「現実を見ろ」という私の大嫌いな言葉があります。現実。しかし、はたして現実とは一体どこにあるのでしょうか。「現実を見ろ」という文句が使われるのは、例えば、良くも悪くも夢見がちな青年が、隣にいる彼の友人(この友人はいつも現実主義です)と飯を食っている最中、ついつい夢を語ってしまう時があります。すると彼の友人はこういう瞬間を逃さず、「おいおい、芸術家になるだって? やめときなさい。現実を見なさい」などと忽ち活気を得てラーメンなんかをすすり始める時だったり、はたまた、漫画や小説、映画やアニメなんかを趣味にしているマニアに向かって(彼らはよく標的になっている気がするのです)、「それは作り話だ。実際なかなかああいう風には行かない。シナリオ・ライターが苦心して観客を喜ばすように書いてるんだからね。現実を見なよ」等々の勝利宣言を放って、彼女を連れて大声で笑い始めるなんて輩もしばしば見受けられます。しかしながら、私は時折ふっと、逆に現実をよく知っているのは芸術家・マニアの方ではないのだろうか、と思い浮かべるときがあるのです。それはもちろんマイノリティーに属している彼らの境遇を客観的に自覚している、という意味合いもありますが、私の要旨はもっと別のところに有ります。
いちおう触れておきますが、私は主観と客観についての哲学を始める気は全くありません。西田幾多郎の純粋経験などもなかなか真に迫っており「現実と幻想」という内容に大抜擢な気もしますが、あまり堅苦しいのはいけません。この段落はもう終わりましょう。
さて、恋愛とは幻想の見せ合いであることを私は疑いません。またこういうことを言うとスグに嫉妬、嫉妬と叫び始める連中もおりますが、悲しいかな、これまでの私の恋愛で上手くいった経験は必ず最初から最期まで嘘を突き通しておりました。反対に、恋愛の相方に神を見出してしまった場合なんかは、いつも壮絶な破局を迫られて自爆するのがオチでありました。全部の人間がこういう経験をしているのかはわかりませんが、所謂「家庭的な幸せ」「人並みの幸福」というものの正体は、どうやったって(オトナ的な?)妥協的精神とは比翼恋理の関係を持たないでは成り立たないものである、と私は納得せざるを得ません。庶民的なシアワセ、それはそれでいいのですが、すると逃げ場を失うのは我われが以前から持っていた“幻想”であります。挫折と失敗を繰り返して誕生した泥まみれの現実的シアワセとは対照的に、何も知らず生きていくうち自然と思い浮かんでしまったこっちの理想的幻想は実に純粋で、張りのあるすべすべの肌をした巫女みたいな輝きがあります。しかしこのいと辛き浮世のもとで伴侶を手に入れたら、遍く全ての男たちはこの巫女をヤァッとカタナでバッサリやらねばなりません。それでそのまま死ねばいいのですが、どうやらそううまくいくのは少数派のようで、切られた巫女はゾンビになって蘇り、男の知らない間にソロソロと取り憑つきはじめ、より一層極上の幻想を求める奴隷に調教されるのがどうやら普通のようです。巫女どころかまるでサキュバスであります。
私の言いたいところはだいたいこのような意味合いであります。それでは、なかなか充実していそうな男に「現実を見なよ」と言われたらどうするか。これまでに私が言ったことを思い出して、恋愛は幻想であり、全ては何も存在せず、一をして全である……と諭すのもどこか惨めなものがあります。さらに一流の幻想家でさえ、どこかの女性にコロッとオチてしまうことも無きにしもあらず。人間とは元来理屈の権化ではないようで、バカの方が人生楽しいという説もなかなか揺らいでしまう説得力があります。
それではやはり彼らが「現実を見ろ」と言うように、幻想はいけないものでしょうか。しかし私はとうとう幻想を全否定する選択はできなかったようです。きっと我われには、現実も幻想も両方必要なのでしょう。どうも両者には、お互い対極にありながら根底は繋がっていて、どちらかを失くしてしまったらもう一方も倒れてしまうような性質があるようです。現実を見ろ。よろしいでしょう、彼女とお幸せに。せっかくなので、私は現実も幻想も貰っていきます。
人間に現実を直視する以外方法がなく、夢見の幸福がなかったら、人類はとっくの昔に全滅しているのではないでしょうか。毎朝、山手線は死体で埋め尽くされ、リストカットは大流行し、樹海は人の海になる。練炭の燃やしすぎで温暖化は早まり、玉川上水にて太宰治のモノマネがブームになったり、負けじと三島由紀夫式切腹が無形文化遺産に登録される。……
我われはきっと憎むべき幻想によって、何度も何度も立ち上がることができるのでしょうね。