はてなキーワード: 疑問符とは
https://anond.hatelabo.jp/20210215101500
・しょうもない犯人、しょうもない気付き、しょうもないミステリの元祖。
ウィルキー・コリンズ「月長石」
・長さのわりにミステリを期待して読むと徒労に終わる。ドラマ観れば十分。
・ミステリか? 別にいいんだけど。主人公の臭い自意識に長時間堪えられるのなら。手塚治虫の漫画版で十分。
コンラッド「闇の奥」
・「闇の奥」そのものより、「闇の奥」をもとにした無数のコンテンツのほうがおもしろい。『地獄の黙示録』とか。
F.W.クロフツ「樽」
・『樽』はタルい。これミステリ界の常識アルよ。クロフツはもっと薄くておもしろいのがいっぱいある。
・ヴァン・ダインとか今更読むやつおる??
・これもルールタビ―ユくんのキャラ小説なんだよな。意外にミステリしてる点は評価できなくもない。
・別のトラバの人も言ってたけど、悲劇四部作は通しで読めよ。おまえはスター・ウォーズをEP5から観るのか?
・オカルト〜〜〜〜〜〜wwwwww すいません、ふつうに好きです。
・クリスティならなんぼでもこれよりおもしろいのがある。まあ、ある種のパターンを確立したという意味で必読ではある。
イーデン・フィルポッツ「赤毛のレドメイン家」
・いいかげん昔の人が評価してたからって理由だけでレドメイン家をこういうリストに入れるのやめない?
・アイルズ入れるのは当然として、バークリーも入れないのは理解に苦しむ。
ウィリアム・アイリッシュ「幻の女」
・惰性でオールタイム・ベスト入ってる系の古典としては意外なほどエキサイティング。アイリッシュはもっと評価されてもいい。
・ハッタリのきかせ方は歴史に残るけど、わりに印象に残りにくいんだよな。
・これも型を確立したという点で必読ではある。
・出たよホッグ。20年くらい前ならおもしろかったのかもしれんけどさ。
・知名度の割に、ブクオフに行ったらかならず置いてあるだけの理由はあるものだ。
・出来不出来が激しい作家の一人。奇妙な味勉強したいんなら異色作家短編集読めば。
・そういえば映画版が最近リメイクされてましたね。つまんなかったなあ。ヒッチコック版と原作はいいです。
レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」
・御三家のなかで一番キツい。春樹訳はさらにキツい。ロバート・アルトマンくらいの諧謔が加わって初めて鑑賞に堪えうる。
・ハードボイルドの先鋭性をもっともよく表した作家ではある。本篇より諏訪部浩一の『「マルタの鷹」講義』のほうがおもしろい。
・ロスマクの一冊を選ぶとなると戦争が起きる。法月綸太郎みたいなものさ。ここでもな。
・めちゃめちゃエキサイティングなんだけど、分厚いし今手に入りにくいし……。
・ル・カレのなかでは読みやすい部類だし、正解だと思う。
・ボアナルほんとに読んだことある?俺はない。映画は傑作だった。
・ルポルタージュミステリとしては先駆的だったのかもしれないが、今読むと長いしタルいし冗長。カポーティの美点がほとんど失われてしまっている。
・ポップでしょ。
・たかだかミステリ読みごときにエーコの真価が理解できるとはおもわない。
ローレンス・ブロック「八百万の死にざま」
・一発ネタで長編まるまるひとつ持たせた奇跡のような書物。とはいえレンデルはもっと濃ゆいのがある。
ジェイムズ・クラムリー「酔いどれの誇り」
・ネオハードボイルド作家たちは再評価されるべきだと思うが、中途半端に古くなってしまった感もあり、難しい。
・反面エルロイは古びない。ただLA四部作は何も知らない人が「ブラック・ダリア」だけ読んでもわからん気がする。
ジャック・ヒギンズ「鷲は舞い降りた」
・冒険小説も進化してるので、いつまでもヒギンズを引きずるのは不幸というか、グリーニーとか読ませたほうがいいのでは。俺は嫌いだが。
・マクリーンなんかよりイアン・フレミングのほうがよほどリストに入れる意味あるよ。
・作者がキモい。
・このリストのなかでは比較的新しい作品で、オールタイム・ベスト的なリストでみかけるのは珍しい。個人的な思い入れがあるのか? たしかに発売当時からそこそこ評判高かったけれど、薄い記憶を掘る限りそこまで評価する理由が見当たらない。気になる。
・ライスはたまに読むと心温まってよいが、それはスレた読者の愉しみなのであって、入門者が読んでも伝わりにくい。
・たしかに仕掛けはミステリなしおもしろい小説なのだが、別にこのリストに入れる必要はない。なんでミステリの人は文学にコンプレックスを抱くのだろう。
・うーん。
リチャード・二ーリィ「心ひき裂かれて」
・オールタイムベストでも陰が薄い存在なので、入っていると嬉しい。まあでも数合わせだよね。
ケン・フォレット「針の眼」
・フォレットもそろそろ再評価されるべきだと思うのだが、ダン・ブラウンみたいなものと思われているのだろうか。
・北欧系の元祖ではあるのだろうが、だったらよりエポックなミレニアム入れたほうが誠実な気がする。
・はあ。
江戸川乱歩「孤島の鬼」
・え?
・変格って今読むとふつうにつまんないの多いよね。
・そりゃ読んでも損はないとは思うが。
・当時としてはアベレージはある作家だろうが、そこで鉄鎖を選ぶ理由がよくわからない。
・うーん……いいんじゃないんですか。
・どう読むかによる。単純な出来でいったら虫太郎にはもっといいのがいくらでもある。すまん、いくらでも、はない。
・横正の作品をチョイス理由を添えずにポンと出されても困るんだよな。高校生も困ると思うよ。こんなんだけ読まされても。しょうがない。
・本格ベタな安吾のなかでもなんでよりによって一二を争うほど不出来な作品を選ぶのか。嫌いなのか?
・高木彬光でこれがあがってしまうのは、消去法の結果なのだと思う。
・通っぽいセクレトだが、そこは素直に「天狗」にしとけ。コケまくったサンドマンが唯一正位置になってしまった作品なのだから。
・映画の印象は強いが、清張であえてピックアップするほどかといえばどうか。
・変化球狙いすぎて外しとる。
・流れ的にはわからないでもない。
仁木悦子「猫は知っていた」
・と思ったらいきなり脳死みたいな。
・今あえて読むほどのものではない。
・同上。長いだけ。
笹沢左保「暗い傾斜」
・飛鳥高の長編ってそんな良いイメージないのだが。賞とったってだけで入れてない?
・今選ぶとなると難しい作家だが、針の誘いとかでいいのでは。
陳舜臣「玉嶺よふたたび」
・パッションだけで突っ走った奇跡であることは間違いないが、三大奇書にならべて語るほどかといわれれば疑問符がつく。竹本健治は”今”が面白い現役の作家だ。
・不可欠だとは思うが、真剣に読んでる人は少数派だろう。
・そうね。
・またひねくれたもん入れてくるな。
・ごめん、森村あんま興味ない。
西村寿行「滅びの笛」
・戸川昌子の話をすることはあるかもしれないな。
・マスト。
・鉄板。
・入れても良いとは思うが、そういえば結城昌治がおらんな。
・エッ? そこ?
栗本薫「絃の聖域」
・読んでない。そろそろ疲れてきた。
連城三紀彦「宵待草夜情」
船戸与一「猛き方舟」
・このへんはね。
・入るよね。
・急に九十年代っぽくなったけど、2000年代にもインスタントクラシックな作品はたくさんあると思うよ。
皆川博子「死の泉」
・皆川博子がミステリ的に評価できるかといえば微妙なんだけど、ミステリ界以外で評価される土壌がさほどないようなので、不運な作家だと思う。偉大な人です。
COCOAアプリの実機検証未実施によるAndroid版の不具合の件だけど、役所が仕事振れる先にモバイルアプリまともに開発できるところ無いんじゃない?と思った。
公官庁案件の実績が少ないがモバイルアプリ開発が普通に出来る企業があっても、過去に公官庁案件を多数こなしているモバイルアプリ開発の不得意な企業が競ってきたら、公官庁案件が豊富な企業によほどの落ち度が無い限りモバイルアプリ開発が普通に出来る企業は負ける。
そして、モバイルアプリ開発における落ち度をまともに判断できる人材は公官庁側にあまり多くない。
落ち度がもしあったとしても正常に判断されることなく「実績」をもって判断が下されることになる。
数億程度の案件では公官庁案件の旨味が減っていて、案件の規模にかかわらず予算管理の締め付けが異常に厳しくなっているのはかなり前から言われていることだ。
まともなモバイルアプリ開発が出来る会社がそんな面倒な案件にわざわざ手を出すかというと、まぁよほど経営に困っていない限りないだろう。
そして経営に困るような企業にまともなモバイルアプリ開発の能力がどれほど残っているかというと、疑問符が付く。
今回露呈した問題は低レベルだったけど、そもそもAPIやドキュメントが完全に準備された状態での開発じゃなく、APIが数ヶ月でコロコロ変わる状況について行くにはプライベートαテストなんかに参加したことがある企業じゃなきゃ対応できないだろう。
その企業は自社が抱えている案件や受注見込みの高い案件を後回しにしてまで公官庁案件をやるのか?
万が一そういった企業がCOCOA開発を引き受けていたとしても、発注側と受注側の文化の違いで軋轢が生じるであろう事は想像に難くない。
ご存知のとおり、「名は体を表す」とは、名前がその人の実態を表しているといった意味のことわざだ。
そのわりには、「名前負け」(=実態が名前に追い付いていない)なんて言葉もあったりして、その有効性はいまいち疑問符が付くところではある。
しかし、「名前」というのは親からもらう本当の名前だけではない。
実は、「名は体を表す」ということわざは、本当の名前ではなく、あだ名に関して極めて有効なのである。
すなわち、適切なあだ名を付けることによって、身近に居る他人の性格を上書きすることができるのだ。本当である。
そういう問いを持ったのならば、そもそも他人の性格というものに対するお前の認識が間違っている。
お前が変わるんだ。
ところで、私には「増田っち」とか「増田ぴー」とか「増田りん」とか、かわいらしいあだ名を他人に付ける習慣がある。
いや、家族や友人、同僚にそういうあだ名を付けるわけではない。
怖そうな上司、疎まれている他課の人間など、嫌な人間にそういうあだ名を付けるのだ。
親しい相手ではないので、もちろん面白半分でそんなことをしているのではない。
先ほど挙げた「名は体を表す」の機能を期待してのことだ。
さて、なんであだ名ならば「名は体を表す」ということわざが有効なのか。
それは、他人の性格が自分というフィルターを通して知覚するものだからである。
そのことは、「本当は良い人」が悪い人、というよく知られた事例でわかるだろう。
他人の性格のうち、自分に知覚されない部分(=「本当は~」)など、自分にとってはまさにどうでもいいのである。
そうなると、他人に対する自分の知覚を変えることと、他人の性格を変えることは、自分にとっては全くのイコールだ。
あだ名は、他人の性格を直接操作するわけではない。お前自身の知覚を変える道具になるのだ。
自分にとって嫌な相手を、「増田さん」や「増田課長」などの無味乾燥な呼び方で呼ぶと、その嫌な性格が何のフィルターもなく、自分の知覚に飛び込んできてしまう。
すなわち、柔らかいネーミングを付けて、相手の性格まで「名は体を表す」のだと錯覚すれば良いのだ。
そのネーミングにより、相手はゆるキャラか何かのように知覚され、その本当の実態は見えにくくなるだろう。
(ちなみに、その相手本人に、その珍妙なあだ名を伝える必要は無い。
要は自分の知覚さえ変わればいいのだから、本人に伝えなくても、同僚とのおしゃべり、なんなら独りつぶやく中で、そのあだ名を呼べば十分だ。)
あだ名を呼ぶたびに、嫌な存在とのギャップに滑稽さを覚えるようになる。
そうやって滑稽さを覚えると、そのあだ名をまた呼びたくなる。
すると、自分の会話や想像の中で、その人物の登場回数が増えてくる。
そうでなくとも、嫌なはずの本人に会った際、含み笑い(「増田っち」のくせに生意気な!)を感じられるよう、自ら習慣付けられる。
すると、その相手に怒りを感じるのも本当に馬鹿馬鹿しくなり、コミュニケーションもいつしか苦痛ではなくなる。
「バカの壁」と言われる通り、コミュニケーションの壁となるのは、本当は自分の知覚の方なのだ。
しかし、きっかけ無しにそれを自ら認識し乗り越えることは容易ではない。その壁は大きすぎて、壁であることさえ気づかない。
その壁を、滑稽さを覚える→また呼びたくなる→含み笑いを感じる→コミュニケーションの苦痛が無くなるという、
あだ名がもたらすラダーによって、壁を壁として認識しないまま駆け登るのだ。
自分には、相手に対する滑稽さという悦楽を感じさせながら、「バカの壁」という自分の思い込みを乗り越えるための道具なのだ。
すなわち、かわいらしいあだ名は、相手を内心馬鹿にしながら、自分を馬鹿な内心から切り離すために有効な手段となるのだ。
その「名」は、お前の認識する「体」を変えるのだ。
お前が変わるんだ。
マルチ商法。耳なじみの良い言い方をして最近ではネットワークビジネスなんて言うらしい。合法だけれど聞いてあまり気分の良いものではない。
私はどんなメーカーが「それ」に当たるか知っていたし、中学高校の消費者の授業でもやった。
大学時代、社会人になっても周りにそんな人はいなかったし、近づこうとも思わなかった。
だからいざ勧誘される状況になった時、断ることができなかった。
■はじめに
自分が趣味きっかけで付き合った友達がマルチ商法の関係者だったら。もしも巻き込まれてしまったら。相手がどんな手を使って断りにくくしてくるのか。優柔不断で情が出てしまうタイプの人間がどうやって縁を切ったのか。
自分と同じような人が今後生まれないように、巻き込まれて本当はやめたいなってちょっとでも思っている人のふんぎりがつくようにここに書くことにした。2020年も終わり掛け。ストレスな人間関係は清算して、浮いたお金を好きなことに使いませんか。
■会員になってしまった経緯
今年の春先…コロナで外出自粛が続いていた折、ツイッターの趣味アカウントで面白いツイ―トをするA子に出会った。聞けば歳も近く話しやすい。すぐに意気投合しリプライを送りあう仲になった。
プライベートの話もするようになり、お互いの仕事の話をちょっとだけ聞くようになった。A子は駆け出しではあるものの美容系の仕事をしていると言った。その内容がオンラインでカウンセリングできるモノ(これ自体はマルチも何も関係ないよくあるサービスである)だったため、興味があった私はカウンセリングを受けた。その時は勧誘なんてなかったが、会話の中で私は自分の肌悩みであったり、ダイエットをしたいんだよね、という今後の予定をそれとなくしゃべっていたりした。当時の私はA子の「有資格者」「プロ」としての仕事をみてすごいなあとただただ思っていた。
少し日がたつとA子から、『こないだ肌荒れとかダイエットで悩んでるって言ってたよね?話聞いてもらうといい人がいるんだけど紹介しようか?』と連絡が来た。そりゃあこの類の話は専門家に聞いてもらったほうがいい。そう思って私は承諾してダイエットに関する勉強会(ネット会議)に参加した。そこには私やA子以外にもいろんな年齢性別の方が参加しており、必死にメモを取っていて少し面食らったが、有名大医学部卒の人が話をしてくれた。で、最後に出てきたのがサプリメントとプロテインの紹介だった。
そこでやっと、少しだけカネのニオイを感じとった。なんか違和感がある。そう思って商品名を検索すると、マルチ商法で有名な企業(X社)が出している商品だと分かった。(パッとブランド名や商品名、ロゴマークを見ただけでは、その社の商品だとはわからないようになっている)
まじか…と天を仰いだがもう遅い。なぜならもう一人のマルチ商法関係者(A子でもなければセミナーの講演者でもない)に直接会う約束を取り付けてしまっていたからだ。
週末出会った女性はエステ経営者だといった。自分の肌悩みを話しそれに対してなぜ起きているのかメカニズムを説明される。くそうなるほど納得できる気がしてしまう。そして、X社への会員登録と美顔器・基礎化粧品の購入を勧めてきたのだった。(A子が友人として紹介してくれている手前、彼女が尊敬している人とのスケジュールをドタキャンするほどの勇気はなかった)
マルチ商法の会員と聞くと、商品を買い込み、在庫が出ないように人に売りさばき、あるいは自分の子、孫の会員に買わせ売りさばかせ…という「ビジネスの会員」を思い浮かべていたし、私もそういう認識があった。が、勧誘されたといっても私の場合はビジネスをする会員ではなく「商品を買うだけの会員」であった。
“人に迷惑がかからず、自分がイチ消費者として判断して支払うならいいかな…”
そうして私は購入を決めてしまった。しかしながら商品を購入するには、すでに会員になっている人間からの紹介による会員登録がいるようで、私も紹介者番号を入力するようにいわれた。
おそらく…これはおそらくなのだが、紹介料、マージンのようなものがA子に入っていく仕組みなのだと察した。その時、対等だった友人としての関係が捻じれたような気に襲われたが、気にしないようにしていた。もちろん一度A子にも、これはマルチ商法で有名なところの商品だよね?怖いんだけど。と問うてみたが『私はいいモノだと思って使ってるんだ!使い続けてたら調子もよくて後悔してないし』とハッキリ言われてしまう。彼女自身に辞める選択肢はなさそうだった。
結果「A子自身は共通の趣味の友人としてはいい子だし」「商品が粗悪なわけではないし」「使い心地も悪くないし」…私は自分にそう言い聞かせて商品を使用し続けることにした。
■人付き合い疲れ、拭えない疑念
商品をただ買って使用するだけならば、(カネを支払うというより取られる感覚なのでもちろんいい気分のものではないが、)私とA子とマルチ商法の会社(X社)の3つしか関係者がいない。問題は…私が嫌悪感を覚えたのはネットワークビジネスの名前の通り、マルチ商法のあらゆる人脈、界隈から(縛り付けるように、つなぎ留めるように、辞めにくいようにするため)声がかかることだった。
・健康系のセミナー:一回料金○千円だけどそのあとはタダでカウンセリングしてくれるよ!と言われたが、初回のカウンセリング以降相手からの連絡はナシ。
・美容系のセミナー:X社の商品を正しく使ってもらい効果をあげてもらうためのセミナーがあり、X社のビジネスを行っている人間がスタッフとして参画している。その会社の各地方都市の拠点ないし、間借りした賃貸の一室(外向きにはエステと称している)で行われる。内容はいたって普通、必要なのは購入している商品だけで教えてもらうのはタダ。(私の場合は)強引な勧誘はされない。
・新商品の発表会やパーティー:日頃の感謝を利用者さんにお伝えするためにやるんだけど、どうかな?と誘われる。言ったことはないけどこれもタダらしい。
しかもこれらに参加させるためにLINEが来るのだが、決まって必ず『〇〇ちゃん、▲月●日ってあいてるかな?』とだけ連絡がくるのだ。要件を言ってくれ要件を。参加するかどうかは他の参加者と中身によるんですよね。断るのも傷つけずに断る理由つくるのもめんどくさいんだから…。私はだんだんこの類の誘いにイライラしはじめて、最後のほうには都合が悪いことをにおわせて返信したり、今月は忙しいので無理、で乗り切るようになっていた。
ちなみに私はこの中だと健康系のセミナーに1回と、美容系のセミナーに複数回参加したのだが、美容系のセミナーに行ったときがものすごく疲れた。
―『え~〇〇さんめっちゃいい感じ!写真とってインスタにあげてもいいですか?』(彼らはそれぞれセミナー活動をUPするマルチ商法界隈専用のインスタグラムアカウントを持っていて、そこに活動内容を投稿するためのもののよう。)さすがにこれは断ったら引き下がってくれた。(ちなみにフォローしているだけでハイパーキラキラアカウントのごとく商品を使っているところやいい感じの場所でのディナーがアップされる。受動的にいい生活を見せつけられるのは疲れる。)
―『わ~!汚れが沢山取れましたね!』
「は、ははは~そうかも~」(いや、大量に顔面に塗った薬剤が美顔器についてるだけですよね…大して色も変わってないし)
―「使い続けて○か月たつんですけど全然よくならないです…疲れちゃったな…」
『私もそうでした!でもある程度“念”みたいなのって大事で、心に言い聞かせるんです…これ使ってれば肌荒れも治るんで!…ってこんなこといっちゃいけないんですけど~笑』
「あ~もう少し頑張ってみますか~」(は?言っちゃいけないことをわざわざ言うなよ…てかこれ薬機法違反なんじゃないか?)
とまあこんな感じで、心の中に疑問符が大量発生する話を毎回されるうちに、疑念はどんどんどんどん大きくなっていった。この頃になると、好きな化粧品を気軽に使えないことや、旅行に行く時・友達が遊びに来た時・実家に帰省する時に商品をコソコソもって帰らなくてはいけないことに、段々不自由さを感じるようになっていった。
■退会の引き金
彼女のカウンセリングを受けた後かつマルチがらみだと気づく前の時期に、私はリア友にA子の話をしていた。彼女も以前からその類のカウンセリングを受けたいと言っていたので、年齢も近くて話しやすいよとA子を同期に紹介していたのだ。
友人からはA子と直接会ってカウンセリングを受け、その後プライベートでもあったと報告を受けた。その時はマルチ商法をすすめられたなんて話は聞かなかったし、私が商品を買っていると知られるのもなんとなく嫌だったので、彼女に「A子がマルチ商法の商品をすすめてくるかも」とは伝えなかった。
「A子ちゃんのカウンセリングに無料エステがセットになってて、そのエステに今日行ってきたんだけど、そこで進められたのがマルチ商法の商品だった…」
…血の気が引く思いがした。これは正直に言わなくてはいけない、怖い思いをさせてしまった。自分にとってよりリアルな、より付き合いの長い人間関係を侵食されたのである。当初私が会員登録した時の「私以外には迷惑がかからない」が崩れた瞬間だった。
幸い彼女は意志が非常に強い人間だったので、当日の勧誘を断ってきたが、住所や名前などを記入したことを後悔していたようだった。話を聞けば聞くほど、A子との友人関係は続けたいが、X社の会員でいることをやめたい、とハッキリ思うようになった。
先程も書いたように、リアルな人間関係を侵食されたことが許せなくて、私は本格的にX社からの退会のタイミングをうかがうようになっていた。しかしながら、問題点が3つあった。
これについては、A子以外のX社関係者を全員ブロックして、最後にA子だけと1対1で話をすればいい、と考えた。
友人としての関係性を続けるか、彼女もろともブロックしてしまうかは私個人として一番悩ましい点であった。ブロックするにしても、こっそりやるかきちんと相手に宣言するかも迷うところであった。
これは完全に自分が油断していた。名前は致し方ないとして、住所はいずれ引っ越すのでそれまで落ち着いて過ごせればいい。(こうならないためにもやはりマルチ商法には巻き込まれるものではない)仮に何かされても裁判をおこせば自分に勝ち目があるし、相手方も自分のビジネスの評判をわざわざ落としことはしてこないはずと判断した。
そのうえでまずは出会った関係者全員をブロックした。とりあえずこれで変に部外者に加勢されて、変な取り込まれ方をされる心配はない。
問題は②だったが、ひとりで考えていてもしょうがないし、踏ん切りがつかなかった。冷静な、客観的な他人の視点が必要だと考え、私は昔から仲良くしている地元の友人に久方ぶりの電話をかけ、事の経緯を洗いざらい話しどうすべきか意見をもらうことにした。
地元の友人の回答は「“マルチ商法やってること以外はいい子なんだけど…”ってことは、マルチ商法やってるから不快だと思ってて、付き合いにくいってことなんでしょ」「このままダラダラ続けるなら何も変わらないし、またつけ込まれる可能性が否定できないよ」「タダで何かしてもらったりしてるけど、そのたびに情が出ちゃったり辞める申し訳なさが蓄積されてくよ。続ければ続けるほど辞めにくくなる」「A子ちゃんとも直接あってないんだし、今が辞め時だと思うよ」「思い切って全部切りな!」とのことだった。私は深く納得した。この数か月で受けた勧誘とは比べ物にならないくらい、私を知っている人間が私のためにかけてくれた言葉と感じたからだ。その後友人は、私が彼女に退会の旨と別れの言葉を送信し、ブロックしたことを報告するまで通話を続けて背中を押してくれた。もちろん友人としては好きな相手だからブロックするのは心苦しかったけれど、リアルな友人関係ではなかったのが救いだった。これは心を鬼にするしかない。今回の件をきっかけに友人を失うリスクに気づいて、マルチ商法から足を洗ってくれたらそれでいいと思った。これはお互いのための勉強料なのだ。
こうして、11月に別途X社の退会処理を終え、私の数か月間のマルチ商法巻き込まれライフは幕を下ろしたのである。
■おわりに
この文章の目的はマルチ商法やX社の商品の批判ではない。この件に関してはいろんな意見があって、そのような文章はこの世にあふれているからそれぞれが読んで判断すればよいと思う。(しかも私はビジネスで破産したわけでもない、序の口で折り返した人間である。)
ただ、マルチ商法って案外近くに潜んでいて、いつの間にか忍び寄ってくるものだってことを知ってほしくて書いた。ここに書いた内容がビジネス勧誘の入り口かもしれないし、自分のより大切にすべき人間関係や、純粋に余暇として楽しんでいたい趣味をいつの間にか侵食してきていたら、これほど不幸なことはないと思うからだ。
自分のお金が搾取されていると感じながら付き合う友人は、本当の友人と言えるだろうか?
趣味を純粋に楽しめなくさせてくる相手は、本当の友人と言えるだろうか?
ちょっとでも継続を迷っていたり、後ろめたさを感じている会員の方はこの文章を読んで「相手を知り」、そのうえで身近な信頼できる相手にぜひ打ち明けてほしいと思う。
もしも友人や娘息子からそういった相談(マルチ商法に関わっているがやめたいんだよね、と本人が思っているケース)を受けた周囲の方は、怒らず責めず論理でへし折ろうとせず、まずは本人の話を聞いてあげてほしい。自覚があること、やめようと思えたことを肯定的にとらえて、退会に向けて背中を押してあげてほしい。
少しでも多くの人が、望まない、不自由なお金の使い道から解放され、しこりのある人間関係から解放された状態で、新年を迎えられることを願って。
あーあーテステス
真面目に心配してくれる人がそこそこいたので良心の呵責に負けてネタバラシします。
👍嘘です👍
ただ思う所があって「増田って嘘の職業自称して簡単に釣れるようなところなのかな?」と今回のような増田を書きました。
まあ結果としては、「嘘か本当かは皆どうでも良くて面白いブコメつけられるかどうかしか見られてないのかな」って所ですかね。
あっさり見抜いて雑さを避難してた人、本題に全然絡もうともしない人、そういった人が結構いる所を見るに半数ぐらいにはバレてたのかな、と。
アドバイスくれた人の中にも「良かった。病気の子供は居なかったんだな。金は惜しいがいいニュースだ」って感じの人も結構いそうですね。
割りかしバレバレ?
でも伸びはしましたね。
ネットにある程度慣れてくると嘘も本当もどうでも良くなるって感じですかね?
とはいえ、内容について全部嘘ってこともなくて、「下着業界の人の仕事とかにちゃんと感謝できてる?」って疑問符を投げかける狙いはあったりしました。
そういう半分本音で書く部分があると全部嘘より共感とかが集まるんですかね?
まあ、今回の増田は騙されて害があるような物じゃなかったから乗っかって貰えた感じがありますね〜よくよく考えると。
なんでやねん。じゃあお前ら今すぐノーパンで暮らせや。誰かが下着を作ってるから皆が下着を履いてんだよ。下着を作ってるのが変態なら下着を履いてるのも変態じゃねえか。おら脱げよ。なんで脱がねえんだ?マジでお前らは「自分が言ってる言葉の意味を分からずにしゃべるのが得意だな」
あのなあこっちが売ってんのは生活必需品なんだよ。下手すらお前ら金融業なんぞよりよっぽどクリーンかつ安定しとんじゃ。それをなんで水物扱いだとキワモノ扱いだのされないかんのじゃ。マジでお前らは「自分たちの生活基盤がどのように形作られているのか考える気がないな」
服飾業界のイメージがその2つしか無いんかい。つうか今どきは単純労働であっても人並みの生活しとるやつばかりだぞ。車工場のごくごく一部の凄いヤバイ話が広まって工場全部ヤバイイメージとか騙されやすすぎだろ。つうかデザイナーも映画に出てくるようなイカレたキャラいねーよ。そして普通の営業や事務もいくらでもいるから、業界名と職種をイコールで結びつけんなや。マジでお前らは「自分以外の人間はテンプレの量産型のモブぐらいにしか思ってねえな」
とにかくこれが本当に多いな。適当に数打って当たっただけだっつーの。なんで下着業界に受ける時点で変態しかいない扱いなんだよ。つうか最初に言ったけど下着なんて皆来てる普通のものだからな。どこにでもある普通の物を作る普通の会社に普通に入っただけだろうが。マジでお前らは「自分と完全に同じじゃない限り相手にどこか異常があると思い込みたがる悪癖に満ちてるな」
いや無理。パンティーっていきなり振られても「は?」ってなるわ。それと別に下着の変な話題に慣れてるわけでもねえから。下着のマジメな話題は職場でもするし、そこから変な話題に発展することも確かにある。でもいきなり直球でシモネタぶん投げられる機会なんてほぼねえから。お前らの頭の中にある下着業界は皆頭にパンツ被って暮らしてんのか?マジでお前らは「視界の外にも自分たちと同じように普通に人が暮らしてることを想像する能力が欠けてやがるな」
正確には東京駅構内ではなく東京駅一番街のキャラクターストリートにある女子トイレだけど、とにかく立っていた。
具体的な場所を言うと、以下のマップの31番近くにある女子トイレ。
https://www.tokyoeki-1bangai.co.jp/assets/pdf/floorMap.pdf (PDF注意)
地下鉄移動前にお手洗いを済ませようと女子トイレの行列に並んでいると、中から「奥の方あいてまーす!!」という男性の声が響いてきた。
一瞬ビックリしたけど、きっとここは空いているかどうか分かりにくいタイプの個室で、列がスムーズに捌けるよう録音音声で誘導しているのだろうと思った。
行列が進み、トイレ内部が見える段階まで進んだところで、おじさんAを目撃した。おじさんはハキハキと元気良く「奥の方あいてまーす!!」と叫んでいた。
録音音声ではなかった。作業着のようなものを着ており、いかにもそこで働いている人っぽく見えた。
さらに、おじさんは1人ではなかった。このトイレの内部の通路は大きくT字型になっており、T字の右上が入口で、T字の左上(突き当たり)におじさんAが立っていた。
そしてT字の長い棒の部分に個室が並んでいる訳だけど、その奥におじさんBが立っていた。おじさんBもまたハキハキと個室の空き状況を伝えていた。
おじさんAとおじさんBの「奥の方あいてまーす!!」に挟まれながら私は個室に入った。
得体の知れない恥ずかしさと疑問符で頭がいっぱいだった。用を済ませたあとは逃げるようにササッと女子トイレから出て行った。
東京へ来たことがそもそも数回しかなく、東京駅の中を散策するのはその日がほぼ初めてだった。
だから「女子トイレにおじさんが2人いた」という光景も、そりゃ最初はかなり驚いたけど、「東京駅なら当たり前なのかもしれない」と考え直した。
地元でも女子トイレを掃除する男性を見かけるようになってきた頃だったし。
あれから2年が経ち、現在私は色々あって東京で仕事をしている。そしてあらためて確信している。やっぱりあのおじさん2人はおかしかったと。
女子トイレを掃除する男性は何度も見かけたけど、おじさんがわざわざ女子トイレ内部で案内するような光景には、あの時以来出くわすことはなかった。
そもそも案内だけならそれこそ録音音声でいいし、よしんば生身の人間を配置するとして、わざわざ2名も割く必要はない。
あの空間はやはり異常だった。「東京なら当たり前」ではなかった。都民の皆様ごめんなさい。私はあまりに世間知らずだった。
結局、あのおじさん2人は何者だったのだろう。
学術会議の任命外しの件でも、西田氏とか細谷氏とかキムカン氏とかメディア製の批判に乗らなかった学者も多数いて、皆法的にはアウトだと思ってるだろうが、共通するのは「論点そこじゃねーよ」てことでしょ。
政治と学問の関係において、学術会議の人選というのは優先順位の低い問題だと。キムカン氏とか、普段から大学行政については口を極めて批判されている人がだよ。
政府が逃げてるのは事実だけど、論点ずらしじゃないんだ、論点はずれてるの。
その説明責任とやらの論点自体に、それ政治的リソースを費やしてまでやるべきことなの?て疑問符がついてるのよ。
任命外しの理由を政府が言わない一方で、そもそも会議内で現会員が候補を推薦するという選出方法が多様性を全く保証しないのに、当初は(今でもか)「学問の自由の侵害」という的外れな理路による批判が行われたことが、前述の人たちをはじめ脱力させた原因でもある。
性加害という言葉をきちんと理解することは必要だと思うんだけど、男女含めて殆どはそれを理解できていないのだと思う。性加害は簡単に言えば、意に沿わない性的な接触・行為のことを言うんだけれど、はっきり言えばこの「意に沿う」かどうかは多くの人にとっては判断できないのである。
勿論、明らかな性加害というものは存在する。例えば夜道でぶん殴られて物陰に連れ込まれるなどの性的接触を受けたならばこれは間違いなく性加害だし、それに類する明らかな性加害というものは当然存在する。一つの明確な基準としては、あまり面識のない異性や同性から受ける性的接触は、多くの場合性加害的である、といったところじゃないだろうか。あまり面識のない異性・同性との性的接触に関して抵抗のない女性だって当然いるにはいるのだろうけれど、個人的にはこれは相互的性加害と言って良いと思う。つまり、愛情を伴わない性的接触というのはお互いの為にならんという、まあそういう教条的な立場の表明なのだけれど、ひょっとしたらこういう見解は世の見解からズレているのかもしれんね。僕には分からない。
とにかく、明らかな性加害というものは存在しているし、敢えて申し上げるならば、仮に同意などを取り付けていたとしてもお互いに愛情のない性的接触や行為というものは加害的であると言って差し支えないのではないかとも思う。のであるし、さらには、翻ってこの世界には性加害的であるかどうか判別のつかない性的接触や行為というものが満ち溢れている。
一晩だけ盛り上がっても後になるとうんざりしてしまうようなそういう経験とか、あるいは一時的に愛情を持ったと思っていたのだけれど錯覚で、結局お互いに愛情の伴わない欲望充足を行っていただけだったとか、そういう結果論的な結末についても広い意味で性加害的な営みだと言えるんじゃないかということである。物事が全て終わった後に、「結局のところ心の底から望んでたわけじゃなかったよね」って気付くことだって、世の中にはあるんじゃないか、ということである。もし仮にそういうことが起こったとして、「ま、いいや」って開き直れる人ってそんなに多くないんじゃないかって思いません?「別に望まない性的な接触・行為をそうと知らない内に行っていたとしても、ま、いいや」って。
だって、愛情がない性的接触・行為をして下さい、って仮に人から頼まれたとしたら皆嫌でしょう? もしそんな風に頼まれたとして、「はい! 愛情のない性的接触・行為を喜んで行います!」って答える人ってあんまりいないと思いません? いや勿論いるんですよ実際にはそういう人も、でも、殆どの人にとっては嫌でしょう? それって性加害的と言っても過言ではないでしょう? だから、例え性的な接触・行為の後に随分時間が流れたとしても、最終的に「あれって別に心の底から望んでたわけじゃなかったよな……」ってな結論に至ったとしたら、それは微妙に加害的な側面を備えていると言って良いんじゃないだろうか、とかそういう話を僕はしたいわけです。勿論、そういう見解に事後的に至ったところで、「ま、いいや」とすっきりできる人も中にはいるんだろうけれども、恐らくそういう人っていうのは少数派だと思うし、あるいは仮にそういう人がいたとしても、恐らくそういう人にとっては愛情の伴う行為と伴わない行為はあまり分化していないのだろうなと思うわけです。つまり、結局のところその二つをしっかり区別していないところの人は、愛情の伴わない性的接触・行為に抵抗がない傾向があるんじゃねーかなとかそんな風に思う。
まあともかく、愛情の伴わない行為にはあまり多くの人は同意しないのは真実だと思う。僕だってそうだしね。
でも、実際のところその行為に愛情が伴っているかどうかというのは多くの場合事後的にしか認識できない。だから、振り返ってみるとその行為が加害的であった、ってなオチがついちゃうことはままあるんじゃないかなと思う。そう考えると、色々と我々の認識や行為に疑問符がつきまとうことになるのではなかろうか。我々は本当に望む行為を行っているのだろうか? と。
とは言え僕が言いたいのはそういう一般論的な話じゃなくて、最近の増田のよくある論理に対する反論なのである。「貴方が行っている行為、それは加害的だ」という意見をよく見かけるんだけれど、はっきり言って普通の人間には、普通の性的な接触が加害的かそうじゃないかなんて見分けられないってことなんですよ。いや勿論、繰り返すように明らかに加害的な行為というのはあるんだけれど、加害的かどうかが実のところはっきりしないような行為を、我々が「加害的だ」って言っちゃうのは認識の越権みたいなところがあって、我々は多くの場合その判断基準をきちんとは持っていない。ノリノリでかましちゃった後にそれを後悔するとかそういうことを簡単にやっちゃうんですね、我々は。ノリノリで盛り上がって、結局はそれは望んだものじゃなかったよね、なんて結論を付けちゃうことなんか、メチャクチャたくさんあるんです。自分が望んでいると思って行った行為を、結局事後的に「別に望んでなかったよね……」と振り返ることなんてたくさんあるのです。まあ要するに、我々の認識っていうのは多くは間違っていて、そのことを我々は前提として行動するべきなのである。
「加害的だ」「加害的でない」それらの言葉は我々の不安定な認識の上で往々にして入れ替わってしまう。我々の言葉はいつも海の波間に漂う板切れみたいなもので、海そのものを表現しているわけではないのだから。
最後に、僕の好きなポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアの言葉を書いて終わりたいと思います。
「僕たちが
望んだけれどやらなかったこと
それら全てのために
僕が夜海辺を歩く時の
あの気持が作られたのだ」
性加害という言葉をきちんと理解することは必要だと思うんだけど、男女含めて殆どはそれを理解できていないのだと思う。性加害は簡単に言えば、意に沿わない性的な接触・行為のことを言うんだけれど、はっきり言えばこの「意に沿う」かどうかは多くの人にとっては判断できないのである。
勿論、明らかな性加害というものは存在する。例えば夜道でぶん殴られて物陰に連れ込まれるなどの性的接触を受けたならばこれは間違いなく性加害だし、それに類する明らかな性加害というものは当然存在する。一つの明確な基準としては、あまり面識のない異性や同性から受ける性的接触は、多くの場合性加害である、といったところじゃないだろうか。あまり面識のない異性・同性との性的接触に関して抵抗のない女性だって当然いるにはいるのだろうけれど、個人的にはこれは相互的性加害と言って良いと思う。つまり、愛情を伴わない性的接触というのはお互いの為にならんという、まあそういう教条的な立場の表明なのだけれど、ひょっとしたらこういう見解は世の見解からズレているのかもしれんね。僕には分からない。
とにかく、明らかな性加害というものは存在しているし、敢えて申し上げるならば、仮に同意などを取り付けていたとしてもお互いに愛情のない性的接触や行為というものは加害的であると言って差し支えないのではないかとも思う。のであるし、さらには、翻ってこの世界には性加害的であるかどうか判別のつかない性的接触や行為というものが満ち溢れている。
一晩だけ盛り上がっても後になるとうんざりしてしまうようなそういう経験とか、あるいは一時的に愛情を持ったと思っていたのだけれど錯覚で、結局お互いに愛情の伴わない欲望充足を行っていただけだったとか、そういう結果論的な結末についても広い意味で性加害的な営みだと言えるんじゃないかということである。物事が全て終わった後に、「結局のところ心の底から望んでたわけじゃなかったよね」って気付くことだって、世の中にはあるんじゃないか、ということである。もし仮にそういうことが起こったとして、「ま、いいや」って開き直れる人ってそんなに多くないんじゃないかって思いません?「別に望まない性的な接触・行為をそうと知らない内に行っていたとしても、ま、いいや」って。
だって、愛情がない性的接触・行為をして下さい、って仮に人から頼まれたとしたら皆嫌でしょう? もしそんな風に頼まれたとして、「はい! 愛情のない性的接触・行為を喜んで行います!」って答える人ってあんまりいないと思いません? いや勿論いるんですよ実際にはそういう人も、でも、殆どの人にとっては嫌でしょう? それって性加害的と言っても過言ではないでしょう? だから、例え性的な接触・行為の後に随分時間が流れたとしても、最終的に「あれって別に心の底から望んでたわけじゃなかったよな……」ってな結論に至ったとしたら、それは微妙に加害的な側面を備えていると言って良いんじゃないだろうか、とかそういう話を僕はしたいわけです。勿論、そういう見解に事後的に至ったところで、「ま、いいや」とすっきりできる人も中にはいるんだろうけれども、恐らくそういう人っていうのは少数派だと思うし、あるいは仮にそういう人がいたとしても、恐らくそういう人にとっては愛情の伴う行為と伴わない行為はあまり分化していないのだろうなと思うわけです。つまり、結局のところその二つをしっかり区別していないところの人は、愛情の伴わない性的接触・行為に抵抗がない傾向があるんじゃねーかなとかそんな風に思う。
まあともかく、愛情の伴わない行為にはあまり多くの人は同意しないのは真実だと思う。僕だってそうだしね。
でも、実際のところその行為に愛情が伴っているかどうかというのは多くの場合事後的にしか認識できない。だから、振り返ってみるとその行為が加害的であった、ってなオチがついちゃうことはままあるんじゃないかなと思う。そう考えると、色々と我々の認識や行為に疑問符がつきまとうことになるのではなかろうか。我々は本当に望む行為を行っているのだろうか? と。
とは言え僕が言いたいのはそういう一般論的な話じゃなくて、最近の増田のよくある論理に対する反論なのである。「貴方が行っている行為、それは加害的だ」という意見をよく見かけるんだけれど、はっきり言って普通の人間には、普通の性的な接触が加害的かそうじゃないかなんて見分けられないってことなんですよ。いや勿論、繰り返すように明らかに加害的な行為というのはあるんだけれど、加害的かどうかが実のところはっきりしないような行為を、我々が「加害的だ」って言っちゃうのは認識の越権みたいなところがあって、我々は多くの場合その判断基準をきちんとは持っていない。ノリノリでかましちゃった後にそれを後悔するとかそういうことを簡単にやっちゃうんですね、我々は。ノリノリで盛り上がって、結局はそれは望んだものじゃなかったよね、なんて結論を付けちゃうことなんか、メチャクチャたくさんあるんです。自分が望んでいると思って行った行為を、結局事後的に「別に望んでなかったよね……」と振り返ることなんてたくさんあるのです。まあ要するに、我々の認識っていうのは多くは間違っていて、そのことを我々は前提として行動するべきなのである。
「加害的だ」「加害的でない」それらの言葉は我々の不安定な認識の上で往々にして入れ替わってしまう。我々の言葉はいつも海の波間に漂う板切れみたいなもので、海そのものを表現しているわけではないのだから。
最後に、僕の好きなポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアの言葉を書いて終わりたいと思います。
「僕たちが
望んだけれどやらなかったこと
それら全てのために
僕が夜海辺を歩く時の
あの気持が作られたのだ」
ちょまどさんの例の姫騒動ってもう四年前なんか。ほってんとりで久々に思い出して軽くググったら、裏綴じのある週刊誌を一年に一回ぐらい読む感じになんか丁寧に経緯を追ってしまって時間無駄にしてしまった。人の醜聞なんか追っても何の得にもならないのに。。好奇心と腐った性根は並存することを教えてくれる。あのキモイスライド作った人もバースデーケーキ切ってた人もは普通に現役でTwitterやっててびっくりした。あのキモいスライドを良い感じにネットアーカイブ残した人はAWSの中の人だったっていうのも笑えた(ツイートはごちうさの産廃オタでほんとかは知らん)。そういえば先日もMSのIgnite振り返りセッションにクラウドアドボケイトポジションで彼女おったけど、ぶっちゃけAKSなどコンテナ系の話を総スルーされた上に皆Zoomこのタイミングで作りたがるんかなー?って疑問符しかなかったAzureCommunicationの紹介と、深いようで浅い機械学習の話でそもそも個人的にあんまりおもしろくなかった上に、(多分唯一笑えたのがazure salt serviceのくだりか?)、twitterイイね係で存在感なかったなーってそんなことを思い出した。
メリットをずどどどっと追加されたことに首をかしげちゃう系派遣事務社員です。
有休取得はよっぽど繁忙期でない限り何も言われないし、
理由も聞かれないし、
お昼は一人で食べていいし飲み会は年2回程度だし、
基本定時帰りで社員同士さんの仲も良くて
「いいとこ当たったな~」と思いながら働いてる。
上記のような好条件が義務化されたことに思ったより絶望感が大きい。
具体案はまったく思いつかないけど、
ある程度の資格持ちとか条件ありにしてくれ~って思ってしまう。
触れる権限増えない?
万が一ミスしてもどうせ派遣だから最終的な責任は正社員がとるから大丈夫」
ってある種リラックスしながら取り組めてる現状からはじき出されない?
みたいな疑問符だらけになってる。
すごく良い制度だと思う。
ロンダリングじゃないけど、向上心がある人はそれでいいと思う。
私みたいな「とりあえず生活に困らなければいい、仕事にストレス積み上げたくない」
好条件激務<低条件なまぬる
って人には「非正規だけど正社員と同じ待遇だから正社員並みの仕事してね!」
って言われるリスク高くなる今回の派遣法改正はちょっとした絶望感。
っていうのを今年の3月だか4月辺りに書いてエントリせずに残ってた。ので供養上げ。
今のとこ超激務にはなってないけどコロナでどうなるやら。
派遣切りはなさそうなんだけど、どっちにしろ来年で期間切れるから
次のとこってなるけど派遣先が激減してるしなー
「健康」という言葉は現代においてすっかり「正義」とか「マナー」とかそういう言葉...社会善、あるいは社会責任として捉えられるようになってしまったな。
そして何より、社会の中で「健康」という言葉の意味する所が変わっている。10年、20年くらい前には「健康」というのは単に「病気ではない状態」もっと言えば「病識がない状態」であって、個人の範疇から大きく外れることは無かった。
例えばタバコを吸う当人が「これはストレス解消になってるから、(総体として)健康のためなのだ」と思っていたら、疑問符は付くものの概ね健康のためなのだろうと社会的に捉えられていた。
しかし、この10年、社会活動家の影響や、コロナの影響、そしてインターネットとSNSの発展により、「健康」というのは急速に社会的なものとして拡張されるようになってしまった。社会の視線が入ることにより、「健康」というものはより画一的で厳密な物になってしまった。誰もが何時如何なる時に見ても健康でなければそれは健康ではないという、時間、空間を問わない社会視線によって健康が評価されるようになってしまった。
現代ではもはや「ストレス解消のために不健康な振る舞いをすること」はもはや許されない。見知らぬ誰かがあなたがそのストレス解消行為をする所を見たときに「不健康だ」と感じたならその時点でもはや健康ではないからだ。ストレス解消はいつ、だれが見ても"健康"な方法で行われなければならない。(タバコなどはもっての外だ。この20年で完全に加害性のシンボルとなった物はどう考えても「健康」じゃない。)
そしてその社会性をもってして「健康」は社会規範になった。健康は皆が守るべきルールであり、そこからの逸脱は社会意識に欠ける振る舞いだと見なされるようになった。(卵が先か鶏が先かは私は存じないが)「不健康」は「加害」であると見なされるようになった。
不健康という言葉は表向きは「あなたのためを思ってやっている」と言う態度を示しているが、その内実は「社会規範に従わなければどうなるか分かっているな」というヤクザの脅し文句に他ならない。
よっオラ小児性愛男性。ジェンダー周りの話題は人並み以上に追っていると思ってる。
で、このエントリについて。
https://twitter.com/GimmeAQueerEye/status/1300207684960935938
小児性愛と同様に、異性愛も加害性を問われるべきではないかという意見。
ブコメでは既にツッコミが入っていて「同性愛との比較は被差別についてであって加害性についてではない」「論点をずらすな」と言われている。
その通りだと思う。
その上で。
ここについてはツッコミが少ない。
https://twitter.com/GimmeAQueerEye/status/1300219499145166850
https://twitter.com/GimmeAQueerEye/status/1300219500147609600
ツイート本文が読みにくいので変形すると、
からだ。
という主張だ。よく考えがまとまらないままツイートしたのだと信じたい。
まず前提として、性行為に関する正当な合意とは何かを確認する。
が必要十分だ。
小児性愛の場合、子供には判断力がないため、正当な合意とは言えない。
で、ツイートについて。
ディーラー、役職、レイプの例は、いずれも、「女性の実際の判断力よりも、その社会的な評価が不当に低い」という例だ。
だからといって、どうして、異性愛の合意の正当性に疑問符がつくのだろう?
可能性は低そうだが、単に「異性愛には実際には女性が合意していない場合があるので、合意の正当性が疑問だ」って言ってるのだろうか…?(一応この場合についても後述)
理解ができなかった。
邪推だが、このマサキチトセという方は、本心では、女性の判断力は、「実際に」低いと考えているのではないか。
であれば、「女性の判断力は子供と同様に低い。」「子供の合意も、女性との合意も、両方が、一方的な加害になる。」という懸念は理解できる。
というか、それ以外に理解できなかった。
だとすれば、これは、現代社会には受け入れられない女性蔑視そのものだと思う。
これはご自身のことではないですか?
ちなみに、合意が不十分なまま行われる性行為が不当なのは、「言うまでもなく当たり前のこと」だ。
対照的に、子供との性行為は、「どれだけ十分な合意があっても、法律上も倫理上も一切アウト」だ。
大人の性行為は、同性愛であれ異性愛であれ、きちんと合意すればやっていい。
雑に論点をずらすと、かえって、小児性愛者の生きづらさが理解されなくなってしまうように思う。