小山田圭吾問題について、中高のいじめで完全に自信喪失および人間恐怖症になって中年ニートになった自分にとって、思うところがありすぎたので、自分自身の整理のために書いてみた。
今回の問題の核心は、どれだけひどいいじめ(というか暴行や拷問と表現すべきだが)を行って、それを公の場で自慢げに語っても、学校の内外で処罰されることもなければ、反省一つ促されることもなく、当然謝罪もなく、その後の人生とキャリアに傷がつくことも全くなかったということである。例のインタビュー記事で小山田と絶交した、という人もおそらくいないであろうことは、あの後も変わらず精力的に仕事をし続けていることからも理解できる。逆に小山田圭吾は、ひどいいじめをおこなった側の方こそが、社会的に大成功を収めるというモデルケースになってしまっている。
周知のようにいじめ問題では、現在でもいじめ被害者の側が転校させられるというケースが多く、客に加害者の側が転校したり推薦を取り消されたりというケースは寡聞にして聞かない。超名門校を出場辞退に追い込むほどの暴行を後輩に行った高校球児手が普通にドラフトで指名されていたように、大人はいじめ加害者を逆に高く評価しているのではと感じさせるケースもしばしばある。自分のクラスでもいじめ自殺が発生したことがあるが、加害者は何も咎められることもなく、普通に一流とされる大学に(記憶が曖昧だが多分推薦で)進学した。小山田圭吾は、こうした「いじめたもの勝ち」になっている社会の象徴的な存在である。
「1990年代もあのようなことは許されていなかった、時代の問題で相対化するな」という批判がある。それは正しいが、やはり同時代の空気を鮮明に記憶している人間としては、批判として非常に浅く感じてしまう。
あの時代のバラエティ番組は、若手芸人などに嫌がることをさせて、「痛い」「熱い」と泣き叫ぶのを見てMC側の人間がゲラゲラ笑うというものが本当に多かった(逆にそういう笑いをしない志村けんがテレビから一時期消えていた)。既にいじめは社会問題化してはいたものの、「あれは相手も納得済みだからいじめではない」というテンプレ論法で許容されていた時代だった。ネットも黎明期でテレビがほぼメディアの全てだった時代、いじめを受けていた側にとっては、当時のバラエティは見ているのも辛かった。
そういう時代の雰囲気のなかで、ましてや悪趣味がかっこいいものとしてはびこるサブカル雑誌のインタビューという場所で、たとえいま小山田と五輪組織委を口を極めて非難している人たちがそこに居合わせたとしても、おそらく一緒に笑うしかなかったと思う。特に、空気の変わり目を読んで同調して小山田を非難しはじめているような、ワイドショーのコメンテータータイプの人間は、そこにいたら一生懸命に面白がるアクションをしていたはずである。
申し訳ないが、中高時代をいじめ被害者として過ごしてきた人間には、いくら現在小山田を非難しているように見えても、時代の空気に同調しているだけで、こいつは本質的にはいじめっ子の側の人間だろうというのは直感的にわかってしまう。その意味で、たとえばカズレーザーなどはあまり信用できないし、逆に一見いじめを時代の問題として相対化していることを言っている爆笑太田のほうが信用できる気がする。ほかにも、五輪批判や政権批判の文脈でしかこの問題に興味のない人も、およそ信用できない。
そういうお前も誰かをいじめたこと、一度ぐらいあるんだろう?
こう言う攻撃的なレスバの奴が沸いているだけな ネット界隈なんかもね。
いじめっ子のほうが社会的な成功者になってしまう問題 これはケースバイケース。筒井康隆は戦時中、疎開先で農家の子に頭を踏まれるなどのいじめを受けたが、その農家の子が社会...
なんで80年近くも前の話?
中川翔子もいじめられていたらしいが 加害者のほうが社会的に成功したという事実はあるの?
そういう有名人よりも前に、いじめっ子だった同級生がどこに進学・就職したか、今何をしているのかを思い出そうな。
それは人によるわな
いじめっ子の方が成功者になりやすいのは、そもそも日本社会の構造が「口がうまくて偉そうなら偉くなれる」のと「剛腕な人間に逆らうほうがめんどくさくて愚か」という価値観から...