毒親の話を読んで似た人がいて吐き出したくなって誰にも言えないからここに書く。
父親が妹を自分の顔に似ていると赤ん坊の頃から毛嫌いした。年子の長女の私の事は猫可愛がりし私の赤ん坊の頃はほとんど父親がかまっていたと聞いた。
物心つくと母は父親に甘える私に、お父さんは嫌いと言いなさい、じゃないとあんたの事嫌いになるよと言った。私は父親より母のことが好きだったので泣いてすがった。妹は構われずいつのまにか立っていたとのちに母は言った。
私は母の言う通り、あんたなんて嫌いと言いお父さんと呼ばなくなった。
父親は妹を泣かせて遊んだ。妹はこの世の終わりのような声で泣いた。泣き叫ぶ事を妹は中学生までやめることができなかった。母はそれを疎ましがって疎まれるのが怖くて私は声をあげて泣くことはなかった。
父親が妹をいじめて母と険悪になると私に母は産むんじゃなかったと言った。そう言われるのが怖くて私が父親に抗議する立場となった。そうすると母は父親の機嫌を損ねなくてすむから。
父親が妹を意味もなく小突いたり、私だけを甘やかそうとすることを口汚く罵りながら、して欲しいことがある時は甘えてコントロールすることが私の役割だった。いくら私が、お前なんか嫌い、きちがい、と言っても父親は私にだけ甘かった。
妹の泣き叫ぶ声を私も疎ましく感じていた。母に父親とあのこさえいなければと言われ真に受けていた。ある日泣く妹を母は玄関から閉め出した。私は母を、もういいでしょ、と説得してからでないと鍵をあけることができなかった。私はくずだった。
小学低学年になり、すかしっぺをくらわすふりをするという遊びが流行った。まだ嫌いと言いつつ自分にやさしい父親に甘ったれた感情が残っていた私は嫌がらせもこめてその遊びをとった。父親はニヤニヤと、してはいけない事だ、お母さんに嫌われるよ、と言った。母に嫌われることが何より嫌だった私は、ごめんなさいもうしません内緒にしてくださいと父親に謝った。父親は内緒にして欲しがったら乳首をなめてと言って私はした。
中学年になると妹はストレスで学校で問題をおこすようになった。家のお金や私の物を盗み、怒るとお姉ちゃんがと泣き叫ぶ。住宅密集地だったため丸聞こえで近所の人に挨拶をすると無視されるようになった。
大人に指図して生きているのがわかるのか私は先生に好かれない子供だった。授業中に睨むなと叱られ母に相談すると、あんたは大人を馬鹿にしていると言われた。
父方の祖父母にも生意気で可愛くないと言われいると母から聞いた。母方の祖母もあんたがなつかないから引っ越したと言われた。妹も私も味方の大人はいなかった。
中学生になると妹は荒れ似た家庭の友達の家に入り浸るようになった。親の寝室にはアダルドビデオの山があった。私はかまってくる男子に学生が拉致されて犯されるビデオを貸した。父親も発情した男子も馬鹿にしていた。その男子に好意をよせ胸を触らせてあげる女子などがいたが私が媚びないからそんな態度だと犯かすぞと言われた。ああ男はそうできるのかと肌身に感じた。
そんな中母が入院することになった。あまり帰ってこない妹と風呂場やトイレを間違えたふりしてあけようとしたり股関を見せてくる父親と過ごすことにノイローゼになった。
私は気が狂っていたんだと思うがお風呂の湯船に浸かり麺棒を股に刺した。自分で自分を守った気がした。食欲もなく母が退院すると私が病院につれていかれ栄養失調だと怒られた。
卒業間近に父に愛人ができ、借金でも虐待でも別れなかった母は離婚を決意した。
その頃にはもう妹は我慢の限界で父親に反抗し物を壊し私や母に殴りかかるようになっていた。当然だ。母の兄が妹をなだめようと受け止めなんてできやしないのに近づき、妹が暴れると妹を罵った。母にその日の夜、あの子らはいらないだろうと児相に預けるように言われたが断ったよと伝えられた。
小学生の時の帰り道けんかをして妹を泣かせてしまった。それを見た知らないおばさんが私を嫌な子だと非難すると、お姉ちゃんをいじめるなとこんな姉妹関係なのに怒ってくれるやさしい子なのを知らないくせに助ける気なんかないくせに妹を馬鹿にした。今でもあの親戚たちが死んだら笑うくらいには憎い。
妹は社交的で可愛く人好きのする人間になった。でもいまだに心に爆弾を抱えているし、私に対して愛憎の入り交じった感情をもっているのがわかる。
私は妹が好きだ。お姉ちゃんは好きだと言ってくれる妹に罪悪感が消えることはないと思う。
おう、まぁ、なんだ。 とりあえず、ホットミルクでも飲んで寝ると良いんじゃないかな。
今日も女は毒親叩き
両親、特に父親がクズな話だなあ。 とりあえず姉妹とも生きてて良かった。 妹さんへの罪悪感は持ったままでもいいんじゃないかな。 仕方ないもの。