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2023-03-02

これは私が就労移行支援事業所で訓練を受けていた時に体験したことです。

入所して半年ほどたった頃、事業所施設代表から自身大学で受け持っている福祉関係の授業の中でリカバリーストーリーを発表してほしいと頼まれました。

なんとなく流れで承諾してしまいましたが、よく考えるとリカバリーストーリー当事者がその体験を共有して糧にするもので、支援者の卵とはいえ大学生の前で発表するのはちょっと違うのではないかと疑問に思いました。代表は実際の授業で、学生にたいしてこれから君たちが支援する人たちがどんな人たちなのか肌で知ってほしい、と言ってましたが、こういう分野で学んでいる学生さんは施設での実習が必ずあるでしょうにと内心納得がいきませんでした。

私は20前後で初めて精神科受診しましたが、正しい診断が出てそれに沿った処方薬が出されて症状が安定するまで16年かかっています。今は前向きに生きてはいますが、せめてあと10年早く正しい診断が出ていたらと思うことも時々あります

若くて希望に溢れているように見える学生さんたちを目の当たりにして、発表の内容も相まって自分学生さんたちと同じ年頃のとき自殺未遂を繰り返していたことがとてもリアルに思い出され、発表中はフラッシュバック寸前の精神状態でした。あの場でパニックを起こさなくてすんで本当によかったと思います

もちろん学生さんたちが若くて生き生きして見えるのは表面上のことで、実際はいろんな悩みをかかえているでしょうし、もしかしたらあの場にいた学生さんたちの中にも、心療内科精神科に通院している方がいらっしゃったかもしれません。

しかしやはり私と彼らの人生の差というものに思いを馳せずにはいられませんでした。引き受けたことをとても後悔しました。

もともと施設プログラムの一環として取り組んでいたリカバリーストーリーですが、作成当時からしかった時期のことを書いていると気分が落ち込んで大変でした。何度か代表担当職員リカバリーストーリーを書くつらさを訴えたのですが、あまり深刻に受け取ってもらえませんでした。この辺りをよく考慮して断ればよかったのですが、私は当時まだしっかりした自己主張ができるまでには回復していませんでした。

事前に渡された発表の原稿には代表の手で補足の文章がたくさん入れられていて、赤ペン先生添削してもらった答案みたいになっていました。最後は私の好きなミュージシャンの曲の歌詞を紹介しろとの指示が入っていて呆れました。曲の歌詞を紹介するのは拒否して回避できましたが、利用者に対するコントロール欲求が強すぎると思いました。

授業が終わってから代表担当職員カフェケーキコーヒーをご馳走になりました。下手に辛かったと抗議をすると感情が高ぶって泣いてしまい、公衆面前で恥ずかしい思いをするのが分かっていたので努めて平静を装っていました。

学生さんに書いてもらった感想カードみたいな紙を見せられたのをおぼえています否定的感想ひとつもなく、最近若い人はみんな大人しくて真面目だなと思いました。一人くらいは尖ったことを書く人がいそうなものですが、もしかしたらそういうカードは見せてくれなかっただけかもしれません。

担当職員からその感想カードコピーしたものをもらいました。これはとても光栄で喜ばしいことなのだから一生の思い出にしろと言わんばかりだなと思いました。受け取りたくないと思いましたがいらないですと拒否する力もなかったです。それから代表に謝礼として五千円の入った封筒を渡されました。働いていなかった当時の私にしてみれば大金でした。今日の辛い体験もこの五千円を手に入れるための我慢料だったのだなと考えて無理やり自分を納得させました。

あと、この時代表に言われた「君は今までの人生社会貢献ができていなかっただろうけど、今日こうして福祉未来を担う学生の役に立てたことは立派な社会貢献から誇りをもってほしい」という言葉にはものすごくモヤモヤさせられました。私が自発的にそのような考えに至ったのならば問題ないですが、それは人に言われて思うことではないし、言葉の前半は完全に余計なお世話だと思いました。

感想カードコピーは読み返したくもないし持っていたくもなかったので、悪いとは思いつつ最寄駅に設置してあるゴミ箱に捨てて帰りました。

帰宅してからやっと思う存分泣けて安心しました。

なぜ私はよく知りもしない初対面の若い人たちの前で、困難だらけの、何一つうまく行かなかった今までの人生を語らなければならなかったのだろう。精神科入院して大学を休学したこと、復学してなんとか卒業できたけれど就活内定をもらえなかったこと、仕事に就いても不安と緊張ですぐに離職してしまたことなどを、支援者の卵とはいえ現役の大学生たちの前で私が話す必要はほんとうにあったのか。みんな好意的感想ばかり書いてくれたけれど、それはあくまでそれが授業の一環だからで、心のなかでは私のことを馬鹿にしていたのではないか

そんな考えが頭の中を駆け巡って涙が止まりませんでした。

この施設にいたのはもうかれこれ5年以上前ですが、このときのことはよく覚えていて、いまでもなんとなく心のしこりとして残っているので書いてみました。

現在でも代表の人がこうしたことをやっているのかはわかりません。

最後に、支援者の卵の学生さんに精神障害当事者リカバリーストーリーを聞いてもらうことが全く意味がないとは思いません。

ただそれは当事者大学に呼びつけてゲストのような形で発表させるのではなく、当事者主催しているリカバリーストーリーの発表イベントなどに学生さんが見学という形で入るのが望ましいのではないかと思います

2023-02-26

いまLOVEBITESが面白い

イントロダクション

LOVEBITESという日本女性メタルバンドの周辺がいまちょっと面白いことになっているので解説します。ヘヴィメタルに興味がない人も人間ドラマとして味わい深いのでよかったら読んでみてください。

LOVEBITESの動画には「私は今年70歳になるロックファンだが30年振りに夢中になれるニューバンドを見つけた」というような英語コメントが頻繁に書き込まれる。「LOVEBITES reaction」でYouTube検索すると膨大な量の海外アクター動画と、そこに書き込まれた膨大なオタク早口英語コメントを見つけることができる。Wikipedia日本語版より英語版の方がはるかに充実している。そういう存在バンドだ。

LOVEBITES前夜

世界中音楽チャートヒップホップR&Bといったダンスミュージック中心になってもう長いこと経つ。そんな中で日本チャートは異様なほど独自多様性がある。別の言い方をすると世界的な音楽トレンドから取り残されて、時代遅れダサいとされている音楽も生き延びる余地があるユニークなシーンだ。

2010年代前半BABYMETALアイドルメタル企画物としてデビューした。しかしながらボーカル歌声メタルアレンジが本物すぎたので妙に受けた。特にメタル音楽がほぼ失速していた海外においてメタルファンが衝撃を受けた。それ以降、流行りの音楽とは別の嗜好を持った世界中音楽ファンたちが日本インディーバンドを熱心に発掘するようになった。

なぜ、日本ではロックバンドが生き延びているのか。アニメぼっち・ざ・ろっく!」の設定にもあったが、80~90年代バンドブーム世代の人たちがお父さんお母さんになり、親の聴くロックバンドの影響を受けた子供たち世代が出てきたのが今の日本だ。

BABYMETALと同時期に国内ではDESTROSEという女性ジャパメタバンド活動していた。DESTROSEはメンバーも安定せず成功したとは言い難いが、現在のシーンを牽引するNEMOPHILA、FATE GEARなどのメンバーを輩出した重要バンドである。そしてまたLOVEBITESも元DESTROSEのメンバーが結成したバンドだ。

LOVEBITES始動

NEMOPHILAやLOVEBITESの世代の特徴は圧倒的に本格派という点にある。例外はあるが、それ以前の女性バンド男性バンドにくらべると演奏技術がそれほど高くなかったり、どこか女性的なポップさがあったりした。だが今のバンド演奏技術や音の志向において、もはや男女の区別意味を持たない。

LOVEBITESの音楽は、アイアン・メイデンジューダス・プリーストのようなパワーメタルと、ハロウィンドラゴンフォースのようなメロディックスピードメタル系譜にある。サビがメジャーコードメロスピ演奏してさまになるのは国内では稀有存在である

https://youtu.be/bgAxpEpEcno

日本女性発声ハイトーンになると細くキンキンしがちでメタルでは不利なことが多い。BABYMETALは、アイドル的な透明感がありつつ激しい演奏の中でもよく通るSU-METALの声が重要成功要因であった。LOVEBITESのボーカリストasamiは低い音から高い音まで発声気持ち良さが特徴で、他のボーカリストボイストレーナーから発声に関する評価が非常に高い。やさぐれた感じがせず声を張り上げたりドスをきかせたりしてもどこか品がある点も過去にあまりいなかったタイプだ。さらクラシックバレエ素養もあり、長いギターソロ中でも手持無沙汰になることなパフォーマンスできる。

バラードほとんどやらない。全員が鍵盤楽器を弾けて本格的なクラシックピアノが弾けるメンバーもいるが、これまで50曲近くリリースした中で最後まで激しい展開にならない純粋スローバラードわずか1曲のみである基本的にはテクニカルでパワーとスピード命で、海外メタルトレンドも踏まえた音楽性になっている。そのためデビュー後すぐに海外からも注目された。

デビューの翌年には英国メタル雑誌でBEST NEW BANDを受賞して、その次の年にはドラゴンフォース英国ツアーに参加している。

バンド好調で、2020年Zepp DiverCity TOKYOライブはもはや伝説的なクオリティだ。

https://youtu.be/WBhtqgiXEA4

転機

そこまで注目されていたLOVEBITESだが、2021年ベースmihoが脱退する。コロナの影響による環境変化でライブなどの活動ができなくなり、いろいろと思うところがあったようだ。mihoバンド創始者で初期の代表曲の多くを作詞作曲しており、LOVEBITESのコンセプトもmihoによるものが大きかった。そのためバンドはこのまま終わってもおかしくない状態と思われた。

2022年コロナ禍が徐々におさまる兆しが見えてきた中、残されたメンバーベーシストオーディションプロジェクトを発表した。東京都内近郊を拠点として日本世界各地で活動できること、というのが唯一の条件で、年齢・性別国籍プロアマわず応募可能としていた。

このオーディションには、すでにソロ活動一定の評価を得ている彪(AYA)、一ノ瀬といった実力派ベーシストも参加した。

ベースヒーロー登場

ここで登場するのがfamiだ。

YouTubeにやたらうまいベース動画を上げているJKがいると以前から話題になっていた配信者、登録者数は67万人もいるチャンネルなので一度は見たことがあるかもしれない。顔出しをせず、自室のドアの前で踊りながらスラップやタッピングを多用したトリッキーアレンジボカロ曲カバー演奏する。リアルぼっちちゃんレベル100みたいなベーシストだ。

https://youtu.be/Q_UqztwYAOU

高校卒業し、クラウド・ファンディングソロアルバムを出し、すぐに川口千里のような若き実力派ミュージシャンとして活動していくものと期待されていたが、その後あまりうまくいっていなかったようでYouTubeチャンネルも数カ月更新が止まっていた。

それが2022年10月に「皆様に大切なお知らせがあります」という動画を突然公開した。

YouTuberの言う大切なお知らせはたいてい大切でもなんでもないしょうもないもの相場が決まっているがこれは違った。

LOVEBITESのオーディション最終選考合格して、バンド側の発表動画も公開されたという内容をオタク早口でたたみかける内容だった。また、この動画から顔出しをしてカメラに向かってしゃべっており、アーティストとしてあらたな道を踏み出した決意を感じる。

https://youtu.be/6_VbxDaOPj0

どんなベーシストでも前任者のmihoと比べられてしまうのは避けられない。mihoは安定したリズムと時折見せるセンスの光るオブリガート評価が高い王道メタルベーシストだった。手足の長い恵まれスタイルに低く構えたベースのたたずまいはステージ映えしてLOVEBITESの悪そうでかっこいい側面を担っていた。

famiのキャラクターはそれとはまったく異なる。明るく楽しそうにぴょんぴょん飛び跳ねながら5弦ベースをスラッピングするベーシストだ。オーディション時点では19歳でおそらく他のメンバーとは10歳近い差があり新世代という印象だ。この新たな風こそがバンド必要としていたものだった。

アイアン・メイデンのスティーヴ・ハリスベーシストが抜けてミスタービッグビリー・シーンベーシストが加入しLOVEBITESは新体制となった。以前からfamiとLOVEBITESの両方を知っていたリスナーにとっては、別々の線がひとつに交差して、止まっていた二つの物語トップスピードで再開するという衝撃的な嬉しいニュースとなった。

アルバムリリースライブ再開

ただ、famiはトリッキーテクニカルではあるものメタルベースが弾けるのか、と心配する声もあった。公開している曲はボカロカバーばかりだし、ソロアルバムメタル色はなかったからだ。

そんな中、2023年2月22日に満を持してLOVEBITESの新アルバムリリースされた。吉と出るか凶と出るかfamiにとってもバンドにとっても審判の日である

そこにはBPM200の16分音符で凶悪かつスリリングルートを刻むfamiがいた。ドラムとの相性もよくメタルベーシストとしても超一流であることをfamiは実力で証明した。これを聴けばもう心配する人はいないだろう。実はLOVEBITES加入まで語られてこなかったがfamiもまたメタラー親父に英才教育を受けたメタラー二世だったのだ。

他方、バンドの方にも変化が見られた。アルバム発売日に公開された新曲MVはいままでのLOVEBITESとかなり異なるものだった。曲のパワーとスピードはこれまで以上であるが、以前のようなメタル美学的な映像ではなくカジュアル服装で楽しそうにわちゃわちゃ演奏している明るいMVになっている。こういった演出もfami加入以前には考えられなかっただろう。

https://youtu.be/4ImGA7cPyrs

アルバムとしての評価も高く、すでに世界中メタルチャートで一位となっている。

そして3月の復活ライブチケットが瞬殺した。YouTubeコメントを見ると海外ファン飛行機に乗ってこのライブを見るためにチケットを買ったらしい。その後も9月には国内ツアーが予定されている。完全復活である近いうちに海外イベントにもまた出演するだろう。

世界中メタルファンから今後のシーンを背負うことを期待され注目されているバンド日本からまれたことが素直にうれしい。

2023-02-24

anond:20230224163314

アイドルじゃなくてミュージシャンでもいいんだけど、特にヨーロッパアメリカとかで一定の評価に達するには言語演奏力が一定の水準に達してないと無理っていうのは良くある話。

2023-02-21

メンバーごとの才能やスキルが偏ったバンドで足りない方のメンバーの行く末が心配

特定メンバーの才能やスキルによって人気が出てデビューできたバンドとかで、それに乗っかってる方?ついていってる方の立場メンバー心配だ。

そいつは今いるバンドを離れたらミュージシャンとして食っていけないってことだろ?

なんとかしてそのバンドにしがみつくしかないって状況があったりするんだろうか?

そんな心配はいらぬお世話だろうか?

anond:20230221153900

本人が楽しそうだったか別にいいと思うけど100s始めたときにはだいぶ才能枯れてたじゃん

商業的に安定して楽曲を産み出すタイプミュージシャンでもないしね

もっと売れてもよかったあの頃のバンド3選

さっき昼飯の弁当を買いに外に出たら寒すぎてサムシングエルスになった。


ここでいう「サムシングエルス」というのは我々の世代ではけっこう売れたバンドで、私が最初に知ったのはNHKみんなのうた」で流れてた「反省のうた」という曲だった。

けっこういい歌だなーと思って聞いてたのを思い出す。

しかしその後、鳴かず飛ばず解散危機となる。


そんな中、「電波少年」というテレビ番組企画の中で「ラストチャンス」という曲を作成してミリオンセラーオリコン1位を取る。

この曲をきっかけにめちゃめちゃ売れた。紅白にも出た。我々の世代サムシングエルスを知らない人は少ないはず。

こうやっていい曲を作ってるバンドが売れるのはいいことだと思う。


けど、最近ふと思うことがある。

もっと売れてもよかったミュージシャンが他にもいたよね。

ちょっとしたきっかけがあれば第二のサムシングエルスになっていたかもしれないバンド

もっと売れてたらもっと長く活動して良い曲を作り続けてくれたかもしれない。


というわけでここでは私が思う、もっと売れてもよかったミュージシャン勝手に選出するよ。


3位 ブラッツ・オン・ビー (1990-1999)

ラッツ・オン・ビーも最初に知ったのは「みんなのうた」だったと思う。

私が好きなのは3rdアルバム『ゆらふわ』で、あの頃はヘビーローテーションで聴いていた。

一番のお気に入りは「アポロ

もの悲しいメロディーがとても好きだ。


他にも、「世界を変えて」や「ゆらり ふわり 行こう」も好きだった

あんまり知られてないと思うけど、名曲が多いと思う。

なんで売れなかったんだろう?


2位 ザ・カスタネッツ (1987-2000)

ザ・カスタネッツは知っている人も多いと思う。

一番有名なのはアニメGTOエンディング曲「ねない ねない ねない」かな。


私が好きなのはムーンパレス」や「僕はそれがとても不思議だった」。他にもいい曲がたくさんある。


そこそこ売れた印象だけど、やっぱり大半の人が知らないという意味で、もっと売れてもよかったのではと思う。


1位 中村一義 (1997-2003)

中村一義はけっこう売れたしコアなファンがたくさんいるが、メジャーにはなれなかった。

オリコン13位の「セブンスター」が一番有名な曲かもしれない。

オリコン16位の「新世界」もいい曲だ。


私が一番好きなのは永遠なるもの」だ

「すべての人たちに足りないのは・・」のところの歌詞がとても好き。


中村一義は私にとって「青春」と言い換えてもいいものである

1stアルバム金字塔』を初めて聞いたときの衝撃は忘れられない。

これはミスチルを超えるぞ、と本気で思った。


でも、そうはならなかった・・そうはならなかったんだよ・・ロック・・

から、この話はここでお終いなんだ。

2023-02-20

女が下方婚した結果(追記)

はじめに

28歳の時に婚活して夫と結婚しました。

当時の私の年収は800万ちょっとで、夫は私の半分あるか無いかだったと思う。

夫は私の一個上、まあ年齢で言えば普通?か中の下ぐらいだろうか。

下方婚した理由は、単純に私の求める条件が「家の事をきっちりやってくれる人」だったから。


基本的仕事に全振りしてしまタイプで、特に当時は多忙気味だったんだけど、そうなると家が荒れるに荒れる。

元々のズボラ性格もあり、気がつけば毎日の様に虫が湧く汚部屋と化して(引っ越しの時に滅茶苦茶お金取られた)

そんな家に帰るのも嫌なので毎日会社の仮眠室か近所のネカフェ、たまにビジホに泊まる毎日

これではお金も貯まらないし何より人間らしい生活が出来ない、でも私には家事の才能が本当に無い事に数年間の一人暮らしで痛感させられた。

仕事では面倒な事も出来るのに、家の事になると途端に継続した作業が出来ない。

洗濯掃除、皿洗い、トイレ掃除、お風呂ゴミ出し、ゴミ箱交換、風呂掃除食事、とその後片付け、洗剤等の必需品が切れた時の交換、いや切れる前にストック買う、などなど…

普通主婦から一人暮らしの男女の大半がやれている事が、私には出来なかった。

なので、結婚相手に求める条件としては「家の事をきっちりやってくれる、その能力がある」というのがマスト条件だった。

他の事には多少目をつぶった。

幸いな事に私には仕事に全力出してそれなりに結果を出せる能力はあったので、もう男を養っていくの覚悟婚活を始めた。


夫となった相手スペック

・(結婚当時)年収400万程度の普通サラリーマン

長男

身長は170cm…は無くて168cm、顔はミュージシャン桑原康伸似

学生時代から一人暮らしで、料理掃除趣味(と書いていた)


正直外見もタイプじゃないし何か服装もダッサイし周りを見れば夫よりも良い男なんていっぱいいたが、私は生活破綻者だったので恋愛はともかく結婚は無理だろうなって思った。

実際に家が汚い事をカミングアウトして自宅に連れて行った事もあった。もちろん次の日に別れを告げられた。

それを二回繰り返して下方婚(という言葉は当時は知らなかったが、今思うと完全にこの発想だった)という結論に達した。

本当に家事が得意なのか、ふと当日に「家を見せて貰って良い?」なんて言って強引に夫となる男の家に上がるという暴挙まで行った。

結果、私からするとビックリするぐらい綺麗に整理整頓された、独身の狭いアパートがそこにはあった。

私は結婚を決めた。「この人しかいない」と


結婚してから

まず夫には結婚するにあたって仕事を辞めて貰った。

理由としては、夫の方は私の半分程度しか年収無いのに、それなりに残業がある会社だったから。

たまに私も20時程度には帰れるのに夫が遅いと当然ご飯も用意されていない。

その時はお試し期間の同棲中だったが、状況的に共働きから自分がやらなければいけないのか……となり、私が生活費の大半を稼ぐから

家の事に集中して欲しい、働くのはバイトとかでも良いから、というのを結婚の条件にした。

夫は当然驚いていたが、最終的には承諾した。

夫側が出した条件としては「家事の合間にアニメ観たりゲームしても良いなら、良いよ」とのこと。

私はそういった趣味・分野には疎く、どちらかと言えば軽い忌避感があったが、オタク趣味我慢してあげる程度で

主夫となってくれるのであれば仕方無いか妥協した。


結果、夫は週3のアルバイト(後に契約社員となる)でお小遣い+αを稼ぎ、家賃生活費の殆どを私が稼ぐ事を条件に

会社を辞めて主夫となって貰った。


結婚生活は概ね平穏だった。

私自身が忙しく中々妊活が出来なかったが、その分年収1000万を超え、現在は1500万程になった。

夫はバイト先で認められたのか契約社員となった、でもフルタイムじゃないし家の事はこれまで通りきちんとやってくれている。

この頃に増田で「下方婚」という概念を知って、「ああ、これがいわゆる下方婚なのか、私がしたのはこれだったのか」と納得したものだった。


現在

しかし、今は離婚危機となっている。

原因は主に私。

とある案件で各所に出張に飛び回っている際、一緒に回っていた独身の同僚(俳優及川光博似)と一線を超えてしまった。

私自身は遊びだと思っていたが、浮気相手が本気になってしまい、夫と私を呼び出し直談判した。

バイトみたいな仕事しているお前(夫)と違って俺は高年収を稼いでいる、必ず(私を)幸せに出来る」

「年齢的にも子供ラストチャンスだろう、今まで出来なかったのはお前が主夫なんて甘えた立場にいたせいだ、男らしく無い、あり得ないだろう」

慰謝料は払う、だから(私と)別れて自由にさせてやってくれ、ニートのお守りにこれ以上(私を)縛らないでくれ」

といった事を言った。

夫はそれにショックを受けた様で、「そうか、君はそういう風に俺の事を思っていたんだね…」と、すっかり塞ぎ込んでしまった。


浮気相手は、結婚したら家事外注に任せよう、食事などデリ外食問題無いという。

現に浮気相手はそうしているみたいだし、私の年収も合わさればその生活は余裕だろう。

貯蓄もあるし、妊活に集中しても数年は食える程度の蓄えも余裕である

異性としては当然、浮気相手の方が魅力的なので、彼の言う甘言に傾き始めている自分否定出来ない。


しかし、私には責任がある。

働き盛りの男の仕事を取り上げて、主夫にさせて、10年近い結婚生活キャリア形成する機会を奪ってしまった。

仮に慰謝料を数百万払ったとして、夫に残るものは何だろうか?

アラフォーにして年収200万程度しか無い契約社員としてのキャリアしか残らない。

子供もいないし、彼には本当に何も残らない。

10年のキャリアロスを数百万で片付けろ、納得しろ、と言われたら、少なくとも私なら発狂する。

私はそれを突きつけようとしている。

大人しく気が弱いタイプの人だから、恐らく最終的には受け入れてくれるかも知れない。

でも、感情的には非常に辛い。

結局のところ、自分が稼ぐ女なら更に稼ぐ男と結婚して家事外注にすれば良かったのだろうか?


これがある一つの下方婚の末路だ。

平凡な人生を送る筈だった男の人生を潰してしまった。

結婚子供家事、がある以上、社会生活的には女が下方婚するには向いていないのかも知れない。


夫について

先にも書いているが主たる主計者は私だった。

夫の収入の大半は自分の小遣いと貯金になっている。

しかし、既婚者だと必ずと言って良い程他者から夫のことを「旦那」呼ばわりされる。

旦那」には色んな意味があると思うが、その中に「主たる主計者」「生活費を稼ぎ家を支えている者」「妻よりも(家庭内で)上位、地位が上」という意味は含まれている。

少なくとも私はそう解釈している。


夫も家の事を完璧に回していたので家を支えていると言えば支えているが、それが出来る程度の家計を支えていたのは私だ。

役割で言えば私が「旦那なのだが、そんな事を一々言って回る訳にもいかないので、表面上は普通にしていたが内心は深く傷ついていた。

女は主計者としてみなされないんだな、と。


また「旦那お仕事は?」と聞かれるのも苦痛だった。

まさかアルバイトとも言えず、事務経理関係仕事とか普通会社員とかお茶を濁していたが、正直恥ずかしかった。

私が辞めさせて家庭に入れて家事をして貰っていると頭では分かっていても、夫が同じ所に通って同じ様な仕事毎日しているという

仕事人としては非常に恥ずべき人間であるという事実に違いは無い。

勝手だと思うが苛つきや恥ずかしさをその度に感じていた。

名字も色々事情あって夫のものにした事もあり、余計に辛かった。

私が表立って稼ぎ柱になっているのに、あくまでも私は前田(仮名)某さんだし、「前田家」という集団の中の妻としてしか見られていない。

真実を話せば良かったのかも知れないが事情を知っているのはごく一部の親しい人しかいなかった。

今思えば下方婚をしたという事実自体が恥ずかしく、隠したかったのかもしれない。


正直言ってここ数年は性生活殆ど無かった。

仕事で疲れているとそういう気分になれないのと、夫が元々性欲が薄い方だった為、ほぼレス状態だった。

少なくとも夫から不満は言われた事は無いし、それでも愛情めいた感情はあったのでそれでも良いと思っていた。

仕事終わりにマッサージをして貰う、という形でのスキンシップは週に一度は最低でもあったし。


その壁を乗り越えてきた清志(仮名)は良くも悪くも遊び慣れているとは感じているし、同時に異性としての魅力は清志の方が圧倒的に勝っているのも事実だった。

夫は残念ながら異性としての魅力は(元より)足りていなかったが、そういう所は求めずに結婚したつもりだった。

でも結果的には異性をどこかで求めてしまい、清志の誘いに応じて一線を超えてしまったのだから我ながら身勝手だとは思っている。


お金の事

慰謝料は数百万を考えている、とは先に書いた。財産分与請求しないつもりだし、更に慰謝料こちから支払う。

通常であれば良い条件ではあると思うが、それと失わせてしまったキャリアと引き換えになるとは思えない。

でも離婚となればそうするしかない。責任を取るというのはそういう事も含まれているのだと痛感している。

清志は「夫側の財産分与請求すれば取れる、あっちは(私が)働いているか自分収入の大半を貯蓄に回せているのだから。良い弁護士も紹介してあげるよ」と強気だ。

実際共同資産と言えるもの殆ど無いと思う。基本は私名義の口座やカードから支払っていたので。

さすがに貯金も取り上げて離婚する気にはなれないから、慰謝料ちゃんと支払うだろう。


夫は先に寝込んでしまっている今ですら、遅くに帰った私の為、だけでも無いんだろうけど、家の事はきちんとやっている。

こんな人の人生を滅茶苦茶にしてしまった自分に嫌気が刺す。

きっと私じゃ無ければ、私が下方婚さえしなければ、気が利く良い家庭の夫になれたかも知れないのに。




いろいろ

このエントリ懺悔のつもりで書きました。

叩かれるかもな、とは思っていたけど、案の定だった。思ったよりも酷い事も言われた。

でも自分が身勝手なのは分かってるしそう思われるのも仕方無いと思う。

その中でも少数ながら擁護してくれている人の言葉に救いを求めている。


実の所、私達の中では離婚はもうほぼ確定的だ。

この文章だって清志(仮名)の自宅で書いている。

普段はほぼ寝に帰るだけだが定期的にハウスクリーニングを入れているという彼の家は普通に整い清潔だ。


夫は清志よりも2歳上である。そんな奴が私(女性)に稼がせて飯を食わせて貰うなんて本当に情けない、同じ男とは思えない、人生舐めているゴミ無能とまでという。

酷い言い草だと思いつつ、その内容に多少なりとも同意してしま自分否定出来ない。

私は仕事人としては無能でも、穏やかで一緒に居てストレスにならず、家の事をきっちりやってくれる人を求めたというのに。

から結果的下方婚という形で夫を選んだのに、結局は優秀な男を選んでしまったのだから皮肉ものだ。

せめて私と対等に仕事の話が出来る程度の人だったらまだマシだったのかも知れない。

そんな人は、同じ所に通い同じ様な仕事をやる様な仕事を選ばないんだろうけど。

下方婚してまで選んだ相手なのにね。我ながら身勝手で泣きたくなってしまう。


元々出張も多い業種柄、月の半分も家に帰れない時もあった。

自宅の最寄り駅が新幹線の駅から若干不便な所にある事もあり、出張出張の間、家に帰るのも面倒だから

夫を新幹線駅まで呼び寄せ、本当に申し訳程度の気持ちとしてのお土産洗濯物を渡し、代わりの服を貰って会話もそこそこに次の出張に行くのもよくあった。

からこそ去年から数ヶ月は今日みたいな半同棲状態にあっても夫には不自然だとは思われなかったのだろう。

私が主計者だったが故に浮気を出来てしまう、最後の一線を容易に超えられてしま環境に陥ってしまったのは本当に皮肉しか無い。

愛情があれば良かったのだろうけど、感謝や同情はあっても、異性としての魅力は最初から殆ど無かったのかも知れない。

ただ、「便利な人」。私から見た夫はそういう役割だった。

これからは一人で洗濯物を洗濯機に入れるぐらいはやらなければいけないのだけれども。

そんな事までやってくれていた夫に、私は感謝はしても尊敬を抱く事は出来なかった。

初めから相応の出来る男を選んでいれば、お互い不幸にならなかったのかも知れない。


夫は良くも悪くも気の弱い人だ。一方私も清志も、良くも悪くも気が強く押しも強いタイプだ。

弱っている夫にこちらの出した条件を飲ませて手を切るのは容易過ぎる。

慰謝料を支払い、さすがに家から着の身着のまま追い出す訳にもいかないので、夫の職場近くにアパートを借りよう。

一年分ぐらいの家賃だって先払いしても良い。せめてもの情けだと思う。

失わせてしまったキャリアお金解決出来ない事は分かってはいるけど、それでもせめてもの償いはしたい。


結局の所、女に下方婚は向いていないのかも知れない。

家を回す役割、その能力があっても、私は夫を男としては尊敬出来なかった。

一方女は家を守る役割をこなしても、それを認められない。

お互いにリスペクトが無いと愛情は続かないし、周りから承認されなくても同じ。

私は最適解を選んだつもりだったけど、後悔しか残らなかった。

同じ舞台に立てる、同じ部隊に属せる人間同士で無いと、夫婦は長続きしないのかもしれない。



下方婚の末路、あるいは顛末

https://anond.hatelabo.jp/20230312061228

2023-02-18

サバイバーミュージシャン浅井しんやかい極悪人

やべーよ。何がどう有れば、癌の人間不安に付け込んで騙してただでさえ弱っているところから金をむしり取る人生で良しと出来るんだよ。そんな人生、金があったからってなんなんだよ。

2023-02-16

想定されがちな女性性格パターン差し向けられる窓口対策

㈠ スポーツタイプ性格 負けず嫌い、怒りっぽい

 →スポーツマン系またはヤクザ風の対策

㈡ メガネタイプ性格 運動嫌い、汚れ嫌い、色白好き 

 →色白イケメン男、美声

㈢ メンヘラタイプ性格 都会好き、男性依存 

 →優男

㈣ 跳ねっ返りタイプ 拘り強め、独立意見 

 →ミュージシャン男性

㈤ おばさんタイプ 若者好き 

 →今どきの若者風の男性

㈥ シンママ再婚タイプ 大胆さと慎重さを併せ持つ

→面倒見のよい男性担当

結婚相談所でもこういうマニュアルありそう

2023-02-12

anond:20230211194522

俺は30過ぎたら自殺解禁するって決めてた

若い頃よく死にたくなってたんだけど

でも一応生まれてきたから30までは頑張って生きる事にして

その代わり30過ぎたらいつ自殺してもOKっていうルール

それ決めてから20代は辛くても「30なったら死ねから」と思ってがんばれた


30なると自殺願望あんまりなくなってた

33

ミュージシャン志望だけど

前に80歳でDJ始めたBBAニュース見て急ぐのやめた


30までに何者かにならないとみたいな風潮強いけど人生長いし

俺は80までに何者かになれたら御の字だと思ってる

かに昔より創作意欲とか減ったけど

自分のペースで、自分のやりたい事っていうか、自分カラーとかをブレずに続けるのが一番大切だと最近思う

2023-02-09

スペクターサウンドを256倍楽しむ方法

 日本では'76年に、フィレス・レーベル作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかCDボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者インタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証します。

 では、時代を追って解説していきます

テディー・ベアーズ

 1958年17才にして彼は”スター”でした。この後ポップス歴史を彩ることになるクリスタルズロネッツキャロル・キングバリーマンビーチ・ボーイズビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思いますポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージマーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサー仕事だ、という常識的意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点ヒッチコックを捉えるとおもしろ解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります黒沢さんもそうですね。)

 デビューアルバムTEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオバージョン>はナントリードボーカル女の子の声が左で、真ん中がフィルコーラスしかも、ところどころリードボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。

 デビューからしてこうなのですから自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。

SCHOOLもの

 のちにブラックミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリストギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分デビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]

 また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者キーワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラスバイクというスタイル流行しました。

 彼のでデビューソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生お気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至若者フィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事ことなのです。

ガレージサウンド

 ある程度、あるいはそれ以上の音楽素養がなければミュージシャン作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロック時代でした。子供技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽単純化拍車をかけました。ジャズ豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズ大人音楽で、背景はナイトクラブ女性お酒が似合いましたが、子供音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。

 麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角ストリート・コーナーが似合ったわけです。

 それにくらべて土地の広大な中西部西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本ロックサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽素養必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギターインストゥルメンタル>でした。これは、楽器感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズ単純化ロックとすれば、これはさらに、ロック単純化で、その極致であったわけです。

 これが<ガレージサウンド>の正体でしたが、この時代呼応するかのように、新しく生まれ現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージ居間などでの<ホームレコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモテープのような、ある意味では乱暴

チャートに登場するようになり、まさに音楽大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスバディ・ホリーデビュー曲地方の、オヤジさんが社長、オカミさん専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。

 それまでの録音は、演奏者と録音技師ガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホームレコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンド母体となるのです。

 スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時からスタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウルミュージックの追求というのは、スターありがちな<後付け>である、と私は考えています)。

 このホームレコーディングが、実は<スペクターサウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハルブレインドラム>、整理は<J・ニッチェアレンジ>、単純化は<L・レビンミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクターサウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。

インストマニア

 この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターギター少年でした。本名フィル・ハーヴェイとしてインストレコードも発表しています。また'58、'59年はインストロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンクレイ、そしてジョニーハリケーンズサント&ジョニーサンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムデビュー前の彼です)、そして極め付きはギターインスト王者、デュアン・エディーの登場でした。

 日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バットマン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇インストテーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージマーチン楽団の「リンゴテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャープロデューサーレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオ仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクターサウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。

 シルはこの時すでにスペクタープロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルナント「BE MY GIRL!」。

 スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。

 例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます

 シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッション見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナントベースドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベースドラムイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。

 エディーのスタジオは1トラックテープレコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンド秘密であった水道管やドラム缶をエコー使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいますスペクターが興味を持たなかったはずはありません。

 そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンド製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初評価された人なのです。

中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています

憧れのリーバー&ストラー

 その後シルは、スペクタープロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代代表的なコンビレノンマッカートニーとすれば、’50年代リーバー&ストラー時代で、ロックビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクター学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供プロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位確立したのがこの二人なのです。

 スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....

 ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクターサウンド>への引金になったと、私は思います。その手法プロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクターサウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルド出版社代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルドラマーゲイリーチェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。

 この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクターサウンドを作ったのはやはり彼なのです。

 この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクター時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。

 また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。

ガールグループ

 '60年代初めにシュレルズがキャロル・キングの名作<WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW

....きっかけに、ガール Permalink | 記事への反応(0) | 09:24

2023-02-05

anond:20230203192604

さらに見落とされている点として、アルバム単位で聴いた時に音の構成ミックスマスタリングというプロセスから統合的に「どのようなサウンド試行して、それが実現されているか」という聴き方もある。たとえば昔の洋楽アルバムに着想を得て、そのサウンド構成に寄せたいだとか、安いスピーカーでも聴きやすいように特定の音域を聴きやすくする、とかというような音の狙い。

これらは曲単位でも実現されているが、アルバム単位サウンドエンジニアと実現する場合が多い。

自分が「聴けている」と思っている範囲は、自分で思っているよりも狭い。ミュージシャン自身物語、曲に纏わる物語リスナーとしての物語サウンドの狙い、などなど。それらを捨ててシンプルに単曲として聞くのも良し、あらゆる情報音楽と絡めて味わうも良し。

2023-02-04

音楽ヒットチャートに中高年と同世代ミュージシャンがあまり出てこないのはなんで?

音楽ヒットチャートに出てくるのは1020代30代のミュージシャンばかりだよね。

日本少子高齢化しているんだから40代50代60代とかがヒットチャート常連になるのが自然ではないの?

2023-02-03

anond:20230203151514

ヴォーカルが垢抜けてない、カッコ悪いみたいやないけ!

サンボマスター

リズム隊メンバーミュージシャン然とした感じになっててかっこよかった

2023-01-31

鮎川誠氏、逝去

ミュージシャン鮎川誠氏が亡くなった。ファンだったという訳ではないが、酷くショックを受けてしまった。それは氏が自分と同じ九州大学農学部出身だったからだろう。九大は移転しかつての六本松箱崎キャンパスはなくなり、どんどん思い出が消えていってしまっている。鮎川氏のインタビュー等を読むと九大の話題が頻繁に出て来る。「九大に進学すれば一目置かれるから」という意味言葉も出て来る。「大都会」の福岡に出るためには九大に進学するしかないというのは田舎出身自分にもよくわかる。けっして裕福ではなく奨学金を貰いながら大学に進学した鮎川氏は近い存在だったというのが身に沁みた。いつかはと思っていたが、結局一度も生で見ることが出来なかった。あらためて思えばこれほど九大を愛していたOBはいなかったのではないかと感じる。たびたび九大に来られていたが、ライブを見ることは出来なかった。ご冥福をお祈りする。

anond:20230131141406

1つだけ、30年くらい新しくね?

「しあわせになろうよ」は、日本ミュージシャンである長渕剛の36枚目のシングル2003年5月1日

2023-01-26

庵さんという人が無印BGM作ってるっぽい

庵 そうなんです。もちろん収入必要なわけですが、みんなのために音楽をやっていき、それによって収入があるほうが良いが、なかったら、ないなりに続けていくという姿勢。その点が伝統音楽ミュージシャンの素晴らしいところだと僕は思います

今でこそ音楽って商用のエンタテイメントビジネスが主流に見えますけど、音楽歴史から見たら、それは近年のことですよね。

いいですねぇ

2023-01-24

anond:20230124215425

ゴイステ銀杏の曲は童貞じゃなくなってからミュージシャンとして書いた曲だけど

OMOIDE IN MY HEAD20代地元で飲んで遊んで帰ってた頃の20代に書いた曲だから

上二つは青春っぽい青春青春のものの違いがある

2023-01-23

CMに出る出るタレントさんって、その企業商品サービスに対しての広告塔になるわけだけど、抵抗はないんだろうか。

まーそんなのそれぞれ考え尽くしてはいるだろうけど。本当に好きだったり、契約金との天秤だったり…

企業側が無名の人ではなく名のある俳優ミュージシャン使いたいのは、そのブランド力に乗っかりたい思惑があるんだろうけど、それってどうなんだろうなーと思ったりする。

双方契約書挟んでやってること、わかるよね?と視聴者理解を求められてるかんじがするのも気持ち悪し。

2023-01-20

髭男のボーカルギター。あの顔と身長結婚してるのか。俺もサラリーマンじゃなくてミュージシャンになればよかった。

藤井風がブサイクだったらほとんどの女は聴いてないよな

結局顔やんってなる

ミュージシャンなら音楽勝負しろ

youtubeで乳の谷間見せながらピアノ弾いてる女と大して変わらん

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