常に良い人でありたい。他人から不快に思われたくない。一時的でもいいから居場所を確保したい。
自己承認のキャパが足りない。どうしようもない疎外感。「ここにいてはいけない」という気持ちが細胞の核、奥にまで染み付いて離れない。
理解されない。自分の人生を肯定できない。それでもいいと言われたい。
実際話して、それでもいいと言われ、一瞬の居場所を得たけど一瞬だった。
やはりその人たちも「良い人」「都合のいい人」の私が「それでもいい」のだった。一番近くにいる人だけど、もう本音は話せない。
普通を演じている。自分の半径十数メートルかが世間、とはよく言ったものだとおもう。何の弊害もなく学校に行けた過去があって、化粧もできて好きなものに囲まれて毎日楽しくて、仕事にやりがいも誠意もあって、やる気に満ちてます、ご飯が美味しいですね、大丈夫です、次は何をしましょうか?
そんな過去も気持ちも微塵もないのに虚無に笑顔貼り付けても全然問題ないのはどうかと思ったけど、別にどうでもいいのだろう。
少し前まで頑張れてた。
普通の中に自分が組み込まれている感じがした。安心感、充足感、安堵感に満たされた。毎日全力疾走で、体力がなくなろうとも普通の中に居られるのが嬉しくて頑張れてた。一瞬の居場所は疎外感を忘れさせてくれた。
普通でいるとそれだけで承認される。人は共通点に惹かれるものだから、やはり普通で居た方が理解されやすい。偽った普通でもいいのだろう。
私はあなたのような充足感に包まれた人生を送り、何度か挫折したもののやっと立ち直っていま頑張ってるところなんです。
普通の人は私を「わかる」といってくれる。わかる?他人をそんな簡単に理解できる?生い立ちから人間関係を踏まえ、積み上げていった思考回路と感情は想像がたやすい?それとも普通の人は少し話しただけで他人を理解できる能力があるのだろうか?
ここにきて自分がなんども「普通」という単語を出していることに気づく。
わからない。普通がなんなのかももはやわからない。ただ自分以外の他人と、自分との間にはどうしようもない溝、格差があるように思えて仕方ない。そう思った方が楽だからそう思ってるのかもしれない。
きっとこれは他人にとってどうでもいいのだ。
大事なのは自分以外の他人が「不快」でないか「無害」でないか「いい人」であるか。
人間関係は結局そこに起因していく。本音がどうであれ、どうでもいいのだ。
私なんて、どうでもいいのだ。
心療内科に行こう 似たような人と接するだけでも気分は落ち着く それか、コンビニ人間を読むことかな
せやろか
お体裁屋(おていさい屋)さんですかね。 またはうそつき