はてなキーワード: バラエティとは
オリンピックだけ気取ってこれが日本だ!!ってやるほうが気持ち悪い。
開会式・閉会式は、そうそうこういうことやっちゃうよね!日本!と納得の等身大。
リオの閉会式から違和感はあったんだ。日常で目にする日本のクリエイティブこんなかっこいいのない。
公共性を無視したCMだらけ、子供の頃から変わらないノリのバラエティ、
演技が下手にみえて入り込めない撮影・脚本のドラマ、トップアーティストでもびっくりするくらいダサいMV。
全部がそうと言いたいわけではなくて、ものづくりのピラミッドバランスがおかしくない?
女主人公の仮面ライダーを作れって言ってるやつ、男主人公のプリキュアには文句言いそうだから一切信用できないんだよな……
日本の若年者向けコンテンツの特徴はジェンダーによって分離されていることだ、という大衆文化研究上での常識がある。つまり、「男も女も見る」ようなコンテンツはアンパンマンなど幼児向けのもので終わり、一定の年齢から上の子供たちは「少年漫画/少女漫画」のように男女で明確にカラーが違うものを楽しむことになる。
この分離が良いか悪いかはひとまず措くとして、こうした環境の下で、日本では「男の子向けの戦隊もの・ヒーローもの」に対応する「女の子向けの魔法少女もの」が存在してきた。男ばかりでたまに女も交じる仮面ライダーが戦う横で、セーラームーンやプリキュアといった女だけの戦士たちも活躍してきた。ある意味ではこれは男女平等な環境だったのだ。
それは、表面的に見れば、女児向けコンテンツが不足している国でヒーローものに女主人公がいない、と同じ現象であるかのように見える。しかし、日本には女児向けのヒーローものがあるのだ。個々の作品のジェンダーバランスはいびつかもしれないが、全体としてみればジェンダーバランスが取れている。それが現代日本の大衆文化だ。
男性向けエロ漫画もあれば、女性向けBL漫画もある。女性を客体化した表象もあれば、男性を客体化した表現もある。男の目線で描かれた美少女を愛でるライトノベルがあれば、女の目線で造形されたイケメンに恋する少女小説もある。
個々の作品を見れば、「男性目線だ」と評価しうるかもしれない。でも、その反対側に「女性目線」の作品もあるのが日本であり、全体としてはある種の男女平等が実現されていて、天秤のおもりが釣り合っている。
そういう背景があるのに、「仮面ライダーに女主人公を」なんて言うのは、天秤の片側にだけおもりを乗せようとする行為だ。それは平等とはいえないように感じられる。もしも片側におもりを乗せるなら、もう片方にも同じだけの重さのおもりを置くべきだ。つまり、「プリキュアに男主人公を」だ。
これに反対するのだとすると、それは本当に男女平等を求めての意見なのか? という点が疑わしくなってしまう。だって、天秤の両側は釣り合っているべきでしょう? 天秤を平衡に保つのが男女平等ってことなんじゃないの?
そもそも、ここ最近の仮面ライダーには継続的に女ライダーがいる。それに対して、プリキュアに男プリキュアがいたことがあるのか? いや、キュアゴリラみたいなネタ枠とか、全人類がプリキュア、みたいな話じゃなくて、もちろん、変身バンクがあるレギュラーキャラとして、って意味だよ。ジェンダーバランスを言うのなら、まずはプリキュアの方が糾弾されるべきじゃないのか? まさか、ジェンダーの平等を謳う方々が、男のグループには女を入れるべきだが女のグループに男を入れる必要はない、などとは言うまいね。
ひょっとすると男が「女の親密圏」に立ち入ってほしくない、という素朴な気持ちがあるのかもしれないけど、そういうのホモソーシャルっていうんじゃないの? いちおう言っておくと、「ホモ」は「同じ」って意味だからね。
いや、毎週プリキュア見てるおじさんとしては、別に男プリキュアがいなくても構わないし、プリキュアが女のホモソーシャルでも何も悪くないと思うよ。思うけど、だったら女ライダーが主人公じゃないとだめとか男のホモソーシャルはけしからんとか言うべきじゃないでしょうよ。これそんな難しい話じゃないよね。賛否は別にして理解してもらえるはずだと思うんだけど。
男女平等は大いにけっこうだけど、その実現の仕方にはバラエティというか多様性があってもいいだろう。「すべてのヒーローものを構成員を男女同数に!」だけが男女平等じゃないと俺は思う。「男だらけのヒーローものもあれば、女だらけのヒーローものもある」というのも立派な男女平等の形じゃないだろうか。
それに納得できない、賛同できないってのはまあいいけど、だったら一貫性を持って男プリキュアを出せと強硬に主張すべきだよね。
すべてテレビでならみたことあるし、そのほうがおもしろみや驚きが濃縮されてていいよ。
ユーチューバーがしゃべりから空白を切り落としてるようなもの。あれ息継ぎなくてせわしないよな
実際その場で体験したかって間延びしていて、驚きなんかいまさらないよ。
オーロラなんて2週間キャンプしても30秒しかみられなかったりするし、のこりの1週間と6日と23時間59分はひたすら日本とおなじような空みてるだけのヒマな時間だろ。
野球だってプロだからリリーフカーとかCM中のマスコットキャラのバク転とか応援団(うるせえ)とかの間延びさせない工夫があるけど
宝塚とかお芝居系はまあ物販とか行き帰りの浮かれた雰囲気もそこそこたのしいけど詳しい人と一緒にみないともりあがらないしコロナだし。
外国には4カ国、ん?5カ国か、いったことあるけど、簡単にいえばどこいっても普通の人が普通に暮らしてるだけ。
奇矯な振る舞いをしてたり、「外国人だから奇矯なふるまいをするだろう」と差別的な/あこがれの目でみられたりということはほとんどない。
というか、特段会う人や人としゃべる話題がない点においては日本でひきこもりがコンビニにいけばほぼおなじ体験ができるよ。
レストランで自力で適切なオーダーができたからといって別段感動もしやしない。
長く住んでその店に何度も通うのならオーダーするコツ(ポテト少なめとか)を一生おぼえておいたほうがいいんだろうけど・・
結局どこまでいっても日本のコンビニよりバラエティがあって何を選んでもそこそこ口にあうレストランってないんだよなぁ・・って感じ。
大体においてみんな合理的にポライトリーに暮らしているし、それなら慣れ親しんだ家が一番よね、ってさざえさんみたいになる。
酸職上げ膳据え膳でちやほやされたいだけなら近所のホテルだのカフェーでノマドだのもおなじ。
なんなら英語でオーダーしてみようとすれば中国人かなっておもってもらえて異邦人気分になれるからやってみりゃいい。
美術品だってルーブル美術館だって世界一のダイヤモンドだって結構すぐに日本に巡回しにきてくれるしから日本の美術館でモノホンをみればいい。
鳴門市の大塚美術館にはギリシャのツボとか建物ごとレプリカしたやつもあって堂々と怒られずにベタベタ触れる(陶製レプリカなので傷まない)。
政治や生活状況を全体的に知りたいのなら180カ国に実際に出かけるより、FACTFULNESSという本でもよんだほうがいい。
各国ならすでに住んでる駐在員とか移住者とか留学生のブログもある。(デイリーポータルZの外国ネタがおすすめだけど)
たいした新情報もない、シンプルにエンタメとしての面白さもない告知生放送っていまどき見る意味なくない?
アイマスコンテンツのファンでもよっぽどじゃないと見ないだろ。
スターリットの生放送って、アッと驚く情報とか、毎回恒例のめちゃくちゃ面白いネタ動画とか、声優の生ライブがあるかもって期待を煽れてないっしょ。
延期した発売日迄の間を何とかつなぐために、ない情報を小出しにしてるだろって思われてる。
スタッフがたどたどしくシステムとかをちょっぴり説明して、声優がよくわかってないのに「すごーい」「かわいーい」って言って、ぬるいバラエティ企画を一個くらいやって、っていう典型的な虚無告知生放送なら見なくてもいい。
ニンテンドーダイレクトだって新発売ソフト情報がないと思われて、発売日発表とかシステム紹介だけだと思われるようになったら見る人減るわ。
そのせいで「今期の作品をリアタイで視聴」が出来ない。放送終了後だいぶ経ってからまとめて見る形になってしまう。
それは別に良いんだけども。
正直いってあまりのめり込めない。「消化」してる感が強くなってしまう。
あと、見たい作品がFODでしか配信されてない状態が非常に苦痛。
hulu・ネトフリ・アマプラ・dアニメに課金してるので、これ以上サブスクを導入するのは躊躇われる。
独占配信やめえや。
アニメを見ていない時はダラダラとバラエティやお笑いを流している。だいたいTVer。
それすらも面倒になるとAbemaで百万回くらい見たアニメを流しておく。偶にコメントする(アニメと全く関係ないコメントを)
Abemaで見るジョジョやハガレンや銀魂や幼女戦記はもはや環境映像。
一時期熱心に見てたのは焚き火会の面々の動画。一人ずつ全動画見てた。
今年の9月末に東急ハンズ池袋店が閉鎖する予定です。学生時代にこのハンズで4年くらいバイトしていたこともあって意外と思い入れがありました。建物自体は当時から古いと感じていましたし、中央にエスカレータが鎮座し、階段とエレベーターもあってかちょっと窮屈な店内です。何が目玉かというほどのものではなく、良い意味で雑貨を売る店です。ホームセンターとドンキの中間でしょうか。必要な雑貨からちょっと奇抜なものまである程度揃っているところです。
2年ほど前に一部改装しているらしいのですがそのときは行けてませんでした。今思えばあのときに立ち寄っておけば良かったなと少し後悔。
バイトは大学の夏から3~4年くらい。本当は夏季限定だったけどなんだかんだで就職直前までずっと続いてました。当時のハンズ池袋店は1階が季節物で2階はバラエティ・雑貨が中心。オモチャ、ジグソーパズル、ダーツ、フィギュア、変な時計、ケータイ(スマホ)グッズ、面白系貯金箱、コスプレグッズ、パーティグッズ等が所狭しとならんでおり仕事の大部分はその1,2階部分の品だしやバックヤード整理および接客です。
入口から近いこともあって自分のいたフロアはかなりガヤガヤした印象でしたが、上層階は文房具・キッチン用品・DIYなどとさっぱりした品揃えなので階を移動するとだいぶ印象が違ってましたね。
フロアの性質上、シーズン毎にかなりレイアウトや商品が変わるのでとにかくいつでもバックヤードは忙しかったです。書籍関係はあまりなく重量が軽めな商品が多い代わりに大きさが不規則かつ大量に揃っているのでバックヤードに押し込めるのも滅茶苦茶大変。特にハロウィン→クリスマス→正月とか大型のイベントの重なる時期は通路の半分は段ボールで埋まってました。というか最上階のスタッフルームの廊下まで什器が占領していましたっけ。大半が自分所の寄りの内容なのでいつも忍びなかったな。
バイトなのに閉店作業やその後のレイアウトのために什器を移動したりと結構色々やった記憶があります。特に繁忙期は日付が変わる少し手前まで働いていた記憶があります。
立地も相まってアニメ関連のグッズも大分多く、流行のアニメや漫画関連は飛ぶように売れるのでガンガン品出ししていたな。新劇エヴァ序と破が公開されてエヴァ人気がかなり加熱していた時期でもありました。一日中「序」のヤシマ作戦の映像がリピートされていたり、エヴァの缶コーヒーがどんどん売れたり。もちろん近所のアニメイトとかはもっと凄かったでしょうが。
なぜか当時は顔面貯金箱などの面白系貯金箱が流行っていたため、季節の合間は貯金箱で埋め尽くされるときもありましたね。まあ品出しが楽なほうなのでよかったですがしょっちゅう電池が切れるのがくせ者だったかな。
コスプレグッズで多いのは試着していいかという問い合わせ。ウィッグはいいけど中身開けるタイプのものは結構はばかれるんですよね。まあ正規スタッフが立ち会ってあけてましたが。
夏休みの頃だったか、楽器コーナーができて他のスタッフがウクレレを弾いていたのはちょっと面白かった。完全に素人だしかなり無理矢理弾かされていたようだったけど、なんか独学でうまくなって最終的にはちょっと楽しそうだったな。
パズルコーナーの担当の人はパズル会社に転職するほどのめり込んでましたっけ。パズルの専門担当がいなくなってからもアニメ関連のパズルはよく売れていたので売り場面積はそんなに縮小しなかった印象です。といっても意外と場所を取り重いジグゾーパズルは少し面倒な商品でしたが。
変わり種としては356日の誕生日にちなんだミニ本とか、絵画と砂時計が合わさったような変な置物がそうでした。自分のお気に入りはシュライヒという海外製の動物フィギュアで、結構高いけど中々凝っていていつか集めたいなと思っていました。意外と家庭用のプラネタリウムも売れていたなぁ。
という感じでそこそこ長くバイトしていたので思い出もいっぱいです。いまはフロアも大分改装しているようですし、以前と違って2階はバラエティフロアではなくなっているようです。自分のいた頃は良い意味で雑多。常に変化することが持ち味のような場所でした。自分のフロア以外も日々全然違う様相になっており、スタッフのエプロンポケットには最新のフロア索引が常にありました。それでも案内しきれないものが多いんですよね。
でも面白い職場でした。老朽化とはいえ、ああいう店は今後も別の形で残って欲しいな。
本当は夏の間にもう一度行きたかったんですが、最悪なタイミングで東京近郊に緊急事態宣言出ちゃいましたからね。まあ東京で4000人弱も感染者出しているなかで動くのは明らかに危険な上に、閉店間際の店にいこうなんてのは自殺行為に等しいです。
台本11冊を入手 五輪開会式“崩壊” 全内幕 計1199ページにすべての変遷が | 週刊文春 電子版
https://bunshun.jp/denshiban/articles/b1436
適当な有名人を使っていかにもテレビ的な演出。予定されていた出演者を見ればFNS歌謡祭の人脈っぽい
小林賢太郎演出の開会式はEテレ開会式と言われてたけどMIKIKO開会式はフジテレビ開会式だ
MIKIKOでも佐々木でも小林賢太郎でも取りまとめるのは全部電通なのは変わらない
テレビバラエティ文脈を外したエンタメは今の日本でできる人が全く存在しないってのが問題どころか大問題だな
少ない予算で効率よく回収するテクニックのある映像監督はいても大規模予算で好きなように遊べる監督は日本に存在しない
育てることができなかった
バラエティばかりでつまらないテレビだったのに、どのチャンネルにしようかって悩むくらい面白い試合が続いてる。
でも、オリンピックを開催した事でコロナ感染者は間違いなく増える。(外国からの持ち込み、気の緩み)そして死者も増える。
身の回りの人で、コロナに感染して、人生が変わってしまった人も何人かいる。(死亡はせずとも、事実上、仕事をが無くなったとか。)
コロナがなければ、チケット無いのに東京見物に行ってたんだろうなとか思うと、本当にコロナがすべてを変えてしまった。
今日、病院で患者から「オリンピックの誰々、すごかったねー」といわれて、「そうですね」といいながら、半分はその通り、すごいと思いつつ、残り半分は今日もコロナ陽性となったひとがいたんですよ。と心の中で思う自分がいた。
1人で飯が食えないタイプだ。誰かと同じことをしていないと不安になってしまう人間だ。
当時、全く面白くもない『ダウンタウン』のお笑い番組だとか『エンタの神様』だとか、興味もない『ミュージック・ステーション』を見て、クラスメイトと話を合わせていた世代だ。
トレンドで言うなら、何が楽しいのかわからないけどオリンピックで金メダルすごいね!と語るタイプのつまらない人間が俺だ。
現代風に言うと、陰キャ。でも、人と話を合わせることで、なんとか立ち位置を獲得していた。
当時はハルヒやコードギアスが流行っていた。あとはスクールデイズだとか、ひぐらしだとか。とにかくそういうものが好きだった。今より少し、深夜アニメを見ていると公言するには恥ずかしかった時代だ。
名前を仮にNとしよう。
Nは学活というものを極端に嫌うやつだった。合唱祭の練習だとか、文化祭の手伝いだとか。
「みんな積極的に出ようね」という空気はとにかく読まず、自由参加と銘打たれた活動に一切姿を現したことがなかった。
でも、頭はよかった。5教科の総合成績で、いつも1番か2番になっていた。特定を避けるために詳細は書かないが、とある学問分野で全国的に表彰されたりもしていた。
だからものすごく嫌われていたと思う。そして、多分Nも俺達のことが嫌いだった。給食の時間だとかに、Nが口を開いているのを見たことがなかった。
Nはバラエティ番組の話を一切しなかった。オリンピックの話を一切しなかった。
大衆娯楽というやつを、Nはとにかく見下していたのだと思う。やつは二次元狂いだった。昼休みは常に図書室に籠って漫画やラノベを読んでいた。
なんでそんなことを知っているのかというと、一時期、俺も昼休み、中二病にかかって、図書室でラノベを読みに通っていた時期があるからだ。
その行きと帰りの道で、必然一緒になって、Nと話す機会が何度かあった。教室に戻ると、Nはとにかくこちらから話しかけてもほとんど空返事しかしない男だったので、その道中で話すしかなかった。
Nは話してみると面白い人間で、オールラウンダーなヲタクだった。
少しハルヒの話を振ると、Nは「ハルヒは嫌いだ」と前置きをした上で、元ネタのSF小説の話を初心者にもわかりやすく、ジョークを交えて教えてくれたし、歴史系の話をすれば、聞いたこともない武将や各時代のエピソードを色々と語ってくれた。
アニメや特撮についても勿論詳しくて、押井守の批判だとか出﨑統のすばらしさを語って(今思うと彼も中二病だったのかも)、まんだらけに行って原画や資料を眺めるのが楽しいと嬉しそうに話していた。
映画も大量にTSUTAYAで借りて見て、聞いたこともないような芸術雑誌や文芸雑誌、科学雑誌を何冊も買っているようなやつだった。(Nは俺がそれらのジャンルを知らないとわかると、一切その話をしなくなった)
ただ、Nにバラエティやオリンピックの話をすると、途端にやつは不機嫌になった。俺は慌てて話題を変えたものだ。
その時に、Nは言っていた。「パチンコだとか競馬だとAKBだとか、ああいう趣味にハマっている大人はダメだ。嫌いだ」と。
俺はなんとなく、鼻が高くなったのを覚えている。多分、俺はNの存在に救われていたのだと思う。
きっと、キョロ充である俺が到達するのは、そのような「つまらない大人」に違いないと諦めていたからだ。そして多分、俺もまた人とのコミュニケーションにうんざりしていたからだ。
人と同調して中身のない会話をして、なにやら冗談を言って笑わせて。自分のためではなく他人のためのコミュニケーションが、俺は嫌いだった。
俺は無能だったし、人から孤立するのが怖かったから、キョロ充をしていた。でも嫌だった。N以外のクラスの人間と話したり遊んだりするのが苦痛でしかなかった。
でも、Nは違った。自分の能力で他人を黙らせて、好きな物だけ摂取して、自由に、生きたいように生きているように見えた。
他人に流されない、気高い孤高の男で、俺はいつかNみたいになりたいと思った。
ヲタクとして、Nはきっとクリエイターや評論家になって、多くの人を唸らせるような、美しいものを表現するに違いないとすら当時の俺は確信していた。学生時代にコイツと時間を共有したことをいつか誇ろうと算段していたのを覚えている。
前置きが長くなった。
卒業と同時に離れ離れになったNと、先日、俺達は東京で再会したのだ。偶然のことで、たまたま映画館で『閃光のハサウェイ』を観た時、横で限定版のBlu-rayと『夏への扉』のパンフレットを買っていたのが、Nだった。
Nに話しかけ、俺のことを覚えていると知った時、嬉しくなって、うっかり「飯でも食わないか?」と誘った。
「しまった」と思った。
Nは、これからハサウェイのBlu-rayとパンフレットを自宅に帰って観るのを何より大切にするような人物だと覚えていたからだ。
だが、Nは、「いいよ」とアッサリ快諾してくれた。
俺もまた、ウマ娘をやっていたので、「推しはタキオンなんだよ~」とか、中身のない会話を続けた。
Nは、俺とアイドルライブの話をした。BTSの話をした。オリンピックの話もした。
俺は勝手に失望していた。Nは、きっとあの幼き日に、彼が嫌っていた大人そのものになっているように見えた。
酒の話、サウナの話、競馬や野球の話をする。全てNは自分の体験談も交えて応じてくれた。
試しにパチンコの話をすると、ミリオンゴッドとかいうよくわからない機体の話をペラペラと話していた。
Nは、大衆に呑まれていた。低学歴のオッサンが好むような、侮蔑するべき酒だのサウナだのパチンコだのアイドルだのの話をしていた。
一番やつが嫌いそうな、バラエティ番組にも、随分と詳しくなっているようだった。
どうしたのだと聞きたくなった。
お前は、俺とは違うんじゃなかったのか。
他人なんて気にせずに、自分の道に邁進して、人の顔色を伺うようなつまらないコミュニケーションは決してしない、そういう男ではなかったのか。
学生時代にお前が探求していたに違いない、美しいものは何処に行ってしまったんだ。キョロ充の俺とは違うんじゃなかったのかと。
孤高のヲタクは、どこにいってしまったのだ。俺は辛かった。そして、その辛ささえもあまり感じなくなっていた俺自身が、何よりも辛かった。
若い日の憧れも、時間と社会経験によって、すっかりと洗い流されてしまっていたのだ。だから、きっとNもそうに違いないと思った。
社会は独りで生きていけるようにはできていない。今は特にそうだ。
1億総オタク社会だとか、1億総陰キャ時代だとか揶揄するやつがいるが、それは違う。
今は、『1億総キョロ充時代』なのだ。SNSは、下らないキョロ充を量産するための装置に違いなかった。常にみんなが、人の顔色を伺ってコミュニケーションを取っている。
キョロ充だけれど、きっと充実しているのだろう。だからいいじゃないか、としたり顔の大人達の声が聞こえてくるような時代だ。
だから仕方のないことだと思った。Nも、「上手く他人と生きる」つまらない人間、否、正しい人間に進化したのだと、自分を納得させた。
他人が見たい仮面を必死に作るのが、正しい生き方でありコミュニケーションの本質である。そして低学歴趣味とは、その本質にとって最高に都合のいい道具なのだから。
でも、それでも俺はNに、お前、どうしたんだよと聞きたくなった。
聞きたくなったので、聞いた。正直に、「パチンコとか競馬とかバラエティとか、あと流行りのウマ娘とか、そういうの嫌いだと思ってた」と。
Nは、俺の顔を見て、笑って言った。
「当たり前じゃん。今言ったやつ、全部大嫌いだよ!」
Nの目はドス黒くて、世の中全てを見下していて、それでいて、とても楽しそうだった。
俺は、最高に嬉しかった。その後のことは、あまり覚えていない。とにかく、Nの職業が何なのかは、あえて聞かないで別れた。
何故なら、確信したからだ。やつはきっと、多くの人を唸らせるような、何かを創り上げているに違いないと。
勿論その日、NとLINEの交換はしなかった。
オリンピックの開会式でゲームの音楽やピクトグラムや劇団ひとりのパフォーマンスや寸劇やセリフ吹き出しのプラカードなどが好評だったが、まぁポジティブに評価したい層や意見は分かる。
ただ全体的に見て思ったのは幼稚さが目立った。
漫画のセリフプラカードなんて、国際的な祭典でそんな演出するか?コミケか?
ゲームの音楽を流すか?東京ゲームショーやE3じゃないんだぞ?
ピクトグラムのショーや寸劇をするか?コントやバラエティ番組か?
劇団ひとりのパフォーマンスを許容するか?コントやバラエティ番組か?
そういうことを考えると、ウケるかもしれないが、幼稚でオタク向け子ども向けと言われてもしょうがない演出だった。
日本はオタクの国ですバラエティの国ですと紹介されたかのような気がして恥ずかしかった。
プリキュアのルッキズムとかその他もろもろなんか思うことがあったりする。
「かわいい」っていうのをプリキュアが見た目だけのことを言いたいんじゃないんだろうけどそれを人生経験片手程度の子どもたちに伝わるようにつくっているか?とか、「子どもたち(主に女の子たち)のために」っていうスタンスをどのくらい本気でやってるんだろうってのは前からちょっと考えている。
「かわいい」がすべてではないことを大人は知っているけど子どもたちはこれからそれを学んでいく過渡期にいるので、メインターゲットを未就学児~小学生くらい?に据えてる時点でプリキュア制作側は伝えるメッセージやその伝え方に慎重にならないといけない。可愛くないからプリキュアになれない、とか○○だから(たとえばメガネだから、髪型がこうだから、とか)プリキュアになれないと思ってしまったり他の子にそう言ってしまったりするきっかけを与えてはいけない。
プリキュアやその仲間が「かわいくないからプリキュアになれない」と発言しても大人は「あら、今のプリキュアそんなこと言うんかい」で済ませることができるけど
知識や人生経験の少ない子どもたちにはその言葉がもっと大きなインパクトをもって伝わる可能性ってのを考えなきゃいけない。
フィクションと現実は地続きにあるし、子どもたちにとってはよりその垣根は低い。
ルッキズムに限ったことじゃないんだけどメインターゲット女児先輩は気にしないからあれこれ言うな!そんなもん扱わなくていいんだ!って問題ないじゃないんだよね。
そこをメインターゲットに据えた時点で責任持って作品つくらなきゃいけないんだよって話で。
大人と違って判断できる知識や経験が少ないので良いことも悪いこともそのまま吸収してしまう危うさがあって、大人が鬼滅を面白いと思いつつ子どもにはあまり見せたくない(暴力的だったりちょっとグロかったりするから)って親もいるでしょう。クレヨンしんちゃんとか芸人の発言やバラエティの演出もそうだけど。
テレビでやってるから悪いことじゃない、みたいな感じで面白がって人のこと嘲笑したりときに暴力をふるってしまったり。それを矯正するのも親の義務っていうけど、1回テレビやなんかで見て覚えたものをなぜ良くないのかわかるように言い聞かせて矯正するってすごく、すごく大変でしょ。見て学ぶのは一瞬で、それを言って聞かせ理解させ…ってところにかかる労力、対等ではない…。親の立場からしたらいい加減にしてくれって話だよね。
何度教育したってテレビで人の尊厳を踏みにじって笑い取るようなことやられまくってたら親の教育もいたちごっこの連続だし、悲しいことにちゃんとしつけする親ばっかでもないし。大人の立場で見てても楽しくないしね暴力とか嘲笑とか。
それからメインターゲットが保育園~小学生くらいの女児、だとしたらその中にはシスジェンダーでもヘテロセクシャルでもない女児や障害をもった女児も当然含まれるんだよ。
過去作品だけどHUGっとプリキュアでは男の子もプリキュアになれるとか、アンリと正っていう友情なのかBLなのかみたいな感じで男性二人の関係を出しつつ最終話で生々しい出産描写もやるの先進的とか言われてたけどまったくそんなことはないと思っていて、
むしろ女性への出生賛美をうたってほまれのヘテロセクシャル要素をゴリゴリに出しておいて性的マイノリティーについてはほのめかすだけにするっていうの、あらゆるセクシャリティを対等に扱ってない。
都合良く使える部分だけいただいて、まぁ、さわりだけやっておけば先進的と思ってもらえるラッキー(笑)みたいな。
あ~男の子もプリキュアになれる、お姫様になれるってとこまではできたのに、残念だなぁ、扱うなら正面切ってやれば評価されるのに…って思ってしまった。
こう思ってしまうのはうちの姪っ子がいま同じ保育園の女の子のお友達を大好きだとよく話してくれるからで、もちろんママだいすき、プリキュアだいすきと同じ感覚のだいすきなのか、恋愛としてのだいすきなのかわからないけど、もし後者であった場合にプリキュアが姪っ子や同性愛当事者のメインターゲットの子を傷つける存在になってほしくない、むしろ勇気づける存在であってほしいと思うから。
異性愛者としての描写も出産シーンも生々しくないけど同性愛っぽい描写は生々しいの?子供に見せられないものなの?
あらゆるセクシャリティ・ジェンダーについて一体どういう考えで作品をつくっているの?って思うよ。
ターゲットとしている層にもマイノリティに該当する子は含まれているのに。
スタートゥインクルプリキュアでは肌の色が違うことで受け入れてもらえなかった過去のあるキャラクターのことを扱ってた話があって、それは良かったなって思う。(スタプリは全部をきちんと見てないので全体としてどうかはわかんないんだけど)
わざわざ同性愛者だ障害者だ外国籍だってマイノリティを出すならそうだとはっきり分かる描写を出す必要があるのか、と言われたら出さないことで存在しないことにしている。のけものにしているってことなので、その年令の女の子たち(子どもたち)のことを考えて作品作りしているというスタンスを出すなら見て見ぬ振りやおためごかしはもうやめてほしい。
そんな表現は大人の自己満足だっていうけど、むしろマイノリティを無視する作品って子どもに一体何のメリットがあるのか…?
自分がマイノリティについて気にしなくて済むカテゴリーだ、マジョリティである、強者だって指摘されるようで居心地悪いだけなんじゃない?
女性の仮面ライダーいたんだし男の子のプリキュアもレギュラーメンバーで出せば良いし、仮面ライダーも赤ちゃん育てたらいいんじゃないの(仮面ライダー全部見てないからもう子育て要素とか取り組んでたらごめん)
売れないとか商業的に…っていうけどそれならもう「子どもたち(女の子たち)のために」つくっているっていうスタンスも見直したほうが良いんじゃないかな。
玩具購入資金源の親がそんなもん喜ばないだろ!っていう意見出そうだけどそれもおかしな話で、
それはつまり親が自分の子どもはマイノリティであるはずがないしそんなもの目にもいれさせたくもないし
目に入れさせてマイノリティに目覚めさせたくない、そんなやつらのことは理解させる気もない、ということにもなるんじゃないの。(あえてちょっと強いことばにしてしまったけど)
親としては子どもがマイノリティである可能性を思えば(誰しもがその可能性がある)ロールモデルにできる存在や勇気をもらえる存在(それこそエンパワメントされるような)を小さい頃から見せてあげて「大丈夫だよ」と伝えてあげたいし、本人がマイノリティでなくても身近にそういうお友達がいる可能性もあるから寄り添える人になってほしいと思う。
もし身近にマイノリティなんていねえよって思う人は、あなたの態度や発言を見聞きしてマイノリティ当事者はあなたにカミングアウトも相談もしたくないと思ってる、だから周りにマイノリティがいない、と考えたほうが良いかもしれない。
いわゆるLGBTQに該当する人が血液型のAB型や左利きと同じくらい、だいたいクラスに一人くらいの割合でいるそうなので。
つまり、そのくらいいるとなると総勢50人を超えてきたプリキュアにもいてもおかしくないって話にもなるわけで。
アニメとはちょっと違うけどセサミストリートだと障害のある子や同性愛者のキャラクターがいるし、ディズニーでも扱ってたよね。
なんかコスメでエンパワメントよりも、というか同時に考えたほうがいいんじゃないかとプリキュア…と思ってしまったりする…。
俺もええとこおっさんやけど、90年代からすでに所ジョージさんは趣味全面押しだった気がする(「所印の車はエライ」とか「デイトナTV」とか所さんの趣味丸出しの番組をよく見てた)。
こないだ「東雲うみ」っていうグラドルの動画見て腰を抜かした。
グラドルのYouTubeチャンネルつったら、おっぱいボヨンボヨンさせながら薄っぺらいバラエティ企画でキャピキャピするのが一般的なんだけど、このモデルさんのチャンネルはプラモデルの製作がメインで、しかもなかなか本格的。
自分は模型とかあんま詳しくないのでどの程度本格的なのかキチンとわかってないとは思うんだけど、テクニックとか創意工夫の度合いとか揃ってる機材とかを見る限り、なかなか年季の入ったモデラーという印象を受けた。
もちろんそっち方面のガチ勢が見たら「あんなんたいしたことねーよ」かもしれないけど、少なくとも門外漢はじゅうぶん腰を抜かせるレベルだと思う。
なおかつ東雲うみは顔がかわいくてパイオツがでかい。つまりグラドルとモデラーというイメージのギャップにおじさんはちょっとやられてしまった。
正直、なぜ「当時はこうだった」という視点を拒否する人がこんなに多いのかに困惑している。
「当時はこうだった」ということを考えないと、今の自分がどういう時代に生きているのかがわからなくなる。つまり、今やっていることが、ひょっとしたら将来は「いじめ」「差別」と非難されることなんじゃないか、無自覚に弱者を傷つけいるんじゃないか、ということへの想像力もはたらかなくなる。
その時代で「いじめ」「差別」と言われているものは微妙に異なっている。しかし、そうしたその時代の意味するで「いじめ」「差別」に器用に避けているだけで、やられている相手からすれば「いじめ」「差別」と同じだと言うことはよくある。とんねるずのバラエティも、当時は「いじめではない」という意味が共有されていたと思うが、今はおそらく変わっているだろう。そうした可能性を少しでも恐れて反省しようとする人は、「当時はこうだったのではないか」という思考は不可欠だ。
「かつてとんねるずのバラエティで笑っていた自分」をなかったことにしないでほしい。「なかったこと」にしている人は、自分から言わせれば「ああいう時代だから仕方なかった」と開き直っている奴と同じレベルでしかない。
1990年代にいじめがひどい中高時代を過ごした人間にとって、「小山田のしたことは時代背景は関係なく悪」とされることには強い抵抗感がある。
「あの時代も許されていなかった」などという人も多いが、それも納得できない。小山田があのインタビュー記事の後も長らく「アーティスト」として第一線で活躍し続けている事実は、「許されていた」ことの証拠ではないのだろうか。世間の多数派は知らなかったにしても、一緒に仕事をしている近い関係の(当然日本社会で上位のポジションを占めている側の)人たちは当然知らなかったわけがない。
自分はあの時代、テレビで毎日のように流れているとんねるずのバラエティが怖くて見れなかった。自分には当時からとんねるずのやっていることは、悪質ないじめや暴行、セクハラにしか見えなかった。とんねるずの笑いが全くわからないことは、自分が学校で落ちこぼれているという現実を、ぶん殴るように突きつけるものだった。
5年ぐらい前に小山田圭吾の悪質ないじめ記事をネットではじめて知った時、過去のトラウマがフラッシュバックした。まさにあのとんねるずの悪ふざけのノリと、それを学校で再現する連中を思い起こさせるものだった。
現在40代の多数派(とくに男子)は、あのとんねるずの番組で笑っていた側だったはずだ。「小山田のしたことは時代背景に関係なく悪」という言説を流している人は、自分と同じようにとんねるずの番組に全く笑えてなかったのだろうか。
若者の見るメディアといえばテレビ以外にほとんどなかった時代、そうは考えにくい。おそらく当時一緒になって笑っていたのを、都合よく忘れているだけだろうと思う。だから、「小山田のしたことは時代背景は関係なく悪」は、それ自体は正論だとしても、そういうことを簡単に言えてしまう人はあまり信用できない。
小山田圭吾問題について、中高のいじめで完全に自信喪失および人間恐怖症になって中年ニートになった自分にとって、思うところがありすぎたので、自分自身の整理のために書いてみた。
今回の問題の核心は、どれだけひどいいじめ(というか暴行や拷問と表現すべきだが)を行って、それを公の場で自慢げに語っても、学校の内外で処罰されることもなければ、反省一つ促されることもなく、当然謝罪もなく、その後の人生とキャリアに傷がつくことも全くなかったということである。例のインタビュー記事で小山田と絶交した、という人もおそらくいないであろうことは、あの後も変わらず精力的に仕事をし続けていることからも理解できる。逆に小山田圭吾は、ひどいいじめをおこなった側の方こそが、社会的に大成功を収めるというモデルケースになってしまっている。
周知のようにいじめ問題では、現在でもいじめ被害者の側が転校させられるというケースが多く、客に加害者の側が転校したり推薦を取り消されたりというケースは寡聞にして聞かない。超名門校を出場辞退に追い込むほどの暴行を後輩に行った高校球児手が普通にドラフトで指名されていたように、大人はいじめ加害者を逆に高く評価しているのではと感じさせるケースもしばしばある。自分のクラスでもいじめ自殺が発生したことがあるが、加害者は何も咎められることもなく、普通に一流とされる大学に(記憶が曖昧だが多分推薦で)進学した。小山田圭吾は、こうした「いじめたもの勝ち」になっている社会の象徴的な存在である。
「1990年代もあのようなことは許されていなかった、時代の問題で相対化するな」という批判がある。それは正しいが、やはり同時代の空気を鮮明に記憶している人間としては、批判として非常に浅く感じてしまう。
あの時代のバラエティ番組は、若手芸人などに嫌がることをさせて、「痛い」「熱い」と泣き叫ぶのを見てMC側の人間がゲラゲラ笑うというものが本当に多かった(逆にそういう笑いをしない志村けんがテレビから一時期消えていた)。既にいじめは社会問題化してはいたものの、「あれは相手も納得済みだからいじめではない」というテンプレ論法で許容されていた時代だった。ネットも黎明期でテレビがほぼメディアの全てだった時代、いじめを受けていた側にとっては、当時のバラエティは見ているのも辛かった。
そういう時代の雰囲気のなかで、ましてや悪趣味がかっこいいものとしてはびこるサブカル雑誌のインタビューという場所で、たとえいま小山田と五輪組織委を口を極めて非難している人たちがそこに居合わせたとしても、おそらく一緒に笑うしかなかったと思う。特に、空気の変わり目を読んで同調して小山田を非難しはじめているような、ワイドショーのコメンテータータイプの人間は、そこにいたら一生懸命に面白がるアクションをしていたはずである。
申し訳ないが、中高時代をいじめ被害者として過ごしてきた人間には、いくら現在小山田を非難しているように見えても、時代の空気に同調しているだけで、こいつは本質的にはいじめっ子の側の人間だろうというのは直感的にわかってしまう。その意味で、たとえばカズレーザーなどはあまり信用できないし、逆に一見いじめを時代の問題として相対化していることを言っている爆笑太田のほうが信用できる気がする。ほかにも、五輪批判や政権批判の文脈でしかこの問題に興味のない人も、およそ信用できない。
ジャニーズに詳しくないので教えて欲しいんだけど、SnowManって何であんなに売れてるの?
グループの名前は知ってるし9人組ってことも知ってるし曲も全部聞いたけど、「嵐に次ぐ記録を立てた!」というレベルなことに驚いてる。
記録ニュースを見るたびに、そんなに売れてるの!?と毎度思う。
顔で言えばKing & Princeの方がレベルは高いと思うし、同時期にデビューしたSixTONESも2人くらいイケメンいるなと思う。
アイドルは顔だけじゃないのも承知してるけど、じゃあSnowManって顔以外の突出した才能があるってことなの?
歌がうまいの?バラエティが面白いの?歌が良いの?ダンスが上手いの?
20年前か、30年前か、記憶が定かじゃ無いけど、一時期のテレビのバラエティはイジメ体質が酷かった。
ちょっとした事で人をからかって笑い物にする。そんな事ばかりする番組がいくつもあった。
タモリは当時そんなイジメの様な事ばかりやっていて、タレントだけでなく一般人の出演者や観覧客までも揚げ足取りの様な事を言ってバカにして笑いをとろうとしていたので、「最低のクズ野郎だな」と思っていた。
小山田バッシングでなんかモヤモヤするんだけど、今小山田を非難している人たちの中で、かつて1990年代のとんねるずやダウンタウンのバラエティを観て笑っていた人がいっぱいいるよね。
やっていることは小山田ほど酷くはなかったのかもしれないけど、質的には完全に同じ方向性だったことは断言できる。「時代のせいにするな」というけど、サブカルという特殊な場所だけじゃなくて、ゴールデンタイムでもああいうのを面白がっていた時代だったことを忘れてほしくはない。
とんねるずは今でも大嫌いだし、石橋がユーチューバーとして大人気だったり、木梨がオシャレいい人おじさんぶっているということを間接的に聞くだけで非常に嫌な気分になる。ダウンタウンは後輩からもいじられて笑いを取るというスタイルにしてから、少し観れるようになったかな。