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はてなキーワード: 抽象とは

2024-06-16

anond:20240609111500

マルクスの考える「少子化対策

だるい文章ですが、お付き合いください。

相対的過剰人口の第三のカテゴリーである停滞的過剰人口は、現役労働者軍の一部分をなすが、しかしまったく不規則就業のもとにある。こうして、この人口は、資本自由使用することのできる労働力の尽きることのない貯水池提供する。彼らの生活状態労働者階級の平均的な標準的水準よりも低落し、まさにこのために、彼らは資本特有搾取部門の広大な基礎となる。最大限の労働時間と最小限の賃金とが彼らを特徴づける。われわれは彼らの主要な姿態をすでに家内労働の頂で知っている。彼らは、大工業および大農業の過剰労働者から絶えず補充され、ことにまた、没落しつつある産業部門 ーそこでは手工業経営がマニュファクチュア経営に、後者機械経営に屈服するー から絶えず補充される。彼らの範囲は、蓄積の大きさとエネルギーとともに「人口過剰化」が進むにつれて、拡大する。しかし同時に、彼らは、労働者階級のうちで、自己自身自己自身再生産し永久化している一要素をなしており、労働者階級の総数増大にあずかる割合は他の諸要素よりも比率的に大きい。実際には、出生数および死亡数だけでなく、家族絶対的大きさも、労賃の高さに、すなわち労働者のさまざまな分類が自由処分できる生活手段の総量に、反比例する。資本主義社会のこの法則は、未開の人々のあいだでは、または文明化した植民地住民あいだでさえ、不合理なものに聞こえるであろう。この法則は、個体としては弱く、絶えず駆り立てられる動物種がたくさん子供を生むことを思い起こさせる。(八七)」

大事な部分をもう一度書きます反比例ですぞ

「実際には、出生数および死亡数だけでなく、家族絶対的大きさも、労賃の高さに、すなわち労働者のさまざまな分類が自由処分できる生活手段の総量に、反比例する。資本主義社会のこの法則は、未開の人々のあいだでは、または文明化した植民地住民あいだでさえ、不合理なものに聞こえるであろう。この法則は、個体としては弱く、絶えず駆り立てられる動物種がたくさん子供を生むことを思い起こさせる。」

ようするに、「金持ち子供を生まない」わけです。現在最も富裕な人が子沢山ではないですし、今地球上で人口が増えているエリアは、東南アジアアフリカなど

貧乏エリア人口が増えています

資本主義のヒエラルキーを考えた時に、日本は、ピラミッドの上の方の職種が多いのだと思います

そのような、資本主義の貴族と言えるような人間が増えるには、より多くの

ピラミッドの下側の人間必要になるわけです。そのようなことは地球がもう一つ必要になりますし、

しろ、そのような貴族資本主義の向かう先、効率化、「生産性」の餌食になるタイプ人種に思います

からすると、貴族に金を与えようという政策は、狂気の沙汰に思います

マルクスは以下のようにも言っています

「実際に歴史上の特殊生産様式はいずれも、その特殊な、歴史的に妥当する人口法則をもっているのである抽象的な人口法則というものは、人間歴史的に介入しない限りで、動植物にとってのみ存在する。」

資本主義という生産様式があり、そこではどのような人口法則が働いているのかを考えるのが重要だと思います

2024-06-13

anond:20240613171630

察してちゃん問題

男女とも言わなきゃわかんないぞ

相手受け身がイヤなら

具体的にしてもらいたいことを教えればいい

「ありがとう」「嬉しい」「楽しい」「幸せ」「気持ちイイ」「もっと」と褒めて伸ばせ

受け身だと淋しい」とか何とでも言ってオネダリせよ

もっと積極的に」なんて抽象的なことを言われても

具体的にどうしたらいいのか困惑するだけ

女性性的なことで「察して」とか無理だから

そっちの動画視聴の累積時間全然うから男がよろこぶことの知識も無いんだよ

BL漫画読む腐女子なら知識あるかな

BL漫画動画と一緒でファンタジーからかえって危険かも

好みもあるし「股より胸の方が好きなのかなあ」程度しか察せないよ

積極的になると「初々しい恥じらいが無くなった」とか言う奴もいるしな

それから相手が何が好きか嫌か痛いか観察したり直接訊く

興味があって調べるような女性

ananとか女性向け雑誌のそういう特集を読んでるんじゃないか

売れてるってことはそれなりに興味がある女性存在するんだろう

興味が無い女性はたくさんいるだろうが

その中にも協力的な女性はいるだろう

追記

妻にセックスダメ出しをされ続けてつらい

https://anond.hatelabo.jp/20240609181437

男女逆だが具体的に伝えてもうまくいかない場合もあるんだね

ダメ出し」の方法ダメそう

男性はその気が無いと物理的にできないからなあ

anond:20240613104650

アホや……

毎度思うんだがリソース管理が下手くそ人間存在には辟易する

アホな借金破産するの社会の損失だろ

義務教育はこういう点のトレーニングも担うべきと思っている

ちまちま抽象論教えるだけじゃなくてさあ

なあ?まずはトロピコやらせてくれや

2024-06-11

分かりづらい方法論の方が持て囃される気がする(IT

ITに限らずだけど

 

・なんかすごい人が提唱してて

理解しづらい、複雑で抽象的な方法

 

って

理解した!」って言うと優秀だと思われるし

解説します」っていう記事は伸びるし

でもその経典はだいたい「それが正解です」とは言わないし

 

こういう、つまりエヴァのような方法論ってバズりやすいよね

それで「◯◯に経験がある方」なんて募集かけちゃうもんだから

皆がこぞって勉強するんだけど、結局認識の一致は得られず

却ってカオス度を増すだけみたいな

 

そういうのって他の業界にもありそうだよね

 

シンプルでわかりやす実効性のあるものは、さっさと共通認識になるからバズらないんだよね

2024-06-08

anond:20240608113905

説明が下手すぎて読めん。

お前の話はいきなり具体性が高すぎるんだよ。

最初もっと抽象的に説明しろ

そのあとで具体的な説明オプションとしてつけろ。

 

要するにお前は抽象化が下手。

知識はあるのにうまく活用できない。

お前が会話できるのはお前と同じジャンルにお前ぐらいの知識がある人間だけ。

悪い意味での昔のオタク

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-06-06

   平成30年の夏にペガサス浮間舟渡の向こうの赤羽ゴルフ場で叫んでいたといっても抽象的にそう言っているだけで当時の様子は全く具体的には確定できないので、当時の教科書

   書いて次第に確定していくしかない。  記憶されているのは次の程度の事である

     (1)  雨が降っていた日であり、糞警部補が、向こうからライトで照らしていた。

     (2)  男? 歌を歌っている。意見を言っている、意味不明、という通報しか残っていない。 志村庁舎がどのように扱ったについても、平成30年分は何も記録されていない。

   副島真のバッタ問題、  バッタ整数列のジャンプの着地しないところがあるという問題を解いたことになっている3人の警察官   熊谷永華 戸田勇哉 本官

    難しかった理由     整数ではなく組み合わせの問題で、しかも、誰も体験したことがない、 Strong-Inductionが登場する問題だったこ

    熊 戸田 本官   帰納法専門家。  3次元事件現場で、 強く、帰れ帰れ、と言うことで、有名。

なぜフランスでは「創価幸福の科学統一教会」がカルト扱いされているのか…フランスカルト規制する上で注視する「10基準」とは | 集英社オンライン | ニュースを本気で噛み砕け

https://l.pg1x.com/a5AB


はてなー共は読んでないだろうなぁ。

10基準」がカルトとして認定されるファクトだってこと。

10基準」は以下の通り。


精神不安定

・法外な金銭要求

・元の生活からの引き離し

身体に対する加害

子どもの加入強要

反社会的な言説

・公序に対する脅威

訴訟を多く抱えている

・通常の経済流通経路からの逸脱

公権力への浸透の企て


要するに「現状の社会規範から積極的に遊離、逸脱、変革しよう」としている宗教的組織を「カルト」と認定してるわけよ。

からイスラム教は「カルト」的であろうよ。特にフランスにおいては。

この項目に楯突く文句は1つもない。確かにこれは「カルト要件」だ。


バカジャップ諸君には宗教成立の3つの要素も付け加えておこう。

教理

倫理

実践

まぁ、抽象的な言葉が並ぶな。俺ならこう書く。

教義

戒律

礼拝

宗教的である言葉に置き換えた方が理解が進む。

倫理なんて社会学なっちまうだろうが。バカかな?

あと書かれている3つの要素は、どれも「反対すること、疑念を持つことが可能」なものだけれど、宗教は「そんなの私(=神)がゆるさない」だからさ。

オマエラが感覚的に「宗教忌避している」っていうのは、実はこの3つの要素の方だよ、と言いたいわけ。

どうかな? 当たったかな? もう少し意識を進ませりゃ「宗教はまぁいいけど、カルト10要素はダメだ!」になりそうだが、コミュニティ抵触するものも多いので、単にフランスが「個人に鑑賞する不自由不快な国!」ってなるわけで。

まぁ難しい話だ「他人迷惑をかけている」ってのは、増田で続いている非モテ意識価値観・考え方と実は大差がないので。

2024-06-05

anond:20240604185549

『モテたければ人として接しろ』というアドバイスはまちがい。正確には『個人として接しろ』 - 自意識高い系男子

これ読んで、日本語の「人」はpersonの意味human意味の両方があるんだな、と気付いた。

元増田は、暗黙に、人をperson、人間humanという区別をしていると思う。

ただ、日本語の「人」はどっちの意味でも使えるので、誤解が生じるような文脈で、

personの意味で人と言いたい場合は、個人人格と言った方がよいのだと思う。

別の増田で、

・「人間扱い」とは、十把一絡げの「女性扱い」ではなく個人個人に合わせた扱いのことだよ派(抽象度を下げろ派)

・「人間扱い」とは、性差意識した「女性扱い」ではなく男性と同じように/無性かのように扱うことだよ派(抽象度を上げろ派)

個人的には「人間扱い」といったら人間一般適用できる後者を指すべきで、前者は「個人扱い」とでも呼ぶべきじゃないかと思うが

まずはこの二つを呼び分けられるようにならない限り「人間扱い」の情報量ゼロだわ

anond:20240603112336

ってのがあるけど、まさに前者がperson、後者humanだと思う。

いずれにせよ、「人」は多義的なので、「個人」や「人格」と言い換えた方が正しく伝わる、というのはその通りだと思うけれど、

「人」にはpersonの意味もあるので、「人として扱う」という言い方もまちがいではないと思う。

実際、自分もpersonの意味で読んでいて、上述の記事を読むまで、その多義性に気付いていなかった。

さっき「誤解が生じるような文脈で」と書いたけれど、

個人的には、恋愛人間関係についての話のなかででてくる「人として扱う」が「personとして扱う」以外の意味を持つとは思ってもみなかった。

しかし、実際には解釈がわれているので、そんなに当然視できることではなかったのだなと省みている。

2024-06-04

anond:20240604153042

「人として接する」は性別だけじゃなくて年齢も職業自分との関係性も全部削ぎ落として抽象的な意味の人として接するっていう意味だと解釈してる。

人格を持つ個人として扱うという意味だよ派に近いけど、個人的な特徴も考慮したうえで人格に注目して接するんじゃなくて、そもそも人格があるという特徴以外何も持っていないものとして接するという意味

anond:20240604152019

相手立場に合わせたわかりやす抽象表現としての比喩であって本心なわけじゃないでしょ。

まじでいってんの?

原作を守れ!じゃ要求として抽象的過ぎないか

原作者漫画と共にその作品要件定義書を書くべき

なんなら先に要件定義書を書いてから漫画を描くべき

そしたら不慮の事故や病があっても作品を完成させられるし一石二鳥

2024-06-03

anond:20240603172016

人間は不幸になると抽象思考に陥るって、誰かが言ってた

anond:20240603112336

・「人間扱い」とは、十把一絡げの「女性扱い」ではなく個人個人に合わせた扱いのことだよ派(抽象度を下げろ派)

・「人間扱い」とは、性差意識した「女性扱い」ではなく男性と同じように/無性かのように扱うことだよ派(抽象度を上げろ派)

この2つってコンフリクトしてないだろ

女性扱いじゃなく男性と同じように個人個人に合わせて見ろ」って何が難しいん?

anond:20240602153026

ブコメ見ると正反対のこと言ってる両極に分かれてて面白い

・「人間扱い」とは、十把一絡げの「女性扱い」ではなく個人個人に合わせた扱いのことだよ派(抽象度を下げろ派)

・「人間扱い」とは、性差意識した「女性扱い」ではなく男性と同じように/無性かのように扱うことだよ派(抽象度を上げろ派)

個人的には「人間扱い」といったら人間一般適用できる後者を指すべきで、前者は「個人扱い」とでも呼ぶべきじゃないかと思うが

まずはこの二つを呼び分けられるようにならない限り「人間扱い」の情報量ゼロだわ

anond:20240602153026

本質論を言えば「人として接する」は具体的な行動指針に還元できるものではないよ。教会に行くことが神を信じることとイコールではないように。神を信じるとは、神の存在を前提した世界に生きることだ。何故とつぜん神の話をしたかといえば、「人として接する」は実際にひとつ宗教からだ。「個人」や「人権」の概念キリスト教に由来するところが大きい。坂口ふみ『〈個〉の誕生』は良い本なのでおすすめしたい。

からこの信仰について言葉で語ることは本当はできないのだけど、あえてその教義表現するなら

あたりになると思うけど、そう言われて分からない人は分からないだろうし、こんなふうに書いてもあまり意味はない。

断っておくけど、わたしはこれが分からない人を〈悪い〉とは考えない。たんにこの神の教えに入信していないというだけだ。もちろんこの教義に照らせば「悪」なんだけども。

とはいえ、「入信しているフリ」ができないわけではない。その方法をお教えしよう。これはわたしもやっていることなのだけど、その方法というのは、「人間を徹底的に、本当に徹底的に馬鹿にすること」だ。軽蔑にしすぎて愛おしく思えてくるくらい徹底的にね。愚かで、矮小で、醜悪で、しか自分がそうであることに全く気付かすに自信満々に生きているおかしな生き物たち。ただの自然現象に過ぎない、川の流れの中に生じた淀みみたいな存在なのに、自分自由意志を持つと信じる憐れな自己複製パターン。そんなふうに人々を見てみよう。言うまでもなくこれは先に挙げた教義のうち上2つの完全な否定だ。しかしここで重要なのは、3つ目の教義は維持すること。つまり自分もそういう憐れな淀みに過ぎないと思うこと。これがいちばん重要なことだ。「すべてを軽蔑せよ。だがこの軽蔑によって窮屈にならないように。軽蔑によって他人に勝るなどと信じるな。軽蔑の高貴な術のすべてはそこにある。」ある詩人がこんな事を言っていたけど、これは真理だとわたしは思う。

わたしも以前は「人を人と思っていない」と他人から嫌われたものだが、このような態度を取るようになってから、そういう批判はもらわなくなった。それどころか、いっぱしの人格者だとみなされているフシがある。「人として接する」がどういうことなのか、根っこのところではまだ良くわかっていないのにね。あるいは案外、みんなそうなのかもしれない。まあとにかく、徹底的に人を軽蔑するというこの指針を試してみてほしい。「徹底的に」やるのが大事だ。「人として接する」という抽象的な表現よりはだいぶわかりやすいのではなかろうか。

anond:20240603031936

人間として接しろ一言で「身構えたり態度を変えるな」というアドバイスを読み取ることは普通に無理

抽象的すぎんのよ

2024-06-02

これからプログラミングを始める人は、今までの人のやり方は無視した方がいいのかも知れんね

手は動かすな、CSを学べ

AI設計レビューしろ

コードAIに書かせて人間はApprove処理だけしろ

具体的な作業はするな、抽象的な作業しろ

みたいな

2024-05-31

数学による社会進歩

現代人と野蛮人の違いは何か?

それは到達している抽象レベルではないか

昔は物々交換取引があった。

やがて、カネという抽象概念が生まれた。

この紙切れは特定価値意味し、商品サービスと交換できる。

現在さらに高い抽象レベルを扱っている。クレジットカードはカネをデータ化している。

クレジットカードはカネを運ぶ抽象存在になっている

今やカネは、ビットコイン台帳に表示されるコード行にすぎない。

これが抽象レベル進歩なのだ

新しい世界では抽象化が重要であり、その鍵は数学である

数学無知が減って理解が深まれば、より良い自由社会が実現する。

非モテはまずしゃべり方を変えたら良いよ

ちょっと前に声優不倫話題になった中に「男は目で、女は耳で恋をする」ってのがあった

声とか話し方を良くすれば印象も変わるという事だ

なので普段甲高い声で早口で喋ってる人は低い声でゆっくり話すのを心がけると良い

抽象的すぎてよくわからんって人は以下のセリフを真似てみると良い

「だーんちょ」

生殺与奪の権他人に握らせるな」

「親父にもぶたれたこと無いのに」

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