『Q.なぜルール(だと自分が信じているもの)を守らない人に対して苛立つのか?』
この設問に対して多くの人間はあーだこーだと理由をつけて自分の政治的な正しさと義憤の正当性を主張する。
しかし違うのだ。
この感情を誰もが持っている。
その上でそれに対してのカウンターウェイトである「完璧でなくても意外となんとかなる」を個々人毎に調整しているだけだ。
潔癖症という病はこの「完璧さに対する執着」が肥大化した病だと言われているが、実際には真逆で「完璧でないことに対する許容」の感情が萎縮したことによる病なのである。
完璧でないことに対する苛立ちの感情は誰もが非常に強烈に持っており、生まれつき欠如していても言語などを学習する過程で強力に植え付けられる。
1が2ではなく1+1は2になるということに対して曖昧さの介入を許さないという感覚を持っているからこそ我々は言語や理論を数多く習得し操ることが出来ているのだ。
こういう話をすると「それは『完璧でなければいけない』という脅迫観念であって、ムカツクという感情ではないのでは?」と考えるものもいるだろう。
強迫観念が植え付けられているということは、それに逆らうものに出会った時に精神が不快感を自動的に出力するということであり、不快感を感じれば人はそれを苛立ちの感情として抱え込むことになるのだから。
確かに「完璧でないものを見ると不快感を覚える」と言った方がより正確なのかも知れないが、結果的に出力されたものを「完璧でないものを見ると苛立ちを覚える」であり、それはすなわち「ムカツク」なのである。
これはもう学習されてしまった感情様式であり、人間的な思考や感情を持つための回路に何度も深く刻まれてしまっている。
あとから抜き出そうとすれば全てが崩れ去ってしまい、そのものの言語体系すらも曖昧で本人にさえ理解できないものとなるであろう。
「完璧であることに対する強迫観念」とはすなわち人間を人間たらしめるための器であり、同時にその器を形作る物質そのものが人間にとって毒なのだ。
自分たちの精神や思考を構築する骨組みの中に毒物が混じっていることに対して我々は自覚的になるべきだ。
「完璧でないものはムカツク」という勘定から背を向けてアンガーマネジメントを学ぼうとしても無意味だ。
自分にとって完璧とは言えないものにぶつかった時自動的に苛立ってしまうということを受け入れるしか無いのだ。
つまり、毎度毎度苛立ちに対して精神を抑え込むという面倒臭さを受け入れるほかないのだ。
ここから目を背けたアンガーマネジメントは皆無意味である。
そら完璧どころか平均にも達しないポンコツには全員いらつくやろ ポンコツ派遣と仲良く傷をなめあうくらいしかできんわな