2020-12-30

お母さん食堂

お母さん食堂、というネーミングがまあ荒れに荒れている。

「お母さんという言葉に、無意識のうちに料理を作らなければならない人としてのジェンダロールを強制する働きがある。表現を改めるべきだ。」というのが要旨である

私は正直なところ、この指摘は充分受け止めるべき意見ではあると思う。人のあり方の多様性が叫ばれて久しい昨今、たしかにそういう側面がこのネーミングには感じ取れないことも、ない。

けど、なんか、違うのだ。その議論もっと高尚なところですべきで、言葉狩りのようになってはならないと思うのだ。

本質役割の押しつけの解消で、気に食わないもの排除では無いはずだ。

ただ、否定しようとしても、先方の論理はかなりしっかりとしていて、こちらの反論感情的ものであるから、かえって相手意見の補強になる。

(実際に「いやカントリーマアムとかあるやん、別にいいやん」みたいな反論に「それらも変えるべき、問題提起きっかであるだけ。黙殺する風潮を作るな」というような反駁があり、なるほど確かになぁとなったりした。)

一応私なりにも反論を試みたりはした。

そもそもこの「お母さん」のニュアンス母性とかその辺に由来するものだと思う。授乳に始まる母親から食事供与人間のみならず広く動物に見られるし、その過程で獲得した母に対する安心感無意識のうちに想起させるものなのでは?

お母さん、としてでは無く「その人」としてらしくあろう、そのためには役割を課してはダメだよね、ならば、「お母さんとしての私」を拠り所とする人は否定していいの?

しかに前時代的な考えかもしれないけれど、前時代的な考えにすがることは間違っているの?



これが私の、精一杯の反論である


少し話が逸れるけど、こういうポリコレ的な話ってかなり気をつけて発信しなければならないはずなんだけど、否定肯定派ともにそれが欠けている気がする。

社会的に認められていたかつての「正しさ」がどんどん力を失って「正しさ」が曖昧になってきた時代

多分今の時代お題目としては「多様性を認め合い、個々人の中にある正しさを尊び、大切にしましょう」ってところだと思う。これには私も賛成だ。

けれど、最近話題になるものはどれも「これが今の正しさ!そぐわない考えは悪!その考えを捨てきれない民衆社会も悪!」みたいなのが、多くない?と思う。


ポリティカル・コレクトネスあくま政治的な正しさである

差別偏見によって不当な扱いを減らすべきなのは当然なんだけど、個々人の価値判断とかその辺まで「正しさ」を強要できるほどのものではなくない?

というか、それをしてしまうと出発点である多様性」とか「価値観の押しつけから解放」とかに矛盾しちゃわない?

っていうのがずっとある。これじゃあポリコレ的に悪とされる前時代的な価値観社会体系そのものじゃん。

具体的に言えば、ジェンダーとしての女性ジェンダーとしての男性は、尊重しなくていいの?みたいな表現とか、よく見られる気がする。他にもある気がするけど、ここではあげないことにしておく。


ともかく、「お母さん食堂」というネーミングに対するアクション、私は反対である。「お母さん」という言葉の中にある温かみは「お母さん」にしかない。

尊重すべき価値観、信念とその手段が入れ替わってしまったら良くないよね、というお話でした。

  • 多様性の中に性差別やジェンダーロール助長表現は含まれないんやで お母さん以外に温かみを感じれるようにアップデートしなはれ

  • 作ってるのがお母さん本人ではないのにお母さんのイメージを借用している所が反発を生んでいる。

  • 荒れてるかな?

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん