何のために生きているのだろう。
壁のシミを睨みつけながら、そんなことをぼーっと考える日々が続いている。
けれど、僕は中学生でそれを考えることをしなかった。なぜか。その頃は、それなりに生きることを楽しんでいたからだ。
生きることが楽しいなら、生きる理由などを、わざわざ理論武装する必要もない。楽しいから生きる、それで十分な理由に成り得る。
少し前まではその素朴な考え方で十分だった。でも今は違う。
今になってこんなことを考えているのは、お察しの通り、人生がつまらなくなったからである。辛いからである。
最初はその辛さから逃げようと思った。意識を低くして、できるだけ慎ましく生きようとした。
人と接するのは辛い。だから友達は作らない。勉強するのは辛い。だから勉強はしない。
そうやって、辛さからの逃避計画を少しずつ遂行していった。それとともに、もともとあった些細な生きる喜びは、ますます少なくなっていった。
それでも良かったのだ。幸福でもないが不幸でもない人生。悪くないだろう。
そうして、2年が経った。
惰眠を貪り、相変わらずぼんやりと液晶画面を眺める毎日である。学校にはすっかり行かなくなり、このままいけば、留年まっしぐらだ。
ネットはそれなりに楽しいし、自分を邪魔立てするものは何もない。幸福でもないが、不幸でもない毎日。なのに、なぜか辛い。息ができない。
こんなはずじゃなかったのだ。
やはり、辛さから逃げようとする態度が良くなかったのではないか。人生とは本来辛いもので、それから逃げようとするのがそもそもおかしいのではないか。
そう考え直したところで、僕には辛さと戦い続ける気持ちには全くなれなかった。
「私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起こしているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。」
この一節に、僕はすごく共感する。
僕は今、ひどく腹痛で苦しんでいるので、山を登らない。どうせ登らないから、山頂の見はらしなんて大したことないだろう、と酸っぱい葡萄式に世界を俯瞰している。
だから、僕にまず必要なのは、腹痛のあとの、見はらしの良い景色だ。辛い山登りの後の、至福の一瞬だ。
とりあえず、部屋を出ることから始めよう。
>何のために生きているのだろう。 それを考えるために生きてるんだよ。 >壁のシミを睨みつけながら、そんなことをぼーっと考える日々が続いている。 壁のシミを睨むために今日を...
逃避した先にある現状が「息もできないほど辛い」って自分で解ってるんじゃないか。 逃げても戦っても辛いなら、戦えば何かが変わるかもしれないね。 友達も仕事も怖いのは、臆病す...