はてなキーワード: 太宰治とは
>何のために生きているのだろう。
それを考えるために生きてるんだよ。
>壁のシミを睨みつけながら、そんなことをぼーっと考える日々が続いている。
壁のシミを睨むために今日を生きてるんだよ。
>こんなものは本来、中学生あたりで卒業すべき問いなのだろう。
過去を振り返るために生きてるんだよ。
>けれど、僕は中学生でそれを考えることをしなかった。なぜか。その頃は、それなりに生きることを楽しんでいたからだ。
>生きることが楽しいなら、生きる理由などを、わざわざ理論武装する必要もない。楽しいから生きる、それで十分な理由に成り得る。
それを考察するために生きてるんだよ。
>少し前まではその素朴な考え方で十分だった。でも今は違う。
それを否定するために生きてるんだよ。
>今になってこんなことを考えているのは、お察しの通り、人生がつまらなくなったからである。辛いからである。
察されている立場からの不利である状況説明のために生きてるんだよ。
>最初はその辛さから逃げようと思った。意識を低くして、できるだけ慎ましく生きようとした。
自身の貢献度について外界に知らしめるために生きてるんだよ。
>人と接するのは辛い。だから友達は作らない。勉強するのは辛い。だから勉強はしない。
>そうやって、辛さからの逃避計画を少しずつ遂行していった。それとともに、もともとあった些細な生きる喜びは、ますます少なくなっていった。
自身の不利な状況は自身の努力によって改善されていない現状を訴えるために生きてるんだよ。
>それでも良かったのだ。幸福でもないが不幸でもない人生。悪くないだろう。
結果を甘んじて受け入れる自身の寛大さをアピールするために生きてるんだよ。
>そうして、2年が経った。
二年は生きていることを確認するために生きてるんだよ。
>惰眠を貪り、相変わらずぼんやりと液晶画面を眺める毎日である。学校にはすっかり行かなくなり、このままいけば、留年まっしぐらだ。
自身の比較的困窮した私生活をなんらかの期待をこめて紹介するために生きてるんだよ。
>ネットはそれなりに楽しいし、自分を邪魔立てするものは何もない。幸福でもないが、不幸でもない毎日。なのに、なぜか辛い。息ができない。
しかし救済の余地がありそれは大きく早急に必要であることをアピールするために生きてるんだよ。
>こんなはずじゃなかったのだ。
他に得られるべき快適な環境があったはずでそれは何かによって剥奪されたことを訴えるために生きてるんだよ。
>やはり、辛さから逃げようとする態度が良くなかったのではないか。人生とは本来辛いもので、それから逃げようとするのがそもそもおかしいのではないか。
自身の選択肢が問題であることと同時にそれは不可抗力であったことを考察するために生きてるんだよ。
>そう考え直したところで、僕には辛さと戦い続ける気持ちには全くなれなかった。
自身に問題があったとしてもそれはさておき、世界が自分を救済すべきであるという立場を説明するために生きてるんだよ。
>「私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起こしているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。」
そんなのしらない。
>この一節に、僕はすごく共感する。
自分の好みを外界に向かって発信するために生きてるんだよ。
>僕は今、ひどく腹痛で苦しんでいるので、山を登らない。どうせ登らないから、山頂の見はらしなんて大したことないだろう、と酸っぱい葡萄式に世界を俯瞰している。
協力がなければいつまでもここにいるということを発信して救済しやすさを向上させるために生きてるんだよ。
>だから、僕にまず必要なのは、腹痛のあとの、見はらしの良い景色だ。辛い山登りの後の、至福の一瞬だ。
必要なものを具体的に提示することで提供者が現れる確率を大きくするために生きてるんだよ。
>とりあえず、部屋を出ることから始めよう。
できもしないことを言ってみる自分がかっこいいと陶酔するために生きてるんだよ。
どう?わかった?
人が生きてるっていう意味みたいなのは総計の代名詞でひとつですまないし、意味をひとつにしようとしてついでに欲求願望を垂れ流すための接頭語なんだよ。
生きてる意味を、毎秒毎に全部知りたい?
たった一秒でも意味を失って生きていない状態になる人、そんな選択肢、そういう運命に出会う人はいるんだよ?
知って絶望したりしない?
何のために生きているのだろう。
壁のシミを睨みつけながら、そんなことをぼーっと考える日々が続いている。
けれど、僕は中学生でそれを考えることをしなかった。なぜか。その頃は、それなりに生きることを楽しんでいたからだ。
生きることが楽しいなら、生きる理由などを、わざわざ理論武装する必要もない。楽しいから生きる、それで十分な理由に成り得る。
少し前まではその素朴な考え方で十分だった。でも今は違う。
今になってこんなことを考えているのは、お察しの通り、人生がつまらなくなったからである。辛いからである。
最初はその辛さから逃げようと思った。意識を低くして、できるだけ慎ましく生きようとした。
人と接するのは辛い。だから友達は作らない。勉強するのは辛い。だから勉強はしない。
そうやって、辛さからの逃避計画を少しずつ遂行していった。それとともに、もともとあった些細な生きる喜びは、ますます少なくなっていった。
それでも良かったのだ。幸福でもないが不幸でもない人生。悪くないだろう。
そうして、2年が経った。
惰眠を貪り、相変わらずぼんやりと液晶画面を眺める毎日である。学校にはすっかり行かなくなり、このままいけば、留年まっしぐらだ。
ネットはそれなりに楽しいし、自分を邪魔立てするものは何もない。幸福でもないが、不幸でもない毎日。なのに、なぜか辛い。息ができない。
こんなはずじゃなかったのだ。
やはり、辛さから逃げようとする態度が良くなかったのではないか。人生とは本来辛いもので、それから逃げようとするのがそもそもおかしいのではないか。
そう考え直したところで、僕には辛さと戦い続ける気持ちには全くなれなかった。
「私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起こしているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。」
この一節に、僕はすごく共感する。
僕は今、ひどく腹痛で苦しんでいるので、山を登らない。どうせ登らないから、山頂の見はらしなんて大したことないだろう、と酸っぱい葡萄式に世界を俯瞰している。
だから、僕にまず必要なのは、腹痛のあとの、見はらしの良い景色だ。辛い山登りの後の、至福の一瞬だ。
とりあえず、部屋を出ることから始めよう。
これを書いた増田だが、ただ殴り書いただけなのにちょっと反響があってしまって責任を感じている。
http://anond.hatelabo.jp/20150513013343
だから今回はちゃんと俺の言いたいことが伝わるようにまとめてみたよ!
あ、タイトルは注目を集めるためにつけただけで、本気でそう思っているわけではなので悪しからず。
本気ではないが、半ばそう思っているけれど。
俺はナルシストだ。
そして品がない。
育ちも悪いしコミュ障だし、人の気持ちもわからんしデリカシーも無い。
見る度に、チックが別れた女房と息子に会いに行くシーンと、インデペンデンス号が墜落するシーンと、ハリーの自爆間際の走馬灯とで3回泣く。
俺の読書体験を要約すると、『スレイヤーズ』にハマって呪文詠唱覚えたり『星の王子さま』に感動したり『それから』を読んで代助のガキっぽさに読んでるこっちが真っ赤になったり『キノの旅』を読んで1巻目のプロローグとエピローグ暗記したり『猫の地球儀』に号泣したり『世界の中心で愛を叫ぶ』に号泣した後で本屋に平積みされてる『ジョン・レノンにだまさされるな』をワクワクしながら手にとって20ページほど読んでそっと棚に戻したり『いちご同盟』に号泣したり『バトルロワイヤル』に号泣したり『殺×愛-きるらぶ-』に号泣したり『天使の卵』に号泣したり『アルジャーノンに花束を』に号泣したり『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでわけもわからず激怒したり『ゼロの使い魔』読んでルイズに恋に落ちたり『フルメタル・パニック!』に号泣したり『とらドラ!』に号泣したり『永遠の0』に号泣したり『生贄のジレンマ』に号泣したり、まあだいたい号泣している。
こうして振り返ってみると読んでる本に脈絡ないなと思う。
ふらっと本屋で20ページぐらい立ち読みして、面白いなと思った本を買って読むからだろう。
あとは気分で話題になってるのを読んだりする。
テレビで『風立ちぬ』やったらしいから原作読んでみようか、とか。
夏目漱石とか太宰治とか川端康成とか谷崎潤一郎とか、国語の教科書に載ってるような文豪の作品も気が向いたら読んでみたりする。
ゲーテとかシェイクスピアとかカフカとかも、読んでみたことはある。
その中で、この人の書いたものは全部読まなきゃダメだ!って思わせてくれたのは秋山瑞人だけなんだよな。
『イリヤの空、UFOの夏』を読むと、
「ぼくは笑わない」
榎本の瞳の中に、どこか臆病な光が滲む。
「なぜそう言い切れる」
何度読んでもここで泣く。
これこそが文学だと思う。
さて、自己紹介もすんだところで俺の陳腐なブンガクロンの話でもしようか。
俺がむかっ腹が立って仕方がないのは「読書を教養を蓄えるための苦行と考えている人間」これに尽きる。
読書は面白いからするのであって、苦しむためにするわけじゃない。
ミステリが好きな奴は犯人探しにうんうん頭を悩ませるのが好きなんだろ?
重厚な哲学書みたいなのが好きな奴は、難しい話を読むのが好きだから読んでるんだろ?
読書が好きな奴にとっちゃ、当たり前だよな。
まさか、スタバでMac広げるノリで、ファッション感覚で分かりもしない純文学読んでる奴なんていないよな?
世の中には少しはそんな奴いるんだろうけど、こんな所でまで文学にあーだこーだ言う物好きの中には居ないだろう。
だからこの文章を読んでる人は、俺の嫌いな人間じゃないはずなんだ。
で、なんで読書が苦行と結びつくかと言うと、いわゆる「タメになる名作」って奴が歴史の洗礼を受けて生き残った、古い小説になることが多いからだ。
古い小説には、現代に生きてる人間にとって見慣れない表現が多く使われている。
当時の人にとって「ぐいぐい読ませる美しい名文」の集まりが、読書経験の少ない人には、まるでお経かなんかみたいに見えてしまっているわけだ。
だから「教養の無い人間にとっての、教養のための読書」は苦行になる。
そして、少し本を読んでるってくらいの俺にとっても、やっぱり明治の文豪の書いた文章は、血の通ったものには見えないんだ。
俺の思考、心、俺自身を構成する言葉の一部とは思えないんだよね。
なぜならライトノベルは、俺の心を作っている言葉、そのもので書かれた物語だからだ。
俺の体の中にある思考や心を、本という形で取り出した物だからだ。
文学かじってるような奴らは、『不朽の名作』なんて小っ恥ずかしい妄想を本気で信じてやがる。
断言してやるが、そんなもんはこの世に1作品足りとも存在していない。
全て名作は朽ちていくんだよ。
それは、作品に込められたメッセージが古くなるのではなくて、俺達が読めなくなるんだよ。
俺達には手が届かない。
だからどんな名作だって、その名作の本当の味を味わうことはできないんだ。
ショパンがその手で響かせていたピアノの音色を、俺達が耳にすることはできないように。
失われてもはや取り戻せない。
だけど、俺達はその片鱗だけでも、味わうことができる。
きっと完全ではないが、味わえる。
だって、人の心には百年でも千年でも、最も深い所に変化はないからだ。
そう信じるに足る何かがある。
眩いだろう。
なんか胸がときめくだろう。
ナルシスティックな気分になるだろう。
何十年かしたら、今読まれているラノベは苦労なしに読めない物語になっていくのだろう。
教養のための本になっていくのだろう。
それでいいんだよ。
そしたらまた別の何かが読まれるさ。
そうして俺達は滅びていく。
俺達の感動は、俺達の号泣は、俺達のナルシスティックな情動は、受験生を一喜一憂させる国語の試験の点数に押しつぶされて消える。
俺達が滅びた後で、意識高い系のインテリ気取りが20世紀末から21世紀初頭にかけての文学として、読み解くのに苦労するものとして、ラノベを語るのだろう。
それがちっとむかつくってだけだ。
まずは手紙を送って下さったことに感謝します。あなたは聞き飽きた
ことでしょうが、この世の中ではたとえそれが望まない形で絶縁することに
なろうと知り合う方は限られていますし、あなたの方からこうして
不意に(前は一日に五十通もの手紙を送って下さっていたと記憶していますが)
ちなみに五十通の手紙はどれも一行しか殴り書きがしていなかったので、
後でメッセージを全部部屋に並べて繋げないと意図が分からないので
苦労しましたけれど、それも懐かしい思い出です。
ただ、相変わらず変わっていないなと呆れるのは、葉書がないからといって
適当なものに文字を殴り書きして切手を貼って送るあなたの非常識です。
団扇やスルメや読み終わった太宰治の文庫本のカヴァーに切手を貼って送って来る
なんていうのはまだまだ常識的な判断なのではないかとさえ最近は思えるようになってきました。
サンドペーパーに切手を貼って送ってくるなんてのはドゥルッティ・コラムの真似事でしょうか。
おかげであなたの手紙と一緒に配達された手紙はさぞかし傷ついただろうと私が傷つきましたよ。
それにレタスやキャベツの葉っぱ、あるいは私が大好物だからといって鮭の皮に切手を
貼って送るのも止めていただきたい。夏場は特にそうです。まだ食べ終わったばかりのスイカの皮に
殴り書きなんて嫌がらせですか。おかげで他のダイレクトメールが汁でベトベトになったので
読まずに捨てました。あなたのそういう無神経な所が嫌なのです。せめてアンデスメロンの
皮にして欲しい。以前に言い合いになったけれど、メロンの皮のほうが私にはより
さて、あなたが送って下さったサロンパスですが一体何が書いてあったのか例によって
分かりませんでした。ですので肩が凝ったのでそのサロンパスを使わせてもらっています。
今から彼女を風呂で洗ってあげなければいけない。差し当たり私の方から伝えたいのはそれだけです。
年収も仕事も特に変わったところもないし、身体だけは相変わらず丈夫でいます。
何も心配されることはないので喜んで下さい。それでは来世で会いましょう。
ライトノベルに限らないが、構造的に「馬鹿にされる」場合がある。
定義が曖昧で、玉石混交で、定性的に評価されるもの全般のことね。
すると、自分の感性で都合良く石だけピックアップして馬鹿にできる。
定量的に計測できたって、好きに時系列を切り出して、定義付けを恣意的にすればなんとでもなる。
そして、「なんとなくこういう批判がある・こういう擁護がある」と藁人形を用意すれば、
そこで、馬鹿にするのはどういう人か、何が批判足りえるのか、振り返ってみよう。
「無い」事の証明は難しい。
だから「有る」もので「ライトノベルで無い」モノを追いだしていこう。
だから、「絵が恥ずかしい」というのは、表紙絵に対する批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(勿論、「アニメ絵は恥ずかしい。太宰治もあれじゃ買い難い」とする批判はあるが、ライトノベル批判とは別軸)
キャラ立ちという意味で、ホームズを超える名探偵は出てきただろうか。
だから、「類型的なキャラクターが出てくるだけ」というのは、その手の小説批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(以後省略するが、そういう批判は当然あって良いが、ライトノベルとは独立)
ファンタジーやSF、ミステリから哲学に至るまで、子供向けに書かれた本を読む大人は多い。
だから、「子供向けに書かれた小説を大人が読むのは」というのは、その手の読者批判であって、ライトノベル批判とは違う。
これに関しては、まさに定性的な(感性の)話になるため、具体例は省略したい。
ここでは、スタージョンの法則(啓示)を引用するだけにしよう。
SF(science fiction)の90%は、ゴミでカスでクソだ。
同じ基準を使って、映画、文学、民生品等々の90%がクソだと示せる。
だから、SFの90%がクソだという主張(または事実)は、究極的には何も意味しない。
だから、「ライトノベルの大部分はクソだ」という批判は、何の情報量も無く、ライトノベル批判とは違う。
ハワイ沖で行われる海軍の多国合同軍事演習のさなか宇宙人が侵略してきて、自衛官と海兵隊員が反目しながらも撃退するという
まあ、インディペンデンス・デイと戦艦ミズーリを足してブリトーで割ったような映画だ。
素晴らしく面白い、愛すべき馬鹿映画だが、批評家からは当然のように酷評されている。
何が言いたいかというと、批評家の評価と、馬鹿であるかどうかとは、分けて考えられている。
ビール片手にゲラゲラ笑いながら見るような「ジャッカス」みたいなのを「馬鹿だ」と言うのは、批判ではない。
さっき言ったように、「馬鹿」であることは、比較的独自の軸になる。
その上で、馬鹿にしているのは、例えば「パンチラの絵を付けて恥ずかしくないジャンルは馬鹿にされて当然」のような、
「ライトノベル」を「小説の一ジャンルとして、格下である」とする主張しか、残念ながら観たことがない。
これは、BLを趣味とするのは気持ち悪いだとか、サラリーマンが通勤中に漫画雑誌を読むのはガキっぽいとか、そういった類の主張だ。
好悪の主張であって、それはそれで、仕方がない面はある。
雑誌の表紙に水着の女性を持ってくれば売上部数が上がるが、職場で休み時間に読むのはどうだ?というレベルの話だ。
ワリと珍しいのだが、硬派なSFとライトノベルSFとが全く同じ題材を描いているものがある。
アーサー・C・クラークの「楽園の泉」と、野尻抱介の「ふわふわの泉」だ。
(まあ、内容的にはチャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」のもじりの方が相応しいとは思うのだが)
両者とも、「ロケット以外で宇宙に進出するための、巨大構造物を作り上げる人物」が主人公だ。
ポイントは、「楽園の泉」がハードSFか否かであるとか、「ふわふわの泉」がラノベかどうかではなく、
この両者を比較して、「どちらが低俗か」を論じる意味があるかないか、だ。
「どちらがより高尚か」や「どちらの方が格上か」でも良い。
ここまで題材が同じだと判りやすいのだが、
「大人なら、『ふわふわの泉』ではなく、『楽園の泉』を読むべきだ」
とは、ならないだろう。
だって、違う作品なのだもの。それは批判ではなく好悪の主張だ。
「『楽園の泉』は、建築家の名声について拘りすぎて主張がボケている、『ふわふわの泉』の方がSFとして良く出来ている」
なんていうのは、馬鹿にしているのではなく、(正しいかどうかは別として)SFを軸にした批判になる。
アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」と、司馬遼太郎の「梟の城」と、佐島勤の「魔法科高校の劣等生」とを、
一緒に並べて比較して、「魔法科高校の劣等生を読むのは馬鹿だけだ」と言うことに、意味があるだろうか?
俺TUEEEE系の源流をたどって、湖の上を歩く男の話まで遡ったり、本邦においては勧善懲悪の仮託先であるとか、
そういった論文を描くことは意味があるかも知れないが、「馬鹿にする」というのは比較的には品のない行為だと思う。
例えば、今話題のピケティの「21世紀の資本」を読むのが大人で、百田の「海賊とよばれた男」を読むやつが馬鹿にされてもしょうが無い、みたいな言い方はしないだろう。
現代ソマリア海賊を描いた「キャプテン・フィリップス」を見て「『パイレーツ・オブ・カビリアン』を見るとか馬鹿にされてもしょうが無い」みたいなことは言わない。
というわけで、馬鹿にする方の品性を疑うべきだと言うのが、オレの意見になる。
どんな作品でもファンは居て良いと思うし、蓼食う虫も好き好きと言う。
例えば俺はバトルシップが大好きだが、蛇蝎の如く嫌う批評家が居るのも否定はしない。
アナと雪の女王よりはベイマックスの方が面白いとは思うんだが、GoGo好きなだけだろと言われれば否定はできない。
というように、主観的な好悪と、その技芸における比較批評、そのジャンルでの売上高なんてのは、全て独立の話だ。
そう言った点で、ラノベの中に上手い下手、エロに寄り過ぎだとか構成が稚拙だとか、そういった批評はあって良いと思う。
ただそれは、作品単位、出来ても作家単位の話であって、「ラノベ」全般に広げるのは主語が大きすぎて乱雑に過ぎる。
9割のクズを観てそのジャンルを否定するのが愚かであることは映画や絵画においては一般的なのに、ラノベがそうでないのは不幸なことだと思う。
文学だけで生きてるとこうなっちゃうのかねえ、くだらないこと考えるな。
みたいなのってお前太宰治とか相手でもいいそうだな。くだらないのはお前だろ。
酔っ払ってヘマをして、思う。やめよう。もうやめよう。アルコールやめよう。
そう思ってお酒を断つ。1日飲まなかった。2日目も、ぜんぜん飲みたいとは思わない。あぁやっぱり自分は大丈夫なんだ! と思って一杯飲んで、翌日から毎日飲む。だって私、アル中じゃないみたいだし。
しばらくしてまたお酒でしくじって、また思う。もうやめよう。もうやめよう。本当に反省する。飲んだっていいことなんか、一つもない。お金もかかるし、きらわれる。健康にだってよくないんだ。
そう思ってお酒を断つ。1日、2日、3日と飲まずに過ごす。すると突然、アルコールとはぜんぜん関係ないところで大問題が起きたりして、天を恨む。
おい!! 私は、飲まずにいた。まじめにしっかり、生きていた。なのになんで、こんなにひどい仕打ちをするの?
と思ってまた飲みはじめ、しばらくしてまたお酒でしくじって、思う。今度こそやめよう。もう絶対やめよう。
でやめるとまたひどいことが起こって、こんなときはさすがに飲まずにいられるか! って、飲みはじめて、またしくじって、でもこの辺りになるともう「そうだ、どうせ私にはお酒はやめられないんだ」と思ってもうやめる気も起きず、「お酒で死ぬならそれもいいかな」と思って飲みまくり、毎日のようにひどい目にあって、だけどもうお酒くらいしか友達なんていないから、飲むしかなくって、じゃんじゃん飲んで、わあもうどうでもいいや、これ以上ひどいことなんて起こるはずがない、いいや、これ以上ひどいことが起きたらそのときはまた飲んでやる、太宰治なんてアル中だけどえらい小説家になったんだし、いいやもう路上で死んだってお酒しかないんだもの私には。
そう思って実家に連れ戻されて夫に離婚されて、もともとアンタの浮気が原因で私はこんなに飲んでんのに! 何、スネたような顔して離婚届なんか持ってきて? 本当に悪いのはあんたでしょう!
と思って親に隠れて、また飲んでしまう私なのでした。
いきなり浅田次郎の『お腹召しませ』の跋から引用するんだけど「貴き母国語の司祭たる小説家は、その記す言葉の一句一行に責任を負わなければならぬ」って、これなかなかカッコイイこと言ってるけれども、浅田次郎の文章だってたいがいひどいときはある。語彙は豊富だけど脂っこすぎるから格調が損なわれちゃって、なんだか下品だなーって思っちゃう瞬間も多いよねってわりと共感してもらえると思うんだけどどう?
で、こういう話をしてると必ず横から口を出してくる手合いがいて、言うことには「最近の小説家は文章のレベルが低すぎる」。こういうやつには気をつけなきゃいけない、なにしろこいつはそんな侮蔑的なことを言いながらむかしの小説をあんまり読んでないからだ。たしかに百田尚樹はおそろしいくらい下手な文章を書くし、現在まで残ってるむかしの小説家の作品の多くはたしかに文章が上手くて、そのうえたとえば川端とか百閒とかの異常な怪物がぐーんと平均値を上げちゃってるもんだから勘違いする。ひどい文章を書く作家の作品は当然のように消費されただけで現在まで読み継がれてるものは本当に少ないってことくらい考えればわかるんじゃないの? 面白いことは否定しないけど、三十年後の子供が『永遠の0』とか『ビブリア古書堂の事件手帖』とか『容疑者Xの献身』とか読んでるわけないじゃん。だいたい残ってるひとでいってもひどい文章の作家ってのは残念ながらちゃんと存在していて、ほら太宰治とか田山花袋とか小林秀雄とか超ひどいじゃん。あ、でも内容は面白いと思うよ、田山花袋以外の2人はね。
まあ浅田次郎は「小説家なら上手な文章を書け!」とは言ってなくて、素直にちゃんと読むと「小説家の文章は日本語を使うひとにとってはお手本なんだから、せめて間違いのないように書かなきゃいけないなあ」って意味でしかないんだよね。だから話はもうとっくに逸れてるんだけど、なんか言いたいこと思い付いたから文章のうまいへたの話を続ける。
そもそも無機的な文章と小説の文章のうまいへたってぜんぜん別問題で、都市伝説レベルの話で好きなんだけどさ、三島由紀夫ってもともと官僚だったんだけどすぐ辞めたのね。ちゃんと東大出てたくせにぜんぜん仕事できなかったんだって。なんでかっていうと三島の書く文章がかっちりしすぎてて、官僚にとっての必須スキルである「余地を残す」文章を書くってことがまったくできなくて、まあ言ってみれば文章がうますぎて向いてなかったんだってさ。これはさすがに誰かが作った伝説というかいたずら話だと思うんだけど、三島の文章って異常に人工的でみっちりしてるから何となる「あーわかるー」ってなっちゃう。改めてなかなか好きな作り話だ。
たとえば誰だろう、最近でいうと朝吹真理子って年齢のわりに文章がうますぎてサラブレットってこういうことかあって感心するんだけど、このひとがふだんの小説やエッセイで使ってる文章で書いた報告書ってたぶん読みにくいよね。いや、なんでそこでひらがなつかうんだよって苦笑いしてる上司の図ってめっちゃ想像できてかなり笑える。だいたい文章(文学)ってのは芸術なんだから美しくなければ嘘でしょう? ってみんな大好き古井由吉先生も松浦寿輝との往復書簡でさらって書いてたけれど、まあそこまで大上段からカッコイイことは言えないけれども、まあ言ってることはわかるじゃん?
芸術なんだから判断は割れちゃうんだよ。日本人はフェルメールが好きってよく言われるし、高校生はなぜか「はしか」のようにラッセンを好きになっちゃう時期を迎えるものだけど、美醜の基準なんてひとによって違って当たり前なのよ。モーツァルトとサリエリの格付けは「アマデウス」がしちゃったけど、ヴェートーベンとシューベルトのどっちが上って難しくない? って書くと「おまえさっき太宰が下手だって言ってたじゃん!」とかひどいのになると「山田悠介! 山田悠介!」なんて連呼されちゃうんだけど、山田悠介はうまいへたじゃなくて「間違ってる」からダメだよ。とかいうと「保坂和志! 保坂和志!」って返ってきそうでキリがないのでいいわけをやめる。
何が言いたいかって実はまったくの逆で、それでも文章のうまいへたって、きっと存在してるんだよね。いや少なくとも自分のなかでは間違いなくあるんだよ。同じことを何回も言わないで済ませられるかとかね。何気ない言葉の選び方とか、リズムとか句読点の位置とか改行のタイミングとか語順とかセンテンスの長さとかほんといろーんな要素が絡み合いすぎてて、たとえばリーダビリティって文章のうまさに入るのって言われちゃうともう答えはまったく出ない。でも個人的には入らないと思ってるって結論だけはちゃんとあるんだ。
そろそろみんな気付いてると思うけれども自分なりにうまい文章を書きたくて書きたくて、読み返して「わあ、おれって文章うめーじゃん!」って思いたくて自分なりに努力してきたんだけどまったくダメで、下手でどうしようもない文章なんだけど文章を書くのは好きで、だから深夜にこんな下らない長文を書いてストレスを発散しているんだけど、まーまず間違いなくこの文章は読み返さないよね。ひどいから。
文章書くのってなんていうか心地よい行為だと思うし、こんなところに文章書いてるくらいだからみんなもきっと文章を書くことが好きで、だからさー、なんていうのかな、小説家とか関係なくってこうやって日常的に文章を書いているおれたちなんかはさ、上手な文章を書きたいなっていう欲求を誰しも持っているんじゃないかって思うし、その欲求には忠実になってもいいと思うんだよね。
あー、文章うまくなりてーなー。
明日死んだらどうなるんだろうと、よく考える。
去る6月19日は太宰治の命日だ。
墓にはたくさんの人が溢れていた。
若い女の2人組が楽しそうに話していて、なんだか興ざめした。
太宰は何回も自殺しようと試みて、やっとこさ六回目でこの世を去った。
太宰も「明日死んだらどうなるんだろう」と考えたのだろうか。
それともそういったことを考えることが面倒で、この世を去ろうとしたのだろうか。
僕はというと、明日自分が死んだら、ちやほやされて案外悪くないんだろうなと思ったりする。
もちろん死ねばそれらを感じることは出来ないのだろうけど、僕の死のために悲しんだり、
泣いたりする人がいることを思うと、なんだか悪い気分ではない。
「人生の意味を本気で考えだしたときが人生の終わりなんだよ」彼は言った。フライドポテトをつまむ手と、唇には油がこびりついている。そして続ける。
「それに気づいてしまった奴は一人残らず死んでる。具体的にはマンションの4Fから飛び降りてる」
「いいや。それも違うね。一般論すぎるね。本物はもっと早い。もっと早くに人生の意味を考え、小説はおろか、遺書1つ残さず死んでるんだ」
「でもね、生きている人だって沢山いるわ。そんなこと考えたこともない子も沢山。現に私がそう」
「そういう人は天才だよ。生まれながらの天才だよ…嫌そうな顔しないでくれよ。皮肉を言ってるんじゃない。僕はね、人生はテーマパークだと思っている。待ち時間と食事の代金が高いことを気にしなければ、楽しいことだらけさ。適度な刺激と、そして最近になって遊具の安全性が見直されたんだ。ほとんど死ぬことがない。そんな遊園地には奇妙なルールがある。それは裏側を見てはいけないんだ。例えば着ぐるみのファスナーを探したり。アトラクションの裏で巨大な機械が轟音を立てているのを見たり。そういうのを見てしまうと、決して元には戻れない。絶望して、観覧車のてっぺんから飛び降りるしか無くなるのさ」
「そこには救いがないの?一度気づいてしまったらもう戻れないのね?」
「救いはもちろんあるさ。それは簡単ことさ。ハリボテも、ファスナーの奥のおっさんも含めて世界だと認めることさ。そして僕らの世界は確かに作為的な、人工的なものによって作られていると知ることなんだ。その不完全な世界を、許してあげることさ」
何かを求めるくらいなら
業界は基本的に嘘つきだと思いましょう。嘘をついていないほうが例外です。
と教えたほうが早いだろ。
一部の誠実な人たちには非常に申し訳ない話ではあるが
という形が一般的になったとしても(というか昔は誠実な表記が一般的な気がしないでもないが)
いずれ、嘘をつく人が出始めて、利益が出るから出世して業界全体が嘘つきになるのは時代の流れ
だったら、
業界は基本的に嘘つきだと思いましょう。嘘をついていないほうが例外です。
嘘をついていないことが確認できない場合は、嘘がどこかにあると思いましょう。
と教えたほうが早いだろ。
ひどい話だけどな
というか、当たり前の話だけど誠実にするということは高コスト体質になるという事を言っているので
「現実を見ろ」という私の大嫌いな言葉があります。現実。しかし、はたして現実とは一体どこにあるのでしょうか。「現実を見ろ」という文句が使われるのは、例えば、良くも悪くも夢見がちな青年が、隣にいる彼の友人(この友人はいつも現実主義です)と飯を食っている最中、ついつい夢を語ってしまう時があります。すると彼の友人はこういう瞬間を逃さず、「おいおい、芸術家になるだって? やめときなさい。現実を見なさい」などと忽ち活気を得てラーメンなんかをすすり始める時だったり、はたまた、漫画や小説、映画やアニメなんかを趣味にしているマニアに向かって(彼らはよく標的になっている気がするのです)、「それは作り話だ。実際なかなかああいう風には行かない。シナリオ・ライターが苦心して観客を喜ばすように書いてるんだからね。現実を見なよ」等々の勝利宣言を放って、彼女を連れて大声で笑い始めるなんて輩もしばしば見受けられます。しかしながら、私は時折ふっと、逆に現実をよく知っているのは芸術家・マニアの方ではないのだろうか、と思い浮かべるときがあるのです。それはもちろんマイノリティーに属している彼らの境遇を客観的に自覚している、という意味合いもありますが、私の要旨はもっと別のところに有ります。
いちおう触れておきますが、私は主観と客観についての哲学を始める気は全くありません。西田幾多郎の純粋経験などもなかなか真に迫っており「現実と幻想」という内容に大抜擢な気もしますが、あまり堅苦しいのはいけません。この段落はもう終わりましょう。
さて、恋愛とは幻想の見せ合いであることを私は疑いません。またこういうことを言うとスグに嫉妬、嫉妬と叫び始める連中もおりますが、悲しいかな、これまでの私の恋愛で上手くいった経験は必ず最初から最期まで嘘を突き通しておりました。反対に、恋愛の相方に神を見出してしまった場合なんかは、いつも壮絶な破局を迫られて自爆するのがオチでありました。全部の人間がこういう経験をしているのかはわかりませんが、所謂「家庭的な幸せ」「人並みの幸福」というものの正体は、どうやったって(オトナ的な?)妥協的精神とは比翼恋理の関係を持たないでは成り立たないものである、と私は納得せざるを得ません。庶民的なシアワセ、それはそれでいいのですが、すると逃げ場を失うのは我われが以前から持っていた“幻想”であります。挫折と失敗を繰り返して誕生した泥まみれの現実的シアワセとは対照的に、何も知らず生きていくうち自然と思い浮かんでしまったこっちの理想的幻想は実に純粋で、張りのあるすべすべの肌をした巫女みたいな輝きがあります。しかしこのいと辛き浮世のもとで伴侶を手に入れたら、遍く全ての男たちはこの巫女をヤァッとカタナでバッサリやらねばなりません。それでそのまま死ねばいいのですが、どうやらそううまくいくのは少数派のようで、切られた巫女はゾンビになって蘇り、男の知らない間にソロソロと取り憑つきはじめ、より一層極上の幻想を求める奴隷に調教されるのがどうやら普通のようです。巫女どころかまるでサキュバスであります。
私の言いたいところはだいたいこのような意味合いであります。それでは、なかなか充実していそうな男に「現実を見なよ」と言われたらどうするか。これまでに私が言ったことを思い出して、恋愛は幻想であり、全ては何も存在せず、一をして全である……と諭すのもどこか惨めなものがあります。さらに一流の幻想家でさえ、どこかの女性にコロッとオチてしまうことも無きにしもあらず。人間とは元来理屈の権化ではないようで、バカの方が人生楽しいという説もなかなか揺らいでしまう説得力があります。
それではやはり彼らが「現実を見ろ」と言うように、幻想はいけないものでしょうか。しかし私はとうとう幻想を全否定する選択はできなかったようです。きっと我われには、現実も幻想も両方必要なのでしょう。どうも両者には、お互い対極にありながら根底は繋がっていて、どちらかを失くしてしまったらもう一方も倒れてしまうような性質があるようです。現実を見ろ。よろしいでしょう、彼女とお幸せに。せっかくなので、私は現実も幻想も貰っていきます。
人間に現実を直視する以外方法がなく、夢見の幸福がなかったら、人類はとっくの昔に全滅しているのではないでしょうか。毎朝、山手線は死体で埋め尽くされ、リストカットは大流行し、樹海は人の海になる。練炭の燃やしすぎで温暖化は早まり、玉川上水にて太宰治のモノマネがブームになったり、負けじと三島由紀夫式切腹が無形文化遺産に登録される。……
我われはきっと憎むべき幻想によって、何度も何度も立ち上がることができるのでしょうね。
これを書いた本人だけど、どうしてこういう物事を一面的にしか見れないバカが生まれてくるのか。
片付けるというか、なぜ心中を図った愚か者を神格化しなきゃいけないんだ?
全く同じ様な葛藤のすえ、心中を測ったり覚せい剤に溺れて死んでいった人間にお前は共感するのか?しないだろ?
歌が良かった、書いた本が素晴らしかった、それはそれ。
それとその他の愚かな行動を同じものとしてそれを美化するようなお前が危険な思想に走って社会を混乱させるんだろうが。
お前は雑魚でそんな力がないかもしれないが、それが、多数になったり、一部の、力、をもった人間がそういう思想に走ると危険だってんだろ。
あほなのか?
尾崎豊かが覚せい剤をやったことと太宰や芥川が自殺したこと、それはすべて素晴らしいことなのか?
逆だろ?彼らはそれらの「才能」が評価されたことにより人と違った道を進んだ。
その結果、おかしな思想にたどり着いたりやりきれなくなって死んでいったに過ぎない。
作品を生み出すまでは評価するが、その道へ行ってしまったのは何も評価するところではない。単なる犯罪だ。
おい、これに対して、正しく、筋が通る答えできるのか?
ブログ運営のための(略)の有村悠粘着記事をまとめてみたPart1・Part2の続き
考察 | 2012.05.30
このブログでなぜ有村悠さんを取り上げるのかというと、たぶん有村さんの目立ちたがり屋な部分に刺激されているのだと思う。こういうタイプ
の人は他人の好奇心を刺激するのである。有村さんは目立ちたがり屋な性格でずいぶん損をしてきたはずだが、これは生まれつきなので、今さら
地味になるのも無理だろう。もしくは、人の人格とは歴史なので、これまで歩んだ道のりを修正することは出来ない。(リセット出来るとしたら
、有村さん...
話題 | 2012.05.29
https://twitter.com/y_arim/status/207335654953197568我らが有村悠さんは、かつて若い頃才能を過信し道を誤りました。現在はそのため苦境
に陥っています。しかしいいじゃないですか。才能を信じて身を滅ぼすなんて、よくあること。そうやって誰かが賭けなければ世の中は面白くな
りません。東大入学者全員が公務員になることだけ考えて生きていたらみなさん満足するんですかね。さて、有村さんの家庭環境についての情報
。川崎に住...
話題 | 2012.05.12
やばいですよ。有村悠さんが発狂されていたモバゲー版アイドルマスター。僕も真似してやってみたんです。ちまちま気長に遊べるゲームかなと
思ってました。しかし、ある程度やってくると、そういう域を超えてしまう。散歩してりゃ信号待ちの時にアイマスチェックしたりとか。これじ
ゃ駄目なんだよ。お金を使わずに気長にプレーするという志はどうした?しかし、モバゲーの怖さを体感してるところです。絶妙なんだよね。雑
に言うと、...
話題 | 2012.05.12
モバマスに7500円突っ込んだあげく2日でやめた話 | LUNATIC PROPHET有村悠さんという境界性人格障害の人がいるわけですが、この人が、最近
モバゲーのアイドルマスターに熱狂し、まさに発狂しつつ課金していたそうです。折しもガチャが問題視される現代、その象徴的な浪費をしてし
まうのは有村さんの時代性なのかもしれません。ともかく、どれだけ狂信的なゲームなのか、ということで、私も手を付けてみました。普通のブ
ラウザゲー...
話題 | 2012.05.01
てか、痴漢の被害に遭うのは、基本的には容姿やスタイルに恵まれ、従って、日常生活で不当に得をしているはずなので、痴漢ぐらい我慢するべ
き。いちいち訴えるとかどんだけエゴイズムのかたまりなんだよ。俺は上野公園の満天の夜空の下で毎日ダンボールハウス生活だけど、周りの山
さんとか玄さんと日本酒飲みながらこれくらいの猥雑な話はしてるよ。あのお姉ちゃん手篭めにしてえなあ、とか。酒臭い息で言うけど、誰も見
やしない。...
話題 | 2012.04.20
有村悠さんみたいにネタになる相手ならいいけど、今回のはひとつも面白くないからなあ。単につまらなく、疲れるだけです。境界性人格障害の
人はたぶん不安を抱えていて、その不安を一人の人物によって解決しようとする。そのターゲットに選ばれたのが俺だった。よくわからない愛読
者の人がいて、愛読者のわりには、うちのブログの方向性に文句言ってくるので面倒だとは感じてました。そのうち彼のブログで俺のブログの露
骨な模倣な...
話題 | 2012.04.12
俺ら一部のアウトローの間ではカリスマ的存在になっている有村悠さん。なかなかブレイクしません。岩崎夏海のような巨大岩石がベストセラー
出したり、津田大介のようなwinny本の権威が連日テレビに出ていたりすることを考えると、有村さんの不遇は信じがたい。まず状況から考えま
しょう。津田大介はTwitterとは何の関わりもないのに代表者のような面をしてました。このハッタリは結果的にかなり成功した。Twitterに関し
てコメント...
話題 | 2012.03.22
https://twitter.com/#!/y_arim/status/182441802660458497「きっと何者にもなれないおまえたち」の代表である有村悠さん。まだ32歳なの
に、163センチ75キロの体型だそうです。いや、30過ぎれば、太るのは時間の問題なのですかね。普通の人よりメタボが早く来た程度でし
ょうか。これから成人病とか白髪の増加とか更年期障害とか、いろいろ出てくるんでしょう。かつて東京大学に現役合格した頭脳も、中退したし
、あんまり...
人間失格 (集英社文庫)太宰 治集英社売り上げランキング : 13150Amazonで詳しく見る by AZlink久しぶりに太宰治の「人間失格」を読み返しま
した。で、あらためて思ったのだけど、文学は挫折したままで成り立つんだよね。挫折した青年が挫折したままで終わりというのが可能、という
か、むしろその方が普通です。エンタメだともちろん違います。漫画とかラノベで主人公が挫折したら活躍フラグですよ。必ず巻き返す。文学は
そうではな...
話題 | 2012.02.10
思うんだけど、有村さんは逆転満塁ホームランを打てるつもりだったと思うんだよね。高等遊民を気取り、ピエロのように振る舞っていたのは、
自分の中で成功する確信があったはず。堕落しつつも逆転できると思ってた。いずれはベストセラー作家とか、カリスマ批評家の類には当然なれ
るだろうと考えていたはずです。だからこそ、周りも、本人のそのような自意識に悪ノリして、煽ってきた部分も大きい。ただ、現在だと、有村
さん本人も...
話題 | 2012.02.04
有村さんについて説明必要でしょうか?元はてなのアイドル的存在です。東京大学中退の32歳です。現在はフリーライターとして困窮していま
す。目鼻立ちが整ってるのである種のイケメンなのですが、肌つやがよくないので、特別なイケメンではないです。(肌つやがいいと、パーツが
変でもイケメンに見えるんだよ)。ツイッターでフォロワー1万人いた時期もあるんだけど、ぶち切れてブロックしまくったので、現在は素人レ
ベルの状態...
猫が死んでも猫の美しさは死なない(理想通りにならないと破壊する愚かな行為)
話題 | 2012.01.14
有村悠さんという人がいます。東大に入れば中退し、はてなでアイドルになれば退会し、Twitterでフォロワー1万人間近でブロック祭りなど、
衝動的な行動の繰り返しです。彼はたぶん、行動した時はスッキリしている。せいせいした感じだと思う。しかし後から悔いて、自分が切り捨て
たものの重さを知るのです。失ったものは戻らない。有村さんはかなり極端だけど、僕らでも思い当たることがあります。破壊した方が、短期的
にはすっき...
話題 | 2011.12.22
有村さんについてはあんまり説明の必要はないと思います。東京大学を中退し今は底辺フリーライター生活の32歳です。「家政婦はミタ」が原
因でその有村さんが自傷行為を行ったそうです。それをTwitterで公開するという暴挙。まあフォロワー1万人目前でブロック祭りをしたので、
幸い見てる人は少ないけどね。東大を中退した時点で人生が詰みすぎてるので、今後もこういう行為は続くでしょう。恐いですね。...
話題 | 2011.12.19
本当の意味で精神病的なものはwatchの対象にはならない。精神病的な人は、単発ではwatchされるけど、理解不能であるため継続的には見られな
い。かなり変で話題になるとしても、一発ネタみたいな扱い。それ以上は付いていけない。継続的なネットwatch的の対象になる一番の原因は多
動性だと思う。多動性を発揮している人は、かなり長期に渡ってwatchされる。もしくはwatchする人も、多動性の障害なのかもしれない。類は友
を呼ぶと言...
話題 | 2011.12.15
有村さんって年齢がわからないよね。とにかく不健康な面構え。20歳にも見えるし40歳にも見える。実年齢は32歳だったと思うんだけど、
まあ何歳でもいいや。年輪が顔に刻まれないとこういう年齢不詳な顔になるんだね。
https://twitter.com/#!/y_arim/status/147292399129997312その底辺フリーライターの有村さん。平日の昼間から延々と動画配信してるようで
す。Twitterのフォロワー1万人目前でブロック祭りやったから、もはや...
話題 | 2011.12.12
有村悠さんという人がいます。遠い昔東大入試に合格したことが唯一の自慢の30代のオッサンです。こんなことを言ってました。自戒も込めて
言うと、30代に突入すると、インプット出来なくなるよ。多少無理して吸収しないと駄目です。20代前半の頃なら、巡り来るものがみんな新
鮮で意欲的に吸収出来るんだけど、30過ぎたらそういうアプローチでは駄目だ。食欲が0でも、食べたくない料理を無理矢理口にするくらいの
根性がない...
話題 | 2011.12.10
Twitterでフォロワー9500人を超え、そろそろ1万人に到達しようとしていた有村悠さん。発狂してブロック祭りを行ったわけですが、途方
に暮れているようです。私の方からツールの使用を薦めてみたのですが。。。。ブロック8000人ともなるとエラーになるんですね。Tblotter
が悪い!有村さんは悪くないよ。やはりみなさんはアカウントを取り直して有村さんをフォローすべきです。...
話題 | 2011.11.28
有村悠は発狂して9500人のフォロワーを1000人程度にまで減らした。その後鍵を掛けていたんだけど、最近復活した。しかしフォロワー
が数えるほどしか増えてない。これは奇妙な現象です。考えられる理由を列挙するとして、まずひとつは有村がオワコンであるということだ。ネ
ットでの評価は累積であって、今の成績じゃないんだよ。グーグルという悪の会社が過去の評価を引き継ぎ続けるというマジキチな検索エンジン
を作ったも...
有村悠さん、Twitterの鍵を外す。目立ちたがり屋は治らないね。
話題 | 2011.11.22
遠い昔東大入試に合格したことだけが自慢の種で、中退後、今では30代高卒フリーライターの有村悠さん。突然発狂して1万人近いフォロワー
を次々とブロックして1000人くらいまで減らし鍵も掛けていたわけですが、ここに来て鍵を外したようです。有村悠を見てると、目立ちたが
り屋というのはかなりの欠点なのだと感じます。道徳的悪ではないのですが、欠点なのです。目立ちたがり屋な人は、対人関係もうまくいかない
。時として...
話題 | 2011.11.16
有村悠がTwitterの鍵を開けるまで悪口を書き続けようと思う。さて。この世界は、楽しむ気があれば、そこそこ楽しめるのである。第二志望で
満足し、ハードルを下げて、身の程を知り、ブスと付き合うのを楽しめる感性があれば、だいたいやっていける。逆に言うなら、ハードルを下げ
ない人間は楽しめないようになっている。そういう心理的な固着がマゾヒズムなのだ。マゾヒズムというのは、要は理想主義なわけです。現実と
和解しない...
話題 | 2011.11.13
Twitterでフォロワー9500人を超え、そろそろ1万人というところで発狂した有村悠。フォロワー1000人くらいにして続けているようで
す。アカウントを消せばいいのに、消せないのはやはり命綱なのですかね。。。いかにも彼らしいです。有村悠は身長163センチです。女の人
がよく「男性の身長は普通であればいい」と言いますが、この場合の普通とは168くらいがギリギリだと思います。168あれば男性として認
識されるが...
話題 | 2011.11.06
Twitterでフォロワー9500人を超えていた有村悠。ここに来てキレたようです。Twitterに鍵を掛けた模様。フォロワー1万人を目前にして、
これも投げ出しました。プライドの源である東大は中退、居場所だったはてなから追放され、今度はTwitterも放棄するようです。東大に入った
時は彼の人生のピークだったんだろうけど、時間が経過するにつれて高卒らしい頭の使い方が出来るようになったみたいです。30代になってる
のに金髪で...
話題 | 2011.11.04
https://twitter.com/#!/y_arim/status/132315698834845696https://twitter.com/#!/y_arim/status/132320274187169792有村悠さんと言えば、
現在Twitterでフォロワー9500人を抱える人気者です。そろそろフォロワー1万人はいくでしょう。しかし底辺フリーライターとしての経済
状況は芳しくなく、強盗とか不穏な発言までしています。東大を中退するとここまで落ちてしまうのですね。東大卒で32歳なら、年収1000
万円でも不...
話題 | 2011.10.12
とうとうMFまで角川傘下です。現在の角川の井上社長は早稲田大学中退なんですよね。在学中から編集に関わり、そのまま中退で、いつの間にか
角川社長です。この世代だと、「早稲田では中退が一流、留年が二流、四年で卒業するのが三流」とか言われていたはずです。井上社長はそれを
実践したと言えるでしょう。現在は、長期の不況下ですから、昔のようなドロップアウト幻想はありません。公務員になるのが最高の人生という
価値観が蔓...
話題 | 2011.09.22
有村悠さんと言えば、才能がないのに漫画家を志し、案の定まったく芽が出ず、その後はライター稼業と同人生活をダラダラ続ける32歳です。
福本伸行の漫画に出てきそうな人ですが、東京大学中退という無駄な経歴が泣けます。転がり続けて32歳になりました。Twitterではフォロワ
ー9000人いるし、ネットで金を無心すると十万単位のお金が集まったりします。そういう意味では、カリスマ性のある人物です。その有村悠
さん。Twitt...
話題 | 2011.05.27
「あの花」の主人公を見ていたら、人気ブロガーの有村悠について語りたくなった。日本にとってここ二十年くらい、かなり大きな社会問題であ
るはずなのに、まともに手を付けられていない宿題だ。放置され遺棄されている真っさらなノートに私なりの現状分析、もしくは、その問題解決
の難儀さを書く。有村悠は「新しい落ちこぼれ」だ。昔の落ちこぼれとは話が違うのだ。多くの人が見合い結婚をして、保守的に勤労し、マイホ
ームのロー...
話題 | 2011.05.08
[悩みのるつぼ]漫画家になりたい孫 - 岡田斗司夫公式ブログこのエントリーが話題になっているようです。たぶん「漫画家になる」というのは
、日本だと一番手近な逃避手段だと思われます。そのあたりでピンと来た人が多いのでしょう。さて。漫画家になりたいと言って勉強しない高校
生。この人生相談に岡田斗司夫が答えています。岡田斗司夫の回答は適切であるように思います。現実逃避で「漫画家になりたい」と言わせない
ために、期...
話題 | 2011.04.19
人気ブロガーの有村悠さん。東京大学在学中にイラストレーターを志すも実らず、そして中退。現在は月収5万円のフリーライターです。そうい
う境遇だからなのか、X JAPANな言動が目立ちます。「花咲くいろは」を見て激怒し、自分の身体を傷つけまくったようです。私も「花咲くいろ
は」は第二話まで不愉快だったので気持ちはわかります。第三話からは普通にブヒれるアニメになったんですけどね。明日もやられやく:『花咲
くいろは』第...
話題 | 2011.04.08
有村悠さんのTwitterのフォロワーは7500人いますが、ナチュラルなフォロワーが多いと思います。(つまりフォロー返しではなく、積極的
なフォロワーが多いはず)。銀行口座公開した時も25万円くらい集まりましたからね。そんな人気者の有村悠さんが高校の同窓会に出掛けたそ
うです。そしたら、参加費を強制的に免除されたそうです。「有村って東大行ったんだよな。今どんな仕事してるの?」「メディア関係の……」
「すげーな。...
有村悠さん(31歳)、アマゾンでたくさん買いすぎてお母さんに怒られる
話題 | 2011.03.31
http://twitter.com/#!/y_arim/status/53409810137354240有村悠さんのお母さんも息子さんが東京大学に入った時は一流企業に入って親孝行し
てくれると思っていたでしょう。しかし現実は、境界性人格障害のため東大を中退、フリーライターです。月収は5万円+同人誌の収益とかアフ
ィ収益くらいらしいです。よくTwitterで手当たり次第フォローする↓フォロー返しがないところは外す↓そしてまた手当たり次第にフォローの
繰り返しで、フ...
Amazonアソシエイトの「Twitterで共有」は結構稼げると有村悠さん
話題 | 2011.03.31
「Twitterで共有」というのは赤く囲った部分です。単純には、これを利用してAmazonのリンクを貼るわけです。(もちろんこれを使わなくても
貼れるでしょうが)。有村悠さんによれば、彼のアフィ収益の8割はTwitterだそうです。さすが、7000人のフォロワーを抱える人気ブロガ
ーですね。http://twitter.com/#!/y_arim/status/52852980503937024そして有村さん、自動フォロー返しツールも導入したそうです。
http://ukdata.blog38.fc2.com/blog-entry-1499.html:title=停電で絵の保存に失敗したと勘違いした有村悠さん。八つ当たりでiPhone破壊し
自分の手首も]
話題 | 2011.03.19
人気ブロガーの有村悠さん。境界性人格障害を告白してから、銀行口座晒したり手首の写真を晒したり、いろいろ大変です。今度は停電で絵が保
存できなかったと勘違いし、その怒りでiPhoneを破壊。さらに怒りで自分の手首も切り刻んだそうです。なんかX JAPANみたいですね。...
話題 | 2011.03.16
http://twitter.com/#!/y_arim/status/47681126633975809グロいので写真は貼りません。URLだけ貼っておくので、興味のある人は見てください
。不快感をおぼえても、私は責任を持ちません。http://twitpic.com/49qu4u/full境界性人格障害、東京大学中退、売れないサブカルライター、
31歳という条件ですから、手首も切りたくなるでしょう。ただ、銀行口座を晒すと25万円集まるくらいの人気はあるブロガーなので、これか
らも何とか...
話題 | 2011.03.12
人気ブロガーの有村悠さん、再び銀行口座を晒してますね。LUNATIC PROPHETこの人は東大入試に合格できる頭脳はあったのですが、境界性人格
障害のためか、才能もないのにイラストレーターを目指しました。そして現状は、売れないライターです。有村さんは東大を中退しているので仕
方ないのかもしれませんが、生まれ持った頭脳の出来を考えれば残念な状態になってます。前回有村さんが銀行口座を晒した時は25万円くらい
集まったと...
話題 | 2011.03.04
有村悠さんはネットに口座を公開したら25万円?集まったりして、かなり羽振りがよくて羨ましいと思っていたのですが、実は追い詰められて
いたようです。ですが、病気そのものは昔からなので、最近ネガるようになっただけかもしれません。今までは仮面をかぶってクールなツイート
をしていただけかも。つまり、病状の悪化とは限りません。11年前からと言ってますから、悪いのは昔からなのでしょう。有村悠さんは東京大
学在学中に...
有村悠さんが銀行口座を公開したところ、20万円以上の寄付が集まってるらしい
話題 | 2011.01.07
銀行の口座番号を公開すると、必然的に本名がわかります。ATMに口座番号打ち込めば、その口座の名前が出ますからね。筆名・有村悠さんは本
名・坂口拓史を公開して、銀行口座での寄付を募りました。その結果20万円以上が集まったみたいですね。(ページが凍結されてるので、グー
グルのキャッシュから拾ってます)。ちなみに銀行口座を公開した結果ですが、12月30日付までに計28人から総額214,507円をお振込みいただい
ております。...
というか男女間に限らず同性間でも、いい大人が友達友達言い出したのなんてここ15年くらいなんだよな。その芽は30年くらい前からだけど。それ以前のまっとうな大人は、友達友達言ってなかった。彼らのいう友達は小学校からせいぜい中学校くらいの同級生や近所の子を指していた。高校や大学の同級生さえ友達とは言わないことがほとんどだった。そして大人になるとほとんど場合生活することに追われ、同僚や近所の人、親戚以外とは没交渉になっていった。それがまっとうな大人だと思われていた。
友情なんて言葉は少年ジャンプの中(それも80年代になってからある種の違和感とともに迎えられたが)のものだった。それか国語の教科書の中で、20%の感動と80%の笑いで迎えられた「走れメロス」の中のものだった(もちろん、太宰治がちっとも「まっとうな大人」ではなく、ここにある「友情」もそういう(まっとうでない)ものであることは常識的に知られていた)。
そういう意味でも「いいとも」(あるいは大橋巨泉一味)の功罪は大きい。それでもいいとも初期は、「いい年した大人が『友達』なるものを紹介する」という状況に違和感を持つ人は少なくなかったのだ。
予は常に確信す、大正の流俗、芸術を知らず、無邪気なる彼等の常談を大真面目に随喜し渇仰するの時、まづ噴飯に堪へざるものは彼等両人に外ならざるを。
そのためには噴飯の資になることも快く甘じて受けたく思ひます。
竹竿を振り廻す男よ、君の噴飯すべき行動の中に、泪や感慨の裏打ちを暗示してはならない。
みな出鱈目だ。昆布だしの取り方はもちろん、煮だしの取り方を知らない。だから、用いる分量なども当てずっ法だ。これで料理経済を語るなどは噴飯ものである。
が、こんな空想は、空想だけに終るのだつたら、別に事新しいものではなく、ある種の宗教はそれぞれの病気をなにかしら道徳の欠如にもとづくといふ、噴飯に値するコヂつけで俗耳を迷はせてゐる。
どれも「(笑ってしまうくらいに)愚かだ、滑稽だ、馬鹿馬鹿しい」みたいなニュアンスで、純粋に「おもしろい」「おかしい」という感じではない。
これが「噴飯す(ふきだす)」になるとまた変わるけど。