はてなキーワード: 最愛とは
私は家庭に失敗し離婚した人なので、映画の家庭の荒廃が心に迫りました。
旦那と息子は枯れた木を植え、その成長を願う。妻は他所のいい男に、旦那の不満をぶちまけ、女としての姿を見せる。旦那はそれを見て絶望する。旦那は終わりゆく世界に聖母マリアへの信心こそが自分を救うと考え、その世界に入って行く。全てできることをした旦那は、いままで築き上げたものを焼き尽くし、気がおかしくなった人として病院に連れていかれる。そして息子は言葉を取り戻し世界が始まって行く。
うーん、私の人生と全く同じだと思いました。私は息子と一緒に育たない木を育てようとがんばった。でも妻は私をいつもなじり、要求し、浮気をした。私は徐々に狂気に囚われ宗教の道に入った。そこでは救いがあった。しかしその後に離婚した。息子からは離れてしまい月一回の面会交流をしているが、面会ということ自体が何か私と息子の間に大きな壁を作った。私はおかしくなってなどいないのに、私を取り巻く世界は最愛の息子と私を切り離そうとする。私の犠牲は息子と会えなくなることだった。そしてその犠牲を払った後に、息子はパパと一緒に住みたいよ、次はいつ会えるのと聞いた。私はいつからか生きる意味が息子のためであったのに、その息子と離された。私の犠牲で息子は何を得たのだろう。私の犠牲で息子が苦しむことになったのか、それとも崩壊した苦しみの家庭を見せつけずに済んだことがせめてもの救いなのか分からない。私がよかれと思って耕した家庭という庭は、映画と同じように自然からかけ離れ、反吐を吐きたくなるような現実を生んだ。実際に家庭問題が行き詰まって吐いたこともある。それら全ての拘りをマリアの元に連れていき、思っていた人生を焼き捨てた。
川崎のエレガンス学院が若く(20代前半まで)てパネマジ低め。
時間は過ぎ去る。
吉原に始発で行けば1万円で本番できるところも多い。
以上。
追記
日本の夏、マットの夏というぐらいに今の時期のマットは感動を覚えるはず。
マットは最も技術を要求されるので、プライベートで攻めるに当たっても学ぶ事が多いぞ。
必ず写真指名なりしとけよ、フリーはモンスター来ることがたまにある。
当たりもくるけど。
マックスグループは誕生日月は半額になるので、8500円50分で高い技術で責められて喘がされまくる。
少年よ、マットで性技を学べ。
更に追記
独りよがりの作法も知らないセックスを最愛の人に続けるのは辛く険しい道のりだ。
だからお互いの近況報告ということで会うことになった。
フラれた当初は全然立ち直れなくて、一週間ぐらい家から出られなかったし、仕事に行けてもLINE見るたびに思い出して、ランチ食べながらボロ泣きしてたときには店員さんに心配されたりもした。
「最愛の人だった。」から始まる、45分もの一人語り。彼女への想いを忘れないために記した。
でも、そんなにまで好きだった想いが、数ヶ月の時間を経ただけで、こんなに失われるとは思わなかった。
何度フラれても、何度興味ないと言われても、四年も好きだったのに。
今は録音を聞いても薄ら寒いだけだった。
もちろん彼女は、今でも十分に魅力的で、なにかのきっかけでまた好きになってしまうかもしれないけれど。
けれどもこうやって、青春は過ぎ去っていくんだと感じた日だった。
【追記】
自分の恋愛観はエヴァンゲリオンの同人誌「RE-TAKE」を15歳で読んだときのままだし、とりあえずもう一回読み直そうと思う。
「制服を着るような役を卒業したい」と周囲に漏らしている、みたいな記事を見かけた。
よくあるどうでも良い芸能ニュースだ。そもそも嘘なのか本当なのかも分からないし、第一興味もない。
ドラマや邦画も殆ど見ないので、彼に何の思い入れもない。最近人気の俳優で元仮面ライダー、くらいの認識だ。
記事内の年齢の()表記を見ると、どうやら彼は俺と同い年らしい。
調べてみると俺は92年、彼は93年早生まれなので正確には同学年だった。
その彼が制服を着る役、すなわち高校生役をやめたいと漏らしているらしい。
成熟した役柄にステップアップしたいだろうし、何より制服姿に無理が出てきている。
なんか女の子しか出てこなかったけど、なるほど。みんなかわいいけど、高校生役はさすがにしんどい。
彼女らが高校生役という映画・ドラマ・CMも、ここ数年は見聞きしないような気もする。
日本中の同学年の中でトップクラスの容姿を持つであろう彼女達ですら緩やかに年を取っていく。
容貌こそまるで違えど俺とて同じ人間。俺の若さも同じように日々着実に目減りしており、刻一刻と失われつつあるのだ。
至極当たり前のことだが、「加齢」という厳然たる事実を胸元にドンと突きつけられて狼狽えてしまった。
そしていつも抱えている焦燥感が更に膨らんでしまって、気分が滅入ってきた。
友達ゼロ、高校もろくに行かず、なんとか受かった大学もつまらなくてすぐ辞めた。5年前の話だ。
でも、紆余曲折を経てホワイト中小企業に潜り込むことができ、なんと正社員登用された。
給料は安いが良い上司にも恵まれたし、残業もほぼ無い。ボーナスも出る。運が良かったとしか言いようがない。
仕事に慣れたころ、「このままじゃ人生ダメだ」と思って義務的に何個か始めた趣味。
ほとんどが長続きしなかったが、1個だけガッチリと自分にハマる趣味もできた。
趣味経由で片手で足りるほどではあるが、親友と呼べるような友達(同性)もできた。
酒も飲めるようになったし、イベントなどにも出向くようになった。
16~20歳の間の自暴自棄だった自分がバラバラに散らかしてしまった人生のパズルのピースを
ここ数年を掛けて一生懸命拾い集めて、この1年でようやく一枚の絵になってきたような印象だ。
そう、恋愛である。この箇所に関しては清々しいほどに真っ白である。
ここで冒頭の話に繋がる。
俺はパズルのピースを必死で拾い集めている間に貴重な若さを随分と消費してしまっていたのだ。
まだまだ若いだろ、と自分に言い聞かせているうちに、20代の折り返し地点に到達してしまった。
冒頭のネットニュースは、その事実を俺にずいぶん遠回しな形で伝えてくれた。
俺はピースを拾う優先度を間違えてしまったのではないか。そんな悔恨がふつふつと涌いて出てくる。
友人や定職といったピースを血眼で探しているうちに出来上がったのが24歳の童貞である。
友人や定職、確かに重要だ。でも、恋愛すらできずに何が人生だ、と考え込んでしまうようになった。
知人にフリーターなのに彼女と婚約しようとしている大馬鹿者がいるが、彼の方が俺より幸せそうに見える。
まずは血眼になって恋愛すべきではなかったのか。とりあえず何事を差し置いてでも。
最愛のパートナーと泣いたり笑ったりしつつ、友人や定職を探しても遅くなかったのではないか。
これは隣の芝生を青く感じてるだけなのか。無い物ねだりなのか。
何度も反芻するたびに、どんどん気分が沈み、胸から喉にかけての辺りがずっしりと重くなってくる。
友人達に女性を紹介してもらえば?もちろん何人か紹介してもらったさ、でも誰とも話が噛み合わなかった。
コミュ障気質は治ったつもりだったんだけどな。数を熟せばいいのかな。どこに出向けばいいんだ?もうよく分からない。
飲みの席でも年を経るごとに「彼女が出来たことがない。」という主張が容認されなくなってきたのを肌を持って感じる。
最近ではヘラヘラしつつ、「ずっと居ないんですよw誰か良い娘いないっすか?」と笑って誤魔化す悪癖ができた。
同僚の中年独身男性の一挙手一投足や悲惨な孤独死のニュースにばかり目がいくようになった。俺もああなるのかね。
もう最近は恋愛を飛び越して結婚したくなってきてしまっている。子供も欲しいなぁ。どうしたものかね。
三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄(767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。
目次 [非表示]
1 概要
2 平安初期の仏教界
2.1 法相宗と徳一
3 論争の経緯
3.1 論争の発端について
4.2 南都教団への対抗
4.3 中傷者徳一に対する怒り
4.4 蝦夷征討との関係
5 その後
6 注・出典
7 関連項目
8 参考文献
「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗と一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便。真実を理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗・三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗(声聞乗・縁覚乗)・大乗(菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張した。このように三乗・一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。
ただし、徳一と最澄の論争は三乗と一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経の正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作を執筆しており、これは徳一からの批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗の空海(774年 - 835年)への論難である『真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である。
いずれにしろ論争は著作の応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。
奈良時代に興隆したのは、法相宗や華厳宗・律宗などの南都六宗である。本来、南都六宗は教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである。
この時代の日本における仏教は中国と同様、鎮護国家の思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度が施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇(737年 - 806年)が平城京から長岡京・平安京に遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設を意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家の宗教として最澄の天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教を牽制する意図もあった。
日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。
徳一は一説には藤原仲麻呂(恵美押勝とも。706年 - 764年)の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国で布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。
前述のごとく、徳一の著作はほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。
天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教の理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。
最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇に天台宗の学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇は最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年(805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年)帰国した。
帰国後、最澄は桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗は正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである。最澄はさらに同じく入唐した空海に師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇の設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗の菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗の鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教の既得権益との対立を深めていた。
論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判・法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。
ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国で活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身は鑑真の弟子で、律宗の僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄が東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁(794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要な役割を果たしていた存在であった[6]。
筑波山を開山し、会津を拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的に東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在を最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。
三一権実諍論に関する著作としては、
≪徳一側著作≫
『法華肝心』2巻
『法華権文』1巻
『中辺義鏡』20巻
『慧日羽足』3巻
『遮異見章』3巻
『義鏡要略』7巻?
『法相了義灯』11巻
『通破四教章』1巻
『照権実鏡』1巻
『依憑天台集』1巻
『守護国界章』9巻
『決権実論』1巻
『通六九証破比量文』1巻
『法華秀句』5巻
などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、
徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論。
徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論。
最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。
となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄の反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論、結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。
一連の論争の内容は難解で、一乗・三乗の権実のみならず、教判論における法華経や天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解の先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論そのものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。
天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗の空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。
下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。
最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海に師事することになる。
最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年)から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年(806年)に帰国していた。最澄は空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海の高雄山寺において灌頂を受け、正式に空海の弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。
しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さらに最愛の弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり、密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。
天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的な姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗は最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。
最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国に拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗を代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇の設立など、天台宗を確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗の理論家である徳一を説き伏せることは、天台宗の南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。
徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義そのものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。
宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。
最澄が東国に下った際に活動の拠点としていたのは亡き道忠が活動の拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野・上野両国から陸奥・出羽両国に対しては国司からの課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗や東国の鹿島神宮・香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院や神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗の公認を得たばかりの最澄も東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄の東国行きに随行した弟子の円仁(下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野・上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。
これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原は最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<
が先じゃね?
2年間で1200万円も溶かすことができる、これはどんな悪徳パチ屋も真っ青な額だよ
こういう新型ギャンブル依存症(スマホやPCの課金しすぎ)をどうにかするべきだよ厚生労働省は
3年前に姉が急死し、その後に母が膵臓癌の末期で亡くなりました。こんな不幸が続くなんて現実を受け入れられませんでした。
母は子供にお金を遺したいと昔から言っていて働いて貯めたお金で一括払込みの生命保険に加入していました。それが800万円
母が大切に遺してくれた私のお守りでした。旦那もそれは知っていました。
先週通帳を記帳しに行ったら残高ゼロ
他の通帳も記帳したら
貯めていた400万円もゼロ明細など確認したらスマホのゲームに毎月異常に課金をしていました。約、2年半年で1200万以上。人生で1番苦しい時期を近くで見ていた旦那が母の保険金まで課金していた事が許せません。
一生かけて返すと言っています。
返すあてもないのに
姉と母を亡くし辛い時期に、課金し平気な顔をして一緒に暮らしていたなんてゾッとします。発覚してから5日経ちましたが
許せません。 もう、どうやって信じたら良いかすら分かりません。
皆さんなら、許せるのでしょうか?
わたしは人よりちょっとだけ、記憶力がいいらしく、どうでもいいことをよく覚えていたりする。
今日久しぶりに会った人に、昔その人が言ったことを話したら、覚えていなかった。
わたしにとっては大好きな言葉だったけど、その人は「そんなこと言った?」と言って笑った。
昔その人に「君にぴったりの本だから」ともらった本がある。
その中の「8月に生まれる子供」が大好きで、何かあると読み返したくなる。
大学生の種山びわ子は、夏休みにはいったころから急速に老けてゆき、たった2週で老人と見間違うばかりとなる。
週に一度の恋人との約束も忘れ、姉の存在も忘れ、最後は自分のことも忘れてしまう。
祖母はまず、死んだ祖父を忘れ、嫁である母を忘れ、わたしのことを忘れ、最後には最愛の息子だった父親のことも忘れてしまった。
ヤングアニマル誌上で90年代後半から10年間にわたって連載し、人気を博した『エアマスター』。
未読の人は、絵からしてギャグと思いがちではあるが、実は違うのだ。
これを機会にきちんと読んでみて欲しい。
主人公の相川摩季は女子高校生であるが、複雑な家庭の事情の、一種の不良である。
元は体操選手として有望視されていたのだが、母の死をきっかけに体操を辞め、目標も最愛の人も失った喪失感から逃れられずにいる。
また女癖の悪く粗暴な父は次々と女を変え、摩季と父はどちらからかは不明だがお互いに距離を取り、摩季は一人暮らしをして生活費だけを父からもらっている。その疎遠さは作中で小学生の異母妹の存在も小学生高学年になるまで知らなかった程。
また、摩季は粗暴な父に似て、言葉よりも先に手が出る乱暴な一面もある。
そんな中、摩季は夜な夜な街を徘徊しては適当な男を見つけ、交わると言う退廃的な生活を送っていた。
人並みに楽しみ、イベントを謳歌しつつもやはり夜の徘徊はやめられず、土木作業員、オタク、同級生など様々な相手と関係を持つ。
また、摩季が相手にする男達は女性の摩季に対しても暴力を振るうような粗暴な人間がほとんどで、そのトラブルに友人達が巻き込まれることも多く、不良集団と揉め、友人が拉致される等の事件にも発展したりする。
中盤からは、摩季をカメラを持って追いかける偽名の男〈深道〉と、摩季に執着する本名不詳のストーカー〈坂本〉が話しの中心になっていく。
深道は、摩季に次々と男(時には女も)をあてがい、その様子を撮影して映像を販売するような人間で、彼に報酬を提案されるが、摩季は拒否する。
しかし、深道の哲学的な一面に対してか、縁を切りきれずに、終盤でも呼び出して二人で会ったりしている。
一方、摩季をストーキングする坂本は、延々と摩季を追い続ける。終盤で摩季はついに坂本に組み伏せられ強姦されたあげくに妊娠してしまう。
この二人と摩季の関係が後半の見所で、物語自体は、摩季と将来生まれるであろう娘との精神世界での対話で終わる。
結局、摩季は家庭を破綻させた父と距離を取りながら、同じような男達に惹かれ、摩季自身も性格に難のある男達に愛される。
しかし、この漫画を通読すればみんな、なにがしかを考えられずにはいられないだろう。
読んだことの無い人には是非『エアマスター』を読んで欲しい。
「京都に行きませんか?」
突然の上司の発言に驚きを隠せなかった。狭い個室で何を言ってるんだこいつは。貴様と不倫旅行する気なんざ更々ないぞ。なにせ私には心に決めた最愛の恋人がいる。薄い画面を隔ててはいるが。
それまで、ついに私の不真面目さが露呈しクビを切られるか、はたまた肩書きのない私の職務に部長や課長なんかの箔をつけていただくのか、赤坂に新しくオープンした焼肉屋に連れてこられ、何を切り出されるか妄想しながらフルコースに舌鼓を打っているところだった。
京都。学生時代からずっと住みたいと思っていた平安の都。とはいえ修学旅行以来十年は訪れていないし、何より今は東京が好きすぎる。
一瞬にして様々な妄想がふっとんだところで、焼肉屋のイケメン若オーナーが次の肉を持って個室にやってきた。
「こちらが当店自慢の松田焼きです。」
薄切りの高級サーロインをご丁寧に焼いてくれ、おすすめのとろろと一緒に流し込む。とろけるように柔らかい肉と牛脂の甘み、意外にマッチする山芋…なんて、今は分かる訳がない。味がせんぞ。
その後も若オーナーのおもしろデート話を苦笑いで聞きながら肉を焼いてもらい、食べた。トンデモ発言から一転、私は味覚を失った。
正直京都なら住んでみたさもあったので悪くはなかったのだが、ここで二つ返事をしてしまっては、一生この会社の犬として働くことになると思い、考えさせてくださいと、その日は保留にした。
それから悩んだ結果、翌日には風邪を引き、熱を出した。最後のコミケ前だというのに、こんな時に体調を崩してたまるか!と気合いで直そうと思ったが無理だった。…ん?最後とはどういうことだ?
お盆ということで病院は殆ど閉まっていたが、幸い近所に新設された小さなクリニックが開いていて風邪薬を処方してもらった。保険医のような安心感のある女医さんで、一人暮らし?ならゆっくりしていきなよ、と軽いノリで点滴まで打ってくれた。コミケ前日。
両親にも相談した。母はあっけらかんとしていた。どこに住むのも経験。お店を任されるのは偉いこと。私なんて国境を越えて日本に来たんだから、あなたが東京にいようが京都にいようが大して変わらない。そうだ、母はこういう人だった。わん泣きした。
一方、父は東京行きも反対だったし、また引っ越すとなると反対されるだろう。と思ったのだが…え?…好きにしろ?いいの?娘、この身ひとつで京都行っちゃうんだけど???
私、京都行きます!とその日のうちに上司にメールをすると、悩みでいっぱいだった頭が少し晴れやかな気分になった。熱は38.5度。よし、コミケに行ってきます。
始発で会場に着き涼しげな早朝から一転、灼熱の太陽が雲間から顔を出し地獄のような暑さで二日目は幕を開けた。初日には風の神がご光臨なさっていたというのに。
待機時間は、京都行きを唯一反対していた親友にとにかく平謝りだった。本当にごめん。
開場後ややあって、お目当ての品を購入し最後のコミケを堪能したのであった。
見切り発進の決断だったから東京でやり残したことなんていっぱいある。とりあえず、君の名は。を観たが、一層東京を離れるのが惜しくなった。バルト9から一望する新宿の町並みが綺麗で、猥雑で、愛しかった。
◯◯行こうね、今度◯◯があるんだって、◯◯っていうお店の〜。結局殆ど行くことができなかった。
でも、逢っておきたかった人には逢えた。どこにでもあるファミレスで、居酒屋でそれでよかった。また逢うまでの挨拶をした。
三年前ここに引っ越してきた際、引越業者が先に着いてしまったからできなかったが、何もない部屋で寝そべってみた。三年も住んだから埃っぽいが愛着はある。
ギチギチに荷物を詰め込まれていた部屋もこうしてみると広い。天井も高いし、東から差し込む日光も程よく明るい。よし、そろそろ出発するか。
寂しさと緊張はスーツケースに押し込んで手持ちで持っていく。
蒸し暑かったファーストアクションのあの時から、風がひんやりとし肌を撫ぜる季節になった。季節外れの半袖Tシャツの上からジャケットに袖を通して、最後に鍵を掛けた。
つい2分ほど前、行方不明になっていた同僚が遺体で見つかったという連絡を受けた。
同僚と言っても、その人は夫婦経営の勤め先の男社長の丁稚、自分は女社長のアシスタント(まぁ丁稚と変わらない)だったので、
金曜日の日中、島のリゾートの物資を仕入れてそのままトンボ返りという時、
13人兄弟の大家族で貧しいお家の彼に、嫌々ながらも了承したのが最後の会話だった。
気まずそうな笑顔が印象的だったが、今はもう思い出せない。
金曜日の夕方までにリゾートに戻って、土曜日の朝はリゾートのチェックアウト客の、本土へのボート送迎をするはずだった。
夏休みでちょうどその島に滞在中だった上司からメールがあった。
「彼が戻って来ません。ちょっと家まで行っていつ出たか確認してもらえますか?」
この時自分は、
「ああ、またここの現地民あるあるのスッポカシだ。」
と、彼が勘違いかわざとか、その日中に戻らないといけない約束を破ったのだと思った。
その頃彼は、小さいモーターボートで大海原を漂流していたのだ。
まだボート運転を勉強中で完璧ではない彼が、高波で操縦を誤ったのかもしれない。
日本と同様に、隣国とのいざこざがあるこの国で、隣国の武装船に襲撃されたのかもしれない。
貧しい人が多いこの国で、船で麻薬を運ぶ輩か泥棒に狙われたのかもしれない。
命の価値はみな平等だと耳にするが、この国では命の価値が日本よりも軽すぎるように感じる。
少しでも違う結果になったのだろうか。
いや、なんの影響もないに違いない。
それでもタラレバの考えは尽きない。
涙を流しながら知らせてくれた上司は、彼に思い入れがあったのだろう。
「お葬式には行きたい」
と、既に先のことまで考えている。
悲しいとか悔しいとか無念とか、怒りも悲しみも出てきていない。
お葬式に参列したとしても、多分このままなのではないかと思う。
日本のへんてこな食生活を話した時にものすごい顔をして反応したっけ。
でも何を思い出しても何も感じない。
昨年のことになるが、日本で勤めていた会社の元同僚から、仲良くしていた非常勤のおじいさんの死を知らされた。
かたや若手に位置していた自分、かたや定年まで務め上げ、家族のために定年後も務めていたおじいさんの先輩。
そして人事異動で別の部署となったものの、自分が退職する前年度までは、たまたま同じ部署の配属に再びなって、
よく雑談をして、冗談から真面目な話題まで、通路を遮ってしていたものだ。
おじいさんの死を聞いても、何の感情も湧かなかった。
今でも何も湧かない。
それでもメールで母に知らされた時も、何の感情も湧かなかった。
亡くなった祖父と対面した時、初めて涙が流れて、告別式の時は参列者に礼をする時に大量の鼻水がそれこそ滝となって流れたことに慌てた。
お母さんに対する、未練と言っても良いくらいの、良い意味でのしつこさを感じた。
今のところ母の次に愛する彼氏が亡くなった時、自分はどうなるのだろう。
今夜は眠れそうにない。
今朝早く、偶然知っちゃったんだけど、結婚する相手が見つかったんだね。
直接言えないのが残念だけど、おめでとう。
残念なのが、君がそれを伝えたのが鍵をかけた裏垢で、僕はそこから締め出されていること。
締め出されている理由はわかってる。
裏垢は、君のことを昔から知っている人たちの集まりで、僕はその仲間たちが知らないことを知っているから。
その当時君は大変厳しい状況に置かれていて、そこから逃れるために、僕は出来る限りのことをして、君のことを手助けしてあげたと思う。
どうやって逃れたかを、君の親しい人に知れては困ることを、お互いわかってた。
でも君は、厳しい時期を支えてくれた大切な人だから、僕との関わりを続けてほしいって、その当時は言ってたよね。
そして君は離れた環境へ移って、そのあとしばらくして、別の大切にしたい人が、たぶん見つかったんだよね。
だから、鍵付きの裏垢を作ったりして、それまでの僕とのつながりを少しずつなくしていき、最後に表垢を閉じて僕のことを追い出した。
僕のことを追い出す間際、鍵付きの裏垢の仲間たちには、僕のことを厳しい状況へ追い込んだ輩と同じような奴であると、君は言ってたようだね。
君を再びそうさせないために、いろいろ手助けをしたというに、いくら何でもそれはあんまりじゃないかな。
いい加減、言いたい放題いうようなら、君が何をしてきたかを教えたくなる誘惑すら起こるよね。
君の仲間が、これまで知らない君の一面を知ったら?
君が結婚する相手に出会う場所に来るために、何をしてきたかを知ったら?
君の親に本当のことを伝えたら?
君がこのまま幸せに暮らせるためには、僕が「永遠に嘘をつく」のが一番いいんだ、ということはよくわかってるからね。
これでトラックバックになってるんですかね。
元増田です。
出勤時に見たらすごことになってて、びっくりしました。
これがセックスレスと要因となるのかわかりませんが、肉体的なもので解決できてるなら解決しているような体型と身なりです。幼稚園の他のお父さんみたいにお腹は出ていませんし。
すごく気を使っています。
子供の寝ている部屋でしようってことも言ってません。正直、子供は乳飲み子ではないので。
家事はします。二人でして早く終わるなら、それが正解だと考えています。片方だけが負担すると結果的に過ごす時間が減るという考え方で、嫁さんもそういう人が初めてってびっくりしていました。
僕はなにより嫁や家族と過ごす時間をたくさんとりたいと思っているので、分担はします。
あと、料理は好きです。するのも片付けるのも。
ただ、僕が料理すると不機嫌になります。嫁は料理がそんなにうまくありませんので。
僕は一人暮らしの期間もあり、料理や片付け全般できますし、しています。
ご飯に関しては、子供が可哀想なので、きちんと作るか僕が作るって話はしましたが「子供は好き嫌いがあるから」って言われました。
それでもダメでした。
もともと気団の駆け込み寺スレを見ていたので、基本的には「何をしたらダメか」というのは理解しているつもりです。
ですので、DVその他はしていません。
と、真面目に書いてみましたが、やるべきことは試したつもりなんですよね。
話し合いについては、「僕は君のことは子どもたちの母親であり、僕の最愛の女性だと思っている。本当に好きだし、愛しているから、スキンシップを拒絶されると本当に悲しい」という形でつたえました。
嫁は泣きながら「そんなつもりで否定したつもりじゃなかった。軽い気持ちだった」ってお互いちょっと泣いて和解したんですが、結局何も変わりませんしたね……。
趣味のススメを書いてくれた方、ありがとうございます。
未だに太閤立志伝Vやってます! 太閤チームの復活を10年以上待ってます!
結婚生活は我慢ということを書かれていましたが、概ね合意します。
ただ、人間には我慢の限界があると思います。極論になりますが、DVも我慢しないとダメですか? って話になりますよ。セックスレスも十分な離婚事由になります。
少なくとも僕は家庭に安らぎを求めていました。それが夢見がちと言われるのなら、僕の結婚観が間違っているのでしょう。
セックスレス以外は妥協もあり、お互い改善できるところは話し合いで解決してきました。
だからこそ、強く悩みますし、ここまで考えて眠れなくなってしまうのです。
「uza_momo このレス系増田、レスによる結婚生活破綻の危機もさることながら、相手がその危機感を知らない温度差が読んでて辛い。原因はレスだけど、双方に結婚に望む形の相違を顕在化して話し合えたらいいのにね。」
温度差はすごくあると思います。
嫁は僕がここまで深刻に考えているとは思っていないです。
最後の話し合いで「離婚事由になる」とは言いましたが、結局レスのまま、「やめて!」って言われても仲良し家族はできていますし。
最初にも書きましたが、「レスである」という点を除けば、本当にうまく行っています。
嫁とはゲームセンターCX見ながら、あーでもないこーでもないと言いながら笑い合っています。
お互い感謝の気持ちは忘れないというのは、同棲していた時からずっと今も続いています。
家庭崩壊設定している人が意外といましたが、崩壊していないから凄く苦しくて、悩んでいます。
それと、口説き直したら的なブコメも見ましたが、意外とナイーブだったのか拒絶に傷つきすぎて心が折れてしまいました。
同じ立場の人がたくさんいらっしゃると思うのでわかると思いますが、拒絶ってかなり心にきます。
女性は子供がいるからできないというのがあるのだとしたら、男性は強い拒絶に非常に弱い部分があります。精神的な面でEDになったりします。
好かれる努力をしろって意見もわかりますが、強い拒絶を受けると好かれる努力もできなくなりますよ。
普通の恋愛をしてきた僕は強い拒絶を受けることなんて初めてのことでした。
朝方に色々と勢いで書いてしまった内容に、いろんなコメントをいただけて本当に嬉しかったです。
離婚前提で考えるのではなく、とりあえず現状について話し合ってみます。
ただ、僕は思いっきり愛して、思いっきり愛されたかったんです。
新婚のときに「セックスレスなんてなるわけない」と話し合っていたことが嘘みたいな現実になってしまいました。
強い拒絶と5年の歳月は、僕の嫁に対する性欲を失わせました。
それでも僕は嫁を性的ではない部分で愛していますし、子供も愛しています。
そういう前提があるなから辛くもなりますし、悩んだりもします。
僕は性欲に負けているのかもしれませんね。
でも、「好きになった相手と愛し合いたい」って思うことって普通だと思っています。
今はお互い子どもたちの親という形になっています。夫婦ではないと思います。
様々な反応があって本当に嬉しかったです。
ありがとうございました。
そうした光景を見ると、途端に夢がなくなる。
だってそうじゃないですか。
テレビゲームの世界なら、〝どう見ても勝ち目のない戦いに挑むロマン〟は人を魅了するかもしれません。
だがしかしですね、現実世界では弱き者はただひたすらに弱いのです。
ウチはこれ以上、シバきにシバかれ、心に巨大なカサブタがいくつも出来ている弱者を見たくありません。
ヒョロ短い人のブサイクな乾燥ヅラに、屈強で鬼長い人が上から下に拳を――まさに滝の流れの如く振り下ろす。
NO! それ犯罪ですよ٩(๑´3`๑)۶
「殴りてぇ。あやつを殴りてぇわぁ~」
誰でも彼でも、一度や二度はそのような怒りのエネルギーを燃やしたことが、あると思います‼
人類は総じて直情型のボケナスなのは致し方ありませんし、誠に残念で、清く回転していた地球が黒く腐るような、大残念な事実でしょう。
さようではございますが、人類は「我慢」によって文明を発達させたのです。
それをお忘れではないでしょうか?
つまりですね、暴れる高身長の人類は、文明を破壊する地球のガンに他なりません。
それにより、ウチの神経は大分高まっておりますし、脈拍は測りきれないぐらいに速度を増していて、今にも悪魔様に絶対服従してしまいそうなのです。
高校生時代、ウチの男友達であるコンボウ君が、自分よりも7センチ大きな女の子に愛の告白をすると、「小さいのが……ちょっとネ」と即座にフラれていました。
春の夕暮れ時、にんにくサプリメント常用者の朝立ちを思わせるようなピンとした姿勢で。
ちょっとだけ残る陽射しに背中を押されて帰宅する様は、まるでおいたをしたちびっ子のようでした。
ここまで書いておいて申し訳ないが、今さっきお母さんが部屋にジャマしに来たせいで、しっかり考えていた劇的なオチが全て消え去ってしまった。
お母さんは、「ゴミはないかい? 捨てて置いて上げるよ」と好意を持って接してくれたのだが、文章書きに集中していた俺は、「うるせぇボケ。二度と顔見せるな。消え失せろタコナス」と罵った。
どうして最愛のお母さんに、そこまで思慮分別のない悪質な言葉を放てるのか。
俺は何時間も自問自答した。その間ずっと、胃の中心に鉛を投げ入れられたかのような重い、重い、重い、罪悪感に包まれていた。
条件反射とはいえ、生みの親に酷い言葉をぶつけるなんて人間失格だ。
切ない気持ちのゴミ捨て場があるなら、そこに虚し過ぎる俺自身をぶち込みたい。
いっその事、死んだ方が良いのかもしれませんね。
大体同じようなルートを通ってモテ進化していくことに気づいた。
結構一般化できそうなので、まとめてみる。
レベル1)超一途期
恋愛の6分類でいうエロスとアガペがごちゃ混ぜになってる時期。
相手が好きすぎて傷つけるくらいなら、
相手の家の前をうろついてしまったり、
消しゴム貸してもらえただけで、布団の上でクロールをしてしまったりする。
動作的にはかなり奇異な行動が目立つ。
こじらせるとストーカーに発展することも。
また、振られることも怖いので告白できず2~3年単位で片思いをすることもある。
一途な思いが打ち砕かれると、次に惚れっぽい時期が訪れる。
誰かを猛烈に好きになって、すぐ告白して振られる。
振られて落ち込むが、数週間後にはスグにべつの人を好きになっている。
この時期がどのくらい続くかはその人の性欲と承認欲次第。
1人1人を毎回ガチで好きになるので、同時進行はありえないと貴方は言う。
女性に対してやさぐれて「愛とかいらないからセックスしたい」とか言い出す時期。
1人の女性を狙うのではなく複数同時進行を始め気持ちの分散を図る。
そして、それまで上手く行かなかったデートやらが上手くできるようになってくる。
これまでの業を振り払うがごとく、セックスできる子のレベルを上げていく事に躍起になる。
そして、昔好きだった子にそっくりな女の子を狙ってセックスするようになっている。
気づけば、年に数人~十数人はセックスできる力を身につける事ができた。
しかし、楽しくない。
相手の気持ちを引き付けるために自分の気持ちを抑えるため、相手を好きになれなくなってくる。
付き合うと相手のアラが目についてつまらなくなる。
デートしたり、女の子と遊んだりしているのがだんだん空しくなってくる。
セックスもするまでが楽しいだけで、している時には既に飽きている。
もはや見た目が可愛いとか胸が大きいとか、
そういうレベルでは女性に心ときめくことができなくなったあなた。
あっという間に3年くらいの時間が経つ。
そろそろ結婚と考える彼女とあなたの間にはクリアできない問題が出る。
自分は初めて本当に人を好きになっていたのだと知る。
そして、ようやく普通の男性としてニュートラルに女性を見られるようになる。
ようやく女性をきちんと好きになることができるようになる。
fin.