はてなキーワード: 独自とは
でも、どうしても吐き出したくてもう一度載せる。何通か書いたものをまとめて載せる。追記の項に書いたけど、吐き出したいだけで、それ以上の意味はない。
思うままに書いたエントリを縦につなげただけなので、論理構成は無茶苦茶。
長男が発達障害だ。療育手帳は上から3番目の等級。これは、身体障害で言うと指の欠損とか嚥下障害とかと同じくらいの重さ。ただ、どこがどうと言うと、説明が難しい。
多動でもなければ注意欠陥でもない。ステレオタイプな目を合わせないような自閉症ではない。むしろかなり人懐こい。
知恵も遅れてなさそうだし、人と目を合わせられないとかでもない。
説明しやすい違いというと、喋らないことだけだ。5歳が近づいてなお、意味のある単語は喋らない。イーッ!アーッ!ばかりだ。手帳はほとんどそれで貰えたに近い。しかし、言葉を喋らないことは、育てにくさの一端でしかなく、本質じゃない。
彼の場合、ただただ、コミュニケーションに対する考え方が、行動が定型児とは違うのだ。無敵の人なのだ。
みな「うちの子もそうよ」みたいな話をする。そりゃ、どの子だって、自分の世界に入って周りの音が聞こえないことってあるだろうさ。我を通したいがためにスーパーで寝転がって駄々をこねるということもあるだろうさ。でも、頻度と質が違うんだ。
彼は楽しさを共有しようとする意思がある。テレビをみて、今のみたか?というふうに視線を送ってくる。無視していると、髪を掴んで強制的に鑑賞させられる。
その一方で、他者からの働きかけには興味がない。まず名前を読んでも反応がない。問いかけに対する反応もない。聞こえてないわけでも理解してないわけでもない。なぜなら、自分の利害と一致するような言葉はちゃんと拾うのだ。「買ってあげるから(スーパーの)カゴに入れて」とか、「児童館行くからおいで」という言葉にはちゃんと反応する。
そんななので、口頭試問という手段が使えないので、知能を測ることは難しいんだけど、親バカだがむしろ賢い。ひらがな、カタカナ、アルファベットは2歳くらいから読めてる様子。3歳になるとPCのキーボードでタイピングするようになった。数字は100くらいまで理解し、足し算のような演算記号も理解してる様子。機械の仕組み、道順、人の顔もすぐ覚える。
知能が測れないというのは地味に厄介だ。
何ができて、何ができない、何を知ってて、何を知らないのかが親にわからない。
ある日突然できている。いきなり意味のある文章をタイピングしたり、いきなりそれとわかる絵を描いたり、いきなり1人で着替えてる(もう一度してと言ってもしてくれないし、再現されることはまずない。いまだに手で食べ、オムツで、着替えは人任せだ)。
しかし、嬉しい驚きばかりじゃない。むしろ、それが一番困るところだ。
1歳で1人で外に出た。3歳くらいのとき1人でスーパーから消え近くの踏切にでた。やはり3歳で包丁で野菜を切ってたこともある。
目を離した親が悪いというけれど、本当に、「ある日突然なにかができてる」なのだ。
そして、これが特徴だけど、どんなに怒鳴っても、ほとんど響かない。嫌われることへの恐怖心というものが皆無だ。すごい剣幕に、近くにいた次男はギャン泣きなのだが、当の長男はというと、なんか耳元でうるさいなくらいの顔しかしない。
拳や足による制裁が加わっても、なにか面白いものを見つけると、次の瞬間に天使の笑顔である。憎しみや怒りに対して笑顔をぶつけられるチートスキル。明らかに不機嫌がおさまらず噴火寸前触るな危険な妻にも、キャッキャ寄っていく。価値判断が自分が楽しいかどうか、自分がしたいかどうかだけで、他者評価を一切気にしない。つまり、無敵の人なのだ。
袋詰めの一瞬の隙をついて、消えた。まさかの店外に出ていて、近所の踏切で確保された。何人かの大人に囲まれ詰問されていたが、喋れない。警官が駆けつけたところで、パニックになった妻が到着。地獄絵図だったそうな。
本人的には「俺は一回くれば道くらい覚えてるからさ、1人で踏切にくらい行けるし、車道や踏切の中で止まるほどバカじゃないよ」
って喋れたらそう言ってるだろう。
自分は、彼のことを95%くらい信じてる。口頭試問できないが、かなり賢い。たぶん信号を理解してるし、車道や踏切というものをたぶん理解してる。でも5%くらいは信頼できない。5%、つまり20回に1回はなにかある、そのくらいの信頼度だ。そういう意味でも、親は子供の「はじめて」の側にいたい。何度かの練習で失敗を繰り返し、99.99%成功、万が一くらいの危険度になってようやく1人でやらせたい。だが、彼の初めては、常に突然だ。気がついたらなにかしてる。無敵の人だからだ。幸いに事故はないのだけど、大人がすり減る。
こだわりの強さの話をしよう。
こだわりとわがままは違う。
我が家の場合、定型っぽい次男のイヤイヤ期のほうがよっぽど理不尽だった。
例えば、次男が牛乳のお代わりを要求するのに対し断ったとする。イヤイヤ泣く。渋々お代わりを与えても、「欲しかったのはさっきの瞬間で、今じゃない!あの時の俺の気持ちをどうしてくれる!」みたいな泣きがはじまる。
発達っ子の長男は、こだわりは絶対に譲らない。どんなに拒否されても、コンコンと要求を取り下げない。激しく叫んだり暴れたりしても、パニックではなく、伝えるためにそうしてるだけだ。30分でも1時間でもやめない。ちゃんと要求さえ通れば、それきりだ。要求を飲んでくれたことへの感謝もなければ、要求をしぶられたことへの恨みもない。
他のことに気を逸らすことが非常に困難で、まず無理だ。いわゆる子供騙しが通用しない。
本当に、無敵なのだ。
この子の母、自分の妻は、長男と180度違う。妻の性格はちびまる子ちゃんみたいと言えばいいだろうか。おだてられたら調子に乗り、怒られたら凹む。他人の成功を妬んだり、目の前の餌に釣られたり、ふと冷静になって後悔したり、劣等感にさいなまれたり、仏様に憐れまれそうな典型である。
妻は憐れな衆生の1人、お気持ちファーストなので、妻が長男を叱る時、響かないのはストレスらしい。凹ませるのが目的じゃないって正論を言っても、理性ではわかっても行動をアップデートできない。反省の色が云々は裁判官でも言っちゃうので、怒られてすぐヘラヘラされて正気でいるのは、解脱が遠そうな性格の妻には無理のようだ。
妻と衝突した時、次男は判断が気持ちできまる。こんな気持ちにさせられたという自分の気持ちがファースト、相手が怒ってるどうしようという相手の気持ちがセカンド、それを天秤にかける感じ。多くの場合、なぜ怒られたかすら理解してない。
対して、長男は、「かくあるべし!」っという戒律じみた強い信念と、好奇心が行動規範。話が聞こえてないわけではない。そもそも悪いと思ってないとこはなにを言われても取り合わないが、失敗(はしゃいで走って牛乳をこぼしたとか)を咎められると、バツが悪そうな顔をする。言葉は通じてるのだ(自分でタオルを持ってきて拭きはじめるが、拭き終える前に別のことを始めるのだが)。
どっちかっていえば、長男が人類のあるべき姿で、定型の定型たらしめる妻と次男の人間臭さこそ、現世の生きづらさな気がするのだ。長男はこだわりや好奇心の邪魔をされなければ、妻や次男に八つ当たりや理不尽な攻撃をされてさえ、「やれやれだぜ」くらいの顔しかしない。
でも、悟るのは成人してからにしてもらわないと困る。お釈迦さまだって結婚や育児が一段落してから出家したように、まずは社会通念に従ってくれないと、この世で生きられない。
社会のルールとか、貨幣制度というのは、幻想を共有することだ。長男はその能力が著しく低い。「僕が鬼で君が隠れる。見つかったら負け」こういうのはたぶん長男は理解しない。というか理解する必要性を感じない。鬼とか負けというのは、幻想だから。
理解するとしても、アルゴリズム体操のように、そういうアルゴリズムとして理解して、前後の文脈や場の空気からの理解じゃない。
長男はよく星のカービィ(WiiUのバーチャルコンソール)をしてるのだけど、ライフがゼロになるとか穴に落ちたら残機が減るというのは理解する。なぜなら、幻想じゃなく仕様だから。ゲーム機の充電、ゲームを起動、多彩なアクション、テレビゲームのルールこういうのは得意。
社会のルールは理解しないくせに、長男独自の数多のマイルールに縛られてる。多くの人がキッチンスポンジのほうが便器より汚いといわれても便器を舐められないように、長男としては譲れないポイントがそこらじゅうにある。親は全てに付き合わされる。例えば、妻がどんなに怒り心頭してても、次男が頭から流血してても、散歩のルーチンは譲らない。
それに加えて、子供の好奇心と目覚めた知能をフル活用した想定外の行動を起こす。無敵の人だから叱ることが抑止力にならない。
よく発達障害について、こだわりが強いとか、注意散漫とか、他人の気持ちを理解するのが下手とか、そういう説明がある。
言葉としてはあってるけど、ちょっとズレてる。そんなもんじゃなくて、生物として、もっと基本的なところでなにか違う。
天才も多いと言われるけど、たぶんそれも違う。認知や学習の方法が全く違うから、定型の知能と長男の知能の優劣はつけられない。
たぶん、長男は学業優秀に育てば、国語のテストで満点を取れるようになったりはするだろう。でもそれは文章は理解できるというだけだ。心がわからないというのではない。小説や映画に感動できるようになっても、この子が物語から感じる感動の質は、定型の人のそれとはおそらく違うと思う。寄生獣という漫画で、犬を看取った直後に、その犬をゴミ箱に捨てるシーンがある。ヒロインが「あなた普通じゃないわ」と言うが、主人公は「死んだら肉だ」と噛み合わない。この子は将来、そういう違和感を周囲に与え続ける。
どこまでいっても彼は異星人だが、寄生獣のミギーのように愛される存在になってもらいたいと親としては思ってる。
定型児は、音声の模倣から入る。最初は原始的なオウム返しだけ。そこから、過去の経験、前後の文脈から、それらしい語をつないで出力するようになる。
GPTのモデルと同じ。次にくる語を確率的に予測してつなぐだけ。「吾輩は」の後には「猫である」がくる。そこに理由などなく、確率論、経験則で。でも、それを高度に行えるようになると、知能と呼べるような振る舞いになる。
定型児の知能の獲得はコレに似てると思う。
ヒトは噂話をするために言語をさせたという説がバカバカしいが一番有力らしい。
サルの毛繕いのような、コミュニケーションをとりたがる本能があって、その延長に噂話、言葉と言葉をつなぐことによって、知能と呼べるようなものが生まれたと考えると、なるほどと思う。
定型児は、自分の言葉や行動が、前後の文脈や周囲の空気の中にから紡がれ、その言葉や行動が他人にも自分自身にも影響することを意識する。
知恵がつくから意識するのかと思ったが、GPTの仕組みを聞くと、意識することそのものが知恵の本質のように思う。
少し別の話。
長男の前で、ぬいぐるみを手に持ってぬいぐるみが喋ってるふうにして喋ると、怒る。
定型児にはごっこ遊びでも、彼にとっては「嘘」なのだ。やめろ気持ち悪いと感じてる様子。
ホモサピエンス全史がいうところの、「妄想を信じる力」が抽象的な概念の獲得なら、長男の知能は頭打ちしそうなんだけど、むしろ数字や文字は幼い時から好きだった。
どういうふうに育つのか、親としても興味はある。
ここ2週間くらいで、ようやく強く呼べば名前に振り向くようになった。
今までは、用があるときは長男から働きかけてくるが、こちらが何を言っても無視だったものが、進歩だ。
遊びに行った先でもう帰るよって言っても、抑えつけて車に放り込んで車が動き出すまで聞かなかったものが、すんなり諦めるようになった。
彼なりに、成長してる。
この駄文は、発達障害育児エントリに触発され沸き上がった心の叫びでしかないので、何が言いたいかわからんという感想はごもっとも。
目を離さない以外できることがない。
あと、言わせて欲しい。
座って待ってられるようになって食べられる食材が増えたら子連れで外食に行けるようになりたい。
列に並んで待てるようになったらテーマパークに行きたい。
正社員にならないと学べないことなんて、その会社独自の慣習くらいで、
労基法や税制、敬語、手紙の書き方、今はネットに膨大な情報が溢れている。
なんでイラストレーターはわざわざAIと正面から勝負しようとするんだろう。オリジナルのキャラクターみたいな独自の意匠や、油彩や水彩みたいな実物で戦えば良いのに。
それはつまり、社会全体に既に共有されているルールを守るということだ。
順番に並んでいるならそこに横入りしないとか、相手とあまり親しくないなら敬語を使って心理的な距離を近づけすぎないようにするとか、そういったルールがこの世界では概ね決まっている。
ただ道を歩くだけにしろ、逆方向から来る人とお互いが邪魔にならないように片方によるとか、曲がり角では見通しを確保するためにインコースを攻めすぎないようにするとか、常に周囲に気を配って衝突を回避するとか、そういったルールがぼんやりと存在する。
そういったものは一部に儒教的な年功序列感がノイズのように交じることもあるが、概ねはどちらかが一方的に損をしないようになっているものだ。
そういったルールを破り、自分だけが得をする行為を一方的に相手に押し付けること、これが「礼を失する」というものだ。
「相手にだけ挨拶をさせて自分はふんぞり返る」とか、「自分は悪口を言っているのに相手が言ったら不機嫌になる」とか、そういった不平等を平気で行うものこそが無礼者なのだ。
こういった無礼行為は「俺は、特別だから、特別扱いされるべきだ」という俺ルールの元で行われている。
既に一般的に存在するルールとは違う独自のルールをでっち上げ、それによって自分だけが得をし続けようとするのだ。
「他人にやって欲しくないことは自分もやらない」というのは当たり前のルールだが、無礼者にそれは通用しない。
彼らは自分にとっての快不快だけを絶対の指標としており「俺が気持ちいい物が正しいこと、俺が気持ちよくないのが悪いこと」と考える。
この「俺」の主体が「相手」となることは絶対になく、「俺がお前を殴るのは楽しいから正しい。お前に俺が殴られたら痛いから間違っている」と平気で考えるのだ。
そういった謎の尺度という意味では、一部のオタク界隈や競技者界隈にある「この競技に強い奴が人間的に全面的に正しい」という概念はまさしく全人類に対しての無礼行為だ。
「勉強が出来る人間だけが正しい。だから勉強ができない人間には何をしても良い」という奴に限って、それが「野球が出来る人間が正しい」に置き換わると途端に文句を言いだすものだ。
これは当然、野球が出来る人間やサッカーが出来る人間、将棋だったりゲームだったりでもよく起きるものであり「この界隈において最優先される能力があるものが全て正しいのだ」はいつだって人間社会への侮辱行為に等しい。
つまる所、「万能の権力」なるものが存在する空間は限りなく無礼であるということだ。
「社長に部下が逆らうのは無礼だ」「上官にヘコヘコしない部下は無礼だ」などというものがいるが、これらの発想こそがまさしく無礼そのものと言える。
「相手に無礼を一方的に働くことが可能な権利が存在する」という謎のルールを展開した時点で、そこには礼儀なんてものは既に無いのだ。
つまる所、自分には権力があると信じるものは皆礼儀知らずなのである。
権力などというものは存在せず、役割の中において力関係が生じてしまうが故にそれに対しての恐怖で縮こまった態度を取られているだけだと自覚できない人間ほど惨めなものはない。
そういった構造的な力関係を背景にして他人を脅しつけるのは、年功序列社会においては年老いたものほどやりがちだが、実際にはそれらの行為は非常に幼いものだ。
だってそれは「親に言いつけるぞ」とえばり散らす幼稚園児と何も変わらないのだから。
子供じみたことをして他人に忖度を求めることほど人間として小さいものはないが、恥を学ぶことが出来ないまま体だけ成長した大人はすぐにそうやって振る舞いたがる。
本当に惨めで哀れな生き物だ。
自分だけが有利になるルールを押し付けるというのは、ハンディキャップをつけてくださいと手を擦り合わせて乞食しているようなものなのだが、それでよく惨めにならないものだ。
長くなったので最初に要約する。現状のAIイラストの恩恵を被る絵描きは、次のタイプであると思う。
「長年絵画表現に慣れ親しんできており、基本的なデッサン技術は習得しており一通り何でも描けるが、表現したい内容の個性が強すぎて多くの人に敬遠されがちなタイプのアーティスト。デジタル絵画表現において個性が強すぎて、多くの人にとって見慣れないバランスであるために技術力の割には敬遠されがちだが、どこを標準的なテイストに近づければ「自分の理想とする表現の核を見失わずに人に受け入れられる作風に近づけられるか」という判断が自力ではつかない人」
自分はどちらかというと反AIだと思われている。学習データに児童ポルノを含むことやディープフェイク等、現行の生成AIについて問題はあると考えている側である。
絵と漫画を描く。技術的には資料さえあれば何でも描け、絵を寄せることも可能だが、人物キャラクターにおいて、あまり流行とされるイラストに魅力を感じないので基本的に金銭の絡む場合以外においては資料として流行のイラストを見ながら流行のイラストに寄せて描くことはない。
テストのために自分の絵をi2iに通してみたところ、いくつか発見があった。PCは面倒だったのでモバイルアプリでテストをした。おそらくNovelAIリークだろう。
まず初めに「(表現で)勝った」という感情があった。データセットの関係か、生成AIの画像は自分の絵の方で表現している内容を全く拾えなかった。
自分の絵の方が個性的で、強い感情を表しており、ぐっと人目を引く絵だった。おそらく生成AIが苦手とする類の微妙な感情表現だからだと思った。そもそもデータセットになるべき絵の枚数自体があまりないタイプの絵なので、今後もそういった表現でAIが卓越してくることはないだろう。
そして、生成AIに食われたデータセットについて、無許可で使用された挙句、絵柄の作成者のあずかり知らぬところで、他の絵描きから「勝った/負けた」と比較される土台にされるのは不甲斐ないことだと思った。歌い手と比較されるミクのように、データセット提供者の許諾とそれなりの対価は得るべきだと思う。
さて、自分は表現において「勝った」ことによって、主観的なレベルでのイラスト生成AIへの本質的な畏怖が無くなった。
しかし、ここで疑問が残った。AIに追いつけない表現をしたからAIが追い付けなかっただけであり、それらが得意とするタイプのモチーフならまた変わってくるのではないだろうか?
そう思っていわゆる自分が描いたアニメ系の美少女の一枚絵をいくつかi2iに通した。といっても、特定の絵柄に寄せたものではなく、自分の独自の絵柄で描いた女の子の顔の絵である。
ここでかなり気付きがあった。自分が標準的だと思っていたアニメ系の典型的な美少女の顔は、標準的な美少女の顔から縦横比や骨格のバランスがかなり異なっていたということである。AIによって生成された、骨格が異なる美少女絵は同一人物だと思えなかった。
i2iに女の子の絵をかけるまえの当初は、絵柄を変えた自分のキャラクターが出てくるものだと予想していたが、出てきたのは同じ服飾とポーズのコスプレをした他人だった。そのとき自分が思っていたより自分の絵柄の美少女キャラはオリジナリティがあったこと、だからあまりウケなかったこと、自分の描いたキャラクターの唯一無二性を理解した。
ー自分が思っていたより自分の美少女キャラの絵柄は個性的だった。
ーそして、その強すぎる個性が多くの人を敬遠させる原因となっていたようだ。技術力の問題ではなさそうだ。
ー自分の脳内の人物像を知っているのは自分だけであり、やはり自分にしかその特徴を捉えて表現することは出来なそうだ。
ー左右のパーツのバランスの狂い。パーツの一部だけではあるが、「上手い絵」の生成AIの顔画像と並べて比べることで、絵の狂いに気づくことができた。外連味のある狂いなのか、ただ左右対称に描けずに狂っただけのバランスの狂いなのかが、i2iを通して他人の絵柄に変換されるようになったことで客観的な判断ができるようになった。これは絵描きにとっては非常に有益である。
ー塗りや色見本のサンプル、仕上がりのサンプルとして非常に有用。これは自分だけかもしれないが、絵柄を寄せられるということは、先に仕上がった先の具体的なイメージがより見えるほうが上のクオリティを目指しやすいということがある。最初に完成図(仮)が見えることで、どちらの方向で内容を詰めていけばいいかの案出しのイメージが初期段階でいろいろ検討できるのはとても有用だと思った。先述した通り、もともとの絵においての表現の強度自体はAI生成物は超えられるので、より高みを目指して行けるというか。
ーもともと流行に乗るということがもともと苦手で、10年残る画風を想定に違和感のないバランスを模索しているタイプだった。自分の絵のベースを守りつつ
この場合は絵柄の骨格やパーツの描き方等を維持したまま、より多くの人に受け入れられやすい見栄えの良さとフレッシュさを追求したいと思っていた。そこに、自分の描いた構図と色合いのまま、完全に他人の絵柄に絵を入れ替えるというこのAIは革命を起こしたと思う。自分の絵柄の標準から異なる部分が非常に明瞭化され、自分の確固たる独自的な表現、そして表現されたキャラクターの人物性を如実に表すオリジナリティの部分はどこか、失ってはいけない角の部分がどこかということがより明確に自覚することができた。
守るべき部分、重要な部分がはっきりと可視化されるので、そうでない部分、フレッシュな塗りやディテールの線画の太さ等の表現は標準的な絵に寄せることで今まで敬遠されていた層にも好かれやすい表現を開拓できそうだと思った。
イメージでいえば目指しているのは、ソシャゲのグラブルのイベントの名探偵コナンのようなイメージである。どうみても名探偵コナンだが、塗と雰囲気がグランブルーファンタジーに準拠していたものであり、グラブル世界観やグラブルユーザーにもなじむという絶妙な表現になっていてすごいと思った。
今まであまりリファレンスの画像を見てこなかったのは、端的に言えば、自分と異なる表現テーマを持った魅力的な絵を横に見ながら描くと、自分の意識の方を絵の内容の方に引きずられて自己の表現したい内容の温度感を鮮明に感じられなくなるからというのがあった。
i2iの場合は、同じ構図であるうえに、「i2i先の絵には表現したいもの」が存在していないことがわかるため、端的に言えば作者の存在がないため、欲しい部分、つまり塗りや線の太さだけに着目することができる。これはいつも他の人の作品を見るときに裏に作者の存在を読み取ろうとし、そして作者の存在に配慮しようとしてしまう癖がある自分にとっては「裏に作者の意図と意思のない画風見本」というのはリファレンスとして革命だった。
長々と書いてみたが、要するに「自分の構図で出力される他人の画風の生成物を自分の絵と比べることで、自分の絵の客観視が行いやすくなった」ということである。「自分の絵を客観的に自分で分析、そしてその分析をもとに自己の絵画表現をより深化させるためのたたき台にするためのツールを得られた」という感覚だ。逆に、この一点以外のイラスト生成AIの有用性はないと考えている。
なお、AIの生成画像や一部をそのまま切り抜いて使うという使い方については何がいいのか感覚的には全く理解できない。それはただの手抜きツールであって短期的な利益にはなるかもしれないが、便利なものに頼るとその部分の潜在的な能力は退化するので、そういった手抜きツールを使用したアーティスト個人においての長期的なメリットはなさそうに思う。
最近、東方アレンジの「インターネットサバイバー」や、くそみそテクニックアニメ化、あるいは「NEEDY GIRL OVERDOSE」など
「インターネット老人会」的なものを想起させるコンテンツが多く世に出てるけど
これらのメインターゲットが、作中で使われているようなネタをリアルタイムで体験しただろう世代(20後半〜30)と考えるのは間違いだと思う
これを書いている自分は小五の頃、ニコニコ動画の古いネタにハマってた
当時でも十分古かったし、リアルタイムで立ち会えてたらなあと思っていた
その熱が冷めてしばらく後、自分はScratch(子供向けプログラミングツール&投稿サイト 小中学生の独自の文化がある)をやっていた
そこで見つけた作品で、逆転裁判のキャラがニコニコの昔のネタを明らかに子供が描いた文章で言いまくるというものがあった
これを見て、自分がやってたことは平凡だったと落胆し、あれは誰もが通る道だったんだなと納得した
当時の自分そのままでなくても、単純にネットネイティブで当時からネット見てたとか、今の自分みたいに時期がズレたノスタルジーを感じてるような子供は間違いなく存在する
YouTubeで子供が見るような動画を見ると、普通に阿部さんアイコンがいる
https://qiita.com/ockeghem/items/c6a3602d2c2409f89fbb
オフラインでも通用する物理的なハッキングもそもそも公衆無線LAN論の外としてさぁ
お前そりゃ悪人の庭に自ら足を踏み込んだらカモネギでむちゃくちゃにされるに決まってんだろって
そんな話は一般人にとっちゃぶっちゃけどーーーーーーでもよくない?
証明書含め基本のセキュリティ対策は提供側が最低限しているというほぼ確認しようが無い前提に立って
「一般人がフリーWi-Fiに繋いだときのリスク」が求められている話なんで
たとえば同じフリーWi-Fiに悪い人と同時に繋いでいたらリスクがあるのかな?とか正式なフリーWi-Fiに繋いでいるときに通信を盗聴されるフリーWi-Fi独自のリスクはあるのかな?ってところが疑問点
正規の手順で正しく使っているのにも関わらず自宅のWi-Fiより高まるセキュリティリスクって…(不安)みたいなところに
偽APやらそっから中間者攻撃やらに繋げられてもまったくもって芯を食ってない
ファイル共有についてはまあ不注意っちゅうか利用者しっかりしとけよって話なんだけど
とかく全体的に"ずらし"をされてるって気分を毎度セキュリティ記事を読むたび思うんだよね
お前、その前提だされたらなんもいえねーわ
みたいな
昔、PCにハッキングする早さを競う企画があったと思うんだけど、そのPCはセキュリティアップデート施してないデフォルト状態でしたってことでズコーっとすっこけたことがあった
それで「ハッキングは怖いですね~」ってならんでしょ
まあガチガチの最新状態のなかで未知の脆弱性を見つけるなんて逆にお金もらえることなんだから企画になりゃせんがね
僕のPCが日常使いでハッキングされる危険性を煽りつつ内実セキュリティアップデートすらしてない環境前提で話が進んでもズレてんだわ
ってこっちの話もずれたけどよー
何度も書きましたがグレーゾーンです。
証拠1
TPPの著作権検討時に文化庁長官がいった言葉「我が国独自のコミケ文化には配慮する」
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/chosakuken/hoki/h27_06/
なおこの分科会での検討は幅広く、分科会内容から、30条の4のAI学習無罪(ただし思想感情享受できないことが条件なのでAI生成はグレーゾーン)創設にもつながっている
証拠2
https://taroyamada.jp/cat-expression/post-19590/
あれ弁護士の卵さんですか?まさか出版社づとめでこの認識はないですよねw
最近では翻案・二次的創作物(翻訳やメディア展開)と「いわゆる二次創作(子供の似顔絵レベルも含めて原作に憧れている個人の創作)」は違うものという流れもありますからね
そういうところが問題なんじゃないの?
解決するために必要なものがあったとしたら「二人の合意・二人の一致」なんじゃないの?
それぞれ別のことを別の場所で別の価値観から別の視点で別々に解決しようとしてたらいつまでたっても「どうやって別々に解決するか」だよね
確かに、「社会の歯車」の比喩は、個々の人が重要な役割を持っていることを示唆していますが、すべての人が重要なポジションにいるわけではありません。そのため、より適切な比喩的表現をいくつか提案します。
社会の織物 (Society's Tapestry): 社会を織物に例えることで、個々の人が糸の一本として、織り上げられる社会全体のデザインに貢献していることを表現できます。すべての糸が同じ役割を果たしているわけではなく、それぞれの色や太さが異なり、独自の特徴があることを示しています。
社会のパズル (Society's Puzzle): この表現は、個々の人が社会全体のパズルの一片として、それぞれが持つ形状や特徴によって、適切な場所に嵌められることを示唆しています。パズルのピースはすべて異なる形をしているため、重要性の大小は関係なく、全体像を完成させるために必要な要素として表現できます。
社会のオーケストラ (Society's Orchestra): この表現は、個々の人がオーケストラの楽器奏者として、それぞれが担当する楽器やパートによって、調和の取れた音楽を奏でることを示しています。楽器奏者のそれぞれが重要でありながらも、役割や重要性が異なることを表現できます。
社会のエコシステム (Society's Ecosystem): この表現は、個々の人が生態系の中で異なる役割を果たしている生物のように、互いに影響し合いながら共存していることを示しています。生態系では、すべての生物が重要でありながら、役割や影響力が異なることが一般的です。
できるだけ強い国と仲良くなって
お互い守っていこうねってやつ。
で、左派のみなさんは戦争する国にするつもりかー!と集団的自衛を否定するんですよね。
つまり世界各国とは足並みを揃えず独自に守っていくってことですよね。
アメリカとかあてにしないんですよね?
この匿名ダイアリーにしてもそうだが、低収入でつらいとかモテなくてつらいとか、そんな話をよく見るし、
SNSは現実で居場所を得られなかったガキと老人で賑わってる。
たぬかなは大炎上でクビになっても配信者として復活し、現在はコンカフェの企画を立てたり、独自の集金方法を編み出したりしている。
チョコブランカはあらゆるメディア出演をこなしてきたし、株式会社忍ismを立ち上げて経営者になってる。
「身長170cm以下の男は人権なし」の発言は異常なまでに炎上した。
身体的・経済的に弱い男が多いネットにおいて、レッドブル所属の強者女性が弱者男性を煽る、というのは刺激的すぎた。
チョコブランカも、テレビに出演した時の発言を根に持たれている。
ただの例え話でしかないのに、この発言をやたら根に持つ奴がそれなりに存在し、
5chなんかでは未だにテレビのキャプチャをペタペタ貼る奴がいる。
これもまた、強い女が強気な発言をしたという点で、弱い男の反感を買ったのだろう。
映画は終わったはずなのに、心の中にまだ音楽が鳴り響いていた。帰り道の高揚感はまるでライブ会場から帰るときのようで、音楽に包まれた世界で息をするような感覚からずっと抜け出せない。映画『BLUE GIANT』は、感情を奏でる演奏で観客の心を掴む、最高の音楽ライブだった。
公式サイト: https://bluegiant-movie.jp/
予告編(YouTube): https://www.youtube.com/watch?v=h1I116oS_Lk
今年の二月から上映している本作は、同名の漫画を原作としたアニメーション映画だ。音楽と人間の物語を楽しみながら、ジャズ界の独自の価値観や挑戦についても理解を深めることのできるものになっている。
主人公の宮本大は「世界一のジャズプレイヤーになる」という大きな目標を抱え、故郷の仙台を飛び出し、単身上京する。東京で出会った凄腕のピアニスト・沢辺雪祈や、高校の同級生で素人のドラマー・玉田俊二とジャズバンド「JASS(ジャス)」を結成し、それぞれが音楽に向き合いながら、壁にぶつかりつつ、夢の実現に向けてひたむきに取り組む一年半が描かれる。
原作の「東京編」を中心にエピソードを厳選し、上映時間の四分の一をライブシーンに充てるという大胆な構成が採用されていたが、まずこれが見事な成果をもたらしていた。上原ひろみ(ピアノ)、石若駿(ドラム)、馬場智章(サックス)の演奏はとにかく圧倒的で、音楽とアニメーションのコラボレーションの最高峰と言える。また、その魅力を余すことなく味わうことができたのは映画館という環境の存在が大きく、Netflixの支配力が高まる現代において、専用施設の役割や可能性を示すことにもなっていた。
今回は、そんな傑作の魅力を紹介すると共に、宮本大の「ジャズを信じる」信念の問題点や、JASSの「So Blueに立つ」という目標が物語の性質に与えた影響について考えていきたい。
映画『BLUE GIANT』のテーマは「演奏者と音楽の関係性」だ。宮本大、沢辺雪祈、玉田俊二は、それぞれ「演奏すること」について異なる意味を見出している。その違いゆえに彼らの人生は巧妙に交わり、そして必然的に別れを迎える。
演奏者である彼らが「音楽に向き合う」ということは「自分自身と向き合う」ことを意味しており、この作品において演奏技術を高めることは、自分自身と真摯に向き合うことと同一に描かれる。自分自身と対話を重ねて演奏力を磨き、ライブを繰り返しながら音楽との関係性を深めていく若者たちの姿が、本作の大きな見どころだ。
ライブシーンはどれも素晴らしかったが、中でも僕が心を奪われたのは「汗」に関する表現だった。演奏者たちの身体から吹き出る大量の汗や、そこからこぼれた大粒の一滴が、アニメーションならではの表現で美しく描かれる。それは、音楽が空気を振動させて生じる運動の結果であることや演奏者の存在を再確認させるばかりでなく、自己探求の試みを象徴しているようにも思えた。落ちてきて弾け飛ぶ汗を見たとき、その背景にある身体的な研鑽や精神的な苦悩に思いを馳せてしまうのは、物語と音楽と映像が見事に組み合わさって感情を揺さぶるからだろう。
ライブシーンでもう一つ印象深かったのは「凄まじい演奏に目が釘付けになる」という描写だ。特に終盤の人々の目が幾重にも重なって演奏に引き込まれていく表現が印象的だったが、これらは音楽の演奏が聴覚だけでなく視覚も惹きつけるものであることを効果的に示している。実際に音楽ライブに行くと、音楽は「耳で聴くもの」というよりも「目で見るもの」「肌で感じるもの」であることを実感するが、この映画ではアニメーションの技術やアイデアによって同じ体験をもたらしていると言える。
また、脚本として素晴らしかったのは、この映画が「沢辺雪祈の物語」として完璧に仕上がっていたことだ。漫画版では交通事故によって最後のライブに参加できなかった雪祈だったが、映画版ではアンコールで大や玉田と共にSo Blueの舞台に立つというシナリオ改変が施されている(最高だ!)。怪我を負った雪祈は片手で演奏することを余儀なくされるが、その姿が大が初めて雪祈のプレイを見たときに片手で演奏をしていたシーンと重なり、呼応することになる。手を抜いて片手で演奏していたプレイと、片手でしか演奏できない状況で全力を尽くすプレイの対比があることによって、映画版はより一層雪祈の精神的成長が強調されるものになっていた。
本作はジャズライブの世界を美しく表現しているだけでなく、コミュニケーションや人間関係のあり方についても、ジャズ・プレイヤーたちの世界や文化を伝えるものになっている。素晴らしい取り組みである一方、その描き方にはついては大きな問題がある。それは、彼らの世界をただ単に肯定的に、あるいは美学さえ伴って、無批判に描いてしまっているという点だ。
ジャズバンドには「独立した個人たちが自分自身の活躍や成長を目指して組まれる」という文化的な特徴がある。作中のセリフにあるように「ジャズはロックバンドみたいに永遠に組むもんじゃない。互いに踏み台にして名を揚げていく」ということだ。そのため、良くも悪くもバラバラな状態が肯定され、自助を基調としたコミュニティ文化が成立している。
例えば、玉田俊二や沢辺雪祈はそれぞれ大きな課題に直面するが、大はその苦境に共感したり、手助けをしたりはしない。それどころか、雪祈が玉田を、玉田が雪祈を心配しても「自分自身の問題だから、おれたちに出来ることは何もない」と、その配慮を無用なものとして切り捨てる態度を取っている。
しかし、自分自身の問題であることと、周囲がその解決をサポートすることは決して矛盾しないはずだ(でなければ、カウンセリングという仕事は成立しなくなってしまう)。むしろ、人間が抱えるあらゆる問題は究極的には自分自身の問題でしかない。それでも人は、他者の悩みや状況を想像し、共に心を痛めることができる(=エンパシー)。そこに人間の素晴らしさがあり、そのような想像力に支えられることで、僕たちは日々の問題に対して継続的に立ち向かうことができているはずだ。
ところが、ジャズ・プレイヤーとしてあまりに完成されすぎている大のメンタリティは、そのような想像力を必要としない。自助を当然とする大の態度に、玉田は大きく動揺し、雪祈でさえ戸惑いを見せ、二人は困難に直面しても「助けてほしい」と言うことができない状態に追い込まれてしまう。大は「ジャズを信じている」と口にするが、これはジャズという音楽の良さが理解されることだけでなく、「ジャズバンド的な人間関係やコミュニケーションの方法が通じる」と信じていることを意味しているのではないか。つまり「ジャズを信じる」大の信念が、JASSの「助けてほしい」とさえ言えない人間関係を強固にしているのだ。
「信じるだけ」の大は、いわば「仲間のために戦わないルフィ」だ。彼の言動からは、人の弱さを認めず、自分が出来ることはみんなも出来ると思い込んでいるマッチョなワンマン社長のようなパワハラ気質が伺える。もしかするとそれは「お互いを追い込みながら、最高のソロを引き出し合う」というジャズの性質を、人間関係のアプローチに転用したものなのかもしれない。だとしたらそれは、今日ではあまり受け容れられないスポ根的なスタイルが、文化系の皮を被ることで見過ごされているだけなのではないだろうか。
この映画では、周囲の人々に助けを求めず、自分自身を追い込んで課題を克服しようとする姿を肯定的に描いている。しかし僕は、それらをもう少し批判的に捉える視点があるべきだったと思う。あれほどまでに深く自己と向き合うことができるのであれば、そこで培った想像力を活かして他者の心に深く寄り添う可能性も求められるはずだ。自助の圧力が高まる世の中だからこそ、自分自身に向き合い、自分自身の問題に取り組みながら、他者に対しても理解し、助けることができる人間関係を築く、そんなジャズプレイヤーたちの関わり方を提案して欲しかった。
この作品にはもう一つ、物語の性質に関わる問題がある。それは彼らの立てた目標、あるいは権威との関わり方の問題だ。
大、雪祈、玉田の三人は「JASSの目標」として、十代のうちに日本一のジャズクラブ・So Blueのステージに立つという目標を掲げる。もちろん大きな目標であり、大胆かつ困難を伴うチャレンジではあるのだが、僕はこの目標によって彼らの物語が「質的に」小さいものへと制限されてしまったと思う。
ジャズマンにとってのSo Blueは、野球の甲子園やラグビーの花園に相当する憧れの舞台だ。ただ、その性質は大きく異なっている。甲子園や花園は「勝ち上がる」ことで立てる舞台であるが、So Blueは「認められて」立つことができる場だ。つまり、そこに辿り着くためには権威を求めなければならない。このことから「権威に認められなければ成功しない」という価値観が生まれるのだが、それが(若者たちの挑戦を描くにしては)物語を物足りない方向へ導いてしまっている。
JASSはSo Blueの支配人・平にライブを観に来てもらうというチャンスを掴むが、雪祈のプレイが否定され、夢への道が閉ざされてしまう。このとき「縁がなかったということで」と断った平だったが、後に彼が自戒したことで雪祈へのオファーが生まれ、それがJASSのSo Blue出演へとつながっていく。雪祈のソロ克服という要因はあったものの、もしこの権力者が凡庸な人格の持ち主であったら、JASSはSo Blueに立つことはできなかっただろう。若者たちの挑戦に重きを置くには、権威的な存在が過剰である。
また、中学生の頃からSo Blueに立つという目標を持っていた雪祈には、権威主義的な性格が定着してしまっている。自分が評価していないギタリストと共演しても、相手が一定のプレゼンスを持っているとお世辞を言ったり、自分のソロについて大から指摘を受けたときは反発しつつ、平から叱責を受けると素直に聞き入れたりする。葛飾ジャズフェスティバルへの出演が決まった際には「フェスとなればジャズ業界の人間もたくさん集まる。駄目バンドの烙印を押されたら、もう一生どこにも呼ばれない」とまで言い切っており、妄想の中で権威が肥大化し、視野が狭くなっている様子が伺える。これらは、挑戦する若者というキャラクターの魅力を損ねる要素だ。
若者たちの挑戦を描くのであれば「権威に認められようとする挑戦」よりも「権威を打倒しようとする挑戦」のように、もっと質的に大きなものを期待したいが、ジャズ・プレイヤーの挑戦である限り、権威に対する依存は避けられないのかもしれない。
映画を通じてジャズという音楽の魅力は十分に伝わってきたが、僕は大がジャズを信じる姿に共感する気持ちにはなれなかった。映画『BLUE GIANT』は、ジャズの美学を称えるはずの作品でありながら、同時にジャズ的なもの(自助を前提とした人間関係やコミュニケーション、権威に認められることで成功するという価値観)が抱える課題も浮き彫りにしてしまっている。
それでもこの映画は、音楽の力とそれを支える視覚的な表現力で観る者を魅了してしまう。そこに問題があったとしても、圧倒的な恍惚によってどうでもよくなってしまう。それこそが、この映画の正体なのだろう。最高のクリエイターたちがもたらす感動が、自助を強要する主人公や助けを求められない人間関係、挑戦の質による物足りなささえもかき消すことで、「音楽の力」を証明することに成功したのだ。物語パートで引っかかることがあったにも関わらず、あまりに強すぎるライブシーンが全てを帳消しにした結果、鑑賞後の僕の心にはただ音楽だけが存在していた。大、雪祈、玉田たちにとって演奏することがそうであったように、まさに、最高の演奏によって数々の問題を乗り切った物語だったと思う。