私は家庭に失敗し離婚した人なので、映画の家庭の荒廃が心に迫りました。
旦那と息子は枯れた木を植え、その成長を願う。妻は他所のいい男に、旦那の不満をぶちまけ、女としての姿を見せる。旦那はそれを見て絶望する。旦那は終わりゆく世界に聖母マリアへの信心こそが自分を救うと考え、その世界に入って行く。全てできることをした旦那は、いままで築き上げたものを焼き尽くし、気がおかしくなった人として病院に連れていかれる。そして息子は言葉を取り戻し世界が始まって行く。
うーん、私の人生と全く同じだと思いました。私は息子と一緒に育たない木を育てようとがんばった。でも妻は私をいつもなじり、要求し、浮気をした。私は徐々に狂気に囚われ宗教の道に入った。そこでは救いがあった。しかしその後に離婚した。息子からは離れてしまい月一回の面会交流をしているが、面会ということ自体が何か私と息子の間に大きな壁を作った。私はおかしくなってなどいないのに、私を取り巻く世界は最愛の息子と私を切り離そうとする。私の犠牲は息子と会えなくなることだった。そしてその犠牲を払った後に、息子はパパと一緒に住みたいよ、次はいつ会えるのと聞いた。私はいつからか生きる意味が息子のためであったのに、その息子と離された。私の犠牲で息子は何を得たのだろう。私の犠牲で息子が苦しむことになったのか、それとも崩壊した苦しみの家庭を見せつけずに済んだことがせめてもの救いなのか分からない。私がよかれと思って耕した家庭という庭は、映画と同じように自然からかけ離れ、反吐を吐きたくなるような現実を生んだ。実際に家庭問題が行き詰まって吐いたこともある。それら全ての拘りをマリアの元に連れていき、思っていた人生を焼き捨てた。