はてなキーワード: 政治的な正しさとは
ポリコレはポリティカル・コレクトネスの略で日本語だと「政治的な正しさ」と訳される。ここで注目するべきなのは「政治的な」という部分だ。そうだ。政治的なんだ。どこまでいっても政治的。倫理的に正しいわけでも絶対的に正しいわけでも世間的に正しいわけでもない。あくまで政治的。どういう為政者が権力の側にいるか。それでポリコレも時代によって変わる。例えば日本の戦時中の敵性言語排除なんかもポリコレだ。ストライク!ボール!と言うと攻撃されるのは完全にポリコレである。そもそもポリコレというのはナチスのヒトラーや旧ソ連のスターリンが好んで悪用していた概念である。気に入らない言説を全てポリコレに反するとして幾千もの書物を焼いたし人間を焼いた。君たちが普段軽々しくバカにしているポリコレは実は非常に怖いものだ。ポリコレは全力で排除しなければならない。
ポリコレ叩きが苦手だ。昨今はスーパーマン新作の主人公がバイセクシャルだったり、ガンダム新作の主人公が色黒の女性だったりとポリコレ叩きが盛んになっているが「いや、スーパーマンがバイセクシャルで何が悪いの?」「ガンダムの主人公が女性で何が悪いの?」と思ってしまう。
もともと異性愛者だった主人公が突然バイセクシャルになったとかだったらおかしいと思うが、新キャラがバイセクシャルなら何の問題もなくないか? 既存のシリーズにポリコレ要素を盛り込むなというのもよく分からない。ポリコレ関係なく時代に合わせて設定が変わっていくというのは当たり前のことだ。それがたまたま主人公がバイセクシャルだっただけ。
ポリコレは「容姿、性別、人種、セクシャリティ等での差別の否定」「マジョリティだけでなくマイノリティも活躍させる」という政治的に正しい理屈なのに対し、アンチポリコレが政治的に正しい理由を唱えているのを見たことがない。「容姿が良い人の活躍の場を奪うな!」も一見それっぽい理屈だがいくつかの作品で容姿の悪い人がキャスティングされたところで容姿の良い人はそれ以上に活躍の場があるのは変わらないしただの被害妄想だ。結局本音は「俺のシコれないブスやホモはいらない!」でしかない。そりゃ勝てるわけないだろうと思う。政治的な正しさと男のズリネタを天秤に掛けたら前者の方が重要に決まってる。
40代、民間企業の研究者だが、今回の選挙は「政治に殺されないための選択」だったと思ってる。
ただの民間人なので、自分の専門領域以外で確信をもって要求に応えられる事柄は少ない。
外交、安保、ジェンダー、さまざまに議論されている話題に関しては個人としての希望や意見はありつつも、何が正しいと言えるものでもないとも思う。
従って、野党側の政策を全面的に批判できないとも考えていた、だが、コロナ対策に関してだけは違う。
比較的、自分の専門に近い話だけに、コロナ対策=感染症対策は「治療薬の安定供給」「ワクチン接種」「医療体制の確保」以外の正解は存在しないと断言できた。
検査や、ロックダウン(緊急事態宣言)、マスク義務化、などの措置は、感染拡大傾向への予防的対応になるだけで、感染症そのものへの対策にはならない。
ロックダウンは同時に経済への影響も大きく、経済の事も考えつつ判断しなくてはならない事が世界中で問題になり、それぞれの国で違いになっているけれど、
「治療薬の安定供給」「ワクチン接種」「医療体制の確保」を重視しない国はない。
コロナに関する判断ミスは自分と家族の命に直結するだけに、「政治家に家族を殺されない為に」、ワクチンに反対した立憲民主党ではなく、推進した自民党を選ぶしかなかった。
今でも立憲民主党への信頼は、俺の中ではゼロだ。別の同じ様に重要な局面で、彼らが国民を殺す判断をしない理由が見当たらない。
感染症対策ではなく、安保や外交、経済対策、大規模災害対応で彼らが下す判断も、同じ判断力から下されているなら、それは致命的な間違いを犯しているだろうと思える。
だから、この先何度選挙をやろうとも「政治に家族を殺されない為に」自民党を選ぶしかなくなる。
俺ほど強く拒絶反応を示してないながらも、近い感覚で立憲民主党のコロナ対応を批判し、信頼できないと感じた人は決して少なくはなかった事が選挙で示されたと思う。
もしも立憲民主党が、信頼を取り戻したいと思うのなら、以下の事をやるべきだろう。
長妻委員(立憲)「日本人で、人種が違いますから、欧米人と日本人は全然違いますから、効き方が。そうすると、第三相試験はすっ飛ばす、日本人に対する、そういうこともあり得るということなんですか、承認の前に。」
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/009720320201111002.htm
天然痘やインフルエンザの例を見るまでもなく、ウイルスに対してワクチンと治療薬は、どちらが欠けても抑えることが出来ない重要な武器だ。
製薬会社が日本国内の感染状況から十分な治験が出来ない状態にあり、同時に海外では既に承認されているという状態であれば
海外で認可された治験データを審査して、可能ならば認可すべきなのは明白すぎるほど明白だった。
もしもワクチン接種が半年遅れたらどうなったか?特例承認に反対したことは、コロナ禍で政権を担う能力を持たない事を証明してしまっている。
自分たちの判断の拙さを認めて、政権交代後は上昌広などではなく、これまで最前線で闘ってきた科学者を引き続き信任することを示すべきだっただろう。
「国が直接乗り出すならば、むしろ検査の拡大に乗り出すべき」ワクチンの大規模接種センター設置に枝野代表 2021年4月28日
https://cdp-japan.jp/news/20210428_1284/
8月には病床はひっ迫していた。毎日5000人程度の感染者が出るだけでも、東京はパンクしている状態だ。
感染拡大だけでなく、補助金を出しても、補助金分の病床を医療側で用意しないとか、感染症指定2種用の病床を作ることの難しさなどの問題もある。
だが、努力が実らず十分な病床を確保できてなかったことは自民党の失策だ。その点は批判されていい事と思う。一方で、振り返って、もしもPCR検査を行いまくっていたらどうなったか?を考えれば悲惨だ。
当時の入院基準であれば、偽陽性が出たり、軽症者が多数出たりで、病床を圧迫してあっという間にパンクして、コントロールを失い死者を多数出すところだった。
これは専門家の指摘するところでもあったはず。この判断の間違いを認めてほしいし、何でこんな間違った判断が出来たのか説明して欲しい。
菅義偉首相が新型コロナウイルスワクチンの大規模接種センターを東京都に新設するよう指示したことについて「唐突感がある」と批判した。
https://www.sankei.com/article/20210427-V7V3OUHIORO7LKBP77OP6AM6I4/
https://news.yahoo.co.jp/byline/shinoharashuji/20210527-00240088
既に知られているように、1日100万回接種も年内に集団免疫成立するだけの接種率の到達も達成できた。
ワクチンが全てではないが、現在感染が抑え込めている理由の一つにワクチンがある事は明かだし、そうなるという可能性は集団免疫理論から高かった。
1日でも早く国民の7割くらいには打ち終える日を迎えるべきであったことは、接種開始した日から分かっている事であるのに、これに反対していたことはあり得ない。
もしも未だにワクチン接種率が30%というような状態であれば、もっと感染者や死者は増加していただろう。その中の1人が自分の家族でないという保証は誰にもできない。
政治家の不正や汚職が問題であるとか、弱者保護が大事であるとか、貧困問題を解決すべきとか、誰かにとって正しい結果は、それ自体は大事なことだと思う。
だが、その為に誤ったコロナ対策によって自分と家族を殺されるならば、選ぶことは出来ない。今回は、選択次第では政治家に家族を殺される未来を恐れる選挙だったし、この結果にはホッとしてもいる。
この先も、「政治に家族を殺される」未来を回避する姿勢は変わらない。だからこそ、立憲民主党や共産党が政権交代をと望むであれば大きく変わるべきだ。
多数の国民を犠牲にしかねなかった判断の過ちは、別の問題が起こった時に繰り返される事だけは分かってる。
もしも変わらないのであれば、間違えようがない判断を間違えた立憲民主党を、俺は信頼できないままだし信頼する理由もないだろう。
まずは党首を交代して、過去の過ちを認める所から始めるべきではないか。国民の命を守る事を担うに足る判断力を備えていることを示されない限り選択肢には上がらない。
『Q.なぜルール(だと自分が信じているもの)を守らない人に対して苛立つのか?』
この設問に対して多くの人間はあーだこーだと理由をつけて自分の政治的な正しさと義憤の正当性を主張する。
しかし違うのだ。
この感情を誰もが持っている。
その上でそれに対してのカウンターウェイトである「完璧でなくても意外となんとかなる」を個々人毎に調整しているだけだ。
潔癖症という病はこの「完璧さに対する執着」が肥大化した病だと言われているが、実際には真逆で「完璧でないことに対する許容」の感情が萎縮したことによる病なのである。
完璧でないことに対する苛立ちの感情は誰もが非常に強烈に持っており、生まれつき欠如していても言語などを学習する過程で強力に植え付けられる。
1が2ではなく1+1は2になるということに対して曖昧さの介入を許さないという感覚を持っているからこそ我々は言語や理論を数多く習得し操ることが出来ているのだ。
こういう話をすると「それは『完璧でなければいけない』という脅迫観念であって、ムカツクという感情ではないのでは?」と考えるものもいるだろう。
強迫観念が植え付けられているということは、それに逆らうものに出会った時に精神が不快感を自動的に出力するということであり、不快感を感じれば人はそれを苛立ちの感情として抱え込むことになるのだから。
確かに「完璧でないものを見ると不快感を覚える」と言った方がより正確なのかも知れないが、結果的に出力されたものを「完璧でないものを見ると苛立ちを覚える」であり、それはすなわち「ムカツク」なのである。
これはもう学習されてしまった感情様式であり、人間的な思考や感情を持つための回路に何度も深く刻まれてしまっている。
あとから抜き出そうとすれば全てが崩れ去ってしまい、そのものの言語体系すらも曖昧で本人にさえ理解できないものとなるであろう。
「完璧であることに対する強迫観念」とはすなわち人間を人間たらしめるための器であり、同時にその器を形作る物質そのものが人間にとって毒なのだ。
自分たちの精神や思考を構築する骨組みの中に毒物が混じっていることに対して我々は自覚的になるべきだ。
「完璧でないものはムカツク」という勘定から背を向けてアンガーマネジメントを学ぼうとしても無意味だ。
自分にとって完璧とは言えないものにぶつかった時自動的に苛立ってしまうということを受け入れるしか無いのだ。
つまり、毎度毎度苛立ちに対して精神を抑え込むという面倒臭さを受け入れるほかないのだ。
ここから目を背けたアンガーマネジメントは皆無意味である。
「寿司の国」発言は時と場合によっては、差別感情が元かもしれませんよ、日本人にはピンとこないかもだけどそういうときもありますよ
ぐらいで済ませておけばまあよくわからんけどそういうこともあるんかなぐらいには理解するけど
「寿司(や寿司職人)なんぞを良いものと扱う日本人の感覚は海外では理解不能!それゆえ差別問題を日本人は理解できない!その態度が反ポリコレ!」
とか言われたらそりゃえええ・・って気分にぐらいなるわ、ってお気持ち。
そんでもってそういうのはドイツ語の冠詞にまつわる知識が云々だって同じ話なわけで。
日本人にドイツならではの文脈とか、ドイツ語原文での意味が理解できない人が多いのはある程度は当たり前の話ではないかと。
それが直訳だけではなくて特定実況者への好悪感情を含めた意訳のようなものになれば尚更なわけで、
その事実自体をポリコレ違反のように扱うのはそれこそ「配慮が足りていない」にならないんかと疑問に思うわ、と。
理解ある彼くん現象とは、精神疾患や引きこもり等の女性が『女性の生きづらさ』『困窮した状況から立ち直った方法』をテーマに描いたコラムや漫画の中で『理解ある彼氏』が最終ページ辺りに唐突に登場し、男性パートナーの経済的・精神的な支えによっていきなりすべての問題がなんとかなってしまうというある意味デウス・エクス・マキナ的な超展開パターンがあまりにも多いため、皮肉や嫉妬を込めて『理解ある彼くん現象』とか『そ理彼(そんな私にも理解ある彼くんがいますの略)』などと言われるようになったネットスラングである。
逆に障害者や引きこもり男性の人生にこのような『理解ある彼女』が登場し経済的・精神的に支えられ人生におけるセーフティネットとして機能するケースはそ理彼に比べると極めて稀で(健常男性だったパートナーが結婚後に鬱病を発症したケースや数十年前の国民皆婚時代の話であれば例外的にないこともないが)、自由恋愛化した現代日本においての生まれながらの性的価値の差による男女の非対称性の象徴としてよく扱われている。
また、男性の自殺率などを持ち出し『男性と女性どちらが本当の弱者であるか』というテーマの議論でもよく議題に上がる内容だ。
ちなみにこれは『無能の世界』の男女の対比の話であって、例えばそこそこ良い大学を卒業していたりコミュニケーション能力が高かったりと男だろうと女だろうと現代社会で就業や恋愛や結婚に特に困ることのないような五体満足の男女とは全く別次元の社会問題であることは予め頭に入れておいてほしい。
解説するが、理解ある彼くんの正体とは『一応定職にはついているが健常者の女性に相手にされなかった冴えない非モテ男性』のことである。
恋愛競争に敗北したチー牛顔の彼らは『無職や障害者のメンヘラ女性を養う』という戦略を取ることでギリギリの境界で恋愛競争に振り落とされないように必死にしがみついているのだ。
男としての性的魅力は低いが『優しい』『メンヘラ相手でも面倒を見れる』『嫁を養えるレベルにはまともな経済力』という属性がたまたま彼女らのセーフティネットとしてマッチングし、双方の妥協と打算の歪な結果生まれたのがあの物語なのだ。
しかし、この構図は同時に、後世の男性に対する重大な加害行為ではないだろうか?
この漫画で描かれる多くの『性を売ることでしか生きていけない無能な女性』というのは、言い換えるともし彼女がたまたま男であれば生きていけない人間だったということだ。
この『性を売る』というのは売春行為だけでなく当然恋愛での優位性を利用して婚姻等の社会制度の中で『理解ある彼くんに面倒を見てもらう』ことも含まれる。
男性パートナーに依存して生きていくということは、大人として成熟していけば結婚、出産などのイベントからは多くの場合逃れられないだろう。
そして、精神疾患や発達障害などは高確率で子供に遺伝してしまう。
私が『理解ある彼くんに支えてもらいか弱い女性が幸せになったお話』を見たときに一番違和感を感じるのは、彼女らの間に生まれるかもしれない男の子、つまりは不幸の再生産による後世の男性に対する加害行為があまりにも見て見ぬ振りされすぎではないだろうか?という点だ。
生活や承認のために様々なものに目をつぶって『ただ女だから生きていけた無能な女性』が『男だというだけでは生きていけない無能な男性』をこの世界に生み出すことはあまりにも残酷ではないか?
生き方が多様化した現代社会、中には「私は理解ある彼くんと無能な女性の間に生まれた性的弱者の無能な男性であるが、それでも趣味や宗教に打ち込むことによって幸せな人生を送ることができた。」というような男性も、ミクロレベルにはいるのかもしれない、だがそんなレアケースが生まれることを期待して恋愛や生殖のような生物としての根源とも言える選択肢を生まれながらにして当人の意思とは関係なく奪われた弱者を生み出すことは果たして人道的であろうか?
Twitterなどで男女論で議論しているフェミニストやこのような論説に異を唱えているアカウントを追っていると、(勿論漫画化などされていない)暗数も含め『無能な女性が理解ある彼くんと結ばれることで不幸な人生を歩むであろう男の子を生産する』パターンはかなり多いように見える。
現代の発達障害者の男女の生涯未婚率などを比較すると、統計としてもより顕著になるだろう。
もしかすると、この歪な関係の男女の間に生まれてくるのが運良く女児である可能性もある、その場合、その娘は母親と同じように将来『理解ある彼くん』を生やすことで幸福や承認を掴むことは可能なのかもしれない。
しかし、結局は彼女らの子孫から男の子が生まれてしまうまで問題を先送りするだけのことだ。
弱い男性が恋愛や人間関係の中で淘汰され苦しまざるを得ない現代の構造は誰が悪いという話ではない。
それが自然の摂理、といえばそれまでだし、ほぼ全国民が見合い結婚をしていた数十年前の方が生物としてはおかしかったのかもしれない。
これは黒人の奴隷制や昭和時代の女性蔑視な法体制のように国家による責任でも、ましてや『彼らを選ばなかった女性』の責任でもないだろう。
国民に自由を与えた結果、たまたま彼らは選ばれなかっただけだ。
LGBTや黒人のように歴史的な道徳的優位性もなければ、彼らは被害者ですらないだろう。
しかし、そんな歴史の都合は本人達の苦しみとは何一つ関係ない。
100年前であれば、現代では考えられないような碌でなしの男ですら皆何も考えず結婚できていたのだろう。 労働者階級が農民中心の時代では、現代では無能扱いされる彼らも無能ではなかったのかもしれない。
もっと昔の狩猟時代であれば、生きることに必死でこんなことは考えすらしなかったのだろう。
たまたま時代と自己の存在がミスマッチしてしまった不幸な存在が現代の無能な男性なのである。
社会は自動化が進み労働環境は複雑化し続け、教育費は高騰。経済格差は今後も広がり続ける。
無能な社員を雇い続け海外からは『日本式経営』と揶揄される現代の終身雇用形態も合理性のもといつ終焉を迎えるのか誰にもわからない。
きっと無能男性に対して厳しい社会は今後も長い間続いていくのだろう。
社会が形を変え、自殺率や幸福度が更に悲惨な状態になり、無能な世界の男女格差がどれだけ広がっても、きっと彼らは被差別階級にすらなれないのだろう。
情報化によって無能な男がどんな惨めな末路を辿るのか、現代はこんなにもはっきりと知ることができてしまう。
今の世界は、無能な男が笑って胸を張って生きていけるほどまだ優しいものではない。
政治的な正しさなんて概念も、そこまで万能ではない。 『多様性』なんて甘い言葉にきっと苦しむ彼らの存在は含まれていない。
現代における政治的な正しさにおいては「どんな人間であれ恋愛や生殖の権利はあるし、か弱い彼女らがパートナーに救済され子供を持つことは何一つ間違っていない」という主張の方が圧倒的に正しいのだろう。
しかし、どんなに取り繕っても現代の自由経済・自由恋愛社会というものは性淘汰と優生思想の理のもとに機能していて、結局は彼女らの救済の物語とは性淘汰の苦しみを後世の男性にすべて押し付けているだけではないだろうか?
実の子供というのは親にとっては可愛いものだ。 それは多分、種としては出来損ないの息子であったとしてもだ。
理解ある彼くんと無能な女子との間に生まれてきた子供の存在意義を無理やりこじつけるとすれば、それはきっと弱い女性と冴えない男の人生に多少の彩りを与える愛玩動物なのであろう。
彼らの存在は、さしずめカップルが寂しさを紛らわすためにペットショップから貰ってきた去勢済みのポメラニアンと何も変わらないのだ。
悲しいことに、愛玩動物として生を全うするには人類は幾分賢すぎる。
もし今後このような物語を見たとき、少しでも思い出してほしい。
か弱い女性が『理解彼くん』に救われた明るい物語の陰には、その皺寄せにより生涯苦しみ抜かねばならない後世の男性がいるかもしれないことを。
お母さん食堂、というネーミングがまあ荒れに荒れている。
「お母さんという言葉に、無意識のうちに料理を作らなければならない人としてのジェンダロールを強制する働きがある。表現を改めるべきだ。」というのが要旨である。
私は正直なところ、この指摘は充分受け止めるべき意見ではあると思う。人のあり方の多様性が叫ばれて久しい昨今、たしかにそういう側面がこのネーミングには感じ取れないことも、ない。
けど、なんか、違うのだ。その議論はもっと高尚なところですべきで、言葉狩りのようになってはならないと思うのだ。
本質は役割の押しつけの解消で、気に食わないものの排除では無いはずだ。
ただ、否定しようとしても、先方の論理はかなりしっかりとしていて、こちらの反論は感情的なものであるから、かえって相手の意見の補強になる。
(実際に「いやカントリーマアムとかあるやん、別にいいやん」みたいな反論に「それらも変えるべき、問題提起のきっかけであるだけ。黙殺する風潮を作るな」というような反駁があり、なるほど確かになぁとなったりした。)
一応私なりにも反論を試みたりはした。
そもそもこの「お母さん」のニュアンスは母性とかその辺に由来するものだと思う。授乳に始まる母親からの食事の供与は人間のみならず広く動物に見られるし、その過程で獲得した母に対する安心感を無意識のうちに想起させるものなのでは?
お母さん、としてでは無く「その人」としてらしくあろう、そのためには役割を課してはダメだよね、ならば、「お母さんとしての私」を拠り所とする人は否定していいの?
たしかに前時代的な考えかもしれないけれど、前時代的な考えにすがることは間違っているの?
少し話が逸れるけど、こういうポリコレ的な話ってかなり気をつけて発信しなければならないはずなんだけど、否定派肯定派ともにそれが欠けている気がする。
社会的に認められていたかつての「正しさ」がどんどん力を失って「正しさ」が曖昧になってきた時代。
多分今の時代のお題目としては「多様性を認め合い、個々人の中にある正しさを尊び、大切にしましょう」ってところだと思う。これには私も賛成だ。
けれど、最近話題になるものはどれも「これが今の正しさ!そぐわない考えは悪!その考えを捨てきれない民衆と社会も悪!」みたいなのが、多くない?と思う。
差別や偏見によって不当な扱いを減らすべきなのは当然なんだけど、個々人の価値判断とかその辺まで「正しさ」を強要できるほどのものではなくない?
というか、それをしてしまうと出発点である「多様性」とか「価値観の押しつけからの解放」とかに矛盾しちゃわない?
っていうのがずっとある。これじゃあポリコレ的に悪とされる前時代的な価値観、社会体系そのものじゃん。
具体的に言えば、ジェンダーとしての女性、ジェンダーとしての男性は、尊重しなくていいの?みたいな表現とか、よく見られる気がする。他にもある気がするけど、ここではあげないことにしておく。
ともかく、「お母さん食堂」というネーミングに対するアクション、私は反対である。「お母さん」という言葉の中にある温かみは「お母さん」にしかない。
ポリティカル・コレクトネス。政治的正しさ。皮肉にもこの言葉は 1920年代の社会主義社会で好まれて使われたものだ。もしくはそれらの社会を批判する際に使われたものだ。
ヒトラーのアーリア至上主義はポリコレだと批判された。スターリンは反対者をポリコレじゃないと大粛清した。
ポリコレは絶対的な正しさではない。政治的な正しさだ。文字通りに捉えればその社会において主流な政治的なスタンスにおいて正しいか正しくないかということを表すにすぎない。
事実、現在の西側諸国で猛威を奮っているポリコレは皮肉にも1920年代に回帰してしまっている。よりインクルーシブな社会を作るという高尚な思想がいつの間にか排他的な暴力者達の武器になっている。
blacklist/whitelistやmaster/slaveが黒人差別用語だなどと嘘を言い、それに従わないものは排除される。スターリンの粛清と何が違うのかな。ポリコレクン、君はどこまで。
「女も男もそれ以外もオタクも非オタクも読んでいってくれないか」(anond:20200714091214)に答えますね。
男の子は小学校中学年にもなればエロに興味を持ち出すころかと思うが、男の子をお持ちの男性のみなさんは何歳くらいからどんな作風なら触れてもいいかなみたいな漠然とした指標があるのだろうか。とらぶるならいいよ、とか、どんな性的嗜好だろうがフィクションはフィクションって割り切れるから自由にさせとけとか。
自分の子供時代を考えてみると、小学校低学年のころに、うちに遊びにきた友達がどこぞで拾ったと思しき女の人の肌色が非常にカラフルなお雑誌を持ってきたことがあった。それは祖母に見つかり、後日学校で女教師に呼び出され「そういうのはいけないんだよ」という丁寧な説明を受けた。私は自分が何を見ているのかも何でお説教(いやすげえ優しい口調だったが)を受けているのかもわからずどちらの場でもポカンとしているほかなく、当然私の小さなちんちんは勃ってはいなかった。
それが中学生になるとエロ本の回し読みなんぞをしてシコシコするようになるわけだが、男どうしの会話とはいえあまりに露悪的な嗜好の持ち主だとなかなかそれを表には出しづらく、いろいろな作品が収録された短編集や雑誌のうち1本に陵辱ものが混ざっていれば欣喜雀躍、結局のところインターネットで陵辱ものが好きな同士にたくさん出会えて、同好の士がネット上にはたくさん存在していることに気づけて安堵したりするわけである。
だから元増田が挙げた、モブレやら体調不良やらでキャッキャウフフする若き腐女子たちには、素直に羨ましさを感じる。自分の好きなオカズを同年代の友達と共有する経験なんて私にはなかった。同好の士はいつもネット上の見知らぬ誰かで、彼らと会話を交わしたことなんてなかった。自力で探しだしたエロ画像はあっても友達と本当に好きなオカズの回し読みなんてできなかった。私には彼女たちがまぶしく見える。
「レイプされて虚ろな目になってる女の子いいよねー」みたいな会話をリアルの思春期男子のあいだでやったらドン引きされるだろうし、モブレでキャッキャウフフしている女子たちもおそらくリアル友人とのあいだでそんな会話はできないだろう。あくまでもネットで同じ趣味の相手を探して語り合うくらいは、男も女も別にいいじゃないか。私はそんなふうに語らったことはないので、語らえる子たちの気持ちはよくわからないのだが……
で、倫理についての話。
正直、あまり心配しないでいいと思う。というのは、陵辱もの好きな男として断言するが、私は自分がそういうものが好きな傾向があると自覚した幼き日から今日までそれを現実にやっていい行為と誤認したことはただの一度もない。当たり前だ。嫌がる女の子を拘束して猿轡噛ませて犯す、この過程がどうやれば合法で倫理に則っていると勘違いすることができるのか。現実にやったら犯罪であり、被害者を苦しめる外道な行為であることなど自覚している(いや苦しんでいるから興奮するんだけど)。だから漫画に頼るのだ。
ここで勘違いするようなやつは、はっきり言って元々倫理観がぶっ壊れているのでゾーニングがどうこうの話ではない。エロが綺麗にゾーニングされていたとしても別のやらかしを犯すに決まってる。
だからモブレだの殴られるだの飛び降りだの、露骨に倫理に反する表現はむしろ安牌に近いだろう。だって、推しが殴られているBLを読んで、そうか、男を殴ることは倫理に反してないんだ! って勘違いしちゃう小中学生なんている? いないでしょ。仮に勘違いしちゃう子がいるなら、それはもうBLの責任どうこうじゃなくて本人にマトモな倫理観が備わっていないことの表れでしかない。そういうやつはBLがなくても別のことをやる、絶対にだ。
危ないのは、むしろ一見して倫理に反しているとは思えない表現の方だろう。
男向けのエロ表現が「現実に影響する」として近年問題になっているのは、陵辱やロリペドではなく、むしろ和姦ものの表現だ。たとえば、ガシガシ手マンすれば女は喜ぶとか、感じたときには潮が吹き出す、とかそういう演出だ。AVを見て「そうか! こうすれば女は喜ぶのか!」と勘違いして彼女に同じことをやって性器に怪我をさせる男というのは一定数いて、こちらは性交の実務に携わる人たちの間では問題視されている。はっきり言って一部の頭でっかちなフェミ連中が陵辱ものやらロリペドやらで騒いでいるのは頭がどうかしているとしか思えない。そんなのが現実に影響するなんてのはごくごくレアケースであり(ないとは言わない)、本当に問題なのは、こういう善意による勘違いだ。
これをBLに当てはめて考えるとどうか。危ないのは、むしろ増田のような思考ではないか。増田は、「政治的な正しさ、ポリコレに照らし合わせて考えること」が重要であると主張している。しかし、本当にポリティカリーにコレクトなBLを目指すなら、女が創作していたり、作中のゲイたちが差別を受けずのびのびと暮らしているだけでポリコレ的な問題をはらむのだ(anond:20200712223432)。露悪的な嗜好の腐女子たちは自分たちが倫理に反していることなど百も承知だろうが、増田のように倫理を重んじる腐女子は、果たしてそのあたりに自覚的だっただろうか? 結局のところそれは「多数派の考える倫理」に過ぎず、勘違いした善意を性的少数者に押し付けているだけになってはいないだろうか?
たかが十数年、されど十数年である。十数年というのは、他人を強姦してはいけないとか、他人を殴ってはいけないとか、そういう規範を育むには十分な時間だと思うし、十数年も生きていれば支部のゾーニングをかいくぐる技術くらい身につけるものである。
積極的に子供たちにセンシティヴな創作を見せびらかしていくべきとは思わないが、小さな人たちが自分でセンシティヴ表現に積極的に触れようと思ったら、表現者の側でそれを阻むことなんてできない。だからまあ「うるせえ自由に創作させろ」でいいんじゃないでしょうか。男向けのゾーニングはそういう発想で動いているように思う。子供の前にわざわざ出したりしないけど、子供が自力でたどり着いた分にはニヤリと笑って不問に付す、的な。あれだ、一種の通過儀礼だな。
あれ、「オタクだけど」と名乗った割にオタクとは関係ない話になっちゃった。だからオタクと関係ある話を最後にしておくと、ワイ好きな作品のエロ同人ってほとんど買わんのよね。好きな作家さんがエロを出したら買うけど、基本的には全年齢向けのプラトニックな恋愛ものとかギャグものとか日常ものを買って読んでる。だっていちゃラブじゃいくらガッツリ性交を描写されても私は勃たないし、私が勃つようなひどいプレイを好きなキャラ相手にするのなんてひどすぎてかわいそうで見ていられないし、ということでエロはオリジナルに限りますね。思い入れのない架空人物ならいくらでもかわいそうな目に遭わせられて最高。だから好きな作品のエロ同人買ってNTR掴まされてキレてるオタクの気持ちはよくわかんない。エロ同人を買わなければNTRを掴まされることもないのでは……? なぜ好きなキャラのエロを読みたがる……? というか和姦ものを買う以上一定数NTR掴まされることは覚悟しておくべきじゃない? ガチの陵辱スキーは途中で女が喜びだしだり犯してきた相手のことを好きになるとかいうクソ萎え展開を日常的に掴まされているんだぞ! 安易なレイプファンタジーを蔓延させやがって! NTRくらい甘受しろや! あ、これただの八つ当たりだわ、すまん。
ゆにちゃん様は好きだけどひまりちゃんはそこまで好きじゃないんだ、すまんな(単に興味がないだけで嫌いというわけではない)
"ガチの陵辱スキーは途中で女が喜びだしだり犯してきた相手のことを好きになるとかいうクソ萎え展開" わかりみしかない。少し理屈をこねると、加害行為を被害者から肯定される展開は二重に正しくないだろって思う。
いやそういう理屈は割かしどうでもよくて、心底嫌がっているのを無理やり……というのが良いのになんで途中から愛が生まれてるの? は? って感じで萎えてしまうんや。萎えの機序としてはメガネっ娘がメガネを取るアレに近い、というかコスプレAVの衣装を脱がすな問題と同じ。
この増田があげてる「陵辱で相手が受け入れちゃうケース」はよろしくないと思う(ただ現在のゾーニング対象になっているとも思う)。
なんか勘違いしてるかもだけど「陵辱されて気持ちよくなる/陵辱してきた相手を好きになる」展開に特化したゾーニングはないよ?
ゾーニングといっても色々あるわけだけど、たとえばpixivでは、性行為や乳首・性器の直接的な描写の有無でR-18かそうでないかが決まり、その中でグロやスカの描写があればR-18Gになる、という感じなので、いちゃラブ和姦でもモロに性器やら何やらが描かれてればR-18で、陵辱してきた相手を好きになる展開でも描写が朝チュンなら一般向け。
「陵辱されて気持ちよくなる/陵辱してきた相手を好きになる」展開、個人的には別ジャンルということにしてほしいんだけど全部ひとまとめに「陵辱」扱いされてるのが現状だねえ。いずれおねショタとおねガキみたいにジャンル分化する日が来るんだろうか(でもこれは物語のオチを明かすに等しい区分だから無理だろうなぁ)。
で、勘違いされると困るので言っとくと、私がそういう展開を嫌いなのは性暴力を正当化しているからとかそういうどうでもいい理由ではなくて、単純に萎えるからです。嫌がってるのを無理やり陵辱する展開が性的な意味で好きなのに途中で受け入れられるとドッチラケなわけ。
でも、それは私のちんこに反しているというだけで、そういう展開が正しくないってことじゃないからね。そういう展開が好きな人には私の好きな展開は刺さらないんだろうし、好みの問題であるものを正邪の話にしないでほしい。
増田は「表現による心的ストレス」という影響を軽視してるな。ホラーを見てトイレに行けなくなるのは皆通る道だ。フェミやNTR嫌いの根幹はそこだし、オタクも住み分けには賛同する。自由の代償は他人が支払ってるよ。
アホらし。ホラー見ておトイレ行けなくなるのもNTR掴まされてショック受けるのも自己責任でしょ(もちろん私が嫌いな展開の陵辱ものを掴まされるのも)。私もうっかり寝る前に『ゴーストハント』読み返しておトイレ行くの怖くなるときがあるけど、それはそんなのをそのタイミングで読んだ私の責任。支部や即売会でエロ同人を漁るならNTRが一定数混じっていることを覚悟すべきで、展開に怒るなら好きなだけ怒ればいいけど(作品をdisるのは読者の表現の自由に属するので)そのストレスの責任は自分で負うべき。
自由に表現して自由に手に取って自己責任で怒ったり傷ついたり笑ったり泣いたりすりゃいいんですよ。
みんながまともなら問題ないけど、こういう極端な設定の作品は「これは現実ではない」注意喚起や一般には簡単に見えないよう棲み分けが必須 澁澤龍彦とか
ばっかじゃないの。ガッツリ性行為のシーンがある陵辱ものは当たり前だけどとっくにR-18で~す。R-18といっても広い世界なので、わざわざ「陵辱」とか「レイプ」とか「(自重)」とか「(自主検閲)」とか「(禁則事項)」とかそういう検索ワードを入れないと出てきませ~ん。あのさ俺が理想の陵辱ものを探すためにどれだけ検索ワードを工夫してきたと思ってんの?(血涙)
全然関係ないけど今テキトーに「R-18」で画像検索したらむっちゃBL出てきて草。R-18で検索したら男向け作品が出てくるという先入観はある意味ジェンダーバイアスだよなぁ。
だるま、欠損好きの友人と比べたらセーフかと思ったけどそれはそれで感覚狂ってるな。ところでなるほどなあと読んでたらいきなりゴーストハントが出てきてビックリした
だるま、作中で切断される場合だと「その傷が塞がるまで何日かかるんだ?」みたいなことが気になってしまうんだよな(いや、包帯巻いてる場合が多いだろうけど)
『ゴーストハント』は家人が寝静まって暗くなった家でうっかり読むとマジで怖いから困る。コソリが来るよ……『残穢』はおトイレ以前に家そのものが怖くなるからダメ(好き)。うっかり寝る前に『残穢』を読んでしまい家を焼き払いたい衝動に駆られたときは『営繕かるかや怪奇譚』で中和するのがいいと思います(そもそも寝る前に『残穢』を読むな)
中高生くらいの男の子に「正しい性癖とは何か」を教えられるのは同年代のホモソーシャルしか無い。ホモソを悪としか捉えられないフェミには都合の悪い話だろうがな。
「堂々と公言できる性癖」や「合法的に実行できる性癖」はあっても「正しい性癖」はなく、「公言するとドン引きされる性癖」や「実行に移すと犯罪になる性癖」はあっても「間違った性癖」なんてこの世にないんだよなあ。
連日、オタク女子の増田ばかりがホッテントリに上がってうんざりしているところ申し訳ない。
オタク女子に関する話ではあるが、非オタクや男性の意見も聞いてみたいので、良ければ読んでいってくれないだろうか。
発散ばかりで収束の気配もない、スタートもゴールも見つけられない私の話だ。
元々、同人誌の即売会に数えるほどしか参加したことのない、爪先つっこんだ程度のオタク女だ。仕事と子育てが一段落してちょっとばかしオタク女の世界に戻ってみた。唖然とした。
モブレとは、モブ(顔なし名前なし)キャラクターによるレイプのことである。
体調不良ネタとは、キャラクターが過呼吸や嘔吐したりするのを楽しむジャンルである。
オメガバースは…まあ話せば長くなるが性差別を美しく哀しく手軽に内在化した舞台装置であると認識している。
がっつり挿入を伴うR18表現は鍵をかけても、これらは問題なしとして小中高生たちがキャッキャ騒いで、当たり前のようにネタとして消費してて、それがどうにも気持ち悪いというお気持ち表明をまずしておく。
男性向け作品は昔からレイプもの愛好者はそれなりにいたよね。モブかどうかはさておき、あえて汚いおっさんが美少女を犯すシチュエーションも定番ちゃ定番だ。それを批判したいとか微塵も思っちゃいない。公開する場所と人を選べばそんなの自由だ。女性向け作品の中にそういった傾向を匂わす作品が増えてきたことは「女性が性欲を持つのははしたない」とする風潮が薄れて男女の非対称性が薄れたという意味では歓迎してよい一面もあるかもしれない。それと、上記のように倫理的に正しくないとされる創作もゾーニングさえされれば楽しむ権利はあるべきだと私は思っている。男性向けは最初からネット上はともかく書籍や映像作品はゾーニングが整っている部分もあるよね。女性向けも早くそこに追いつきたいね。
男の子は小学校中学年にもなればエロに興味を持ち出すころかと思うが、男の子をお持ちの男性のみなさんは何歳くらいからどんな作風なら触れてもいいかなみたいな漠然とした指標があるのだろうか。とらぶるならいいよ、とか、どんな性的嗜好だろうがフィクションはフィクションって割り切れるから自由にさせとけとか。
誰も傷つけない表現など存在しない。一家団欒で食卓を囲む描写さえ誰かを傷つける可能性がある。機能不全家族で育った人とか。一方で「豪雨による被害が続いている中で、七夕の星空を見上げてイチャイチャするネタを投稿するのためらうよね」と言う人たちもいる。ポリティカル・コレクトネスやフェミニズムという単語に概念にうんざりしている人たちもたくさんいる。ああ、まとまりがなくて申し訳ない。
どれか一つだけでどうにかできる問題じゃない。全部必要。バランスよくやろうよ。
「うるせえ自由に創作させろ」ってさあ…ねえ、まだ十数年しか人間社会を知らない子たちがそれを見てるんだよ。
センシティブな話をまるで少女漫画の定番展開みたいに消費してるんだよ。やめてくれよ。
人は変えられないから自分が変われって、この場合どのように適用すればいい?
はいはいお気持ちって言われたら、うん確かにお気持ちだね。ごめんなさいお気持ちです。
やっぱり女うぜえって思った人、ごめんね。うざくない女もたくさんいるよ。
どこを起点に、どこを目指して行けばいい?
これ読むといいよ!って文献とかあったらおしえてください。