はてなキーワード: 言葉にできないとは
ショックなことがあったので書く。殴り書きかもしれない。
学生の身分で、毎月少しずつ仕事をもらってフリーランスのミュージシャンをしている。
仕事をもらう先は大抵決まっているのだけど、先日そこの社長(妻子有)に手を出されそうになった。
最初は大勢で飲んでいたが、時間が遅くなるにつれて二人きりになり、帰り際のことだった。
何度も抱きしめられて、キスされそうになったので手で押し返した。
演奏終わりの打ち上げで、お互い酔っ払っていて、向こうはフラフラと酩酊していたし、意識がはっきりしないようだった。こちらもほろ酔い気分だった。
ただ、向こうは飲むペースが明らかに早くて、何杯も注文するので、大丈夫かな?と思っていた。
こちらは酒がそんなに強くないので、ゆっくりではあるけれどワイン2杯とビールを飲んだ。酩酊はしておらず、意識はしっかりとしていた。
夜もふけたので帰ろう、としたところで向こうが徐に近寄ってきたので、(いつも別れる時は握手をしているので)握手かと思って手を差し出すとそのまま抱きしめられた。
抱きしめたまま向こうが大人しくなったので、こちらの手を向こうの背中に回してポンポン、と叩くとハッとしたようで「帰ります」と言った。
別れようとした時、急に踵を返してまた抱きしめられ、ポンポンと叩き、「帰ります」と言い、また抱きしめられたところで、明らかに向こうの顔つきが変わって、こちらの口元に目線がいったように見えたので慌てて顔を逸らし、手で押し返した。
そうしたら、本当に帰って行った。
しばらくしたら「おやすみなさい」とメッセージがスマホに送られてきたが、既読だけつけて返事はしなかった。
次の日も仕事で会う予定があったが、なんとなく会いづらかった。
しかし会わないわけにもいかないのでいざ会ってみると、向こうは何事もなかったかのように接してきたので(出来事について触れもしなかったので)、もしかしたら忘れているのかな?と思った。
けど、言葉にできない距離感というか……話をする態度や口調はそのままで、なんとなく冗談を言い合いにくい雰囲気とでも言うのか。
よくわからない感覚を持ちながら、その日は仕事を終え、家に帰った。そしてまた次の日の朝に「一昨日はごめんなさい」という旨のメッセージと、事務連絡が合わせて送られてきた。
事務連絡の返信だけして、「ごめんなさい」の部分には触れなかった。
別に忘れていてもいい。むしろ、忘れていて欲しかった。そのほうが都合がよかった。
もし忘れていれば、蒸し返さずに自分の胸中にだけ出来事についての記憶を留め、変わらぬ態度で話せるはずだった。
我らはよき友人で、よき仕事仲間のはずだった。
ただ男と女であるというだけだった。お互い人として尊敬しあって、人として好いているつもりだった。自分は。
伴侶と小さい子どもがいて、10以上も年下の女、あるいは男に手を出す(出そうとする)ことに同意できない。いくら酒が入っていようとも。
とにかく悲しくて、怒っている。
しかし嫌いになれない。
許すつもりはないが、今は関係性がかなりギクシャクしているので、今までのようにとはいかずとも、近いものに戻りたいとは思っている。
LINEとかメッセンジャーだとログが残り、あとあと何かのタイミングで目に入り思い出してしまいそうなので、電話か直接会って話そうと思っている。
幸いにも(?)、今週末、会う予定がある。
話すのが怖い。が、ここで話しておかないと、これからにとってよくない、気がする。
僕は現在童貞で、おそらく将来もそうなんだろうけど、それが酷く恐ろしいことだと最近感じるようになってきた。
周りはみんな性行為を経験していて、僕だけがしていない。別にそれが何か問題あるのかと言われるとうまく言葉にできないのだが、経験の有無で自分の常識が全く通じなくなるのが怖いのかもしれない。最近話題になっている献血のポスターでも、普段からアニメを見ている人はあれに違和感を覚えないというのにびっくりした。僕も近い将来そのように周りの常識と噛み合わなくて衝突する日が来るのだろうか。
スダンダードというのはちょっと強すぎた。ニュートラルという、新しい単語を後だしじゃんけんさせて。
いろんな価値観があるのはいいことだけど、そのスクランブル交差点である公共の場所では、暴れるな、と言いたいだけ。
換言するならば、何がニュートラルであるのかを模索して自戒して自覚的に行うベッキーだと思う。
その努力を、オタク及びスーパーカップな絵に慣れたもの並びにその配信者は怠るな、と言っている。のです。
ニュートラルなポイントは、ないようで、ちゃんとある。言葉にできないだけ。ない、なんて決めつけない方がいい。
そして、ニュートラルから外れて尖ったことをしたいのであれば、尖ったことをしている、という自覚をモテ。え、ニュートラルから外れてるの? なんてすっとぼけるな。覚悟をもってやりなさい。
などとそれっぽい同人ネタタイトルにしたけど、ただの愚痴。私の嫉妬と悪口の病んでる戯言を吐き出してるだけです。
私はBLの二次創作で5年くらい前からほそぼそと同人小説を出してる女です。
初めてサークル参加したとき、どれくらい部数すればいいかなって色々検索したけど、どのサークルもどれだけ刷ったかって部数をはっきり言わないのがマナーみたいな空気があった。暗黙のルール的なね。
アンケートをとったり、ブクマ数から割り出すとか色々でてきた。初めて出した同人誌は結局誰に相談するでもなく印刷所の最低部数で刷った。
最初のジャンルに数年いたけど、何部刷ったなんてツイッターなどみんなに公開されてる場で言ってる人なんていなかった。
その次のジャンルも同じ。言っても今回は少なくていっか〜とか、たくさん刷ったので大丈夫ですとかそれぐらい。
だけど今のジャンルは違う。
ツイッターの鍵垢でもない人が何部刷ったとか平気で相談したり、発言してる。
このジャンル、同人誌をだしたことない人が多い。サークル参加も一般参加もしたことがない人多い。
初めて出す同人誌だから部数に困るのはわかる。でも私のように検索すればみんな部数を公にしてないことくらいわかるよね?
何部くらいでいいと思ったけどアンケートでこんだけきたから何部刷った、とかツイッターで言う必要あるのか……?
そういうのを見るたびにとてもモヤモヤする。
大手ならともかく、そこまで大きくないジャンル内で部数を晒すデメリットは確かにないのかもしれない。
装丁にこだわったりすれば部数からすぐ印刷代割り出せるわけでもないし(それでもおおよそ予測できるけど)わざと少ないアピールをして行列作ろうって魂胆がある発言でもないし、ほんとに問題はないのはわかるけどすごいモヤモヤする。
確かにはっきりとしたルールなんてない。なんとなく暗黙の了解ってだけ。
でもそういうのを見てまだサークル参加したことがない人もそういうの口にしていいんだー、その部数が普通なんだーって空気になってるのが嫌だ。
この気持ちはあれと一緒だ。
某同人ショップの通販店頭受け取り方法が変わって、名前を言うだけじゃなくバーコートを表示しなくてはいけなくなったとき、私はレジに並ぶ前にバーコードを準備して万全を期して受け取っていた。それがルールだったからだ。
だけど友達は、めんどくさいそんなの知らないと押し通して名前を伝えるだけでスマホも出さずに通販を受け取っていた、あのときに感じた気持ちと同じだ。
私が直接迷惑を被ったわけではないけど、私はきちんとルールを守っているのにルールを守っていない人間が堂々としている。注意したってどこ吹く風。
ルールを守ってる真面目な自分が馬鹿らしくなる。でも私には彼女のようにわがままを押し通すことはできない。
……つまり自分ができないことをしている人たちが妬ましいのだ。
堂々と暗黙のルールを破る発言を自分はそんなに隠すことではないと思ってるからと人目を気にせず公の場で言葉にできない。
自撮りあげてる人間が多いから若い子が多いんだろうなって思うから(偏見だけど昭和生まれは自撮り上げない。ネットで個人情報晒しちゃダメって教育受けてるから自撮りあげてる人間はみんな平成生まれだと思ってる)部数非公開とかそういう暗黙のルールにしがみついてるのがもう時代遅れなのか……。
これはもう部数関係ないただの愚痴になるけど、イベントに申し込んで参加表明しただけで褒められるジャンルって初めてなんだけど。びっくりしたわ。
少し前に話題になったアラサーで初めて同人誌を出した話、眩しすぎて涙でた。
私だって同人誌はだしたいからだすし、出してイベントでるのすっっっっごい楽しい。
だけどどうにもこの界隈の空気に馴染めない。いや馴染めないって言い訳だ。
若い子が多くて仲間に入れてもらえないババアが僻んで卑屈になってわざと見下す要素探して馬鹿にして高みから見物してるだけ。
私の性根が腐ってるからこちらとしては当たり前のことを、発想の天才!とか言って身内で褒め合ってるの見て勝手にイライラしてるだけ。
空リプで褒めあうのなんでなの?
仲良いなら直接言えばいいのでは?
それともほんとは仲良くないの?
空リプ文化ほんと嫌いなんだけど。若い子のノリにおばさんついていけません。
身内でわいわい楽しくやってるんだからむしろ水さしてるのは老害になってる私だし、嫌ならジャンル離れろって話ですよね。
そんなの自分が一番わかってる。
今の私の気持ちは少し前にバズった「嫌いな小説書きの話」あれそのもの。
あれを読んだとき自分が書いたのか?ってくらいわかりみしかなかったんだけどコメント見ると否定的な意見多くてびっくりした。
読み手と書き手で違うのかもしれないけどあの感情は理解しがたい人が多数なの……?
めちゃくちゃ羨ましい。あれをアイデアに百合漫画描かれてたけど、恋愛感情だったらどれだけマシだったか。
自分より明らかに若く経験値のない子たちが素敵な小説を書いてる。
最初ハマりたての頃は楽しんで読んでたけどいまじゃもう嫉妬心しか湧かないの辛い。
愉快犯的なのわからんけど、巨大感情抱えすぎて酷い言葉で相手を傷つけたくなるのわかる。
だって自分の書いた作品じゃその人に届かないし何も反応もらえないから絶対に相手に届く、傷つける、反応を見ることができる毒を投げたくなる。でもそれで二度と創作できなくなる気持ちもわかるから相手を傷つけるようなことは送らない。
むしろ過剰に褒めることはするけど。反応をもらえることを期待しているという点では、毒マシュマロも感想マシュマロも変わらないのかも。
毒を送らなくたって匿名でこんだけぐちぐち言ってる時点でやっかいな人間なことには変わらないんだけど。
この界隈すごい褒め合ってわいわいしてるけど、突然アカウント消して消えてしまう人もたびたびいる。
そういう人がいるたび、○○さんが消えた😭大丈夫かな?とか大騒ぎするのもメンドクセーって思う。
その人こっそり仲良い人だけフォローしてる鍵アカウント作ってるよ。あなたたちのそういう褒め合いっこ仲良しごっこがいやになって鍵垢でのんびりやってるらしいよ。そういうのわかった上で、心配してますアピールしてるんだよね?
私あなたのこと大好きだよ心配してるよだから鍵垢でフォローして!っていうアピールなんだよね?
……え、違うの?ほんとに心配して言ってるの?
そんな人いるの?それが普通なの?
フォロワーのフォロー数とフォロワー数を把握して、誰をブロックしたとか誰にフォローされたとか、したとか把握しないの普通の人は……?
垢消しした人の鍵垢見つけたり、鍵してない人のフォロワー調べて、@検索とかで鍵垢で誰をフォローしてるかチェックしたりしないの……?
@会話で垢消しの原因探ったりとかしないの?
あんなに仲良しアピールしてたのにあなたは鍵垢にフォローされてないのかわいそう、とかこっそり笑ったりしないの?
そんなことしてる私が一番かわいそうな人間なのか。
普通、ではないのはわかるけど私のこのツイッターとの距離感間違えてツイッターに振り回されて精神病んでくのほんとにやばい?
それでも私は荒んだ心を隠したままオモテでは無難なことを呟き続けて対して良い作品を生み出せるわけでもなく、満たされない承認欲求を抱いたままこの界隈にしばらくいるだろうし、ツイッターの監視をする。
いっそ小説なんて書けなければよかった。半端にかけてしまったからこんなに苦悩する。
ずっと読み手のままどんな作品も楽しめれたらどれだけ良かったか。
でもきっと読み手でも、神作家さんと仲良くなりたいのになれなくて仲良しアピールをする人たちに嫉妬して毒マシマロ送ったりしてしまったんだろうな。
自分がクソすぎて泣けてくる。なんでこんな人間になってしまったんだろうな。
こんなとこまで読んでくれてる人いないと思うけど、もしいたら多少なりとも共感してくれた人だと思うんだけど、私精神病んでるかな?やばいレベルに達してる?
パニック障害だった。強烈な不安がいつでもあって、マズローでいう安全欲求も満たせなかった。
同じ境遇の人がいたら、言葉にできない程の辛さであるし、黙って抱きしめてやることしかできない。
ただ周りはもうとっくに友だちを作っている人達であり、自分の初めて友だち作りたいという温度感とは違っていた。
今考えれば同期と友達になろうというのが間違っていたかもしれない。
その欲求は小学3年生にでも混ざらないと満たせるものではなかった。
こういう結果になっていることはすべて自分が悪いと思った。
自分のスキルも努力も足りないし、人以上に何かをしなければと思い自己啓発をした。
そして、とにかく人と会う機会が欲しく、23歳でマルチ商法で人と会いまくった。100人200人300人と。
個人的にはコミュ障で人とうまく話せなくても、仕事と考えればメンタル的に楽だった。
ただ横の繋がりがどうしても不快感があるし借金が膨らみ、続けられかった。
自分には何もできないのかと思える。
仕事も質的な難しさがあって頭抱えて苦しいなか、上司には罵声を浴びせられる
なぜ、まともに学校行ってなかった自分と超有名大学の優秀な人が席を並べてる意味が分からない。
学歴は関係ない。そう思ってはいるが、ここでは学力があり考える訓練をしてきた人たちが標準であり、
そういう人にはそういう仲間もいるし徒党を組む。この環境では自分のような存在は劣等だった。
劣等感ばかり。
退職してからは仕事選びの基準がメンタルを崩さない環境であること。が最優先事項になった。
「はい学校通える!社会的欲求芽生えた!友達できた!自信ついた!良い大学・会社行けた!
複利が効いてくるのでね。
という私の悲しみ日記でした。
まじめな話、暗い将来の話、才能の無さからの逃避、それが僕にとってのアナルオナニーだ。
久しぶりにアナルほじる気分になったので、アナルでオナニーした。やっぱり薬局で買った手袋がうまくローションに馴染んでないのか指をアナルに入れると若干違和感を感じる。あと、腕が短いから指を深く入れると腕が痛い。みんなどうしているのか。
アナルに指を挿入すること自体に抵抗感を感じなくなった自分を誉めてあげたい。
なんか今日は疲れていたのか、指の挿入が足りないのか、あまり感じなかった。まあおちんちん擦ったら気持ちよくなるんですけど。やっぱりちんちん単独の時より快楽が味わい深い。うまく言葉にできないけれど、快感がじんわりしてる。前回までの知見を活かして、寸止めを楽しんだ。3回くらい射精寸前のような快感を存分に味わっていたら、勢い余って射精してしまった。Tシャツが精子でべとべとになってしまい最悪だった。アナルでオナニーすると、正しいことをしたという満足感があっていい。すっきりする。もっと手軽にアナルオナニーできればなあ、前立腺が体外についてたらいいのにと毎回思う。
なんかアナルでオナニーしていると女装ニューハーフAVに感情移入できるようになってきたんだけれど、ちょっとまずい。ニューハーフ風俗で僕のアナルを突かれるというナイスなアイデアを思いついてしまったが、それはどう考えてもホモではと気づき冷静になった。アナルを極めると皆ホモになってしまうのか。そんなことないと信じたい。
アニメがあまりにも面白くて、3回くらい見た。いまでも仕事がつらい時に見て元気をもらう。
それで、小説のほうは9巻くらいまで一気に読んで、そのあと半年ぐらい放置していた。読了したという満足感はあるけれど、読むのが辞められないというほどもなかった。
ストーリーを一言でいうと、魔法という技術を発明した魔女の社会実装をめぐるドタバタを描いた物語だ。
やっぱり1巻が一番面白い。社会から爪弾きにされた獣と魔女の主人公という居心地の良さと、その主人公を取り囲む人たちの善良さがこの作品のいいところだと思う。登場人物の全員が闇を抱えながらも、それでいて人を傷つけない「やさしい世界」の一つの形だと思う。最終巻にショートスーリーが収録されてて、それが短くまとまっていて面白い。すべての物語が、丸く収まっている。そういう印象の小説だった。
うまく言葉にできないのだけれど、初期と後期でずいぶんと作風が変わっているように感じた。よく言えばこなれているというか、悪く言えば凡百の空気というか、ゼロってこんな人だったっけって思う。ゼロは崇高な理想を掲げていたはずなのにだんだんとその場の流れに流されていく。そう考えると永遠の命をもつ孤高の魔女から、有限の命をもつ少女へと変化していく物語ととらえたらいいのかな。ところで、最後のほうはほとんど魔法の詠唱してないのはなぜだったんだろう。あのシーンはかっこよくて好きだったんだけどな。そして、最後に行くにしたがって毛玉と魔女が「特別な関係」になっていくのが明示されてて、自分としては不器用なままでいてほしかったなあと思った。どちらかというと、獣と魔法使いがどったんばったん大騒ぎしながら小さな事件をもっと解決していくシリーズが見たかったな。
主人公のゼロが最高だった点は、その研究者的純粋さだよね。魔法を本にして広めればみんなが幸せになると思ったとか、自分の知らない魔法を使う奴との出会いにワクワクしてみたり、尊敬する先輩との別れに涙してみたり、ともに考える人たちへの敬意みたいのを常に欠かさないという姿勢がすごく魅力的だった。
楽しい読書体験だった。こんなに読んだの「棺姫のチャイカ」以来だったよ。作者にはほんとに素敵な時間を過ごさせてもらったと思う。ありがとう。
がら女を殴る男がいた。SMでは厳しい打撃
と蕩けるほど甘いご褒美のセットを繰り返していくことで打撃をご褒美と錯覚してゆく。痛みを与える側にも
うける側にも純粋な憎しみはない。女には殴られる事で満た
よび出す前からプレイは始まる。お互いに言葉にできないなにかを満たしあ
うためにプレイする。
なぐられて育てられた女には家族との絆と殴りが同じものと錯覚していたのかもしれない。殴り殴
られるまでのプロセス食べ物を与えもてなした女を殴る、食べ物を与えられて腹が満たされた後女は殴られる、という儀式なのかもしれない。無抵抗な人を殴る背徳感。殴りを受け入れるサンドバックのような人間を殴る虚無感。肉のサンドバッグを
ごつい拳で殴る事で得られる反作用ー揺さぶられる肉、揺らぐ体幹、呻き、時には涙、時には体液ー、そして殴りを受け入れる女の存在が男の心を満たしたのかもしれない。言語化できない黒い衝動ー不幸な過去、不安な未来、噛み合わない社会、安らげない現在、逃れられない孤独ーを満たそうとする欲望が渇望する
きびしく強い衝撃と刺激と純粋な痛み。真正面から怒りをぶつけ合う喧嘩に似た衝動は発散した後に虚無感を覚える。賢者タイムが訪れる。衝動に人格を支配された後に残るものは理性と
げんじつ。衝動に支配された自分が本物なのか支配されていない自分が本物なのか湧いてくる自問。常軌を逸しているのかといえばそうではない。にんげ
んはそもそも常軌を逸する事で既成概念を打ち破り進化してきたのだ。極めて人間らしい精神であり行動であるといえる。そして笑わない顔で娘を殴る母親がいた。血の絆がある子供への憎しみを持った"しつけ"として殴るのは残酷なことに楽しみは無い。しつけの背景には自身の価値観の肯定と維持そしてそれに抗う子供への支配
よくがある。
うんだ子供が自身の分身であることは同時に自身の一部でもある。自身の一部が思い通りに動かないのだ。驚き悲しみ怒りが沸くだろう。もともと子供は自分の臓器から成り立っているのだ。生殺与奪権は生みの親にあると考えてしまえば思い通りに育たない子供が失われてしまっても構わないと考えるだろう。自らが自らの炎症箇所を切り取るようなむしろ自身を正当化する手術のような価値観なのかもしれない。だがしかし、親も子もへその緒が切断された時点で他人なのだ。他人と他人が生きていくにはお互いに尊厳が最低限必要だ。
まともな道も価値観も存在するようで存在しない。あくまで過去を振り返って受け入れられるかい
なかでしかない。偏った執
ちゃく心から生まれる暴力に喜びはない。暴力を受ける側にも当然ながら無い。(リョナは別)生きる意味を見出せず、他人の欲望に身を投げることで曖昧に生きてきた女ですら愛を知り生への執着を持つほど変化することができたのだ。欠乏を感じ女を殴り喜びを得ていた男も生きている限りはやがてち
ゃんと変わるだろう。彼は幸せになれるのだろうか。そこは長くはない人生のひと時を共に過ごした彼の行く末を信じてあんし
んしていいと思う。
た概念の"普通"は良くも悪くも概念でしかなく、その定義は存在するようで存在しない。つまりは
ね、知ってる人も知らない人もみんなそれぞれ欲しいものを求めて生きる。死を選ぶことも含めて。そんな人たちが同じ空の下で同じ時空を過ごしているのだ。寂しいね。でも寂しさは平等なんだ。世の中に平等な事が在ると思うと嬉しいよね
。
どうも祝辞に賛成する人たちにとってあれに反感を覚える人は知性がない人達らしい。
彼女達の意味する知性とは人間の脳内のネットワークプロトコルの事の様だ
彼女達はおそらく現実に実現にかかるリソースがどれくらいでどういう計画が必要でその為に誰がどう動けばいいのかという事には興味がない。
この世界の人間には自分の言葉が通じる筈、そして思いが通じる筈。誰もが自分と同じ無意識の脳内プロトコルを持っていて自分の所属するネットワークの一部になってくれる筈。
その為なら理屈は飾りで人間の頭がある程度騙されてくれさえすればいい。自分のネットワーク上で生まれた妄想で実現が可能かどうかはどうでもいい
とにかくそのネットワークプロトコルが世の中に伝搬していって中心付近に自分がいる事が分かれば安心する。この安心を守る為にはどんな洗脳だろうと侮辱だろうとしていいの。
そしてこの言葉にできない無意識のネットワークプロトコルに応答するプロトコルを持たない人達は知性がないの
自分の所属するネットワークの理想と妄想を叶える為に大変な事は自分の知らない誰かが苦しんだり汗水垂らして働いたり、事故にあって死んだり殉職したりして何とでもなる筈。
だからみんなでこの無意識のネットワークプロトコルを信じてさえいればいいの
と、自分で書いててもこういう理解不能な行動指針を持っているらしい。
自分の思想に同化しない人間を蔑視し始めるのは危険思想の走りなのだがこのあたりを多分自覚しつつもお花畑に彼女達は住んでいる。
そしてお花畑を拡張しようとし続ける。彼女達がお花だと思っているのは彼女達のプロトコルを理解できない人には食虫植物で命を奪う存在なのだが
別に異端者の命は彼女らはどうなろうと知ったこっちゃない様だ。
そういう思想体系に住んでらっしゃるので適度に自分のプロトコルが人々に信じられていると上手に騙して差し上げれば簡単にコントロールできる。
思えば男に騙される女性はそんな感じで騙されるのだろう。
「AVやエロ漫画で非モテが性欲から解放されるか?」というのが非モテ界隈ではたまに話に上がる。
しかし、当の非モテの自分からすれば、なんか論点がズレているように思えている。
うまく言葉にできないが、「俺は美少女のエロを知らずに死ぬ」という苦しみからは解放されていると思う。昭和なら、ブロンド美女とは何か、180cmのモデルが爺とセックスすることはどういうことなのか、ということを分からずに、悶々として死んでいたのだろう。
今は、そういう悶々としたものはない。普通に知って、普通に当たり前になって生きられる。
リアル女性からの愛情というのが、非モテ論での解放される趣旨なんだろうけど。そういうものは、世界最高の女性のエロを知らない苦しみより遥かに低いんじゃないかと感じてしまう。
世の中の女性は、バンドマンやホストに借金作ってAVなどに行ってしまうほど、愛に狂うらしい。そこまでの気持ちは男性にはあるのかね。ないんじゃないかな。無いから、苦しく無いような。
杉田水脈の論文や、LGBT関係団体の主張を見るたびに、モヤっとしている自分がいるんだけど、何がどうモヤっとしているのか言葉にできない。
それはおそらく、少なくとも次のことが分かっていないせいだと思う。
(3)日本という国家において、諸制度はどのような思想で設計されているのか(特に婚姻関係と扶養)
杉田水脈の「再生産」は杉田の考える「国家とは」「日本における婚姻関係と扶養手当の在り方」「日本の方向性」の文脈ではそこまでおかしいことを言っているわけではないと思う(そもそものそれらの考え方がおかしいというのはまた別の話だ)。
しかし、まったく違う論点、もしくはあえて論点をずらされて批判されている、もしくは新たな規範を生んでいるように思えて、何となく気持ちが悪い。