はてなキーワード: 夏休みとは
う~む、贅沢できることより、お金のためにあくせくしなくて良いのが羨ましい。年収900万とか書いてあったけど、それはそれなりの時間を労働に割いていてその収入なの?私が同じ立場なら多少年収が減っても、週3~4日しか働かないとか、2ヶ月働いたら1ヶ月休んで海外旅行とか、時間が自由になる生活がしたい。
私はそこまで年収も資産もないけど、収入が平凡なことより、とにかく早起きして毎日仕事に行って、休みは週二日で、海外とか行きたかったら夏休みに一週間ぐらい行くのが限度という時間的拘束に疲れている。あまり贅沢をすることにメリットを感じておられないようだけど、時間をお金で買えるというのが最大のメリットではないかと思う。やりたくない家事を外注し、行きたい旅先が多少不便でツアーが高額とか専属ガイドを雇わないといけないような場所のときに躊躇せず行きたい所に行けるとかそういうのが良いなぁ…と思う。
高校の頃、隣の家の家族のところに女子大生が移り住んできた。正しくは大学院生なんだけど。その夫婦の姪にあたる人で、院生になったのをきっかけに、より学校に近いそこへやってきたとのことだった。当時うちの母とお隣の奥さんは一緒に今でいうホームパーティみたいなものをやるくらいすごく仲がよくて、当然のように俺にも紹介されて挨拶した。高3の春だった。
しばらくして、受験生なのに全く勉強しない俺を不安に思った母親が「塾へ行こう」とパンフレットもって切り出してきた。家では全く勉強しないでゲーム三昧だったけど、学校ではそれなりに真面目に授業を受けていたので成績はまあまあ良くて、だから大学も学力に見合った難しすぎないところに行こうと思っていて、塾なんてまったくやる気がしない。ずっと拒否っていたら、またしばらくして母が隣の家の女子大生を連れてきた。「バイト探してるっていうから、この子に家庭教師してもらうことにした」ふざけんなと思ったが、もう家に上がっている彼女を追い返すわけにもいかないかと思いしぶしぶ勉強を見てもらうことにした。自分の部屋は汚すぎて入れられなくて、その日はリビングで数学の課題を見てもらった覚えがある。結局そのまま家庭教師として勉強を見てもらうことになった。
その人はすごく頭がいい上、人をその気にさせるのがすごくうまい人で、調子に乗った俺は家でもきちんと受験勉強をするようになった。成績も少しずつ上がり始めて、当時の志望校では少し目標が低いんじゃない?と担任にも言われるようになった。話も面白くて、週2回の彼女の来訪を心待ちにするようになり、模試でいい評価を取ると即メールした。
そんなこんなで、彼女を好きだと思うようになるのに時間はかからなかった。よくある話だ、高校生が少し年上の大学生に恋をする。(院生だけど)あまり読んだことないけど少女漫画の設定そのまんまみたいな状況すぎて、いやちょっと勘違いしちゃってるだけだろ、と必死にその気持ちに抗ってみたりしたけれど、もう会ってしまうとそういうの全部どうでもよくなって、少しでも成績上げて喜ばせたいと思ってしまうから秋ぐらいにはもう諦めた。
そしてその人が通っていた難関大学に志望校を変えた。両親も担任も、そして彼女も喜んで応援してくれた。一層勉強に身が入り、必死に勉強した。
次の春、晴れて俺は彼女の後輩になることができた。学部は違ったが、ものすごく嬉しかったし、ようやく同じ土俵に立てた気がした。当然そんなわけはないんだけど。向こうはその大学内でも屈指の偏差値を誇る理系学部の院生で(院生だから学部はおかしいか)俺は文系の比較的偏差値が低い方だ。
それでも毎日なんとなく嬉しくて、タイミングがあった時は一緒に登下校したり、学食で一緒に飯食ったりした。夏休みに入る少し手前、初めて二人で出かけた。向こうはどう思っていたかしらないけれど、デートのつもりで誘ったから約束をしてからその日までずっとそわそわし通しだった。親にバレるのが嫌でわざわざ駅で待ち合わせて、彼女が行きたいと言っていた水族館に行って食事をして、お互い家に帰ってからメールで告白した。「ちょっと表出て」って喧嘩吹っ掛けられるみたいな返信が返ってきて、それからマンションのエントランスで話して、付き合うことになった。
それから、彼女が卒業するまでは本当に楽しかったし、俺も彼女に見合う大人の男になろうと必死だった。プレゼントも背伸びして、百貨店に売ってるようないいアクセサリーを用意したり、デートでもなるべくお金出させたくなくて、少ないバイト代を精一杯はたいて奢ったりした。結局最終的に割り勘くらいになるように向こうに調整されていたけど。喧嘩しても大人ぶって先に折れて謝った。嫌われたくなかったというのもある。
冬が過ぎ、また春がきて、彼女は就職して隣の家を出ていった。移り住んだアパートはうちから1時間近くかかるところだった。
学生の頃に比べると、格段に会える日が少なくなってしまい、些細なことでの喧嘩が増えていった。それでも最初の1年くらいは、彼女の家に泊まりに行って手料理を振舞ったり振舞われたり、ちょっと遠くへ旅行へ行ったり、何とかその壁を乗り越えようとがんばった。どうしてもその人を手放したくなかったから。大人な振りをして、ずっと背伸びし続けていた。
それがダメになったのは付き合って1年と少し経った頃、俺が大学2年の冬だった。
箱根に泊まりで旅行にいって、旅館で夕食を食べているときだった。もうほとんど覚えていないような些細なことで、ふっと怒りがこみあげて、その勢いのまま机を殴りつけて怒鳴ってしまった。言った瞬間にすぐ我に返った。しまったと思った時には彼女は萎縮しきった顔で「ずっとそうやって我慢させてた?」と問いかけてきた。何も返せなくて、その日はもう会話もなくなって、朝起きたら彼女はいなくなっていて、携帯には「別れよう」というメールがきていた。
本当に大好きで大切な人だったのに、ずっとずっと彼女に見合う「大人な男」になりたくてなりきれなかった。悔しいのと情けないのと喪失感とごちゃごちゃになりながら一人で帰って、それからしばらく大学にもいかず家に引きこもってずっとオンゲをしていた。無心でレベル上げしていてもすぐに彼女のことがちらついた。もうしんどくてたまらなかった。
それでも時間は過ぎて行って、大学の成績通知を見ていい加減家を出なければと思った。単位を結構取り落としていた。それからまた大学→バイト→ゲームの繰り返しを毎日毎日やって、気づけば就活生と言われる年になった。
就職フェアみたいなやつに同期と出向き、彼女が就職した会社のブースを見つけた。彼女がいないことを確認して(そもそも研究職だからいるわけないんだけど)説明を聞いてそのままエントリーした。運よく選考が進み、そして内定を勝ち得た。
そこで流石に一度我に返った。こんなストーカーじみたことして、どう考えてもおかしいしやばい。そもそも入社してもし社内ですれ違ったりしたらなんて声を掛けたらいいんだ。もう一度会いたいとは思うけれど、向こうはもう俺のこと忘れてほかに相手がいるかもしれないし、年齢的に結婚している可能性もなくもない。内定はあともう1社あった。期限は迫ってくる。悩みに悩んで俺は彼女に連絡を取ることにした。我ながらどうしてそうなったと今にして思うのだが、その時は考えすぎて頭が完全に煮詰まっていた。
電話番号は幸い変わっていなかった。電話で全部話した。まだ忘れられないこと、まだ好きなこと、それから同じ会社を受けて内定が出たこと、今行こうかどうしようか悩んでいること。付き合っていた頃の俺とは全然違って、本当に情けなかった。いや、付き合っていた頃だって決してちゃんと決まっていなかったかもしれないけど、それでも精一杯ずっと物分かりが良くて包容力があって大人な俺を演じ続けていたから、それはもうキャラ違うレベルだったと思う。彼女は静かに全部聞いた後、「うちはまあまあ大手だし、労働環境も悪くないから来るなとは言わないけれど、もう一社とよく比較して考えて」と言ったあと、「私のことは気にしないで」と言った。
突き放された気がした。それが余計悔しくて、勢いで「わかった。じゃあそっちの会社に行く」と即答した。するといつかみたいに「ちょっと表出て」と言われた。もしかしているのかと思って慌てて家の外に出たが、だれもいない。「どういうこと?」と聞いたら「そのまま駅まで行って、〇〇駅まで来て。私も今家出た」と言って電話を切られた。マジかよ。時間はすでに22時過ぎだった。〇〇駅は彼女の最寄り駅じゃなくて、うちと彼女の家の中間あたりで、付き合っていた頃よく一緒に飯に行ったところだった。こんなに長い30分があっただろうか。走って駅までいって、電車に乗っている間も落ち着かなくて、ずっと立ったままだった。電車から飛び降りて改札を出て、きょろきょろしながら電話しようとしたら、同じく携帯を片手に小走りで改札を抜けようとする彼女と目があった。
私が大学生活で学んだこと
人はひとりひとり違っていること
そしてひとりひとり正誤などないこと、ひとりひとり認められること
誰かに嫌なところがあったとしても、その人そのものを嫌いにならなくてもいいこと
本当に困った時に助けてくれる人が、思った以上にいないこと
しかし自分のことを分かってくれたり、認めてくれたり、あるいは叱ってくれたり、救ってくれたりする人が、たとえ瞬間的だとしても、確かに存在すること
丁寧な人間関係
世の中で「正しいとされること」が必ずしも正しい訳ではないこと
たくさんの夢と希望と野望を抱えて上京してきたあの春から、4年が経とうとしている。
いま、卒業を前にして、私はいくつの夢を捨て、希望を失い、野望を諦めただろう。
考えると虚しくなるくらいには、だ。
オシャレなレストランやカフェで働きたかったけど軒並み落ちて、ようやく受かったバイト先はブラックだと友人に教えられた。
思えば変な雰囲気が漂っていたけど、初めてのバイトで何も分からない私は普通に頑張った。
別のところで働いている友人の話を聞いて初めて、半畳ほどの狭いロッカーで立ったまま賄いを食べることが当たり前ではないと知ったし、「誠意」を示すために30分前に出勤したり閉店後3時間も残る必要なんてないことを学んだ。
3年目まで頑張って、辞めた。
旅先から思い切って「辞めます」と店長にメールをした後、連れていかれた深夜の喫茶店で、辞める理由を問い詰められて叱責されてる間、とにかく泣きながら黙って耐えた。
計画では片手間にやろうとしていたサークルにしっかりハマって、部長もやった。
いろんなことを後回しにして、蔑ろにした。
中学からの趣味を続けようと思っていたけど、サークルのほうが楽しくなって時間もお金も回らなくなったから、就活を理由にして辞めた。
本当は就活なんてまだまだ始めていなかったのに。
そんなサークルも同期と揉めて、辞めた。
4年になってからはそれこそ就活が始まったけど、一度ビックサイトに行って遠すぎるし交通費もバカにならないので合説に行くのは基本的に止めた。
志望している企業の説明会や講演にはそれなりに通って、だいたいどこの説明会でも同じ内容を繰り返してるんだってことを学んだ。
座席は先着順だったので、2時間前に行って一番前に座るぞと意気込んでいたけど、普通に遅刻した。
最前列ではなかったけれど、ずっと社長に向かって「採用してくれ」ビームを出した。
講演が終わった後、スカウトされてしまうのではないかと思ったけど、当たり前に私に目もくれず退室していった。
力みすぎて背中が痛かった。
社長がランニングで肌を焼いて採用されたと話していたので、それ以降もサークルに打ち込んで、思う存分肌を真っ黒にできた。
締め切り当日の夜9時、私はまだESを書き終わっていなくて、立川のバーミヤンで必死に空欄を埋めていた。
まさかのペンのインク切れ、かつ準備が悪いので予備のペンなど持っていなくて、慌ててバーミヤンを出てローソンでボールペンを調達した。
またバーミヤンに戻るのも面倒だったので、残りは郵便局で書こうと思ったのだが、立川郵便局がまさかの臨時休業。
本来なら宛名などを書くためのカウンターで立ったまま必死に手を動かしながら、隣の男の人が同じ企業へのESを書いているのをチラ見した。
もしあの時インクが切れていなかったら、0:00ギリギリまで立川のバーミヤンにいて郵便局が開いていないなんて気づかないで、間に合っていなかったと思うと、神さまはいるんだろうと思う。
びっくりするぐらい何も話せなかった。
神さまはいるけど、実力が足りなければどうしようもない。
今は、たくさん落としてきた単位を回収するべく、4年間で一番一生懸命、大学に通っている。
4年生は私だけ、という授業がたくさんある。
ちゃんと聞くと面白い授業がたくさんある。
レポートにテスト勉強と、やることもたくさんあるんだけど、ちょっと休憩したくて、初めてますだを書いている。
これまでの4年間を振り返っている。
気づけば何も残っていなくて、私の4年間は何だったんだと思うことがある。
Facebookでバイト先の後輩や社員から花を贈られて笑っている友人の写真を見るとき、Twitterでサークルの仲間たちと旅行先で笑っている友人の写真を見るとき、Instagramでオーストラリアにて念願のスカイダイビングをしたという友人の写真を見るとき、昨日の綺麗な夕陽の写真ぐらいしかアップするものがない私の日々は、何だったんだと思うことが。
すべてに意味がある、全部無駄ではなかった、ということにすることもできると思う。
そしてもちろん、すべてが無駄だった、ということにすることもできる。
本当は、意味があってもなくてもどっちでもいいし、無駄でも無駄じゃなくてもどっちでもいい。
ただ、私は4年間を過ごした。
最高の4年間でも、最悪の4年間でもどっちでもいい。
価値を決めることは楽しいかもしれないけど、というか、そうやって序列を決めることで安心できる人もいるかもしれないけど、そんなことをする必要は全然ない。
大事なことも、矮小なことも、駄目なことも、幸福なことも、楽しかったことも、嬉しかったことも、悲しかったことも、悔しかったことも、辛かったことも、全部、ごまかさずに、何かの価値の中にまとめてしまわずに、なるべくそのまま持っておきたい。
分かりづらいと思うけど、それが、私が大学生活で学んだことだと思うし、得たことだと思う。
学ばなくてもいいし、何も得なくてもいいけど、4年も過ごしといて何だったんだって思っちゃう自分を励ますために、強いて言うなら、そうです。
小学生から高校生のあいだ、夏休みや冬休み、春休みに祖母の家によく泊まりに行っていました。
祖母、祖母と仲良しのおじさんと3人でご飯を食べに行ったのを覚えています。
祖母と仲良しのおじさんも連絡が取れなくなり
6年前から、デイサービスを週に数日間利用することになり落ち着いてきたと思っていましたが
事態を重く見て、老人ホーム的なところで住み込みで面倒を見てもらうことになりました。
それが、3年近く前のお話です。
月に1~2回ほど顔を出して、少し会話をしたり
施設には他の入居者のかたもいて、仲良く話す祖母の姿を見て安心していました。
一昨年の夏のことです。
祖母が体調不良を訴えて、入院することになったと連絡がありました。
検査の結果、ガンを患っていることがわかりました。
体調不良の原因はガンが悪さをして、ある器官の動きを妨げているというものです。
また、高齢であることもあり、ガンの治療はかなり難しいと先生から言われました。
そのためガンの治療ではなく、問題のある部分に対して暫定的な処置をするという形をとりました。
ガンの転移もあり、たくさん苦しい思いをしていたんだと思います。
私や家族の名前を忘れてしまっても、自分の子供や孫が来たことを認識して、喜んでくれて
施設で行われていたクリスマスパーティーにも参加して
皆と一緒に歌を歌ったり、ケーキを少し食べたり
本当に嬉しかったです。
退院まえには先生から『ハッキリとは言えないが、年明けくらいまでの命となるかもしれません』と言われていましたが
それ以外で問題のある症状が落ち着いたら、施設に戻す流れをとっていました
やがて年が明けて、誕生日も迎えて…。
施設に行ったら、祖母は部屋でひとり、布団をかぶっていました。
あの日は寒かったので、布団を被っていたのかな?と思って聞いてみたら
『そんなことはないわよ~』と答えて
母が、じゃあ顔を見てもいい?と聞いたら
『どうぞ~』と言っていて
顔を見たらいつも通り元気そうでしたが、少し熱っぽかったのを覚えています。
症状としては前回と同じだけれど、もう体力がかなり衰退してしまっているとのこと。
お見舞いに何度か行ったけれど
ある日、お見舞いに来た直後に
その時点で私は涙が止まりませんでした。
その後、母や兄と交代して家に戻って、父の身の回りのことをしたり…。
夕方ごろ、病院にいる母から連絡があり、そろそろ危ないかもと 言われて父をつれて病院に行き…。
午前中は少し苦しそうだった祖母でしたが、夕方には眠っているかのごとく少しずつ呼吸をしていました。
母のみ残り、家に戻って少ししてから、祖母が他界した旨の連絡をもらいました。
今思えば、最後に交わした会話がお布団にくるまってるときの会話なのですが
とても穏やかな語り口だったのが忘れられません。
ほぼ3年ぶりの帰宅です。
葬儀のために斎場に行ってしまうまでのあいだ、日替わりで家族が来て、お線香を絶やさないようにして過ごしています。
今日は、私の番です。
葬儀が終わったら、部屋の整理をして退去の手続きをしなければいせません。
施設に入ることになった3年前のままでした。
そして、家のいたるところに私やほかの人が贈った、旅行等々のお土産を大切に飾ってくれていることを知りました。
20年前、一緒に熱海に行った時におそろいで買った人形があったり。
また、私が祖母に送った手紙(運動会に来てね!というお知らせと、ポケモンやたまごっちのイラスト)も残っていました。
私は何も恩返しできなくて、本当に申し訳ない思いでいっぱいです。
祖母の棺のある部屋の隣の部屋で寝てもいいよーと言われましたが
同じ部屋で、隣で眠っていたいので、隣に布団を敷きました。
前に泊まったときだって、祖母の隣に布団をしいて眠っていましたから。
この半年くらいは
ほぼ毎週祖母に会いに行ったり、郵便物を代理で受取りに行ったりしていましたが
葬儀が終わったら、もうぱったり、そういうことも出来なくなる(する必要がなくなる)んだと考えると
虚無感というか、喪失感というか…。
とにかく寂しいです。
とは言え、祖母は今までたくさん苦しい思いをしながらも
精一杯頑張って毎日を過ごしていて
天寿を全うできたのだと思います。
天国からいつまでも見守ってくれて、心のなかで会話が出来るのだと考えることにします。
おばあちゃん、今まで本当にありがとう。
今日は久しぶりに泊まりにきたから、二人でゆっくり過ごそうね。
おやすみなさい。
Twitterに毎日貼りついてます。使ってるクライアントはTweetDeckです。なんかツイッターが好きというよりはTweetDeckが好きなんじゃないかという気もしてきてる。TLが細くて140字がいい感じに詰まって見えるのがかっこいいと感じてるのかもしれない。あとNotificationsとActivityを見るのも好き。僕はファボ魔なんですが、ふぁぼ魔はふぁぼ魔を引きつけるらしくて、NotificationsとActivityがえらい活発です。誰かが書いたものを見るのも楽しいですが誰かのふぁぼを見るのも楽しいです。ところでぼくはいいねを頑なにふぁぼと言い続けている人です。5chとかも「今はなき2ch」みたいな言い方をします。あるいはしれっと2chとか言います。
2chで今よく見てるのは小説家になろう系スレ、VOICEROID関連のスレ、ラーメンスレ、お気に入りの漫画スレ。VIPやなんJにもたまに行きます。なんJはすぐに落ちます。VIPは速度だけ見るといい塩梅のまったり感があります。しかし荒野とは言いませんがかつての勢いは欠片も残っていません。それでも書き込んでしまうのは習慣だからです。VIPでゲーム制作とかしてる人たちをウォッチしています。僕と君の夏休み。姉は一級建築士。楽しそうですね。
はてなもつい見てしまいます。ほぼ無意識にはてなのトップページを開いてしまいます。完全に無意識にしてやられています。最近ツイッターのアカウント名を改名なさったふろむだ先生は無意識の活動を洗練させるとつよいみたいなことを言われてましたが、はてなを開いてしまう無意識というのはどう考えてもだめです。はてなに無意識を支配されてしまった哀れな人間です。人間というのもおこがましいかもしれません。
google検索よりもはてブ検索を使うようになってしまったくらいにははてな好きです。http://b.hatena.ne.jp/search/text?safe=off&sort=popular&q=、これを辞書登録しています。末尾に検索したいキーワードを付け加えたり、URLの冒頭にこれをはっつけて検索すると、楽しいです。ブクマダイバーより楽ちんです。個人的にはタグ、タイトル、本文全部のせのはてブ検索ができるようになるといいなーと思っています。ふつうにできるのかもしれません。はてブはストック的に活用するとまた違った地平が見えてきます。すごい偏ってそうな地平ですね。
増田はホッテントリ入りしたのしか見ません。素の増田はしんどいからです。なんjや今のVIPを見るのよりもしんどい。なんでかはわかりません。
過去に一緒に仕事した人の中に、地方のワンゲル部出身だった人がいる。その人は海で釣った魚を自分で捌いて食うのが趣味だった。無人島に一人で何泊かしたり、一週間連続風呂に入らないで爪真っ黒で会社に来たり、居酒屋で刺し身喰ってみんな食中毒になったのにこの人だけ平気だったりとちょっと変わった人だった。無人島の話を聞いた時に、学生だった頃ゼミの先輩が探検部だった事を思い出した。この人が言うには「W大探検部は突き抜け過ぎて有名ですよ、憧れてました」というくらい凄い部らしい。確かに死者も出したしな(後述)。
探検部の先輩の話はすごかった。中国の少数民族の自治区に行った時は、日本のパスポートではまず入れてもらえないから偽造パスポートで入って、でも出る時は少数民族のパスポートでは出る理由を尋問されてバレるから日本のパスポートで出ようとしたんだけど、入境した記録がないからしばらく拘束されて大変だったとか、当時まだ鎖国してたラオスに入った話とか、ゲリラと一緒にマシンガンを撃ってきたなんていう自慢もしていた。「英語で"Hello"なんて言った日にゃ撃ち殺されるところもあるからな」とも言ってたけど流石に盛ってるだろそれは。
という話を同級生のTにしたところ、「俺もすげー探検部にお世話になってる」と言い出した。こいつはカヌークラブ(だったかな?)だったんだけど、こいつも異常だった。子供の頃からの夢が「アマゾン川をカヌーで下ること」だったといい、カヌークラブに入ったのはカヌーの技量を身につけるためで、探検部にしょっちゅう顔を出して過去の先輩がアマゾン川に行ったときの情報を勉強させてもらって、この前の夏休みにペルーに行ってきたところだという。
この話の数年後、"ペルー早稲田大学探検部員殺害事件"が発生する。Tが殺されていたかもしれないし、逆にTが探検部に提供した情報が彼ら被害者の興味を惹きつけてこの事件が起きてしまったのかもしれない。もちろん事件で悪いのは加害者だし、Tがしたことに非があるとは思っていない。そのTの話がとても興味深いものだった。
彼はペルーでの日々を日記に書いていた。俺はそのコピーを一部もらっていたのだが、残念ながらなくしてしまった。おそらく実家の引っ越しの時に捨てられてしまったんだと思う。もしTかこのコピーを持っている人がこれを見たら是非連絡してほしい。次の話から当時の記憶を頼りに少しずつ書いていこうと思う。
同じアパートに住んでた幼馴染、Aちゃんと妹のBちゃん
めちゃくちゃ可愛くて大好きだった。本当に好きだった。Aちゃんがだいすきだった。
Aちゃんのおばあちゃんが習字教室をやってて、そこに一緒に通わない?って誘われて、幼稚園の時から行くことにした。毎週土曜日、13時くらいから15時くらいまで。AちゃんとBちゃんが前の席、私は後ろ。
よく考えなくても当たり前だけど、私だけ他人。AちゃんBちゃんは大好きなおばあちゃんから教えてもらえて、楽しそうだった。私にとっては知らない人だから、すごく緊張した。けど行き始めたし、Aちゃんが大好きだったから通い続けた。
おばあちゃんからしたらそうなるのは当たり前だけど、私よりAちゃんBちゃんをよく見て、指導して、ひいきした。私は放置が多くて、おばあちゃん!増田ちゃんもみてね!とかAちゃんが言ってた。でもしょうがないよね、先生から見たらAちゃんBちゃんは可愛い孫、私は他人なんだよなって子どもながらにぼんやり思った。
習字教室は学区外にあった。通い方は、私は鍵っ子だったので自転車で来て帰る。雨の日は1時間とかかけて歩いて行く。AちゃんBちゃんはお母さんによる車での送り迎えがあった。
初めは気にしていなかったけど、小学校6年間それが続いたのはけっこうつらかったんだと思う。
AちゃんBちゃんは小学校入る前くらいに大きな一軒家に住み始めた。庭のある大きくて綺麗なおうち。おとうさんの趣味だという豪華なキャンピングカーなんかもあった。お金持ちだ。
対する我が家は当時はかなり珍しい共働き。ずっと鍵っ子だった(クラスに鍵っ子は私だけだった)。しばらくアパート住まいだったけど、お金が無くなったり色々あって、恐ろしいほどぼろぼろな平屋に引っ越した。風が吹き込み、トイレのドアは薄くて変な木で出来てて勝手に開いた。毎日サバイバルな生活ができる家だった。狭くて、二段ベッドの上しかパーソナルスペースがなかった。でもその家は好きだった。夏休み、毎日庭でひまわりと一緒に過ごせたから。
普段遊ばない友達が家に来たいというのであげたら、その子は偵察部隊で、うちのボロ屋をたくさん観察して、帰ってお母さんに報告して、私のぼろぼろのおうちの話は一気に広まった。そんなことするひともいるんだなと思った。
AちゃんBちゃんはすごくかわいい。本当に可愛くて、いい子で、大好き。おばあちゃんにも愛されてて、習字の後の筆もお湯で洗ってもらえる。私は他人だから洗ってもらえなくて、たまーにAちゃんが増田ちゃんの筆も洗おうよって言って、洗ってくれた。でもほんとうに申し訳なかったから、大丈夫だよ、家で自分でやるよって断ってた。家はお湯が出なくて、水で洗うから冷たかった。
雨の日、かさをさして歩いて帰るけど、小学生には習字道具が重かった。AちゃんBちゃんは車でばいばーいって私に手を振ってくれた。家の方向が真逆なので、私も手を振って別れた。早く帰らないと寒いし、重いし、冷たいし、風邪を引いてしまう。雨はしとしと降り注いだ。
おばあちゃんの家にはおじいちゃんもいて、そのおじいちゃんは明らかに私に気を遣ってくれた。帰り際、私にだけこっそりぽたぽた焼を渡してくれたり、ある時はナイショで自転車の後ろに乗せて家まで送ってくれた。すごく優しかった。
Aちゃんは私にもいつも声をかけてくれて、優しくて、可愛くて、お菓子もくれて、きをつかってくれてた。おばあちゃんも、きちんと習字を教えてくれた。そのおかげで今綺麗な字を書けている。おじいちゃんも、ほんとうにすごくやさしかった。
そのはずなのに、その頃のことを思い出すとぼろぼろ涙が出てしまう。大好きなAちゃんとの思い出がたくさん詰まってるのに。いろんなお話も出来て、楽しかったはずなのに。
帰路、なんであんなに泣きながら帰ったんだろう。
Aちゃんちはお母さんがむかえに来て、お休みの日は家にお父さんもいたけど、なんでうちはお母さんの休みの日はなくて、お父さんは週に一度、木曜日20時から10分、宅配の仕事の合間にしか会えなかったんだろう?
がんばっておしごとしてたんだからしかたないじゃん。お父さんのせいじゃないでしょ。私ががんばって我慢すればよかったじゃん。全然会えなかったけど、どこにも出かけられなかったけど、みんな休み明けにお土産くれる中一度もおかえしできたことないけど、仕方ないじゃん。グアムのお土産とか貰いっ放しだったけど、夏休みは家と近くの公園を行き来してたけど、しかたないじゃん!
誰も悪くないよ!だれもわるくない!習字のせいにするのやめろ!悪くないじゃん!悪くないのに
そうやって人のせいにする
そういうところ よくないよ
あなたの自己肯定感は全くない、もしくは著しく低い。最近、そんなことを言われた。
みんな悪くないのに、この話が原因かもなんて思ってしまう。今思い出しても涙が止まらなくなる。悪いのはこういう解釈しかできなかった私。みんなごめんなさい。元気になローソン。
生きているのがしんどいと思い始めて、多分だけど15年とか経っている、ちょっとした消えたがりの散文が、つらつらと下に書いてある。
時間がある人はちょっとだけ読んでほしい。そして何か、少しでも意見が欲しい。いろんな考えが知りたい。でも、かなり怖い。
いや、読むのは時間を持て余した人だけでいい。かなり端折って書くけれど、15年くらいの時間を書いていく。きっと恐ろしく長くなる。なんか流行りだからここに書いたけど、きっと読む人は片手ほどで、その中でコメントを残す人を期待するのも間違っているんだろうけれど。なんてったって散文だし読みにくい。
でも、誰でもいいから話を聞いてほしい。私かうすればよかったか、これからどうすればいいのか。無責任で構わないから教えて欲しい。
初めて消えたいなと思ったのは5歳くらいだったと思う。6歳だったかもしれない。
親の都合で転園してきた先で同じ園の女の子に仲間はずれにされた。
ぼんやりとしか覚えてないけど転園する前も、仲良くしていたのは女の子ひとりと男の子ひとりだけだったから、昔からあまり好かれるような子じゃなかったんだろう。多分、すごく生意気な子供だったから。
みんなが可愛い、お姫様ごっこセットをつかって、私はなんか地味な、柄のないスカートだけ渡されて、「それもお姫様だから使えばいいじゃん」って。キラキラの、可愛い模様がついたフワフワのスカートを我が物顔でつかいながら、私に言うのだ。
先生が「順番ね」と注意をして、真ん中くらいの順番を手に入れたけど、気づいたら割り込みされて最後になっていた。
私の順番は回ってこなかった。
その時に、私はここにいてはいけないんだなと思った。いる価値がないというか、いる事の方がおかしいと言うか、そんな感じ。転園してきた訳だから、仕方ないけれど。それで、早くここから消えてしまいたいと思った。
あれ持ってきて、これ持ってきて。何かを持ってこないと仲間に入れてあげない。そういうことを言って来る子だった。パシリにされていた。
でも、パシリでもすれば一緒に遊べたから、喜んで従った。あまりいいこととは言えない。けれど、一人で積み木で遊ぶよりずっとマシだった、消えなくてもいいと思った。頼られているのだと錯覚した。
小学校に上がって、ランドセルを買い与えられた。普通の赤色じゃなくて、少しくらい、ワインレッドのランドセル。
母親はなんでピンクとか真っ赤じゃないのって言われたけれど、ワインレッドが可愛かった。ランドセルの蓋の裏が、赤系のチェックでとっても可愛かった。気に入りだった。
パシリはまだ続けていた。というか、パシられることが普通だった。
小学生になって、一緒に登下校をするようになった。
なんで変な赤色なの?って笑われた。
それを「可愛かったから」と言ったけど、それは可愛くない!こっちが可愛い!と言われた。多分、その子達に「センスがない」という判定を受けたんだと思う。
パシリにされてて、さらにセンスもない。なんとなく流れで、みんなよりも立場が下だった。
ジャンケンでランドセルの持ち合いをした時、他の子が負けたらみんなで持ち合いっこするのに、私が負けた時だけ全部持たされて、持つ距離も長かった。挙句、置いてかれた。前に進んでも誰もいなくて、置いていかれたんだと泣いた。おうちも少しだけ離れた同級生の重いランドセル5つを持って、道の真ん中で泣いた。泣いて数分たったら、なんだか自分のことが惨めになって、どこか誰もいない、遠いところに行きたくなった。結局はその子たちが戻ってきて、どうにかなったけれど。
小学2年生になって、夏休みで転校した。どことも知らないところだった。でも、一番長く住んでいたし、今の友達は大学の友達を除いて全部小中高で一緒に過ごした子だ。それまでに比べてとても恵まれていて、いい友達だと思う。一人一人が唯一無二の友達だとおもう。
最初は多分「遠いところから変なやつが来た」っていう理由。それから訛りが違う。あとは真面目ぶってる。オタク(父親の見ていた深夜アニメを一緒に見ていた。デ・ジ・キャラットとか、ギャラクシーエンジェルとか。今でも大好きだ)であること。あと態度が生意気。たぶんこの生意気って言うのは、生意気だという子の都合が悪いことを「誰にも言うな」と言われても担任にチクッたからだと思う。自分があんまりにも理不尽だと思ったことは黙っていられなかった。多分、そういう意味では「いい子」ではなかった。
でも、石を投げられて先生に報告したら睨まれるって、おかしいじゃん。石投げる人の方が酷い。チクった私が悪いのか。
多分悪くは無いんだけど、こどもの世界ではご法度だっただけ。けれど、それがどうしても辛かった。おかしいと言ったら「お前の方がおかしい」と言われてすごく辛かった。ここにいたくないと思った。
親に「ここの学力は低いんだから、90点以上取らないとダメだよ」と言われた。頑張って100点とっても褒められなかった。周りからは「勉強もできるっていう自慢か」と妬まれた。
言っておくけど1番を取れたことは無い。せいぜい10とか20とか。自分ではすごいと思った。100人近くの10、20って凄いじゃん。って。でも親にはそれじゃダメときつく言われた。ちょっと点数が下がったらお小遣いを減らされた。
生きているのがしんどかった。でも頑張らないと、価値がないと思った。
中学に入って、小学校の時みたいな勉強をしていたら、順位が真ん中よりも下の、後ろから数えた方が若干早い場所になった。その時に「さすがにやばい」と思って、塾に入りたいと言った。一人でする勉強に限界を感じていた。
下がった順位を元に戻したら「当たり前だ」と言われた。
中学では部活に入っていた。周りはみんなキラキラしているのに自分だけ見ずぼらしく感じた。部活に入ってすぐ、どうしてかレギュラーに選ばれた。自分は初心者で、周りには小学校の時から続けていた人がいたのに、自分の担当に人がいないからという理由でレギュラー入りした。初心者なりに練習した。練習中、何度も泣きそうになった。でも自分が頑張ることがこれからに繋がるとおもった。最後までやりきったあとに残ったのは「初心者なのにレギュラーに選ばれた変な人」だとおもう。若干避けられてたし、自分も周りにどう接していいか分からなかった。ここで必要とされていないとさえ感じて、練習もサボりがちになった。先輩からは、嫌われていたと思う(練習をサボったから当たり前だ)。同級生からもよくは思われていなかったと思う。
部活で同級生から「〇〇先輩はあなたと同じように生徒会もやって部活もやって成績もいいのに、なんであなたは同じことが出来ないの」と言われた。生徒会が忙しくて休みがちになっていた。そんなの言い訳だと怒られた。それでも暇を見つけて部活に行っていた。それでも怒られた。今消えてしまえば楽だろうけど、消えたら迷惑をかけるなと思って、最後まで頑張った。意地汚く残り続けた。高校進学は「〇〇高校の□□学科じゃないと、ご飯作らないから」と言われた。当時、高校の授業料は無償化されていたから、ご飯を作らないになったのだろう。端的にいうと「親の希望に添えなかったらお金は渡さないし育てないから」といわれたのだ。必死になって、どうにか合格した。合格したけれど、自分の学力じゃ、高校の勉強は厳しいなと感じた。もう一つの学科が自分のレベルに合っているとおもった。でもそこでは絶対にダメなのだという。辛くなるんだろうなと感じたけれど、それでも合格したのだから通うと決めた。
高校に入って、それなりの地位をもてたと思う。部活は変わって、生徒会には入り続けた。その部活がいわゆるパソコンをいじる様なもので、関連分野で色々頼られた。今度はパシリみたいなのではなく、よく巷で話題になる「絵をかけるならちょちょいっと描いてよ」の類でもない、本当の意味での「頼り」だった。
得意分野を持つということは自分が自力で立つことのできる力であると、その時感じた。普段だったら近寄れない、スカートを曲げて薄く化粧をした、クラスの人気者と話せる。そういう立場をその時手に入れた。
多分、高校生の時が一番、生きていて楽しかったと思う。みんなが私のことを知っていた。それに対する恐怖もあったけれど、決してマイナスではない視線は「自分はここにいていいんだ」と思える自信に繋がった。
大学は推薦で入った。センター前に決まって、受かるとは思わなくて、とても喜んだ気がする。
クラスメイトに合格を伝え、「あの〇〇か!?」「嘘ついてるわけじゃないよね!?」と言われながらも喜んでくれた。学校の先生もとても喜んでくれた。自分の妹も、私よりも喜んで泣いてくれた。
母親に合格したことを報告したら、おめでとうよりも先に「お金がかかるなぁ」と言われた。
正直なところ、大学に進むことについては消極的だった。高校に入った直後は専門学校に入りたいと思っていた。でも父親は「進学するより働け。進学するなら国立じゃないとだめだ」と言われた。だから専門学校を諦めた。中学生の予想通り高校の勉強はつまづいてしまって、学科では後ろから数えた方が本当に早いくらい、勉強はできなくなっていた。どれだけやっても勉強が伸びなかったから、早い段階で部活にシフトチェンジした。そんな経緯があったから、大学は行かないで高卒で働くかなとなんとなく思っていたら、母親が「高卒で働くより大学に行ってほしい。私立じゃ学費は出せないけれど」と言ってきた。これに逆らうとまた何か言われるんだろうなと思って、とりあえずやるだけやってみることにした。でも、勉強はできなくなっていたから、模試はどこも最低判定。ただ、推薦でチャンスがあるところがあったから、一かバチかで受けてみた。これでダメなら学力じゃ到底叶わないから、就職をしようとおもった。部活の成績がよかったから、それで受けた。
そうしたら受かった。奇跡だと思う。なにかの間違いじゃないかと思ったが、それでも受かったら嬉しかったのに、おめでとうもなく「お金がかかるなぁ」しか言われなかった。
誰が国立に行ってほしいと言ったのだと、その時は悲しくて悲しくて仕方がなかった。
こんなの傍から見たら「親の言う事しか聞いていないからそうなる」と思うのだろう。私もそう思う。
けれど、高校受験の時に「お金出さないよ」といわれ、大学受験に「国立しか認めない」と言われ、受かったら「お金がかかるなぁ」。反抗するなら自立しろ、親に頼るな。
それでは何をすれば良かったのだろう?
奨学金は申し込まなかった。心のどこかで受からないなと思ったし、親の収入などの関係で、ほんの少しだけ規定より上回っていたから受かるわけもなかった。し、なんとなく大学に入れても、やめてしまうかもしれないなと思ったのもある。とにかく奨学金は取らなかった。だから親に学費を払ってもらうことになる。お金がかかるのは、百も承知だった。
でも、まさか「合格おめでとう」よりも先に「お金がかかるなぁ」だなんて。なんだか悲しくなった。受けるのをやめた方が良かったのではないかと後悔した。
何より、ひたすら「お金がかかる」とい割れるのが嫌で、消えてしまいたくなった、なんのために頑張ったのだろうと、ひたすらに悩んだ。
大学に入るまで、そして入ってからもお金がかかると言われた。言われ続けた。
大学に入ってしばらく経った頃、仕送りが勝手に減らされた。1万円も減った。バイトをやりながらも結構ギリギリで頑張っていたのに、なんの前触れもなく減らされた。
なんで仕送りを勝手に減らしたの?せめて減らすなら前もって言ってよと親に言った。そしたら、「元々この金額だったでしょう?」といわれた。頑張って節約しながらも生きていたのに、あたかも「余分にお金をねだっている」風にされたのがひどく苦痛だった。
その年の夏、節約しなきゃとおもい、電気代をとにかく節約した。外に出るようにしたり、電気をつけなかったり冷房をつけなかったりした。
その月の電気代は1,500円もしなかった。
こんなに節約頑張ったよ!と母親にいったら、「もっと節約できるでしょ」と言われた。
電気をつけず、テレビもつけず、パソコンもつけず、ご飯はまとめて炊いて冷蔵庫に保管して、一瞬だけ電子レンジでチンする。冷蔵庫も止めてしまうと食べ物が保管できないから。そんな最低限だったのに、もっとと言われた。
馬鹿らしくなった以上に、親から私は「ただただお金のかかるダメな長女」だったのだろう。お金がかからなければかからない方がいい。そんな認識だったのだろう。
こんなに頑張っても文句を言われることに、自分が生きている意味とはなんだと問いたくなった。
答えは出なかったから、ただただ消えたくなった。
どう生きていてもお金がかかると言われて、生きているのがしんどくなった。我慢するのがバカバカしくなった。
バイトはしていた。学校に慣れるまで、夏休み前後から始めたいといったら、それでは困ると言われて5月くらいから始めた。バイト先の先輩に厳しくされて、辛いと嘆いたら「みんなそんなもの」と取り合ってくれなかった。辛かった。
そういうことも含めて、たまにTwitterで愚痴を呟いていた。愚痴をいうと今まで仲良くしてくれた人が、なんでも話せた人達が「自分の方が辛い」と言い始めた。自分の方が不幸合戦が始まって、私の「つらい」が軽くあしらわれた。次第に愚痴を言えなくなった。私だけ「辛い」が軽くあしらわれるのが辛かった。
頑張って大学に通った。頑張ってレポートを書いても単位が取れなくて、好んでとったパソコン系の授業を始め、授業に出ると頭痛が激しくなったり、気分が悪くなったりした。1年間くらいだったと思う。でも、お金をかけてもらっているから行かないといけないと、頑張った。
しばらく立って新学期になった。自分の妹が私立の大学に入った。
どうして?という気持ちがすごかった。父親が許したのかという疑問もあったのだが、早々にほかの選択肢を諦めた私とは違って、妹は頑張って説得したんだなと思ったら、それは認めてあげるべきだと思った。合格したことは喜ばしいことだし入学も喜ばしいから、合格おめでとうと、素直に伝えた。
しばらくして、父親は入学を許していないということが分かった。それで父親に「お前も加担したんだろう」と責められた。私は何も知らなかった。
なんで私が責められているんだろうと、つらくてつらくて。消えてしまいたいと思った。私から奪われた仕送り1万が、妹の入学金や学費になるんだなと思うと、なんとも言えない感情が湧き出てきた。
しばらくして両親が離婚すると言うことを伝えられた。どう思うと聞かれて、私が何か言ったところで何か変わるの?と答えた。冷たいなとも思ったが、私は私でそれどころじゃなかった。
学校に行けば嘔吐と頭痛を繰り返して、正直もう限界だと思っていた。
「離婚とともに破産すると思う。妹の学費や母方の生活費は払えなくなるが、お前の学費と生活費だけは出してやるからな」
素直に喜べという方が無理だ。体調不良等でまともに単位も取れなくなっていったのに、どうして喜べるのか。それが決め手になって、学校に行かなくなった。休学届けを出して、今はアルバイトだけやってる。
両親から連絡が来るだけで胃が痛む。学校に行けない自分が社会に出てもやっていけるとは思えない。大学の友達とは疎遠になっているとおもう。ただたまに道ですれ違って、名前を呼んでくれて、元気?と声をかけられると、いい人と友達になったなと思う。同時に、こんなダメな人間が友達でごめんねとも。
高校までの友達は「そのまま社会に出てもやっていけるよ」という。でも、日本の会社というのはおおよそブラックだと思っているし、そんな所に行ってしまったら自分は生きながら死んでしまうのだろうと思う。きっといまのオタク趣味もままならない。二次創作をする時間もなくなるだろう。そうやって仕事に謀殺されて、私は私でいられるのだろうか。
そこまで考えて、今までの人生の中で、私が私でいた瞬間とは何なんだろうと思った。
私とはいったい何なんだろうか。
私が生きている意味とは。
なんでこんなに必死になって生きているのか。
辛いという言葉は、私の方が辛いで潰されて、楽しいことなんか二次創作を始めとしたオタク趣味ばかりで、そのオタク趣味すらも、今じゃ疎外感を感じている。自由に慣れていたはずのSNSは、現実と同じように苦しいものになっている。
辛いと思うことも軽んじられ、ひたすら金がかかるといわれ、遊びに行くと贅沢だお母さん達は頑張ってあなたに仕送りをしているのにという。
私はなんのために生きているのだろうか。
こんな生活、生きているというのだろうか。
ただ呼吸をして、心臓を動かして。ただそれだけ。
生きているのがただただしんどい。早く死んでしまいたいとすら思う。でも死ぬとお金がかかる。親が困る。周りも困る。
ある日母親に言われた、「お父さんはあなたを生んだ時に『なんで生んだ』といったのよ」と。
ひたすらお金がかかると言われて育って、なぜ生んだと言われたと言われる。
「なんで私のことを産んだの?」とは言えなかった。「産まなくてよかったのに」とはもっと言えなかった。言ってやりたかったけど、それを言ったら家から追い出されると思ったから。
私は「そう」とだけ返したのを覚えている。いつ、こんなことを言われたのかなんて、細かい年は覚えていないけれど、そういうことを言われたということだけは鮮明に覚えている。
私は
どうすれば良かったんだろう。
何をすればもっと前向きになれたんだろう。
何をすれば「頑張ったね」と言ってもらえるようになるんだろう。
毎日生きているだけでも精一杯なのに、もっともっとと周りはいう。頑張ることが当たり前。
でも、私はまだ頑張ってないんだと思う。恵まれているのだ。奨学金を借りずとも大学に行けたのだから。好きなことをやれているのだから。
世界一不幸だと思うな。世の中にはもっと不幸な人が、辛い人が沢山いる。
みんなそう言う。私のつらいという気持ちを無いものとして。みんなそういうのだ。
生きていることの何が楽しいのだろう。
生きるなんて、辛いだけじゃないか。
早く誰か、私を殺してほしい。
金だけかかって、だれの期待にも応えられない私を早く殺してくれ。
生きているのがただただしんどいということすら認められない世界なんか、壊れてしまえばいいのに、世界はそれを許さない。それなら。私を早くこの世界から追い出してほしい。
早く私を殺して欲しい。早く殺して。早く。こんなに辛いのに、世界は生きれという。お前はまだマシだと。
元旦那が事業に失敗して借金作ったから、お金も貸したりしてたし、向こうの仕事も手伝ってた。
なのに私に彼氏ができたら手のひらを返された。
今までもらってなかったけど養育費なんとかできないからと打診したら。
自分が困って都合がいい時だけ連絡してきやがって
子育てなんかお前してない、おばちゃん(※母)が育てたんだ
しつけもできない子供に育てやがって
子供がこの年から独立したいといってるのは、お前に邪魔だと思われている証拠だ
養育費も払わんとは言わん、払うならおばちゃんに払う
と。
たまにしか連絡してこないのは元旦那の方で、一か月以上連絡がないこともあったし、
夏休み泊りに行かせたら、子供たちほぼ自炊させられて一週間泊りのはずが4日で帰ってきた。
中高生男子が将来家を出て独立したいというのは普通の考えかと。
払うなら母に連絡するといったが、母の方には連絡なし。
私の10年はなんだったんだろうか。
一人で二人の子を育てるのは大変だった。
職場に理解があって育てるのに必要な給料はいただいていたけど、
家事や育児も母に全面的に協力してもらっていたけど、それでも楽ではなかった。
やっと子供が手から離れて、次の相手が見つかって、それの何が悪いのか。
半年前、彼氏ができたと聞いた、元旦那の母親から電話がかかってきた。
それ以来、連絡はない。
いつまで縛られていなければいけなかったのか。
少しは私の立場も分かってくれると思っていた元旦那の母親ですら、こんな。
離婚しても縁を切らずにやってきたのに。
周りの人は、そんな奴だったんだ、子供が子供なら親も親、諦めろという。
何度もフラッシュバックして泣くと、まだ泣いてるの?いい加減にしたら?と。
子供に連絡とらなくなったのも、きっと私のせいにしているのだろう。
子供になにもしないのも、きっと私が悪いってことになってるのだろう。
元旦那を殴り倒したくなる気持ちを手放せる日はくるんだろうか。
パパに会えないこともあんな人だし別に会いたいとも思わない、と。
しゃーないやん、と。
それよりも日々楽しく過ごせたらそれでいいって。
最近、小学校が同じという人と出会って忘れていたことを思い出した。
小学校の頃の事はあまり記憶になく、その人もかなり若い子なので何か共通の話題あるかしらと記憶を探っていたらそういえば私誘拐されそうになった事があったんだった。
夏休み学校のプールに行く途中、後ろから羽交い締めにされて、可愛い顔してるね、と耳元で言われてなんか人生終わった!って思ったら一緒にいた友達が大声で叫んでくれて、
その途端、その途端誘拐犯?が手を離して逃げた。
本当に足が笑って動かなかったけど兎に角なんとか走った。
近くの公園に行ってやり過ごして、
担任の先生に色々聞かれて家に連れて帰って貰っておまわりさんにも何か聞かれたような気がする。
別に記憶を封印していたわけじゃないし偶に思い出して友達に誘拐されかけた事あるよ!とネタにして話してたと思う。
でも、今日、あれ、あんまり小学校の時は何してたか覚えてないのとか、引っ越ししたのとか、母が過干渉だったのとか、もしかしてこのせい?と、今日ふと合点がいった。
そう考えると大したことない事件だけれど確実に私の人生に影を落としていたんだなとわかった。
会社から帰って来る途中あのまま死んでたかもとか、誘拐犯じゃなくていたずら目的だったらとか昔のことなのに頭の中がぐるぐるしてる。
なんかどうしていいかわからないからダイエット中なのにチクワの磯辺揚げとポテトチップスという禁断の食物食べて自分を落ち着かせた。
カフェの曲を聴くと初回はとりあえずボロ泣きするんだけど、今回も例にもれなかった。
特に担当でもなんでもないが、とにかくカフェはその存在が涙腺ぶっ壊してくる。
幼少期から高校生くらいまで、周囲から神童として扱われていた。
この時のことはうまく言語化できない、おそらく言語での思考をしていなかったんだと思う。獣と一緒。
いや、見てるものとかは全部一緒だけど、受け取り方にズレがあって、入力は一緒なのに出力が大幅にズレていた。
他人の存在を理解していなかったような気がする。病院行ったらなんか病名付くのかもしれない。
神童というかただのキチガイだということに周囲が気付いたのが高校二年生のときだった。夏休み。
まあすごかったよね。一夜にして神童からキチガイ扱いだよ、特に両親からは化物扱いだった。
何があったのかの詳細はまだ思い出せないんだけど、キチガイがキチガイ理論でなにかしたのは間違いない。
そこから色々10年以上頑張って、なんとか一般人のボーダー一番下に引っかかってるくらいになったけど、やっぱりちょっとズレがある。
ズレていることを自覚しつつ、一般的な反応を覚えている最中。親からはまだ化物として扱われる。
アニマトリックスや人狼(沖浦監督作品)とかは、スゲー大人になってからも、感動したし。
白いガンダム、初代ガンダムもアラサーの時に見て、スゲー面白いって思った。
心がささくれ立ったときには、人狼とか借りて見てみたい気はする。
40過ぎて。子供と一緒に観られるアナ雪とか、ミニオンも見るよ。
アナ雪なんて、すごく興奮しちゃった。。愛は、人から受け取る物では無くて与える物なんだーって。
(自分が小学校の高学年に、家族で風に谷のナウシカを観にいったんだけど、僕の親父は「あれはキリストの復活みたいなもんだな」ってエラそうな口を聞いていて、自分もそんな感じになったなーと思い出した。)
昨年のミニオンなんかも、BGMにマイケルジャクソンの曲を使って、親世代にも受け容れられやすいような中でのキャラ作り、脚本が作り込まれているんだろーなーと想像した。。
だけど、もうさー。
他のアニメもそう。子供の頃に夢中だった高橋由美子高橋留美子作品(うる星やつらとか)も、いまいちだ。
境界のRINNEとかも、何かの拍子でみても、話は、まぁまぁ昭和の頃から変わらないテイストだけどなんか、テンポが合わない。ゆっくりに感じてしまう。
海月姫も漫画では夢中に慣れても、アニメのテンポだとちょっと無理なんだよな。
ネットとか見ても、なんか、ムカつく絵柄のポプテピピックも分からないし。
未だに、ヱヴァンゲリヲン見てないし。。
子供の頃は、クリスマスや夏休み・冬休みのアニメ特集やら人形劇やら楽しみだったけれど今じゃその感性は、ない。
このまま、日本に生まれながらして一大産業の娯楽の良さを分からずに一生が終わりそう。
昔から一人でいることが多かった。
一人でいるのが好きだったし、他人といることはとても疲れた。一人でいても全然暇じゃなかった。むしろやることがありすぎて忙しかった。テレビを見たり、漫画を読んだり、親が使わなくなったパソコンでディグダグやマインスイーパーをした。スーファミのドンキーコング2も64の時オカも何周しても飽きなかった。勉強もかなりやったし、成績が上がるのは楽しかった。
もちろん、友達とも遊んだ。それも楽しかったけど、遊ばなくてもよかった。半日以上他人といると疲れたし、それは年齢が上がるほど顕著になった。高校の時には親が相手でも長時間一緒にいると疲れるようになった。ただ、高校生までは嫌でも毎日誰かに会わなくちゃいけなかった。学校にいかなくちゃいけないし、家には家族がいた。だから、一人でいられる時間は貴重だったし、とても大切にしていた。
それが大きく変わったのは大学に入って一人暮らしを始めたからだった。
本当に衝撃を受けた。
家にいれば誰にも会わないし、学校に行っても知り合いと会わないことは容易だった。そして大学の入学祝いに買ったもらったノートパソコンは無限に時間を消費できる代物だった。はじめて開いた2ちゃんねるは常にスレッドが更新されたし、親の足音を気にして見ていたエロ動画は何時間でも気兼ねなく見られた。インターネットは俺の一人好きを助長した。それは嬉しいことだったし、望んでいた環境だった。大学1年の夏休み、気が付いたら家を出ずに1週間たっていたこともあった。ご飯は宅配で頼んだ。大学で知り合った同級生から遊びに誘われても忙しいからと断ってテレビを見ていた。
今思い出しても、あの頃は本当に充実していた。
そんなことをしていると、時たま誰かに会いたくなる。一人でいる時間を9としたら、誰かに1は会いたくなる。夏休み明けは少しずつ同級生と遊ぶようになった。だんだん仲良くなっていった。そんなことを繰り返していくと、友達ができるようになった。友達と遊ぶのも悪くないなと思った。
大学4年になる頃には、一人でいる時間より友達といる時間の方が長くなった。楽しかった。本当に。
一人でいるときの楽しさと別のものだった。ふと、最近一人でいる時間が少ないな…と思った途端に怖くなった。もし、また一人になったらどうなるんだろう。あの頃のように一人でも楽しめるんだろうか。誰かがそばにいないことを不安に思わずにいられるんだろうか。そんなことを考えたけど、まぁ大丈夫だろうと見ないふりをした。いつだって、そばにいてくれるだろうと思ってた。
そのうち社会人になって、環境が変わった。でも、大学の時と違って一人の時間は少なかった。会社って、本当にずっと仕事してるんだな。一人でいる時間なんてほとんどなかった。真面目だったし、さぼらず一生懸命働いた。そんなことをやってれば、会社の人とは仲良くなっていく。同僚の枠を超えて、友達と呼べるような人たちも増えた。飲みに行ったり旅行したり、いろいろ遊んだ。俺にとって、自分が自分であるのはその人たちと遊んでいる瞬間になった。
その人たちと遊ぶために生きるようになった。
残業も面倒くさい仕事も、友達と遊べるならと頑張った。空いている時間は誰かしらと遊んだ。寝ずに遊ぶことがかっこいいと思っていた。飲みすぎて吐くことがイケてると思っていた。一人でいる時間が少ないことが生きている証だった。
そんなことを何年も続けて、もう30手前。
俺が他人だけを拠り所にして生きてきた中、その人たちは色々蓄えてきたらしい。
全然気づいてなかった。俺には友達しかいないと思った。でも、友達もいなかったらしいことが分かった。俺が自分の人生をかけて仲良くなってきたと思っていた人たちは、他の人と仲が良くなっていた。俺は1番どころか、みんなのランキングにも入っていなかったらしい。
そうか、あれはうわべの付き合いだったんだな。
誰かと遊ぶために思考して、行動していた俺よりも、切磋琢磨している中で同じ時間を過ごしている人の方が仲良くなれるらしい。気が付いたら、俺だけ時間だけ過ぎていて何も得ていなかった。
思い出せば、昔一人でいるときは多くのことを磨いていた。勉強をしたし、絵も描いたし、ピアノもやったし、習字もかいた。運動も一人でできることは何でもやった。そんな俺でも、誰かと会ったときは緊張しながらも話が盛り上がっていたと思う。
どうやらそういうことらしい。
他人を拠り所にした俺には、何も残らない。自分を大切にした人には、きっと色々集まってくる。
無駄な時間を過ごしたと思う。他人を拠り所になってしなければよかった。
お言葉ですが、昨年の夏休みは彼女とは別口でフィンランドに行きました。彼女が一人でハワイに行きたくない…というか夏休みの旅行に誰かと一緒に行きたいみたいなことを言っていたので書いてみただけです。
私の友人に、夏休みは毎年ハワイという人がいる。私は二年前までいっぺんもハワイに行ったことがなかったので、一昨年一緒に連れて行ってもらった。はっきり行って手のかかるツアーメイトだったと思う。米ドルの小銭の区別がつかず、コンビニで小銭を払うときは彼女に財布からお金を出してもらい、お腹を下しやすいので、ウインドーショッピングの最中でも「ごめん、トイレ行ってくる」と彼女の買い物をどれだけ中断させたことか。
まぁ趣味が一緒だったのと、二人だとオプショナルツアーやボリューミーな夕食をシェアできて便利だったので、私的には満足だった。ハワイ経験者なら行き飽きていそうなダイヤモンドヘッドもワイキキビーチも全部初めてだったし。想定外だったのは友人がやたらとお買い物大好きだったことで、しかもお友達からお土産の注文をとって頼まれたものを買い集めるというミッションがあったことだ。おかげで初日はショッピングセンターめぐりが中心だった。噂通りどこの店にも日本語が話せる店員がいて、困っていると飛んできてくれたので不自由はなかった。けど、お買い物ばかりしていると日本で銀座や新宿・渋谷をぶらぶらしているのとあまり変わらない気分になった。
先日も彼女はハワイに弾丸お買い物ツアーに行ったようだ。たぶんそれなりにお買い物は楽しんだと思うけど、一人は寂しかったらしい。私は旅行するなら毎年違う場所に行きたい派なので、ハワイでも別の島に行くなら一緒に行ってもいいと思う。だけどオアフ島でお買い物三昧だけだったらもういいやと思う。ハワイ自体は日本人だらけで定番の旅先といえばそれまでだけど、案外湿度が低くてさっぱりしていて、海がキレイでいいところだ。だけどどうせ行くなら一昨年とは違う風景を見たいんだよな。
特に夏に旅するなら涼しい北の方に行きたい。彼女の辞書に「行き先変更」という言葉があるなら、私は喜んで手を挙げるんだけどどうしよう?
渡されたのは、氏名欄や期日などの詳細と枠線が印刷されたA5位の大きさの白い紙。テーマは「夏の思い出」。
私はその枠線のあたりに貝やコルクの破片を散りばめて、中央(というか枠以外の大部分)をカッターで切りぬいて提出した。
提出された作品のいくつかがみんなの前に掲示され、さまざまな絵が描かれた紙が磁石でホワイトボードに貼られていく。私の作品ももちろん、その内の1つとなった。
「クリップがついた磁石を使って、ホワイトボードから浮かせて掲示したいんですけど」
と訴えたところ、先生は理由を問うこともなく、私の希望通りにしてくれた。
用紙に穴をあけるなんていうアイディアは他にないだろうと踏んだものではあったけれど、そこに込めた意味は私なりにちゃんとあって、それを表現する結果がそれであって、それをいかすための掲示方法。