たとえば新房作品が古人の糟粕嘗めまくりで陳腐である、と正岡子規ばりの批判を展開するとして、
我々の感じる作品の陳腐さ(洗練度合い)のうまい指標はあるか、と考えると、エンディングテーマに
カバー曲を使っているか否かというのは有力な候補に思えるし、ましてエンディングテーマをカラオケ
大会にするとかいうのはそれこそ糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候、と切り捨てることができる。
たとえば「ぱにょデジ」はでじこ本編よりも陳腐さが高い、という判断ができる。
作品のテーマが陳腐、とか、ドラマツルギーが安易である、というのは古今を否、万葉を是とする立場から
すれば問題とはならないのであって、同工異曲といわれても新規に書き起こし意識的に何か固有の著者を
もつ作品からの引用を行っていないことが重要となる。最悪、誰か他人の作品を丸コピーしたとしても
そこに原著者のクレジットが一切なければこれは万葉型の表現ということになる。
マーケティングの結果最終的に選ばれる表現が万葉型になるのか古今型になるのか、というのは
主に対象年齢層と作業(典拠の確認や権利処理等)のコスト、企画者のリスク回避度によって
決まってくる(おっさんにウケる作品すべてが必ずしもおっさんホイホイではないけれども、
リスク回避的な企画者は当然おっさんホイホイを選好する)。ただ、「ゆとりに伝統を教えてやる」と
いうことで意図的に古今型の表現が選択される事例も多い。これはアーカイブの権利者に近いほど
やりたくなる戦略でもある。
いや、とくに結論というのがあるわけではなく。
追記:ええ、一連の「歌よみに与ふる書」をちゃんと読んでいませんが、日本酒の醸造工程の
アナロジーで、現代でいうところの「劣化コピー」に相当する語であることは理解しています。
楽曲の再利用のさらに再利用をしているわけではないので確かにあまり的確な表現ではないのですが。
追記:たとえば『トレインスポッティング』でキルケゴールが言及されている(記憶によれば)
古人の糟粕の意味びみょうに違ってるのでは? 偉い人の真意は文章では伝わらないという意味だったはず。