はてなキーワード: 弊害とは
治安や環境の観点から言っても今の倍以上は美化、清潔になるだろうし
男性の方がロジカルな視点で物事を解決できるから、今よりもっと便利なグッズが出来るでしょうし
女性が混ざっていると中々解決しなかった些事についてもすぐさま対応できる社会になるでしょう。
育児と介護は女性に任せたら安心ですし、通勤や日常だって痴漢冤罪やセクハラに気を使わなくて良いぶん断然平和になる。それだけで素晴らしいと思いませんか?
"資金循環 ゆがみ拡大 借金、政府に偏在 日米欧企業カネ余り-チャートは語る"日本経済新聞2019年11月10日
"ピーターソン国際経済研究所のオリビエ・ブランシャール氏は金利が成長率より低い現状では財政赤字の許容度が高まると説いた。"
"上智大学の中里透准教授は「経済低迷を放置すればデフレに陥る。経済政策として財政健全化は選択しにくい」"
https://r.nikkei.com/article/DGXMZO5185015006112019MM8000?disablepcview
なぜお金があまると、貯蓄が過剰だと財政健全化できないんでしょう?
Ys = Yd, Y = C + I + G + NX という等式からスタートします。
前者は生産、分配(所得)、支出面からみたGDPの三面等価より総供給Ys=総需要Yd、後者はYが所得、Cが消費、Iが投資、Gが政府支出、NXがX-M、経常収支でプラスなら黒字です。これはマクロ経済学の基本なので、分からない人は教科書などで確認しておきましょう。
Y - C - I = G + NX
左辺はY、つまりその期間に生産された財・サービスから消費と投資(いずれも家計がする場合、企業がする場合があります)を除いたものですから民間部門の貯蓄です。つまり民間部門の貯蓄は政府支出と経常収支の黒字の合計に等しいということです。
もちろん消費も投資も政府支出も、異なる経済主体が独自の判断ですることなので、当期に直ちに等しくなるとは限りません。事後的に等しくなる方向で経済が動くという意味です。Ys > Yd 、つまり供給過多で生産された物・サービスから売れ残りが生じても、長期間でみれば価格調整メカニズムが働いて、Ys = Yd となるのかも知れません(この考え方を"セイの法則"といいます。)。しかしながら短期間で観察すると価格調整メカニズムが働くといっても限度があります。売れ残りが生じるとなると、企業は次年度はむしろ生産する数量を減らすでしょう。つまり、少なくとも短期間でみると需要が供給を規定しているのです(この考え方を"有効需要の原理"といいます。これはケインズの発見とされています。)。
では民間貯蓄が過剰な場合に経済を縮小しないで左辺と右辺を均衡させるにはどうしたらいいでしょう?
まずIを大きくする、つまり投資を増やす方法があります。全体としてのIは利子率rの関数とされているので(これを"投資関数"といいます。)、貨幣供給を増やして金利を下げることです。ただし利子率が10%もあればいいのですが、下げて下げてゼロかゼロ近辺に達した場合は、これより下には下げられないか、下げられたとしても(注1)Iを増やす効果は限定的です(この状態を「ゼロ金利制約」「流動性の罠」といいます。)(注2)。そもそも過剰貯蓄とは本来は資金不足で、つまりお金を借りて商売をしていた企業が資金余剰に転じたから生じた現象で(家計はもともと資金余剰です。)、企業が資金余剰というのはお金の借り手がいないということですから、そういう現象が生じた時点で利子率はかなり低いのです。
次にNXを増やす方法があります。ただ、この方法は他国との軋轢の原因になるうえ、貿易黒字は通貨高を招き国際競争力の低下を来たすので、ドイツのように特殊な国際環境でもない限り増やすといっても限度があります(注3)。
残った方法はCを増やす、つまり減税か、Gを増やす、つまり政府支出の拡大です。いずれも財政状況は悪化します。中里准教授が「経済政策として財政健全化は選択しにくい」というのはこのようなメカニズムを指しています。いくらお金があっても誰かが使わないと所得は産まれないのです。
財政健全化というのはマクロ経済的にいうと貧しくなれというのと同義です。もちろん少子高齢化ならやむをえないとか、むしろ経済成長にとらわれない里山資本主義でいくのだ、というのもひとつの生き方、選択だと思いますが、それならそれで正直にそういうべきで、財政健全化したらみんなが安心して豊かになってという説明はどうかと思います。
(注1) 銀行間の借入れ金利に働きかけることにより銀行が家計や企業に貸す出す貸出金利を間接的に下げる「伝統的な金融政策」に対して、ゼロ近辺に達したインターバンクレートからターゲットを変えて、ターム・プレミアムとリスク・プレミアムによってそれより高く設定されている長期金利を下げることを狙うのが、いわゆる「非伝統的な金融政策」です。貸出金利の指標商品である長期国債を大量に購入する、MBSやETFなどのリスク資産を購入してリスク・プレミアムを下げる、インフレ目標と金融政策の先行きを示して期待インフレ率を上げる、などの方法があります。
(注2) 近時、低すぎる利子率は弊害を産む可能性があることが指摘されています。"金融政策はこれからもマクロ経済の安定化ツールであり続けることができるのか サマーズとクルーグマンのツイートより"、ラリー・サマーズのいくつかのツイートを参照。https://anond.hatelabo.jp/20190824134241
(注3) ドイツの事情についてはマーティン・ウルフ「日本化しないドイツの幸運」フィナンシャル・タイムズ、日本経済新聞2019年11月1日がよくまとまっています。https://www.nikkei.com/article/DGKKZO51634760R31C19A0TCR000/
"れいわ新選組と立憲民主党 どちらが正しいか (自民党とどちらが正しいかも追記しました) "
https://anond.hatelabo.jp/20190622204530
"金融政策はこれからもマクロ経済の安定化ツールであり続けることができるのか サマーズとクルーグマンのツイートより"
当然ながら電凸素晴らしい、電凸すべきだと言いたいわけではないけど、「その手法が有効か否か」ではなく「より紳士的にあるべきだ」みたいな観点で意見してた人たちは、表現の自由は守りたいのかもしれないが、ここ一番で特定の表現を守りたいわけではないのでは。— 高川 新一@諏訪さん (@HANDBIT) 2019年11月1日
10年ひと昔と言うけども何故電凸がダメだと言われているのか理解していない人がもういるんだなと思う。
これに関して言えば、普通に相手の印象が悪いだけではなくて、実際として弊害が起きたからだよ。
確か国籍法の問題だったなと思いだしたけど、検索したら、ウィキペディアで記事にもなってたのね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%B1%8D%E6%B3%95%E6%94%B9%E6%AD%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C
当時この問題をリアルタイムで知っているオタクは児童ポルノ禁止法問題の真っ最中且つ、現在みたいにノウハウもなかった中、手探りで行っていたから、これは他人事ではなかったし、当時は電話やFAX所かメールや手紙すらダメなんじゃないのか?とも言われる様な事態にもなっていたんだよ。
だから当時の事を教訓として判っている人達は電凸は好まないし、相手の印象も最悪なのを知っていると言うわけ。
何もリベラルだけではなく、現に保守系の人でも反対していた人もいたんだよ、当時。
それらで模索していた中で起きたのだから、これは本気でやばい問題と認識したわけなのよ。
そもそもクレームつけるよりも買い支えて、ユーザーとして意見をした方が、企業なり団体なりは喜ぶからね。
普通にユーザーの商品なり事業なりの利用しての声ってありがたいもんだし、ジャンプが葉書の意見を優先していたって事はそういう事だからね。
もちろん全員がそうではないし、男性管理職でも組織を不安定にする人は居るが、割合としてかなり違いがある。
増田の会社では以前から女性の管理職登用を積極的に進めているが、管理職にした後の所属組織が総じて不安定になっている。
具体的には、まず休職者や退職者、異動希望を申し出人が男性管理職時代よりも有意に増えている。
これは共感を是とする女性脳が裏目に出て、共感出来ない部下を人として扱わない傾向が出やすいからだ。共感出来ない部下にはパワハラを自覚なくやってしまう。相手を人と思ってないからパワハラだと気づきづらい。それどころか指摘されても直さない女性管理職は残念ながら多い。
次に、業績が不安定になる。
これも共感を是とする女性脳の弊害で、女性管理職は朝令暮改が激しい。そうなると業務が計画レスで不安定になり、コストが高くなりがち。売上は女性管理職の営業スキルが高ければ上がることもあるが、利益は確実に減る。
女性は無理に管理職にせずに、いきなり役員に登用して、対外的なスポークスマンにだけなってもらい、現場の部下と切り離すほうが良いのかもしれない。
今回のソウル会議で深刻だなと感じたのは、性表現そのものではなく、それを擁護する言論までタブー視する風潮が世界的に広がっていることです。例えばイ・ソンオクさんという作家は、Youtubeにセックスドール禁止に反対する意見動画を投稿したところ、大量の通報で、広告規制されてしまったそうです。— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) 2019年11月1日
しかしこれを見ているとフェミのやり方は日本に限らず、どこでもソフトテロである事は変わらないよね。
あいトリ以降でソフトテロが問題になったにも関わらず、本来ソフトテロを多用してきた側のフェミ関係は宇崎ちゃんの献血ポスターの時も懲りずにやらかしたみたいだしな。
何にしてもこんな行為ばかりしているから、人権ゴロだの言われる様になるんだよ。
>世界的な「非実在青少年」方面の表現規制の波として、今度はどうやら「セックスドール論争」が仕掛けられているようです。そこからマンガやゲームなどへも波及というルートになってきそうですので、注意・警戒をしてください。
https://twitter.com/ogi_fuji_npo/status/1190047597123080193
うん、知ってた。
ノルウェーやオーストラリアとかアメリカの一部の州とかで無理やり展開しようとしている動きがある事はね。
大方、韓国とかイギリスでポルノブロッキングを展開していた連中と同じ様な気がするけどね。
それと上記の韓国の件はprostasiaはデイビッドケイとかから、漫画やアニメ、そして絵画などの美術関係の創作は児童ポルノではないと言う言質を取っている。
prostasia有能。
漫画等の創作物の規制とかそれこそスウェーデンでも捜査の手が割かれて実在児童保護まで、手が回らなくなってきていると言う弊害が出ているし、昨今アメリカでは捜査の手が足りなくなったのはどう考えても余りにも児童ポルノ禁止法の定義を拡大解釈しすぎたのと、余りにも何でも規制した余り、逆に発生してしまったカリギュラ効果等が原因でだろうと普通に推定されるのにね。
こうした非実在のものばかり取り締まろうとする行為自体どう見てもフェミやあの人達の関連団体の思想の根底であるキリスト系の思想や自身の気に入らないものを潰す為に子供の権利を悪用しているのは目に見て明らかだし、悪意を持った言い方をしたら、捜査を他の方に向けさせようとしている風にしか思えないよ。
現に昨今国連やキリスト教の児童性犯罪が表沙汰になってきているのも事実だしな。
ここら辺の国連の話は少し前に話題になったし、キリスト教関連なんてそれこそ10年くらい前ですら、ネットにもこの手の情報が上がってるわけで。
https://www.asahi.com/articles/ASMBV559JMBVUTIL00Z.html
日赤これで折れたら、普通にオタクから総スカン食らうと思うがね。
ただコミケとの関係見たら、赤十字の内部でも現場と喋る机とはまた意見の剥離があるのかもしれないね。
今回に関しては、オタク等は普通に辞めさせない為&フェミに対抗するために献血とか総出で頑張っていたのにな。
もしこの事で、意見をするならば、その辺の指摘をしておいた方が良いと思うよ。
そりゃ足りないはずだわ。
今回に関してはフェミが表現狩りに没頭する余り、いつも盾に使っていた女性の権利や倫理や道徳を投げ捨てて、屁理屈をつけて、必死に噛みついて、献血と言う事業自体の妨害や挙句の果てに巨乳の人やオタクに対しての人権侵害まで行い出し始めている構図そのものだからな。
どこのブラボだよ。
本当にフェミなんざ献血にも行かない癖に文句だけはつけて、あらゆる嫌がらせで、やめさせようとしてくるのだから本当に性質が悪いよ。
オタクは当時からコミケの件で有名な位には献血には貢献しているのにな。
これに関しては特に命に係わる事だから、下手に長引かせて妨害したからこそ、逆に世間はオタクに限らず、フェミに対して大反発された事態を招いたって所なのにな。
もし奴等の目論見通り、表現規制がなされて、そのせいで輸血が足りなくなったら、フェミの招いた事態になるんだけどな。
ポスターなんて問題視しているのはそれこそマスメディアとフェミくらいで、今回に関しては余りにもフェミの行動が異常すぎるから、世間は大方フェミの方を問題視しているぜ?
そのマスメディアの日テレのスッキリですら、タレントは呆れていたじゃないか。
それともう、このポスターの問題なんてもう生易しいもので、今やあいトリ委員会にもおられたあの方の巨乳は奇形発言から、実在女性差別や秋葉原ゲットー騒動にまで発展しているからな。
世間はもうこの件に食傷気味なのに今だフェミがこの件で必死だから余計にうざがられているんだよ。
何にせよ、どうせこれも朝日補正かかっている偏った記事だとは思うけどね。
文春にしろ、弁護士ドットコムにしろ、本当にこの件に関しては余りにフェミ側有利に偏りすぎた酷い記事ばかりが、世の中に出続けているからな。
一番マシだったのが、吉峯耕平弁護士の意見も載せた、夕刊フジって、もう大概だと思うよ。
新聞社や出版はどうせ世間なんて無知だから、世論操作すれば余裕程度に思っているのだろうけど、余りこう言う行為していたら、自身の情報の世間からの今後の信用性にも関わる事だと言う事は意識した方が、良いと思うけどね。
木曜日のニコ生を文字起こしして頂きました。 https://t.co/yQm9O9i879 明日締め切りのパブコメを書くときの参考になればと思います。
本物のリーチサイトを見て仕組みを理解し、実際に海賊版をダウンロードしてその画質を調べる中盤が見ものです。— 赤松 健 (@KenAkamatsu) 2019年10月29日
皮肉だよな。
今回文化庁と一緒になって、事実上、ダウンロード違法化拡大やリーチサイトを押し進めている赤松健等の漫画家等の方がまだ問題点を洗い出そうと色々意見を求めているんだからな。
オタクにしてもダウンロード規制自体に問題点が多いのを認識しているから、規制自体に反対しているのも多いわけだしね。
そもそもヤマベンにすら、こんなユーザーと言う第三者を巻き込み、弊害ばかりで、海賊版対策には一切役立たない規制よりも裁判でやれ、その関係からプロ責法を改正をしろと言われているわけだしね。
それに比べ、フェミやリベラルはあいトリばかり、表現の自由を叫び、宇崎ちゃんの献血ポスターの一件ではポスター潰しに走ってダブスタをしたり、挙句の果てには献血ボイコットや実在女性への巨乳バッシングまでしているのだから、本当にどうしようもないと思うよ。
あいトリにしても今日何か知事が、ダブスタをやらかしたみたいだしな。
そしてこの著作権のパブコメには一切リベラルやフェミは話題にすらしなかったよね。
また今回、逆にポスターの一件はこのパブコメを隠す為ではないのかとフェミはオタクに疑いをかけられていたのを見たぜ?
私はどう考えても今回フェミやリベラルはパブコメ出した方が有利になるので、その可能性は低いと思っているのだけども今までが今までで陰湿で卑劣な手段で、規制を強硬していた経緯もあるから、そりゃこんな疑いもかけられるのも残当だろうなと思うよ。
それと、リベラルやフェミの人は山田太郎議員のオタクが54万票を集めた一件以来、特にオタクを敵視しているけども、何も表現の自由や言論の自由で敵に回ったのはそのオタク方面だけではないからな。
(オタクに関してはそれまでオタクは票にならないと見くびられていたのにね、結果を出した途端これだからある意味笑うしかないよ。馬鹿にしていたのは何も自民だけではなく、野党側もだったと言う事だ。)
当時、リベラルがヘイトスピーチは表現や言論の自由ではないと突然言い出した、ヘイトスピーチ問題では、ネット規制問題を主として見ていた人から達はこいつら突然何を言い出しているんだ?と普通に見切って、この辺の層は逆にリベラルに対しては敵に回ったし、この著作権問題を問題視している人からも今までのダブスタぶりから失望、あるいは敵視されている訳なんだわ。
特にヘイトスピーチ問題なんて、今回の騒動を見ていたら、あいトリが一番のヘイトスピーチなのだから、皮肉そのものだよなと思う。
当時はネトウヨがブーメラン使いと言われていたけど、今じゃリベラルやフェミが一番のブーメラン使いだよなと思う。
だから、もっとリベラルは今までのダブスタやらの騒ぎで、表現の自由や言論の自由のクラスタから総スカンを食らっている事を認識はした方が良いと思うよ。
ポスターのやつ、いろいろな記事を読みつつ、自分の考えを整理するために書き出していたら、結構な量になってしまった。論点が多くてあまりまとまっていないが、せっかくなのでここに置いておく。少しずつメモ帳に書いてたら気がついたらめちゃくちゃ長文になっていてビビったというか、途中で切らられちゃうので分割するはめになった・・・・。
ポジショニングを先に述べておくと、私は男で、オタク、宇崎ちゃんポスターはギリセーフかな?ぐらいの認識だ。
いきなりだが、ポスター擁護側の反応が過剰である、という意見がある。これは、ポスター擁護側の危機感の強さに由来するものと考えている。「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」という有名な言葉があるが、ポスター擁護派にとって、オタク表現に対する段階的な譲歩は、最終的にはすべてのオタク表現が認めらない未来につながる、という危機意識があるのではないだろうか。この危機意識を補強する要素として、これまでの事例(NHKにおけるキズナアイや人工知能学会の表紙など)も存在する。一方で、ポスター批判派にとっては、あくまでも自分の信じる妥当な指摘をしているし、これまでの個別の事例は必ずしも自らによるものでないので、ここまで反発を受ける理由が分かりづらいのかもしれない。
ここで問題となるのが、ポスター批判派と擁護派の間に信頼関係が無いことである。ポスター擁護派にとって、ポスター批判派とは、個々人の「常識」に基づいて、それぞれ微妙に異なる理由でポスターの問題点を指摘する存在に見えている。特に共有されたガイドラインがない状況でこうなってしまうと、ポスター擁護派は最終的にどこまで譲歩すればいいのかわからない以上、一歩たりとも引くことができなくなってしまう。ポスター擁護派が「お気持ち案件」と言うのはこういう理由からであろう。両陣営の間に紳士協定が存在しない以上、お互いに譲歩は難しい。
個々人の嗜好や常識が異なる以上、必要となるのは各陣営の同意が得られたガイドラインになるであろう。現時点で即効性があるガイドラインは恐らく法律のみであり、法律に基づくのであれば、法的な「わいせつ物」でなければ問題ない、ということになる。もちろん、「TPOやマナーをわきまえろ」という意見もあるだろうが、TPOやマナーへの遵守はベストエフォートであり、必ずしも守る必要がない。法律のみを基準として考えた場合、件のポスターが「わいせつ物」とは言えない以上、それ以上の規制を求めることは「過剰な要求」と映ることもあるだろう。ポスター擁護派には、恐らく規制派の意見が法律を超えた「過剰な要求」に映っている。
では、みんなが納得するようなガイドラインを、批判派と擁護派が一緒になって作ることは可能だろうか。残念だが、私の印象としては、そのようなことは難しいように感じられる。各人それぞれ譲れない線があるらしく、すり合わせは容易ではない。しかし、後述するが、私はそのようなガイドラインは「表現する側」が作れば良いと考えている。
安易なポスターの取り下げ要求は、表現への萎縮につながるという説もある。これは一理あると同時に、必要な行為でもある。私自身は、自由はなるべく保証されているべきだと考えているので、ポスターへの批判をTwitter上で放言することは、それがどのような理由に基づくとしても、認められるべきだと考えている。たとえそれが、個人的な心情に基づいたものだとしてもだ。また、赤十字に対して直接的に取り下げを求める行為についても、特に問題はないと考えている。なぜなら、圧力、あるいはロビイングは、自分の信じる世界を作るための戦術の一つであると考えているからだ。批判派も擁護派も、お互いにやればいい。
さて、赤十字にも、表現の自由がある。赤十字が公的団体か私的団体かに関わらず、赤十字にはどのような表現を行うかを自発的に決める権利がある。もし、赤十字が、批判に対して「なるほどそういう考え方もあるのか」と考えてポスターを取り下げるのであれば、それは赤十字の自由だ。一方で、批判を受けた上でポスターを取り下げないのも、赤十字の自由だ。赤十字がインターネット上でどちらの意見が多いかを見定めで、それに基づいて判断を下したとしても(統計的な正確性の問題を別として)、問題ないだろう。決めるのは赤十字である。
前述のとおり、私は、批判派と擁護派が意見をすり合わせて統一ガイドラインに至ることは難しいと考えている。となれば、最終的には、どのような表現が認められるかどうかは、その表現の発信者が決めるしかない(この場合は赤十字だ)。この前提に立つ場合、両陣営は、発信者を説得するために最善を尽くすのがミッションとなる。つまり、ロビイング合戦だ。実際のところ、自治体はもちろん出版業界や放送業界などを始めとして、様々な企業や業界には、表現者として独自のガイドラインがある。これらは過去のロビイングによって少しずつ構築されてきたものであり、それぞれの価値観をすり合わせた結果とも言える。そして、このような自主規制ルールを作る上では、表現の自由は関係が無い。
ところで、何人たりともリソースの限界というものがある。特に赤十字にとっては両陣営からの意見を受け付けて適切に判断を下す、という非常にリソースを消費する作業が求められる。結果的に、赤十字は、問題が起こりにくい表現のみを使うようになる、つまり表現の萎縮が起こるという懸念が残る。しかし、究極的に言えば、私はこれは問題が無いと考えている。ポスターなどの表現は結局はコストパフォーマンスの問題であり、クレーム対応へのコストと得られる利益(この場合は血液量だろうか)のバランスを鑑みて、最終的には収束するであろう。コスト削減のために無難な表現を選ぶ、というのも戦略の一つであるし、多少苦情が来るのを受け入れつつ、血液を大量に集められる方向に舵を切るのも赤十字の判断だ。赤十字には自由がある。
しかし、ここで注意しなければいけないのは、必要リソース量には非対称性があるということだ。たとえば、赤十字に対して長時間苦情の電話をかけ続けるといった手法は、ロビイングの方法としては好ましくないと、私は考えている。表現者のリソースを飽和させることによって、半ば強引に要求を飲ませる手法は、私の目には品が良く映らない。人によっては、この手法自体を、不当な手段による「表現の抑制」と見なすこともあるであろう。意見の伝達は、なるべく相手のリソースを消費しないように心がけたい。もちろん、あなたがどうしても相手に飲ませたい要求であれば、多少強引な手法を取ることは(法律で禁止されていない範囲で)可能でもある。しかしその場合、まさにその行為自体が非難の対象となり、結果的に周囲からを理解も得られない結果になることもあるだろう。私自身は、Twitter上で意見をつぶやくぐらいが、相手にとって負担の少ない範囲だと考えている。
ロビイング合戦となると、「声が大きいほうが勝つのかよ」という非難もあるかもしれない。そうなのだ、声が大きいほうが勝つのだ。こればっかりは民主主義の必要コストなのか、いわゆる自由のための「不断の努力」というものなのか、各人が自分の信じる事を唱え続け、みんなを説得するしか無い。しんどいが、そういうものみたいだ。もちろん、弊害もある。「米国はNRAがロビイングを続けているせいで、いつまで経っても銃乱射事件が無くならない」という人もいるだろう。しかし、ではNRAの発言権を強制的に奪うことができるかというと、そうはならない。あなたにできるのは、あなたの意見で周りを説得して、支持者を増やすことだけだ。でも、しんどい。できれば相手に静かにしておいて欲しい。きっとお互いに「またかよ」と思うこともあるだろう。不毛に見えることもあるかもしれないが、自由とはそういうものなのだろう。
さて、表現の萎縮を懸念する材料として、一度決まったルールは安易に緩和されないという指摘も考慮する必要がある。
たとえば、知っている人にとっては「定番の話」であり、それ以外の人には「なんでそんなことに」と思われがちな自主規制として、「4本指のイラストは禁止」という決まりがある。これは、自主規制ルールとしてそれなりに広く運用されているはずのルールだ。このルールは部落開放同盟からの意見が由来らしいのだが、私自身(関東出身)は最初に聞いたときは「なんじゃそりゃ」と感じた。今現在も、「そろそろ無くしてもいいんじゃないの」と思っている。
一般に、規制というものは強くなる方向に圧力がかかる。形骸化したルールが、それを理由に削除されることは、傾向としては少ない。そのため、理由はどうであれ、細かいルールを積み重ねていくと、最終的には非常に厳しい規制が完成する。この傾向は、表現の自由度を求める陣営にとっては脅威である。一度決まりができてしまうと、それを覆すのは難しい。もちろん、ロビイングや社会の変化によって緩和が行われることもあるだろうが、できるならば規制が生まれる事自体を避けたい。この非対称性を考慮した場合、ポスター擁護派が過敏に反応することは、ある程度理解できる。譲歩の積み重ねが厳しい規制につながることを懸念するのであれば、今がまさに踏ん張りどころだと言える。
日本赤十字は半ば公的な機関であるので、より安全なルールを運用するべきではないのか、という指摘は、私自身は一理あると考えている。赤十字を公的機関と見なすかどうかについてはここでは議論しないが、公的機関がなるべく安全な表現を使う、というのは、すべての人へのサービスを提供する以上必要なことである。たとえば、政府がセクハラを是とした表現を行うことは望ましくない。なぜならば、セクハラは良くない行為であるという、社会通念上の合意が得られているし、法律という形で明文化もされている。あるいは、政府が過度に性的な表現を行うのもまた、望ましくないであろう。これは、公の場では性的なものを隠すという社会通念上の認識が共有されているからだ。
では、どのような表現が「望ましくない」ものとして社会で共有されているか、となると、全くもって難しい問題である。法的に認められていない行為は当然「望ましくない」し、差別を助長するような表現も、おそらくは「望ましくない」。しかし、社会の大部分は実際のところ未定義エリアとなっており、個別の案件ごとに勘案することになる。すでに広く指摘されている通り、たとえどのような表現でも人を傷つけることは往々にしてある。その前提に立つ場合、単純に「私(や私の周りの人々が)が傷ついたから」という理由だけで「望ましい」かどうかを定義することはできない。たとえば、単に子供が掲載されているポスターがあるとして、どうしても子供を授かることができない夫婦が傷つくからといって、そのポスターを取り下げるべきだろうか。この例に対する答えはない。もし、そのような人が日本で大多数を占める状況であれば、きっと日本政府はそのポスターを取り下げるべきであろうし、あるいは、その傷つき方が非常に強いものであれば、少数のために取り下げることもありえるだろう。(なお、この例示自体が、そのような人を傷つけているだろうという指摘も当然ある)
今回のポスターは、擁護派にとっては、このような未定義エリアの問題であり、どちらかといえば問題がないものとして想定されている。一方で、批判派は「望ましくない」ことが確定したもの、具体的には性差別の問題として認識している。この前提が異なる以上、公的機関が今回のポスターを掲示することの是非について議論するのは、あまり意味がないように考えられる。極端な話、件のポスターがポルノであれば、赤十字が掲示するのは不適切であろう。しかし、そもそもポルノかどうかという点が両陣営の間で確定していない状態では、それ以上の話はしようがないのである。
ところで、公的機関にとっての表現のコストパフォーマンスとは何だろうか。恐らくは、どれだけ全体を幸福を最大化できるか、という観点になるだろう。そして、なるべく多くの人が傷つかない、ある意味では無難な表現を用いるという戦略は、単純にコストパフォーマンスに優れるであろう。そういう意味では、公的機関を特別視するというよりも、彼らは単にコスパがいいから無難な表現を好む、と考えるのが妥当なのかもしれない。
献血を推進するためであれば、ポスターが引き起こす問題は無視されても構わない、という考え方が観測される。これは是でもあり非でもあるだろう。
ここで重要となるのが、ポスターが引き起こす問題とは何なのか、である。仮に、その問題が差別問題であると判断される場合、たとえ献血目的であろうとも、その表現は認められないと考えられる。例えば、「白人は慈愛に満ちているので、どんどん献血に行こう」と書かれたポスターは、現在の社会通念上認められないだろう。一方で、「差別とまではいかないけれど、傷つく人もいる」表現の場合、献血の重要性を理由に、多少の問題は無視されることもあるだろう。先程の例を再び使うのであれば、献血ポスターに子供を掲載することは、おそらく現在の日本では問題となることはない。
さて、ここまで来るとまた同じ話になるのであるが、今回の文脈において、ポスター擁護派は今回の問題を差別問題であると認識していない。一方で、批判派は、これは性差別の問題であると認識している。そのため、両者の話は噛み合わなくなる。結局の所、この論点もあまり意味がない。件のポスターがポルノであれば、それを公の場に掲示するのは、女性差別になるであろうから、献血のためとはいえ認められないであろう。一方で、ポスターがポルノでない場合、献血のためであれば、多少のことは無視される可能性はある。
続くよ
オタクの人たちはフェミニストを「繊細チンピラ」「繊細ヤクザ」などと表現します。
それならばオタクの人たちは一体何者になるのでしょうか?
「繊細」の反対語は「鈍感」でしょうか?あるいは「麻痺」でしょうか?
鈍感な何者でしょうか?物量で押し迫る暴徒?鈍感暴徒?いや、ゾンビでしょうか?
オタクはさながら痛覚の麻痺したゾンビのようなものなのかもしれません。
「お気持ち」を批判する点からも、さながら「人の心を失った」様子がイメージされます。
改めて考えてみると「お気持ち」批判というのも相当無理のある理屈に思えます。
なぜなら「人の気持ちなど知ったことがない」と声を大にして言うようなものですから。
また「噛み付くことで仲間を増やすことができる」という思い込みもゾンビじみています。
ネットに激増している「幼児の性的虐待」の実態 虐待画像や映像の数は過去最高に https://t.co/hweOtVxygg
「捜査は感情的にも心理的にも非常に負担が大きく、やめる人が後を絶たない」。実在児童への性虐待という地獄と向き合うよりは、二次元萌え絵を叩いて回る方が精神的にずっとラクなんだろうな。— ClaraKeene (@clarakeene) 2019年10月23日
こういう悲惨な現実を無視して、二次元規制に血道を上げてるのが国際児童保護団体という連中の実態なんだよ。特にECPATとかがそう。日本でも散々実在児童保護の邪魔したし、国連に創作物規制をさせようとした。https://t.co/PooQxk9tBB— 高村武義 #WalkAway (@tk_takamura) 2019年10月26日
https://toyokeizai.net/articles/-/309872
文明は進み、あらゆる場所からインターネットに接続できるようになった。誰もがスマホを持ち歩いて、常に情報を受信したり発信したりできるようになった。そうして他人との連絡がとりやすくなって、SNSが普及して、人と人の距離が近くなって、比例して他人との垣根は低くなった。
人は他人を知り、他人の価値観を知り、それを受け入れたり否定したりしているうちに、世界は画一的なものへと変化していった。
今や個人の思想はひらけているべきものとなり、それができないと「社会性がない」と揶揄された。男女は平等に在らねばならず、人を嫌ってはならず、ものごとを批判してはならず、差別をしてはならない。一度そのしきたりを外れると非国民と揶揄され、罵られた。ときには職を失い、家族を失い、家を失った。
人々は互いの言動を監視し合うようになった。一部の国民はそんな時流に見切りをつけ、電波の及ばぬ僻地へと逃げていった。彼らは去り際、「こんなものは冷戦と同じだ」と言い残してみせたが、その言葉の意味を理解できる者はもうほとんど残っていなかった。
そこから10年の間に、国民のフラストレーションは最高潮に達していた。言葉狩り、思想狩りはその罰を苛烈にさせていった。世界は窮屈になった。
そしてあるとき、その思想から虐げられ家族を失った一人の男が、監視者への報復を行なった。
戦争は始まったのだ。
事業仕分けをやった旧民主党政権といい、脱ダム宣言をした田中康夫といい、千葉が台風15号で散々な目に遭っているときに呑気に過ごしていた森田健作といい、選挙で上手く人心をつかんで権力の座についた人々って人の感情の扱いには長けていたんだろうけど、治水とか土木・建築とか理系の技術的な話を理解する能力なさそう。
もともとそういう専門家として選挙で当選したわけじゃないから知識がないのは仕方ないけど、専門家の意見を謙虚に聞いて「何をどうするのがベストか」を判断するのが権力者のあるべき姿じゃないだろうか。
もっとも平和なときだと「既存の役所の枠組みを壊して何か新しいことをやってくれそう」な人に投票する手合いが結構いるから、八ッ場ダムみたいに今までの政権(というか官僚機構)が粛々と進めてきたものをぶち壊すのがカッコいいみたいに思われちゃったんだろうなと思う。
が、今回の台風でそういう「何か新しいことやってくれそう」な人々は実際非常事態にぶち当たると結局何もできないことが判明した。
霞ヶ関の官僚機構には非効率な部分や縦割り行政の弊害とかいろいろあるかも知れないけど、基本的にはエリート集団なので、彼らを「税金泥棒」とか「人員を削減しろ」とか非難してモチベーションを下げ、組織を疲弊させる連中は最終的に国民の首を締めることになると思う。
自衛隊に関しては災害のたびに株を上げているとは思うが、それでも彼らに厳しい目を向ける人々は一定数いる。
東大や京大(当然その他のエリート校を含む)を出た連中が霞ヶ関を就職先として選ばなくなるのはけっこう深刻な事態だと思うぞ。
教員に対する要求が過度に高くなり、「ブラックな職業」として認識されたがために教員採用試験の倍率が下がって優秀な人材を集められなくなってきているのと同じ現象が起こると思う。
公務員の安定した身分と給料に対する妬みが、かえって重要な仕事を黙ってやってくれる人々の足を引っ張っていることに選挙民は気づくべきではないだろうか。
常に良い人でありたい。他人から不快に思われたくない。一時的でもいいから居場所を確保したい。
自己承認のキャパが足りない。どうしようもない疎外感。「ここにいてはいけない」という気持ちが細胞の核、奥にまで染み付いて離れない。
理解されない。自分の人生を肯定できない。それでもいいと言われたい。
実際話して、それでもいいと言われ、一瞬の居場所を得たけど一瞬だった。
やはりその人たちも「良い人」「都合のいい人」の私が「それでもいい」のだった。一番近くにいる人だけど、もう本音は話せない。
普通を演じている。自分の半径十数メートルかが世間、とはよく言ったものだとおもう。何の弊害もなく学校に行けた過去があって、化粧もできて好きなものに囲まれて毎日楽しくて、仕事にやりがいも誠意もあって、やる気に満ちてます、ご飯が美味しいですね、大丈夫です、次は何をしましょうか?
そんな過去も気持ちも微塵もないのに虚無に笑顔貼り付けても全然問題ないのはどうかと思ったけど、別にどうでもいいのだろう。
少し前まで頑張れてた。
普通の中に自分が組み込まれている感じがした。安心感、充足感、安堵感に満たされた。毎日全力疾走で、体力がなくなろうとも普通の中に居られるのが嬉しくて頑張れてた。一瞬の居場所は疎外感を忘れさせてくれた。
普通でいるとそれだけで承認される。人は共通点に惹かれるものだから、やはり普通で居た方が理解されやすい。偽った普通でもいいのだろう。
私はあなたのような充足感に包まれた人生を送り、何度か挫折したもののやっと立ち直っていま頑張ってるところなんです。
普通の人は私を「わかる」といってくれる。わかる?他人をそんな簡単に理解できる?生い立ちから人間関係を踏まえ、積み上げていった思考回路と感情は想像がたやすい?それとも普通の人は少し話しただけで他人を理解できる能力があるのだろうか?
ここにきて自分がなんども「普通」という単語を出していることに気づく。
わからない。普通がなんなのかももはやわからない。ただ自分以外の他人と、自分との間にはどうしようもない溝、格差があるように思えて仕方ない。そう思った方が楽だからそう思ってるのかもしれない。
きっとこれは他人にとってどうでもいいのだ。
大事なのは自分以外の他人が「不快」でないか「無害」でないか「いい人」であるか。
人間関係は結局そこに起因していく。本音がどうであれ、どうでもいいのだ。
私なんて、どうでもいいのだ。
だいたい「専門家に対する素人感覚の優越」なんて図を求めたの左派の皆さんだしなあ
専門家の言う通り金をジャブジャブつぎ込むことに対する弊害があったのはたぶんある程度事実だし、まあそれ自体はわかるんだけど
だいたい「専門家に対する素人感覚の優越」なんて図を求めたの左派の皆さんだしなあ
専門家の言う通り金をジャブジャブつぎ込むことに対する弊害があったのはたぶんある程度事実だし、まあそれ自体はわかるんだけど
ワイさんはタロット占いが好きである。こういう風に使ってるよという一例
・AとBどちらが良いか
・AかBかは、2枚だったり、5〜6枚だったり、気分によって変わるよ
・悪いことが起こったらジタバタしないで今日はそういう日だったんだとカードのせいにして思考を止める
・警告するカードが出たらいつもより気をつける
・どうでも良い選択(重要な選択はカードに委ねない)で精神を消費しない
・明かに精神消耗の削減に効果があったよ(ジョブズや自己啓発本が言ってる『小さな選択は精神を消耗する』はガチである。重要で無いことはお任せしておきたい)
・異常にそそっかしいので気をつける習慣が出来て良かった(いうて警告のカードが出ている時しか気をつけないが)
・自分がコントロール出来ない/しにくいイヤな出来事を『今日は日が悪い』で少し投げることが出来るようになった。争いっぽくなった時は致命傷を相手に与えることが無くなった(多分)
スマホのAppのデッキなので、物理デッキよりはランダムなカードが出るハズ(乱数によってカードが偏りにくいはず)だが、
ぜーんぶ微妙なカードだったり、ほとんどあるいは全部逆位置だったりすることもある
その場合、外せない重要な用事の時以外は、カードに合わせて、行動が消去的になりがち(特に仕事が入っていないプライベートな日は)