2015-07-05

何のために生きているのだろう。

壁のシミを睨みつけながら、そんなことをぼーっと考える日々が続いている。

こんなもの本来中学生あたりで卒業すべき問いなのだろう。

けれど、僕は中学生でそれを考えることをしなかった。なぜか。その頃は、それなりに生きることを楽しんでいたからだ。

生きることが楽しいなら、生きる理由などを、わざわざ理論武装する必要もない。楽しいから生きる、それで十分な理由に成り得る。

少し前まではその素朴な考え方で十分だった。でも今は違う。

今になってこんなことを考えているのは、お察しの通り、人生がつまらなくなったかである。辛いからである

最初はその辛さから逃げようと思った。意識を低くして、できるだけ慎ましく生きようとした。

人と接するのは辛い。だから友達は作らない。勉強するのは辛い。だから勉強はしない。

そうやって、辛さからの逃避計画を少しずつ遂行していった。それとともに、もともとあった些細な生きる喜びは、ますます少なくなっていった。

それでも良かったのだ。幸福でもないが不幸でもない人生。悪くないだろう。

そうして、2年が経った。

惰眠を貪り、相変わらずぼんやり液晶画面を眺める毎日である学校にはすっかり行かなくなり、このままいけば、留年まっしぐらだ。

ネットはそれなりに楽しいし、自分邪魔立てするものは何もない。幸福でもないが、不幸でもない毎日。なのに、なぜか辛い。息ができない。

こんなはずじゃなかったのだ。

やはり、辛さから逃げようとする態度が良くなかったのではないか。人生とは本来辛いもので、それから逃げようとするのがそもそもおかしいのではないか。

そう考え直したところで、僕には辛さと戦い続ける気持ちには全くなれなかった。

太宰治女生徒』に、こんな一節がある。

私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起こしているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。」

この一節に、僕はすごく共感する。

僕は今、ひどく腹痛で苦しんでいるので、山を登らない。どうせ登らないから、山頂の見はらしなんて大したことないだろう、と酸っぱい葡萄式に世界俯瞰している。

から、僕にまず必要なのは、腹痛のあとの、見はらしの良い景色だ。辛い山登りの後の、至福の一瞬だ。

とりあえず、部屋を出ることから始めよう。

  • >何のために生きているのだろう。 それを考えるために生きてるんだよ。 >壁のシミを睨みつけながら、そんなことをぼーっと考える日々が続いている。 壁のシミを睨むために今日を...

  • 逃避した先にある現状が「息もできないほど辛い」って自分で解ってるんじゃないか。 逃げても戦っても辛いなら、戦えば何かが変わるかもしれないね。 友達も仕事も怖いのは、臆病す...

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん