はてなキーワード: 成就とは
今回はやわらかスピリッツ
おや、明確に気持ちを自覚した上で、どう振舞うかってことをもう描いちゃうのか。
描くにしても、しばらく先かと思った。
つまり、ここからは「仲良く遊びつつも、一線は越えないようにする」っていう方向性を示したわけだけだ。
まあ、読者の大半はそういうものとして前々から読んでいたのだろうけれども、これを明確に本編で言語化したってのは意味が大きく変わってくるからなあ。
後半のやり取りは、ちょっと独特で私は好きかな。
就職の延長線上みたいなノリと、律儀に夕食の時間前には帰らせるっていう部分が何ともシュール。
やや浮いている戦闘シーンと合わせて、なんか緊張感がない感じで、このノリを軽すぎるとみるかで一長一短だが。
主任二人組みはもう結婚している、フラグ成立済みだから、それ前提のイチャイチャを楽しめるのだが、こういう恋愛成就の過程もやっぱりニヤニヤポイント高いよね。
http://anond.hatelabo.jp/20160824224811
他人を変えたいとか将来変わるかも
その人がそのままの状態でOKでないと
独身の人って生きがい何なの?
http://anond.hatelabo.jp/20160728000910
について
追記前の記事を見て「自分は意図するところを理解できたがこれは荒れるだろうな」と思っていたら案の定
予想通りのコメントも多くついていた。
追記も言いたいことを補完するのではなくどちらかというとオッカムの剃刀で除外されるような内容だったのも良くないのかも。
元増田が言いたいことはこうだ
・何が何でも生きていたい、生きていきたいと言う強い信念、生への執着が生じてこない事への事漠然とした不安(消極的自殺願望)
・それが結婚を、そして出産をきっかけに大きく変貌した(強い生への執着が産まれた事への喜び)
・目からウロコの経験をしたことで自己の大きな変化があったが、自分とは別のケースを知りたくなった。
→多分訊き方が悪い
追記部分で気になった、-というか確信に触れたと思った- 部分はここだ。
でも家族が出来て生まれたことに心の底から感謝できるようになった。小学生のころから持ってた上記の”消極的な自殺願望”が消失したのを発見して、ものすご~く嬉しくなった
これ本人はサラリと書いているが、心の奥底、魂の願望、-上手に表現できないが- に「生への執着、基礎的な産まれてきた事への感謝、消極的自殺願望の消失」を願っている自分が潜んでいて、
それが昇華された事に対する純粋な喜びを表現している。元増田が持つ奥深い根本的な願いが成就した幸福感が書かれている。
そして、みんなに訊きたいのは
・同じような境遇(消極的自殺願望を持っていて)で、それが解消されたような事柄が自分に起きたような事例を知りたい。
・そして出来れば結婚や出産をきっかけとしないもの(他例)を知りたい。
無意味に長くなったけれど私の例を。
・それでもちっとも不安(不満)を感じない、焦りを感じない。
・独身38歳、男性、女性にも縁はない、結婚の予定も候補パートナーもいない。
・年収は800~1000万(比較的多いのか少ないのかという知識はない、そもそも金銭にあまり興味がない)
・博愛主義で全くの他人、他国、他生物であっても幸せに暮らしている様子を知り、感情を同化させるような所がある。
・同等に悲しみにも同情してしまう。憎しみは遠ざけよとするタイプ
・解消されていないと書いたものの、それでも焦らない、不満・不安をそれほど感じないのはどこかで自分の命を燃やす日が来ると漠然と考えていて、それを信じているから(多分)
昼飯にそんな話を聞いた。
7、8年働いていて年次は近いが、顔をちゃんと覚えていない隣のチームの男だ。
彼は海外支社もそこそこ数がある東証一部上場企業のうちに入社して以来ずっと、「海外で働きたい」とアピールし続けたらしい。トイックも努力の結果900オーバーとのこと。
大企業のことである、一人の男の要望だけを聞くわけにはいかず、バリバリの国内の部署に閉じこめられ続けた桐島は、国際なんたら機構への転職が決まったので、会社をやめるというのである。
正直今までのキャリアや知識が活きるイメージが湧かなかったので、リスクをとったな、というマイナスの感情と、それでも「海外に行きたい」という強い想いを成就させたことに対する羨望に近いプラスの感情が入り混じって、なんともいえない。
顔もよく覚えていない桐島を素直に応援する感じにはならないけど、いま自分がいる場所がベストなのか、最近ずっともやもやしている俺にとっては、なんか気持ちの良い出来事だ。
桐島、がんばれよ。
オープンなネットはイケハヤのような、SEOが小器用なだけの頭の薄っぺらい人間たちがうっほうっほやってる世界になりつつあるよな。
https://www.facebook.com/taizoson/posts/10153788960804492?pnref=story
僕には経営者としてかねてからの疑問がある。ほんとは違うと思いたいので、誰か下記の僕の意見に反論してくれませんか。
かつて世界を席巻した日本の電機メーカー、先日取締役会で揉めたコンビニの最大手、安くて高品質と市場を席巻したカジュアル衣料メーカー、テレビショッピングでいちばん有名な会社、プロ経営者を雇ったがクビにした教育産業の最大手、そして通信などで成長した日本で最も有名なIT起業家の会社など、最近後継者についての話題がすごく多い。
事業を大きくした創業者は、会社の成長もさることながら後継問題がいちばんむずかしい、とよくおっしゃる。「企業は存続してこそ社会に貢献できるのだから、100年続く会社になるように企業文化を創っていきたい」と皆さん口をそろえる。中には徳川幕府だって300年続いたのだから、うちも300年だと言う方もおられる。誰とは言わないが(笑)
なんで?
なぜ存続してこそ社会に貢献できる(=存続しないと社会に大きく長く貢献できたと言えない)、と言えるのだろうか。
存続はしていてもたいして貢献してないことだってある。「売上は社会に貢献して顧客からもらえた対価なのだから、売上が伸びてるあいだは立派に貢献してる証拠じゃないか」「雇用を生み出し続けてるのだからそれだけでも貢献しているじゃないか」などの声を聞くのだが、それはその会社がなくなって別の新しい会社がそれを担ってもいいわけで、「存続してこそ社会に貢献できる」というテーゼを論証したことにはならないと思う。
つまり、存続することと、社会に貢献することとは関係があまりないと僕は思うのだ。それどころか、長く続いている大企業は、分業と縦割りとルールの細分化が進んで制度疲労を起こし、「自己疎外(=働けば働くほど、自分でやっていることが自分のものと感じられなくなっていくこと)」を生み出しているようにしか僕には見えない。
スタートアップ原理主義者の僕には(笑)、必要以上に大きくなりすぎた企業は「自己疎外製造装置」にしか見えないのだ。だからといって共産主義に近い社会主義を礼賛しているわけではもちろんない。ほんとはいろいろ考えているのだが、この文脈においては、単に「アンチ大企業主義」と分類されても僕は全然差し支えはない。
昔であれば、大資本・大組織でないとできない大きな仕事が存在しただろう。しかしこれからの時代には大企業のアドバンテージというのは実はあまり(個人的には「ほとんど」)ないと言っても過言ではないと思っている。
そしてそれは、人工知能とロボットの発達によって、愕然たる事実として現在よりもさらに鮮明にあぶり出されるはずだ。
僕はそのように思っているのだが、僕が違う(それとこれとは関係ない)と思っている、
「企業は成長し続けて大企業となり、そして長期間存続し続けることこそが社会に大きく貢献することなのだ」
ということを誰か力強く理論づけてもらえませんか。
http://www.tez.com/blog/archives/post5052.html
スタートアップがより大きな力を得てより急速に成長するためにも、より大きく、より長い繁栄をして、企業価値を大きくすることを目指すことが必要だと考えられますし、その場合の繁栄の鍵は、いかに「情報処理のハブ」の地位を確保し続けるか、ということに集約されると思います。
だから、企業がより大きく、より長い繁栄を目指すことは、否定されるべきではないと思います。もちろん単なるステークホルダーの思考停止ではなく、他の(「信用」を担保する)理由があるからこそ、大企業として長期間存続し続けるわけですし、社会に大きな影響を与える企業として長期間存続し続けようという意志のないところに大きな企業価値が生まれることは無いはずです。
孫 泰蔵 「信用資本論」とでもいうべきとても示唆に富む論説ですね。
まず、信用という機能の本質が「思考停止」だからこそ信用は一定の「慣性」を持つ、というのにハッとさせられました。経営者もそこに働く従業員も、会社を長期的に存続させるのが是、というところで思考停止してるなといつも思ってたのですが、それは外部からの信用という思考停止ともリンクしているのだということに気づきました。
また、長期的に存続しうる形態としては「メタ」な存在しかないだろうと私も考えていました。しかし、その際に長期的に「メタ」として存在しうる価値やアイデンティティーってなんなんだろうなあと思うのです。資金であればVCなどでも十分提供できるわけで、スタートアップが嗜好する資金以上のなにかを持ってないといけないわけですが、それはなんなのだろうとずっと考えています。そこも「信用」なのかなあ。
そして、「大企業が自らの存続をあきらめることではなく、既存の『信用』に新たな『信用』がぶつかって倒そうとすること」が「古い組織の制度疲労を打ち壊し社会全体を活性化させるのだ」というのはまったく同意です。
しかし、現在の日本では挑戦者がまだまだ全然少ない状況です。この状況を打破したいのですが、能力的に優秀な人が、挑戦者になって打倒するのではなく、むしろ後継者になりたがろうとする人が多いこの状況(例えば、兄がやってる「アカデミア」という後継者育成機関にすごい優秀な人がいっぱい来てるんです!あんたたちは孫正義の後継者なんかじゃなくて起業家を目指さんかい!と心のなかでいつも苦々しく思ってるんですよね(笑))をどうやったら打破できるのかなあと思案しています。
既存の信用にぶつかって倒した新たな信用の成功事例をつくるしかないですよね・・・そっか、俺が頑張ればいいのか。頑張ります!
孫 泰蔵 ありがとうございます。
そして「そこも信用」なんだと思います。
話がややこしくなるので本文には入れなかったのですが、日本では米国のVCは全部が全部イケてると思われがちですが、実は逆にファンドのうち上場株式のindexをアウトパフォームするものはわずかで、9割前後はindexを下回っています。つまり米国とはいえ、ほとんどのVCファンドは「上場株index投信を買った方がマシだった」ということになってます。しかし米国の上位5%のファンドは常に高いパフォーマンスを上げています。
リスクの高いベンチャー投資でなぜ長期にコンスタントに高い成果が上げられるのかという理由は、まさにVCが行うべきことの本質が「信用の供与」だからじゃないでしょうか。例えば「セコイアが投資したベンチャー」は(もちろん背後に技術トレンドの調査やきちっとしたDDがあることに加えて)「セコイアが投資してるんだからイケてるんだろう」という期待が働くからこそ、いい経営陣やいい従業員が集まり、いい投資家が付き、いい取引先やいい顧客が付くので、結果として本当にいい会社になってしまうという「予言の自己成就」が発生しているのではないかと思います。
ポートフォリオで多数のベンチャーに分散投資すると、仮に失敗したベンチャー成功したベンチャーをならしてポートフォリオ全体として利益が出たとしても、必ずしも「あのVCが投資したベンチャーはイケてる」という期待は働きません。「投資したベンチャーを全社必ず成功させるぞ」という長年の努力をすると、そうしたミダスタッチ(「魔法」)が使えるようになるんじゃないかなと思います。
ベンチャーは先進的であるがゆえに、単独でポツンと存在しても、それがいいものか悪いものか、一般の人にはわかりません。「世の中で最も大きな情報の非対称性が発生するもの」だと言えます。だからこそ、そういう「信用」を供与する投資家が増えることこそが、現状を打破する大きな力になると思います。
亀山 敬司 俺も「会社を続けるために稼ごうぜ!」と言ってるけど、社会貢献とは関係ない。会社が続いて大きくなると俺が楽しいからやってる。だから「辞めたあとは俺のこと忘れていいから勝手に楽しめよ」と社員には言ってる。会社なんてただの人の集まりだし、くっ付こうが分裂しようが、べつにDMMの名前が残らなくてもいっこうに構わない。
300年続けたいとか言ってるやつは、何を続けたいと言ってるのかわかんないけど、ピラミッドでも残したいんじゃない?亡霊の自己満足だね。
昔は「社員の未来を雇用をどうやって守る」とか思い悩んでいたが、「過保護で要らぬお世話だな、いい歳の大人は自分で考えな」になってきた。とりあえず後継者は立てるだろうが、そこからは別の会社だから残りたいかは自分で決めなって感じ。
大企業が長く続くのは、良し悪しで言えばちょっと悪し。ゆとりが有り過ぎると頭が悪くなるし、いい気になっちゃうし、内戦に明け暮れる。良い点は、まずしいスタートアップが時々見上げながら「俺もいつかあの大きなビルに入って、きれいなおねえちゃんを秘書にするんだ」と俗っぽい夢を見させてくれる。
悪い部分が大きくなれば勝手に自滅するので、自然に任せといても大丈夫。
そもそも社会貢献も基本はやっぱり自己満足だね。経済成長や新しいテクノロジーが社会を幸せにするとも限らないんだし、自分たちの活動が徳か悪徳かもよくわからん。でも、こんなふうにいろいろ考えるのは、自分だけのことを考えた自己満より、マシな自己満だよね〜!
一緒に住んでいる彼女に「今日はどうする?」と聞いたら、「岡山に行く」と言う。
「どうして?」と聞いたら、「私が大切に想う人の大切な日だから」と言う。
誕生日か何かかな?と思うも、妙にびくついてるから「それなら行けばいいよ」と言うと
だから、「気にはなるけど、大事な人なら行っておいでよ」とは言ったものの、妙にモヤモヤする。
んで思い出したのが長友と平愛梨の事だ。
平愛梨は二人を結びつけた親友の三瓶の家に週3日は通っているという。
この二人は遠距離恋愛なわけだが、長友は全く気にならなかったのだろうか?
映像を見ている限りでは、お互い100%愛し合っているように感じるし、長友も三平に感謝している。
また、平愛梨からも(三瓶には悪いが)三瓶に対する恋愛感情は一切感じず、純粋に人として好きで一緒にいるように見える。
三瓶自身もそんな感じだし、キャラ的に男を感じるわけじゃない。これが斎藤工みたいな人だとまた違うだろう。
だから、長友も疑ったりせずに遠距離恋愛でも結婚まで成就させられたのだろう。
でも、僕は彼女の”大切に想う人”の存在を知らない。三瓶なのかファンキー加藤なのか分からない。
彼女の事は信用しているけど、相手の情報が全く無い状態では、信用とか疑う以前によく分からない。
芸能界で流行っている浮気や不倫のような事が一般レベルでどのくらいあるのか分からないけど、
こういう場合、どう対応すれば良いのか、どう受け取ればいいか悩む。
よく「相手の事を信用してるなら、黙って送り出してやれ」的な話を聞くけれど、逆なんじゃなかろうか?
相手が信用できるような情報を開示して相手の不安を取り除くから自分が信用されるわけで、
少しでも訪ねようものなら、やれ「嫉妬だ!」だの「束縛だ!」って言われるのは心外だと思う。
最近は、1クール前のアニメの事後評判を調べて良さそうなやつを幾つかピックアップして一気に見る視聴スタイルがマイブームだ。
僕だけがいない街は、前期のアニメの中では一番評判が良さそうで纏まった時間がやっととれたので見れた。
久しぶりにいいモノ見せてもらいました。物語を一言で言えば「時間ループの過去改変で、殺人鬼からクラスメイトを救え、そして真犯人を暴きだせ」というストーリー。最終的には、ややハッピーエンドだったのだが視聴後の爽快感とか清涼感というものはなくどことなく哀しい気分になった。このアニメを見た感想は大きく分けて2つ。「サスペンス」と「ノスタルジー」だ。
サスペンスの部分はいろいろな人の感想で書かれていので、割愛。加代が救われるかどうかは割と終盤前半でわかってしまうので、その後の展開をどう見るべきなのかが若干分からなかった。。時間ループからの過去改変モノというとシュタゲを思い出すよね。シュタゲも手に汗握りながら見ていたけど、あっちは「みんなHAPPYになるように過去を変えろ」という明確なゴールが設定されていて物語のピークもわかりやすかった。ぼく街の場合は真犯人を追い詰めることを主眼としているのか、その真犯人の心理にせまることを前に出したいのか、後半はどう楽しんでよいのか分からなかった。詳しい人、教えてください。
ノスタルジーについては、あまり他の感想に言及が内容な気がするけど意外と小学生時代の体験を懐かしがったりしないのだろうか。学校、学級という限られた人間関係、子どもという親に依存した弱い立場でありながらそれを乗り越えて願いを成就させたいと奔走する様はとてもノスタルジックな気分になった。不全感をかかえつつも、日々を全力で駆け抜けた子供時代の雰囲気が細部から伝わってくるという気がする。この物語は、タイムリープする先が小学生であっても、中学生でも高校生でも成立する話だと思う。だから作者はタイムリープ先を小学生としたことに、なんらかの意味をもたせているんじゃないかと思うんだけどこれもしっくり来ないなあ。
その他に気づいたこととしては、作中では主人公を含めて片親の家庭が多いのは作者の育った環境によるのだろうか。
物語の最後で主人公と加代がくっつかないのは主人公が加代近づいたのは「加代を救うため」だったわけで、加代が子供を連れてきたときの主人公の涙を「救済が成就された嬉し泣き」と見るのか、「言葉の上では喜んでいるが心は悲しんでいる」と見るのか視聴者が試されていると思った。自分は前者なのだと思いたい。ヒーローとは自分のためではなく、代償も求めず、困った人を救う者なのだから。
次々良き日のサンデーらしい新連載を打ち出してる。
絵が可愛いし漫画も上手く神経もそれなりに繊細(繊細にしすぎて重くしてないと言う意味の「それなり」)でありながら嫌な味はしない。
良質のラブコメといえる。
作者は女性だと思う。
『初恋ゾンビ』は思春期男子の初恋の妄想を見ることが出来てしまう男子高校生の物語。
具体的に言うと、同じ学校の男子達の周囲にその初恋相手の女の子のビジョンがフワフワ漂ってる。
漂わせてない男子は既に初恋が成就したか破れて振り切ったか恋したことがない男子。
まあ読者サービスもあるわけでしょうけど。
特に主人公の親友の一人がクラスメート女子相手に初恋を抱いてるんですけど
その女子と毎日顔を合わせながら脳内ですごいエロい格好に変換してフラフラ漂わせてるわけです。
けど告白とかはしないししようと頑張ってる感じもない。
これは違うだろうと。
作者が女性だから「男なんてどうせみんなエロいよね」って勘違いしてるんですよ。
なんとも思ってない巨乳のクラスメートを視姦したり脳内妄想に使ってる男子ならよくいますよ。
でも好きな相手をそんなエグいエロ妄想に使う男子なんかいません。
毎日考えるほど好きな相手がいて、でも告白しようと言う素振りすらなく、延々エロ妄想に使ってるとか男から見てもちょっと不気味すぎる奴です。それを観察する主人公は真剣に「こいつ異常者なのでは…」と疑う所です。
主人公自身自分の子供の頃からの初恋の相手(の妄想ビジョン)を思い出補正で巨乳にしてるんですけど
そういう相手の理想化で巨乳にするとか、いないとはいわなくても多くはないですよ。
初恋の相手をどういう理想化するかというと「身体をエロくする」じゃなくて「顔を可愛くする」です。
まあいいんですけど。
ただ男性と女性はこんなとこにも相互理解のギャップがあるんだなと思いました。
それも含めて面白いですけど。
アタシよ。あたしが増田に来たわよ。
収入が時給換算でビール大ジョッキ並みなアタシなんだけど、最近悩んでることがあるの…
最近好いとうてる人がおるのじゃ…
年齢は年下で、年収もない人なんだけどなんて言うんですか一目惚れ。
分析できないFall in LOVEなわけよ。わかるこの感じ?わっかるかな~わっかんね~だろ~な~
最近電車で見かける小学生のゆうた(仮名)(ゆうたっていうのはアタシの幼稚園の初恋の男の子の名前なんだけど、このことはアタシと君との秘密だゾ☆)
のことが気になって気になってしょうがないの!どうやら筑波大附属小学校の生徒みたいなんだけど、なんてったっていまどきショタが半ズボン履いてんのよ!しかも制服で!
マジぞっこんラブ注入ドドスコスコスコドドスコスコラブ注入って感じなのよ!
でもこの先どうやって発展させればいいのかわかんなくなっちゃった。悔しい。仕事では飲み込み早くて、どんなイチモツでも呑み込んで来たアタシだけど、この年の差という事実だけは飲み込めない。どうしてもね…でもアタシは負けない!ハイエースしてでもこの恋を成就してやる!以下、次週に続く!さ~て来週もサービスぅサービスぅ♥♥♥
母1:田中敦子
母2:伊藤美紀
長女:井上喜久子
次女:國府田マリ子
三女:俺(28歳)
四女:萩森じゅん子
母1:生天目仁美
母2:伊藤静
ペット:いぐちゆか
結婚式に出席できない人が送るお手紙の代筆:ペンネームおおむらあやこ
初夜の際に利用する旅館で最近働きだし自身の性自認をまだ把握しきれていない人:寿美菜子
初夜の際に利用する旅館の女将と料理長の恋を成就させるために右往左往していたら何故か周りから料理長と付き合ってると誤解される人:伊福部崇
初夜の際に利用する旅館の女将と料理長の恋を成就させるために右往左往していたら何故か周りから料理長と付き合ってると誤解される人のライバル:諏訪勝
「俺は誰でもないさ。どこにでもいて、どこにもいない。お前でもなければキミでもない。俺は俺だ!」と呟きながらパソコンの前で声優さんの幸せそうな姿を想像するだけの生き物:僕(28歳)
祈願依頼者が来社。
夫婦者。
ぱっと見、旦那は二十代後半、嫁は三十代前半。
嫁さん「えっと、はい」
嫁さん「えっと、心願成就で」
嫁さん「内容…いろいろあって」
嫁さん「主人はー、勤務の順調を」
嫁さん「私は今仕事探してて見つからないんでー、就職の成就を」
嫁さん「それとー、子宝を」
まあ、「最下位の阪神が今年の日本シリーズに出て制しますように」みたいなふざけた願いでも、どんな願いを告げられようが祈願はするけども。
就職したら試用期間中や新人研修中で仕事まだ覚えてないけど妊娠するかもしれません、
ていうか何年か休職して子育てに専念した後で復職しますから私の席はあけておいてください、
二つ並べると、こう聞こえるんだよなあ。
これってもはや、まだ見ぬ職場に対する害意の現れ以外の何物でもないように見えるんだがなあ。
「正社員採用だけど既婚女性歓迎!一年目で妊娠してもOKだよ!誰一人嫌味のひとつも口にしないし産休も育休も取れるしキミが復職するまで席もあけておくよ!」
普通に考えたら、そんな理想郷は存在しないよなあ。例えあったとしても、入場制限を課していて、学歴経歴資格能力に優れた人間しか入れないようになっているよなあ。みんな殺到するもんなあ。
もちろん「既婚のパートさんだらけで皆バンバン育休だの産休だの取りまくってる理解ある職場でのんびりパートしたいんです!」とかいう願いだったらいいんだけどさあ。明らかに違ったよなあアレ。
ま、ひたすら自分に都合のいい理想郷だけを望むってのも個人の自由というものだが。
神頼みをする前に、まずどちらかに自分の覚悟を決める方が先なんじゃねえのかね。
子供を持つならさっさと妊娠する。出産子育てして、子供が手がかからないくらい大きくなってから就職する。
就職するなら就職一本。ひたすら何年も仕事して、ある程度の職場内存在感を獲得し、職場内発言力を十分に貯めてから、それを「妊娠出産」に対して行使・消費する。
こうじゃねえのかね。
まあ、専門教育も受けず資格もなくだいたい高卒で入ってきて例外なく神社界の洗礼を浴びる巫女連中に同情なんざしねえけど。
結婚しても即退職、妊娠しても即退職、という条件下で働く若い巫女連中の前で、よくもまあぬけぬけと甘っちょろい人生計画を口にできるもんだと感心はしたな。
もちろんその嫁には関係ないことだし、知ったこっちゃねえ話なんだろうけど。
女性と話したら話しただけで好き好き好き〜ってなる。とくにタイプだったらもう駄目。好きで好きでたまらなくなる。というか話す前から好きになってしまう。一目惚れ。
だけど奥手だから自分からアプローチすることなんて出来なくて、恋が成就したことはなくて、好きになると辛いだけだから出来るだけその人の嫌なところを見つけて好きだという気持ちを霧散させるのが癖になってる。1週間くらいで好きじゃなくなる。
好きになったあと気持ちを霧散させてどうでもいいわって状態になって、時間がたってからなのかな、アプローチされたのかな?そう勘違い自分がしてるだけなのかもしれないけど、アプローチされたことはあって。だけどそのころには熱がすっかり冷めてしまってどうでもよくなってたからスルーしてしまった。
こないだもタイプの人好き好き〜〜〜ってなったんだけど2週間ぶりに会ったらどうでもよくなってた。
ずっと誰かを好きになることができるようになるにはどうしたらいいのかな。
他の生物を食べて生きたい、自分の居場所が欲しい、配偶者が欲しい、お金が欲しい、認められたい…等々。とにかく生きるために必ず備わっている欲求だ。この闘争欲求はもちろん人によって小さかったり大きかったりするだろう。大きい人間は上手く活用すれば大企業の社長になったり研究者や開発者として医者や政治家として活躍できるだろう。いかに優れているかを競い合うということは効率化や新たなる発展性を秘める魔法の行為だ。戦時下におけるコンピュータの発達など科学技術発展の背景には知る欲求だけではなくこの闘争欲求も大きく関与してきた。
しかし闘争欲求が大きいにも関わらずその昇華の仕方を知らずに大人になってしまった場合は最悪の不幸が訪れる。他者との優位性を競い合ったとしても感情のベクトルを最適化できなければわけのわからないデモに参加したり、様々な倫理性や論理性を見失い体と時間だけを浪費してしまうことになる。冷静になれ、怒りに身を任せるな。言葉にすれば極めて簡単に聞こえてしまうが、闘争欲求というじゃじゃ馬を乗りこなすにはクレバーになることが極めて重要でかつ困難なことである。
冷静になるということはどういうことか?それは第三者視点を(完全ではないにしてもできる範囲において)獲得することである。ここでいう第三者視点とはタロウさんハナコさんマスダさんのマスダさんのことではない。全てを俯瞰的に見つめる神の視点である。もちろん全てを見通す神の視点などどこにも存在しない。必ず未来には不測の事態がどこかに待ち構えている。現実には神の視点だと信じている第三者視点までしか形成されることはない。しかし2者間の対立構造においてこの第三者視点の精度こそが最も重要な勝敗を決する要素であり、また勝敗が決着した後でさえも重要な要素である。知るということは何よりも重要であり、知ることによって考えることができる。相手の意図や思惑を計算することができれば相手の好きさせることはないし、自分にとって一番効率の良い結果が出せる未来も思い描くことができる。しかし感情に任せての行動には目指す方向やそれを実現するために行われる手法が相手から丸わかりであり、わざわざ第三者視点を形成せずとも相手の意図や情報を一人称からでも考えることができる。正面から突撃しかしてこない騎兵が相手なら毎回弓で応戦したらいいだけだ。感情に任せての行動は戦う前から負けることが約束されている。闘争欲求が感情に任せて利用されると不利益しか生じないことは明らかだ。
闘争欲求が感情に任せて活用される場合、その当事者には成功者や人格者と大きく異なる部分がある。それは着地点が設定されていないということだ。もしくは非常にあやふやなものとして設定されている。何かと対決したり競う以上は勝敗という結果が産まれるが、その結果を正確に予測することはすなわち過程の予測も行われる。望むべき結果を生み出すためには計算をしなければならず計算は第三者視点を作成したうえで冷静でなければできない。具体的な着地点を設定しないということはつまりは過程である行動や手法が本当に実現させるために取るべき最適な答えなのかどうかを問われていないということだ。何が間違っていて何をするべきなのか、それを見極めることができない状態で活動している。このような行為を続けても決して冷静な敵対者に勝つことはできないが、不適当な闘争者はそれさえ気づかずにひた走り続け、決して満たされることのない闘争欲求はさらに活動し、狂い始める。同じような狂信者たちが集まればさらなる大きな狂いの渦を形成していく。数こそ力とは言うが、数が力になるときは同じ方向を向いた瞬間だけである。統率のない集まりがそれぞれ違う方向を向いていても何も動かすことはできない。
闘争欲求は何かを成就させるために不可欠な欲求であるにも関わらず、その昇華のさせ方を知らない者たちは現実と剥離した世界に逃げ込んだり、狂った人間やはた迷惑な団体へと変貌していく。彼らの本質そのものが高度な戦略化した社会における被害者であり弱者ではあるのがが、社会へもたらす不利益もその数だけ存在し、また是正する個人も組織も無いためどのような時代においても反知性主義団体を確認することができる。
かといって感情が必ずしも有害であるかというとそうではない。全ての行動原理は等しく感情という源泉に帰結する。我思うからこそ我あり。第一人称の持つ感情を原発としてそれを慰め、褒め称えるために理性によって実現可能な道を切り開いていくことが一番人間的であり好ましい形であろう。また感情を分解していくことで論理的にも自分個人の感情の形成パターンを分析化することもできる。なぜ怒ったのか?なぜ喜んだのか?それを自分に問うことでさらに自分の感情と欲求の求める結果を洗練させることができる。
感情的なことは悪いことではない。問題は見つめないこと、知らないこと、考えないことだ。感情的な人間でありたいのなら鏡で自分の顔を見るように、感情を理性で見つめるべきである。己を知りより深く自分の感情を愛するべきである。さもなくば感情を愛することもなく理性的ですらなく自分の意志で動いていると勘違いしてしまう感情だけの操り人形になってしまうだろう。1+1を計算できるのは感情だから?アイスクリーム屋でお金を出せばアイスを食べれるのは感情のおかげだろうか?理性がどれだけ感情を守っているかを見直すべきだ。
望みを叶えてやるのは、男ひとりだけな。
どれが良いかひとつだけ選んでみな。
これはどんな女にでも念じるだけでおまえに対して恋愛ホルモンが出る能力な。
だから飽きたら停止も可能な。
これはあらゆる要素を考慮して、世界一金持ちになれる『可能性がある』能力を全部おまえにぶっこんでやるわ。
あとはおまえがなんとかしろな。
これは、もちろん自由に空を飛べるだけだから、撃墜された普通に死ぬな。
おまえひとりが自由自在に疲れもせず、どんな速度ででも飛べる能力な。
金でなびかねー女をおまえが好きになってしまったら02ではおまえの望みは成就できねーな。
もし一生一緒にいたい女が見つかっても、そいつが金になびかねー可能性は当然あるし、おまえにほれてるんじゃなくて金に惚れてる女との生活が楽しいかは俺にはわからねーな。
03は自家用セスナと利便性と性質が違うな。自家用セスナの方が便利な場面も当然あるが、マジックを演じるフリなどはできねーな。
id:nobujirou これは3だね。能力を隠して曲芸師かマジシャンで生きるのが一番手堅いんじゃないかな。綱渡りしても危なくないし手品のネタバレもしないよね
マジシャンで金儲けしたいなら02でよくねーか?
私もボランティアサークルに入ってるのにメイクバッチリみたいな女性は胡散臭いと思うが…と前置きして。
そもそも元増田も「そんなに仲良くない」のにファミレス呼び出して告白しようとした時点で地雷臭がありありと…。
相手が品のないディスりをしてくる以前に、こう、告白するからには、当然普段からある程度仲良く会話できているのが前提条件で、できれば一緒に食事行ったり遊びに行ったりするくらいでないと、成就率の点でかなり分の悪い戦いなんだが。
そこらへん、ちゃんと根回ししてたんだろうか。
そこがないのに、いきなり呼び出し→告白→怖い!ありえない!みたいになってはいまいかと、元増田が心配になる。
ボランティアサークルに所属してなくて、彼女と一緒にボランティア活動をやったりもしてなくて、募金しただけで、勝手に思い込んで、勝手に自爆して、勝手にあの女はダメだ!みたいな逆恨みをするような男じゃあなかろうな…と。
そんな案件だったら、若くて思慮のない子なら、余計に周囲に怖い目に遭った、キモい、傷ついたって言って回るよなーみたいな想像をな。
ここを読んで統計的差別という用語があるのを知り、自分なりに考えてみた。
統計的差別とは属性別の統計データ(または経験)をもとに個人を選別することで、例えば企業の人事で、女性は勤続年数が短いというデータがあるので長期的成長の必要な役職に就けないようにするとか、経験的に博士課程の人は融通が利かないことが多いので採用を見送る、など。
「統計的」とあるが、「オタク的外見とコミュ技能の相関」のようにちゃんとした調査データでなく経験をもとにしたものも含まれるのだろう。
調べてて思ったのは、統計は個人評価に使用するには向いてないはずでは?ということ。しかし実際にはそのような使い方はよくされているわけで、これは人を評価することの難しさからきてるのではと思う。
個人を評価するのが難しい場合、その評価に責任を取れないので安易なわかりやすい選択、言いわけのしやすい選択をしがちになるのでは。またコストの面からも多面的で丁寧な評価でなく簡便な評価軸を使ったものが好まれるのだろう。
足切のように自覚的にやってる場合はともかく、そういうつもりでない時でも言いわけのために統計を使った属性での評価に重みを置きすぎてしまうことがあるのではと思う。
もう一つ重要なのはポジティブフィードバックループで、これはランチェスター第二法則のように、試行を繰り返すことで極端化する現象のこと。統計的差別も、繰り返されることで統計データ上の差がより大きくなっていくわけである。
例えば「女子は理系に向かない」という社会イメージが女子の理系科目の成績低下につながり、それがまた社会イメージを強化し更なる成績低下につながる、というもの。
僅かな差しかないはずのものが大きな差になったり、本来は差がないはずのものが最初に間違ったイメージをもったため実際にデータ的な差ができてしまったりするのである。
> そういう相関が生じる要因についてはいろいろあって、統計的差別が行われていること自体も要因の一つかと。たまたま容姿に優れなかった人が、既に存在している統計的差別で切り捨てられ、コミュニケーション技能を伸ばす機会を摘まれる、とか。
と、まとめのツイートにあるように予言の自己成就的なことが発生してしまうので、一見判断は正しかったように見えてしまい、問題があることを認識できなくなってしまうことが、"この統計的差別というやつは、差別意識などより遥かに根が深く、対抗する難易度が高い" ということなのかなと思う。
さらに思ったのは、統計的差別の逆のパターンというものがあるのではということ。統計データ(または経験)をもって差別することの逆に、統計データをもって差別を忌避することもあるのではないだろうか。
普通の人と同じように社会に混じってコミュニケーションを取ろうとしても差別されることが多いとわかってる人は、積極的にコミュニケーションを取ろうとしなくなるのではないか。そしてそれがまたコミュニケーション能力育成の機会を失わせてしまうということになってしまう。
https://www.mededge.jp/b/huap/14009
http://www.sciencenewsline.com/news/2015052714510039.html
器量の良くない人はイケメンと比べ、普段は差別されないが何か好ましくない行為を行った場合に、イケメンがそうした場合の倍、悪い評価を得るというもの。
そういう人の犯罪はイケメンの犯罪に比べ印象に残りやすくなったりもしそうである。
統計により社会が見た目で評価を変えるのがわかっているなら、見た目の悪い人は自発的に社会との関わりを減らすことが適応戦略となる。しかし今度は積極的なコミュニケーションをしないことを理由に差別を正当化されたりする。
社会の差別が元となって発生してる状況なのに「コミュニケーションで傷つきたくないのだろう」と原因にされたり、「キモがられないように努力しろ」と改善の責任を押し付けられたりする。
社会とコミュニケートする難易度がますます高くなってしまってコミュニケーションの忌避を強化するというループにはまってしまう。
このように差別される側が統計データ(というか経験則)をもとに、ドツボにはまる選択をしてしまうことはよくあるのではないだろうか。そもそも、統計データで個人を評価するのはあまり好ましくないが、統計データで社会を評価するのは正しいわけだから。
表面から見ると問題行動を起こしてるのが非差別側であるせいでこの問題は発覚しにくく、統計的差別以上に対応しづらいのではと思う。
ところでこのまとめはツイートの順序を入れ替えたり会話をつぎはぎしたりしてて、かなり恣意性の強い編集になってるように思えるのだが、どうだろうか。
フェミニズム関連ではこのような恣意的な引用を用いた印象操作をちょくちょく見かけるのだが、はてブではあまり問題にならずに受け入れられてることも多いので、そーいうものなのだろうか。
せっかくトラバをいただいたので「私の場合」を回答したいと思いますが、
正直、この点において私自身は腐女子の中でも更なるマイノリティと自覚しているので
あまり「BL愛好者一般」としての普遍性はないことを先にお断りさせていただければと思います(ブコメのほうが正直面白いと思います)。
で、これを腐女子風に言うと「推しカプに彼女(候補)がいる場合」となります。
そういう場合、私個人としては、
「主人公は彼女のことが好きだけど、同時にカップリング相手のことを(気の迷いで恋愛として/弱さをみせる存在として/恋愛ではないけれど、それと同等に)大事な存在と思っている」
というような読み方をすることが多いです。
私個人は、「二人の関係が恋愛であること」よりも、「その周辺の感情の揺らぎ」を読み込むことを二次創作の醍醐味としているのでこんな感じです。
「恋愛ではない関係に、恋愛の相似形を見る」こと自体が喜びなので、彼女のキャラクターの魅力の有無とは無関係です。
過去似たような状況で似たようなカップリングにはまっていた頃、原作内で主人公と彼女が成就した際は、それを心から喜び祝いました。
二次創作をするほど入れ込んでいる作品は、もちろん一読者としても好きな作品です。
彼女と主人公との関係の積み重ねはとても丁寧で読者として面白かったですし、好きな作品の主人公が納得行く形で思いを遂げたなら、それは喜ばしいことです。
なんだか我ながら、「好きな芸能人が結婚しても祝福しよう」みたいなイイコちゃん回答で気が引けるのですが、とくに粉飾なくそう思っています。
ついでですので、「彼女死んでほしい」というような心ないコメントについての個人的な、妄想交じりの見解を書きます。
たいていの場合、そういった発言はそう重く受け止める必要のないものだとわたしは思っています。
と、いうのも、
腐女子というのは、同じ作品が好きで同じカップリングが好き、みたいな狭い狭い「同好の士」コミュニティの中で発言していることが多いからです。
これは腐女子だけではなくて、大体いろんな集団に言えることだと思うのですが、
だいたい似たような思想と趣味の人ばかりコミュニティにいると、発言は次第に先鋭化し、過激になっていく傾向があります。
「死んでほしい」というような過激な言葉も、そういう「お仲間内の過激化したノリ」のなかで、あるいはそれを引きずって飛び出した可能性が高いように思えます。
それは一種の熱病のようなものであり、仲間内での内輪受けを狙ったものでもあり、子供のいう「担任しねばいいのにー」と同等の重みしかありません。
(だからといって擁護したいわけじゃないです。そんなこというなよバーカと思います)
「死んでほしい」などという発言をした人が、冷静にいちファンとして作品を見たときに、もう一度それを言えるかは怪しいものだと、わたしは思っています。
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追記。ブコメ返信。
たまに腐女子内でもそれ言われるんで勘弁してほしい(だからマイノリティである旨断ってる)。でも腐女子だよ。
・職場の後輩君に恋をした
http://anond.hatelabo.jp/20150729221304
なんか色々と転がるように上手くいって付き合うことになりました。
正直夢みたいで未だに実感湧いてないです(
酒の勢いで独身者の恨み辛みを吐きまくってたら彼と意気投合しました。
傷を舐め合うような形ではありますが付き合うことになりました。
飲み会の一次会で意気投合して、その勢いでサシで二次会に行きまして。
酔っていたのもあるけど「異性として後輩君を意識している自分がいる」と私の方から言ってしまいました。
流石に恥ずかしくてストレートに好きと言えなかった。
今まで紛らわすように仕事に没頭していたみたいで、
私のアプローチに全く気づいていなかったらしい。つら。。。
彼いわく、想いを寄せられていたことに関してはとても嬉しいと。
仕事ばかりで相当寂しかったことと、前の恋愛を忘れられないのもあるので、まずは付き合ってみようかと。
来週改めてデートすることになり、そのときに私の方からちゃんと告白してと約束させられました・・・。
二人とも同じ部署で一緒に仕事することもあるし、周りの目とか万が一ケンカをしてしまったり、
ということに対してはお互いに恐れていました。
でもそれ以上にデートがしたいという下心に勝てなかった。
片思いし始めてから3ヶ月。思いもよらぬ形で成就してしまいました。
ちなみにデートの約束したあとにノリで「これからウチ来ない?w」って言われたけど流石に断りました。冗談でも怖いわ!w
正直これ以上失恋はしたくないので焦らずお互いを理解していけたらなと思ってます。
初の社内恋愛なのでとてもドキドキしてます。バレないように仕事できるかなーとか。
上手くいっていれば社愛恋愛はめちゃくちゃ楽しいらしいですね。。。
ちなみに翌日、二日酔いで寝込みました。
いや、教会ででたらめなことをしてる奴への対応は結構厳しいぞ?
10 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。
11 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。
12 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
(「マタイによる福音書」http://2nd.geocities.jp/durian22jp/weekdaybible/bible4/610000t3.html)
自ら磔になったのは預言を成就するためだろ。「なんでもかんでも全て受け入れる」のが正しい信仰だなんて解釈はちょっと違うんじゃないか。「右の頰を…」云々のキャッチコピーでも有名なように、キリスト教は確かにそれなりには寛容な教えではあるけれど、「なんでもかんでも」と言えるほど寛容じゃないと思う。