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はてなキーワード: 抽象とは

2024-06-28

anond:20240627230737

はい学芸員資格増田だよ。

千葉茨城埼玉群馬編はじめるよー


千葉

千葉美術館

戦前建設された銀行を新しい建物で包み込むように設計された1階と上階で雰囲気の違う不思議建物

目[mé]とか宮島達男、三沢厚彦とかピーター・ドラッカーコレクションとか行きたくなる展覧会が多い。

千葉から徒歩もしくはバス

DIC川村記念美術館

最も有名なのはロスコルームマーク・ロスコの赤い絵画作品で囲まれ空間日本で唯一無二。これは見るというより体験する絵画だね。他にも抽象作品が多く、サイ・トゥオンブリーフランク・ステラなど他の美術館ではなかなかお目にかかることの少ない作品がたくさん見られるよ。遠いけど、自然に囲まれ気持ちは良いですー

JR佐倉駅」下車。そこからバス


ホキ美術館

写実絵画専門の美術館美術史とか意識せずに作家さんの技術表現純粋に楽しむことができる。日建設計建物面白いね。

JR外房線土気駅」下車。土気駅よりバスで約5分。


市原湖畔美術館は行けてないので判断なし(いいとは伝え聞くよ)


茨城

水戸芸術館現代美術ギャラリー

建築磯崎新英名アートタワーミト。タワー!(展望室見学200円)

今は反対側に伊東豊雄水戸市民会館ができて時代の変化と建築家の特徴を感じられて面白いよ。

水戸芸術館自体音楽演劇美術を扱うけど、小澤征爾氏の参画などそれぞれが一級であったのは初代館長吉田秀和氏の功績が大きかったと耳に挟んだよ。

内藤礼とか大竹伸朗とかピピロッティ・リストとかとかとか展覧会楽しいね。

水戸駅からバスコスパなら東京駅からバス水戸駅に。時間優先なら常磐線特急ね。


番外編:取手アートプロジェクト

取手と言えば藝大の先端芸術。ということで市民取手市、東京藝術大学の3者が組んで行われているプロジェクト1999年からからもう25年目?今は日常的にイベントをやっているらしい。

にしても、日比野克彦氏のような現代美術の人が藝大学長になるとは思わなかったなあ。


埼玉

埼玉県立近代美術館

椅子展覧会が定期的に行われるので、それを見に行く。できれば全部に座りたい。所蔵作品も良い小品が多くあった気がする。

JR京浜東北線北浦和駅西口より徒歩3分


川越市美術館

ときどき触れる展覧会をやっている。

JR埼京線川越駅からバス



群馬

原美術館ARC

アンディ ウォーホル、ジャン=ミシェル オトニエル、草間彌生束芋など常設いいよね。加えて今は、品川原美術館から移設された奈良美智宮島達男、森村泰昌作品が展示されている。品川原美術館がなくなった時は悲しかったなあ。オラファー・エリアソンの「ビューティー」を見た時は感動したよ。

JR渋川駅」よりバスにて約15分、「グリーン牧場前」下車


アーツ前橋

元館長等によるパワハラで有名。で、特に罰を受けるでもなく東京藝大の教授に。増田パワハラをされて美術業界から撤退したので、パワハラしても日本一の藝術大学教授になれるとは、さすがに気持ち悪く感じたよ。学生大丈夫かな。北陸美術館でも学芸員一斉退職とか何でなんでしょうね、この業界は。横道失礼。

でも、やなぎみわ展覧会はい展覧会でしたよ。

JR前橋駅」から徒歩もしくはバス


東京美術館は多すぎてどうするかなあ、ってかんじですー

anond:20240627162536

すごい人ははてな引退してる

最近アジャイルがー、テストがー、新人がー

抽象的なことしかいってないし

プログラミングはできないだろ

anond:20240628115221

パクリと騒ぐために話の抽象的な枠組みを認識できるほどの認知能力がない。


この人、歴史メンタリストみたいな炎上漫画を多数描いて話題になってた人だよね

歌詞意味理解出来ないって、それ、漫画家としての感性の枯渇や素養の無さを白状しているも同然なんだけど頭大丈夫

理解した上で「むかつく」とか「気に食わない」なら別にいいんだけど

「完全に意味不明」っていうのは本当に理解出来ないって事なんだろうし

なんでそれを自慢げに言うの…

仮にも漫画家なのに抽象的な歌詞を読み解いて咀嚼するだけの理解力がありませんってわざわざアピールするのは一体何なの。

絵の上手さで勝負出来るなら別かもしれないけれど、この人って絵は上手くなくて原作者の方にシフトしてるみたいだしなー

本当に何なんだろう

トマト🦉🍅Tomato Tri

@tori_the_tomato

たまにある男性ラブソング特有の、男性から別れを切り出してるっぽいのに妙に自己憐憫に満ちた歌が完全に意味不明だったんですけど最近やっと意味がわかりました

あれは「君が僕に夢を見せてくれなくなって悲しい」みたいな意味だったっぽいね

https://x.com/tori_the_tomato/status/1805980166419865620

2024-06-27

自分も競プロ出身者(カス)の思い出を書く

ワイ、国内では結構大きいインターネットサービス提供する会社にいる。

この数年、一部で競プロ出身者を持て囃す傾向があるが、それは全く幻想であることを伝えよう。

ワイの会社に来た競プロ出身者(2人いる)には、システムパフォーマンスが出てない部分を高速化してもらったり、なんやかんやで複雑化してしまった箇所を改善してもらったりなどを期待していた。(やけに抽象なのは特定を防ぐためで、実際はもっと我々の課題は明瞭である。)

その競プロ出身者は、プログラミングの腕は一見一流だと思う。高学歴学生時代からプロに親しみ、何色が云々だとか、いくつかのコンテスト入賞したりしていた。パズル的な問題を解くには確かに強い人材だと思う。しかし、企業で使うにはあまりカスすぎて、「企業出張ってきて迷惑をかけるんじゃなく、部屋にこもって競プロやってろ」と思うに至った。

まず何よりも第一に、コード品質があまりにひどく、見るに耐えないものだった。「これは可読性が低いコード、ということを本当に理解できないのか?」というレベルコードレビューで「◯◯さん、あなたは賢いからこのコードでも問題ないと思いますが、他の多くの方は◯◯さんほど賢くないので、コードが長くなってもいいからもう少し意図を掴みやすコードにしてもらえると助かります」のようなことを何度も何度も何度も何度も言った。でも変わらなかった。「自分コードが正しい」「動けば良い」という発想から抜け出す柔軟性を全く持ち合わせておらず、控えめに言ってカスであった。

次に、我々が解決したい課題のものよりも、その周辺の競プロっぽい部分に勝手に取り組んで時間を消費するという問題があった。あくまで例えばであるが、データベースに大量データをインサートする際のパフォーマンスが低くて困っていた、としよう。その issue を競プロ出身者に渡すと、大量データを取得する部分を高速化したり、インサートする前の前処理でデータソートしたりして僅かな高速化を喜ぶのであるボトルネックはインサート処理そのものなので、それ以外の部分を改善してもユーザーに届く価値ほとんど向上しない。やんわり指摘しても「でも以前よりは速くなっています」という返答である。同様に、何らかの issue を割り当てたときも、その issue の周辺からグラフ理論問題に落とし込めるようなポイントを探し出し、改善して喜んでいた。カスであった。

人格はそこまでガチカスというわけではなく、ある意味では無邪気な少年のようであった。ただそれは我々が求めている人材とは異なった。競プロ出身者一人だけこういう行動ならまだしも、我々は二人ハズレを引いている。言うまでもなく人材採用は大変コストがかかるので、今後わざわざハズレを引きに行くことはないだろう。もっとはっきり言うと、競プロ出身者を採用することは無い。


世間にはまだまだ「競プロ出身者はプログラミングに詳しいすごいプログラマである」という幻想があることだろう。しかし実際は、自分の好きな領域にのめり込んでいるだけで、宿題そっちのけでゲームをやっている小学生と似たようなメンタリティなのだ

企業プログラマとして雇われるなら、プログラムを書くだけでなく、もう少し大きい視点を持ってユーザー価値を届け利益を上げなくてはならない。その重要能力が欠如している競プロ出身者は採用すべきではないのである

2024-06-26

anond:20240626092905

俺は昔から頭と容姿が悪くてずっと苦労してきた

容姿、というのが抽象

年収も200万いくかいかないかぐらいの実家暮らし弱男って奴だ

妙に書き方が他人事

でも、俺みたいな弱男の不安は女なんかじゃ解決しねえんだよ、女が欲しいみたいな段階にすら立ててねえの

こんな愚痴書くやつにしちゃ客観的視点

なぁ、女がいれば俺は社会生活で困らなくなるのか?

なぁ、女がいれば俺はまともに働けるようになるのか?

なぁ、女がいれば俺は将来不安を感じなくて済むのか?

なぁ、女がいれば俺は朝目覚めずに眠るように死んでいたいって思わなくなるのか?

結論、なるわけねえだろ

特にここに中身がない。鬱やるぐらいの男は母親幻想を抱くものから。疑問と結論の間に「俺のことが好きな女がいたらそうかもしれねぇけど、そのへんの好感度無い女をあてがわれても」という論理を持ってくるはず。だが無いし書きそびれた様子もない。「自分のことを愛してくれる女」という幻想を持った経験がある様子が1ミリも感じられない。

怪しいのはそんな感じじゃないですかね

2024-06-25

アニメ特質は嘘のつき易さである

他の映像ジャンルとの違いは、嘘を貫き通した時に生まれる、表現の強度ではないか

この嘘の強さは、特にビジュアル表現上に発生する。

現実には有り得ない構図、色合い、デザインカメラ位置レイアウトを駆使して、時間空間に対して上手に嘘を付く。

これが決まると、実写には無い映像の美しさが発生する。

 

そもそも「絵」なのである。止まった絵を、連続して繋げることで動き・時間を発生させる。

何もないところに世界を、物語を作り出し、見た人間の心に何らかの動きを生じさせる。

虚構であるからこそ、虚構の中のリアリティを高め、一方で現実(実写)と距離を置く。

現実により過ぎた虚構は、その特性としての強度を失ってしまうから

 

絵的に現実から距離を取るというのは、抽象性を取り込むということだ。

実写が完璧な具象であるなら、アニメは具象と抽象の間を行く。

キャラクター一貫性を保持しながら、時に強くデフォルメされ、動きの間には極めて抽象的な線や面が現れる。

細かく時間を割っていけば、そこには常に絵画の生と死が繰り返されている。

絵が半ば溶け、抽象的な瞬間が現れなければ、アニメはその特質を活かしきれていないのではないかとすら感じられる。(しかしこれは時に「作画崩壊」などと呼ばれる。)

 

アニメは上手に嘘を付く。

劇場版ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』を見ながら、そんなことを思った。

この映画は、とても上手に嘘を付いている瞬間がある。

キャラクターが走る可能性を追求するように、創り手はアニメ表現可能性を信じている。

anond:20240625095018

そもそも会話内容抽象的で意味わからんし音声も架空言語で聞き取れないじゃんエルデン

これは英語多少できるニキかもしれんけどThyとかTheeは普通に古い言い方だからネイティブには時代劇の「上様」とか「ござる」みたいに普通に聞こえてるで

2024-06-22

三沢さんの本を読みました。

このエントリ三沢文也さんについての長文感想です。

三沢さん本人か三沢さんに興味あるという人だけが読んでくれれば満足です。

   

   

三沢さんは偉い

投げ出さずに完成させたことが偉いと思います

何であっても完成させたことがもっと価値がある。

 

これが一番の進歩であり収穫であって

それに比べたら読者から評価なんて些細なことです。

反省点があればすぐ次の本を書けばいいだけですから

   

その上で、三沢さんはやっぱり読解力がおかしいと思います

一般的な「文章を読めない人」と比べても更に何かがあるように見えます

引用した本の嚙み砕き方にさまざまな違和感があります

このことは揶揄からかいのために言うのではありません。

 

私ははてブ民の誤読なら大抵は何をどう誤読してるか秒でわかります

三沢さんの読書感想文もっと不思議な感じで脳が詰まります

    

  

2 三沢さんが仏教の本に出会った

三沢さんの誤読はおそらく我が強すぎることに起因します。

何を読んでもすぐ自分のことを考えてしまって

そちらの思考が長くなるため本の内容の受け取り方が歪む。   

   

から草薙龍瞬さんの本は三沢さんとの相性抜群でした。

草薙さんの癖の強い経歴を見てください。

得度を受けたという僧侶の経歴も見てください。

現在の彼の所属先や活動を見てください。

はいわばブラックジャック医師会に属さな医師)のような僧侶です。

     

彼は仏教アイデアに毎度自分の噛み砕きや味付けを入れます

それで本が何十万部も売れるのだから作家の才能は保証つきですが

彼の本が身になる人って案外少ないのではないかと私は感じています

    

彼が添加する具体性は常に、

仏教理解させるより「身近に感じさせる」ことに重点を感じます

いちいち冗長な具体性を与えて透明な抽象性を損ねているように思えます

    

仏教を知れば無用概念が減っていくはずですが、

三沢さんは本を読んで概念を増やしたように見えます

  

    

三沢さんと草薙龍瞬さん

草薙さんと三沢さん2人の出会いが相性抜群で最悪だと感じるのは

両者にある種共鳴する特性があるためです。

 

教師草薙さんは仏教を紹介する本にかなり自己流の工夫を入れる人で、

生徒の三沢さんは人の話の途中の浅瀬で自己解釈を始める人です。

 

本来仏教というコンテンツ小麦だとしたら

草薙龍瞬さんが提供する仏教は既にスパゲッティナポリタンになってる感じ。

三沢さんはそれを舐めて「このケチャップの僕流アレンジ」を考えている。

  

殆ど見る影もないぐらいにコンテンツが変わっているので

三沢さんが草薙龍瞬さんの本から得た「仏教」はお釈迦様のアイデアとは別ものです。

現に三沢さんの欠点・苦しみの元が少しも治っていないですよね。

本当の仏教ならば三沢さんの苦しみの元を解決します。

  

  

三沢さんのケチャップ仏教

仏教の真理は無常・苦・無我です。

  

せめてこの端緒にでもついていれば、三沢さんの病的な「自分自分自分自分」という文の(思考の)癖に変化の兆しぐらいは生じているはずです。

https://note.com/tm2501/n/n1c20fe51d4ec

自分」が27回出てくる執筆感想エントリ

     

現に三沢さんにそのような変化が見られないので、

草薙さんか三沢さんか少なくとも片方に重大なエラーが発生していると思います

(たぶん共鳴し合っている気がするのですが)

  

三沢さんは執着せず眺めて手放すということが出来ていません。

何故かというといちいち解釈を入れるからです。

自我から生じる思考判断を手放さなければならないのに

「ん、これはアンタッチャブル」とか考えていたら出来ないですよね。

 

(私は草薙さんの「ジャッジメント」ですらなんだかなと感じましたが

 三沢さんはそれをさら俺流に「アンタッチャブル」に変えました。

 二人ともなぜこんなことするんですかね。

 判断している、と確認すれば十分な気がします。)

 

仏教もっとずっと真剣集中力を持って取り組むものです。

草薙龍瞬さんの紹介と三沢さんの読解のタッグが仏法を損ないました。

二人とも勝手アレンジを入れることの弊害への警戒心がなさすぎるように思います

それをやると劣化コピーではなく根本的に機能を損ねることがあります

   

  

5 草薙龍瞬さんの本は厳しい

というか私は草薙龍瞬さんの本はサンプルだけ見て閉じたきりでしたが、

今回三沢さんへの影響を確認するうえでアンリミテッドで読みました。

「反応しない練習」。

 

読んでいるだけでどんどん頭が悪くなるような感覚がありました。

これは三沢さんの文章そっくりなんです。

知識収集癖、羅列癖、過剰で無益な具体性、支離滅裂、あと鍵かっこが多すぎ。

 

書き手実践して身についた知識について語っている感じがあんまりしない。 

これ本当に三沢さんと同じ型の人ではないですか?

 

私はこのがちゃがちゃな本から読者が自分のためになるエッセンスを掴み取れる気がしません。

凄く売れた本らしいですが、買った人達ちゃんと読んだのでしょうか?

  

  

6 私の見る三沢さん

草薙龍瞬さんはプロ作家でお坊さんですから偉そうな意見は言えませんが、

三沢さんは34歳ニートなので多少の助言はしても良いと思います

    

三沢さんは「有能な人っぽく振る舞うこと」に神経を使いすぎです。

三沢さんて「有能な凄い人にならなければ自分の願いはかなわない」と思い込んでいませんか。

全然そんなことはありません。

能力的に凡人でも凡人以下でも願いをかなえて生きている人は沢山います

 

三沢さんの大言壮語意識高そうな口調はただの自己否定現実逃避に見えます

自分など大した人間ではないと認められないのは、

凡人だと生きていけないという強迫観念があるためではないですか。

 

三沢さんは普通でないくらいに自信がない人で、しかも自信欠如への対応おかしい。

自分乖離した凄い人の虚像を作って身にまとう」という対処のせいで

実像とのギャップが生じてますます苦しみと自信喪失ループに陥っていますよね。

仏教が推奨する心と正反対状態になっていると思います

   

たまに三沢さんの文を見かけるだけの人間でもそういうことを濃厚に感じます

   

 

7 三沢さんにやってほしいこと

まず三沢さんの目的や願いを確認してほしいと思います

三沢さんが経済的な栄達や富貴を求めているなら

世間の熾烈な競争に負けない「凄い人」になる必要があったかもしれません。

しかし34歳にもなればそんなものを追い求める虚しさは感じられているでしょう。

   

四国に住んで創作活動人生を送るという願いは素敵だと思います

叶うと思います

ただ、その願いの実現ためにまず「凄い人」になる必要があると考えていると

願いをかなえる前に寿命が尽きると思います

10年後も同じ部屋に住んでると思います

   

三沢さんが「凄い人」になろうとする必要性や焦燥は何のためにありますか?

  

  

三沢さんの読解力も多分同じ理由

三沢さんの早飲み込み自己アレンジ癖も、 

そういう「凄い人」になるための焦りの所産と言うか

人と違うバリューを出すんだという間違った取り組みに見えます

本を読んでるあいだずっと「面白い独自感想を言わなければ」とか考えていますよね?

 

これは大きな間違いで、

本をただきちんと読めて書いてあることを受け取れるなら

それだけで尋常ではない能力の持ち主なんです。

そんな人間人類の0.01パーセントもいません。

高学歴はてなブックマーク人達だって新聞記事すら読めていないでしょう?

 

これは人類集中力がないからです。

ときわ壊滅的な集中力しかない三沢さんも苦しみの構造自体は同じです。

 

集中を邪魔するものとは何か?自我です。

三沢さんが人並以上に集中力が欠損しているのも、頭があんまり良くないのも、(本当はなんらかの自覚はある筈です)

記事で27回も「自分」と書くような心の有様のせいです。

    

本の内容と一体化すべき時にいちいち自分自分をやっていれば本など読めるわけがありません。

おそらく「批判的に読書をする」のようなアイデアをまた草薙さんのようなアレンジをする人から受け取って、

さらに半飲み込みで実装したのではないですか?

   

  

9 すべて自我邪魔をしている 

余計な概念妄想を心から削ぎ落すことで

ものごとを正しく見て正しく知ることができ、

そのとき智慧はおのずから現れてくる

というのが仏教です。

  

三沢さん好みの具体的過ぎる話をするなら

仏教実践して集中力を高めた状態で本を読めば

何と言うこともなくすらすらと内容が頭に入ります

 

概念を手放していくというのはたぶん三沢さんの溜め込んだメソッド正反対でしょう。

から三沢さんが本当に仏教出会えばじわじわと別人になってしまうはずです。

でもそうならないのはおそらく草薙さんと三沢さんの自我のせいです。

 

何と出会ったって自分概念九龍城へ組み込むパーツとしてしか見てないために

どんなものに触れてもその価値が分から自分も変わらない。 

それが自我の恐ろしさであり頭の悪さの根本です。

   

 

10 まとめ

まとめると

三沢さんはものすごく自信がないために

自分は有能な凄い人だ」という妄想概念をくみ上げて常にそれを体の周りに装着しています

  

このために何を見ても何を聞いても何を読んでもその妄想を通しているために情報が壊れてしまう。 

これが自我です。

 

人の話を聞いてるときに、相手が何を言っているかも何を感じているかもわかりにくくないですか。

もしそうならそれは自我がずーっと邪魔をしていて心が目の前の情報を取れないためです。

 

人類がこの病気ではあるけど三沢さんは少し程度が強いのではという印象です。

仏教にはこのガスを取り払うための実践的で研ぎ澄まされたメソッドがあります

草薙龍瞬さんの本を読むとそういうことまで辿り着けないと思うし

こんなところでこちから押し付けたってやらないですよね。

 

三沢さんは「特別自分」「オリジナル自分」について考えこむことが自分の強みであり突破口だと思っていそうですが

そこが一番の間違いであることは仏教なら本当は30分でわかります

本を読むのにも文をバズらせることにもそんなこと考える必要は一切ないです。

四国へ行きたいならまずその自我妄想と別れを告げることだと思う。

  

 

ところでお坊さんを軽々に否定したりしちゃいけないという道徳自分の中にあるんですが

でも草薙龍瞬さんの本はなんか…。デタラメを言っているとかでもないからなんとも言えないんですが。

彼の本を読んだ人が実際にどんな改善をしたかデータとか見てみたいです。こちらの偏見があるかもしれない。

(ところで草薙龍瞬という僧侶ネーム?は誰がつけたんだろうか)

2024-06-18

anond:20240618143241

異常っていうか、そういう人見てると大多数は前頭葉幼児の頃のままなだけな気がするんだよね

人間人間たる由縁って、ほんとんど前頭葉に依るものだし

前頭前野の働きは?

前頭前野には抽象的な思考に関わる神経回路があり、集中力を高めて作業に専念させる役割を果たすとともに、ワーキングメモリー計算をする場合などに情報一時的記憶すること)として働きます。 また、精神制御装置としての役割を担っており、状況にそぐわない思考や行動を抑制しています

anond:20240618110825

ワイは幼児の頃、下記が納得いかなかったやで

 

 

動物も、餌の数とか、自分の子ども数とか、群れの仲間の数とか、数えられるみたいなんだけど、

人間のように抽象的な数の概念は流石に難しい(おそらく野生では使わないから)

認知能力の発達って面白いよね

2024-06-17

anond:20240617181426

きちんと反駁するには、抽象的な段階ならまだしも具体的に指摘するとなると非常に時間がかかる

普段から経済学やってる教授ならともかく、経済学から離れて久しい自分程度ならそうなるし、そんな事をするほど暇ではない

イスラエル絶対悪だ!いやハマス絶対悪だ!

なんて次元の話をしている連中に、歴史から前提から過去の行いからを一から説明して是々非々結論を教えるのは本当に大変なんだよ

わからんかね、この程度の事が

anond:20240617052018

何かしら能力ある人ってね基本的に何言ってるかわからない

専門用語だったり、抽象的だったり、単純に声が小さかったり

色々あるけどとりあえず何言ってんのかよくわからない

そういう人に出逢った時にね貴方みたいな人はね

その人の話しをよく聞くといいと思う

他の人も言ってるけど

2024-06-16

anond:20240609111500

マルクスの考える「少子化対策

だるい文章ですが、お付き合いください。

相対的過剰人口の第三のカテゴリーである停滞的過剰人口は、現役労働者軍の一部分をなすが、しかしまったく不規則就業のもとにある。こうして、この人口は、資本自由使用することのできる労働力の尽きることのない貯水池提供する。彼らの生活状態労働者階級の平均的な標準的水準よりも低落し、まさにこのために、彼らは資本特有搾取部門の広大な基礎となる。最大限の労働時間と最小限の賃金とが彼らを特徴づける。われわれは彼らの主要な姿態をすでに家内労働の頂で知っている。彼らは、大工業および大農業の過剰労働者から絶えず補充され、ことにまた、没落しつつある産業部門 ーそこでは手工業経営がマニュファクチュア経営に、後者機械経営に屈服するー から絶えず補充される。彼らの範囲は、蓄積の大きさとエネルギーとともに「人口過剰化」が進むにつれて、拡大する。しかし同時に、彼らは、労働者階級のうちで、自己自身自己自身再生産し永久化している一要素をなしており、労働者階級の総数増大にあずかる割合は他の諸要素よりも比率的に大きい。実際には、出生数および死亡数だけでなく、家族絶対的大きさも、労賃の高さに、すなわち労働者のさまざまな分類が自由処分できる生活手段の総量に、反比例する。資本主義社会のこの法則は、未開の人々のあいだでは、または文明化した植民地住民あいだでさえ、不合理なものに聞こえるであろう。この法則は、個体としては弱く、絶えず駆り立てられる動物種がたくさん子供を生むことを思い起こさせる。(八七)」

大事な部分をもう一度書きます反比例ですぞ

「実際には、出生数および死亡数だけでなく、家族絶対的大きさも、労賃の高さに、すなわち労働者のさまざまな分類が自由処分できる生活手段の総量に、反比例する。資本主義社会のこの法則は、未開の人々のあいだでは、または文明化した植民地住民あいだでさえ、不合理なものに聞こえるであろう。この法則は、個体としては弱く、絶えず駆り立てられる動物種がたくさん子供を生むことを思い起こさせる。」

ようするに、「金持ち子供を生まない」わけです。現在最も富裕な人が子沢山ではないですし、今地球上で人口が増えているエリアは、東南アジアアフリカなど

貧乏エリア人口が増えています

資本主義のヒエラルキーを考えた時に、日本は、ピラミッドの上の方の職種が多いのだと思います

そのような、資本主義の貴族と言えるような人間が増えるには、より多くの

ピラミッドの下側の人間必要になるわけです。そのようなことは地球がもう一つ必要になりますし、

しろ、そのような貴族資本主義の向かう先、効率化、「生産性」の餌食になるタイプ人種に思います

からすると、貴族に金を与えようという政策は、狂気の沙汰に思います

マルクスは以下のようにも言っています

「実際に歴史上の特殊生産様式はいずれも、その特殊な、歴史的に妥当する人口法則をもっているのである抽象的な人口法則というものは、人間歴史的に介入しない限りで、動植物にとってのみ存在する。」

資本主義という生産様式があり、そこではどのような人口法則が働いているのかを考えるのが重要だと思います

2024-06-13

anond:20240613171630

察してちゃん問題

男女とも言わなきゃわかんないぞ

相手受け身がイヤなら

具体的にしてもらいたいことを教えればいい

「ありがとう」「嬉しい」「楽しい」「幸せ」「気持ちイイ」「もっと」と褒めて伸ばせ

受け身だと淋しい」とか何とでも言ってオネダリせよ

もっと積極的に」なんて抽象的なことを言われても

具体的にどうしたらいいのか困惑するだけ

女性性的なことで「察して」とか無理だから

そっちの動画視聴の累積時間全然うから男がよろこぶことの知識も無いんだよ

BL漫画読む腐女子なら知識あるかな

BL漫画動画と一緒でファンタジーからかえって危険かも

好みもあるし「股より胸の方が好きなのかなあ」程度しか察せないよ

積極的になると「初々しい恥じらいが無くなった」とか言う奴もいるしな

それから相手が何が好きか嫌か痛いか観察したり直接訊く

興味があって調べるような女性

ananとか女性向け雑誌のそういう特集を読んでるんじゃないか

売れてるってことはそれなりに興味がある女性存在するんだろう

興味が無い女性はたくさんいるだろうが

その中にも協力的な女性はいるだろう

追記

妻にセックスダメ出しをされ続けてつらい

https://anond.hatelabo.jp/20240609181437

男女逆だが具体的に伝えてもうまくいかない場合もあるんだね

ダメ出し」の方法ダメそう

男性はその気が無いと物理的にできないからなあ

anond:20240613104650

アホや……

毎度思うんだがリソース管理が下手くそ人間存在には辟易する

アホな借金破産するの社会の損失だろ

義務教育はこういう点のトレーニングも担うべきと思っている

ちまちま抽象論教えるだけじゃなくてさあ

なあ?まずはトロピコやらせてくれや

2024-06-11

分かりづらい方法論の方が持て囃される気がする(IT

ITに限らずだけど

 

・なんかすごい人が提唱してて

理解しづらい、複雑で抽象的な方法

 

って

理解した!」って言うと優秀だと思われるし

解説します」っていう記事は伸びるし

でもその経典はだいたい「それが正解です」とは言わないし

 

こういう、つまりエヴァのような方法論ってバズりやすいよね

それで「◯◯に経験がある方」なんて募集かけちゃうもんだから

皆がこぞって勉強するんだけど、結局認識の一致は得られず

却ってカオス度を増すだけみたいな

 

そういうのって他の業界にもありそうだよね

 

シンプルでわかりやす実効性のあるものは、さっさと共通認識になるからバズらないんだよね

2024-06-08

anond:20240608113905

説明が下手すぎて読めん。

お前の話はいきなり具体性が高すぎるんだよ。

最初もっと抽象的に説明しろ

そのあとで具体的な説明オプションとしてつけろ。

 

要するにお前は抽象化が下手。

知識はあるのにうまく活用できない。

お前が会話できるのはお前と同じジャンルにお前ぐらいの知識がある人間だけ。

悪い意味での昔のオタク

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-06-06

   平成30年の夏にペガサス浮間舟渡の向こうの赤羽ゴルフ場で叫んでいたといっても抽象的にそう言っているだけで当時の様子は全く具体的には確定できないので、当時の教科書

   書いて次第に確定していくしかない。  記憶されているのは次の程度の事である

     (1)  雨が降っていた日であり、糞警部補が、向こうからライトで照らしていた。

     (2)  男? 歌を歌っている。意見を言っている、意味不明、という通報しか残っていない。 志村庁舎がどのように扱ったについても、平成30年分は何も記録されていない。

   副島真のバッタ問題、  バッタ整数列のジャンプの着地しないところがあるという問題を解いたことになっている3人の警察官   熊谷永華 戸田勇哉 本官

    難しかった理由     整数ではなく組み合わせの問題で、しかも、誰も体験したことがない、 Strong-Inductionが登場する問題だったこ

    熊 戸田 本官   帰納法専門家。  3次元事件現場で、 強く、帰れ帰れ、と言うことで、有名。

なぜフランスでは「創価幸福の科学統一教会」がカルト扱いされているのか…フランスカルト規制する上で注視する「10基準」とは | 集英社オンライン | ニュースを本気で噛み砕け

https://l.pg1x.com/a5AB


はてなー共は読んでないだろうなぁ。

10基準」がカルトとして認定されるファクトだってこと。

10基準」は以下の通り。


精神不安定

・法外な金銭要求

・元の生活からの引き離し

身体に対する加害

子どもの加入強要

反社会的な言説

・公序に対する脅威

訴訟を多く抱えている

・通常の経済流通経路からの逸脱

公権力への浸透の企て


要するに「現状の社会規範から積極的に遊離、逸脱、変革しよう」としている宗教的組織を「カルト」と認定してるわけよ。

からイスラム教は「カルト」的であろうよ。特にフランスにおいては。

この項目に楯突く文句は1つもない。確かにこれは「カルト要件」だ。


バカジャップ諸君には宗教成立の3つの要素も付け加えておこう。

教理

倫理

実践

まぁ、抽象的な言葉が並ぶな。俺ならこう書く。

教義

戒律

礼拝

宗教的である言葉に置き換えた方が理解が進む。

倫理なんて社会学なっちまうだろうが。バカかな?

あと書かれている3つの要素は、どれも「反対すること、疑念を持つことが可能」なものだけれど、宗教は「そんなの私(=神)がゆるさない」だからさ。

オマエラが感覚的に「宗教忌避している」っていうのは、実はこの3つの要素の方だよ、と言いたいわけ。

どうかな? 当たったかな? もう少し意識を進ませりゃ「宗教はまぁいいけど、カルト10要素はダメだ!」になりそうだが、コミュニティ抵触するものも多いので、単にフランスが「個人に鑑賞する不自由不快な国!」ってなるわけで。

まぁ難しい話だ「他人迷惑をかけている」ってのは、増田で続いている非モテ意識価値観・考え方と実は大差がないので。

2024-06-05

anond:20240604185549

『モテたければ人として接しろ』というアドバイスはまちがい。正確には『個人として接しろ』 - 自意識高い系男子

これ読んで、日本語の「人」はpersonの意味human意味の両方があるんだな、と気付いた。

元増田は、暗黙に、人をperson、人間humanという区別をしていると思う。

ただ、日本語の「人」はどっちの意味でも使えるので、誤解が生じるような文脈で、

personの意味で人と言いたい場合は、個人人格と言った方がよいのだと思う。

別の増田で、

・「人間扱い」とは、十把一絡げの「女性扱い」ではなく個人個人に合わせた扱いのことだよ派(抽象度を下げろ派)

・「人間扱い」とは、性差意識した「女性扱い」ではなく男性と同じように/無性かのように扱うことだよ派(抽象度を上げろ派)

個人的には「人間扱い」といったら人間一般適用できる後者を指すべきで、前者は「個人扱い」とでも呼ぶべきじゃないかと思うが

まずはこの二つを呼び分けられるようにならない限り「人間扱い」の情報量ゼロだわ

anond:20240603112336

ってのがあるけど、まさに前者がperson、後者humanだと思う。

いずれにせよ、「人」は多義的なので、「個人」や「人格」と言い換えた方が正しく伝わる、というのはその通りだと思うけれど、

「人」にはpersonの意味もあるので、「人として扱う」という言い方もまちがいではないと思う。

実際、自分もpersonの意味で読んでいて、上述の記事を読むまで、その多義性に気付いていなかった。

さっき「誤解が生じるような文脈で」と書いたけれど、

個人的には、恋愛人間関係についての話のなかででてくる「人として扱う」が「personとして扱う」以外の意味を持つとは思ってもみなかった。

しかし、実際には解釈がわれているので、そんなに当然視できることではなかったのだなと省みている。

2024-06-04

anond:20240604153042

「人として接する」は性別だけじゃなくて年齢も職業自分との関係性も全部削ぎ落として抽象的な意味の人として接するっていう意味だと解釈してる。

人格を持つ個人として扱うという意味だよ派に近いけど、個人的な特徴も考慮したうえで人格に注目して接するんじゃなくて、そもそも人格があるという特徴以外何も持っていないものとして接するという意味

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