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2019-01-24

毒親の話を読んで

毒親の話を読んで似た人がいて吐き出したくなって誰にも言えないからここに書く。

父親が妹を自分の顔に似ていると赤ん坊の頃から毛嫌いした。年子の長女の私の事は猫可愛がりし私の赤ん坊の頃はほとんど父親がかまっていたと聞いた。

物心つくと母は父親に甘える私に、お父さんは嫌いと言いなさい、じゃないとあんたの事嫌いになるよと言った。私は父親より母のことが好きだったので泣いてすがった。妹は構われずいつのまにか立っていたとのちに母は言った。

私は母の言う通り、あんたなんて嫌いと言いお父さんと呼ばなくなった。

父親は妹を泣かせて遊んだ。妹はこの世の終わりのような声で泣いた。泣き叫ぶ事を妹は中学生までやめることができなかった。母はそれを疎ましがって疎まれるのが怖くて私は声をあげて泣くことはなかった。

父親が妹をいじめて母と険悪になると私に母は産むんじゃなかったと言った。そう言われるのが怖くて私が父親に抗議する立場となった。そうすると母は父親の機嫌を損ねなくてすむから

父親が妹を意味もなく小突いたり、私だけを甘やかそうとすることを口汚く罵りながら、して欲しいことがある時は甘えてコントロールすることが私の役割だった。いくら私が、お前なんか嫌い、きちがい、と言っても父親は私にだけ甘かった。

妹の泣き叫ぶ声を私も疎ましく感じていた。母に父親とあのこさえいなければと言われ真に受けていた。ある日泣く妹を母は玄関から閉め出した。私は母を、もういいでしょ、と説得してからでないと鍵をあけることができなかった。私はくずだった。

小学低学年になり、すかしっぺをくらわすふりをするという遊びが流行った。まだ嫌いと言いつつ自分にやさしい父親甘ったれ感情が残っていた私は嫌がらせもこめてその遊びをとった。父親はニヤニヤと、してはいけない事だ、お母さんに嫌われるよ、と言った。母に嫌われることが何より嫌だった私は、ごめんなさいもうしません内緒にしてくださいと父親に謝った。父親内緒にして欲しがったら乳首をなめてと言って私はした。

中学年になると妹はストレス学校問題をおこすようになった。家のお金や私の物を盗み、怒るとお姉ちゃんがと泣き叫ぶ。住宅密集地だったため丸聞こえで近所の人に挨拶をすると無視されるようになった。

大人に指図して生きているのがわかるのか私は先生に好かれない子供だった。授業中に睨むなと叱られ母に相談すると、あんたは大人馬鹿にしていると言われた。

父方の祖父母にも生意気で可愛くないと言われいると母から聞いた。母方の祖母あんたがなつかないか引っ越したと言われた。妹も私も味方の大人はいなかった。

中学生になると妹は荒れ似た家庭の友達の家に入り浸るようになった。親の寝室にはアダルビデオの山があった。私はかまってくる男子学生拉致されて犯されるビデオを貸した。父親発情した男子馬鹿にしていた。その男子に好意をよせ胸を触らせてあげる女子などがいたが私が媚びないからそんな態度だと犯かすぞと言われた。ああ男はそうできるのかと肌身に感じた。

そんな中母が入院することになった。あまり帰ってこない妹と風呂場やトイレを間違えたふりしてあけようとしたり股関を見せてくる父親と過ごすことにノイローゼになった。

私は気が狂っていたんだと思うがお風呂の湯船に浸かり麺棒を股に刺した。自分自分を守った気がした。食欲もなく母が退院すると私が病院につれていか栄養失調だと怒られた。

卒業間近に父に愛人ができ、借金でも虐待でも別れなかった母は離婚を決意した。

その頃にはもう妹は我慢限界父親に反抗し物を壊し私や母に殴りかかるようになっていた。当然だ。母の兄が妹をなだめようと受け止めなんてできやしないのに近づき、妹が暴れると妹を罵った。母にその日の夜、あの子はいらないだろうと児相に預けるように言われたが断ったよと伝えられた。

小学生の時の帰り道けんかをして妹を泣かせてしまった。それを見た知らないおばさんが私を嫌な子だと非難すると、お姉ちゃんいじめるなとこんな姉妹関係なのに怒ってくれるやさしい子なのを知らないくせに助ける気なんかないくせに妹を馬鹿にした。今でもあの親戚たちが死んだら笑うくらいには憎い。

大人になり母親も兄と差別され搾取された子供だったと知った。

妹は社交的で可愛く人好きのする人間になった。でもいまだに心に爆弾を抱えているし、私に対して愛憎の入り交じった感情をもっているのがわかる。

私は妹が好きだ。お姉ちゃんは好きだと言ってくれる妹に罪悪感が消えることはないと思う。

2019-01-16

姉の話を聞いてほしい

私には年子の姉がいた。

正確に言うと、姉はこの世に生まれて来れなかった。姉が亡くなった直後に私が妊娠したため、親や親戚からは「姉の生まれ変わり」「姉と一心同体」と言われここまで生きてきた。


姉のことは20数年間生きてきて1度も見たことがないし、声も聞いたことがない。

でも、姉の存在を感じることは多々あった。


小学校2年の頃、学校廊下を歩いていたら後ろから頭を突かれた。でも振り返ると誰もいない。

当時ビビリだった私だが、何故か怖くなかった。

これが姉との出会いだった。


姉は、私が弱っていると助けにきてくれていた。

本当になんども助けられた。

私は親から「姉の分まで幸せに生きないとね」なんてことを20数年間ずっと言われてきたので、「ふたりで生きていこう」と思っていた。

私は昔からトラブルに巻き込まれやすい体質だった。

小中高、いろいろなトラブルに巻き込まれた。

どうしようもないぐらい辛くて、死にたくなった時、いつも姉は助けにきてくれていた。


高校時代不登校になった時も、姉はいつもそばにいてくれた。



大学に入り、ちょっとメンヘラお姫様気質彼女に振り回されて死を覚悟した時だった。

この頃になると、寝る前に真っ暗な部屋の中で泣きながら姉を呼び「こんなことがあってしんどい。助けて。」なんて訴える日もあった。しっかりと声に出して。

から見たら「独り言を言うやべー奴」だが、私はしっかりと姉の存在を感じながら話していた。

その夜も訴えた。泣きながら「死にたい」と言ったところで意識が途絶えた。



夢の中で姉と会った。

もちろん顔は覚えてない。何を話したかも覚えてない。

でも、姉は私に会いにきてくれたのだ。

そのことだけは衝撃的すぎて忘れられない。



姉のために「永遠幸せ」を求めて生きてきたけど、そんなものがないってのを教えてくれたのも姉。

幸せではないし、むしろ今すごく辛いけど、姉がいるから私は生きていける。


ふと文章にしたくなったので書いてみた次第。

ちゃん、見てくれるかな。

2018-12-26

anond:20181226125114

今時年子って時点で周りの人がそうさせてる率相当高そう

普通は次の子妊娠まで一年空けるように、と指導されるし

よっぽどの理由高齢で間隔空けたくないとか、育休二回取れないからまとめて産まないとならないとか)でない限り

女本人は年子なんか望まないだろうし

anond:20181224151618

夫への嫌悪感生理的ものであれば子を守る為のホルモン本能問題である可能性があるらしいから、子のためと思ってあと1年くらい?待ってみてはどうか

まあ本能っても個人差が大きいんだろうね

年子連続で生む人はそれが薄いのか、それとも回りの人がそうさせるのか

2018-12-09

年子供を通わせようと思って栄光南草津校に見学に行った保護者感想

https://anond.hatelabo.jp/20181208225303

俺は栄光関係者じゃなくて、今年の春に子供を通わせようと思って南草津校に見学に行ったことがあるだけの保護者だが。

増田記事読んでてあれ?ってなった。なんかおれが思ってたのと違う。




まず栄光の印象だが、ビジネスやる気あんのか?って感じだった。

チラシでも合格実績とかじゃなくて講座の値段が安いですよとか体験学習やってるから今がチャンスみたいなことを。

説明下手だから物見て。

https://www.google.co.jp/search?q=%E6%A0%84%E5%85%89%E3%82%BC%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AB+%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B7&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjJua-FzZHfAhWUIIgKHRZ2DM8Q_AUIDigB&biw=1218&bih=570

からやってる有名塾なのにこんなやる気がないことでいいのか?

お隣の駅にあるマブチ教室がででーーーんと駅からみてもわかるくらいどでかく俺はここにいるぞって合格実績アピールしてるのになぜやらないのか。

私みたいに稼ぎが悪い親じゃなければ問答無用でマブチに入れるぞ。

あと立地も悪い。

栄光そもそも建物位置商業ビルの奥のほうでわかりにくく、ビルの真ん中のテナントがいないこともあって

え、こんなところで塾やってんの?ってちょっと不安になった。


で、実際行ってみた感想だが。増田で語られてる内容と自分がみたものがなんか違う。

ブクマ読んでたらやっぱり一人で100人の面倒見てたように勘違いしてる人がいる。

俺が見た限りだが、これ、たぶん教室責任者が一人っていう意味だよな?

責任者とは別に3人くらいはいたぞ。

そうじゃないといくら保護者バカでもこの塾はやばすぎるって思うだろ。

ただ、俺はこれ社員だと思ってた。若いとは思ったが増田がいうことがほんとならこいつらはバイトなんだな。それはびっくりだわ。

増田が言う通りスーツちゃんと着てて社員に見える格好だった。

から思うに、これ大学生からしたらかったるくてバイト集めるの大変なんじゃねえかな。

授業をやってる先生とは別に受付や事務作業とか、授業待ちの子供の対応をしてる人がいて、はた目には異常だって全然思わなかった。


見学に来たうえで話を聞いたらとにかく合格実績の話とかなくて、子供一人一人を丁寧に見ますよってのをアピールしてた。

実際に見たら受験させるというよりはなんか託児所みたいな感じ。先生はたいへんやろなあと思ったけどやっぱり立地が気になって通わせる気にはなれんかった。

よく考えたら、あの話してたやつは社員なのかそれともバイトなのかどっちだ。名刺もらっておけばよかったわ。


マブチのほうは受付やらジム先生が明確に分かれてるんだな。服装ジムって分かれてる人がいたわ。

マブチは経営者やくざうんぬんみたいなうわさがあって印象悪かったけど実際に行ったらものすごく空気よかった。

でも見学しててうちの子にはこういうがつがつしたの合わなさそうだなって感じだった。

あと浜学園やら成基学園やら城南予備校に行ったんだけどどれも悪くなかった。

特に浜学園は上位校はガチで厳しそうだけどうちの娘の中間レベルはぬるい感じで通わせるならここがいいかと思ったが、月謝が高すぎて断念。

いろいろ悩んだ結果、フリーステップに通わせることにした。やっぱり草津駅は夜は暗いし安全第一だよなぁ

草津近辺の人、みなさんは子供どこに通わせてますか?




どうでもいいけどチラシの画像ググってたらこんなんあったわ。このおっさんだれか知らんけどめっちゃおもろい。

https://blog.goo.ne.jp/mintsun157/e/04daa74c77788916a2270d09a96c6069

2018-12-02

リアル知人に今年子供が産まれたんだが

知る限りの子持ちは皆SNSへの投稿子供ネタばかりになるのに、その夫婦は全く子供のことを書かないで完全にこれまで通り。このパターンは初めて見たかも。別に人の勝手だし問題ないとは思うがちゃんと育ててんのかとちょっと怖い。まあ大丈夫だとは思うけど。

2018-11-28

中学3年まで特別支援学級だった自閉症児の息子が大学合格した

 参考になるか知らないが、適当に綴ることにする。

 語尾がバラバラなのは許せ。(気が向いたら編集するが)

まずは生い立ちから

 3歳になっても言語を全く話せず、クレーン動作を始めとした典型的自閉症状を示していたため、児童センターを介して専門機関受診したところ、聴力も問題なく知的障害自閉症)との確定診断。

 そのまま知的障害者の扱い(療育手帳交付)。

 応募した私立保育園には全て断られたものの、自宅から少し離れた市立保育園へ無事入園

 「知的障害児」ということで、ほぼ専任のような保育士さんを増員していただき、時々奇声を上げて脱出を企むながらも、最後まで追い出されることなく何とか卒園

 保育園の間は、ずっと会話は不成立。

まずテレビを捨てました。

 3歳でビデオデッキ操作(VHSカセットの交換・スロー再生・逆再生等々)をマスターしていたものの、毎日テレビの前でビデオ操作しながら、全く同じシーンを延々繰り返しながら奇声を上げて踊ってる有様。

 確か「お母さんと一緒」のビデオだったと思いますが、キメのポーズのところで一緒にキメて、そりゃ見てて可愛いわけですが、親からの会話は理解できていない。

 テレビに映った、いわゆる芸人さんの笑いを(意味も分かってないくせに)オウム返しし始めたあたりで、これはヤバいと感じ、(当人は知らない)裏のコンセントをコッソリ抜いて「テレビさん壊れちゃったみたい」ってやってやりました。

 しばらくは寂しそうにしていたのですが、何ヶ月かしたら、直ったか試すこともしなくなったので、未練がなくなったのだろうとテレビごと廃棄。

 たしか4歳か5歳の頃だったと思いますが、この時から自宅からテレビがなくなりラジオだけの生活になりました。寝る時に子守歌かわりの童謡CDを流す習慣にしていたのですが、高校1年くらいまでは寝る時に自分操作して鳴らしてましたね。(ずっと川の字です)

 テレビがなくなると空いた時間を埋めるべく、絵本をめくったり、オモチャを手にしたり、パソコンに興味を示したりするようになりました。テレビは捨てて正解だったと今でも確信しています。(モニターDVDは視聴可)

小学校先生に恵まれました

 発語はあるが会話は成立しないのですから小学校は当然にしてストレート特別支援学級です。

 集団登校には親の同伴を求められたので、6年間ずっと同伴通学でした。(とは言え、後半は列の後方から見守る程度ですが)

 「環境の変化」と「予想しない事態」に極度のストレスを感じるのが自閉症児の特徴なのですが、特別支援学級の1年生~5年生まで、担当教諭の異動がなかったことが幸運安心すると精神状態が落ち着くんですね。

 特別支援学級教諭って、ナニかワケありで左遷ポストみたいな雰囲気があると思うんですが、1年生~5年生まで担当して下さった教諭は全く違ってました。

 言葉で書き尽くせないのですが、自閉症児では健常児以上に苦手なところが多いのですが、無理矢理に克服させようと正面突破させるのでなく、苦手なところを避けて歩く方法みたいなことを息子に伝授してくれたように感じます

 予期しないことが起きるとパニックに陥って奇行が始まるのですが、先に予定が分かっていて、その予定どおりに進行すればパニックは起きにくく、そういう特性最初から見抜いて下さって、本当に上手に導いて下さいました。

 伊藤先生、今でも感謝しきりです。(年賀状は欠かさず(息子に)出させてます

ほぼ毎週のように外出しました

 息子にはとにかく外界からの刺激が必要だと思って、ほぼ毎週、公園だの何だの、とにかく外へ連れ出しました。200キロ距離にある実家へは毎月通ったり、とにかく土日2日とも家に籠もっていたことは年に数えるほどだろ、という位に連れ出しました。

 電車が好きだったので、環状線一周(全ての駅で降りて看板写真を撮る)みたいな、そんなオタッキーなこと喜ぶ児童がいるのか?みたいなことやってました。時効から打ち明けますが、1区分切符でずいぶんと遠回りさせて頂いたこともあります

 地名や駅名とかはすぐに覚えましたね。

 実家へは(下道で行くと)幾つものトンネルをくぐるのですが「このトンネル最後」みたいなこと言ったり、いついつにこういうことがあった、みたいな何年も前のことを年月日まで揃えて呟いたり、とにかく記憶力だけは半端ない

 ちなみに息子と年子の妹(健常児)がいるのですが、彼女存在も大きかったように思います。友だちのいない息子にとって、唯一の同年代の子どもが妹だったのですから

 特に小さい頃の妹は兄の障害のことが分からないので、時々は手を繋いだり引っ張ったり(兄のほうは照れて逃げ回ったり)、それはそれは友だちのように接してくれたのですから

JRウォーキング企画に連れ出しました

 家族での外出のほか、JR沿線企画するウォーキングに猛烈に参加しました。

 参加するとスタンプが貰えるのですが、有効期限内にフルコンプリートして最上位の景品を貰えるくらい、1級障害者じゃないので運賃は安くならず、相当お金はかかりましたが。

 他の子達と同様、かならず電車最前列に張り付いて、運転手さんの呟き(点呼)をオウム返し。運転席に手が届くような、どこぞのローカル線に乗った時は、運転手さんが息子の点呼(出発シンコー)に合わせてマスコン操作してくれたりで、電車が大好きになったようです。

 あと英語ナレーションも覚えたみたいで、英語が流れないローカル線でも自分英語で This train ・・・ Bound for ××× Thank you! って大きな声で「通訳」すると、周囲の大人が褒めるもんだから、より調子に乗って・・・みたいな。

 10キロとかの健脚向けコースに参加しているときなんかは、おばちゃん達が「小さいのに偉いねぇ~」って飴ちゃんくれたりするものの、会話が成立しない(がんばって1往復)うえに当人は飴なるものを口に入れたがらず。

 食へのこだわりが強烈で、少しでも怪しいものは決して口に運びません。妥協なんてありえないのです。

パソコンに息子用のアカウントユーザー権限)を作って使わせました

 ヤフーキッズブラウザデフォルトにしたのと、使用時間制限(夜の9時だかを超えると使えなくなる)したくらいで、基本的にノンフィルターで使いたいように使わせました。

 パスワードはかけてなかった(息子も自分でかけようとしなかった)ので、時々何をしてるか監査してましたが、Youtube で馬鹿映像を見てるほかは名探偵コナンを追いかけてる風。あとドラえもんプリキュア(笑)

 年頃の男の子が興味を示すサイトへは立ち寄った形跡もなし。アニメ芸能関係Wikipedia更新もやってたみたい。

 基本的には「泳がせながら監査」という状態を続けましたが、ずっとパソコンで遊べるわけじゃありません。

 時々妹がやってきて「私もパソコンを使いたい」って言う話になれば、兄に勝ち目はないので、みすみすパソコンを奪われることに。

 まぁずっとパソコン漬けはよくないし、時々はパソコンを奪われたほうがいい(占有じゃなくて分け合う)と思うので、パソコンを追加することな喧嘩させる選択(妹相手喧嘩練習をしておけ、と)

5年生くらいか運動会で息子が見つけれなくなりました

 3年生か4年生くらいになると、少しずつ会話が成立し始めました。

 その奇行ゆえ、運動会では常に、どんな遠くからであっても、あれが自分の息子だ、って識別できていたのですが、5年生の運動会くらいからでしょうか、一生懸命に探さないと見つけれなくなりました。

修学旅行に息子だけで行けました

 小学校入学当初は「修学旅行へは親さんも同行してもらうことになりますから(同行できないなら修学旅行は無理です)」って言われていたのですが、伊藤先生の後任の女性教諭も「大丈夫でしょう」と。

 無事に一人で(同級生と)行ってきました。

 プラスチックの刀を土産に買って帰ってきましたが、どこが気に入ったのか今でも理解不能。

卒業式

 養護教諭フォローなしに壇上で卒業証書を受け取る息子を見て涙が出ました。

中学特別支援学級

 奇行も減って落ち着いてきたので、普通学級でも辛うじて何とかなるかも?って言われつつも、他の生徒さんに迷惑がかかるといけないと思い特別支援学級希望

 2人の学級で、これまでは異学年の混合授業だったのが、初めての同級生が出来ました。

 しか女の子! だけど家庭の事情引っ越し)で1年で転校して行ってしまいましたが、別れの日は私物を整理して親と一緒に帰る時間見送りに行ったようです。買って持たせた花束の中に、コッソリ前年の年賀状の余り(自宅の住所が印刷されている)を忍ばせておいたのは私なのですが、お礼状と共に今でも年賀状の往復だけ続いています

 その子もワケありなんだけど、息子とは特性が違う(不得意分野が違う)ので、嫁さんになってくれるといいんだけどなぁ~とは心の中の声。

同学年の女の子を好きになる

 気に入った女の子が出来たみたいなのですが、息子の挙動があまりキモかったらしく、当人から拒絶されたうえに親にも厳重注意

性的なことをやったわけじゃありません)

 当人は加減を知らないし、女の子のほうも自閉症児につきまとわれるのは嫌でしょう、分かります

混合授業を希望する

 中学校の特別支援学級担任は、父兄の間で評判の良くなかったらしい教諭が着任して翌年に異動とか、産休予定の教諭が数ヶ月だけ担当して交代とかアレな風でしたが、本人には良い意味で刺激になったよう。

 3年生になり進路が気になるころ、どこへ進学するかはともかく、特別支援学級という超少人数学級じゃなくて普通学級にも慣れておかないと選択肢がないと思い先生相談

 数学理科は進度が全く違うという理由NG が出たものの、それ以外は何とかなるだろうと(授業の妨げになるなら追い出す条件で) OK

 7割は同じ小学校から上がってきた生徒で一応は幼なじみ。1学年50人ちょっとギリギリ2クラス)という少人数な学校だったこともあり、先生の目が行き届きやすいという判断もあってのことだろう。

 JRウォーキング企画を始めとして外にばっか連れ出したおかげか、地名都市位置関係)に関しては健常児を超えていたと思う。

 理科小学校から全く履修していなかった(見込みなしと見捨てて他の教科に割り振られた)のだけど、履修してない教科があったのに卒業できてしまうとは。

偏差値40弱の普通高校合格する

 その下は定時制しかないというランクのところではあるものの、「荒れてない」という理由だけで選択した公立高校に無事に合格

 たまたま定員割れしていた年で、落ちた生徒はいなかったと思うのですが、翌年は定員超えしていたので1年ずれてたらヤバかったかも。

義務教育期間・無遅刻無欠席を達成

 9年間、無遅刻・無欠席ということで学校と市から表彰されました。

 ちなみに一つ下の妹のほうも同じく9年間無遅刻無欠席。

 4歳だか5歳の頃に妹のほうがキャンプに行きたいというので「キャンプ場は遠いよ」って言って大正池から徳沢まで歩かせたり、お山に行きたいと言われれば「山小屋売店であって泊まるとこじゃない」と諭してテント背負ってガチ登山に連れて行ったり、ロープウェイに乗ってみよう!って誘っておいて「入り口は上にあって登らないと乗せてくれない」って登らせて下りだけロープウェイとか、とにかく欺しまくりました。

 温泉に行きたいって言われて湯俣温泉に連れて行った(吊り橋の先の河原で掘って「これが温泉だ」って)のが最凶だったと自覚してます(小2+小1)

 よって、うちの子たちは本当に頑丈です。

高校普通学級で頑張る

 中学までの26~27人学級と違って、40人近い教室で、一人も知り合いのいない学校。つまり他の生徒も息子の特性を知らない。

 小学中学は通しの生徒が多いせいもあって、息子がワケありってのは全校生徒のみならず、その親にまで知れ渡っていて、わざわざ寄りついてくる奇特子どもはいなかったのだけど、高校では最初のうちは先入観なく普通に接してくれたみたい。

 同級生から寄りついて来られたことのあまりなかった息子は話しかけられただけで「友だちができたかも」って思い込んで家に帰ってニコニコ自慢してましたが、それが「ぼく友だちいない」に変わるのはそう遅くはありませんでしたけど。

 とはいえ、友だちが出来ないまま15歳まで過ごしてきてるので、全く気にならないようではあります

 年に数回、学校開放みたいな行事があって親も観に行っていい日には出かけたのだけど、偏差値が低い=ガラの悪い生徒が多い という先入観を見事に打ち破ってくれました。いやほんと、殺伐感の全くないノンビリした校風の良い高校で良かった。

 迷惑をかけるのだからせめてもの恩返しということで、学校保護者委員?(PTAに近いと思うが、もっとイージー)は進んでお受けし、時々校門にたって挨拶運動かに参加したわけだけど、先生命令に従って渋々挨拶してるような感じはなく、どの子自分言葉挨拶してくれて、挨拶運動に参加するのはとても楽しかった。

JRウォーキング企画に一人で参加するようになった

 高校になってから自我が芽生えたか、親と出かけるのを嫌がるようになり(本気で拒絶するほどでもないが)、親としても自立する方向に誘導しないといけないため、JRウォーキング企画に一人で参加することを許可

 前日までに行程(電車の乗り継ぎを含む)と予算を紙で提出すれば金は出すという条件で。

 コンビニの外ベンチにDSを置きっぱなしのまま買い物に行って、案の定その間に置引きされたときがあるんですが、ちゃん自分交番に行って遺失物届を出してきたり、普通じゃないながらも何とかなる次元には成長

大学見学会大学進学に目覚める

 学校行事か何かで、家から最も近い私大偏差値40~50クラスか?)の見学に行って、学食としてマクドナルドみたいなバーガー屋を含む何軒もあったりで感動したのか、コンビニなんてもの学内にあることに恐れ入ったのか、コナンに出てくる大学生のイメージと重なったのか、どういう訳でか知らないが大学なるものに興味を持った模様。ただし、最初に見に行ったそこだけが気に入ったみたいで、他の大学へは見学すら行かない。

最後文化祭の劇で一躍ヒーロー

 高校になると授業参観なるものが滅多にないのですが、高校3年の最後文化祭(平日)へは仕事を休んで観覧。

 劇で何の役をやるのか教えてくれなかったので、観に行くことも言わずに黙ってビデオ回しながら見てたのですが、ステージの袖からナレーター(司会だったらしく)として登場したところで目を疑う。

 名探偵コナンナレーション意識しているとハッキリと分かるのですが、恐らくは普段の息子と全く違うキャラだったこともあってか、会場の体育館は大爆笑の渦に。適度なアドリブ(意外性に沸く観客生徒に向かって「ありがとう!」って言ってみせたり)を交えたり、完全に自分世界に没入していたのだろう、とにかく凄かった。

 審査表彰式まではいなかったのだけど、息子のクラス最優秀賞を、息子は最優秀個人賞を、それぞれゲットした。

指定校推薦という優遇枠でありながらも大学合格しました

 進路指導先生からの「なりたい職業に応じて学科を絞って学校を選ぶべきだ」という助言を無視する形で、第一希望~第三希望まで全て前述の大学にある学科で、文系理系おかまいなく・・・という風に進路希望を出していたので三者懇談では「本当にいいのか?」って迫られたけど、「息子が大学に行きたいと思ったキッカケは、そこの大学出会たからです」なのだから仕方ない。

 いわゆる進学校ではないため、一般入試での合格絶望的だろう、と先生から言われ、最初最後のチャンスということで指定校推薦に応募

 そもそも、その下には定時制しかないような、こう言うと悪いんだけど学力的には良くない生徒の集まる学校だったのだけど、挨拶運動で感じたようにガラの悪い生徒はおらず、確かに当たりは少ないけど外れはいない、そんな学校ゆえにか「指定校推薦」という枠が設けられていたのは凄い幸運だった。(誰しも外れを引くことを恐れるわけで)

 第一希望学科(息子はパソコンが好きだったのでそういう系)は成績が足りないと言われ、第三希望くらいのパソコンとは無関係なところだったら・・・みたいなこと提案に乗って応募。ちょまどさんだって文系大学なのにプログラマやっててマイクロソフト行かれたんだから、その気があればどこの学科であってもパソコン仕事はできるのよ。

 劇のナレーターで最優秀個人賞をゲットした余韻もあってか、上手に面接をこなしてきたのと指定校推薦で落ちるのは難しいという条件が重なって、無事に合格の通知。

 

社会で自立できるか知らないが

 高校3年でやっと中学生?ってくらいの状態なので、大学卒業できるか知らないが、ちょうど卒業時点で高校生くらいの状態になるかもしれない。

 完治は無理、喋らなければバレない、くらいが限界なんだけど、健常児を遙かに超える得意な分野があるので、そこだけ見て、ダメなところは諦め。

 ただ普通の子に近づいたせいか、幼少期に感じた「ありえない記憶力」とかの特殊能力は徐々に衰え、ヒゲも生えだして、すぐに忘れる平凡なオッサンに近づいてることに寂しさも。

 仕事に就けるかどうかは分からないが、とにかく社会に出るまで大学生の身分に甘んじて時間稼ぎしてろよ、と

中学受験シーズンが近づいて

中学受験シーズンが近づいてきた。今年子供が受けた経験から反省も込めて今の時期の心の持ちようや準備できること等について書いておく。

1.子供学力はここから伸びる

 中受でよく聞く「男の子は直前まで伸びる」っての、正直半信半疑で受け止めていたけど我が家については実際この通りだった。息子の学力は秋(11月頃)までサピックス偏差値で言うと50に行くかどうかという感じで、一方の第一志望校偏差値は60で10くらい開きがあった。それが12月に入ってからようやく息子のエンジンがかかり、そこから目に見えて勉強の質と量が上がっていきそれと共に理解知識が深まっていくのを感じた。この時期はもう模試は全て受け終わっていたので数字で示すのは難しいが、ざっくりした感覚偏差値5くらいは上げたのではないかと思う。受験生全員がそうだと言うつもりはないが、子供目線、特に男の子場合入試本番が現実的な射程に入ってくるのは残り2ヶ月を切ったあたりからの気がするので、特にまだ100%本気で勉強に取り組んでいないなと感じるお子さんの場合は12月からでも十分学力が伸びる余地はあるので諦めないで欲しい。

更に言うと、我が家のような家庭は結構多いのではないかと思われ、したがって入試本番での受験生学力は、それまでの模試等に表れるよりもずっとボーダーにぎゅっと集まっているのだと思う。だから(後述のとおり)入試本番である当日の、メンタルを含むコンディションが合否を左右する。

2.1月校の受験有益

 どの受験でも言えることだけど、どれだけたくさん模試を受けて試験慣れしているつもりでも、入試本番はやっぱり模試とは全くの別物だというのを子供受験を通じて改めて痛感した。しかもそれに挑むのはまだ精神的にも発達途上の12歳の子である事を考えると、本命校の受験に先だって「お試し」校を受けておくかどうかで経験値に大きな差がつく。

この点、実際に行くかどうか分からない学校受験することの是非は色々言われているし、我が家基本的に「行くつもりのない学校は受けない」という方針で臨んだけれど、それでも悩んだ末に2月の本命校の前にいわゆる1月校と呼ばれる学校の1つ(都内の中受界隈では有名な埼玉の某校)を受験することにした。気合いの入った受験生とその保護者達が放つ張り詰めた緊張感、そして激励に来ている多数の塾関係者から溢れる熱気、そこに有名校ともなればマスコミ取材も集まってきて、入試当日の現場模試では体験したことのない異様な空気に包まれる。自分の子供は肝が据わっていると思っていても、大人ですら平常心でいられない独特の雰囲気本命校の受験で初めて接して呑まれしまい,実力を全く発揮できない可能性は大いにある。そうしたリスクを避ける意味でも本命校の前に1校は受験しておくとだいぶ違う。また,上記1.と関係するが、12月からの直前期の勉強子供学力は更に上がってくるので、どの程度仕上がってきているか確認する上でも1月校の入試有益だ。(2月の受験本番までまだ2週間あるので、最後の弱点補強や振り返りができる。繰り返しになるが子供学力は本当に最後最後まで伸びる。)

3.受ける予定のない学校も出願候補として押さえておく

 自分自身も中学受験経験者だが、今の中学受験が当時と大きく違うのは、①ネットによって前日まで出願が可能となり、合格発表までの期間も短くなっている(翌日又は当日の発表が多い)、②複数回受験可能学校が増えている、という点。これによって、入試本番に突入してから受験結果に応じて柔軟に併願を再考・組み直すことができるというメリットが生じる一方で、受験生メンタルには大きな影響を与える事態となっている。

知らぬが仏という言葉があるように、昔は初日に受けた学校の合否結果が出ないまま2日目校、3日目校と受験するのが常だったので、最初に受けた学校の合否を知るよしもなく(=心乱されることなく)、それなりに心の張りを維持して試験を受け続けることができた。今はそうはいかない。初日に受けた学校の合否が早ければその日の夜にはネットで分かる。仮にそこで不合格となっていた場合子供は落ちたショックを引きずって翌日以降の試験を受ける羽目になる。中学受験は同じ面子試験を受け直したら合格者の半分は入れ替わる言われるくらい拮抗した競争であり(前述のとおり、直前の追い込みで受験生の多くがボーダーに集中しているとすれば自然なことだ)、そこで合否を分ける一番の要素は子供メンタルコンディションとなる。その意味で、2月1日から受験の結果が不合格となった場合子供達は最悪の精神状態試験を受けることを強いられるのである。そうして2日目、3日目と不合格メンタルが落ち込んでいく負のスパイラルに嵌まり込んでしまい、結果全落ちするケースも珍しくない。実際我が家は2月2日の押さえ校(当日夜に合格発表)でまさか不合格をくらってしまい、翌3日に向けて子供メンタルを立て直すのに非常に苦労した。こうした事態を防ぐ観点から、たとえ現時点では受けるつもりがなくても、子供の持ち偏差値から10~15くらい下で前日まで出願が可能な超安全校を2月の受験候補校として押さえておくべきだったなと反省している。

これから親御さんにとってはお子さんの受験準備に向けて精神的なプレッシャー高まる日々かと思うけど、結果がどうあれ中学受験を親子で乗り切った経験は決して無駄にはならないので頑張って欲しい。

2018-11-19

産婦人科医は子供の数でDVを疑うらしい

年子だったり三人、四人と産んでいたらDV疑うんだと姉は言っていた。セックス拒否できる環境かどうか。それとなく妊婦さんに夫のことを聞き出すんだって体感で5割くらいはビンゴだと。

んで、最近ツイッター(笑)で嫁が夫の性処理しないとこうなってしまんんだぞ。と性犯罪ニュースを見せてくるモラハラ夫の愚痴を言ってた人がいて、その人にウチも同じです……と言ってた人もいて、両者とも多産だった。

から何という話ではないが……そういうこともあるんだなと思った。

2018-10-11

責任が重い仕事避けの女が嫌いでした

仕事大好き、女社畜でした。

残業徹夜勤務バッチコイ30歳年収700万クラス(残業込み)の都内企業所属

年子どもを産みました。絶賛保活中。

子ども産む前は、仕事大好きで同期の男性たちからも「働きすぎ!倒れるぞ」と心配されてました。自分でも働きまくったと思います

責任が重い仕事ストレスがあれど楽しく取り組みました。何度も言います仕事大好きです。

女が責任が重い仕事を避けるとか、楽な仕事を好んでするという話、よく見てましたが自分はピンと来ませんで、

「また女を武器にした人がズルしようとしてるのか」くらいの感覚でしたよ。ええ。そんな彼女達はワタシの事を、異端と思っていたようで結婚したときも「仕事と生きるのかと思ってた」と言ってましたし、産休前も「子ども持とうと思ってたの?」と驚いていました。

ええ、こちらも女を武器にするズルい女軽蔑していましたし、大嫌いでしたけど。

しかし、子どもを産んでワタシはトランスフォームしました。身体も心もです。

ああもう元の社畜に戻れない。

だって子どもと一緒に居たいんです。心の底からの子の成長を見守ることが喜びになってしまった。

もちろん、仕事は好きですから続けたいです。でも1番は子どもになってしまった今、仕事子ども生活費を稼ぐ最低限でいいや、と思ってしま自分がいます

ああ、これまで女であることを利用せず生きようとしてきたのにここで、、と思うけど、それでも楽な仕事に落ち着きたい自分がいます。悲しい。

2018-09-27

45歳男性で、結婚15年子なし、妻は出産適齢期を過ぎてるとしよう。

子供が欲しくなったか若い女性と結婚すべく妻と離婚というのを、

今の少子化時代あるいはこれからの超少子化時代倫理的にどうとらえるんだろうか。

2018-08-09

anond:20180809133112

育休、男も取っとくと得だけどね

俺は1年取って嫁と真の意味での戦友になれたと思ってるし子どもの素の性格性質が分かった

これは1年子ども見てないと分からない

あとそんな家事できるほうじゃなかったけど自分ごととして担当してようやく嫁のやり方が理由込みで腹に落ちた

早めに家庭内仕事スキルアップしとかないと昭和老害そのままに部屋の一番邪魔なとこでウロウロする

歳だけ取ってて使えない新人なっちまうなって危機感あったからよかった

2018-07-29

anond:20180729194500

金も時間支援も薄い今の環境20年子どもを成人まできっちり教育して

世間様に迷惑かけない立派な社会人にできるか自問自答のすえ俺と嫁は子どもは作らないと決めた

余程の資金力があるっていうなら別だけどそれもなしに今の状況で何人もポコポコ産んでヘラヘラしてんのはい選択だろうか

そんな親がノープラン運営してる家庭で特に面倒見られずに育った何人もの子どもが成人したとして本当の意味生産性なんてあるのか?

自分が親だったと仮定したら世間迷惑かけるような子どもなんか増やしてもしょうがないと思うが

2018-07-03

持ち家でも4年〜6年で住み替えるべき

エアコン故障して急遽修理に来てもらうことになった。

待ち時間子ども0歳時のTwitterを見返した。今も毎日キツイが当時の比ではない。

結婚したカップルから子どもが2人以上生まれないと人口減少が進む。

子ども0歳、1歳の時はもう1人で限界と感じたが、3歳を過ぎてから変わった。

やはり2人、3人の子がいてこそ「家族」といえる気がする。

夫は経済面と手がかかる子が2人に増えた悲劇危惧している。

本音は一人娘が可愛すぎて愛情を2人に分けたくないようだ。

一般的年子や2つ違いが多いけれど、やはり4歳・5歳違いが育てやすいのでは?

五輪と同じスパンでちょうどいい。

給与と連動する育児休業給付金も高くなるので経済面負担も減る。

子どもが生まれ前後で持ち家を購入するケースが多い。

自分出産前に購入したが、もともと質のいい賃貸に住んでいたなら、

第1子が4歳〜5歳の時点がベストな購入タイミングだと思う。

妊娠中や出産直後の物件見学引越しは厳しすぎる。

はいえ、2〜3歳になると、モデルルームキッズスペースは助かる。

そもそも家を購入したら一生、少なくとも最大35年のローン期間は住み続けるという

常識」が時代に合わない。デジタル時代の速さに合ってない。

どうせ戸建ては、20年経過すると資産ゼロになるなら、

その時点で解体して土地だけ売却するか、駐車場駐輪場にすればいい。

家、特に木造建築は無理に直そうとせず、老朽化する前に売ればいい。

一方、マンションは適切にメンテナンスを行い、リフォームリノベーション

最新設備の部屋に生まれ変われば、立地次第でかなり高値に売れるようだ。

そもそも同じ日常の繰り返しは耐えられない。おそらく自分だけでないはずだ。

4年ごとに引っ越す、家族が増える、転職独立する……。

もっと自由に生きられれば自然内需拡大につながるはず。

問題は、転職すると給与が下がるか、労働環境悪化し、子ども教育資金負担のしかかる。

2011年7月24日、地上アナログ放送終了。テレビ新聞の大騒ぎからもうすぐ丸8年。

今でもテレビが最大のメディアなことには変わりないけれど、以前に比べ、ネットの影響力が増してきた。

もっと変化のある世の中にならないと、本当に詰んだ国になる。

高齢者はどうして変わろうとしないのか。気持ちだけ若い中年も古い規範に取られるのか。

団体信用生命保険に入れるなら、住宅ローンこそ最大の投資


国は明確に「貯蓄から投資へ」を呼びかけ、資産形成を促しているのだから住宅ローンを組んで家を買うか、

補助金活用して個人独立するか、せめて社内ベンチャーでも起こすべき。

日本に足りないもの子どもではなく、「変化」。

子ども嫌いは他のもの人生に変化を、割と好きならスパンを空けても

3人、4人と育てられる状況にしなければならない。

もっと劇的な変化、端的にいうなら承認が欲しい。

普通のひとは繰り返しの連続で満足なの?

2018-06-29

anond:20180628235319

金の問題とか関係いか

35だと良くて2名かな?年子で良ければ3名はいけるけど、フルタイムは無理。

もちろんソニーとか大企業で家でEXCEL入力でも充分な給料くれる会社なら余裕

anond:20180628235319

余裕でしょ。知り合いの女医は35から年子で2人、二歳あけてもう一人産んでた。

ただ、相当周り(含業者)の協力を得ないと夫婦仲は最悪になると思われ

2018-05-31

anond:20180531102114

生涯に1ダース以上の子供たちを生んだ私のばあちゃんでも年子では産んでないな。

2018-04-29

アル中って

TOKIO山口達也さんの記事を読むと、アル中の友人と重ね合わせてしまう。

暴れて警察沙汰になっても、アルコールが抜けた時にそのことをあまり覚えていなかったり。

その夫婦には今年子供が生まれるのだけど、すごく不安になる。

子供が生まれたら、彼は変われるのだろうか、とか。

2018-04-06

anond:20180406084517

横田だけど、上が幼稚園児、下が未就園児、じゃないの?

それだと未就園児一人より遥かに大変だよ。

親が行事の準備しなければならないくらいだから小学生じゃないだろうし、

そもそも小学生いたらいくら長期休み中でも習い事とかやってるだろうからずっと実家帰りとか無理だし。

2人幼稚園児ならほぼ「上年長、下年少」の組み合わせしかいから(年子は今時相当レア)、たった一年しかないし

そもそもそれだと下はこれから入園だろうし、入園しても最初は慣らしの短時間保育でしょ。

2018-02-22

anond:20180222173137

元増田です。

うちは夫婦揃って共働きでどちらかというと高給取りですので、出産にあたりかかる費用は痛くありません。

夫が居ない平日は病院行くにも毎回タクシー移動してますし、通勤電車は混むと辛いので自腹でグリーン車通勤してます

いろんな病院出産にまつわるシステム運用周り見てて、非常に無駄が多いことに気がついたかコメントしました。

大学無償化は後回しでいいかもと思ったのは、このままいけばうちは無償でなくても払えると思ったのもありますが、

例えば今年子供を産んだ夫婦は今のシステムのままで例えば1年後に次の子供を産もうと思うだろうか、という疑問に当たりました。色々面倒で時間コスト金銭コストもかかるから、1人目だけでいいや、と思いませんか。

また、乳児や、1、2歳の子を連れて3時間待ちの妊婦健診いけますか?

いろいろご意見はあると思いますが、

18年後の不安より、今の面倒ごとや不安解決に導いて行くことが出生率を上げる早道だと思います。あと、大学無償にする恩恵より多くの夫婦利益が得られるのが、出産に関わる費用無償化だと思います。国のコスト負担も低くて済むでしょうし。

今、妊婦さんで今から18年経ってから、2人目産める人は何人いるでしょうか?だから将来子供が行きたがるかわからない大学無償にするよりは

今、子供を持ち始めた世代に、もう1人産んでもいいかな?と思わせるために目先から変えるべきというのが私の意見です。

2018-01-11

毒親年子承認欲求モンスター

私には1歳11ヶ月離れている姉がいる。

頭が良くて友達の多い姉だ。

およそ2歳離れているが、年度の都合で学年は1つ違いだった。

幼い頃からできた姉とよく比べられてきた。

お姉ちゃんは片付けができるのになんであんたはできないんだ。

お姉ちゃんは言うことを聞いてくれるのにお前はなぜ聞き分けが悪いんだ。

お姉ちゃん勉強して成績が良いのにお前は漫画ばかり読んでるんだ。

家では当たり前に比較された。

そして学校でも当たり前に比較される。

幼稚園小学校中学校入学すると、まず先生から姉ちゃんの妹と呼ばれた。

そして姉の友達にも姉ちゃんの妹と呼ばれる。

先生からも先輩からも、顔が似てるだとか、性格は違うとか、姉ちゃんはそんなことはしないとか毎日言われていた。

三者面談では私ではなく姉の話題で盛り上がっていた先生と親。

何をするにも姉を基準評価された。

年賀状の枚数が姉の方が多いとか、姉は友達といろいろなところに遊びに行っているだとか。

通知表の成績が姉の方がいいとか。

最初は私も追いつこうと頑張った。

勉強してみたし、速く走れるように練習したりしてみた。

だけど毎日毎日姉ができるのになんでお前はできないんだと言われて劣等感でいっぱいになった。

このことの最初の変化は、家族トランプをして私が1番にならないと、トランプをめちゃくちゃにして怒り泣き叫んだ。

家族で出かけるのを嫌がり、外で寿司を食べなきゃ行かないと言っていた。行ったら行ったで、帰りたいつまらないとずっと言ってた。

姉がいなくなればいいのにと毎日祈ったし、姉の宿題プリントをめちゃくちゃしたり隠して意地悪をするようになった。

友達とも遊びたくなく家で漫画を見ることが救いだった。

しかし親は1人で遊んでることが心配だったようで、姉に、あねと姉の友達と私とで遊んでやってくれと頼んだ。

当然よく知らない姉の友達と遊んで楽しくもなく、漫画が読めないかイライラが募り姉の友達と大ゲンカになった。姉はこの喧嘩を黙って見ていた。

このころから姉を無視し、親には◯ねと言うことがふえた。

そして太った同級生女の子いじめた。この頃の私の思考は、太っている=だらしない、で、私よりダメなくせに楽しそうに笑っているのが許せなかった。

それでもたまに親は私のことを褒めることがあった。

姉ばかり褒めてばかりだと平等ではないと感じたそうだ。

このころの私は褒められても嬉しくなかった。

それよりも、親が姉に対して、妹はできるのになんでお前は出来ないんだと言って欲しかった。

皆大嫌いだった。全員敵だった。

中学の頃は親と毎日怒鳴り合いか、殴り合いの喧嘩をした。

親には嫌なら家を出て行けと言われた。

自立して自分の力で生きて行こうと作戦を立てた。

資格の取れる大学に行って独立しようと決めた。

それからは親に話しかけられるまえに急いで部屋に駆け込むようになった。

こどもを比べると家庭が崩壊する。

意外にも1番傷つき被害を被ったのは姉だった。

元来穏やかで繊細な気質の姉は、唯一私の気持ちに気付いていたようだった。

しかし親や周りのすることを止めることもできず、私には無視され散々だったろう。

姉は良い子を止めることは出来ず、マイナス感情は見せずにいた。

そんな姉に異変が起きたのは大学に入った時だった。

誰もが知る名門校に入り順風満帆に見えたが中退引きこもり始めた。

親にも怒鳴り散らすようなり、親は困惑し、あんな良い子だったのにどうしてと嘆いた。

姉と違う学校入学してからは嘘みたいに楽しかった。

先生友達も、姉の妹ではなく私を見てくれた。

姉と比べられるのは苦しかった。

比べるなら過去の私と比べて欲しかった。

年子だと比べられる期間が長こと、体格が同じ感じだから比べやすいのだろう。

会社毎日後輩はできるのになんでお前は出来ないんだ、と言われたらほとんどの人は鬱になるか退職すると思う。

なぜ親は、人は、大人には言わないことを子どもには言うのだろうか?

2017-11-29

anond:20171129174430

でもそれってたとえば5年子ども産むのを遅らせたらなんか変わるの?

たとえば30歳で時短なしに復帰できるんだったら、そこからまたがんばって働けばよくない?

産むのを遅らせた同期は、管理職になるかならないかくらいのところで産休育休取らざるをえなくなって、

そっちのほうが困らない?

2017-11-28

anond:20171128154354

「3年子なしは去れ」と言うくらいだから、週1エッチで3年以内にできるくらいじゃないかな。

2017-10-20

麻酔科医は本を書く夢を見るか

 どうしても本が書きたくて、そのために19時半からパソコンにかじりついているはずの私は、勤め先の病院下痢嘔吐患者さんを診察していた。当直の医師が重篤な患者さんに付き添い大きな病院移送しなければならなくなり、代わりに呼び出されたのだ。

 何時ごろから具合が悪くなりましたか? 今日の夕食は食べられました? お昼ご飯は何を? ご家族職場に同じ症状の方はいませんか? 

 ……急性胃腸炎のようですね、今は下痢吐き気は止めないで、悪いものは出してしま治療が主流です。その代わり体から出ていく水分やミネラルを補う点滴をしますよ。お時間かかります大丈夫ですか? 

 医者という仕事はいつもこうやって人生の大切なものに食い込んでくる。娘が骨折した時も手術室からすぐには出られなかったし、小学校卒業式最中にも勤め先で医療事故があり緊急で呼び出された。あげく「本を書きたい」と願えば、オンライン講座の時間に呼び出しである

 医者になりたくてなった人は、こんなことを切なく思わないんだろうか? 思いは空を漂うばかりだ。

 40年ほど前、当時住んでいた家の側の高台に、国立医大が建った。母は小学生の私に、坂の上を指さし「あそこに行ってね」と言った。その瞬間、私に他の進路の選択肢は一切なくなった。

父は思慮深いやさしい人であったが、ヒステリックで我の強い母を制御できなかった。

 「このハゲ!」と叫ぶ国会議員や夫の不倫動画で指弾する女優さんを、私は直視することができない。ワイドショーでうっかり見てしまうと鳥肌が立ってしばらく戻らない。その年頃の母とそっくりだからだ。 

 長い長い坂道を6年間私は歩いて通った。そこを歩いて通ったのは私ぐらいだと後で知った。

 大学に行かせてくれるのは良いのだが年頃になっても身体に合った下着を買ってくれないのはとても困った。体形のまるで違う母のおさがりはぶかぶかだったし痴漢にも遭った。高校アルバイト禁止で、大学生になって初のお給料を握りしめてワコールショップに駆け込んだ時の感激は忘れない。

 准看護師の母は女医がとりわけ嫌いだった。「子持ちの、時間で帰っちゃう女医なんか、誰も相手にもしない。指示を出しても看護婦が誰も聞こえない振りしてたらさぁ、しまいには保育所のお迎え時間迫ってきて泣き出しちゃって」と言っていた。なぜ娘をその女医にしようと思ったのだろう。せめて専門は内科勤務の長い母と一番縁遠そうな麻酔科にした。

 それでも孫可愛さで、女医になった娘の子育てには協力してくれていた。しか年子育児で一杯いっぱい、今のように「女性活躍」のご時世ではなくて相当厳しい目に遭いながら働いている私に、「子育てしながら、料理の本を出している女医さんもいるのにぃ~、ねぇ」と言い放った。

 中卒で、自分自身は何も成し遂げていない母のその一言は、私の心に深く突き刺さり、傷は長く膿んだ。

 毒親と呼ぶ気もない、私は母と関係のない場所で、大切にしてくれる夫とその両親と、子供たちとじゅうぶんに幸せになった。もう自分にとっては終わったこなのだ。母は母で家庭に複雑な事情があって、若いころ相当苦労したことも今ならば理解できる。

 本を書こう。私は決めた。どんな本でもいい、何の本でもいい。本を書くことができたら、何かが終わる気がする。

 書いて、みよう。

地頭は良くて環境に恵まれればいろいろなことができたであろう母と、本来とことん文系だったのに医学部に進まざるを得なかった娘の、ものがたりの結末はどうなるのであろうか。

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