はてなキーワード: 政治的な正しさとは
展示を男女同数のアーティスト数にします!みたいな事言い出して、一部の人達は喜んでいたけど、それがアートなのか?自分達の政治的な正しさに淫するのがアートなのか?と思ってはいたが…
たとえば日本で人気のある印象派展とかやる時に「作者の性別をカウントして展示の数を男女同数にします」とか言いだしたら鼻で笑われると思うんだけれど。現代アートだとそれが素晴らしいことなんだろうか?
どうせやるんならリベラル系に偏るんじゃなくて、リベラルが眉をしかめるようなアートもそれこそ「同数(笑)」にして文句が付けにくくするようにすれば良かったのに…と思うけど、やっぱりそれも『政治的な正しさに淫している』から出来ないんだろう。
みんな忘れてしまったのだろうか。あの祝祭的な季節を。
ぼくは覚えている。それは90年代半ばに始まった。
海外でアニメが人気だと新聞に報じられ、日本のアニメが国際的な競争力を持ったコンテンツだと、盛んに論じられた。
エヴァのブームや村上隆のアートもそれを後押しした。あるいは岡田斗司夫の各種書籍も貢献していたかもしれない。
アニメは幼児的だとバカにされているが、実はそのローカル性こそが世界では面白がられるんだ。あるいはアニメこそが作家主義を貫いて深いドラマを作れるんだ、とかも言われていたっけ。
まぁ、要するに文学や邦画なんてまったくダメで、アニメこそが日本の誇るべき文化なんだ、という論調が一気に広がった。社会学者や文芸評論家もこぞってアニメを語るようになった。
国もそれに同調して、「クールジャパン戦略」を唱えるようになった。アニメを輸出して日本の文化的プレゼンスをあげようとした。これ自体は音楽を戦略的に輸出したイギリスのクールブリタニカ戦略の猿真似だったけど、実際にやったことは誉めてやっていいだろう。石原慎太郎が「ほしのこえ」を絶賛していたんだぜ。
そうやってゼロ年代半ばにはクールジャパン論はピークに達していた……しかし、その後の惨状はどうだろう。
まずクールジャパン戦略は無惨にも失敗に終わった。これ自体は今でも施策が続いているが、アニメの姿はなりを潜めて、ゆるキャラや各地の名産品を押し出すようになっている。各国にあるクールジャパンショップも同様だ。
アニメこそがすごい文化なんだ、という論調も次第に静かになっていった。アニメを持ち上げる人が、どんどんいなくなっていった。
それはアニメ自体の流行の変化にも原因があるだろう。攻殻機動隊やエヴァンゲリオン、カウボーイビバップといった「大人向けアニメ」はあまり作られなくなり、キャラクターのかわいさを押し出す「萌えアニメ」が主流となっていた。
それはまだいい。致命的なのは「萌え」が語るべき言葉を持っていなかったことだ。
ゼロ年代にはまだ「萌え」こそが思想的に新しくて最先端の消費行為なのだと言い切ることもできた。「萌え」の言葉の意味や、それのなにが新しいのかを語ることができた。
しかし、個別の作品を語るとなると、「このキャラがかわいい」で終わってしまう。これが決定的にまずかった。
なぜなら、それはクチコミで広がらないことを意味している。エヴァはこういう作品で、ここが面白いんだよ、と説明できる。しかし、萌えにはそれができない。言語化できないってことは、海外にも紹介できないってわけだ。
さらには社会的な風潮の変化も、アニメには打撃を与えているあろう。90年代はまだ表現の自由がどこまでも広がっていくという幻想があった。あれも表現してOK、これも表現してOK、村上隆のオタクアートはその幻想を土台にして成り立っていた。
しかし、その後にやってきた現実は、大きなバックラッシュだった。ポリティカル・コレクトネスが席巻し、あれもダメ、これもダメ、という世界がやってきている(かつて政治的な正しさは「生真面目なやつらがくだらない批判をしているぜ」とお笑い草にされていた。そのときの空気は、『政治的に正しいおとぎ話』シリーズで感じ取ることができる)。
これはアニメにとってとてつもない逆風だ。なぜなら、アニメにおいては奇形的であることがクリエイティビティの証明だったからだ。たとえば、ゼロ年代は「エロゲー」をベースにした諸作品が注目を集めたが、これは今ではとてもじゃないが取り上げられなくなってしまっている。
アニメは今ではかつて(90年代半ば以前)のように「省みられない」存在に戻ってしまった。
日本のコンテンツで話題になるのは、コンマリやテラスハウスだ。まだ宮崎駿や新海誠はがんばっているけど、かつてのように「アニメというジャンル自体に優位性があるんだ」という勢いはない。みんな忘れているけど、「すべての映画はアニメになる」なんて言われていたんだぜ。
今ではアニメが話題になるといったら、アニメーターの待遇がどうだ、といった就労問題ぐらいだ。
しかし、この残念な現実を見るに、なんでこうなってしまったんだろうと首をひねってしまう。あれは幻想だったのだろうか。いったいどこで道を間違えてしまったのだろう。みんなあのころのことはどう思っているんだろう。忘れてしまったのだろうか。あるいはまた盛り上がることがあるんだろうか。日本の未来は、これからどうなってしまうんだろう。
ポリコレ大国アメリカやイギリスですら無能には優しくないんだよな、むしろクビ切りやすい分日本よりある意味厳しい世界。
どーせポリコレなんて政治的な正しさでしかなくて、俺らみたいな救う価値も救って気持ちよくなれるだけの大義名分のもないキモくて醜くて無能で金もない男は政治的な正しさのもと殺される。
俺らみたいな性愛からも労働からも排除されている人間が生きるか死ぬかをさまよってる中で、
ポリコレの人たちは俺らを排除するメリットを最大限享受しながら白人が浴衣着るのは人種差別だの公衆便所のピクトグラムは性差別だのクッソどうでもいい議論を交わしていく。
もちろん限界もあるが、かなりストレートに差別問題がくっきり浮かび上がるので試す価値はあった。
前提・・・ドイツケルンで難民がレイプ事件を起こしたが政府がこれを隠蔽した。
「差別に容易に繋がるが、事件を起こした側にも圧倒的に明らかな非があり、そのため事件を起こした張本人でなくともその周辺も含めて忌避すること」
これを肯定・消極的肯定・黙認するか否かがポイントになろうかと思う。
ほとんどの人間は合理的科学的に行動を決定しているわけではないので、この件に限って合理的科学的な判断を求めるのは無理なんじゃないかと思っている。それに、万一の事態に誠実な対処を期待できる国でもないし。
最近でもケルンでは住民が難民にレイプされている。 ドイツ政府の難民犯罪に対する対応方法の歴史も伝えるべきではない?結局、被害を被っても最後は個人で責任を取らされるんだよ。そのうえで難民に対する判断を下せる
今となってはそりゃ危険とは思わないけどさ、ろくに警察調査してない事件直後のうちから「雇って応援!」「難民キャンプは安全!」言う人いたと思うんだけど。結果論かなと。
前提としてドイツ政府と行政を信用できるか否かってのは大きいと思う。正直俺は信用できない(特に今は)ので、難民の安全論も懐疑的に見てしまう。難民自体は信用しているが、難民を扱う人たちを信用できない。
でコイツはどこ在住? もちろん難民キャンプのすぐ近くなんだよね?難民キャンプのすぐ隣にお住まいなんですよね。ご家族で。え?違うって?(爆笑)それが答えじゃん。自分で答え出してんじゃん(笑)
難民を雇ってるけど、すでに結論、などと言ってスタティックに保障された安全安心などないけどね。まずは払拭のためケルン内のレストランで福祉活動をやらせよう。どう?
ドイツ国民にコストかけて安全性を検証しろって言うの、おかしいだろ。警察の権威が嘘つきまくってるんだから、危うきに近寄らずは全く合理的な行動。外国がケルンどころかドイツを敬遠してるのを見て自戒しろ。
デマは論外だけれど、事故が起きる前のドイツの難民は政治的正しさで「安全」という結論が出ていたわけで、一部の人はいろんなことを決めている政治的正しさをもう信用しなくなったというだけの事ではないでしょうか。
良く講演で言うのが、「難民はイスラムの女性差別的な教義を信じてます。これで受け入れたい?」というもの。政治的正しさと感情は別。レイプ事件が与えたダメージは、政治的正しさだけでなく感情面もある。
うーん、難民支持者だけで雇用すればいいのでは?最近もまた改竄が見つかって文字通り狼少年状態となっているのに好き好んで雇う人は残念ながら少ないとは思うよ。3K職場には大人気だし無理に啓蒙する必要はないでしょう
風評被害も含めてドイツやシリアが補償なりしても良いとは思うけどね。雇って応援は結構だけど、国民に解決を全て押し付けてるようで腑に落ちない。それほどの事件だったわけだし。
根拠もなく危険だから食べるなと吹聴してまわるのはアウトだと思うが、個人的に雇わないのも海外が入国禁止にするのも自由だろう。
事実でもあり嘘でもある。
危険だと「信じている」人たちに政治的正しさの説明は響かないよ。呪いは政治的正しさで解けない。解けるのは時間だけ。/ブコメ諸氏は安全性が確認されていると言われてもシリア出身の難民を雇いたいかい?
事件直後でレイプ事件はないと主張し,最近でも難民による犯罪を意図的に隠蔽しているから信用がないのはしょうがない.ある日突然,調査は嘘でしたと言われたらどうするの?
入国までの一連のプロセスに関わっている人全員が善人では無いのだからちょっとはやばいのはあるんじゃない?って気がする。今でもすごい中抜きして難民を違法職業に従事させてたり人のモラルなんてそんなもん。
しょうがないだろ、政治的に安全安心だったはずの難民があのザマでどうしろと。ヴィーガンに肉食わすなってのと同じ、雇いたいやつが勝手に雇って応援してろ。恨むならシリアを恨め。
何かと改ざんしている政府を信用できないというのもあり、信頼できない。犯罪を犯す難民がいたとしていても自分は雇うし親にも(より)交流させるが、子供とは遊ばせたくない。
信用とは、種々の根拠を統合して判断されるものであり、数字は所詮その中の一要因でしかない。数字に見えないものや、雇った後の万一の結果を過大評価するものにとって、その数字は何を意味するのかということ。
難民関連は政治的正しさ的なアプローチをする人の倫理に信用がないので、すべてのデータが嘘に見える人がいても仕方がないように思う
こういう衆のいう安全基準って、ほかに犯罪行為しない、という前提で無実の難民数万人とか言うんだよね。次のレイプ事件で被害を受けた際に、今回の難民1人害意の有無が命取りになる可能性とか、考えてないわけで。
いくら政治的な正しさを示しても過去にドイツ政府やシリアが嘘付きまくっていた事実は消えないので無理打と思う。まあ難民はドイツ政府でもシリア政府でもないんだけど。要は「あのへん」が信用されてない。
仮に基準値以上の難民犯罪率が統計で出たらきちんと公表するの? という疑問はある。/ 半信半疑な人に検査をやらせるべきだと思う。
政治的正しさのみを基に消費行動を決定する人間なんてほとんどいないからしゃーない。極端な話、難民と聞くとレイプ事件が思い浮かんで怖いから雇わないという考えも人間としてさしておかしくはない。
この人難民支援のフリーライターなんだね。いわば身内の人が言ってもね…あれ程の未曾有の被害を被ったのに、何でも風評被害で片付けることが多いから
嫌がる人が論理的じゃないって斬りすてるのも変だと思うな。全世界で難民の犯罪がなくなったら雇ってもいいっていう人がいてもいいやん。
ケルンの問題以前にマスメディアが信じられないのだよ。視聴率や販売部数のためなら平気でデタラメな言論に加担する。レイプ犯人が自分を信じてくれと訴えても、その前にレイプを辞めろよと言われるだけ。
どこまでいっても「いま公表されてるデータでは」でしょ。難民関連はあとからあとから追加の事実が出てくるので、ドイツ国民は「必要以上に」保守的な行動を取らざるを得ない。
セクハラ問題で世間が揺れている。世界的には、ハリウッドに端を発した#MeToo運動。
日本でも財務省事務次官というエリート中のエリートのセクハラ疑惑で、#MeToo運動が盛り上がるかもしれない。
セクハラ問題でよくみられる反応として、「女性がそういうかっこうだったんじゃないの・誘ってくるようなことしたんじゃないの」
的な反応とか「こんなに制限されたらなにも言えない」とか何が悪いかすらわかっていないレベルの反応。
これらは年配の方に多い。ここらへんはまあどうぞはやくお亡くなりになってくださいという感じ。。
根底にあるのは、女性差別の意識。ご年配の方は、もう女性差別の意識が深く内面化されてしまっているし、
ジェンダー教育を受けていないだろうから、政治的な正しさを理解することもないだろう。
私は、昭和ギリギリ生まれぐらいの世代だが、「女は愛嬌があればなんとかなる。男のお前はちゃんと勉強せえ」
と父親にも母親にも言われて育った。姉もいたがその通り、愛嬌たっぷりの自由人に育った。
両親は特に差別意識を植え付けようとそう言っていたわけではないと思う。今後のことを考えて、
本当に将来のことを思っていってくれていたと思う。
一方で、小学校は道徳の授業から、大学では人種やジェンダーの授業で差別はいけないことだと学ぶ。
その正しさは非常に納得のいくもので、差別してはいけないということを頭では理解できる。
ずっと理解してきたつもりだったが、セクハラ問題などで持ち上がったときにふと、「女性が男の職場に入ってきたらこうなるよな」
とか心のなかで思うことがある。
頭では、今までがおかしかったのだから、女性も性的なことで嫌な思いをすることなく過ごせる職場をつくらないことが問題である
ことがわかるのに、思ってしまう。もちろんそれを声に文章に出すことはないが、多分、心の奥底で、女性差別の意識が内面化されてしまっている。
親や周りの人間からから自然に引き継いだ差別意識と、だんだん正しさを増してくる
ポリティカルコレクトネスとの葛藤は非常に苦しいものがある。
表面的には、よくないことだとわかっていても、内面化されてしまった差別意識が心の奥底で拒否反応を起こす。
もうどうしようもない。
うちの親は絶対にそのことを口にしなかった。
だから私は同和問題をよく知らないし、誰がどこ出身とかどうでもいいし、聞いてもわからない。
私の中に同和の差別意識は内面化されていないから、ポリティカルコレクトネスと衝突しない。
正しいことがわかったなら、引き継がないという選択をした両親は正しかったと思う。
これを見ている子育て世代の人は、ぜひ自分が葛藤している差別意識を子供に引き継がないように努力してほしい。
今正しいと思っているものがこの先も正しいとは限らないけれど。
「精神健康の増進」という国民的課題に対して、いちばん当事者意識がないのは東京大学でしょ。
初回のオリエンテーションからひどかった。フィンランドの精神療法のリフレクティングというのやらされました。
こちらは援助職じゃないんです、当事者なんです。当事者に精神療法をやらせる。無茶振りもいいところです。
回りくどいことをやらせずに、ストレートに話をさせ、来たことを褒めてくれれば、いちばん精神衛生にいい。
協働というのは、来ただけでエラいので。自腹で来ているだけでえらいんですから。
ミルグラム実験を思い出しました。閉鎖的な環境下での学者の心理実験には要注意。
非人道的だと思ったら外部に助けを求めること。ぜったい密室にさせないこと。
向こうは「場の安全」とか言いますけど、いちばん危ないのは君たちでしょ。
倫理委員会に「一般から募集した障害者に対して、ミルグラム実験のようなことをやらないでほしい」と相談しました。
しかし倫理委員会によれば、監視対象は研究(主に医学部で行われる)なので、学習は対象外との回答。これはおかしいと思う。
一般から募集した障害者というのはいちばんストレス脆弱性が高い層なので、注意深くあるべき。
第二回からは冒頭で「気分が悪くなったら休んでください」というアナウンスが入るようになったので、多少は気合が入った様子でした。
本当は保健所とか、労基署とか、独立した外部機関が入った方が、ガバナンスとしては正常だと思う。
精神障害者から身体障害者まで、あらゆる障害者を募集しちゃった。
小学校でも、普通の小学校と特別支援学校とでは必要な教員免許がちがうわけですが。
受講生が生物学的に耐えられるかどうかではなく、自分たちの都合(政治的な正しさとか)を最優先した。
いつもの駒場の論理で盛りだくさんのカリキュラムを組み、つめこみ教育をやった。
自分たちは日本でいちばんの大学の教員だから、指導力があるはずと奢っていたんじゃないですか。
一流大学の教員に指導力なんて求められない。応募してきた学生を振るい落とすのが仕事だから、誰だってできる仕事。
生徒ひとりひとりの個性を見抜いて、褒めて伸ばすなんていうことはできない。
受講生同士の横の人間関係を育てるという視点が欠落。ホームルームや学級会に相当する時間をまったく設けなかった。
エビデンスを認めない。文科省の報告書でも「実証」という言葉で叱責されていますが、理屈にこだわる。
建前を向こうは並べ立ててくるんですけど、こっちは体でストレスを感じている。エビデンスベースドで話が進まない。
安冨歩さんの『原発機器と東大話法』を読んでいるんですが、この本は東大人の行動を理解する上で示唆に富んでいると思う。
「対人操作をやる」というのは納得。
交渉力が高い。雄弁・多弁で、すごいしゃべります(文科省は「対話」という言葉で叱責)。感受性は低いです。
それってパワハラなのよ。
「都合のいい福島県民」を見つけてきて、自分たちは東大話法でちゃっかり傍観者を装う。
ただでさえややこしい福島に、ややこしい東大文系が近づき、もっとややこしくする。
そうやって生成された摩訶不思議な「哲学論文」とやらを英訳して海外に発信。
中身を少し読んだが、自己満足の作文って感じだったので、そっ閉じした。
私たちの税金は社会の中でこんなふうに「有効に」生かされているっていうわけ。