1990年代にいじめがひどい中高時代を過ごした人間にとって、「小山田のしたことは時代背景は関係なく悪」とされることには強い抵抗感がある。
「あの時代も許されていなかった」などという人も多いが、それも納得できない。小山田があのインタビュー記事の後も長らく「アーティスト」として第一線で活躍し続けている事実は、「許されていた」ことの証拠ではないのだろうか。世間の多数派は知らなかったにしても、一緒に仕事をしている近い関係の(当然日本社会で上位のポジションを占めている側の)人たちは当然知らなかったわけがない。
自分はあの時代、テレビで毎日のように流れているとんねるずのバラエティが怖くて見れなかった。自分には当時からとんねるずのやっていることは、悪質ないじめや暴行、セクハラにしか見えなかった。とんねるずの笑いが全くわからないことは、自分が学校で落ちこぼれているという現実を、ぶん殴るように突きつけるものだった。
5年ぐらい前に小山田圭吾の悪質ないじめ記事をネットではじめて知った時、過去のトラウマがフラッシュバックした。まさにあのとんねるずの悪ふざけのノリと、それを学校で再現する連中を思い起こさせるものだった。
現在40代の多数派(とくに男子)は、あのとんねるずの番組で笑っていた側だったはずだ。「小山田のしたことは時代背景に関係なく悪」という言説を流している人は、自分と同じようにとんねるずの番組に全く笑えてなかったのだろうか。
若者の見るメディアといえばテレビ以外にほとんどなかった時代、そうは考えにくい。おそらく当時一緒になって笑っていたのを、都合よく忘れているだけだろうと思う。だから、「小山田のしたことは時代背景は関係なく悪」は、それ自体は正論だとしても、そういうことを簡単に言えてしまう人はあまり信用できない。