけてガンガン問題解くだけ。喋る・聞くは捨てて、ひたすら読むにステータスを振り続けていた。(書くは申し訳程度にやった)9時半から15時まで授業を受けた後、18時まで学校に残り友達と多少ぐだりながらも勉強(というか課題)、家に帰ってからも英語の長文読解とひたすら向かい合う日々。
小論文は書き方の作法を徹底的に叩き込まれ、あとは個人の文章センスや知識量がモノをいう感じだった。国語と世界史、そしてラノベから影響を受けた文化史系に強かった私には最高の科目だった。
編入試験の過去問も一応あって、見せてもらうためにその大学に足を運んだこともある。(コピーはさせてもらえないので、目で見て出題傾向を把握するのが精一杯だが)あと学校で過去問を回収して過去問集みたいなのを作っていたので、行きたい学校が人気校ならそんなことしなくてもコピーできたりした。英語試験はどの学校も長文読解系が多く、TOEICをそこそこにして英検受けまくっていた自分にはありがたかった。
面接指導は就活とほぼ一緒、だと思う。なんでこの大学に行きたいのかをはっきりさせろ!と言われ続け、「御校に在籍の〇〇先生の研究室で●●について研究したいです!!理由としては!!」みたいな答えをガチガチに固めていった。これはのちの就活に活きたと思う。
【試験】
どの大学も小論文は楽勝だった。8月に受けたところは英語で予想外の作文が出て動揺し、読解問題では時間が足らず、涙を呑んで不合格を覚悟した。翌日即結果発表だったが、当然私の受験番号はなかった。
第二志望の大学の前に第三志望の国公立を受けにいったが、家から遠く深夜バスでの移動となった。しかもバスからまた電車で移動するが乗換をミスり試験に遅刻。席に着くために荷物を通路に置いたら試験管に怒られ、萎縮しながら受験したが英語は予想できたレベルでむしろ楽しかった。1週間後には結果が開示され、無事合格。
そして満を持しての第二志望。同じ学校から他にも2名受けることになっており、一緒に移動。英語試験はやや苦戦した覚えがあるが、それよりも面接がしんどかった。大学に、特にその学校に入りたい理由を述べ(行きたい研究室があるでゴリ押しした)、なぜそれに興味を抱くに至ったかなどを話したが、とにかく緊張して噛みまくり、面接官に不審な顔をされ落ちたと悟った。しかしその試験当日、夜から私の受験期を中学から支えてくれた某バンドのライブがあり、普通に間に合わなさそうだったので走って会場を後にした。ライブはギリギリ間に合った。そして入試も無事にパスできていた。
進学先が二つ用意されたわけだが、もちろん第二志望を選択。一応国立大なのと、高校時代から学びたいと思っていた専攻があったのが決め手だった。思う存分研究に打ち込めたと思う。嘘。2年では足りない。もっとやりたかった。でも取りたかった単位や聞きたかった講義はほぼコンプできた。
上記でも少し触れたが、入学時に専門学校の授業の単位を大学の単位へ変換してもらえるため、本来4年で取る卒業単位を2年間で全部とれ、ということにはならなかった。特に私は人文学系だったので、変換がスムーズにいったというのがある。法律や経済系の学科は専門科目の変換が難しく、卒業単位を取れなくて留年した人が多かった。(と後に聞いた)
1年大学ライフを満喫したのちすぐ就活なのはきつかったが、興味のあったサークルにも在籍し2年間最初から最後まで活動できた。でもいくら単位変換してもらったとはいえ他の3年生に比べると圧倒的に単位は足りてない(その上私は卒業単位にならない資格系の講義も取っていた)ので、ほぼ毎日1~4コマ、そのあとサークル!バイト!みたいな生活をしていたし、就活の時期は本当にしんどかった。英語の資格(TOEICスコア700前後と英検準1級)と進級のために取らざるを得なかった数々の英語以外の資格、そしてあの日の面接対策と小論文対策が活きたのだろう……と思うと私はこのルートをたどってきてよかった。他の短大や4大出身の編入生は就活で軒並み苦労していた。でも専門より大学の方が圧倒的に楽しかったです。普通に1年生から大学入りたかった。
大学編入後で一番しんどかったのは、3年生でありながら1年生に交じって体育やらされたことかなあ。
色々書いたけどあくまで文系の話です。理系の編入はもっと大変と聞くし、そもそも専門→理系学部編入というルートが恐らくない。
東大や京大に比べたら底辺もいいとこだけど、こういう抜け道もあるよっていう話をしたくて。でも根っからの文系だった私だからこそうまくいった裏ルートみたいな感じではあるんだけどさ……。うまくいかなくってせっかく編入した大学やめて引きこもりになってしまった知り合いもいるし、正直この専門→大学編入というルートを誰にでもお勧めできるかというとそうでもないけれど。
あと社会人なってから編入で大学入って、教員免許だけ取って中退した編入生の知り合いもいる。社会人なってから大学で学びたいという人で4年は長いという人にもいいんじゃないかな。あと大学とりあえず入ったけどつまんなくて他の学科行きたいとか他の環境行きたいって人。
私は本当は大学院に進みたかったのだけど、やっぱり学費の関係で諦めて就職した。研究してた分野とも全然違う仕事をしているけれど、趣味としてまだその分野についての情報収集や勉強は続けている。なお英語をかなり使う仕事だし専門時代に取った資格もそれなりに活かせてはいるので業務内容には満足している。
いよいよセンターが近づいてきて、不安な受験生たくさんいると思うけど、どうかここだけが人生の決め手とは思わずに気楽に頑張ってほしい。案外人生どうにかなることの方が多い。