はてなキーワード: 太宰治とは
グループAの各文章を著作した作家をグループBから選択して番号を記入せよ
(配点各1点)
グループA-1 [ ]
おまえは、いま、人間の屑、ということになっているのだぞ。知らないのか。
グループA-2 [ ]
「おいおい、冗談もいい加減にしろ」と、私もしまいにはたまらなくなって、言った。
「人間が、蛙や膃肭獣じゃあるまいし、水に棲めるかってんだ。サアサア、早いところ本物をだしてくれ」
グループA-3 [ ]
愛の為に? 文学青年じみたお世辞は好い加減にしろ。僕は唯情事に躓いただけだ。
グループA-4 [ ]
「白ばっくれるのもいい加減にしろよ。」
「あら、どちらが白ばっくれてるかしら?」
「君の方さ。」
「御自分じゃあないの。人の手を握ったりなんかして……。」
「だからそのことを云ってるんだよ。」
「私大嫌い、あんなでれでれした真似は!」
グループB
作家の文章の特徴など、この試験問題の正答の出し方を教えてください。
(鉛筆コロガシはしない方向で)
ちょっとちょっと。そこの通りすがりのお兄さん、お姉さん、おじさん、おばさん、学生さん、あたしのつまんない愚痴でもお暇なら付き合ってくれないかね。ちょっと特定を避けるために事実を少しぼかすけど、言いたいことは変わんないよ。
私、短大卒で契約社員や派遣やったりして、今は某販売員で31歳。漫画やアニメが好きで、ちょいとBでLな同人誌も買ったりする程度のオタクです。150センチのFカップ。顔は剛力彩芽を横に太くした感じで、ちょいと目が細め。おっぱいの大きさだけが自慢です。
そんな三十路オーバーのBBAの私に彼氏ができました。付き合うきっかけは、某漫画が好きという共通項があって、twitterで絡むようになり、住んでいるところもわりと近いってことで、何人かでオフ会しよっかー、って流れ。オフ会の時は他に何人もいたんだけど、彼ともちょいちょい話したら、彼のリアル友人の中に私の知り合いの知り合いくらいの人がいて、その人も含めて飲もうかー、って感じで仲良くなって、その後は2人で飲みに行ったりしているうちにセックスして付き合うようになったのね。
彼氏のスペックは、地元で一番頭の良い高校を卒業して、某旧帝国大学入学、大学院まで行って、卒業後は誰もが知ってる某一流企業の研究職。年収は20代後半で650万。顔もちょいと濃い目だけど、好みのタイプ。セックスの回数は少ないけど相性が悪いわけではない。話も、最初に会った時から気が合うなーって思ってた。対する私のスペックから考えると超優良物件でお嫁さん切符ゲットでこのまま結婚まっしぐらだと思うでしょ?
でもね、付き合ってから2ヶ月ちょっとで、私の気持ちが離れてきた。
理由は、彼の頭が良すぎること。
彼、漫画やアニメが好きだって言ってたけど、それ以外にもすごくいろんな本読んで勉強しているの。私が名前しか知らないような有名な作家(三島由紀夫や太宰治、夏目漱石など)も読んでて。私も、銀河鉄道の夜とか京極夏彦とか読んだことはあるけど、彼の読書歴には自分の想像を超えてた。それ以外に、高校の世界史で勉強したようなジャン・ジャック・ルソーとか、ジョン・スチュアート・ミルだとかも読んでた。家に遊びに行った時に本棚に置いてあって、線引いたりしていたから、「なんでこんなの読んだの?」って聞いたら「大学一年生の時に教わった教授から勧められたら面白かったから他のも読んだ」って。自分と世界が違う人だなーって思ってしまった。
あとね、彼氏の友達も頭良かった。一回、彼氏の友達(某大学の講師だって!)と三人でカフェで話したことあったんだけど、彼氏が友人の専門的な話を聞いたりしながら時々質問して、「へぇそうなんだ。それはわからなかった、教えてくれてありがとう。」とか言ったりして知的で洗練された態度なのはわかったんだけど、あたしには最初から何の話なのかついていけず、ただ愛想をふりまくだけだった。
それに、短大とはいえ、英文科卒の私よりも英語ができて、ペラペラ。「大学生の時に二ヶ月オーストラリアに語学研修に行ったんだー」って言ってたけど、それでも別に自慢したりするわけでもなく、ごく普通に自分ができることを示していた。なにこれ旧帝大の人ってこれくらいのスペックが普通なの?
なーんか、彼氏の優秀なところを見ていると(見せつけられていると)、萎えた。この理由はどこにあるんだろ。彼氏に非の打ち所はない。でも萎えた。彼氏は全く悪くないんだけど、私が引いた。なので、私から別れました。多分、彼には、私なんかよりもっと良い人がいると思う。彼は、私にはハイスペック過ぎた。はいBBAが一人でビール飲んで愚痴吐いてます。長文にお付き合いいただきありがとう。良い9月を過ごせよ。
小さいころに父親から十分な愛情を注いでもらえず、それを大きくなるまで引きずってしまったために、主人公は人間不信を極めて生きることに苦しんだ。
おぞましい人間界で何とか自分の存在を維持するために、主人公は「道化」を用いて人間と通じようと試みるが、むざんにもその試みは打ち破られ、結局最後は脳病院にまで入れられてしまった。
だが、最後の最後に見られた主人公の心底からの笑いに、俺は心を打たれたようである。
『人間失格』を読んでいると、まるでその中に自分がいるかのような気持ちになる。
自分も昔から他人に対して疑心暗鬼で、何か他人に喜ばれるようなことをしなければ、自らの存在が危うくなってしまうと無意識的に感じながら生きてきた。
中学のころ、クラスに悪戯をする男子がいれば、自分もその悪戯に必死で追従した。高校のころ、周りの友達を喜ばせるために、友達の求めるままに自分の恥ずかしい姿の写真をわざわざ撮って、それをメールで送り、多数の人間に広まって孤立したこともあった。
本当は真面目で寡黙な自分なのに。
つまり、俺は自分の意志だけでは生きられないのである。自分の行為には常に他人の目が付随している。もし他人の目など気にせずに、自分の意志で生きたいように生きて他人の顔色が悪くなるようなことがあれば、自分の存在がどうなってしまうのかが実に恐ろしいのだ。
換言すれば、俺は自分に自信が持てないということになる。
自分で自分を認めてあげることができないから、自分を認めることを他人に対して求めてしまう。
でも人間というものは普通自分のために人生を生きているもので、いくら他人に認めてもらうことを自分が求めても、現実にはそう思い通りにはならない。
他人が自分を認めてくれないとなれば、自分の心は不安でいっぱいになるし、そして他人が怖くなる。
他人が怖くなると、必然の結果として他人と接することを避けるようになる。
このため俺は働いて自活することにさえ及び腰だ。
若くて不器用な自分が正社員として働けば、毎日のように厳しく怒られるだろうし、仕事外でも飲み会などで深い人間関係を築かなければならないだろう。
それが怖くて怖くてもうどうしようもない。
自分にとって正社員として働くことは軍隊に行くのと何ら変わりないのだ。
こんな体たらくになったのは無論自分の責任だけれども、親の育て方にも当然原因はあると思う。
小さい頃は、何か自分が失敗をしたり、わがままを言ったりすると、叱られるというよりも、小さな自分の人間性を否定するような怒られ方をよくした。
「お前はダメだなぁ」、「はぁ」、「○○にそっくりだ」、もしくは、見下したように鼻で笑うか。
また、自分で決めた選択を泣いて否定されたこともあった。日常的な夫婦喧嘩に心を痛めたこともあった。
ああ、俺はなぜこんなところで親の悪口を書いているのだろう。親のせいにしてしまう自分も嫌。
もちろん親には感謝しているし、親が親なりに一生懸命自分を育ててくれたことはよく分かっている。
親も自分に似たところを持っていて、人の目を過度に気にしているし、自己評価が異常に低い。
それはやはり育った環境に原因があり、その意味では彼らも被害者で、子供との健全な関わり方を知らなかったから仕方がないのだ。
いま小さな子供を育てている親御さんは、どうか、子供が自分自身を大事にすることができるような育て方をしてあげてください。自分がかけがえのない存在であることを心から実感できるように。
自分のことを大事にしてあげられる人間は、必然的に他人のことも大事にしてあげることができる。
逆に、自分を大事にできなければ、他人を信頼することができないゆえに、他人を大事にしてあげることなど決してできない。
さすがに万引きした子供を叱らないのは俺もおかしいと思うけれども、何でもかんでも頭ごなしに子供を否定することは、自分のような人間を作る原因になりうると思う。
偉そうにダラダラと書いてすみません。
自分が子供を育てると自分と同じような人間を生み出してしまうと思うし、そもそも子供を育てる自信なんて全く無い。自分が生きることで精一杯。
はてなってワタミ以上に嫌われていると思うけど、なぜここまで嫌われるのか考えてみると、大まかに3つあることが分かった。
1. 社長が権欲・金に汚い
ご存じの通り株式会社はてなはネットでの抜群の知名度に関わらず2012年まで上場の意図すら見せていなかった。
これはひとえに社長である近藤淳也が株を自分の株を持ち影響力を保ちたいという守銭奴ならぬ守株奴的精神を持っていたからであろう。
一転して2012年には上場を狙っていることを発表したけど、おりしも現在はプチバブル期。ドリコムの内藤裕紀社長を超える20億以上の売り抜けを狙う様も見ていて痛々しい。
ま、それも近藤の趣味が自転車ってところで全て集約されていると思う。自転車と言えば、ランス・アームストロング。アームストロングと言えば…。もうね。
ただ、両社ともアメリカ人はだましきれないようであり、サンフランシスコでベンチャーキャピタルから金もらって豪遊プランは阻止されました。
2. 技術力・独創性が皆無
最近目を引いた新サービスがはてなブログの開設だったってところでお察し。ブログって笑。10年くらい遅れているんじゃないだろうかこの会社。
この十年で世間は、ブログに飽きて、mixiに飽きて、twitter、facebookに飽きかけているんですが、何を以てブログをし始めたのか謎にもほどが。
しかし、この企業、はてなブックマークを生み出したってことで技術力があると勘違いされている。残念、それ、deliciousのパクリですから(古い)。
ま、そこは割り引いたとしても、その技術は今は会社を去った元CTO・伊藤直也のおかげでしかないんだよね。
唯一独創的であったぽい人力検索事業はもはやそんなサービスあったことを思い出せる人すら少ないんじゃないかレベルであり、この会社、正直何もありません。
人気芸能人も使うアメブロとかと違って、はてなダイアリー・はてなブログの利用層で有名人なんかほぼ皆無。
ま、そこらへんでやばさがにじみ出てるんだけど、その皆無じゃない少数の有名人ってんのが小説家とかだから性質が悪いんだよね。
小説家っていえば、昔は太宰治(ヒロポン中毒者かつマルキスト)、今は村上春樹(ランナーズハイかつ金持ちなんて・みんな・糞くらえさでおなじみ)と
反社会的でサヨクと相場が決まっている。こうした少数の著名人に代表される属性は、はてなユーザー層に共通しているものと思われ、はてサなんて呼ばれてたりする。
ってことで、技術力がなく社長が権力・金に汚くて信者が臭そうとかそりゃ嫌われるのも納得ですね。
システム障害があまり起こらないのもワタミもびっくりなブラックさに支えられているのかもしれません。
「京都と東京それぞれのオフィスにあるTVの上に設置されているカメラが、365日24時間社内をモニタリングしています」とは、はてな公式HPにある語句。怖すぎます。
amazonのレビューで、多崎つくるのレビューを、ほとんど疑いもなく星5つで記載し、圧倒的な「参考にならない」の評価をくらっているしがないレビュアーです。
ちなみに、今日2013/5/8現在、335人中101人が星5つの評価を加え、星4つの高い評価をつけた人を加えると、335人中182人の半数以上の人が星4つ以上をつけているにも関わらず、現在「最も参考になったカスタマレビュー」は、ドリーなる人物の書いた「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」という星1つのレビューで、9825人中、9502人が「参考になった」というボタンを押しています。
ちなみに星1つの評価のレビューは、323人中、51人しかないにもかかわらず、この評価は圧倒的です。
感覚的にいえば、全体における星の数の比率に、各評価の中で「最も参考になった」というというレビューが、最終的に漸近していきそうなものですが、このドリーなる人物のレビューは、ある種ゴシップ的な面白さが加わり、NAVERとかはてブあたりから迂回してやってきた方々の支援もあったのだろうと邪推しつつ、圧倒的な支持を得、10000近くの人たちに「参考になった」とフォローされているわけですが、その内容は、読めば読むほど気持ちの悪いレビューで、村上春樹をとりまくマーケティングの悲惨さを痛感するとともに、あらためて日本人の文盲具合と、教養のなさと、その教養のなさをひけらかす露悪主義をみせつけられるようでした。
とはいえ。
これも、ドリーなる人物の文章が悪いのかというとそういうのではありません。こういう気持ちの悪い文章は、本来放っておかれれば、そのまま情報の闇に葬りさられるだけであり、問題なのは、こういう情報を引っ張ってきて、「うーん、これはすごい」「面白い」と言っている人々の側に、前述した無教養さの礼賛であるとか、露悪主義のようなものがあるように思うのです。
それで、私は、この駄文が、そもそも情報の闇に葬りされること請け合いなのにもかかわらず、下記の数点の視点に絞って、村上評価およびその周辺のマーケティングの問題について論じたいと考えています。
1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど)
この3点についてです。
■1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
まず、結論から断じて言いますが「多崎つくる」のamazonのレビューを、現在の日本文学における主要作品(村上龍、山田詠美、阿部和重、平野啓一郎、川上・・・などなど)と比較して星をつけるとするならば、星は5つ以外は考えられません。これらの作家の代表作と比較しても、時代的な価値、作品の主題、文体などにおいて「劣っている」という評価をしようがないからです。
もちろん、小説や物語には個人的な共感を読み手の原動力にするという性質上、どうしても「共感できない」という人がいるのは確かなことです。しかしながら、そういう個人的な側面を度外視し、「文学」というジャンルにおいて、日本という国の文化を歴史的に補足、説明する資料として、たとえば、文学作品をピックアップするのだとすれば、本作は1Q84までとはいかないにしても、近年の日本代表クラスとしかいいようがないからです。
2013年、日本という国で出版された歴史的に淘汰を免れる文学作品をあげなさいといわれて、今年、これ以上に素晴らしい「文学作品」が登場するかどうか、私は甚だ疑問です。平野啓一郎の新刊がでればその可能性があるでしょうが、少なくとも、それ以外の作家には期待できません。
abさんご?無理です。
そういう意味において、本作は星5つ以外の評価はありえないと私は思うのです。
しいて別の視点で評価するならば、村上春樹作品全体を相対的に評価するということもできるかもしれません。これについて言えば、私の評価は、星5つに限りなくちかいものの、もしかしたら星4つをつけるかも、くらいのところです。人によっては3つという人もいるかもしれません。それはあくまでも村上春樹作品における相対評価です。
本作は、次につながる長編小説のための助走のような小説です。伏線の回収(村上春樹本人ならば、伏線の回収ではなく、全体を微細に描き切っていないと言いそうですが)、それが十分でないことがその理由です。
しかしながら、これが作品の評価を不当に低くするかというと別問題です。短編小説というのは、その行間に物語の前後や背景を滲ませ、読者に共感の余地を残すものです。これは本作が、短編小説的な位置づけにあるということを示唆しているのであって、村上春樹が手を抜いているわけではないのです。星を1つ減らす理由があるとすれば、「もう少しだけ短くてもよかった」という点でしょうか。短編小説というには、少し長すぎました。
本作は、あくまでも「短編」であり(この人の場合は、もはや「短編小説」がこの長さになってしまうだけ)、あえていくつかのプロットを読者に委ねたのです。これは、文学を読む側のリテラシーの問題です。趣味(つまり好み)の問題ではなく、読む側の技術(読解力)の問題です。
というわけで、個人的な村上春樹の読者として星をつけるならば4つもあり得るかもしれませんが、文学に全方位的に公正な評価をつけるのならば、星5つ以外にはないということをご理解いただけるでしょうか。
もし、理解できないのならば、村上春樹を読む前に、夏目漱石と森鴎外と谷崎と太宰と三島と大江健三郎と諸々読み直すべきでしょう。
それが嫌なら、伊坂幸太郎でも読んでればいいと思います。稚拙な、読解力を十分に満足させるだけの文章にはなっています。
■2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
私は、長年村上春樹の作品を読み続けてきて、周囲にもそのことを公言しているわけですが、最近困ったことに「ハルキストの○○さんは、新作もちろん読まれたんですよね?」とか「ハルキストとして今作はどうでしたか?」などと聴かれることが多くなりました。
この「ハルキスト」なる呼称、最近よく聴くんですが、これって、わりと最近たぶんノーベル文学賞に毎年エントリーされるくらいになってテレビのリポーターとかがテキトーつけたんじゃないかという気がしています。一体いつくらいなんでしょうか?
私思うんですが、村上春樹の読者を「ハルキスト」と呼称してしまう人は、はっきりと断言しますが、村上春樹を読んでいないか、全く読解できていないかのどちらかです。
村上春樹の小説はどの作品でも読めばすぐにわかりますが、組織や共同体に所属することにとにかくうんざりしています。辟易しているし、場合によっては嫌悪感に近いものを感じていることもある。とにかくそういう人たちとうまくやっていくことができないし、やっていく自信もない。主人公の「僕」やら「ハジメくん」やら、「ワタナベくん」は、もう、所在なし、所属なし。
村上春樹の作品が世界的に受け入れられているひとつの理由は、その「孤独」性です。その周囲にうんざりしたり、なじめなかったりするその主人公のおかれた状況に、読者が少なくない共感を感じてしまうことが、世界的に受け入れられたひとつの理由なのです。
つまり、「ハルキスト」などという「ひとくくり」の呼称を付与されることに、気持ち悪さしか感じない・・・というような人たちが、どちらかといえば村上春樹の本質的な読者なのです。私も同様「ハルキスト」と呼ばれるたびに、冷笑を覚えたりするので、みんなそんなもんだろうなと思っていると、ときどき本当に「ハルキスト」を自称する読者にあったりします。こういう場合は、辟易するというかなんというか、ときどき困惑と嫌悪感が入り混じった感情を抱いたりするこもあります。
なんなんだこの違和感。
と。この感覚は、村上春樹に星1つをつけて、「いやぁ、村上春樹とか読んでるやつ信じられねーな」とかいう人の感覚に案外似たところがあるかもしれません。(まぁ、とはいえどうでもいいことなので、あえてバッシングしたいとも思わないのですが。)この際、そのほんとに読んで言ってんのかよ!という方々を「ハルキスト」と呼称しましょうか、そのハルキストなる方々と、村上春樹の作品とはまた別の問題だと考えるべきです。
こう言うと、村上春樹の小説はそういう勘違いした読者、その「ハルキスト」なる存在を生み出しており、村上春樹にはその責任があると捉えることもできます。
アンチ村上春樹の人間は、この影響力に村上春樹への脆弱性をみつけて、論考をぶつのですが、はてさて、この点はもういちど考え直してみたいところです。読み手の読解力の欠如がもたらした読者の勘違いを、書き手である村上春樹にその責任を求めることができるのか?ということです。
小説作品は、たとえば自動車のエアバッグとか、緊急時備え付けの消化器とか、避難用のはしごだとか、なんでもいいけど、使い方を誤まったら命に別状があるというようなものではありません。
芸術作品です。
作り手の意思とは別に、受け手が勘違いしてしまうことに、作り手はどれだけの責任が持つ必要があるというのでしょうか。
■3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど!)
村上春樹を批判する多くのレビューを読む限りにおいて、圧倒的な支持をえる論調は、
「こんなヤツはいない」
「恵比寿でナッツを食べるたべにバーに入ったりしない」
「孤独をそんなに深刻ぶったりしてこいつは、何様なんだ」
確かに、多数派ではないかもしれませんが、いないわけではありません。ホテルのバーでお酒を飲んだりすることは、普通にあることです。言葉でどう表現するかの問題はありますが、物事を深く考えすぎて、些細な問題で心を痛めてしまうということも、現代人ならよくあるはずです。セックスなんて論じる必要もなく、敷居が下がっています。
主人公の行動や言動を自分と比較して、「こんなヤツいないよ」とかいうのは、主人公を類型化して自分との共通点を見つけ出す作業なのでしょうが、確かに、村上春樹の作品の主人公を無理やり類型化して、多数派か少数派かで割り振ったとしたら、間違いなく少数派でしょう。(安易にこういう構図に分類するのは正しい方法ではないのですが)
鉄道会社勤務。年収は、700万程度。都内にマンションを所有し、ローンもない。30代後半で独身。女性関係は特に困ったことはない。
なんというか、条件面だけ描きだせば、裕福で恵まれていて、どこかしらいけすかないととることもできそうです。そして、実際、この点を、アンチレビュワーの方々は、突いているのですが。
前述したとおり、村上春樹の小説が世界的に受け入れられたひとつの要素はその「孤独性」だと言いました。
みんなの中でわきあいあいとできない。上司にうまく媚を売ったりはできないし、意味のない日常会話を成立させたりもできない。会社終わりにみんなで飲みにいったりするくらいなら、ひとりで孤独に音楽を聴きながら読書をしていたい。
などという人間を描いて、そこに世界中の多くの人間が共感しているのです。きわめて個人的に。
そして小説というのは、個人的な共感によってはじめて読み進めることができる形式の芸術です。
たとえば、ソフィア・コッポラの映画は、同じように「孤独」を描いています。マリーアントワネットなどはその最たる例で、多崎つくるくんなどとは比較しようもないくらい恵まれている。にも関わらず、彼女は圧倒的な孤独に苛まれている。そして映画を観る者は、そのマリーの孤独に共感して、胸を痛める。いや、映画が小説と違うのは、マリーの孤独に共感しようとしまいと、映画自体は2時間後に終わるということ。
しかしながら、小説というのは「なんだよこいつ、むかつく奴だな」というのがあったら、読み進められない。別の言い方をすれば読み進めなくてもいい。村上春樹は、この社会において孤独を感じながら生きざるを得ない、もしかしたら比率的には少ない側の面々の生き方肯定しながら、その顛末を見守るというようなプロットなのだから、読んで「むかつく」人が多いのが、当たり前といえば当たり前なのです。
もともと多くの多数の人間に共感されることを、書いてる本人も視野にいれてはいない。(それを望んでいないわけではないにしても)
にもかかわらず、売る側は必死です。
それはそうです。売る側は、本の内容は関係ないからです。出版不況の時代です。本が売れません。黙っていても売れる時代なら、売る商品を選ぶこともできます。「こんな根暗な作家が書いた本は、ひっそりと奥に並べておこう」とか。でも今は、売れる商品が限られています。小さな本屋から、大きな本屋まで、こんなにまとまって本を売ることができる機会は、年にそう何度もあるわけではないのです。
だもんで、売る側は、まったなし。「村上春樹の新刊!?長編?平積みだよ、平積み!」
と、なって当然です。で、買い手は買い手で、村上春樹なんて共感できない人が数多いて、そのことを半ば自覚しているにも関わらず、「またぞろ、村上さん新刊ですか?」などとうがった態度で、1700円も払って買って帰ったりする。
本来、孤独に静かな時間を過ごしたい人(それから社会と自分との繋がりを確認したい人)のために書かれた本であるにも関わらず。
帯にこんな風に書いておけばいいかもしれません。
「この作品は、日常に違和感を感じることもなく、日々を謳歌している人間には読む必要のない小説です。それと孤独を描いてはいますが、自分自身の孤独が解消されれば、他人のことも社会のことも、どうでもいいという人にも不向きです。自身の孤独が社会との関係において改善されることを仄かに信じている人のための作品です」
もちろん、そんなことは絶対書かれることはないのでしょうけれど。
本来静かに出版されて、求める人がそこに救済を得るという仕組みであるべき作家と読者の関係が、資本主義の論理によって蹂躙されている。それだけのことにも関わらず、本来、村上春樹に対して苛立つ必要もなかった人たちまでが、駆り出されて、勝手に苛立っているのです。
嫌なら読まないということが可能なのにも関わらず。
この「作り手」と「市場」との悲劇的な関係というのが、アンチ村上春樹を作り出し続ける最大の要因という気がしてなりません。
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随分長くなってしまいましたが、最後に結論というかなんというか。
こういうことも言えるかもしれません。
昔、三島由紀夫は、太宰治が大嫌いで、直接会いにいって「私はあなたの作品が嫌いです」と言ったそうです。
すると太宰治は返す刀でこう答えました。
「でもこうやってわざわざ来たんだから本当は好きなんでしょう?」
三島由紀夫は、なにも言い返せなかったそうです。
つまり、みんな本当は、村上春樹が好き(もちろん、断固として認めたくない)なんだけど、作品の主人公同様、素直になれず、好きさゆえに星1つつけちゃって、あんなヤツ嫌だよ、いないよ。むかつくよ。とか言ってるだけっていう可能性もあります。
ん?あっ、それって、実は一番村上春樹の主人公的?な気がしなくもないですね。
この長文を書いている間に、少なくとも「私は、ハルキストです」とか言ってる人より、星1つつけて、村上春樹なんか嫌いだよとか言いながら、毎回出版されるたびに買っちゃってる人たちの方が、なんだかよっぽど共感できる気がしてきました。
27歳でいまだ童貞です。童貞です。童貞というのは、生まれて今日まで女性と性交渉をもったことがない男という意味です。書いておかないと誤解されると思うのであらかじめ断っておきますが同性愛者ではありません。よっぽど美少年なら抱きたい/抱かれたいというのは正直あるけど、現実にしたいとは思ってません。女性の小陰唇を直に見たことがありません。生身に女性の裸を見たことがありません。当然触れたこともないわけです。
なんで死にたいか順を追って説明してみたいと思います。結論から言うと、春になったからです。春になると、突然、街行く女性の服装が華やかになる。露(あらわ)になる白い二の腕。女子高生くらいの女性が太ももで僕を誘惑する。ショートパンツからにゅきっと生えたバターのように白い太もも、どこまでも白く透き通るような女性の肌の色。雪のように白いというけど、僕はややピンクがかった白い肌に興奮してしまうのです。実を言うと、昨日、あまりにも肌の露出が多いため、深刻な頭痛に苦しんでいました。緊張性頭痛というやつで、精神性のものです。地下鉄に乗ろうとしたのですが、西遊記の孫悟空を縛る緊箍児(きんこじ)のように頭をギューギュー締め付けるのです。会社にいくつもりだったのですが、吐き気がして、自宅に返って風呂のなかに籠っていました。なぜ風呂に入ったかというと、先生が、リラックスすれば頭痛は消えると教えてくれていたからです。
女性の実体そのものはなんてことはないと思っています。それを男の脳というフィルターを通してみたときに、ひどく魅力的なものに見えるにちがいありません。いま、あなた私に「風俗行けよ」って言おうとしませんでしたか?風俗なんていやです。絶対に行きたくないです。お金に困って嫌々働いている女性は、女はカネで股を開く浅はかな生き物だと勘違いしている男を一日何人も相手しているんです。しかも、恥垢のたまった、悪臭放つデブ男のチンコをしゃぶらされ、精液を飲まされるのです。想像しただけで吐き気がしてきました。僕にはそんなことできません。もし、「1万あげるから、洗ってないチンポしゃぶって精子飲んでくれる?」と言われてできますか?イケメンならまだしも、おっさんや風呂に入ってなさそうな引きこもりのチンポしゃぶれますか?もしできるって人間は風俗に行けばいい。俺にはできない。自分がしたくないことを他人(ひと)にはできない。僕はなるべくこのルールを守って来たつもりだし、これからも守っていきたい。だから風俗には行けない。行ってもいいけど、相手は僕を人間として見てくれない、扱ってくれない。「オマエもそういう奴なんだな」っという目で、侮蔑の眼差しで見られる辛さ。僕は人間でありたい。だれも僕を人として扱ってくれないけど、僕は人間だ。人間でありたい。誰が何を言おうと人間だ。でも童貞には、そう発言する権利はない。
童貞というのは、人間として失敗したということだ。欠陥商品だ。本来ならリコールされるべきなのに、人権団体が俺の人権のために俺を苦しめる。童貞というレッテルは前科三犯よりも重い。シンナー吸ったり、Sやったりする奴よりも重い。だって、薬やってもテレビ復帰できるんだろ?日本中の人間が見る番組に出られるんだろ?父親がやくざであったとしても。でも、童貞は童貞というだけで、人間としての資格なしだ。人間失格という本は読んだことはない。太宰治はすぐ女ができるんだろ?
ああ女性は美しい。その存在が僕に平安をもたらす。水平線の彼方のように、さざ波ひとつもない、真っ平らな水平線を僕を連れて行ってくれる。僕はいまそこに行こうとしている。すべての絶望の淵は驚くほど安寧の地だ。あらゆるものが美しく見える。ベルリオーズの音楽が聴こえる。もうそろそろMBAの電源が切れそうだ。できるなら女性がいかにすばらしいそんざいであるか、僕自身の言葉で書いてみたかった。彼女たちは天使だが、天使という言葉では決して語り得ない。
最後に書いておきたい。世界はうつくしい。僕は幸せだった。日本に生まれてしあわせだった。願わくば、あなたにも、あなたのたいせつなひとにも幸福が訪れますように。みなさまのご幸せを心よりお祈り申し上げます。
そこで、「私もはてなサヨクになって
http://anond.hatelabo.jp/20121201092424
みたいにとりあげられたい!」
のコーナーです。
基本的にははてなサヨクも通常の「サヨク」と呼ばれる人と同じく、
を目指す集団です。
でも、はてなサヨクはそれだけではない独自の文化を形成しています。
さあ、みんなもはてサを知ろう!
キーワードごとに解説していくよ!
日中戦争で日本が南京を占領する際に付随して起こった一連の捕虜、民間人に対する殺害、強姦、放火、窃盗のこと。
これを理解しないまま下手なことをつぶやくと大やけどをするので注意すること。
疑問に思うことがあれば、
ダイアリーに書くのは最低でも
南京事件FAQ http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/
を読んでからにしよう!
自分が「~が嫌い」とか「~を許さない」と思っていることがらを、
「~は許されない」とか「社会から~は嫌われる」とか表現する卑怯な方法。
「それは世間が、ゆるさない」
はてサの敵(右翼、自民党、軍国主義者など)の味方をするわけではないが、
多くの場合、真正面からはてサに敵対するより自称中立の方が嫌われる。
過激派が国や右翼と戦わずに共産党や他の過激派との戦いを優先するようなものだと理解しておけばいい。
なお、「自称中立」という名前であるが、「自分は中立です」と自称する必要はなく、
はてサから「こいつは自分らに完全には同意していない」と判断されれば「自称中立」は発動する。
(類義語:妖怪どっちもどっち)
の治療を後回しにすること。
不法入国で強制送還されたフィリピン人夫婦の娘カルデロンのり子さんを
「のり子さんって反日なの?」とか
とかは絶対に考えてはいけない。
してはならない。
「それはジャンクフードばかり食べて肥満になった私を責める行為!
セカンドレイプ!この人でなし!」
科学的な根拠を持って否定すること。
議論において相手の意見を正しく引用しなかったり、誤解したり、誇大に解釈して、その歪められた内容に基づいて反論する論法。
(例)
A「妊婦の体は大切にいたわるべき。」
B「そうは思わない。Aは妊娠しない女性に生きる権利は無いと言うが、日本国憲法により誰にも生きる権利は保障されている。」
はてサがよく行うお互いの心を読み合う競技。
ルールは簡単で、相手の深層心理をより悪意にとったものが勝ちとなる。
「あなたの本心は『自分に簸向かえないよう被害者をより失意の底に落とそう』です」
みたいなことをいきなり言われたら、この競技が始まった合図なので、
くれぐれも「は?そんなこと思ってないけど?」なんて言わないこと。
「私はお前の人格が気に入らない」の意。
女性が男性の人格を否定するときにしか使えないので注意すること。
「私はお前の行動が気に入らない」の意。
http://anond.hatelabo.jp/20121112100128
の続き。
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???
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乙武さんは福祉の手借りなくても自力で稼げて地位を築いているし、
発達障害が疑われている人間(レオナルド・ダ・ヴィンチ、ガリレオ・ガリレイ、グラハム・ベル、ビル・ゲイツ、アインシュタイン、トーマス・エジソンなど)も自力で稼げて成功していて、
人格障害が疑われている人間(フリードリヒ・ニーチェ、フランツ・カフカ、ヘルマン・ヘッセ、太宰治、三島由紀夫、尾崎豊、中原中也など)も自力で稼げて成功していて、
結局ほかにとりえがあれば障害ってカバーできるということだよね?
社会保障の手を借りなきゃ生きていけない障害者って、障害をカバーできるとりえが無いってことで、そういう奴って守る必要あんの?
とりえがない健常者と一緒にのたれ死なせればいいと思うんだが。
http://anond.hatelabo.jp/20111005092209
直木賞、芥川賞、本屋大賞など。文学賞を創設してこれというものを選んで授賞する。本屋大賞なんか一番わかりやすくて「書店員が一番売りたい本」を選んで授賞してるんだよね。ある意味で一番効果的なプロモーション。上に上げた3賞以外ではノーベル文学賞が有効。世界的大家でも日本では無名な作家が一気に売れるようになる。
普段本なんか読まない賞にとって、これも有効なプロモーション。俳優陣は勿論、脚本家や監督も実績のある人を採用すれば効果的。観客動員や視聴率のために原作からの改変なんて当たり前だけど(中年男の主人公が若い女性になったり、殺人の動機が単純になったり)、それでも原作が売れるようになる。ただしやり方を間違えると元からの原作ファンが立腹する可能性あり。ラノベのアニメ化もこれに含まれる。
「小節は読まないけどビジネス書は読む」「雑誌や新聞は読む」という人には有効。「もしドラ!」「チーズはどこへ消えた」「GOAL」など。ただ、これ「小説を売る」じゃなくて「書籍というパッケージを売る」というものだけど。難点はブームが去ればあっという間に著者が一発屋化すること。
ここ数年の流行。夏目漱石や太宰治に小畑健の絵をつけたり、サリンジャーやチャンドラーを村上春樹訳で発売したり。これもやり過ぎると陳腐化する。
去年辺りまで流行ってた。小説と言うよりもタレント本といったほうがいいのかもしれない。ただあれだけ話題になった劇団ひとりが2作目は全然売れてないし、水嶋ヒロも2作目が出る気配がない。その後も作家として活動しているのは辻仁成(辻はブーム前に出てきたけど)、川上未映子など少数。
これを読んでいたらもやもやしてきたので書く。
4つだけは本当だということじゃない。
8つすべては「真実」に近いと思う。
実践できれば楽に生きれると思う。
それがいいとか悪いとかいう問題じゃない。
ただ、この理論だけでは結果的に不十分だとおもう。
いったいなにを欺いているのか?
リンク先で語られている内容よりも
語られなかった内容に注意してほしい。
1、今に生きる
過去を悔やんでたらればを繰り返したり、起きてないことをあれこれ憂いたりするのは時間と労力の無駄遣いで非生産的。
2、人や社会に期待をしない
求めたり「こうあるべき」とイメージを持ったりすれば、現実との差異にがっかりすることになる
自分が見ている他人は、他人という物質に反射して映った自分だと考える。
その出来事を通して味わいたい思いや学びたいことがあるからそれを引き付ける。
こうしなきゃ、こうでなきゃ、というのは自己満足であって、大抵の場合は不必要
6、ワクワクするものごとを選ぶ
選択の連続の人生で、自分の心がワクワクする方を正直に選ぶのが一番スムーズ。これができないと葛藤やジレンマに苦しむ
7、自分の行いは必ず帰ってくる
きちんと受け止めないでぶつかった時に、痛いと言って責任転嫁しようとしても事は進まない。
自分が受けたい言動をとればそのまま返ってくる。
8、物事は全て中立
「悪い出来事」「縁起の良い場所」なんてのは本当はなくて、全て中立な物事に自分が意味付けをしてるだけ。
たとえば同じ場に居合わせて災害にあったとしても、ある人はたまたま見舞われたと感じるし、ある人は自分の宗教の教えを遵守しなかったからと捉えるかもしれない。
ぐうの音もでない。
いろんな本を読んだり、テレビを見たり、人と話したりすれば
わりと納得できる考え方だなーと。
(というかこれがわからないとしんどい)
しかし、正しいということとそれが妥当であるということはまた別の問題だと思う。
でも、とりあえず
ということはほぼ間違いないと思う。
世界じゅうの人がみんな
この方法を身につければ
きっと生きやすい世界が目の前に広がると思う。
ちょっと想像してみよう。
(親、兄弟、親戚、同級生、上司、同僚、社会のしくみ、政府、日本、テロリスト、なんでも)が
もし、これらの特性を身につけたならと考えてみよう。
こりゃパラダイスだ!
ぼくたちはお互いがお互いを認められるような
真に寛容な社会を実現できる!
誰と遊んでいようが楽しい!
よーし!あの丘の上まで競争だ!
これらの方法に従うことで楽に生きられると思う。
でもそれは「従うことができれば」の話。
実際、どこの場でも目にする。
「人生論」でも、「大往生」でも、「論語」でも、「エセー」でも、「徒然草」でもなんでもいい
長く広く読まれている「人生の教え」的な本を読んでると
最後にはだいたい前の8つくらいに収まる
(代わりにどっかの社長の話を聞いてもいいし、テレビで美輪明宏さんの話を聞いてもいい)。
昔の人は偉いなあと思う。
そういう感じの本はいろいろ読んだ気がする。
もちろん、まだまだ読み足りない。
なにせぼくはまだ今年から活字に触れはじめたばっかりだ。
きっと死ぬまで読んでも読み足りないのだけど
個人的には、ぼくの考えを
そういう本が「間違っている」と指摘してくれることを期待して
今のところ、ぼくの考えを「否定してくれる」本は見つからない。
いや、正確に言うと、否定してくれはするけども
それが納得できないのだ。
ぼくの読解能力がないだけならそれでいいんだけど
もしヒマならちょっとぼくの考えを聞いてほしい。
まず1つめのウソ。
ぼくが言いたいのは
すべての人間がこれらの方法を実行するのは不可能だということだ。
古今東西のえらい人がみんな同じ結論にたどりつくなら
さっさとそれを実行すればいいのに
なんで同じ内容の本ばっかり書かれていくんだろう。
それが人間全体に広くみられる普遍的な問題だからじゃないかなあと思うけど
じゃあ、なんでその普遍的な問題が
大昔から今まで解決されないままなんだろう。
般若心経の新訳を読んだ。
ぼくらはなんで2000年も前の真理がいまだに実行できないの?
そりゃあれじゃないの?
大笑いしながら観ていた。
その中の一作で寅さんの「おいちゃん」が
実は若い頃は文学をやりたいと思っていたと話すシーンがある。
おいちゃんは父親にこう言われたらしい。
「団子屋に文学なんか必要ない」
団子屋が文字を読む必要がないなら、
本なんてまったく読まない人がいてもおかしくないんじゃないだろうか。
これは団子屋だけの問題か?
かなり多く存在してるんじゃないのか?
それでなんの不自由もなく生きていけたなら
感覚だけで生きていくことを恥じることもない。
それどころか、論理的なことをバカにさえするかもしれない。
難しいことはわからない。
バック・トゥ・ザ・フューチャーを何十回も観てるのに
なにがどうなっているのかいまだに理解できてない。
でもそれがどうした?
バック・トゥ・ザ・フューチャーの理屈がわからなくてもなんの不自由もない。
熱心な仏教徒や
わかりにくいな…。
その最初の救いを信じていたら
いつのまにか犯罪者の仲間入りをしていたことだってあるみたいだ
(オウム真理教の元信者のそういうエピソードを読んだことがある)。
「念仏を唱えれば救われる」って
そそのかされただけじゃないのか?
バック・トゥ・ザ・フューチャーがわからないお父ちゃん。
念仏を唱えるだけの百姓。
そういう人たちがいるかもしれないと思ったことは?
つまり、ぼくが言いたいのは
読めない人がいるかもしれないということだ。
読んだ人に待ち受けているのは
でも、読んでない人はどうすりゃいい?
で、その論理を理解できなかったら?ほったらかし?
そりゃあもう素晴らしいことになるとおもう。
でも、現実はそうじゃない。
何を語っていないかをもっとよく考えたほうがいい。
この人生訓がなぜいいのかということを
絶望的なまでに理解できない人がいる。
そういう人たちは人生訓が提示されるたびに足場が少なくなっていく。
要するに勉強ができない、感覚で生きている人たちをないがしろにしているのだ。
このたぐいの人生訓すべてが。
掛け算までしかわからない子どもに、方程式の素晴らしさを説いているようなもんだ。
上から目線で「こうしたらいいのに」と言ってしまってることになる。
いつまでも掛け算のところでつまづいて
文句ばっかり言ってる子どもはほったらかして先に授業を進めるべきなの?
掛け算のところに戻って教えなおしたほうがいいんじゃないの?
やっと言いたいことの一つが終わった。
冗長になりそうだけど
もうひとつ言いたいことがある。
更に絶望的な想定だ。
さて、こんな文句をどこかで見たことがあるだろうか。
(まちがってたら言ってください)。
なんかさぁ…
内容自体はそんなに変わらないのに
急にうっとうしくなった気がしない?
どこかで見たことあるなあ…
これどこで見たんやろう…
ああ、そうか
「これ、うちの経営理念やわ」っていう人いる?
その時どんな気分がした?
殺したくなった?
泣きたくなった?
正義づらした誰かに強制されるのだ。
それが「楽に生きる」とは真逆の事態を連れてくる。
この想定のたちの悪いところは
その大義名分が「間違ってない」というところだ。
誤解なら間違ってると指摘することはできるけど
ほぼ正しいと思う。楽に生きるためならね。
え?
間違ってないなら実行できない人が無能で怠惰なんだから仕方ないって?
wikipediaによると2009年の時点で日本のニート総数63万人
彼らがみんな死んでしまえばいいと思うの?
賢くて強い人だけ生き残ればいいと思ってるの?
ニートだけじゃない。実際働いている人でも
(実際これだけの説教レパートリーがあれば人格を破壊するには充分すぎるとおもう)。
(統計を出すつもりはないけど)。
1つめのウソで言及しているような
感覚で生きていて、なおかつこういう人生訓に苦しめられている代表選手は
2つめのウソで言及しているような
こういう人たちはまとめて死ぬべきなのか?
損する人のほうが多くないか?
そう考えたら、「人生を楽に生きる8つの方法」が最後の答えだと思えない。
この考え方を否定してもらいたくてそういう本を読んでいた。
でも納得できない。
これでは救いにならない。
でもいつまでも状況に進展がない。
だれか否定してくれよ。
「おまえ間違ってるよ!」って。
1つめのウソについては別の解決策が見当たらないし探そうともしてないけど
そして、その解決策をこの場で披露することを許していただきたい。
枠組みを作ろうと思う。
ほとんど働かなくてもいいような枠組み。
楽観的な言い方をすると、これは収益を生み出せるかもしれない。
そうして、口やかましい人たちを黙らせる
http://auauai.tumblr.com/post/9080858048
これはブログでも書いてるけど
やりたいことはphaさんのギークハウス構想に似てると思う。
優しくて閉鎖的な空間だ。
個人的にはなるべく一人でいたいんだけどそのためのコストが高い。
そういう人と連帯を組むことはしたくない。
じゃあ、ぼくが怖がらずに近づけるのは
そういう人たちととりあえずお互いを認め合う。
自信を少しずつ取り戻す。
まずはそこからだ。
誰だって生きていていいんだという相互理解をつくることだ。
心底、世の中に絶望していた。
どれも納得できなかった。
共感をもたらしてはくれたけど
やっぱり現実はしんどいままだった。
山の中に草庵でも建てて住もうと本気で思っていた
(いまでもその選択肢を考えてる)。
いくら本を読んでも
現在の恐怖と、わずか数年後の不安を解決してくれるものすらなかった。
でも最近考え方が変わった。
それもやはり本を読んで変わった
(次に挙げるだめ連の本とはまた違う本だ)。
だめ連の本によると
連帯すると分散される(当たり前か)。
家賃10万円の家を10人で借りたら一人1万円だ。そういうことだ。
近隣の人の援助もあったらしい。
それはちょっとできるかどうかわからない。
でもぼくらにはインターネットというツールがある。
レゴ作って2chにスレ立てるだけでプロビルダーになる人がいたり
自分の顔を毎日撮って繋げただけの動画がYoutubeで何万再生もされたり
「ありがとごじゃいます」って歌って動画として公開するだけでテレビに出演できたり
要するに「好き」とか「やってみた」とかの
ということは
そういうしょーもないアイディアが収益化する可能性があるのだ。
ちょっとでもおもしろそうなことはなんでもやってみりゃいいのだ。
社会不適合者が集まっているということだけでもちょっとおもしろいかもしれない。
誰が許さなくても本当は関係ないんだよね。
心苦しさを飛び越えるほどの、欲求があればぼくらは動ける。
外にある楽しいことに手を出すのは怖いしめんどくさいけど
ネトゲくらいならちょっとやってみようかなーなんて思える。
とりあえずヒマならその家に集まってみて
生きるのに向いてない人がリラックスできる場をつくる。
なんかちょっとやる気出たり、アイディアわいてきたら
そういう人たちの「好き」とか「アイディア」を片手間でネットに発信してみる
(ぼくもいくつかアイディアがある)
奇しくもこの考え方は
楽しいことだけを追い求めて生きていくことが可能かどうか確かめたいのだ。
しかし、生きるのに向いてない人がラクになれる場所
(SNSでの付き合いで世界のツラさを「ごまかす」だけじゃない場所だ)
これができるだけでも意味はあると思う。
もうだから早く家借りよう。
とりあえず、ツイッターかmixiかメールかなんでもいいから連絡をください。
http://twitter.com/yukkun1986/
http://mixi.jp/show_profile.pl?id=25533767&from=navi
breed0902@gmail.com
(悪いことをまったくやってないってことじゃないけど)。
たすけてくれよ。「私も怖かった」って言ってくれよ。
怖いよねー(*´・ω・`)(´・ω・`*)ネーって慰め合おうよ。
別に住まんでもいいのよ家には
慰めとか遊びとかアイディアの拠点にするねん。
もう疲れた。
もう待てない。
もう泣きたくない。
誰かが泣くのも見たくない。
きみは死ぬな。
それでも生きれるようにしたいのよ。
ぼくもきみも。
これがぼくらの「楽に生きるための一つの方法」じゃないかと思うんだ。
コメントに返事を書く!
なげーよ。
ごめんなさい。短くしようともしてませんでした。
短く的確に書ければいいなと思います。
書いていくだけでその練習になればいいななどと虫のいいことを思ってます。
誰も強制してないし、できない奴を馬鹿にしてもいない。自意識過剰/自分以下を眺めて満足したいだけでは?/「5. 自分がいなくても世界は回る」の「自分」は語り手を選ばないからこそ「楽」につながる
http://anond.hatelabo.jp/20101219200313
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101217-00000630-san-soci
「友人のいない孤独な男だった」。殺人未遂容疑で逮捕された斎藤勇太容疑者(27)と小学校と高校で同級生だった男性(27)は斎藤容疑者のことを振り返る。
茨城県取手市内の県立高校の卒業アルバム。クラスメートたちは手をつないだり、肩を組んだり、同じポーズでレンズに笑顔を向けていた。斎藤容疑者はただ1人笑わず、ほかのクラスメートとも絡んでいなかった。
高校の休憩時間には教室で1人座り、夏目漱石や太宰治の本を読んだ。小学校の卒業文集に私の宝物を「本」、趣味を「本よみ」と記し、将来の夢を「小説家」と書いていた。
高校で副担任によく「声が小さい」としかられるほど、物静かな青年だった。男性は「容疑者の名前を聞き、すぐに、あいつだと思った。おとなしい男なのになぜ」と絶句した。
奇妙なことかもしれないが、僕はゲームの世界に勇気だとか愛だとかを教えられたと思う。
一般的に言えば本とか映画とかが高尚な芸術であり、ゲームはどちらかと格下に見られるだろう。
でも中学・高校のころの僕にはそういった高尚なものがピンとこなかった。
普通であれば太宰治だとか夏目漱石などの文学を読んで人生を考えるような年頃に、
僕はほとんどの時間(と言ってもいいだろう)をファイナルファンタジーやドラゴンクエストに割いていた。
友達もいなかったし親とも仲良くなかったし、楽しい時間と言えばそれぐらいしかなかった。
ゲームが僕の全てだった。
孤独だったし、現実の世界はどこまでいってもつまらないものだった。
それに比べ、ゲームが作るファンタジーの世界は皆キラキラ輝いていた。
どの主人公も勇気に満ち溢れ、悩み挫折するのだが必ず、最後には勝利する。
たとえどんな凶悪な敵であっても仲間と力を合わせ、そして勝つのだ。必ず。
僕は逃避していたのだと思う。
何もできない、しようと思わない大嫌いな僕から。
悩みを共有する仲間がほしい、困難に立ち向かう力がほしい、と。
そして僕は変わろうとした。
運動をして友達をつくって服装をかえて。
そして変わった。